目を覚ましたぼくが最初に目にしたのは天井だった。
巡礼を続け、空を隠されることが長年なかったぼくにはあまりにも新鮮でそして不可思議だった。
意識の曇りが晴れ、しっかりと周囲を認識できた。
「ここ、は……?」
体を起こし、周りを見渡した。
広いとは言えないが、決して狭くもない部屋、幾つもベットが並びぼくが今いる場所以外は生活感のあるベットが並んでいた。
一体何十年ぶりに寝具を見ただろう、何か月も寝ない事がまず当たり前だったし巡礼の足止めを食らいって寝たとしても道の端で巡礼服にくるまっての野宿だ。
「どこだ……ここ……」
襤褸の巡礼服がなくなっている。
代わりにぼくの体を包む服は通気性のいい布を使った簡素な服だった。
簡素ではあったが作りは凄くいい、生地もかなり良いものを使っている。
少しだけ息苦しさを感じ、首筋に手を伸ばすと。
「チョーカー?」
よく見えないが小さな飾りが顎下あたりに着いたチョーカーが首に巻かれている。飾りの形を手の感触で調べれば刺々しいハートに十字が重なった形を象っていた。
状況が理解できなかった。
ここはどこだ? 。
ベットから降りて、素足で部屋を出た。
荘厳なる景観を誇る中庭が部屋を出た瞬間に眼に入った。
ぼくは獄炎の地であるアスフェルトに来たはずなのだが、その中庭には木々が生え、小さな川からは湯気が立ち上っていた。
人の気配はあるがここはとにかく静かで、気持ちを落ち着かせてくれた。
ヒタヒタとぼくの歩く足の音が建物の中を反響し、どこか伽藍洞な雰囲気を感じさせた。
建物の柱や床、彫刻に至るまで作りが美しく、材質は特殊鋼物『マグナイト』が使用されているようで周囲の熱を吸い取っているようだった。
これだけの建物、一体ぼくはこんな所に迷い込んだのか。
手近にあった部屋の扉を開けると、そこも先ほどぼくがいたような部屋があり、先客が一人だけいた。
「サボりか?」
その青年はぼくにそう聞いてくる。
獣人種の青年で、額に小さな角があり目はサラマンドラ特有の黄色く瞳孔が縦に割れた目をしており、混血であることが理解できた。
ぼくはその意味を理解できず、聞き返した。
「サボり……って、なにから?」
「ウェスタ卿の授業だよ。歴史がどうとか、地域がどうとか、回りくどい説明ばっかり。嫌になる」
「ここは、学校なにかなのかい?」
青年はぽかんとした顔でぼくを見て、顔をまじまじと見てくる。
目を細めて、ぼくの頸筋の匂いを嗅いだ。
「ああ、三か月に担ぎ込まれたあのカッサカサ枯れ亡者か。潤いが戻ってて気が付かなかった」
「担ぎ込まれた?」
「覚えていないのか?」
ぼくは頷いた。
その反応に青年はなるほどなと顔を綻ばせ、肩に手を回した。
「なら新人だ。ぶっ倒れた先がよかったな。アスタロト様の凱旋列の最前に躍り出たんだ」
「どういうこと?」
「そこも覚えていないのか? 仕方ないな……。お前、体中に火が付いた状態で遠征から帰ってきた騎士団の前に出てったんだ。バーニクス卿にぶった切られたけどお前が亡者だから死ななかったんだ。そんで何かしらの興味を持たれたのかアスタロト様がお前を拾って下さったんだ」
「拾……われた?」
ぼくは少々混乱した。
アスフェルトの騎士団の前にぼくはまろび出たのか。なんと無謀な事をしたのだろう。
この体を灰燼にされても文句は言えない話だ。遠征で帰ってきた騎士団は相当殺気だっていただろう、それをこうして体を持ち続けていることは幸運と言えた。
「じゃあ、ここはどこなんだい?」
「アスタロト様に拾われたんだ。カブラルカ城に決まってんだろ」
驚愕で口が開いてしまう。
獄炎の地の主、アスタロトが住まう城に今ぼくがいる。
「で、でもどうして。ぼくは巡礼のみだ、拾われたとしてもすぐに出ないと」
「何言ってんだ? お前、俺と同じ寵童になったんだろう?」
青年は首のチョーカーを見せるように指で転がし飾りを見せてきた。
ぼくと同じ、トゲトゲとしたハートのエンブレムの金細工がそこにあった。
「赤紐の俺たちは寵童だ。よかったな、黒紐の労働奴隷にされなくて」
「寵童もどのみち奴隷と変わらないじゃないか」
「まさか。俺たちはこのチョーカーでアスタロト様の所有物なんだから誰も手荒に扱わない。カースルー卿だけは別だけどな」
青年はベットに座り、隣を叩きぼくに座るように促した。
ぼくなんかが隣に座っていいものか。身分で言うのならぼくは最低の忌民、巡礼の亡者だ。
しかし青年がぼくの手を取り座らせた。驚いて目を白黒させているぼくをよそ目に青年は聞いてくる。
「お前名前は? おれ、カウロスていうんだ。種族は獣人」
「ぼ、ぼくは、亡者。名前は忘れた」
「忘れた? 自分の名前を?」
「ずっと飲まず食わずで意識が殆どなかったから」
「どれだけ食べてなかったんだよ」
ぼくは熟考した、最後にぼくが口に食べ物を入れたのはまだ両親が体を持っていたころだから──。
「五十年前くらい」
「俺よりも年上かよ! カー、まあいいや。俺の方が先輩だし」
表情豊かな青年だった。身振り手振りも大きく見てて飽きない。
少し考えたようにぼくの顔を見ながら唸る。
「名前が無いんじゃ面倒くさいな。そうだな……じゃあ……」
青年は目を瞑って考えた。本当に感情豊かだ。
ぼくには無い特徴の一つだった。長年ひとりで巡礼を続けていたために巡礼者にはよくあることだ。
名前も感情も忘れて、己を忘我の果てに追いやってただ歩き廻るだけの存在。
ぼくの名前は、なんだったか……。
「よし、決めたぞ。お前は今から──」
カウロスは満面の笑顔でいう。
「チェーザレだ」
忘却に葬り去ったぼくの名前に再び色が灯った。
昔の名前はもう思い出すこともできずに、その取り繕った名前をぼくは受け入れた。
「チェーザレか、……うん、わかったよ」
「新人なら右も左もわからないだろうな。付いて来い、いろいろ案内してやるよ」
カウロスはぼくの手を引いて城内を隠れながら案内してくれた。
ぼくたち寵童のよく使う場所である、寝室、大食堂、与知室、そして訓練場。
なんでもぼくたちは只の寵童ではなくそれ相応の能力を持つことを要う給されているようだった。
与知室は公帝の所有物であるためそれに見合うような教養を教え込まれ、礼儀作法、食事作法、歴史、縫物から詩に楽器の演奏など幅広く教え込まれるとカウロスはいう。
「先生を担当するのはタイミングによるけど大体がウェスタ卿かカースルー卿の側近だ」
「外戚爵位を持つ人が何人もいるんだね」
「そんなに気にしなくていいぜ、この城の地位はアストロト様が一点トップだし、実力さえあればそれ相応に取り立てくれる」
「そうなの?」
「ああ、ウェスタ卿は元々忌族の出身だ。バーニクス卿は没落貴族だけど武芸大会で実力を示して今の地位だ。カースルー卿なんて傭兵を雇い捲って不宝帝の土地を奪ってその資産で今の地位を買い取ったんだ。外戚はみんなしっかりとした経歴の奴はいないよ」
せわしなく厨房で働く奴隷たちの目を盗み、倉庫からこっそりチーズやワインを盗むカウロスの手際は費用によかった。
訊けばカウロスは元盗賊でこの城に盗みに入ったところ捕まり、顔と体格がよかったために赤紐の奴隷にされたそうだ。
「訓練場は戦いの訓練をするんだ。一応、俺たちはアスタロト様と閨を共にすることがある。その時に不届き者が入ってきてもアスタロト様の手を煩わせない為の訓練だ」
「煩わせない?」
カウロスは建物の陰に隠れ、人目を縫いぼくが人の目に触れないように手招きする。
「強すぎるんだよ、アスタロト様は。まあ、公帝の公位を賜ってる時点で相応の魔力を持ってるわけだけど、公帝様方なかでより分け強いわけ。公位や爵位は強さの指標じゃないけど、あの方は群を抜いてるよ」
巡礼の虚ろな記憶の中でも獄炎帝の噂はよく覚えている。
炎の化身、灼熱が形を持った者、煉獄の意思。──焦がれる孤帝。
己に見合う強き男を探し、遂に見つからず焦がれ続けているというのだ。
どういうことなのかよくわからなかった。強さとは無縁の生き方をしていたために、そんな方の下に拾われたとは僕としても驚きだ。
「教官はバーニクス卿だ。一番面白い習い事だぜ」
「戦う練習がかい?」
「体を思いっきり動かす機会はないんだぜ? 唯一の自由時間だよ」
「奴隷に自由時間なんてあるのかい?」
「バーニクス卿は緩いから」
城の隙間という隙間を縫いながら上へ上へと登ってゆく。
まるで登山のうように激しい動きを必要とされる運動だった。
カウロスは軽やかに動きすいすいと登ってゆき、手間取るぼくを手助けしてくれた。
「この城の事、よく知ってるんだね」
「他の心に入り込むことと、地形を知ることは盗賊の十八番だぜ」
屋根を伝い、柱を登り、より高みへと登ってゆく。まるで今のぼくのようだった。
何かに縋るわけでもなく、浮き草のように漂う巡礼するぼくは何者でもなくそこにあるだけの存在であった。
だが、今ぼくには身分というモノが与えられ存在を証明された一つの個人として存在している。
誰ともかかわらず、神という不確かな存在を信じる訳もなく祈り続けた。誰も見向きもしなかった幽霊のようなぼくにカウロスが、アスタロトさまは掬い取ってくれた。
生きるという意味が亡者には軽薄な言葉でしかないのに、カブラルカ城を登るぼくは初めて実感した。
何かに懸命になれることが、何かに必死になれることがここまで大変で、疲れて、そして楽しい事だったなんて。
息を切らせ、汗を流し、体中が疲れで重くなり始めた。
それでもカウロスの豊かな感情に引かれてやまなかった。
「到着だ。チェーザレ」
塔の壁に手をかけ必死で登るぼくに手を伸ばして引き上げてくれるカウロス。
その手を取って、塔の頂きを望んだ時、ぼくは初めて世界が美しいことを知った。
威厳漂うカブラルカ城内が一望でき、その先に広がる城下の街並みから家庭が動く証である暖炉からの煙が煙突から立ち上っていた。
ぼんやりと薄く張る煙突の煙に獄炎の地に流れるマグマの光が屈折し、得も言われぬ輝きが現れていた。
「綺麗だ。こんなに世界は綺麗だったんだ」
「だろ? 俺のお気に入りの場所なんだ。お前だから教えたんだ、言いふらすなよ」
腰を下ろしたカウロスはワインの瓶を開けて、乾いたのどを潤した。
何時までもこの景観を望み呆けるぼくの姿に満足した様子で、ぼくを見ていた。
「亡者には刺激が強かったか?」
「ああ、とても刺激的だ」
「なら、ここの生活は暇しないな。刺激が強すぎるくらいか」
ワインを渡され、ぼくは恐る恐る口を付けた。
カッ、と喉をなでる苦みと果実の渋みほんのり香る甘みがまた新しい感覚をぼくに芽生えさせた。
「すごいな。これ……ケッホっ!」
「お前に教えるのホントに暇しないよ。チェーザレ」
ぼくとカウロスは共に塔の頂きで酒を楽しむぼくはこの感覚に酔いしれた。
楽しいとは、本当にいい事だ。まさしく──良い事だ。
不意にぼくたちのいる塔と対となる塔の天辺にあるお方の姿が見えた。
熱い風に赤い髪が靡き、猛烈な炎のうねりが聞こえてきそうだった。黄昏に暮れるその表情はこの景色をさらに美しく、そして景観を色褪せさせるほど綺麗だった。
赤いドレスの方、ぼくを救って下さったアスタロトさまだった。
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