ゆらりふわりと、淡く白い蒸気が立ち込める。
暖色に照らされた浴室内に時折ちゃぷんと、広く反響する水の音。
浴槽一杯に波々と溜め込んだ湯の泉からは、本日厳選した入浴剤……柚子の甘酸っぱい香りが満面と漂い。足からゆっくりと全身へ浸かり、じわりと体うちに染み渡ってくる暖かさに目を細めれば、溜め込んだ一日の疲れが糸のようにほぐれていくのがわかった。
「くえ――ぽ」
天井へと消えゆく湯気を見上げながら長い息をこぼす。美しく真新しい檜で覆われた壁は、蒸気に晒されることで艶と色合いを深め、高級旅館顔負けの……とても、いち学生寮が持つ
これも数年前……学生寮のリフォームにあたって彼が大学側と相当に頑張って交渉してくれたおかげなのだろう。広さでこそ四宮家別邸には及ばないものの、今やこの場所は私にとって世界で最も落ち着ける場所の一つになっていた。
「………」
ピッピッと備付けのパネルを操作してはお湯の温度を上げていく。四季の変化が乏しいこの地でも、本格的な冬に入った今の時期となればその有り難みもひとしお。湯の温度は世間一般からすれば少々高い……先日遊びに来たベツィーからは“揚げ殺す気か”と苦情も入った、まあその程度の温度。
私にとって……早坂愛という人間にとって、入浴とは、心を癒せる唯一の場だった。
一つの間違いが有れば誰かの首が飛ぶ。共に働く同僚にさえ心を許せなかった四宮家近従の
それはただ落ち着けるから。周りに一切の気を遣う必要もないから、という単純な理由だけではない。
厚く厚く被った仮面を外し、自分をさらけ出せる場所。周りを騙し、自分の心さえも殺し理詰めで作り上げた
だから張り付いた思考も人格も、全て熱く熱く湯立たせたお風呂に身を沈めることで、まるごとリセットしてしまう。
考えすぎてしまう頭も熱で煮立たせボンヤリと。厚く貼り付いた仮面も
そうして深く沈んだ湯船から、ゆっくりと水面へと顔を出すその瞬間。滲んだ天井の明かりを眩しいと臨む感情こそ、本物の私なのだと……そんな錯覚にも似た想いを誰も居ない浴室で一人抱いていた。
重い荷を降ろし、心を曝け出した解放感は得難いもので、何の気負いもなくただ自分の心に素直で居られる時間というのが、私には心地よいもの
「………」
そう。
ピッピッと。またもパネルを弄っては更に上げていく風呂の温度。
別段、熱さに不満があるわけではない。既に温度は普段の一回り以上高く、肌が赤みを帯びるほどにまで上がりきっている。
だというのに、いつまで経っても満たされない心。確かに、かぐや様に仕えていた以前に比べれば、疲労やストレスも格段に少なくなった今の生活では、同じ
ああ、けれどコレはそんなものとは違う……。
外から伝わる熱とは裏腹に、胸のうちにはポッカリと穴の空いたような寂寥感。
その寒々しさが、あるべき何かを求めるように切なさを訴えかける。
……足りない。
こんな、ただ熱いだけでは満たされない。
そう。私が心を開けるとき。その側にはいつだって貴方の――
「……」
その横顔が浮かんだ瞬間、気がつけばザバリと浴槽を立ち上がっていた。
まとう湯煙も、名残惜しそうに波打つ湯船にも一切目をくれず、焦がれるような思いのままに浴室を後にしていく。
肌を包む冷たい外気。それでも治まることを知らない、湯上がりの熱と関係もなしに上気する頬。一足歩む度に高鳴っていく鼓動の音。
この胸を埋めてくれる唯一つのもの。
ああ。ただ一重に……愛しい
【MELTING HEART】
ぱらりと、冊子の捲れる乾いた音響く。
リビングの横長のソファに腰掛け、柔らかな背もたれに身を沈めながら、分厚い資料の束へと目を通す白銀。
年度末の学会も無事終わり、ようやく一息がつけるという頃。毎日のごとく納期や締切に追われていた当時を思えば、時間そのものがゆったりと流れているようにさえ思う。
もっとも、同じ研究室のメンバーの中には、未だ発表を控えている者もいるため、暫くは彼らのサポートが主な仕事になっていくことだろう。
今だってそう。学会のパンフレットとして
そんな昨今、気になっていることはといえば、恋人である愛の入浴時間が極端に短くなってきたことだ。
まあ短いといってもあくまで本人比。これまでが長すぎただけで、今でも約30〜40分と入浴時間としては一般的な
別段おかしな点があるわけでもなく、寧ろあの高い温度でのぼせたりはしないかと危惧していた白銀としては、ほっと胸を撫で下ろす変化だった。
が、それでも近従時代から大のお風呂好きとして、幾つもの入浴剤コレクションを部屋に常備する彼女の姿を知っている身としては、何かあったのだろうかと心配を覚えもする。
家の風呂に飽きてしまったのだろうか。確かに話に聞く四宮邸や彼女の実家のソレに比べれば遥かに劣る内装。どれほど真新しくても、三年も毎日入っていれば流石に見飽きてくる。
学会期間中ということで最近も多くのことを手助けして貰った分、ストレスを溜めさせてしまっているかもしれない。
そのお返しや、久方ぶりの故郷への帰省も兼ねて。密かに日本での温泉旅行を企画してもいるのだが、生憎とスケジュールの関係上、実現できるのはもう少し先になりそうだった。
加えて。
というよりも、コレこそが一番の問題と言えるのだが、そうして減った入浴時間が、今度は何に充てがわれるようになったかで……
思案を遮るように、さわりと。不意に自身の頬へ触れる白磁のように細く美しい指。
別段何をするでもなく、何を目的とするでもなく、時折頬を撫でたり、その感触を楽しむように唇をなぞったり。
と思ったら、突然むにっと。口元に添えられた指に頬を両側に柔らかく引っ張られた。
「……愛」
「?」
ハテナ?ときた。
同じソファの上。今は自身の膝の上に頭を乗せ、見上げるように
お風呂上がりのためにその髪は未だしっとりと水気を帯び、触れ合った肌から伝わる体温は暖かく、リラックスしているのか瞳もぼんやりと微睡みがちだ。
いつ頃からだったか。こうして入浴後には、決まってピッタリと身を寄せてくるようになった彼女。冬時期の今は特に顕著で、その後同じ布団で眠りに落ちるまでずっと一緒、という日も決して珍しい事ではなかった。
火照った体の熱を分かち合うように。白銀という名の毛布に深く身を沈める少女の髪から漂う甘いシャンプーの香り。これだけ密着しているからこそ分かる。自分だけが知っている彼女自身の匂いも。減っていく入浴時間に反してスキンシップの時間は日に日に長くなり、また早い時間から始まるために、白銀としてはそれまでに1日の仕事を終わらせておかねばと、時間調整に躍起になっていた。
何故か?
当然、こんな状況でまともに仕事に集中出来る筈などないからだ。
今も今とて、この添削作業を押し付けてきたベツィーの般若顔を思い出してはギリギリ理性を保っているところだった。
一方で、此方が本気で忙しい時や余裕が無い時には、何を伝えるでもなく甘えるのを控え、寧ろその時間が早く取れるようにと率先して作業を手伝ってくれて……その度、感謝を抱くと同時にどのようにして此方の事情を把握しているのか不思議であった。本人曰く、顔色を窺えばすぐ分かるとのことだけど
そんな思案などいざ知らず、尚も、その顔の輪郭を確かめるようにペタペタと頬や額に触れてくる少女。
まるで頭の中に浮かべた般若を追い出さんと対抗心を燃やすように。かと思えば、此方の視界を隠すように目元を手で覆って見せたりと……
なになに。何がしたいの、と。若干困惑顔を浮かべる白銀に、少女はボンヤリ目のまま囁くように甘く息を零した。
「確かめて……ました。私は御行くんの……どこを、好きになったのかなって。
あの子は
目?口元……?と。それぞれの箇所を確かめるように、順々に手で覆い隠していく。かと思えば、また頬をぷにっと押して変顔を作らせてはクスクスと笑いをこぼしたり。……揶揄われてるな、と思いつつも無邪気に戯れてくる彼女の手を振り払う気持ちにはならなかった。
そのまま十数分。少女の細くしなやかな指が鎖骨のあたりに伸びた頃になって、ようやく諦めたように息をこぼし、その手のひらで包むように少年の両頬へと触れる。
「やっぱり……選べません。どこを見ても……どこを隠してもドキドキが止まらなくて。ぜんぶ……本当に、貴方の全部が、好きになっちゃったんですから」
ああ。こんな可愛いことまで言ってくる。
うっとりと、心から幸せそうにはにかむ表情には、それだけでグラグラと理性を揺さぶられるし。加えて……もうこれで何個目になるかも分からないが、更に加えて。一番問題なのは、その格好だ。
身に纏うのは、白い薄手のカッタウェイシャツ一枚。彼女のサイズには合わない男物で、白銀自身も見覚えがある……着覚えがあるもの。
いつのことだったか、古くなってきたから捨てましょうと洗濯時に回収されたソレは、いつの間にか彼女のナイトウェアへと姿を変えていた。
当然彼女の体格に対してかなり大きめで。余った袖から微かに覗く小さな手。何よりシャツ以外は殆ど何も身に付けていないために、なんなら彼女が甘えるように身を擦り寄せてくるたび、着崩れた太ももや胸元から垣間見える桜色を帯びた肢体。直接触れ合う肌と肌同士のこれでもかというほど柔らかな感触に、理性の綱が一本、また一本と面白いくらいにブチンブチンと千切られていく。
まだ微かに濡れた髪を梳くように頭を撫でれば、気持ちよさそうに瞳を細め、すりすりと手のひらに頬を擦り寄せてくる様は、布団の上で微睡む猫のようで。
「薄着の風呂上がりが愛に風邪だな」
無論、冷静でなどいられるはずがない。既に異常をきたし、まともにすら喋れなくなった言語回路。
それでも彼女にだけはしっかり意味が伝わっているようで、しゅるりと首後ろに両腕を回しては抱きついてくる。
「じゃあ……御行くんの手でもっと温めてください」
「いやいや俺は心配なだけであああぁぁああああ」
吐息が伝わるほどに近まる顔。胸元に伝わるふにゅりと柔らかな感触に、なけなしの回路さえ焼き切れていく。
繰り為される誘惑の数々に、もはや頭の中で般若顔を浮かべていたベツィーもみるみるその表情を
――ああ、そうだ。何を迷うことがあるだろう。
添削だって8割方終わっているし、たとえ明日までに間に合わなかったとしても、あとはベツィーにこっぴどく怒られればそれで良い話なのだ。
『いや、よくねぇよ』と。気持ち悪い笑顔のままの元般若が抗議の声をあげるが、既に早坂に心を鷲掴みにされてしまった白銀の耳には終ぞ届くことはなかった。
「ん……ふふ……♡」
そんな白銀の葛藤を知ってか知らずか。トクントクンと、次第に早くなっていく愛おしい人の鼓動に、益々と胸板に頬を埋める少女。
ああ、不思議。温度だけで比べれば湯船より遥かに低い体温。なのにこの胸はこんなにも容易く、自ら望んで心を開くように熱く熱く溶けていく。
それは貴方の手が頭を撫でるたび。青年らしいゴツゴツとした指が優しく髪を梳いていくたびに、ますますと
その熱をもっと感じたい。もっと溺れていたい。
もっと……もっと……と。彼の胸の中で甘えるように身を捩らせれば、より強く抱きしめてくれる腕に恍惚の息が漏れた。何を言葉を交わすまでもなく、一番して欲しいと思ったことをしてくれる。そんな溶け合った心が一つになっていくような一体感……幸福感。
ああ。この喜びを知ってしまったら、湯船などで満足できなくなるは当然で。
貴方の温もりを思い出して、切なさを覚えてしまうのも必然で。
わずかに残った彼との隔たり。薄くまとったシャツさえもはだけて、彼へとすり寄っていく。
微かに残った
どうか
「もう…我慢できません……」
耳元で囁いた甘い吐息に、それはこっちのセリフだとばかりにソファへと押し倒される。
「そんなに誘って、どうなっても知らんぞ」
見下ろすその瞳に浮かんだ、荒々しい色。
普段なら怖いものの筈なのに、けれど今の私には、理性の仮面を
――期待、していないとでも?、と。
今まで交わしたどのキスよりも、熱い口づけを返した。
*あとがき*
『前編』、……だッ!
あとは……分かるな?