何かに呼ばれた気がして夜明け前にふいに目が覚めた。AK-12が何事かと起き上がる。私は散歩とトイレといつものように言えばそのままAK-12はぱたんと倒れるように眠る。器用なやつだと笑って、一時のねぐらにしている廃墟をでた。
「寒い」
歩き出してすぐの視線の少し上、離れた廃墟から何かしらの気配が動く。そこからよく耳にする声がした。M4が音もなく着地して寄り添ってくる。護衛としてついてくるのだろう。そのままにしておく。
「アンジェ」
「散歩よ散歩。あと、トイレ」
「トイレは反対側だけど」
「……呼ばれた気がしたから、行くだけ」
「何に」
何かと聞くあたり、M4はおおよそ察しているようだった。いや、うっすらと知ってはいるのだろう。そのまま話を続けながら霜をサクサクと踏んでいく。
「親友とその娘みたいに、私のことをかわいい天使と呼ぶ何かに」
「アレですか。私も用があるのでついていきます」
「好きにしなさい」
「ええ」
言葉もなく歩くこと数分。空気が変わった。廃墟近くの鉄錆くさい冷え切った晩冬の森から、澄んだ水の匂いが満ちる春先の森の空気へと。それに触れたその瞬間親友夫婦の笑顔を思い出す。妖精みたいに純真無垢で残酷で愛情深い、まるで恵みの雨のような二人。もう会えないことがまだ信じられなくて、信じたくなくてそっと視線を足元に落とす。
「この空気、どうしてかしらね。すみれの親で私の親友のさくらと幹也を思い出すの」
「あの子からもこんな恵みの雨みたいな気配がするし、アンジェを天使と呼ぶ何からもそんなそっくりな気配がするわ」
「雨が降っているような音と空気の湿り具合なのに、晴れているのが不思議なのに怖さはないの。さくらがまだそばにいるみたいな心地よさ。そうね、さくらが一番最初に私を天使だなんて言って、それで、あの二人だけが私から目を逸らさずに愛してくれた。何も返せていないのに」
「アンジェ。愛ってのは返すものじゃないの。誰かに貰った愛に自分の愛を一つ足して誰かに注ぐものなの。ペルシカさんが忙しさを理由にすみれから逃げてて、私たちが育てていたあの日々のなかでみつけた答えがこれ」
「いい答えね」
ささやくように昔を語り、愛の意味を知り決意を新たに人なざらるものの領域にどんどん突き進む。距離や時間なんて意味をなさない空間の中を少し行くとぱっと視界が開けて広場みたいになっているところに出た。その先に私を呼び、M4が用事があると言った人ならざるものそこにいた。
「久しぶりやんねえ」
さくらによく似ているが、少し低くて雨音に似た不思議な響きの声がすっと私に届いた。上半身が白で下半身が赤い見たこともないような服なのに未知からくる恐怖もない。何が起きても、それはそういう存在だとなんとなく受け入れてしまう静けさの中、M4が真っ先に疑問を投げかけた。
「アンジェを呼んだ理由は何」
「うちな、天使にお願いがあんねんな」
さくらに似たとろりと甘い声が私に何かをねだる。心の弱い渇き飢えた私には甘い毒である声色が、己は妖精の末裔だと言ったさくらのしたようにそっと私の心のうちへ注がれる。
「こっそりすみれを守ってくれんけ?この条件でよかったらな」
ふわりと宙に浮いたままやってきた人ならざるものが白い紙を広げて私達に見せてきた。そこには目を見張るようなことがずらりと書かれている。
「この護衛契約……アンジェや私達に有利すぎる」
「そうね。契約書の通りなら資金に人材も豊富に提供してくれるみたい。私の旧友のペルシカやヘリアンに知られないように期日ぴったりに決まった場所へ、以前から決めていたもっともらしい言い訳を携えて護衛すれば良い」
何を考えているのかと渋い表情を私とM4が向けると人ならざるものは無邪気に笑うだけ。
「人助けと愛に理由はいらんねや」
そのふんわりと柔らかい笑顔が記憶のどこかにひっかかる。思い出すためにさくらとの会話を必死にたどっていく。ふっと、さくらがある日見てせてくれた写真のこととそこに写っている人のことが記憶の奥底から浮上してきた。さくらの言葉がよみがえる。「学生時代、学費を援助してもらう代わりに弟と一緒に子供のいない大伯母の養子になったの。この人よ。小柄でかわいらしい人でしょ?優しくてあったかくて強い人なの」
さくらの声色を。もうすっかり忘れてしまったことが悲しくて仕方ない。でも、言葉はまだ覚えている。その言葉を、問いかけたくて口を開こうかといった瞬間にやんわりと人ならざるものに止められた。
「まだ言わんといて。うちのこと調べるんはあとでな。こん子への宿題やし」
人ならざるものはM4を指差して私に何も言うなと暗に示す。まあいいかと頷いておく。そうでもしないと、守れない。
「わかったわ。親友の忘れ形見を守れるなら悪魔と契約する」
「うちは悪魔とちゃうけんどなあ。まあ、ええか。頼んだで。書くんは今つことる名前でええよ。あーとうね。ほんにかえらし天使やんねえ」
ただ悪魔が提示する契約書にサインしただけなのに、触れるだけでほろほろと崩れるような砂糖菓子みたいな甘い声が私を褒め称える。そのさくらみたいな心地よさに縋りたくなったけど、振り払ってキッチリと宣言だけはしておかないと。
「それでも、わたしはあなたの思い通りにはならない」
「いん。そうけ?まあ、契約成立や。よろしゅうな。うちを契約の範囲内で使い倒しよし」
契約書を懐にしまったひとならざるものはのほほんと笑って溶けるように消えていった。嵐みたいに去っていったそれにあきれながらM4に戻ると告げてくるりと森に背を向ける。不思議はどうやら逃してはくれないみたい。