「ん……」
蒸し熱くて寝苦しい夜。ふと眠りから目覚めて体を起こすと、枕元のバッグからペットボトルを取り出して中に入っている水で喉を潤した。こうも蒸し暑いと快眠できない。寝汗のせいで浴衣が肌に張り付き不快な気分になる。
(タオルは……いいえ、これだけ濡れているなら入浴で汗を流したほうが……)
立ち上がって、はだけている浴衣を整えてから一人部屋を出る。床を踏むたびにギシギシと軋む音が出る。
地方の自然豊かな村に営業で訪れていた私は、さらに山奥にある老舗の旅館に宿泊していた。雑誌などのメディアにはほとんど取り上げられていない秘湯があり、地元の方々にとても愛されている場所らしい。昨日の夕方に一度入らせていただいたけれど、景色が美しくて非常に趣のある温泉だった。秘湯と呼ばれているのにも納得いくほど身も心も癒された。
「フフ……♪」
心を躍らせて足を運ぶ。時間が違うと当然、感じ方も変わる。こんな深夜に入る温泉は私の感性にどう響くのかしら。調査しないと。
◇
迂闊だった。
(そういえば、女将さんが話していたわね)
女湯の前に『入浴禁止』の張り紙がしてある。男湯も女湯も今の時間は入れない決まりになっていることを忘れていた。
(寝ぼけた頭で行動した結果ね)
文字通り、無駄足を踏んでしまった。紛れもない自業自得。ひとつため息をついた私は部屋に戻ることにした。
(……?)
ふと足が止まる。男湯と女湯の入口の向かい側に『混浴』と描かれた暖簾があって、ここには何の張り紙もないことに気がつく。私は頭の中で女将さんの言葉を思い返していた。
確か混浴は男湯女湯が開いている時間から少しズレて、深夜から明朝まで開放されていると説明された。村の方々が交流、憩いの場として使用するからだと。もちろん私のようなお客も好きに入っていいと、そう仰っていた。
(さすがにそれは……)
女として抵抗がある。けれど合理性を考えたら汗を流すべき。たとえ中に男性がいようと、私は私自身の
気持ちを固めると、暖簾をくぐって奥へと進んだ。
◇
男性が
「ん?」
お風呂用のメガネをつけて、タオルを体に巻いて露天風呂に出た私を、温泉に浸かっている三人の男性が見つめている。挨拶代わりに会釈すると柔らかい笑顔で会釈を返していただけて、その後何事もなかったかのように楽しげな会話に戻った。
温泉に入る前に軽く体を洗うことにする。タオルを巻いたまま湯を被ると肌に張り付いてラインが浮き出てしまう。その姿を見られるのは避けたいから、少しの間だけタオルを外して、蛇口から出る湯を桶に溜めては体にかけていく。
今の私は何も身につけていない裸姿。男性たちはこちらに注目しているのだろうか。裸である私の後ろ姿を見ているだろうか。不安と恥じらいの感情が心に芽生える。
「それでよ、アイツまたやらかしやがって」
「ははは! 堪らねえな!」
洗い終えてタオルを巻くと、いよいよ温泉のほうへ向かう。男性たちは相変わらず楽しそうに談笑している。細かな年齢は分からないけれど、見た目から分析するに40歳から50歳くらいのおじ様だった。近づいてくる私を気にも留めていない。
よく見ると温泉の湯に徳利とお猪口が入った桶が浮かんでいる。お酒を飲みながら入浴しているみたい。
「うおっ、べっぴんさんだな」
目の前まで来てやっと気がついたようで、おじ様のうち一人が私を見て一言。会話をせず過ごすつもりだったけれど、こうなれば無視はできない。
「ありがとうございます」
「セクハラだぞお前」
「おっと……悪いねお嬢ちゃん、つい言っちまった。あんまり美人だからよ」
おじ様たちは陽気に笑っている。私の体ではなく目を見て話をしている。てっきり下心のある接し方をされると考えていた私の予想は良い意味で裏切られて、少し警戒が解ける。
「気にしないでください。褒めていただけて嬉しいです」
「そう? じゃあもっと褒めようかな」
「調子乗んな! ごめんね。俺たちに付き合わなくていいから、温泉楽しんでよ」
「はい」
とても気さくな方たちだと分かって安心した。温泉に足をつけると、ゆっくりと体を湯に沈めていく。日頃の疲れが溶けて消えていくような心地よさを感じる。心身共に安らぐ時間。
何気なく景色を見渡すと、真っ暗な空間にぽつぽつと村の灯りが
(綺麗)
昨日見た時にはどこまでも広がる大自然と、遠くの山々に重なり落ちていく夕日がとても美しくて胸が打たれたけれど、この時間帯に観賞する夜景も負けず劣らず素敵で心を奪われる。
「すげえだろ」
「!」
見蕩れていると、後ろからおじ様の声。
「ここの景色はいつ見ても飽きねえ。ストレスがどっか飛んでいっちまう」
「……はい」
私は地元の住民でもないし、旅館に毎日通っているわけでもない。同調するには
「お前ストレスなんか感じねえだろうが」
「バカだからな」
「うるせえ! バカにバカって言われたくねえ!」
「ぷっ……フフ」
旧知の仲という言葉が思い浮かぶような、子供っぽい無邪気で可愛らしいやり取りを耳にして、思わず笑ってしまった。
◇
その後、私は自然とおじ様たちの輪に溶け込んでいった。おじ様たちは思う以上に心優しくて笑顔を絶やさず、気がつけば腰にタオルを巻いていたりと、女である私に配慮しながら様々なお話を聞かせてくださった。
自分たちは週に三回、こっそり旅館に集まっているという話。ここにはたまに野生動物が来るという話。今は夏だけど、秋になれば紅葉温泉、冬は雪見温泉を楽しめるという話。
そして、これが一番興味深かった。この村は皆仲が良く、男女の隔たりがほとんどないという話。夫婦や恋人でも何でもない男女が、普通に混浴に入って何気ない会話をしているらしい。だから私のような若い女が来ても何てことなく接するのだという。
「なあお嬢ちゃん、もしよければお酌してくんねえかな」
「お酌ですか」
話に花を咲かせていると、徳利を持ったおじ様にそうお願いされた。
「お嬢ちゃんみたいな美人に注がれた酒、飲んでみてえんだ」
「私でよければ」
返事をしてから徳利を受け取って、おじ様のお猪口にゆっくりとお酒を注いでいく。
「言ってみるもんだなぁ、ありがとう」
「お嬢ちゃん、俺もいいかい?」
「俺も頼むよ」
「ええ。でも皆さん、ほどほどにしてくださいね。入浴中の飲酒は危険ですから」
「はははっ、母ちゃんにも同じこと言われたよ。大丈夫、倒れたりしねえから」
湯に零さないように気をつけてお猪口にお酒を注ぐ。注がれたお酒を、おじ様たちは嬉しそうに口へ運んで一飲みする。
「かーッ! 最高だなぁ!」
「お嬢ちゃん、もう一杯!」
「いいんですか? すでに何杯か飲まれた後では」
「平気平気!」
催促されたので、またお酒を注ぐ。おじ様たちはとても美味しそうに味わっている。私は未成年だから飲めないし飲もうとも思わないけれど、そんなに良いものなのかしら。
徳利が軽くなると共に話も進む。先ほど聞いたことの他にも、村の良いところや特産品など様々な情報を教えていただいた。どれも貴重で面白い話ばかり。つい夢中になってしまって、お酒を飲んでいないのに体が火照っていくのを感じる。
「飲んでみるか」
「……え?」
ある時、何か言われたけれど、呆然としていて話を聞いていなかった。はっとして視線を岩場からおじ様へ向ける。
「すみません、ぼーっとしていて」
のぼせてしまったのか頭が上手く働かない。もうそろそろ上がったほうがいいかもしれない。
「酒だよ、酒」
「お酒……?」
「気になるだろ。飲んでみねえか」
私が、お酒を? 成人していないのに飲めるわけがない。
「未成年ですから」
「細けえこと言うなって。少しくらい悪さしたって罰は当たらねえよ」
お酒が入ったお猪口を目の前に差し出される。本来の私ならばはっきり断っていたと思う。でも、場の流れとでも言うのかもしれない。温泉でのぼせ気味だったことと、徳利やお猪口から漂うアルコールの匂いで多少ながら判断能力が低下していたことも後押しした。
気のいいおじ様たちに誘われて、私は飲酒してしまった。せっかく勧めてくださっているのだから断るのは悪い気がすると、お猪口を受け取って口につけた。そして一息に喉の奥へ。
「んっ……!? けほっ、けほっ」
「お、おい! 全部飲んじゃダメだって!」
「どんだけ注いだんだお前!」
おじ様たちが心配してくださっている中、なんとか咳を落ち着ける。すんなり喉を通っていったお酒は予想よりも飲みやすくて、ピリっとした辛味を残していった。
「お嬢ちゃん、大丈夫か」
「はい、器官に入りそうになって……もう何ともないです」
心配ないという意思を伝えて、空になったお猪口に目を落とす。美味しいかもしれないと、そう思った。頭に浮かべていた味よりも甘くてフルーティで、後味もすっきりしている。まさかこんな感想を抱くなんて意外だった。
「あの」
たった一杯が私の中の欲をくすぐってしまった。もう少しだけ飲んでみたい。美味しいと判断した自分の味覚が間違っていないかどうか知りたい。いけないことだと分かってはいるのに手を伸ばしてしまう。
「よければ、あとちょっとだけ……」
ただでさえ火照っている体が芯から熱くなっていくのを感じながら、私は次のお酒を求めた。
そこから、私とおじ様たちとの酌み交わしが始まった。こちらが注いだお酒をおじ様たちはあっという間に消してしまう。対して私は、注がれたお酒をちびちび少しずつ口に含んでいく。『あとちょっと』なんて言ったのに結局追加でもう一杯いただいてしまった。
今度はじっくり舌で転がして味わう。聞けばかなり値の張る地酒らしい。だからなのか、美味しいとはっきり言える。やはり味覚は正しかった。
「……ごちそう、様でした……ありがとうございます……」
「お、おう」
計三杯、全て飲み終えた。桶の中にお猪口を置いてお礼を言う。おじ様たちはふらつく私を見て不安そうな表情をしている。
「飲ませすぎたな」
「だな……ったく、大人が何してんだって話だ」
「すまん、お嬢ちゃん。もっと早く止めるべきだった」
皆さん、ばつが悪そうに頭を下げている。謝る必要なんてどこにもない。お酒を求めたのは私なんだから。
「私は、大丈夫ですから……」
「んな顔して大丈夫なわけあるかい。もう温泉から出な」
「そ、そうします」
お酒は美味しかったけれど、一時の感情に流されて身を滅ぼしてしまった。これ以上湯に浸かっていたら病院に搬送されてしまう事態になる。私はもう一度「ありがとうございます」とお礼を言ってから、脚に力を入れて立ち上がった。
(……ん……?)
そのまま歩き出そうとしたら、おじ様たちが目を丸くして私を見上げていることに気づいた。何に驚いているのだろうと不思議に思っていると、三つの視線は私の顔ではなく、体に向けられているんだと分かった。
気になったので私も自分の体を見た。巻いていたバスタオルが水分を吸収してぴったりと体に張り付いていた。体のラインがくっきりと浮き出て、ところどころ肌が透けているのが確認できる。
「きゃっ……!?」
アルコールのせいで思考が遅れてしまった。ほんの一瞬固まった後、小さな悲鳴をあげて体を隠そうとした。でも思うようにいかずバランスが崩れて前のめりになり、立て直すことができずに倒れ込んでしまう。湯面にぶつかる音と共に水しぶきが周囲に飛び散る。
「うぅ……」
膝を湯の中にある石畳に軽く打ちつけてしまった。それに顔や体も、石畳ではなく……
「……!」
目を開けて、今の状況を理解する。どうやら私は一人のおじ様に覆い被さっているようだった。体が密着していて、顔がすぐ目の前にある。
「す……すみません……!」
パニックに陥る。慌てて起き上がろうとしたら、足が滑ってまたおじ様に抱きついてしまう。アルコールが回り、尚且つのぼせている状態では仕方のないことだった。
「い、今すぐ離れるので……」
ズレてしまったメガネを定位置に戻すと、また起き上がる。けれど今度もまた失敗に終わる。