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慌ただしく紗英が帰って来た。「ただいまぁ」と玄関先から投げかけてくる。
珍しいなと思い良太は見ていたテレビを消して、冷蔵庫から冷えた茶を用意する。炊いた白米をよそっていると、ぱたぱた足音をさせて紗英が現れた。
黒い艶やかな髪をさっと耳にかける仕草をする。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」
「ううん。まだ七時だし」
「買って来たから。食べよう」
両手をあげて見せつけたのは、いくつかの買い物袋である。
学友と久しぶりに会うと言っていた母から電話があったのは六時前だった。すっかり話し込んで遅くなってしまったことを申し訳なさそうに、料理を作っていないなら買って帰るから、ご飯だけ炊いておいてという内容だった。それから駅前のデパートにでも寄って帰って来たのだろう、と良太は総菜を机に並べながら思った。
「あっ、この唐揚げ」
「うん。良太、好きでしょう」
準備を終え、二人は席につく。紗英は一瞬眉を寄せるように、何かを堪えるような座り方をする。
「どうしたの?」
「え? ああ、ちょっとね。もう齢かな」
「まだ三十ちょっとでしょ」
「そうよねえ……さ、食べよう」
まるで夕飯を作らなかったことを詫びるかのようにたくさん並んだ総菜を、良太は育ち盛りの食欲に任せて食べる。その向かい側でなごやかに会話を楽しみながら、母の箸の進みが遅いことに気が付く。
「調子悪いの?」
「どうして」
「あんまり食べてないし」
「そんなことないわよ。あ……」
母はふと色っぽい声を漏らし、明後日の方を見る。はっと気を取り直したように、
「ほら、お昼食べてから、カフェに寄ってお茶しながらおしゃべりしてただけだから。あんまり空いてないの」
「ふうん」
「好きなだけ食べて。余ったら、また明日に回すから」
やさしげに微笑んだ母に、良太はどきりとした。
朝から雨が続いていた。梅雨である。
午後七時過ぎ――まだ明るいはずの空は雨雲にとざされて、すっかり夜の暗さだった。
バスケ部の練習帰りにゲームを始めた。テレビ画面ではキャラクターが元気に駆け回っている。
『あっ、そっち行った』
ヘッドホンからネット通話をしている友人の声。「了解りょ、あ、来た」と、目の前に現れた敵を倒す。ほどなく良太たちも敵に倒されてしまった。
「次、どうする?」
『あー、うちそろそろ飯』
「わかった」
じゃあ自習でもしておくかと考えていると、
『そういやさ、こんな時間にゲームすんの、珍しいよな』
「そう?」
『いつももっと遅い時間じゃなかったっけ』
「最近、うちの母親、仕事が忙しいみたいでさ。いままでは夕飯の時間だったけど」
雨でグラウンドを使えない野球部や陸上部とのかねあいで、梅雨時の部活は短いことがある。今日がそれで、家へ帰ってしばらくすると、母の携帯から電話があった。
――え、良太? もう帰ってたの。うん、そうなの。ごめんね。八時か……ひょっとすると九時になるかも。部活あったのよね? ああ、お腹空いてるなら先に……。そう、わかった。できるだけ早く帰るね。
言葉尻の低いトーンの後に通話の切れた電子音を聞きながら、良太はどうして作っておこうかと言わなかったのだろうと後悔した。仕事で大変だというのに、自分が家で待っていると余計に心配をかけてしまった。
『そんで、残業が多いわけ?』
耳元でした友人の声にハッとする。一瞬の間に、すこしぼんやりしていた。
「そういうこと」
ふーん、と相槌を打った友人は、家族に聞こえないようにというふうに声をひそめて言った。
『それってさあ、男でもできたんじゃねえ?』
窓を破って夜が流れ込んでくるように、嫌な想像が良太を飲み込んだ。胃か心臓か肺か、ともかく胸のあたりが不安でぎゅっと潰れる。
「そ……なんで」
『良太の母ちゃん、すげー美人だろ? 遊びに行ってびっくりした。それに、うちの母ちゃん言ってたぞ、若いのに偉いねって。いくつなの?』
「三十、ちょっと」
『だろお? イマドキ、それぐらいで結婚する人の方が多いじゃん』
「でも……」
何かに抗おうとそう口にしながら、良太の視線はテレビからガラス戸の方へと滑ってゆく。
部屋干しスタンドに衣類がかかっている。良太のシャツやパジャマ、タオル類、そして母の洋服。淡いグリーンの下着が部屋をぼんやり映したガラス戸を背景に、ぽかんと浮かんで見えた。
春服から夏服に移ろうように、母の下着がすこし変化していることに、良太は気が付いていた。スーパーマーケットや通販で買うような、コットン生地のありふれた、機能的な下着ではなく、レースや刺繍という細工を凝らしたものや、サテンの光沢が目立つものが増えた。
まるで誰かに見せるための……。
そして良太が「下着」として目にするそれを、身につけ、楽しみ、脱がせる男が現れた……。
「へ……変なこと言うなよ」
妄想を振り払おうと良太は友人の言葉を否定する。
『悪い悪い。でもほんと、いいよなあ。良太の母ちゃん、キリッとした美人でさあ。うちのなんて、おばちゃん丸出しって感じ』
直後『聞こえてんのよぉ!』と、良太も知ったおばさんの声がする。
『やば。それじゃ、また明日な』
「はいはい。またな」
通話とゲームを切る。急にシンとしたリビングで、良太はたまらなく心細かった。
母の仕事は、六時が定時であるはずだった。それから一時間……。残業を頑張っているはずの母の、あられもない姿を想像する自分が、とても情けなく感じた。
不安を誤魔化すようにバラエティ番組をつけ、良太はリビングで自習をしていた。八時半になってようやく帰宅した母は、珍しい息子の様子に驚いたらしかった。
「どうしたの、こんなところで」
「あ……おかえり」
「ただいま。遅くなってごめんね」
母はあくまで、いつもと同じふうだった。良太はほっとする。
いや、それでも――
表情がいくらか華やいで見えるのは、季節のせいであろうか。上品で意志の強そうな眉や、優しい眼差し、美しい鼻筋や、やわらかそうな唇。何もかもがいつも通りのようで、しかしほんの少し前よりも綺麗に整えられたような気がしてしまう。
「どうしたの、じっと見て。何かついてる?」
「あ、いや……友達と話しながら宿題しててさ。それで、そのまま」
「そうなんだ。偉いね。すぐご飯にするから」
くしゃりと頭を撫で、母は台所に向かう。
手早く炒め物を拵えながら、常備菜を二品取り出す。そして冷凍のコロッケをチンして、良太の炊いておいた白飯が今日の夕飯だった。
シュシュでまとめ直したおさげを振り振り、忙しくキッチンを動く。夏の薄着はゆったりと体を覆い隠し、ひらひら揺れている。そのいつに変わらぬ母の後ろ姿に、良太は幼いころのように抱き着きたい衝動にかられた。母が忙しくするのを寂しいと感じているのだと、己の子供っぽさを恥じた。
あっという間に用意された夕食を、いつものように向かい合って食べる。
襟ぐりの深いシャツは、紗英のほっそりした首筋から、色っぽい鎖骨、そして絹のような胸元が見えていた。
嚥下するたび上下する喉元に見るともなく目を奪われていると、紗英は怪訝そうな顔をした。
「どうしたの、さっきから。体調でも悪いの?」
誤魔化さなくてはと良太は言葉を探す。
「ううん、そうじゃないけど……最近、仕事忙しいの」
「え? ああ……、そうね」
にこりと紗英はあいまいに肯いた。「どうして? ひょっとして寂しい」
「お母さん、遅くに帰って料理作ってもらうの、悪いなって思うから、俺が夕飯作ろうか、って。簡単なのしかできないけど」
かわいらしく驚いた顔をした紗英は、指先でやわらかな唇をそっと潰して考える仕草をする。
「そう、ね。もう中学生だもんね。それじゃあ、甘えちゃおうかしら」
雨に濡れた夜の街は、光のプールのように眩しい。
塾の自習室で友達と雑談をしながら学校の宿題をしていたら八時半を回っていた。
大通りから外れると、傘を打つ雨音が心地良いBGMになった。夜の空気はどこかひやりとして心地良い。冷たさに安らぎを覚えるほど、季節は夏に近付いていた。
お母さん、もう帰ってるかな――と、良太はぼんやり考えた。
残業があっても、だいたい九時くらいには帰宅している紗英である。今日はどうだろう。連絡も入れずにいつもより遅い時間になって心配させてはいないだろうか。
しかし自宅に連絡を入れるまでもなく、マンションはすぐそこだった。
帰っていたら帰っていたときだと自宅マンションへ続く横道に入る。クラゲのように闇夜に浮かんだ真白な街灯がふよふよ続く道の半ばに、あたたかな光を吐きだすのが良太の住む場所で、ちょうど入口の正面に、車が一台停車していた。路肩に寄せ、ハザードランプがついている。夜の暗さにも高級感のある艶が目立つ。
助手席のドアから傘が開いて人が降りた。それからふいと車の方を振り返り、車内をのぞくように屈む。
街灯に現れた横顔は母、紗英に違いなかった。
良太は思わず足を止めた。
紗英は片手で傘を残し、助手席のシートにもう片方の手と片膝をつき、車内に頭から入る姿勢になる。中の様子はうかがえない。
紗英が体を起こすと、今度こそドアを閉めた。
名残惜しそうな間をおいて車は走り去った。紗英はテールランプの見えなくなるまで、そこに立っていた。
「お母さん?」
声をかける。紗英はぎょっと肩を跳ねさせた。
「りょ、良太? どうしたの、こんな遅くに……」
紗英の声は上擦っている。良太は不審に思いながら答える。
「どうしたのって、今日は塾だよ。自習室に残ってたから、ちょっと遅くなったけど」
「あ、そうよね。お疲れ様」
いくぶんか声の調子は戻る。
「今の車って……」
「うちの社長さんの。出先から直接だったから、送っていただいたの」
「そう、なんだ」
それで降りてから何をしていたのか。社長というのは……。
良太の中にもやもやと、よからぬ想像が駆け巡る。
けれどもそれを問いかける勇気は良太にはなかった。
もしもそうであったなら自分はどうすれば良いのかわからず、そうでなくともそんな想像をした後で、母と平気な顔をして一緒にいることが、年頃の男子にはとても難しいことのように思えたからだ。
ふわりと雨にとけるように、上品で甘い、大人の色香を思わせる香りが、良太の鼻をくすぐった。マンションの植込みの花からだろうか。それとも母からなのか。
二人はしばらくその場に立ちほうけ、やがて良太からマンションへ向かって歩き始めた。
問いかける行為自体が、とてつもない禁忌のようである一方で、そう思い込むことで自分の意気地のなさを誤魔化している気がしてひどく情けない気がした。