宮川良太が中学へ登校する準備を終えてリビングに戻ると、母の紗英は洗濯物を干し、てきぱきと朝食の食器を洗い終えて、まくったシャツの袖を下ろしているところだった。長くしなやかな指が、器用そうに袖口のボタンを留める。
「ああ、良太。お母さんもう行くから」
一見勝気な印象を与える涼しげな目元で、しかし我が子を慈しむ柔らかさで笑いかけ、紗英はジャケットを羽織った。
三十四歳という中学生の子供を持つには若い紗英の絹肌にはツンと張りがあった。昨年の入学式では姉弟に間違えられたほどである。
ジャケットのボタンを留めると強調された胸元に気を取られた良太を、母の声が引き戻す。
「今日は塾よね、頑張って」
「前から言ってるけど、まだ二年だよ。早いと思うんだけど」
「勉強はやっておいて損はないのよ」
むっと子供っぽい顔つきになる。紗英の子供を叱る時の常だった。ほんの幼い良太にも、私は怒っているのよと、そうして態度で示して躾けられた。いつまでも抜けない癖に、良太は思わず笑ってしまう。
「わかってるよ。頑張る。でも、そのためにお母さんが無理することないからね。勉強なんて家でもできるし」
小学六年生のころに、それまでのパートを辞めて今の仕事に移ったのが、自分のためなのだということは良太にもわかっていた。
息子の気遣いに紗英はくすぐったそうに表情を崩すと、ぽんと良太の頭を撫でた。
「子供が気を遣うことじゃないわよ」
そう言って紗英は玄関へ向かう。静かな足取りの母を玄関まで見送るのは、取り決めたわけでもない習慣だった。
良太は母の後ろ姿が好きだった。身長が百六十四センチあり、ようやく成長期を迎えた良太よりもまだ四センチ高く、すらりと伸びた背筋はかっこいい。スーツスタイルの色気を出したヒップラインは、日課の筋肉トレーニングの賜物だった。離婚した父の分まで、良太にとっては親であった。
「戸締りよろしくね」
紗英は靴を履きながら、手早く上品にまとめた黒髪で言った。
「わかってるよ。でもオートロックで、八階だよ。泥棒なんて入らないと思うけど」
「わからないわよ。十一階の佐藤さんのところ、最近被害にあったって。それも下着よ? どこから入ったんだか……。だから、お願いね」
「はいはい、わかってる」
「遅くなりそうだったらまた連絡するから。それじゃ、行ってきます」
ほっそりした首筋をなめらかに回し、良太を振り返って挨拶する。どんなに急いでいても疎かにしない紗英の儀式であった。
特別厳しいわけではない母の、しかし口を酸っぱくして言うことは、挨拶だけはきちんとしなさい、であった。
見返る紗英の慈愛に満ちた微笑みに、良太は思わず笑みを返して応える。
「行ってらっしゃい」
塾を終えて帰宅したのは午後八時過ぎ。バスケ部の練習後では、母の作っておいてくれたおにぎりだけでは誤魔化しきれず、すっかり空腹だった。紗英はまだ帰宅していない。
電話が着信を知らせるランプを灯している。ボタンを押すと、機械越しのくぐもった紗英の声がする。
『もしもし、お母さんです。ごめんね、今日ちょっと残業みたい。もしお腹持ちそうになかったら、何か食べてくれていいから』
月に数度の残業である。たいていは良太の塾の日になるのは、紗英がそのように調整しているのだろうか。仕事のことはいまいちわからない良太だった。
腹は減っていたが、カップ麺やコンビニ弁当を食べる気にならず、ともかく何かをして気を紛らそうと、干したままの洗濯物を取り込んだ。
自分と母の物、そして共用のタオル類はわけて畳みながら、良太は玄関に耳を澄ませた。
やがてそっと開錠する音がした。そして良太が帰っていることに気付いたのか、ぱたぱた足音をさせてリビングへ入ってくる。
「あっ、良太、ただいま。ごめんね、遅くなって」
「ううん、俺もさっき帰ったとこだし」
「すぐに夕飯作るから」
紗英はジャケットを脱いでカットソー姿だけになると、流しで手洗いうがいをして、そのまま夕食を作り始めた。
「洗濯物どうする?」
「しまっておいて」
「わかった」
良太は紗英の寝室に入る。奥にベッドが置かれ、その隣には化粧台。タンスがあるのは手前の壁際である。
タンスを一つ開けるたびふわりと母が香るのは、良太には不思議だった。同じ洗剤を使っているはずなのに、自分の物とはにおいが違う。それぞれ所定の位置にしまいながら、一番下の下着類のひきだしだけは、どこか邪な気持ちを抑えられずに、丁寧なふりをして余計に時間をかけてしまう。
紗英の通販雑誌をそれとなく盗み見て、下着のページを目に焼き付ける年頃である。女性物の下着というだけで、底知れぬ興奮があった。それがたとえ母の物であろうと黒や白やベージュの、色気がないシンプルなデザインであろうと。布地の大きい綿でも女性物というだけで男の下着よりずっと繊細に見えるのが不思議だった。
なにバカなことをしているのだと思いなおし、良太は紗英の部屋を出た。今日は宿題もなく、塾帰りで自習をする気にもならず、先に食卓についてぼんやりとキッチンの母を眺めた。
早炊きの炊飯器が湯気を吐きだしている。グリルで魚を焼きながら味噌汁をつくり、タコときゅうりの酢の物をこしらえて、冷凍のポテトをレンジにかける。忙しく、しかし楽しそうに動き回る後ろ姿が好きだった。
ちらりと火加減を確かめる横顔、手順を確認するように空中を踊るほっそりした手。
幼いころから変わらない、家庭の象徴だった。
良太がよく覚えているのは、ジーンズにTシャツという気の抜けた格好で、エプロンをつけている母の後ろ姿だった。いい匂いがしてくると、待ちきれなくなった良太はよく後ろから抱きついた。ちょうど母の尻の辺りに顔のあった時分である。「危ないでしょ」とむっとした顔で言いながら、ハムの切れ端でも、浅漬けの一つでも食べさせてくれた。
まさか今さら抱きつけないけど――と、ぼんやり紗英を見つめていると、彼女はくると振り返り良太を手招きする。小皿にすくった味噌汁を良太に飲ませる。
「どう?」
「美味しい」
「良かった。じゃあ並べるからお皿出して」
ほんの三十分足らずのうちに立派な夕食が揃った。魔法のような手際を見るたび、きっと母は仕事もできるのだろうなと思う良太である。
二人で使うには大きな食卓で、向かい合わせになって夕飯を食べる。「手抜きでごめんね」と紗英が申し訳なさそうにする。
「手抜きなんて。たまの残業のときくらい、俺が作ろうか?」
「そんな……悪いわよ」
困り顔でやんわりと断る紗英。
「そう? でも仕事もして、大変でしょ」
面食らったように目を大きくし、それから紗英はにこりと目を細めた。
「そりゃあね。でも、母親だから。子供のために頑張るのが嬉しいの」
「そういうもの?」
「そういうもの。だから良太は、お腹出して寝るのやめなさい。もう春だからお腹壊すこともないだろうけど。家事はしてあげられても、そういうのは代わってあげられないんだから」
『もしもし、お母さん』
六時を回ってすぐ、紗英からの電話があった。ちょうど部活帰りだった良太は慌てて受話器を取る。
「どうしたの」
『帰ってたの。あの、ごめんね、お母さん、今日ちょっと遅くなりそうだから。晩ご飯、適当に済ませておいてくれないかな』
「また残業?」
『ううん、そうじゃないんだけど……。会社の人と、すこしお話があって……』
「あ、そう。わかった。適当にしとく」
『ありがとう。ごめんね』
電話が切れる。良太は窓から外を見下ろした。ずいぶん日が長くなった。まだ辺りは明るい。
「適当かあ……」
近くのスーパーに行くか、コンビニ弁当で済ませるか。ちょっと足を伸ばして、うどんかラーメンか……パスタというのも悪くはない。
表の通りでクラクションが鳴る。その一瞬、良太には母を心配する気持ちが湧いた。
電話の声はいつもと変わらない。凛とした優しさがあり、心底ごめんねと思っている切な響き。しかしここ数日、どこか切羽詰まったような真剣さで、言葉数も少なく思えた。何か悩みでもあるのだろうか。話というのも、難しい相談事なのかもしれない。
そうと考えても良太には、できることなどなかった。それとなく話を促しても「大丈夫よ」とかわされて、強いて問い詰めたところで、自分に及ばないことだから母も打ち明けないのだということがわかってしまう。
まだ十三歳である。親との二十年の差は、絶望的なほどに大きい。
弱気な、落ち込んだ気分になって、良太はカレーを作ろうと閃いた。
友達と喧嘩をした後や、少年野球の試合の前日、励ましてくれるときに決まって紗英が作ってくれたのがカレーだった。
幸い材料はあった。作り方もルゥのパッケージにちゃんと書いてある。作りすぎないように分量を計算して、鍋に焦げついてしまう材料と悪戦苦闘しながら、一時間近くもかけてカレーライスをこしらえた。
食べてみると、いつものカレーと同じ材料のはずなのに、どこか味が悪い気がする。自分で作ったという先入観のせいなのか、いつもは何か隠し味が入っているのか。
いつ帰って来るのだろうと、時計を気にしながら自習をしていた。いつもより大きな音がしたのは、午後十時に近い時間だった。
良太はリビングへ向かった。洗面所で手を洗った紗英が後から来る。
「おかえり」
「うん、ただいま」
やはりどこか上の空で返事して、すんと鼻を動かした。
「晩ご飯はカレー?」
「そう。作ったんだ」
「え? 本当に?」
「お母さん遅いって言ってたから。お母さんの分もあるけど……ひょっとして食べて来たの?」
「あー……そうか……。ううん、食べるよ。ありがとう。嬉しい」
そう言って、紗英は良太を抱きしめた。汗や香水の匂いに混じって、アルコールのにおいがする。
良太は恥ずかしくなって紗英の体を押し返す。寂しそうな目を、良太に向ける紗英だった。
カレーを温め直しながら、白米をレンジにかける。少なめにしておいた。その間に紗英は仕事着から部屋着に替えていた。一日セットしていた髪が癖になって広がっている。気の抜けたシャツ。肌がうっすらと色付いているのは酒のせいであろう。
紗英の酔態からは妙に色気が漂うようで良太は落ちつかなかった。どことなく芯が抜けたように傾いだ座り方や、眠たげなまぶたや、いつもより緩慢な仕草。そういうすべて、見慣れない酔った母の姿が、良太には新鮮であり、女性としての魅力だった。
それでも「いただきます」と手を合わせる紗英の姿は、しゃんとして見えた。繊細そうな手先が、そっとスプーンを操り、カレーをすくう。
「んっ! 美味しい」
紗英はすこし大げさなリアクションをする。良太は照れてしまった。
「そんなでもないよ。作り方は書いてたし、それにちょっと焦げちゃったし……」
「ああ、お鍋だとね」
「お母さんが作るのは、焦げ浮いてたりしないよね」
「フライパンで炒めてから、お鍋に入れるからね」
「ああ、そういうやり方が……」
「でも別に変な味しないよ。美味しい」
今度は実感のこもった言い方だった。
紗英は丁寧な手つきで、静かにカレーを食べていく。唇についたルゥをペロと舐めとる仕草が艶めかしい。ほんのり色付く口紅が綺麗だった。
あっという間に食べてしまい、紗英はこくこく喉を鳴らして麦茶を飲む。
「ああ、美味しかった。ありがとうね、良太」
「ううん、別に」
「でもどうして突然」
「……お母さん最近、疲れてるみたいだったし……こんなことしか思いつかなかったけど……」
静かに息を吸った紗英は、驚きを表した瞳を、慈しむような微笑みにかえる。
そしてまた、ふっと沈むように陰りがさした。
「……ねえ、良太。学校は楽しい?」
どういう意図の質問であろうかと良太は怪しんだが、しかしテストの問題と同じで、答えようは一つしかない。
「え? うん、まあ、楽しいよ」
「そうよね……それならいいの。心配かけてごめんね。ちょっと、仕事が立て込んでただけ。それももう、おしまいだから」
と、紗英は笑顔を作った。良太にはそう見えた。