ナニモカンジナイ。何も、なにも──。
真っ暗な世界の中でぼくは今どうなっている?
ぼくの体はどうなっている? 手足の感覚を感じない。目も、耳も、温もりも、何も感じない。
いや、感覚はある。全身の感覚はある。
だがなぜだろうか。この思考をしている場所よりも上に手足同様の感覚がある。
手を伸ばしてるのではない、感覚の経路が全く違っている。
ぼくの触覚を受け取る臓腑に腕などを通さずに直接入ってきているような。
その前に、腕とはなんだ? 感覚とはなんだ?
──ぼくとはなんだ? ──
ぐるぐるとぼくは渦巻く、僕と言う形が分からない。
手と呼ばれるものはあったはずだ、足と呼ばれるものがあったはずだ。
だがその形を思い出せない。ひどく曖昧であやふやな形たちだ。
せめて目が見えればぼくの形を思い出せるのに、ぼくはなんなのだ?
(誰ぞそこおらぬのか)
呼びかけようとしてみるが、どうやって我は呼びかけておった。
体というモノが、消失し意識だけがそこにあるような。
我は誰だ。ぼくはだれだ。
我は今どこにいる? ぼくはあの方に使えていた。
──あの方?
はっきりと目覚めない意識の中、あの方を想う。
熱き、熱き方。かの灼熱の地でより熱き恋慕に焦がれるあの方の姿にぼくは哀しくなる。
ならば我がその情欲に焦がれた身を貰い受ける。いや、そんなことはぼくはしたくない。
あの姿に焦がれ、見上げるだけで、その御側に──アスタロトさま……。
あの城を見上げるしかぼくは出来なかった。
移ろい、流れ、そして戻る。ぼくたち亡者は巡礼こそ安寧をもたらしてくれる。
そう教えられ、微睡みと飢餓に苛まれながら
ぼくたちはほかの種とは違い『死なない』。永遠を渡り、肉体が滅びようとその意識は在り続ける。
死というモノがどういうモノなのか僕は分からない。肉体が滅びた亡者と対話ができるのだからぼくたちは死んでないという。
ほかの種族の人間は肉体が朽ち果て応答がなくなればそれが『死』と言うらしいが、ぼくたちにその死が当てはまらないのだから死を恐れることがなかった。
だが、苦しさだけはぼくたちの体を苛み続ける。
体をぶたれれば痛いし、食べ物を食べなければひもじくなる。水を取らなければ枯れる。
永遠を生きるにはぼくたちは孤独すぎた。どこまでも彷徨うしかこの孤独を紛らわせる方法がなかった。
お金を持たず、定住をせず、家族も体がなくなり一人になった。
彷徨う事だけが生きてゆく意味になり始めていた。
各地を歩き続け、足が潰れていても気づかないほど朦朧とした意識で過ごしていた。
「……ひもじい、ひもじい」
兎に角お腹が減っていた。苦しみだけがぼくを苛み続ける。
苦しみを紛らわせても、その苦しみは際限なく増え続けてた。
ズタズタになった足の裏に、灼熱が染みる。
熱く焼けた岩石がぼくの足を焦がし、異臭がぼくの鼻につく。
獄炎の領域『アスフェルト』にはやはり皮履きがいる。鬱陶しいくらいの匂いに、朦朧とした意識が白熱するような眩暈が襲い、視界の端がチラチラと明滅する。
すれ違う者たちは顔を顰めぼくを指さした。
どこに行ってもこの反応だけは変わらない。生きる者がいるだけまだましだった。誰にも会わないことあ苦痛だった。
衝撃とともにぼくは前のめりに倒れた。
頭から少しだけ流れ出る真っ黒なぼくたちの血が地面に滴り泡立った。
「クセんだよ。クソ亡者」
誰だか知らないがぼくの匂いが気に入らないようで、棒でぼくの頭を殴ったようだ。
その者の吐く息には火花が散っている、サラマンドラの若者たちがぼくを囲いまるで邪魔な石を砕くように力いっぱいぼくを殴りつける。
憂さ晴らしであることは明白だった。ぼくたちはこの魔界では両手に余るほどいるし、何よりひ弱だった。
魔力に優れた種族に搾取され、奴隷として生きるか、ぼくのように巡礼に廻る生き方しか魔界では許されなかった。
このままぼくはミンチにされて軒先でグチャグチャの体を蠢かせるようになるだろう。
「もう行こうぜ。こんなやつ裏に捨ててさ」
若者たちはそう言ってぼくは薄暗い建物の隙間の外れ道に投げ捨てられた。
(──地面がきれいだ)
何とか原形をとどめた体を起こし、壁にもたれ掛かり、深く息を吸った。
焼けつく空気にむせ返りそうになる。
傷口より溢れ出る血は霧状の靄と変わり傷を舐め取るように消して空へと消えてゆく。
傷は消え、形も元に戻ったが苦しさだけは消えずにぼくの体を苛み続ける。
崩れ落ちるようにぼくは座り込み、石作りの道を見た。
敷き詰められた石の道、隙間から覗くマグマの煌きがぼくの虚ろな目に輝いた。
この煌きは本当に綺麗だった。触れれば灼け、その身が溶かされるがその破滅をもたらす輝きこそ翳なる生命の尊さをより照らし出す光だった。
石の切れ目に指を走らせ、その光を指先で掬い取った。
ポッ、と灯る指に光が灯り染みるような痛みが指先に襲い掛かる。
ぼくの指が燃えている。当然だ、この土地のモノはなんだって熱い。火が灯るほど。
獄炎の領土だから当然だ。
払って消す気力もなく、だらりと下げた手に火はぼぅぼぅと昇ってくる。
目に染みる熱に目を閉じ、息すら儘ならない。
このまま燃え朽ち果ててもこの孤独は消せない。誰の目にも止まらずに孤独を深めてゆくだけだ。
「寂しい、淋しい」
ぼくはそう言うしかなかった。
炎の揺らめきに耳を貸して、かき消されていた周囲の音。炎の音の切れ間に歓声が聞こえた。
赤く染まった視界をそちらに向ければ、群がりが道を覆い隠すほどに民が集まっていた。
魔族の肉壁の先に見える煌々と輝く人々の行列。
精悍な顔つきをして眼はゆるぎない自信と威圧、そして僅かながらの殺気が混じっている。
体を堅牢に硬める鎧は、優雅でありながら攻撃的な形をとり、それを身に纏う者たちはまさに『騎士』と呼ぶに相応しい出で立ちであった。
凱旋のパレードだった。
獄炎の地『アスフェルト』は隣国の地の荒れ果ての領域『ダストレア』と慢性的な戦争状態にある。
戦争も慢性化し、形式と形だけの武勲を上げるだけの張りぼての戦争。
そんな戦争に憧れを抱き、武勲を上げ騎士階級に取り立てられることを夢見る市民は、参列する者たちを羨望の目で見て、歓声を上げていた。
今のぼくには縁遠く、限りなくその列はぼくたちを虐げる立場の者たちばかりだった。
憬れもある、夢も見たい、しかし──憧れや夢で苦しみは消えない。
孤独の冷たさに心を凍えさせしている最中に、氷結を溶かす騒めきがあった。
「アスタロト様のご帰還だ! 獄炎の皇女、煉獄の化身、我らが火に列する種の王である!」
切れ間に見えたその姿、獄炎の輝くその姿に心がそれを求めた。
輝く美しさを、煌く力を、高潔なる血の潤いを。
「火の、皇……女──」
意思とは関係なく体はひとりでに動き、その魂を求めていた。
ぽっかりと空いた心の虚を埋める事の出来る魂を。それは同一化と言ってもいい、彼女のそれをぼくは取り込みたかった。
市民を掻き分け、炎に燻り今にも朽ち果てそうな体からは黒々とした翳が溢れ出て、ぼくは黒煙を上げ燻る火種を抱えた薪のようだった。
群衆を押さえ市民をパレードに入れないようにしている兵の隙間を抜け、列の最前列に飛び出して、その魂に手を伸ばした。
「なんだあれ?」
「ゾンビか、火がくすぶってるぞ」
「あの煙はなんだ。黒煙じゃないぞ」
ぼくを目にした市民たちは口々に指をさし騒めいた。
その言葉もぼくの耳には遠く、至高の輝きを腕に抱きこの孤独から解放されたかった。
凱旋の列は足を止め、騎士たちは腰に帯びる剣の柄に手を伸ばしていた。
「そこの者、即刻我らが前から消えよ。獄炎帝の凱旋であるぞ」
他の騎士よりも赫と染まる鎧を着込んだ、前に出てその手に握る剣の切っ先をぼくに向け言う。
その騎士の言葉は警戒であったが、ぼくの耳には遠かった。
火種に燻る体は焦げ、それを修復せんと黒い翳はモクモクと立ち上った。
「……光。尊き、火よ──」
列の中央、城砦馬車より輝くその光にぼくは魅了され、光に吸い取られる羽虫のようだった。
装甲に守られ、なぜその光が見えるのかぼくにはわからなかったが、匂いに引き寄せられるようにおぼつかない足取りで進んでゆく。
ぼくに向かってくる騎士の目は鋭さを帯びて、剣が振り上げられた。
肩から斜めに刃が抜け脇腹より剣は抜けた。
「アスタロト様の御前にて、醜きものは必要ない。爛れる者よ」
冷たい感触が体を抜ける。途端、切り口に灼熱があてがわれる。
下半身の、いや、胸から下の感覚がぷっつりと途切れてぼくは焼けて石の道に顔から落ちた。熱された石がぼくの体を焼いたが、もう燃え上がっているためにどこからどこが焼け上がって、どこが焼けていないのかはわからない。
激痛が全身を駆け抜けるが、声を上げるだけの気力もなかった。
残ったのは上半身の僅かの部分と片腕、頭だけだった。それでも、それでもぼくはその光を抱きたかった。その光を抱いて──僕は安らぎを得たかった。
溢れ出る翳は切り離された体を繋ごうと、下半身へと伸びて翳同士が結合して縺れあう。
「光を……孤独を照らす、安らぎを……」
「しぶとい。亡者か」
騎士はぼくの上に立ち剣の切っ先をぼくの脳天に向けたその時だった。
「バーニクス。それはなに?」
その声も孤独だった。
同じ孤独に心を蝕まれ、退屈しているといった色を孕んだ冷たい声であった。
「は、申し訳ございません。アスタロト様の気に留めるほどのモノでは──」
「それは、なに?」
語彙を強く発した、声の主に騎士は深々と傅き首を垂れた。
「凱旋の列に迷い込んだ巡礼の亡者かと。見苦しく爛れる姿にのけようと」
城砦馬車の扉が開き、その姿が見えた。
──ああ、愛しき仔よ──
そう言葉が出そうになった。
真っ赤なドレスにその体を押さえつけ、その髪は血よりも赤く炎のように美しい色をしていた。
退屈に澱んだ目でその肉体を持て余し、如何にか生きているといった様子であり赤色とは対照的な白い肌が眩しかった。胸元にはハートの中に十字を象られた真っ黒な痣があった。
黄金に揺らめく目が騎士を見下ろし、ぼくと彼を見比べた。
「私を超えるほどの審美眼が貴方にはあったのねえ。驚きだわ」
「……申し訳ございません」
ヒールのピンがカツリ、カツリと音を立て群衆の歓声に溢れる市街によく響いた。
市民も騎士同様に膝をつき跪いているために歓声を上げるまでもなく、その敬意を全身で示していたのだ。
ぼくは見上げるしかできなかった。それが亡者の定めなのだ。
眩しく光るかのモノにぼくは静かな吐息をついた。
「……──……──」
もう声も出ないほど疲れ切っていた。
視界もぼやけているにも拘らず、その人だけは鮮明に輝く。
ずるずると這いずるぼくの半身が翳となってまた、形を成す。
せめて、せめて足元で照らされることを──。
「あなたは、そうやって這いずっているのが好きなのかしら」
嘲笑の混じった声でその人は声を掛けてきた。仰向けになる体力もなく、マグマに焼かれ黒々と煤け燻る体でぼくは掠れた声を漏らした。
「綺麗な光、炎みたいだ……」
「ええ、私は獄炎。焔なる者よ」
「ずっと……輝いて……ぼくを──照らして」
願いだった。ぼくの願いだった。
孤独でもよかった。痛くてもよかった。でも──この光だけは奪われたくなかった。
この光に包まれ続けたい、この光の側にぼくはいたかった。
ぼくの伸ばした手の甲を踏みつけ、その人はいった。
「私に指づできる立場に、貴方がいるとでも?」
「美しき……使徒。天使さま──」
その言葉に僅かな間をおいて高笑いを上げた。
「私が使徒? アリアドネの使徒だとでもいうの貴方は?」
「……──使徒さま」
ぼくの体が正しい形に戻る頃、ぼくは意識を飛ばしていた。
見下ろすかの方は、返答のないぼくに笑いかけた。
「面白いわ、私の質問の最中に意識を飛ばすなんて。肝が据わってるのね」
「アスタロト様。列を止めては市の売場に差し障ります」
「わかっているわ。バーニクス、これを城に連れて行くわ」
「城に……ですか」
「ええ、愛妾に飽きが出てたのよ。衣服を用意なさい、このままでは本当に見苦しいわ」
「は、承知致しました」
翳は消え、巡礼服も焼け落ちたぼくの体を騎士はそのマントで隠し、一台の馬車に乗せた。
温かく包まれたその中で、ぼくは初めて夢を見たかもしれない。
揺り籠の中でぼくが生まれたその時を──産声を上げるその瞬間を。
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