高い空を見上げていた。
晴れ渡る青空、なんてものではなく不純物を存分に混ぜ込んだ濁った色が空を覆っており、ゆっくりと流れる雲をなんとはなしに目で追っていた。
空気は生温く、鉄臭い。
地に染み込んだ生命の臭いとそれを奪った錆びた鉛の臭いだ。
ごぉごぉと風の唸り声だけが聴こえている。身体を通り過ぎる風は強くはないが、力の入らない手足を苛んでいく。風に吹かれるたびにふらりと景色が傾いだ。
あぁ、おなかがすいたなぁ。
そう意識すると途端にお腹が鳴った。
数日間まともな食べ物をいれていない胃は痛みを訴えてくる。
たまらずにその場に立ち止まりお腹を抱えた。顔はゆっくりと地面に向き、土くれを視界に収めてしばらくして目を閉じた。
閉ざされた視界がぐるぐると回っている。ろくに寝てもいない頭は睡眠を欲していた。平衡感覚は機能を正常に保つことができずに揺れる。なんとか意識して保っていた体勢を維持する意味が分からなくなった。
軽い音を立てて地面に転がった。呼吸をするのも疲れてしまい、最低限に息をするだけだ。
自身を起こしてくれる人はいなかった。
両親はとうに他界し、親代わりをしていた人たちも殉教者としての生活に、己の身体の限界を感じていたのだ。
記憶が掘り起こされる。物陰から見ていた光景が再生される。
同じ村の住人たちが騎士に縋りついて訴えていた。
せめて子供だけでもどうにか任を負わせないでいただけませんか、お願いします、我らが元帝国兵で人々の命を奪ったとしても、生まれてくる子たちにはその責はないはずです、だからせめて子供だけでも。
騎士に縋った住人は檻に入れられてそれから会うことは無かった。
お腹を抱えて身動ぎをする。
子供は――少年は、その村から逃げた。
自分は子供だから良いと思ったのだ。
住人たちは子供を大事にしていた。自分も愛されていた記憶がある。
子供は宝だからと食べ物も率先して回された。その代わりに笑顔を求められているのが分かっていたので愛想を振りまいた。『子供らしく』村を駆けまわり、ふさぎ込む他所の子供たちの手を引いて遊びに誘った。
騎士たちも子供には甘かった。うるさくしたら折檻を受けるが、乱暴な騎士が誰か、見逃してくれる騎士は誰かとつぶさに観察して知っていた。
大人たちの間を駆けまわり、少しでも笑顔を引き出した。
村の住人たちの機嫌を得れば、食料が与えられた。愛を与えられた。
騎士たちのゴキゲンに沿えれば、折檻を受ける大人の間に割って入っても許された。
少年は自分の影響力に満足していた。他の子供たちに比べて秀でているように錯覚していた。
だから、逃げることも許されると思った。
本当は他の子供たちも誘おうと思った。
住人たちは子供を大切にしているから、子供たちが逃げるのは彼らの本望だろうと考えていたからだ。
けど、と少年は口を閉ざした。
少年は自身の身体が出来上がっていない未熟なものだとよく知っていた。
大人たちの背丈の半分ほどしかなく、手足は小さい。走る速度だって大人が本気を出せばものの数秒で捕まってしまう。
それに子供たちも、ふにゃふにゃと自己表現を上手くできない子たちが多かった。
少年はそれに何度苛立たせられたかしれない。
他の子供は少年を頼った。少年が言うことはなんでも従った。嫌な顔をするときもあったが、自分で考えて行動して恥ずかしい思いをするのが嫌だったのか渋々少年の行動に従った。
少年は言葉で彼らを手懐けていた。唯々諾々と従う彼らは少年の言葉を待っていた。
それは逆に言えば、彼らは少年の言葉無くして自ら動くことは無い者たちだった。
……そんな者たちが近くにいれば自分の枷になるのではないか。
少年は自身が大人に勝てないことを知っていた。子供たちの、大人に怯える弱さも知っていた。子供たちは自分の意思で動かずに少年に全責任を負わせる厄介者たちであることを知っていた。
少年の考えが至った。
一人で逃げよう。
使えるものは使うが、他は足手纏いだ。
カビの生えたパンや乾いた米、しなびた野菜を袋に詰めて水が入った皮袋を腰に付ける。
騎士たちの行動を観察していた少年は、騎士たちの気が緩む逢魔が時を狙った。子供がようやく通れる道がある場所と、数分ではあるが騎士たちの交代の時間を計って行動した。
口から心臓が飛び出しそうだと思った。荒くなる息を抑えて慎重に道を進んだ。
村の中で破裂音と甲高い悲鳴が起こった。
複数の子供の声だ。
少年はその声に肩を跳ねさせたが、自身の仕組んだことなので振り返らなかった。
騎士たちは突然のことにそちらに向かう音がする。
きゃあきゃあと悲鳴が上がり、がしゃがしゃと鎧の軋む音が複数重なる。
子供たちは少年と遊ぶ約束をしていた。
日が暮れる時間帯、夕陽が山に落ちていく光景をみんなで見ようと誘ったのだ。
場所を指定しそこに集まるように指示した。
その時に、一人に小さな瓶を持ってくるように言ったのだ。
夕陽が沈んだ後、あたりは暗くなるだろうからと蝋を入れた瓶に火を灯せと指示していた。
その瓶の中には火に反応して破裂音を響かせるものが入っていた。
少年がいないながらも、少年に指示されていたことを律儀に守った子供の一人が瓶に火を落としたのだろう。そして破裂音が響いた。それに驚いた子供たちが悲鳴をあげた。その悲鳴を聞きつけた騎士たちが、少年とは逆方向にへと走っていった。――それだけの話だった。
自分は許されると思ったのだ。
予想外に騎士たちが怒り、何かを蹴っている音やさらに甲高く上がる子供の声に心臓が冷えた。
振り返らずに進んだ。
自分は許されていたのだ。
自分は特別だったのだ。
自分以外の子供たちは愚鈍であることを知っていた。
けど、少年が考えていたよりも愚かで機知に富んでいないとは思っていなかった。
少年だったら騎士たちに怒られても、その中から子供に甘い者を見つけて守ってくれるよう愛想を振りまくことができた。それを他の子供たちができないとは思っていなかった。
少年は目を見開いて進んだ。歯がかみ合わなかった。
大人たちの懇願する声が聴こえる。騎士たちの怒号が聴こえる。子供たちの苦痛に泣き叫ぶ声が聴こえる。
自分だけが許されていたのだ。
少年は逃げた。
その後の村がどうなったかは知らなかった。
一人で歩き続け、持ってきた食料が尽きればそこらの野草を食んだ。
野生動物を狩る技術は無い。空腹はすぐに訪れた。
とにかく少しでも村から離れたかった。
睡眠を犠牲にして進み、自分がこれからどうなるかも考えられなかった。
そして少年はようやく歩みを止めて地に転んだ。
ぐうぐうと腹が苛んでいる。
耳にこびりついた悲鳴たちが風の音でかき消されるのだけが救いだった。
か細く息を繰り返して、忍び寄る睡魔に身を委ねていった。
「……、子供……?」
驚きに満ちた低い声がしたような気がした。
地を踏みしめる重い音も、今の少年にとってはどうでもいいことだ。
だが、身体が強引に起こされた衝撃には耐えられなかった。
薄く目を開くと霧がかかったようなぼやけた視界で黄色が見えた。
「生きている! あぁ……! 大丈夫だ、もう大丈夫だから……」
これは大人だ。
少年を抱き上げた大人は、少年の顔や身体についた土を払い頬を撫でた。
少年を安心させるためか何度も「大丈夫だ」と言う大人に、少年はひくつく口元を精一杯引き上げた。
あぁ、愛想を振りまかなければ。
少年はその大人から発せられる善意の臭いを鋭敏に嗅ぎ取った。鉄錆の臭いなどどうでもよかった。甘く、青臭く、陽の臭いとそこに隠れる陰鬱なものが誰しもの中にあることを知っていた。それがその大人の中にもあることに安堵した。
これを逃してはいけないことを少年は分かっていた。
力の入らない手を必死に動かす。すると大人は少年の手を優しく包み込んだ。その手を握り、少年は『心底安心した息』を漏らす。大人たちは子供からの信頼、信用を無条件で信じていることを知っていた。
今の自分は大人にはどう見えているのだろう。――そんなことは分かり切っていることだった。
絶望に射す善意の光明に、少年は縋った。