暁の情痴のエピローグ。ぜひお楽しみください。
「……さん、お兄さーん?」
「……んぇ?」
身体が揺さぶられる感覚。いや、実際に揺さぶられているのは間違いなさそうだ。
眩しい日差しは寝起きの目にはつらい。重いまぶたをどうにかこうにかこじ開けて、身体を揺らす正体を確認する。
紺色の帽子に紺色のジャケット。帽子には金色の紋章があしらわれている。
さっきから俺を執拗に揺らしてくるのはそう、警察だったのだ……警察!?
「えっ!? いや、おうおうおう、お勤めご苦労様です! け、警察官がなんの御用で!?」
先ほどまでの眠気は驚きに吹っ飛ばされてかき消えた。飛び起きた俺に向けられていた怪訝な目が、呆れたものを見る目に変わった。
「やっと起きたよ。なんの御用ってそりゃ、神社の境内で寝てるサラリーマンがいるって近隣から通報があってね。見回りに来たんだよ」
「え、あー……あはは、そりゃそうっすよね」
よかった。何かやらかしたとかそういうわけじゃないみたいだ。いや、外のベンチに寝そべって爆睡しているというのがやらかしていないといえるかは、少し微妙なところだが。まあ、唐突なお縄とかじゃないだけ安心というもの。
チラッと腕時計を見る。短針が左斜め上を指し示していた。
十時も過ぎてりゃそりゃ明るい。太陽は既に朝の段階を終え、昼の日差しへ切り替わろうとしていた。おぼろげに記憶にある日の出からもう五、六時間経っているらしい。
「それで、君はなんでこんなとこで寝てたの?」
「あーっと……まあ、昨日仕事上がるのが遅くなっちまってですね……」
お巡りさんの問いかけに俺は答えることができない。そりゃそうだ。だって俺すら分かんないんだから。
昨日の夜、残業で終電を逃したことは覚えている。タクシー代ケチって家まで歩いて帰ろうとしたのも覚えている。そして街灯の薄暗い国道を歩いたことも覚えているし、神社を見かけたことも覚えているけれど……そこからが一向に思い出せない。眠気は冷めてもそれだけは白い靄がかかったまま、晴れてくれない。
……続きを待っていたお巡りさんが、しびれを切らしてため息をつく。
「まあ、まあいいや。一応質問しておくけど君、ホームレスとかじゃあないよね?」
「いやいや違いますよ。家もちゃんとありますし、ほら、仕事もしてるでしょ?」
「スーツにビジネスバッグ持ってればそうだよね。なら問題ないかな……」
「問題?」
言葉尻を捕らえて聞くと、お巡りさんは向こうにある社殿を見遣った。
「あそこに神社があるだろう? まあなんの変哲もない神社なんだが……寂れた神社でね。最近取り壊すことが決まったんだ。滅多に参拝客がいないとはいえ、ホームレスに住み着かれるとちょっと困るんだよね。まあ、君にちゃんと家があるなら関係ない話さ」
「……神社を……取り壊す」
「そうそう。ささ、帰った帰った! ここも来週から立ち入り禁止になるんだ」
お巡りさんは俺の背中を二度叩くと、一足先に神社の出口へと歩いていく。
「神社を……っ!?」
神社を取り壊す。
初めて訪れた神社。名前も知らないのに、なぜかそれだけは知っていた。なんで、なんでだ……?
頭を包む靄が晴れていく。その一言をきっかけとして、昨日の夜中の出来事が段々蘇ってきた。
たまたま立ち寄った神社で、ミステリアスな少女に出会ったこと。その子はとても可愛くて、この神社について教えてもらったこと。二人で愚痴を言いあい、そして──セックスしたこと。
そんな真夜中に愛し合った少女は気配すらも見当たらなかった。
「お巡りさんっ!」
「ん? なんだい?」
「このあたりに──」
──今日私たちが会ったことは秘密にしましょう。今日が終わればこのことは忘れて、誰にも話さない。いいですね?
お巡りさんに少女の行方を聞こうとして、ふととある約束が脳裏をよぎった。
「いや、なんでも……えっと……お、俺の近くに他にも誰かいませんでしたか!?」
正直、結果は分かりきっていた。日の出頃の寝ぼけた記憶の中に、少女の姿はない。それを後から来たお巡りさんが知る由もない……が。
「そこにいたのは君だけだったけど。誰かと一緒にいたのかい?」
一縷の望みはいとも容易く断たれてしまった。
「そうですか……。じゃあ、なんでもないです……」
押し黙った俺を横目に、怪訝な顔したお巡りさんは石段を下っていく。
誰もいなくなった神社に木々の揺れる音だけが響いた。
「こころ、どこいっちまったんだこころ……」
自宅のベッド。そんな約束された空間でスーツから着替えすらせずひとりごちる。
あの後神社の周りをくまなく探索した。そもそも敷地こそ広くてもベンチと本殿と木々しかないような神社。探す場所はそう多くなかった。
大した収穫もないし、疲れ切った身体にもはや歩いて帰る元気など残っていない。結局バスと電車を乗り継いで帰宅して、そのままベッドになだれ込んでしまった。
「あれは夢だったのか……? いやいや、あんな鮮明な夢、あるわけ。しかも神社が取り壊される話は本当だったし」
そんなこと俺は知らなかった。もしあれが夢ならむしろお告げに近いだろう。
徐々に西の空が赤くなっていく。脚を痛めつける筋肉痛にまとわりつくような疲労、そして襲いかかる眠気に脱力感で、腹が減りっぱなしなことも厭わず動けない。そろそろ動こうと思っても身体はいうことを聞かなかった。
というか第一、こころって何者なんだろう。午前四時なんて大人ですら出歩いてない時間に突如現れた少女。声がかかるまで気配すら感じなかったし、ずっと神社にいたのだろうか。でも、なんのため?
鞄の中を確認してみても、寝ている間にまさぐられた気配はなかった。財布やスマホも無事だった。本当にただの不良少女の暇つぶしだったりしたのだろうか?
「……寝るか」
素行や言動に不良感はなかったしますますもって意味が分からないが、なんだか考えるのも疲れてきた。本人に会えない今、なにかと考えても答えは出ないだろう。
働かない頭でもいえることは初セックスの感覚が脳裏から離れないことと、こころのことを心から愛してやまない想いだった。
その日からというもの。
俺の頭の片隅には常にあの一夜のことがあった。それは仕事中でも抜けず、家に帰ればより一層大きくなる。一人暮らしの夜。人肌に飢えた身には耐えられないほど執心していた。
おかげで仕事が手につかなくなった。ただでさえ重い一日のノルマも終わらず、考え事をしようにもポケーッとしてしまう日々。毎晩毎晩激務をこなして退社しては神社の周りをうろつきこころを探す。あの夜と同じ時間に訪れてもこころはいない。神社の周りの住宅街を探してみてもこころはいない。早朝から神社に出向いてみるも現れるのは工事関係者だけだった。
こころのことを秘密にするのはたやすかった。だけどこころのことを忘れる約束だけは、俺にはどう足掻いてもできることじゃなかった。
「あかりさんあかりさん、最近少しここちゃんの様子が変だと思いませんか?」
「
所変わってどこかの場所。いつかの時。
畳に寝っ転がって本を読む赤髪の女性──あかりにそっと声がかけられた。
津美と呼ばれた少女が隣に座る。背は高くともどこか気弱そうな少女だ。
「正直あいつもな…………」
「それは…………」
二人とも小声で話し出す。
それに熱中してしまったからだろうか。二人とも後ろから近づいてくる来訪者に気が付かなかった。
「なーにひそひそ話してるんですか? 私も混ぜてくださいよ」
「わっ!?」
「ひうっ! ……ってなんだ、ここちゃんか! やめてよね、もうっ!」
いきなり肩を叩かれて振り返ると、話題の主が立っていた。
忍び足が成功したことに得意げな顔をするこころ。それとは裏腹に、驚かされた二人は顔を示し合わせた。
投げかけられた問いにあかりが返答する。
「なにもなにも、こころの話だぞ。お前、最近やけに元気じゃないか?」
「ふえっ! ……ま、まあ、確かに最近調子いいですけど……」
「だからなんでだろうなーって話してたの」
先ほどまでのにんまり顔から一転、自分の話題とは想定外だったこころはあたふたし始める。
それを見逃すほど二人の目は鈍っていなかった。
「そ、それは……なんでもないよ! ちょっとばかりいい出会いがあっただけです」
「いい出会い? あんな寂れたとこにか?」
「怪しい……ここちゃん、なんか隠してない?」
「かっ、隠してないよ!」
各々からの追及を手を振って否定するこころ。
いい出会い。間違ってはいないが、全てを語るにはあまりにもあいまいな語句だった。
追及の構えは止まず、当然二人とも訝しんでこころに詰め寄る。
慌てていたこころだったが、こほんっ、と一つ咳払いをして冷静に語り始めた。
「そもそもですよ、
「「……まあ、そうだけど」」
突拍子もない話題に困惑する二人をよそ目に、口元でぴんと指を立てる。
「だからですね。人数は少なくたって深い信仰を貰った、それだけですよ」
言い切って微笑みを浮かべるこころだったが、聴衆に納得の顔は見えず。
不満げな顔のまま、二人は顔を見合わせた。
「なんですか二人してー!」
やまない追及の手に業を煮やした少女は叫ばずにはいられなかった。
その叫びを聞いてかいなか、別の少女もおもむろに切り出す。
「あかりさん、わたし一つ思い出したことがあるんですけど……」
「なんだ?」
「ここちゃん、昔不信心な人たちを……その、からかって遊んでた時期あったじゃないですか」
「ちょちょちょっと、昔の話は」
先ほどまでの冷静さをかなぐり捨てるようにまたまた慌てふためくこころ。しかし懸命な静止もむなしく、誰も意に介そうとしなかった。
「あー、色仕掛けで男どもを釣って狂信させたってやつか。こっちでも噂になってたな」
「あかりさんもわざわざ言い直さなくていいです!」
少女の必死さを見て可能性が確信へと高まっていく。真実に近づきつつあるのに気づいた津美は身体をわなわなとさせながら、震える口で続く言葉をつむぎ出した。
「だからわたし、もしかしてここちゃん……また同じようなことやったのかな、って……」
「違うもん! あれは反省してるし……!」
叫びながら、思わず津美に抱き着く。
「そんな破廉恥なこと……もう、してない……もん……」
津美の胸に顔をうずめたまま、語気が弱くなっていく。
口では否定しつつも、その言いぶりから掴める真実は一つしかなかった。
「図星みたいだな」
「ここちゃんのエッチ」
「うっ、ううーっ! そんなつもりなかったんですから! 面白そうだからからかってやろうかなって思っただけで……」
ある者は驚きつつも納得したように。ある者は胸中の犯人にジト目を向けながら、各々の感想が飛ばされる。
それでも魔の手は止まない。浴びせられる言葉を否定するこころのもとに、あかりが口を開く。
「それで、どこまでやったんだ?」
津美に抱き着きうずくまったこころの身体がビクンッ! と跳ねた。
純粋な好奇心による質問。しかしそれは、現実を知る者にはあまりにも無慈悲な一撃だった。
沈黙が場を支配する。時計が一周半回ろうとしたとき、かすかな呟き声が聞こえた。
「……しちゃった」
「え?」
「エッチまでしちゃいました」
「「はぁ!?」」
目前の華奢な少女から発された衝撃の告白に、二人とも声を出さずにはいられなかった。
想定外な回答にあかりは目玉が飛び出んばかりに驚き、津美は手で顔を覆う。そして、当の発言者は耳まで真っ赤にして俯いた。
「……お前な。人と交わるのはダメだろ。それも古代ならともかく今はさ」
「ここちゃんのエッチ! 変態! ふしだら女! いくら信仰が得られなくて困ってるからってそれはダメだよぉ……」
「違うの違うの違うのーっ! 別に打算的にやったわけじゃないんです! ……わ、私だってはじめてだったんですよ」
口々に叱咤が飛んでくる。一つは冷静に、一つは恥ずかしがりながらなものだが、どちらにせよこころにグサグサ突き刺さることに変わりはなかった。
二人の肩を揺さぶりながら必死に弁明するこころだったが、その言葉の末尾に添えられた事実があかりに引っ掛かりをもたらした。
「え、当時あれだけ話題になってたのにか? 本当にはじめて?」
「そうですよ! 私はそんなあばずれじゃありません」
「ここちゃん、あんなことしながら意外と乙女だもんね」
「意外とって酷いよ津美ちゃん!?」
意外そうな顔に弁明を加え、親友の一言には頬を膨らます。
真実を知ってしまった二人がきまり悪そうに押し黙ってる中、当事者であり話題の主である少女はわなわなと怒りに肩を震わせた。
「……あーもう! こうなったのもどれもこれも信心のない現代人が悪いんです! せっかく敬一さんのおかげで永らえた命も、神社がなくなったら全部終わりなのに……!」
突然のこころの絶叫を無言で見守る二人。
その目を気にすることなくすくっと立ち上がると、こころはつかつかと歩き出し、ふすまを力任せに開け放った。
「……ぞんざいに扱ったツケ、払ってもらわないと。『祟り神』の何たるか、この
カーディガンの袖でこぼれそうな涙をぬぐう。先ほどまでの弱弱しさとは一変、その目は憎悪と怒りに燃えていた。
少女こころ。神名をココロノヒメ。
信仰と社を失いかけたこの土着神が死に際に得た奇妙な縁が、新たな力となって自分の命運ととある男の人生を救うことになるのは、そう遠い話ではない。
「萩谷ァ、今週のノルマこなせてねえのお前だけだぞ! もっと集中してテキパキとやらんかァ!」
「萩谷くん、最近仕事ないがしろにしてるよね。そういうの、サボってるのとおんなじだよ。マジ信じらんない」
「萩谷さぁ、お前最近おかしいぞ。お前のせいでプロジェクト止まってんだからさ、もっと集中してやってくんねえかな?」
毎日のように会社で浴びせられる罵倒。叱責。それはあの日以来全くといっていいほど仕事が手につかず、やるべき業務が何一つ終わってない俺に浴びせられるものとして、当然のものだった。
すいませんはとっくのとうに言い慣れた。嫌で嫌で仕方なかった上司の有難いお言葉も、今や耳に入らなくなった。プロジェクトの遅延が目に見えるほどになっても、もはやそれを気にする余裕もなかった。
いくら経っても頭の片隅にはこころのことがあった。いや、片隅どころかほぼ全てといってもいいだろう。こころのことを見失ってしまった喪失感と、どうやったら会えるだろうと模索する混乱の中に俺は取り残されていた。
うまく寝つけずボーっとした頭のまま出社する。会社に着いても仕事に集中できず、積もっていくタスクの山を眺めながら時間が過ぎる。本来なら残業してでも取り返すべき遅れだろうが、もうどうでもよくなって、定時でさっさと会社を出る。またもやボーっとしながら電車に揺られ帰宅する。元々自炊はあまりする方ではなかったが、今まで以上に買ってきたもので適当に腹を満たす。定時退社してできた時間にはひたすらこころのことだけを考えて、また寝つけないまま朝が来る。この数日はずっとそんな調子だった。
「こころ……こころ……、お前は……いったいどこにいるんだこころ……」
眠れないままベッドでうめく。このまま寝てしまったら、夢の中のこころに囚われて永遠に目覚められなくなる──そんな予感がしていた。
会社からクビ切られるのが先か、気が狂って退職届を叩きつけるのが先か。それが今の俺だった。
時計の針が真上で揃う。昼の休憩時間。仕事に一区切りついた者から徐々に席を立ち始めた。
俺も業務を中断し、一人社員食堂に向かう。食事を味わう楽しみなどとうに失せているので、安くて量の多い丼を注文する。
人気の少ない端っこの席で食ってると、向かいの席におぼんが置かれた。
「萩谷、ちょっといいか?」
「森永」
誰かと思って顔を上げれば、対岸に座ってきたのは同じ部署の森永だった。
同期ということもありそれなりに仲のいいやつではあったが、それも今となっては過去の話。同じ部署で俺のことを嫌いじゃないやつなどもういない。
「お前さ、最近どうしたんだよ。めちゃくちゃタスク溜まってるし、作業スピードも今までに比べて明らかに落ちてる」
話題は想定通りだった。
「……すまん」
「なんかあったんだろ? 仲間なんだしさ、つらいことあったんなら話してくれよ」
口ではそう言っているものの、内心は実情を探りたいだけなのは簡単に分かった。
今日私たちが会ったことは秘密にしましょう。その約束を違えるつもりはないし、例えそんな約束してなくとも夜の神社でセックスした少女のことが忘れられないとは言えるはずがなかった。
丼に残った米をかき込み水で押し流して立ち上がる。
「あっ、おい!」
「わりいがこれは話せねえ」
引き留めようとしてくる森永。その静止を振り切って食器を片しに行く。
「……だけど、まあ、世話になったな」
すれ違いざまに呟いた言葉が森永の耳に届いてたかは定かじゃない。だけど、こいつと話すのもこれで最後だろうというのは想像に難くなかった。
定時まであと数分。そんなときに事は起こった。
ガチャンッ。
受話器を置く音と、それに続いて特大のため息が響く。
音の発生源──部長は気だるそうに立ち上がり、床を踏みしめながら歩き、俺のそばまで来て止まった。
「……萩谷、進捗はどうだ」
小声で尋ねてくる部長。いつも怒鳴りつけてくる割に珍しく怒りを押し殺そうとしているが、さっぱり隠しきれていない。
俺は作業を中断して、真っ黒なタスク管理表を見せる。
「これとこれのコーディングは終わりましたね」
ごまかしたってろくなことにならないから素直に伝える。……もちろん素直に伝えたってろくなことにはならないが。
自分が明らかにタスクが終わってないことも、それがチームの足を引っ張ってることも俺は十分理解していた。理解していたから、まるで開き直りのようなこの素直な報告でこの後どうなるかは容易に想像できた。
部長の肩が小刻みに震える。見下す眉間にしわが寄り、頬がピクピクと痙攣する。
「萩谷ァァアッ!! お前能無しの分際でよくもそんな口叩けるなァ!! お前のせいでプロジェクト遅れて、取引先が大激怒なのがわからんのかァッ!!」
怒りで固まった拳が振り下げられ、金属デスクが轟音を立てる。
思わず誰もが手を止めるような剣幕の中、ついにある一言が放たれた。
「萩谷、お前はクビだ!! さっさと出てけ!!」
部長の怒号と裏腹に、シーンと静まり返る部屋。特に驚く顔もなく、誰もがようやくかといった表情を浮かべている。
そしてそれは俺も同じだった。
「奇遇ですね、部長。俺もこれを出すつもりだったんですよ」
努めて冷静に、背広の中に手を滑らす。そして「退職届」と書かれた封書を部長に見せつける。
そのまま退職届を押し付けた。
「今までありがとうございました。そして──あとはまあ、頑張ってください」
時報が定時を知らす。飄々とした俺の態度に唖然とする部長を横目に鞄を掴んで席を立つ。
解雇なんて人生の節目を前にして意外と冷静でいられるんだな、なんて考えられるくらいには心の中はあっさりとしていた。まあ、もうじきクビになるだろうなというのが予想ついていたからかもしれない。そして、それが自分にとっては好都合だったからかもしれない。
正直、俺自身ももう限界だった。毎朝人でいっぱいの電車に揺られ、終電ギリギリ……もしくは終電すら逃すまで働かされる生活に。そして、そんな生活の中で集中もできずただ無為に時間を過ごす自分の姿に。
一週間前のあの日からずっと頭の中はこころでいっぱいだった。そうであっても、いくらそうであっても自分のせいでプロジェクトが頓挫する様を見るのは厳しいものだ。
そんなとき、寝つけない夜の中でふと思いついたのだ。この時間をもっと別のことに使おうと。いや、この時間をこころを探すために使おうと。
深夜に出会った見知らぬ少女のためだけに会社すらも辞める。はたから見れば狂気じみた選択肢に違いないが、それを迷わず選べる程度には俺は狂っていたんだろう。
無職になった日から、俺は毎日一日中家を空けた。
ある時は朝に、ある時は夜に、またある時は寝静まった闇の中で神社の周りをうろついた。時たま訪れる工事関係者に怪訝な顔されながらも神社に丸一日居座ったりしてみた。
仕事を辞めて四六時中こころを探したって、やっぱり会うことは叶わなかった。少ない貯金を顧みずになんども賽銭を投げ入れたって、神様は俺に振り向いてくれなかった。
「あと一時間で六月も終わり。……今月中に会えるような、そんな予感がしたんだけどなぁ」
俺は今、会社に向かう電車に揺られていた。しかしそれは会社に行くためではない。六月も終わる最後の日に、もう一度あの日と同じように神社まで歩いてみようと思い立ったんだ。
夜の電車は空いていることを俺は身をもって知っていた。しかし、俺が思っていた以上に夜中の電車は空いていたらしい。一列に一人ぐらいいる死んだ目をしたサラリーマンを見て、どこか神妙な気持ちになった。
「疲れた……疲れたけど、あともうちょっと。あともうちょっとだから……!」
あの日と同じく、終電がなくなった後に会社の前を発った。前回はコンビニに寄って少し休憩したけど、今日はそれよりもただひたすらに神社へ行きたかった。三時間弱歩きっぱなしの脚に鞭打って歩みを進める。
国道から段々暮らしの気配が少なくなっていく。家数は減り、歩道は片方だけになり、道が傾き始めた。
歩道のなかった左側が崖になる。
見覚えのある家の並び。見覚えのあるガードレール。
あと少し、あと少しで──
「見えたっ……! 鳥居だ!」
切り取られたように木々の生い茂る領域。そこから覗く長い石段と、朱の色褪せた鳥居。
ここ数日に何度も訪れたあの神社だった。
「……最後のチャレンジだ。こころに会いたい。いや、会わなければいけない」
いくらなんでも少女を追い求めるのは今月だけにしよう。会社を辞めた時、俺はそう決意した。七月一日、いや、六月三十日の二十八時。これが最後のチャレンジだった。
「どうか神様。よろしくお願いします」
石段の前に立ち、一つ大きく深呼吸をする。ひとつひとつ、踏みしめるようにして上っていく。
座った階段。石を投げた階段。声をかけられた階段。一段一段上るたびにあの日の出来事がフラッシュバックする。
思えばあのとき、暴漢まがいのことをしても一切こころは動じなかった。あれはなんだったんだろうと疑問が頭をよぎるが、そんなこと考えている暇はないので再度気を引き締める。
夜空が近づく。それはまた、階段の終わりが近づいていることも示していた。
最後の一段を上り、開けた境内を臨む。必死に周りを見渡す。
神聖な空間に少しも人気がないことが感じ取れた。がっかりする気持ちとはやる気持ちを抑えてゆっくり参道を進む。
緊張でバクバクする心臓。吐き気を必死に抑えながら、神様よどうかと心中で祈りを捧げ続けた。
参道の終点に着く。あの日はただ見ただけの社殿の前に立つ。
財布の中身をありったけ賽銭箱に突っ込み、名前も知らない神に必死に祈る。
そして────
「…………こころ」
──とうとう、最愛の少女は現れることはなかった。
境内に人気はなく。人影もなく。そして少女の声はおろか、衣擦れの音すらも聞こえなかった。
非情な現実。こころは俺の前にはいないんだ、ということを俺は理解せざるを得なかった。いや、嫌でも理解してしまった。
棒のようになった脚で、一歩一歩、ゆっくりゆっくりと引きずりながらベンチへ戻る。
何とか辿り着いて座り込むと、もう動けなかった。
心の全てが崩れていく。今まで耐えていたものが決壊し、悲しみとつらさと恐怖と、いろいろ入り混じった感情が洪水のように押し寄せてくる。わけも分からず考えることもできない頭でただ一つ、もうこころには会うことができないんだという予感だけが警告音を轟かせる。
あぁ、最初から会えるはずなかったんだ。名前も年も知らない少女。ただあの日たまたま出会っただけの少女。人形のように可愛いけれど、素性の知れないミステリアスな少女。だけども最愛の契りを交わした少女。
最初から会えるはずなかったんだ!
むせび泣いた。むせび泣いて、むせび泣いた。むせび泣いて、むせび泣いて、慟哭した。
大の男が声を上げて泣いた。
大の男が涙を流して泣いた。
大の男がみっともなく泣いた。
……どれほどの時間が経ったのだろうか。とにかく涙も流れなくなるほどの時間泣きじゃくった。
だけれどもう、泣くことすらも疲れてしまった。
涙の枯れた目で空を眺める。数多の星が空で瞬き、雲一つない晴れの向こうで闇がほんのり赤らんでいた。それはすさんだ俺の心とは正反対に穏やかで、そして残酷なものだった。
「……ああ、帰るか」
震える脚で立ち上がる。石段へと歩を進める。
足取りがおぼつかないのは、長距離を歩いたからか。それとも、未だ未練に囚われ続けているからか。そんなことを考えるけれども、真実を知るつもりはなかったしそもそも理解なんてできそうになかった。
何度も踏み外しそうになりながらも石段を下りきる。鳥居をくぐって前をまっすぐ見つめると、崖とガードレールが目に入った。
ふと、あの夜の記憶がフラッシュバックする。
──死にたくなったらここから身投げすれば簡単に死ねそうだな。
……職もない。金もない。人望もない。そして何より、希望がない。
こころという最後の拠り所を失った今の俺には、その揺さぶりはあまりにも刺激が強すぎた。
「人生、あっけないものだな」
吸い寄せられるように脚が動く。痛みと戦うさっきまでからは考えられないほどその動きは速やかだった。
自殺なんて人生の節目を前にして、意外と躊躇はないものだ。それほどまでに心は限界を迎えていた。ガードレールに手をかける。右脚を乗せる。数度の呼吸の後、意を決して左脚に力を入れ────
「こんばんは」
────背後から最も聴きたかった声がした。
ギリギリの判断で飛び上がるのを取りやめ、すぐに振り向く。
「こ、こ……ろ……!!!!」
朱塗りの鳥居の向こう。何度も上り下りした石段の一段目に、その声の主は立っていた。
「お久しぶりです。そして、お待たせしました」
「あ……あ…………こころ……ぉ…………!! こころ!!!!」
長い黒髪。夜の闇に似合わない白いブラウスと空色のスカート。そしてお人形さんのように愛らしい、愛おしい顔。
こころがいたんだ。
「おかえりなさい、敬一さん」
稜線から漏れ出た暁の日差しが彼女の顔を照らす。
俺の名前をひとつ呼んで、最愛の少女はにこりとはにかんだ。
暁の情痴、これにて完結です!
まあ、さらにおまけエピソードを書くかもしれません。書かないかもしれません。頭の中には彼らの今後はふわりふわりとありまして、とりもあえずで今いえることはこのお話はハッピーエンドですよ! ってことです。実は神である少女と一夜を過ごし、その後喪失感に打ちひしがれる敬一でしたけど、なんだかんだ、全ては丸く収まっているのです。
しかしこうなると、こころの昔話とかも書きたいものですね……モチのロンであかりと津美も神様です。なかよし神様三人組の昔話とか、覗いてみたいや!
物語は完結を迎えても、彼らの人生(神生)はまだまだ続きます! またいつか出会える日を楽しみに。
最後に。ここまで読んでくださりありがとうございました! また次の投稿にてお会いしましょう!