「先に……風呂に入ってくるよ」
食事を終えてしばらく無言の時を過ごしていると、アベルは不意にそう言って立ち上がった。
「ああ……」
俯いたまま、あたしは小さく返事をした。恐る恐る見上げると、アベルの表情は強張り、緊張した眼差しになっていた。アベルもこれから始まる夜のことを意識しているのだろう。
しばらく見つめ合う。アベルは大きく喉を鳴らし、無言で部屋を出て行った。大浴場はこの宿の一階にある。
一人で部屋に残ると一気に緊張が解け、ため息が出た。ゆっくりと部屋を見回す。窓から差し込む光が大きなダブルベッドを照らしている。
あと一時間もしたら、あたしはこの上でアベルに抱かれているんだ。
締め付けられるような想いを感じ、両手を左胸に当てた。心臓が大きく脈打っている。
ダブルベッドのシーツを捲り、枕の位置を整えた。その下に避妊具を滑り込ませる。いざ押し倒された時にモタモタしないように……。
思った通りアベルはすぐに戻ってきた。
アベルと入れ替わりにあたしも大浴場へ向かう。今日は入念に身を清めなければならない。
露天風呂に肩まで浸かり、ぼんやりと空を見上げた。薄暗くなった。日が高山に隠れ、思っていたよりも早く夜がやって来るようだ。この町は夜が長いのだ。
どうしても、これから起こることに想いを馳せてしまう。駆け落ちした男女が同じベッドで一夜を過ごす。愛を確かめ合わないはずがない。
レイアムランドへ行く前に一度はアベルに抱かれたといっても、あの時は魔王軍との最終決戦を目前に、死の恐怖を感じる中でのものだった。極限状態の中で少しでも安らぎを得るため、本来あるべき手順を飛ばしてでも愛を確認したかった。
でも、今日は違う。もう迫り来る死の恐怖などはない。ゆっくりと愛を語り合う時間がある。優しい愛撫を受けながら肉体を重ねることになるだろう。だから、あたしにとっては今日が初めての神聖な夜になる。
全身が温まった頃、湯船からあがった。手拭いに石鹸を馴染ませ、身体を洗う。長旅の汚れと匂いを取らなければならない。アベルはきっとあたしの身体を容赦なく弄り、至るところに舌を這わせるだろう。首筋、乳房、脇、腹、太腿に陰部。幻滅させるようなことがあってはならない。
足の指の間や背中など、特に垢のたまりやすい場所を手拭で擦る。耳など、洗うことを怠りがちなところもしっかりと。
洗い終えてもう一度湯船に浸かると、全身の肌がすべすべになっていた。我ながら触り心地がいいと思う。
きっと、アベルも悦んでくれるだろう。
脱衣所に戻り、パンティとブラの上にナイトローブを羽織る。スネまで丈のある真っ白な一枚布。胸元の襟を合わせ、腰のあたりを帯で結ぶ。姿見に写るあたしはいつもと違い、男好きのする可憐なものになっていた。
脱衣所を出て部屋に向かう。風呂に入っている間に随分と気温が下がったようだ。風呂で火照った身体の熱がどんどん下がっていく。少し暖まり過ぎた体にはちょうどいいかもしれない。
今までは人の多い港町ばかりに行っていたから、どうしても高原の気候には不慣れだった。
宿のロビーを通ると、同じく湯上りの男たちがたむろしている。酒を飲みながら談笑していたようだが、あたしの存在に気づくと黙ってジロジロと見つめてきた。
魔王軍の攻撃によって壊滅した国も多く、未だ平和な国には住処と仕事を求める流入者が多いと聞く。この連中もそうなのかもしれない。
薄笑いを浮かべながら興味津々に、無遠慮な視線を向ける男たちに怒りを覚え、睨み返そうかと思った。しかしあたしのような綺麗な女がこんな薄布一枚羽織っただけのエロティックな格好でいたのでは仕方ない。若い男であれば、目を背けることはできないだろう。この連中には残念なことに、この肉体は今から一人の男に捧げるためのものだ。
部屋の前に立った。このドアの先には腹を空かせた獣が牙を剥き出しにしてあたしを待っているのだ。身を清め終わったということは準備万端、アベルはいきなり襲いかかってくるかもしれない。
この肉体はアベルの欲望に満ちた手や舌の餌食になるのだ。とめどなく溢れる獣欲を満たしてやらなければならない。あの誠実な男があたしの肉体に狂うところを思い浮かべると、恐怖とともに不思議な悦びを感じる。これが女としての普通の感情なのだろうか。
呼吸を整え、意を決してドアをノックした。床の軋む音をたてながら、獣がドアの先に近づいてくる。
それほどの時間もかからず、ドアが開いた。そこには笑顔のアベルがいた。
「おかえり」
想像していたのとは違う、いつもの優しい顔。あたしの緊張を解き、安心させるくったくのないものだった。
湯上りの肉体が更に火照るのを感じた。