鍵を回すとき、ドアを開くとき。そっと音を立てないようにしてしまうのは、紗英の子供のころからの癖だった。両親が共働きで夜勤も多く、いつどちらが寝ていてもいいように気を遣ううちに身についた習慣だった。
「ただいま」
声をかけてから手洗いをしてリビングへ。読書中だったらしい良太は、ぽかんと不思議そうな顔で紗英のほうを見ていた。すっくと伸びた背筋が、プレーリードッグのよう。
「おかえり」
声もどこかいつもの調子ではない。
「ただいま」
「今日は早かったんだね」
「なにが?」
何気なく訊ね返すと、良太は「いや……」と視線をそらす。
「ほら、最近、休みに出かけて、遅いときとか、よくあるから……」
人の顔色をうかがう怯えた態度。はっきり言いたいことがあるくせに確信に迫らない言い回し。
そういう態度に、親子なのだと感じた。
頭に血が昇っているのか、冷めたのかわからない。
「今日ね、お父さんと会って来たの」
「……え?」
意外そうな顔をする。紗英は中野に訊ね忘れた、養育費もままならぬ現状をを良太に伝えたかどうかの答えを知った。伝えてはいないのだろう。もしも良太が聞いていたのなら、驚くよりも納得をするだろう。
「お父さんに何か言った?」
「えっ……」
気になるなら訊ねればいい。そうすれば隠しはしないのに。
紗英と男の関係を疑っていることを知られているとわかってなお、良太はそのことを、面と向かって訊ねようとはせず、うろたえるばかりであった。
その姿に紗英は苛立ち、虚しさがこみあげる。
どうして? どうして一緒に暮らしているわけでもないのに、あの人に似てしまうの? ずっと頑張ってきたのは私なのに……。
音を立ててバッグを置く。
「それとも何? お母さんはプライベートを全部良太に伝えなくちゃいけないの? 誰と何をしていたか、報告しなくちゃいけない?」
「そうじゃ、ないけど……」
しゅんとした息子の姿に、紗英の両親は痛んだ。
元夫と姿を重ねて八つ当たりをしてしまった。申し訳なさと後悔が胸を締め付ける。けれども吐いた言葉は取り返しようもなく、二人の間にはぎくしゃくとした空気が流れた。
***
午後練を終えて帰宅しても時刻はまだ六時にもなっていない。
夏の体育館はとにかく暑かった。窓や扉を全開にしてもサウナ同然である。こまめに水分補給をするそばから、汗となって流れ落ちるようだった。まだジリジリと肌を焦がす夕空を歩いても涼しいと思うほどであった。
家に帰りついて、良太は麦茶を二杯流し込んでシャワーを浴びた。全身の筋肉が疲労を訴えている。怠さの中にある心地良さ。
部屋着のシャツとハーフパンツを着てリビングへ向かう。夏休みもあと一週間ほどだが良太の宿題はとうの昔に終わっていた。
夕景に彩られて薄暗くなっていくリビングは、どこかがらんとして見えた。無人で灯りもつけない空間にひどく孤独感を覚えた。
紗英が珍しく感情を露わにしてから、良太はどう声をかけてよいかわからなかった。今朝も仕事に行く紗英を見送ったが、ぎこちなく「行ってらっしゃい」と言うのが精一杯で、まるでいつも通りに「行って来ます」と返して出ていく母を不気味にさえ感じた。
振り返る横顔は、たしかに若やいで見えた。夏の陽射しにさらわれてしまうのではと思うほど綺麗だった。
部屋が暗くなってくる。そろそろ支度をして塾へ行かねばならない。
塾……そのことを考えたとき、先日の母とのやりとりを思い出す。
誰と何をしていたか――
怒りの色をにじませた紗英。鋭い声、ほっそりした腰をわずかにそらし、強調された丸い尻。プライベートを詮索されて心外だという、どうしようもない女の部分を良太は感じてしまった。
やっぱりそういうことなんだ……。
途端、気分が悪くなる。時計の針が六時を過ぎていた。母の仕事は終わったはずだ。残業をしているのだろうか、それとも……。
近頃増えた残業だが、以前から月に何度かあった。それは決まって、良太の塾がある日に。
曜日によって仕事の多さが違うのだと考えようとして、しかし帰宅時間の都合がいいから社長とそういうことをしていたのだと、夕立雲が立ち込めるように、どうしようもなく良太の胸を覆い隠す。
しばらく何をする気にもなれず、ぼーっとしていた。どれほどそうしていたか、ふとベランダの洗濯物が目に入る。
光に誘われる蛾のように、ふらふらとそこへ歩み寄る。黒い下着。花をあしらって部分部分が透けたデザイン。
坂本のがっしりとした体を思い出す。大人の男性らしいゴツゴツした手を思い出す。その若々しい健康なオスが、母を組み伏せ、この下着を剥ぎ取る姿が頭に浮かぶ。きっとそれに抵抗せず、嬉しそうにする母の顔を想像してしまう。
びくんと股間が反応する。良太は救いを求めるように紗英の寝室に走った。
下着類の棚を開ける。見てもわかるはずがないのに、今日は何を身につけているのかを探ろうとした。色気のない、昔のものなら……。
何枚かの下着を手にするうちに、閉じ込められていた空気が攪拌されて、ふわりと母の、そして女の香りが良太を刺激した。
「ああ……」
喪失感に襲われる。何か……決定的な敗北感に突き動かされて、良太は母に甘えるように、紗英のベッドに頭を預けた。無意識のうちに手にしていた、古い下着をじっと見る。クロッチの部分にはうっすらと、洗っても落ちきらなかった染みがある。
かつての母を求めて鼻に押し当てる。確かに母の香りがする。もう一方の手が自然と動き、良太はオナニーを始めた。
そんなことをするつもりではなかったのに。けれどもそうして鎮めてしなわなければ、どうにかなりそうだった。思いがけない形で意識させられた男と女という隔たりを吐きだしてしまわないことには、気が狂ってしまいそうだった。
そして異常なことをしているという興奮が、良太をさらに突き動かした。
自らのモノをしごくのは母の下着だ。母を抱きたいと思ったことはない。ただ親として尊敬し、愛していた。だからこそ、いけないことをしているのだという背徳感が、良太の手の速度を上げる。
これまでのオナニーでは感じたことのないような、前後を失うような興奮と快感に、良太は歯を食いしばり、先走りに濡れた下着で自らを慰め続けた。
「うううっ……」
嗚咽をもらして吐精する。尿道を通る精液の感触は、精通したとき以上の衝撃だった。
ビクンビクンと跳ねる竿。ザーメンを受け止めた母の下着は、正直気持ちが良いものではない。虚しさがこみあげてくる。やってしまったという罪悪感が襲った。
申し訳ないと悔いるほど、異常なことをしていると自覚するほど、ザーメンまみれの下着の気持ち悪さが良太を興奮させた。
熱に浮かされたように、良太は柔らかくなり始めたモノをまたしごきだした……。
***
定時を過ぎるとめいめいが業務を終了していく。紗英も事務作業をキリの良いところで保存し、PCをシャットダウンする。
「ああ、宮川さん。来週のスケジュールのことで」と坂本の声がして、紗英の胸は高鳴った。PCが切れたのを確認し、バッグからスケジュール帳を持って社長席へ向かう。社長室なんてものはない小さな事務所だ。
「お先です」と退社していく同僚たちの視線が、好奇のものになっていることは薄々気付いていた。
簡単に来週の確認をしているうちに社内には二人きりになった。
坂本が座ったまま腰を抱き寄せる。さすがに股を割って坂本の上へ跨る勇気はなく、肩に手を置いて体を支えた。筋肉の盛り上がりが逞しい。
「紗英、今日はどうかな」
それは当然、夜の誘いだった。坂本に触れた部分から、期待がじんわりと肉体に広がるようで、紗英は仕事の疲れを忘れる幸福感を味わう。
同時に、交際を始める以前よりも大きな、良太を裏切っているという感覚に苛まれた。
間違いなく自分が望んでいる男との行為である。だからこそ息子に対して悪いと感じてしまう。
こうして彼の誘いに乗るせいで、良太は寂しい思いをしているのだ。そしてまたそれが彼を不安にさせてしまう。
夏休みに入ってから、良太に見送られて出社するのが習慣だった。その顔がなんだか捨て犬のような物寂しさを帯びていることに、紗英は気付いていた。
坂本の肩にかけた手に力を込めて距離をとる。
「せっかくだけど今日はご遠慮します。良太にご飯、作ってあげたいし」
「良太君、今日は塾だろ? あ、夏休みだとスケジュール違うのかな」
「ああ……」
それならいいか、という考えが一瞬、頭に浮かぶ「いえ、せっかくだから、あの子の好きな物、気合を入れてつくろうかなって。誠一さん、ごめんなさい。せっかく……」
「いやいや、いいよ。またにしよう」
坂本は立ち上がると、唇が触れるだけの軽いキスをする。優しく、けれども奪っていくような勝手さで頭を抱えられて、紗英の奥がジンと痺れた。
坂本を車まで見送ってから、スーパーに寄って夕飯の買い物をして帰宅した。
いつものようにそっとドアを開け、違和感に気付く。
寝室のドアが半開きで光が漏れている。
バッグから携帯電話だけを出して部屋を覗く。室内にいたのは良太だ。ひとまず安心し、彼の周りに散らばっているものが目に入る。紗英のランジェリーだ。
くぐもった声を漏らして、良太は自分のモノを慰めている。
紗英の頭は真っ白になる。状況が飲み込めなかった。声を出さなかったのは気遣いというよりは、声を失っていたというほうが正しい。
情けなく丸まった背中。親の下着をオカズにする卑しさ。
はたから見ると間抜けという他ない自慰をする姿。
ああ、そっくりだ――。
猿が自分で毛づくろいをするような、憐れな後ろ姿を見ていると、どうしようもなく、彼の父親にそっくりだった。空白だった紗英の中に、軽蔑とおぞましさが沸き上がる。
「うううっ……」
みっともない声と共に、良太の動きが止まった。射精しているらしい。しばらく整わぬ呼吸をしていたと思えば、また手を上下に動かしだす。
ふいに中野の背中が頭に浮かんだ。小さなアパートの一室で、一人寂しくオナニーをしている。
再就職先を見つけるんじゃないの。今日は塾のはずでしょう。
あなたたちにはもっと他にやるべきことがあるはずでしょう。
紗英は急に悲しくなって、また音を立てずそっと家を出た。マンションを出てから手にしていた携帯電話を操作し、坂本の番号にコールした。