遺言書。
自らが死亡した場合、その資産を誰に相続させるか、もしくは遺贈を行う旨等、細かく指定できる。
婚約者がいるわけでもなし、両親より先に自分が死ねば、遺言になにか条件をつけない限りは両親に相続の権利が発生する。
なのでぶっちゃけ、まだ書かなくても問題はないのだけれど。
なぜこんな大事になるのかといえば、遺産となる財産よりも「どう死んだか」を家族に明かせない事態が発生する可能性があるから。
たとえば、息子は吸血鬼によって殺されました、なんてことを明かせるわけもなく。死体を返却できる状態かも謎なわけで。
遺言によって、死因を詮索しない場合に相続を認める、という風に、法的根拠をもって牽制をかける。
誰かに条件を強制して書かされる、明らかにダメな遺言の使い方なんだけどな。
こちらはろくな資産も変な人間関係もないので、さっくりと司法書士に口頭で伝えて書いてもらい終了。費用会社持ち。証人になるためだけに呼ばれた弁護士のお二人お疲れ様です。
「あのクソ親にはビタ一文も相続させてたまるか!」
人の遺言内容に興味はあっても触れるのはさすがにないわなーと思っていたのに、
「どうしてそうなった、って聞けばいいんだな?」
「察してくれてありがとう。いやな、両親が酷くて酷くて。父親は酒クズの競馬狂いで、負けるとこっちに当たり散らす。母親は妹だけ連れて実家逃げるし。生贄だわこっちは」
「離婚しろや……」
「離婚したら子供が困るって謎理論で父方母方両方の実家から離婚は止められてたからな。家帰るの憂鬱だったよ。だから高校から家出た」
「でも大学まで行ったんだろ? 金出してくれてたんじゃねえの?」
「両親スルーして両方の爺ちゃん婆ちゃんに無心した。あと奨学金とバイト」
「あれま……」
加虐性癖が発露してたのは血筋じゃねえの?
DV気質って親から子へ伝染するぞ?
まあ言わないけどさ。
「兵庫支部になんで配属されたんだろって思ったけど、これで遠慮なく親と縁切れそうで清々する。弁護士さんにも、法的拘束力はないけど絶縁するなら相談に乗るよって。ある程度軌道に乗れたら絶縁状送りつけてやろうかな。奨学金返すのも苦労しなさそうだし」
「絶縁て。まあ理由はどうあれ、やる気が出たようでなによりだけど」
天涯孤独になりそうだからって理由でここに配属になったのか?
職の性質上、外への繋がりは無い方が良いし。
「それ、家飛び出すほど両親と不仲な件、就活とか配属面談とかで話したことあるのか?」
「言った言った。実家から遠いところに配属されたらより良いですって言ったぐらい」
「見事に陸の孤島勤務になったな」
いや、そんな理由で配属先が決まったなんてこと、あるのか?
まさかな?
++++
昼飯を終えて、目安の昼休憩が終わる13時ジャスト。
この職場、始業時間も終業時間も個人単位のフレキシブルだからどうしても目安。
行先は地下1階、薬剤科兼麻酔科。研修挨拶回り1件目。
「すいません、研修で回ってきました、十字と榊場です」
「聞いとるよー。入ってそこら辺の椅子出して適当に座っといてー。ちょっと時間かかるー」
女性の声だけ部屋の奥から返ってきたので、お言葉に甘えてキャスター椅子を拝借して待機。
そこら中にファイルの山、薬品臭なのか独特の匂い、奥に膨大な薬品棚、なにかのモニターに心電図がずらずらと並んでいる。この近くにあるものの心電図ではなさそうだが。
「ごめんなー、研修来るって予告してもこいつしか来んかったわ。ウチは薬剤科室長、
「麻酔科室長で麻酔科医、
「薬剤科職員はあと7人。仕入れ同行1、仕事or研究中4、サボり2や。返事なくても24時間誰かしら常勤いるから、用事があったら勝手に奥まで入って声かけてな。これ在籍一覧」
六花室長が差し出したのは、顔写真付きの名簿。これで覚えてくれということか。
立花薬剤科室長はふくよかな女性で、紫野麻酔科室長はそばかすの多い顔した細身の男性。
「変わり者の巣窟、兵庫支部へようこそ、って今更かな?」
「特能科もう行った? 奇人の巣」
「名前は研修予定表にありましたから知ってますけど、まだ行ってないです」
「目ん玉ひっくり返るであそこ」
特殊級能力研究運用保護生活科。略して特能科。
期待半分不安半分で、常識がまた壊れそうだと予感している。
薬剤科兼麻酔科は読んで字の如く。
薬剤管理所と薬品研究室が併設されており、麻酔科医の詰め所がお隣。
「なんで『兼』なんですか?」
「医療用麻薬の管理の問題やね。あと麻酔科医の質」
「すいません、わからないです」
「紫野クン、説明したり。そっちの領分やから」
「こっちに振りますか」
「当たり前やろー」
医療用麻薬フェンタニル、合成ヘロインとも呼ばれる物質がある。
アメリカでは
その効力はモルヒネやヘロインの50倍とも言われ、コカインやモルヒネとブレンドしたものも。
麻酔科医という職業は、フェンタニルに合法的に触れることが可能な職業。
なぜなら全身麻酔に使われるのもフェンタニル。
医師も看護師も手術対象に集中している隙にちょろまかすことも、管理や監視が甘い病院なら不可能なことではない。
ちょろまかした医療用麻薬を自らに投与し、快楽を得る麻薬中毒者が出るのも、負の職業病と言えるだろう。
当たり前だが、合法の医療用麻薬もこうなると違法である。
フェンタニルもモルヒネもヘロインも、オピオイドという括りにまとめられる。
オピオイドとは、
アヘンの親戚なんだから、フェンタニルを違法な使い方をした場合の依存性は推して知るべし。
内因性のものもあり、
「紫野クン、話長いで。脱線しとるで」
「サボりばっかりでやる気ない奴だけだとは思われたくないからね」
この麻薬中毒麻酔科医に目をつけたのがこの組織。
麻薬中毒になってしまった麻酔科医をわざとかき集め、私用してもいい医療用麻薬を提供する代わりに昼夜問わず必要な時に仕事してもらうローテ式勤務体系。生活に不便はあってもコソコソ使わなくていいので好評。
仕事ができなければ麻薬の提供はされないので、各々必死に律しつつ、許された快楽に溺れている。
それは別にしても、吸血鬼がいつ蘇生するか分からず、仮死ではなく麻酔による昏睡で放置してある吸血鬼もいるので、そのモニターも兼ねての交代式24時間監視態勢。
全国的に麻酔科医は不足しているのに、兵庫支部の規模に反して麻酔科医は多く、また贅沢な使い方。
麻薬処方及び医療用麻薬の管理は薬剤科の領分。ゆえに『兼』。
過去に
「だから、麻薬が許されているのは麻酔科の人だけ。個人使用が許可されてるのは麻酔科室内だけ。布教を匂わす言動だけでも即
「彼らにとっちゃ、命の水絶たれるようなもんだからねー。裏切り者が出ないよう必死よ必死」
「脱法飴と鞭作戦ですか」
「文句言いたくて出るとこ出ても捕まるのは誰かってねー」
管理されたお目こぼしは怖いな。
隠れてじわじわ拡がるよりも完全監視下でやってもらった方がマシという判断なのだろうけど。
本人たちが満足しているならそれでいいのかな。
「失礼ですが、紫野さんも麻薬常習者なんですか?」
「元、だな。幸い治療に成功したクチだよ。常習者側の気持ちや立場からも物事を見れるから室長なのさ」
「欲求ってまだあるんでしょうか?」
「残念ながらあるよ。忘れられるもんじゃない。それでも、麻酔科医が医療用麻薬に手を出すのは日常や仕事のストレスからくるのが殆どだ。僕は現状にストレスを感じていないから、麻薬に逃避する理由もないのさ。ここだとミスが許されない手術件数や経過観察はそう多くない。吸血鬼相手ならミスしても大した問題はない。むしろミスしてもデータになるぐらい。求められるのは現状のモニターにほぼ絞られる。常時
仕事自体はそう難しくないが、人数は充足しているので個人への負荷も弱まる。
あと、麻薬使用許可はストレスの発散先の誘導にもなるのか。
依存症になるぐらいの発散先となるが、そのためには仕事にも真剣に向き合う必要がある。
蛇が自分の尻尾を飲み込もうとしているような構図に見えてきた。
「麻酔に用があればいつでも遠慮なくアポなしで呼び出してええのよ。即応できてこそ紫野クンたちの存在意義やから」
「予定入れてくれる方が人員調整や体調管理が楽なのでありがたいですが、急ぎの用事の時は、ホント遠慮なくどうぞ」
「覚えておきます」
「そいじゃ、次は薬剤科やね。話すことは正直あんまりないけど、見てもらう方が早いかな。ついて来て」
六花薬剤科室長に促されついて行ったのは薬剤研究室。
「薬剤科は試薬・既存薬を取り揃えており、薬剤管理所と薬品研究室で広い地下1階の約7割を占有する、兵庫支部最大規模の研究機関」
「フロア面積の割に職員人数少なくないですか? さっきの紙に10人もいませんよね?」
「ウチら薬剤科は管理と処方業務がメインで、研究職は個人個人で独立しとるからね。もちろん、薬に関する知識は高いし相談にも乗れるけど。本気で人足りんくなったら麻酔科から動員しとるよ」
「ワオ」
麻薬中毒の皆様が麻薬の元締めに逆らえるわけがないだろう。
手綱の握り方に容赦も無駄もないな。
「薬品研究室はちょっとした薬品工場になっとって、原料から薬効成分を抽出または合成してピンポイントに用意することができる。量は作れへんけど、採算度外視ができるのが最大の強みで、商業ベースに乗せられない薬も作れるんよ」
「あとは製薬会社のジレンマというか、拝金主義の問題というべきか、そういうのがないのがね」
「どういうことですか」
「製薬会社は慈善団体じゃない。儲けにならない薬の研究はしないものだ。症例が少ない難病なんてその最たるものだろう? 採算がとれないと判断されれば研究しないしリソースも回さない。発展途上国、それも貧しい国で流行した病気の薬だって、薬を売って稼げないなら製薬会社は撤退するか放置する。真面目にやるとすれば、自分の国に燃え移ってからさ」
治療薬を作っても使う相手が少なくて採算がとれないという話は理解できる。
認可されるまでに注ぎ込むリソースに対して見返りが限りなく薄い結果になるのは目に見えているから。
患者が多くとも、薬が買えない人達相手に商売する理由も、そりゃあない。
仮に国がケツを持ったとしても、なるべく長く美味い汁を吸う手段を考えるのが企業としては正しい判断だろうし。
「変な話やと、花粉症の症状を抑える薬はあっても、花粉症を根治させる薬が出現しない理由でもあるね。あれは伝染する病気でも直接命に関わる病気でもないからな。製薬会社としては根治させたらそれでおしまいになってしまうから、抑える薬で毎年いっぱい稼がせてもらうわけで。治すために研究する理由がないねんな」
「利権ですか」
「花粉症を治す薬があれば絶対売れるけど、症状を抑える薬を研究した方が金になるからどこも積極的にやらんだけ。病気を治すためにある医療の矛盾よね」
花粉症そのものは病原体由来のものではなくて、あくまで過剰な免疫反応によるものだから不快ではあっても危険性は薄い。
もちろんくしゃみや咳で飛沫を撒き散らすから、別の病気を伝播させるかもしれないということで症状を抑えるに越したことはない。
それ以外は概ね健康体を維持するんだから、わざとやっているんだとしたら昔の人の目の付け所は凄まじいと評価するしかない。
……無花粉スギや無花粉ヒノキの植樹が広まらないわけだな。それらが増えれば増えるほど花粉症利権にとっては邪魔なだけだし。
「面白い薬あったりするんですか?」
「面白い薬っていうか、それこそ、花粉症をキッチリ治す薬があるよ」
「あるんですか」
「研究者の中に花粉症絶対許さないマンがおってな。自分と花粉症職員を実験台に研究して完成させよった。とはいえ利権に殺されるから絶対表には出せんわなー。大捷製薬自体の経営にも大きな影響が出るやろし」
「そういう風に、特定疾患をどうしても研究したい人はそこそこいるから、網に引っかかれば勧誘するというわけ。ある程度見込みがある人に限るけど」
「極端な話な、薬の認可はされんでもええんよ。とにかくいろんな種類の薬があればええねん。いざ新種の病気が流行った時に息のかかった研究機関に総当たりさせて『急いで認可してください、これが効きます』って差し出させるために。新薬の認証は通常の手順だと開発から使用OKまで平均的な速度レベルで9年かかる。珍しい病気への薬なんてデータ集まらない金稼げない完成しても金稼げる見込みも立たないでは研究が維持できんもん。認証取りに行く熱量なんて時間も金も続くもんじゃあらへん。だから理論上動物実験上効果のある薬を作るだけ作ってレシピを貯めておく。もし使うなら自己責任」
「備えあれば憂いなしではなく、備えあれば嬉しいな、だよ」
効くかもしれないなにかを多数抱えているのであれば、嬉しいな、が適切か。備えになっていることをお祈りする感じだし。
「それはそれとしても、量産しても金にならないから一般流通はしていないけど、珍しい特定疾患に効く薬はいくつもあるもんやから。そして金さえ出せば治る可能性があるなら払う奴はいる。みんな長生きしたいんよ」
「裏口からなら治る手段があるなら諦めたくはない。偉い人ほどそういうものだよ。凡百の病院では不治の病であっても、実験台でも治る可能性があるなら縋りたくなるもんだ」
実際に裏口に縋った
生きたいよね、普通は。
++++
事務所に戻って、4人で茶菓子をつまみながら一服。
「吸血鬼にもオピオイド系麻薬が効いてくれたのは助かったよ。人間よりやや多く必要なだけだったから、そこは我々麻酔科医の領分でなんとでもなる」
「一酸化炭素吸わせたらどうなる? 二酸化炭素なら? 窒素なら? ヘリウムなら? って総当たりしていって、吸血鬼も人間と同じ酸素を使う肺呼吸生物だとわかったのは大収穫やったよね」
「え、なんでですが?」
「なんでって、閉所に追い込んでそこに火でも煙でも流し入れたら窒息で仮死に追い込んで楽に捕獲できることになるからな。再生能力のある生物相手に真正面から戦わずに済む。ここの設備やったら、部屋何ブロックかを密閉ロックして空調操作で二酸化炭素なりなんなりを吹き込めば鎮圧可能ってこと」
「あー、そういうことか」
人間は洗面器に張った水程度でも、鼻と口を水で塞いでしまえば殺せる。
一酸化炭素でも二酸化炭素でも、息ができなくなれば呆気ないほど人間は意識を喪失するし、死ぬ。
兵庫支部の設備なら、肺呼吸であることすらセーフティーネットとして使える。
仮に吸血鬼であっても、息さえ封じれば仮死には追い込める。
……だとすれば、仮に吸血鬼化して暴れても、必ずしも焼却処理する必要はないのか。
「昨日は拷問実習だったのですが、麻酔科医の方いなかったような気がしますが」
「担当
「出張ってあるんですね」
「どうしても患者をこの施設まで動かせない場合ってあるからね。もしくはここの位置を明かしたくない相手の場合も。久川先生は名前だけは元の大病院の端っこに残してるし、表の偉い先生の皮も被れるのさ」
「表の経歴でも戦えるエース格よね久川センセは。どこの馬の骨って文句つけて拒否する患者も黙るわあの学歴」
国立医大首席卒はさぞ押し出しもよかろうよ。
あの経歴でエース格ではないなら、ここのローテは厚すぎる。
「もっかのところ我々薬剤科兼麻酔科に課せられた使命は、人体に無害または低刺激で、なるべく少量で吸血鬼を確殺もしくは仮死に追い込める毒薬の研究。および、再生能力の解析からくる再生医療への転用可能性の追求。うまくすれば、IPS細胞やSTAP細胞なんて目じゃないからね」
「再生速度が尋常じゃないですからね。何億倍の速度なんだろうかと」
「骨折でも1分あれば繋がりますもん。そのせいで酷い目にも遭ってましたが」
それが秒でカウントできるほどの速度で治るのだから、完全にモノにできれば世界から怪我による長期入院は無くなるだろう。
「このあとに機材科行くんやろ? そこ見たらたぶんわかるけど、機材のリソースは余るぐらいあるねん。でも研究者側の人的リソースが絶対的に足りんねん。先鋭もいいところやから知識持ってる日本人自体がそうそうおらん。ましてやそれを引き抜けるかっていう」
「多額の借金抱えてくれたら楽だけど。借金肩代わりの代償として働いている人も結構いるし」
「国に借金するのは闇金より怖いかもしれませんが」
出歩いたら殺されるレベルのスキャンダルでもなければ引き抜きは容易ではないだろう。
借金抱えて首が回らないにしても、賃金の額を好きに決められる権利を有している側に借金するというのは怖いものがあるが。やる気があるのかは知らないが、逃げても国家権力とシステムによる追跡が可能だろうし。
情報漏洩されても困るから全力で国家権力濫用による追い込みをかけるのかな。
それとも、借金返済にマグロ漁船か蟹工船に乗るよりは、地に足つけた生活ができるだけマシなのだろうか?
オピオイドおよび医療用麻薬についてのソースもろもろ。
死亡者急増 アメリカに広がる薬物依存(NHK)
https://www.nhk.or.jp/kokusaihoudou/archive/2019/04/0426.html
死者年7万人、米国で広がる世界最悪の薬物蔓延の現場を歩いた(朝日新聞)
https://globe.asahi.com/article/12002404
知っておこう! 医療用麻薬の良いところ・悪いところ(NTT東日本)
https://www.ntt-east.co.jp/smc/caller/seminar/seminar_227.pdf
β-エンドルフィン(厚生労働省)
https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/dictionary/exercise/ys-051.html