ノーラは静かにヴァレン家を出ていく。
その後姿を見てヴィクターはため息を付き、つぶやく。
「そう、それがいいんです。あなたは幸せになるべきだ」
ドアベルの音を聞いたのか、ベアトリスが玄関に戻ってくる。
「あら、ノーラさん帰ったの?」
「はい」
ヴィクターはそれだけ返すと部屋に戻ろうとする。
「ヴィクター!」
「はい?」
呼び止められ立ち止まるヴィクター。そこにベアトリスは近づき、抱きしめる。
「ヴィクター、あなた、もしかして……」
「半成人を迎えたら、社会の一員。『加護なし』は退場することも考えないといけません」
ベアトリスはヴィクターの両肩を掴み、にらみつける。
「そんなこと! そんなことは私が許さない! 大丈夫……あなた一人を」
ヴィクターはベアトリスの口に人差し指を当てる。
「それはいけない。お母さん、それは他に示しがつかない」
「なぜ!」
「ヴァレン家はカーソン村の規範とならねばなりません。穀潰しはだめでしょう」
ヴィクターはここで小さく笑う。
「救国の楯は招聘だけではなく入試もあるようです。それを目指します」
「ヴィクター! あなた『加護なし』なのよ!」
「とはいえ、知識でなんとかできるかもしれません。この家にある数学の書物は全て習得しました」
ヴィクターの告白にベアトリスは絶句する。
「え……? 全部?」
「はい、全部です。なかなかに興味深いですね。極限、極大を扱うと世界は広がります。では僕は部屋に戻りますね」
ベアトリスが呆然としている間にスルリとヴィクターはその腕から抜け出し、部屋へと戻っていった。
昼食時。土地管理の仕事からコーディが戻ってくる。
「ただいま。子どもたちは?」
「アーロンとジャネットはお弁当持って遊びに行ってます」
ベアトリスの返答に苦笑で返すコーディ。
「まったく……式の前だというのに。ヴィクターは?」
「部屋にいます」
ベアトリスの陰りのある表情に怪訝そうな表情をするコーディ。
「わかった。そろそろ昼食だろう? 呼んでこよう」
コーディはヴィクターの部屋のドアをノックする。
「はい?」
「俺だ」
コーディはドアを開けて中に入る。ヴィクターは机に向かい、本を読みながら何かを書いている。
「勉強か?」
「はい。救国の楯に試験で入ろうと思っています」
コーディがそのヴィクターの手元を覗き込む。
「……これは、なんだ?」
「都合の良い数を作るための定義です」
「都合の良い……?」
「はい。世界を知るためには極限の値を扱う必要があります。そのときに手駒として必要な数です」
「どうやって求める?」
「このように」
「これはなんだ?」
「導函数が無限に求められ、かつその導函数のある値 a が計算できる場合において任意の値 x について近似計算する方法です。これを a=0 のときについて書き直すとこう」
「そしてこれを展開するとこう」
「さらに x=1 のときはこう」
「これを求めれば e が計算できます。もちろん無限には計算できないのである程度のところで打ち切る必要がありますが」
しばらくコーディは考え込んでいる。
「これがなんの役に立つのだ?」
「そうですね……まあいろいろ、です」
曖昧に微笑むヴィクター。
「そうか、昼だがどうするか?」
「わかりました」
ヴィクターは本を閉じると席を立ち、コーディの後についていった。