すっかり日の落ちた後の室内は行燈に照らされ、暖炉の火で温められていた。揺らめく炎に照らされたあたしの胸元に、アベルは一瞬だけ視線を走らせた。優しい顔の裏に潜む凶暴性が垣間見れた。
「気が利くじゃないか。暖を取ってくれたんだな」
アベルの二の腕を指で突いてからかい視線から逃れた。
「オイラにとっては普通のことだよ。やっぱりカザーブも夜になると冷えるんだ」
アベルは照れたように笑った。
カザーブほどではないにしろ、標高の高いアリアハンに住んでいたアベルにとってはグッと下がる夜の気温には慣れたものだったのだろう。部屋の中が冷たくなる前に暖をとるのは当然の習慣なのかもしれない。あたしの気が回らないことをしてくれたアベルの行動が嬉しかった。
「この部屋が気に入っちゃったよ。どことなくオイラの家に似てるんだ」
アベルは暖炉の前に置いた、簡素な作りのソファにどっかりと腰を下ろした。その横には小さなサイドテーブルがあり、水の入ったグラスが置かれている。アベルはグラスを掴んで一口飲むと、暖炉を見つめて吸気口を絞って火を調整した。
「不思議な気分だ。こうやって、暖炉の火を見ていた時はいつも一人だった……。オイラ、父さんがいなくなってからずっと一人で暮らしてきたからさ。でも今は、デイジィが一緒にいてくれる……。人のために暖をとるなんて、初めてなんだ」
アベルは物心つく前に母親を亡くし、幼少期に父親と生き別れになっている。この強い男が普段は決して見せることのない弱さを、あたしにだけはさらけ出す。抱きしめてやりたい気持ちになった。
あたしは暖炉の前に行き、膝をかがめて腰を落とした。まだ湿気を含んだ髪を熱風に当てた。
「あたしだって、誰かに部屋の暖を取ってもらうなんて久しぶりだよ。あたし……十歳のときに親を亡くしてるからさ。そのすぐ後に弟と妹が拐われて、ずっと一人で生きてきた。こうやってあんたに気を遣ってもらえるなんて幸せだよ」
そう言って振り返ると、アベルは優しい眼差しであたしを見つめていた。でもどこか寂しそうで、失った何かをあたしに求めているような眼差しだった。
「あたしも……この部屋が気に入ったよ。すごく落ち着くんだ。こんなの初めてだ」
「正解だったかな、ここに来て」
「ああ。風呂も良かった。いい温泉が湧いてるみたいだな」
「お前、温泉が好きだもんな。いい湯だったか?」
アベルは知ったような口を聞いて笑った。あたしが温泉好きなことを、アベルに話したことはない。かつての愚行から想像で言っているのだ。
アベルはあたしが温泉に入っているところ除いた。剣を向けて問い詰めても否定されたが、風呂上りのあたしの着替えを覗いたことは紛れもない事実だ。
思えば、あの時はアベルのことを明確に異性として意識していたわけではなかった。ただ、正義感と情に厚い不思議な男だと思っていただけだ。それが今となっては、あたしが唯一愛した男であり、この肉体の全てを捧げてもいいと思ってしまっている。一度は曝け出した肉体だ。そう思うと、あの時に裸を覗かれたのも何かの縁だったのだろう。
「湯に浸かってると気持ちよくてさ……時間かかったかな」
「いや、問題ないよ。オイラもこの暖炉の使い方がわからなくてさ、さっき宿の人に頼んで教えてもらってたんだ。デイジィが早く帰ってきちゃったらどうしようかって心配してたんだ」
あたしは黙って、髪をかきあげながら乾かし続けた。乾燥した空気の中でこうやっていればすぐに乾く。
「あたし……今日は、いつもよりしっかりと身体を洗ったんだ……」
横目でアベルを見ながら言った。
「デイジィ……」
アベルの目の中に映る炎が苛烈さを増したようだった。上気した顔が険しくなる。大きく喉が鳴るのがわかった。
「オイラも……しっかり洗ってきたよ」
アベルは低い声で言い、黙った。当然ながらアベルもこれから行う愛の営みのことを意識しているのだ。きっとあたしに幻滅されないように、しっかりと身体を洗って来たのだろう。
アベルの視線から目を背け、もう一度髪を暖炉に向けた。今度は髪に櫛を当てていく。ベッドの上でだって、綺麗にしていたい。そう思って丁寧に髪をとかした。
あらかた髪が乾いていた。これ以上待たせるのは良くない。今夜は二人で歩む新たな人生の旅立ちの日なのだから。
あたしはアベルの隣に行かなければならない。
「デイジィ……」
立ち上がったあたしにアベルが声をかけた。鼓動は速くなり、頭がぼぅっとしていた。
あたしは踵を返し、窓の前に置かれたダイニングテーブルに向かった。グラスに並々とぶどう酒を注いでアベルを振り返った。アベルはじっとあたしを見ている。その視線にはいつもの余裕が感じられない。今にも足を踏み出し、あたしに飛びかかってきそうな殺気を感じた。
「飲むか……?」
あたしはぶどう酒を一口飲む。爽やかな香りが、緊張で乾いた口の中を満たした。凄く甘い。この付近で取れたぶどうだろう。昼と夜の寒暖差が大きい地域独特の強い甘みを感じた。
アベルのそばまで歩み寄りグラスを渡すと、あたしが口をつけたところに唇を当ててグラスを傾けた。敢えてそこをねらったようだった。背中がぞくりとした。
「うまいな……」
アベルはそう言ってグラスをソファ前のサイドテーブルに置いた。
もうあたしたちが身体を離しておく理由がなかった。他に何もすることがない。肌を合わせるしかない。女と男は隣り合わなければならない。
こういうとき女は男の利腕とは反対側に座るのが作法らしい。覆いかぶさるときに、存分に利腕で女の肉体を弄るためだ。
アベルは右利き。だから、意を決して左側に腰を下ろした。アベルの開いた腿にあたしの膝が触れた。
アベルは無言だった。