「まあ、男の子だからなあ……」
意外なことに、坂本は良太に同情的だった。それが紗英には不満だった。じろっと睨むと、坂本は困ったように笑った。
電話を受けた坂本は、家へ帰ったばかりだったらしく、仕事着そのままで紗英を迎えに来た。
近場の山頂付近の駐車場で、街を一望できる場所に車を止めた。まだ暮れ残った夕焼けが遠くに美しい。
「でも、私は母親よ。そんなの普通じゃないわ」
何がいけなかったのだろう。やはり片親だからか。干渉し過ぎたのか。不倫した中野を、許してやるべきだったのだろうか。混乱した頭は、そんなことを考える。
「まあ……ね。でも俺も、母親にそんな気持ちを持ったことは、正直言ってあるからさ」
「え……?」
「ほら、前に親が再婚してるって言っただろ。高二だったかな。突然若い母親ができたらさ、思春期だし、まあ色々とね」
照れ笑いを浮かべて坂本が告白する。それを見上げながら、彼に寄りかかっていることに気付く紗英だった。
「それで、どうしたの? 今は……」
「家に居づらくて、わざと遠くの大学受けて一人暮らし始めてね。手紙とか電話とか、年に一回二回顔合わせたり、二十歳過ぎたくらいかな、ふと、ああ母親なんだな、って思えた」
「でも……距離を置くなんて……」
実の親である。大学進学など、まだ先の話である。とうていできる話ではない。
「うん、それなんだけどさ」
坂本はしばらくじっと、夜の帳が降りてくるのを眺めていた。真剣な眼差しはドキッとするほど精悍だ。
「実は前から、関西のほうに支社を作ろうかって計画があってね」
「ああ、そういえば……」
どういうツテか知らないが、取引先にはそちらの名前もいくらかある。
「会社はまあ、あっちの奴に任せるつもりだけど、立ち上げと、落ち着くまでの間、支えてくれないかな、紗英」
「それは……」
単身赴任をしろということだろうか、と思う紗英に、坂本は胸ポケットから可愛い小箱を取り出す。中には指輪が入っていた。坂本は紗英の手を取ると、左の薬指にそれをはめた。
「また何か、付け入るみたいなタイミングになってしまうけど、俺をそばで支えて欲しい。きっと君も、良太君も、幸せにする」
「でも……あの子を一人になんて……」
「週末には帰ればいいし、今のままが健全ってわけでもないんだろ? 距離を置いて、お互い冷静になってもいいんじゃないか。それに――」
坂本は優しい口づけをして、紗英を抱きしめた。
「二十歳そこそこから、ずっと一人で子育て頑張ってきたんだから。手がかからなくなった今、すこし羽を伸ばしてもいいんじゃないかな。良太君は真面目そうだし、ちゃんとできるよ。あと、これはまあ俺の願望だけど、期間限定でも、紗英と二人だけの新婚生活を味わいたい、って気持ちもないではない」
わざと付け足した言葉に、紗英は救われた気がした。
頬ずりをしてから身を起こす。
「とても嬉しいお話しですけど、すぐにお答えはできません」
「うん、わかってる。あ、でも、結婚と支社のことは、別で考えてくれよ」
それから幾日か過ぎた夕食の席である。紗英は何気ないふうを装って言った。
「そういえばね、お母さん、下着がいくつかなくなってるの」
「え……?」
おそらく二組消えている。汚したものを処分したのか、まだ持っているのかはわからない。どちらでも良かった。ただこれで、良太が素直に告白するならば、きちんと話し合い、健全な親子関係を築き直せるだろうと、紗英は考えていた。
じっと彼を見る。突然のことに戸惑い、忙しなく目が動く。何かを言おうと口を開いたり、諦めて閉じたりを繰り返す。きょろきょろと動いていた瞳が、紗英を見るなり、気まずそうにそらされる。
「泥棒でも入ったのかな」
紗英の言葉に、良太はあいまいに肯いた。
「そう……かな……」
ダメか――と、紗英は落胆する。同時に、中野の不倫を問い詰めたときも、はっきりと口にするまで誤魔化そうとしていたことを思い出し不愉快になる。
紗英は感情に蓋をするように、細く、長く、息を吐いた。
「そうそう、それとね、お母さんちょっと出張……というか、しばらく関西のほうで仕事することになりそうなの」
「……え、ど……なんで?」
「会社の都合。誠一さん……社長に是非って言われて。まだいつから、とは決まってないけど。良太、一人でも平気よね?」
「う、うん……でも……」
「とりあえず、週末は帰るようにするから。ごめんね」
これでいい。
男の子がいつまでも母親にべったりのほうが不健全だ。すこしくらい突き放すようでも、距離を置いて頭を冷やす時間が必要なのだ。
自分に言い訳しながら、それでも母としての良心はチクリと痛んだ。
どうしようもない自分の本心が紗英自身を傷つけて、またその傷をつがいに癒されることを望んでいる。
これまで頑張って来たんだから。新しい、素敵な父親を迎える前に、妻として、夫として、子供のいない新婚気分を味わっても、罰は当たらないはずだ。
***
秋めいてきた空気は、良太にはすっかり冷たく感じた。
忙しく家のことを済ませ、食費や洗濯や掃除をどうしておいて欲しいかを伝える紗英の顔を、良太は見ることができなかった。
コインランドリーで洗濯し、雨か何かで洗濯物がごちゃごちゃになったらその隙に戻しておこうと思った下着はまだ良太が持っていた。そのことを問い詰められたときの、母の冷めた視線を思い出すと、どうしても顔をあげることができなかった。
「それじゃ、行ってきます。とりあえず週末には戻るわ」
「う、うん、頑張って……」
それ以外に何を言えただろう。
するべきことを終えた紗英は玄関へ向かう。
ハーフアップにまとめた髪。ぴっちりと肌に張りつくような黒いシャツと、ワインレッドのタイトスカート。女性的な曲線を描いている。
出張に行くはずの母からは、期待に胸を膨らませる女の色香が漂い出していた。浮かれた女の尻を、無意識に男を誘うようにくねらせて歩く。
紗英の後ろ姿はもう、すっかり女であった。親子という壁に隔てられた良太には手の届かない女。
ドアノブを回した紗英の左手には、真新しい指輪の耀きがある。
無情な音を立てて、ドアは閉められた。