少年が目を覚ました時、ぼんやりと燻っていた視界が拓け、薄暗い中でもはっきりと木目の天井が見えて心臓が跳ねた。
すぐさま上半身を起こそうとするが栄養が足りていない身体は言うことを聞かず、まるで水中をもがくのと変わりない重さだった。それでも少年は不快な鼓動を刻む心臓と逸る気持ちを抑えられずに這いずる。
シーツを掻き分けて手を伸ばし、早くここから離れないと、という一心でのみ動いた。
自身がベッドの上にいることを認識していなかった少年は身体にまとわりつく毛布からすら逃れようと這い、そしてベッドの縁から落ちた。粗末な木材で組まれた床板は少年の重みに軋み、盛大に音を立てた。
片腕を下敷きにして落ちた少年は、痛みに呼気を荒くして床を這う。
音を立ててしまった。早く逃げないと。早く、早く――どこに?
混乱する頭で考え、ベッドの下の空間に滑り込んだ。
身体に纏わりついていた毛布を引き寄せて丸くなる。痛みを訴える腕や肩。
少年はここがどこだか分かっていなかった。
村にいた頃、少年の住まいは粗末な木で造られた木造の小屋だった。部屋の中は暗く、壁に吊るされたカンテラが十分な明るさをもたらしている。普通の火の温かな色合いではなく、黃に近い緑の光であることが不可解だった。だが少年はそれに気付きながらも混乱に拍車をかける。
村で生まれた時から木造の小屋に暮らしていた少年は、先程見た天井が毎日目覚める家の天井とほとんど同じであることに恐怖したのだ。
自分は、あの村に連れ戻されてしまったのか。それが頭の中をめぐる。
「……っ!」
がちがちと歯を鳴らして震える。
村を出て行くときに聴こえた子供たちの悲鳴が耳元で響いていた。
怒っている。怒っているはずだ。
どれだけ馬鹿で愚かだったとしても子供たちは少年が自分たちを嵌めたことを理解しているはずだ。それを大人たちに訴えていないはずがない。大人たちは全て少年が悪かったのだと騎士たちに進言するはずだ。自分だったらそうする。少年なら自分を嵌めた人間を許さない。自分を嵌めた人間がみんなの分まで苦しんでいるのを見て留飲を下げる。表には出さないが心の内で愚かな者を指さして笑うだろう。自分ならそうする。だから他の子供たちがそうしないはずがなかった。
自分は村に連れ戻されたのだろうか。
牢屋に入っていないのは少年が目覚めてから何かをするつもりだからだろうか。牢屋に入れていなくても、もし逃げたとしても捕まえる自信があるからだろうか。当たり前だ。子供と大人では勝ち目なんてあるわけがない。自分が村から逃げ出すことができたのは、大人たちが少年のことを侮っていたからで、騎士たちの行動時間を知っていたからで、それらが無ければ子供なんて。
「……ごめ……なさ……!」
震えて許しを請い続ける。自分は何も悪くない。心の奥ではそう思っていたが表に出してはいけない。憐れに振舞わなければならない。誰が見ているか分からないのだから。
慌てたような足音が木板から直接伝わってきて、少年は言葉を詰まらせる。引き寄せた毛布をさらに引っ張り息を殺した。
少年のいる部屋の扉が開かれた。目が勝手に扉を見た。足元が見える。大人の足だ。――やっぱり僕は村に連れ戻されたんだ!!
大人の足は迷うことなくベッドに近付き、そして膝を折った。
明らかに少年がベッドの下にいることを知っている動きだった。
大人が何かを言う前に謝らなければ。
「ご、ごめんなさいっ! ぼ、ぼくは、ちがっ……! だってぼくは……ぼ、ぼくは……! ごめんなさい! 許して!」
ベッドの下を覗き込もうとしていた大人が動きを止めた。
少年はふぅふぅと荒い息を吐く。大人の動きを注視する。
自分がこれからしなければならない行動はなんだろうか。
この大人がどちら側かによる。もし村の大人ならどうすればいい。騎士ならどうすればいい。どう言えばいい。どう言えば殴られないだろうか。傷つけられないだろうか。どうしたら辱められないだろうか。
そればかり考えていた。
「……大丈夫。分かっています。そんなに怯えなくていい。ここには君が恐れる者はいない……安心してください」
ゆっくりと、怯える少年に向かって低い声が言い聞かせる。
少年は頭を回転させてその声が該当する人間がいないかを探す。
初めて聴くような声のような気がしたが、混乱しているせいで上手く記憶を引き出せていないだけかもしれなかった。
「ご、ごめ、ごめ……な、さ……」
「大丈夫、大丈夫です」
「ぼ、ぼくは……」
「大丈夫、分かっていますから」
「……ッ!」
「怯えなくていいんです。ここは安全な場所ですから。君を傷つける者はここにはいない。だから大丈夫」
「…………」
その言葉は、信じていいものなのだろうか。
大人――男の声は「分かっている」と言った。何を知っているのだろう。少年が犯した愚行を全て了解しているのか。いやそんなことは無いはずだ。少年は一人で村を出ると決めた時に、誰一人としてそのことを漏らさなかった。行動も普段と変わらずに過ごし、何も企てていないよう振舞った。知らないはずだ。だれも。自分以外には。
「大丈夫。怖いものはここにはいません。ここは安全な場所です」
何度も同じ言葉を繰り返す男。
少年はようやくその声をちゃんと聞こうと思えた。
無様に震えていた身体がだんだんと収まり、呼吸も正常に戻ってくる。
まだ小刻みに震えてはいるが、今ならちゃんと考えることができる。
少年はその男の声を聴いたことがないか、鈍痛に邪魔されながらも頭を巡らした。……恐らく、聴いたことはない。
ならそれは、少年の知らない人ということになる。
区切られた世界で限られた人に囲まれ、その全ての人たちのクセや行動、思考を観察してきた少年が知らないのならここは村の外なのかもしれなかった。
今見えるのは他人だ。少年の知らない他人。
村の中ではないかもしれない、と少しは安心したが代わって違う不安が首をもたげる。
この人は一体誰なのだろう。
「…………あ、あなたは……だ、だれ、ですか……」
「私はレオナールと申します。各地を行脚する放浪の身で、寄った村々や集落で何かの助けになれないかと……、困っている人たちの手助けをしています。その旅すがらあなたが倒れていたのでここに保護しました」
「……保護……?」
「えぇ。保護、です。……お腹は空いていませんか?」
「……?」
少年は一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
そして次の瞬間、お腹がきゅるりと鳴る。少年が理解できなかった分、無意識が欲求を訴えた。
少年の微かな腹の音が聴こえたのか、男の雰囲気は柔らかくなり笑い声を発した。
「大変だったでしょう。今、軽いものを作ってきますから楽しみにしていてくださいね」
男は腰を上げて部屋を出ていった。
部屋の外、床の軋む音が遠ざかっていく。
少年は耳を澄まして男の居場所を探った。
遠くない場所で何やら音がし始めた。家庭音だろうか。食器を移動させる音、水を使う音、人の歩く音、確信はないがそれらと判別できる音たちが聞こえる。
注意深くさらに耳を澄ませる。時には床に耳を当てて他に動く者がいないかを探り、レオナールと名乗った者以外の音がしないことを確認してベッドの下からのっそりと這いだした。埃が舞い、力ない咳が出た。
毛布を引き寄せて部屋の中を見回す。
少年がいた村とそう変わりない粗末な木造の部屋だ。
家具はあるが、棚の収容空間にはほとんど物が無く、机や椅子も古びている。窓枠に取り付けられた木板は閉じられていて、今が朝か夜かは分からなかった。
あまり使われていない印象を受ける部屋だ。
少年はすぐさま窓に寄り、木板を持ち上げる。薄い板の向こうは暗闇だった。
あまりの暗さに驚いて月を探した。乾いた土の匂いや涼やかな風が外だと告げている。もしかしたら空の真上にあるのだろうか。窓枠の下方部分に屈み、夜空の光源を探すが星すらも見えなかった。
今日は新月なのか。
少年は外に逃げ出すことができないことに思い至り血の気が引いた。
ここがどこだか分からない状態で月明かりの無い場所を移動するのは自殺行為だ。
薄い板を持ち上げるのをやめて、部屋の中を探索することにした。何か、何か武器になるものぐらいは無いだろうか?
外界と少しでも隔絶されるよう無意識に毛布を身体に巻き付けた。うろうろと狭い空間をうろついていると部屋の外から男の足音が近付いてきた。
少年は慌ててベッドに駆け寄る。ふらつく足元が危うかったがベッドの傍に寄り、扉から入ってきた者から一瞬だけでも視界に入らない場所に縮こまった。目だけは縁から出し、扉を凝視する。
扉が開かれてそこから男が入って来た。
男は立ち止まって部屋の中を見回すようにぐるりと首を巡らせたあと小さく微笑み、机の上に食器を乗せた盆を置いた。
その一連の動作を見ながら少年は不思議に思うことがあった。
男の容姿は大柄で落ち着きのある壮健な顔付きだ。頬の肉は無駄な部分は一切削ぎ落され、そこにかかる褪せた金糸の髪は伸ばされ根本近くでくくられている。着古され汚れがあるが大事に扱われているというのが分かる服は、村の中では見ることのない作りで、知らないながら旅人に相応しいもののように見えた。
髭も剃られ全体的に清潔感のある男だった。
村の大人たちは全員草臥れていて、騎士たちは嫌に顔が歪んでいた。
あまり見た事のない人種に少年は上から下までじろじろと観察する。
そしてやはり一番最後に少年が不思議に思った部分にへと視線が戻る。
その男は部屋に姿を現したときからずっと瞼を閉じていた。
じっと見つめていると男は少年にへと顔を向ける。――瞼を開いていないはずなのに、まるでそこに少年がいることを分かっているようだった。
「さぁ、こちらの席にどうぞ。そんなところにいたら埃がついてしまいますよ」
「…………」
「君がどれぐらいの期間食べてないのか分からなかったから粥を薄めたものを持ってきました。温かいですよ。日中は暖かくても夜は冷え込みますから、身体を温めないと元気も戻ってきませんし……お腹が空いていたら尚更、ね。ほら、おいで。一緒に食べましょう」
「……うん」
緩慢に立ち上がり男の動向を探りつつ席に上る。身長が足りずに足が浮いているが、それは村にいたときもそうだったので気にするものではなかった。
盆に乗った器は二つ。少年は自身に近い方の器を覗き込む。米が沈殿するそれは白湯の親戚かと見紛うものだ。男の方の器も見ると同じものだ。合わせてくれているのか、それとも単にそれだけしかないからなのか判断が付きにくい。
少年は器を前にして考えた。
次に自分が『しなければならない行動』は何か。どう行動すれば目の前の男の慈悲を得られるか。探っていくしかない。
椅子に座りこちらに顔を向けている男を上目遣いで窺う。男の目は閉じられたままだ。
「……い、いただき、ます……?」
「えぇそうですね。いただきましょうか」
「…………うん」
少年の言葉に落ち着いた笑みを浮かべて応える男。
今の自分の行動は、この男にとって好ましいものだったのだろう。
匙を持つ自分の手は細かった。いつの間にか痩せていたようだ。ゆっくりと白湯紛いの粥を口に入れていき、胃に温かなものが落ちていく。丁度良い温かさのそれに緊張していた身体がほどけていくのが自分でも分かった。
匙を動かしながら、少年は村の大人たちの行動や言動を記憶から引っ張り出して検証していく。
無言で粥に食らい付いている少年に何を思ったのか男は「おかわりもあるので食べたかったら言ってください」と優しく言った。
少年はそれに頷いた。