温かいものを食べて、胃の腑から熱が全身に行きわたっていく感覚がする。少年はおかわりをし、二杯目の途中で頭の鈍痛が酷くなってきたことに呻いた。壁に吊るされたカンテラの奇妙な明るさを思う頃には、意識を保っていることが難しくなっていた。
男が心配そうに声をかけてきているのが分かった。
眩暈と鈍痛から逃れるように意識が落ちる。
次に目を覚ました時、混乱にまたベッドから転げ落ちた。
一度目の繰り返しのように男が慌てて部屋に入ってきて少年の心配をする。
ベッドの下に潜ることは無かったが、少年は男に対して疑わしい気持ちを拭い去ることができずにベッドの陰に身を寄せた。
男は手負いの獣のような行動をする少年に困りながらも、窓の木板を開けて棒を突っかえさせた。
窓から光が入ってくる。薄暗かった部屋を朝日が柔らかく照らし、滑り込んできた乾いた風の匂いに知らず息が漏れた。
男はそれからも少年に対して親切であった。
空腹で逃げ続けていた少年の身体にはいつの間にか付いた傷が多く有り、化膿しないようにと一つ一つ丁寧に薬を塗って包帯を巻いた。
少年が早く元気になるようにと食事を用意し、子供用の服を調達した。
猜疑心にまみれ男の動向を見ていた少年の目を受け入れ、寝床を整えた。
少年がどこから来たのか問わない男を訝しみ、訊かないのかと弱々しく言えば「えぇ。訊きません。話したいと思った時に話せばいいですし、話したくなければそれでいいんですよ。君がどこから来たのかよりも、君の体調の方が今の私には気掛かりです」と言った。
あまりに善良な言葉に少年はだんだんと申し訳ない気持ちになってきた。
村の中で見知った人たちに囲まれて生きてきた少年にとって、初めての他人の言葉をどう取ったらいいか分からずに黙る。騎士たちは月毎や年毎に入れ替わりがあるが、それでも「騎士」という属性が付随した者たちだった。
大体は似たもので変わり映えはない。
体力の落ちた少年がその部屋で過ごしていく内に、男――レオナールに対して心を開きつつあった。
痩せて細くなっていた腕に少しずつ肉が戻り、部屋に入ってくるレオナールに対しても怯えることは無くなった。
少しずつ会話も増えて、起きた時の挨拶も交わすようになる。
二人が暮らす小屋は森の奥に打ち捨てられていた小屋で、レオナールは少年を保護するのに良いと使わせてもらっているらしかった。部屋に積もっていた埃はいつの間にか掃除され、傷んでいた家具もレオナールが補強をしたり作り直したりしている。
元々隠遁生活を送っていたと言うレオナールは、弟たちとの生活を懐かしそうに話した。
その時に呟かれた弟たちの名前に、少年は利己的な考えが過ぎった。それは少年に親切に接する男への裏切り行為に近いものであり、酷く残酷であるものだった。
けども、と少年は考える。
懐かしそうに微笑むレオナールの横顔を見て、少年は言葉にし難い苦さが口中に広がり、飲み込む。そうして口にした。
「そ、それ……」
「? どうかしましたか」
「ぼ、僕の名前、だよ……」
「……は?」
「ラウム……、……ごめん……僕はレオナールの名前を知ってたのに、僕は自分の名前を言ってなかった……」
「……そんな、まさか……」
レオナールは絶句した。
まさか、と口元を手で覆い微かに唸る。
勿論少年の名前はラウムではなかった。
少年は自身に親切であるレオナールの好意の向く先を少しでも多くしたかったのだ。
少年は村の外の世界について己はあまりにも無知だと知り、レオナールを手放してはまずいと思っていた。どれだけ遠くに行けたかは分からないが、もし村にへと戻されたりなんかしたら……。
嫌な記憶を呑み込む。思い出したくないと思った。
「あぁ……まさか……それは本当なんですか……?」
「……うん。ごめんね……その……大事な弟たちと……一緒で……」
「いいえ。あなたが謝る必要はありません。こちらこそ取り乱してしまって申し訳ありません。ラウム、……そうか、ラウムか……」
男は噛み締めるように呟いた。
……これで少しは弟たちに向けていた愛を、自分に向けることができただろうか。
レオナールの反応をつぶさに観察して心情を推し量る。この開けっ広げな善意の態度が仮面でなければ、懐かしさの中に苦いものを感じているように見える、と推察する。
悪くない反応だろうか。少年は自分の名前を捨てることを改めて心に決めた。
レオナールはそれから目に見えて少年にさらに親切になり、身近になった。
少年は――ラウムはレオナールのことを「兄」と呼ぶことにした。
さらに近付かないと。そう考え提案した「レオ兄」という呼称をレオナールは戸惑いながらも許可した。
レオナールが食糧の調達に外に出ればラウムは小屋の掃除をしたり洗濯物をして帰りを待った。
森の野生動物を狩り、帰って来たレオナールに『弟らしく』甘える。家事をしたことを褒めて欲しいとねだると、レオナールは恐る恐るといった手付きでラウムの頭を撫でた。
「いい子だ」
軽く、さするように通り過ぎていく大きな手の平。
村の大人たちや騎士たちは少年の頭を無遠慮に撫でまわしていたので、レオナールの手付きはまるで物足りなかった。自らレオナールの手を掴み、ぐっと頭を押し付ける。ぐりぐりと小動物の親愛の動作と同じ仕草をするとレオナールは息を呑んだ。
その反応が面白くて、ラウムはレオナールに褒められる度にその行動を繰り返した。
小屋の生活に慣れてきた頃、少年にとって驚くべきことが起こった。
「はっ? はっ? はぁあ~~~??? あーんたホンッッット懲りないね! 俺がくっさい人間共の住処から離れて神聖で澄んだ空気の漂う森に行ってる間、イタイケナお子ちゃまを連れ込んでよろしくしてたってかぁ!? キャハハハハッ! あーあー大丈夫でしょうかー? 貞操は無事でしょうかー? ……なーんだよその顔! マヌケ面がさらにマヌケ面! 呆けて馬鹿面になっちゃってんの! 面白くねぇよばーかばーか!」
「フェアリー、やめなさい!」
「あらあらメロメロねーそうですねーあんたの好みの前じゃカッコつけたがりますよねー。おいおいそこの子供! 知ってんのかコイツが何考えてんのか! 教えてやろうか、いやいや教えてあげましょうね~!」
「やめろと言っているだろう!」
「うそうそごめんなさい謝るからゆるしてください。契約者様の機嫌を損ねるなんてそんなこと俺はしませんって言うことききますよ~。ほらこの通り謝りますから~~キャハハッ!」
レオナールが契約者であることを知った少年は恐怖に震えた。
少年にとって『契約者』と言えば直轄区を守る者のことだ。
少年は自身が住んでいた場所の『契約者』の名前も姿も知らなかった。
もしかしたら自身の住んでいた村の『契約者』ではないかと怯え「レオ兄……」とか細く呼んだ。
「は? マジで? レオナールさん流石に性癖キメすぎじゃありません? イタイケナ少年に「兄」と呼ばせちゃってあらまぁ。いい木の陰は見つかりましたか~? 後で俺にも教えろよ!」
「フェアリー、少しでいいから黙っていなさい。……どうしたんだ? ラウム」
「うげ~~~……ガチじゃん……キッモ……」
「ぐっ……。……契約者のことを知っているのですか?」
「……うん……レオ兄は……その、村の、……人……?」
「村、ですか。ふむ……、もしかして君が言いたいのは直轄区の契約者のことですか」
少年は黙った。目の前には膝をついて少年と目線を(瞼は閉じられているが)合わせているレオナールがいる。
自分からそのことを訊くだなんて愚かなことをした。
もしこれでレオナールが直轄区の契約者なのであれば少年はきっと村に連れ戻されるだろう。
それをどうやって回避するか考えを巡らせる。レオナールは少年を安心させるように、いつものように笑った。
「それでしたら何も不安に思うことはありません。私はあの忌まわしい檻を管理する者ではないですからね」
「……そうなの?」
「えぇ、そうです。私は君に嘘は吐きません」
「隠し事はするけどって言っておけよレオナールさん!」
「フェアリー……口を閉じることもできないのですか」
「俺はシンセツで言ってやってるんですよ~? ねぇ~?」
さっきからレオナールの周りをうるさく飛び回るフェアリーの言葉に、少年は不安を覚え始める。隠し事とはなんだろうか。テイソウ、セイヘキという言葉を知らない少年は不安にレオナールを見た。
レオナールはただ曖昧に笑っているだけだ。
きゃあきゃあと喚くフェアリーの声が、村を飛び出した時に後ろから聴こえた子供たちの声と重なる。
自分の名前を捨てた少年は不安を押し隠そうと、少しでもレオナールに気に入られようと目の前の身体に抱き着いた。