ラウムは海というものを初めて見た。
砂浜を歩き、押しては引く波を飽きることなく眺めていた。生温かな風にはなんとも言えない臭いが混ざっていて嗅ぎ慣れない。舌を少し出して唇を舐めれば微かに塩の味がするような気がした。
「ラウム。それ以上行くと濡れますよ」
「うん。分かった」
ラウムの後ろをゆっくりとついてきているレオナールを振り返る。ラウムの足元に迫る波の存在を、レオナールは瞼を閉じているというのにまるで見えているように指摘した。
本当は靴など脱いで初めて見る海に足を踏み入れたかったがレオナールに止められている。この時期は海の生き物が浅瀬にまで来て噛みついてきたり刺したりするらしく、ここに来るまでに何度も注意をされたので入る気はしなかった。遠くで見ているだけではたまらないと砂浜を歩くことは許されているが、靴を脱ぐことも禁じられていた。それも貝というものが足の裏を傷つけるだの、刃物が落ちていたら一大事だのとのことだ。
ラウムはレオナールの言うことを素直に聞いた。
彼が少年のことを慮っていることを知っていたし、その言葉にこそばゆく思うもじんわりと湧き上がる温かさが少年を素直にした。
「うぇ~ぺっぺっ! こんな生臭くて気持ち悪い風が吹く場所にな~にをありがたかってんのか人間様の思考は分からないね! こんなところに俺を引っ張り出してきやがってクラゲにでも刺されちまえよ!」
変声期を迎えていない少年の声が甲高く響く。
それはラウムのものではなくレオナールの頭周辺をぐるぐると回るフェアリーから発せられたものだ。口に入ってくる潮風が嫌らしくわざとレオナールに向けて唾を吐き掛けた。レオナールの方も予感していたのか手の平で吐き掛けられる唾を遮る。
潮風はフェアリーの羽にも付着しているのか、フェアリーはしきりに自身の羽を拭っていた。羽の動きを一時的に止めている状態だが浮遊するには問題ないらしい。ラウムは延々と悪態を吐くフェアリーに向かって言った。
「そんなに嫌なら待ってたら良かったのに」
「はぁ? ふにゃふにゃした目で俺を見てくる人間の集団の近くにいろっての? 冗談でも面白くねぇんだよ! ちょっとは面白いことを言えればいいんですがそれすらもできないだなんて、なんて可哀相な頭をしているんでしょうか! 憐れですね~~いやいや可哀相なボクちゃん憐れまれたかったら海に入水しろよ! コイツが顔色ひっくり返して助けてくれるからさ~!」
「フェアリー……幼子に何もそこまで言わなくていいでしょう」
「あぁはいはい可愛い可愛い弟ちゃんのためですかね~? キモいんだよ死ね!」
「…………はぁ。すみません、ラウム。フェアリーのことは謝っておきます。どうにも口が悪いのは治らないみたいで……」
「僕は大丈夫だよ、レオ兄」
「はぁ~~? 俺を悪者にして仲良しこよしってかぁ~? オイオイがきんちょ! コイツと仲良くしてていいのかよ! お前今にもパクっと美味しく食べられちゃうぜ? そん時の顔は見物だよなぁ? うひゃひゃ!」
フェアリーは途中から自分の言葉が面白くなったのか腹を抱えて笑った。
人の不幸を心底待ち望む嫌らしい顔でレオナールの周りを飛び、時折その耳に口を寄せて何事かを囁いてさらに笑っている。何かを言われるたびにレオナールが目に見えて落ち込んでいくのが分かり心配になった。
「フェアリー、あまりレオ兄をいじめないでよ!」
「何言ってんのかねこのお子ちゃまは! コイツは責められるのにコーフンするからいいんだよ!」
「レオ兄傷ついてるじゃないか!」
「あぁ美しい兄弟愛、ってか? 他人のクセにな~! そもそもそのラウムって名前も嘘臭いよな? お前コイツに気に入られたいから嘘吐いてるんじゃねーか? それを信じてるコイツもコイツだけどよ! よっよっ! どーなんだよ! 嘘吐きなお子ちゃまちゃんよぉ~!」
「僕はラウムだ! 口の悪いお前がレオ兄を困らせるから注意してるんだろ! 少しぐらい何か良いこと言ったりとかしないの!? ほんっと性格悪いよねフェアリーは!」
「人間如きが俺に注意~? きゃはははは! うざすぎ! たかだか数年しか生きてない人間が森の番人であるフェアリーにお説教ってか! 燃やしちまうか!」
「フェアリーやめなさい! ラウムも!」
フェアリーの機嫌が悪くなったのを見てレオナールが二人の間に入り仲裁する。
フェアリーの視界に入ったことで次の標的はレオナールに代わる。口汚く罵るフェアリーは止まることなく、粛々と、時折唸りながらレオナールはそれを甘んじて受けた。それを見た少年はたまらずにレオナールを庇った。
それが何度か続き、レオナールは二人の相性の悪さに溜息を吐いた。
***
棒のようだった手足に肉が付き、体調が戻りつつあるラウムはレオナールの後ろをついて回った。それは唯一の庇護者である男に置いてかれるのが怖いという本能的な部分もあったが、純粋に村の外での生活が新鮮であったからだ。
各地を旅しているレオナールに話をねだると色々なことを語って聞かせてくれた。
旅の話は少年の冒険心を駆り立て、自身もその話の中の一人になりたいと思うのはそう遅くはなかった。
その気持ちをレオナールに正直に話せば、親切な男は「では、近くの村に行きましょうか」とほほ笑んだ。村という言葉に最初は怯えたが、レオナールが言っている村はどうやら契約者が管理している村ではないことが分かり恐る恐ると頷く。
二人が住んでいる小屋から歩いて一日のところに、海に近い場所に村があった。
そこに連れて行ってもらい初めて見る海に衝撃を受け、その村の人間が食べているという魚団子とやらを食べて少年は経験したことのない事に満たされる気持ちだった。
レオナール以外の人間が怖くて村の人間たちとはほとんど話すことはなかった。村の人間が近くにいると少年は急いでレオナールの後ろに隠れてやり過ごす。そのたびにフェアリーがレオナールとラウムを指さして腹を抱え品無く笑った。
村の観光が終わり小屋に戻った後もラウムの興奮は冷めなかった。
じりじりと身の内から湧き上がる気持ちを持て余し、レオナールが外に出ようとするとその後ろをついて回ろうとする。それが何度も続くと流石にレオナールもラウムを諭した。
「ラウム、お前はまだ本調子ではないから狩りには連れて行けませんよ。小屋で待っていなさい」
「でも……、レオ兄と一緒にいたい」
「私もです。ですが今の状態でついてきても怪我をするだけです。大人しく待っていなさい。……できますね?」
「…………うん」
「んで俺にお子ちゃまのお守りをしてろって? ……キャハハ! 行って来いよー! タノシクして来いって!」
「……フェアリー、仲良くするんですよ」
「ゲッ! ガキに言い聞かせる口調で言うんじゃねーよ! 鳥肌物! キャハハハ!」
フェアリーの口の悪さに顔を強張らせたレオナールはそれ以上何も言わずに小屋から離れた。
その背中を未練がましく見送りながら、ラウムはフェアリーと一緒に待っていなければならない時間を憂鬱に思った。誰でもそうであるだろうが、ラウムはフェアリーのことが苦手だった。
レオナールのことを好き勝手に言うのもそうだが、フェアリー自身もラウムのことを良く思っていないことが分かるのが嫌だった。
人に気に入られるよう振舞ってきた少年にとって、最初から良く思われていない状態というのは居心地の悪いものがあった。改善をしようにも口を開けば罵詈雑言、意思疎通はできるが否定の言葉ばかりの者に対してどう気に入られればいいものか。
大人しく小屋に戻り、ラウムに割り振られた部屋の中で退屈そうに宙を浮かぶフェアリーを眺めた。
「あ? なんですかねー? だーいすきなおにいちゃんがいなくなってさびしーいお子ちゃまが、俺を見てなーに考えてんだか。あいつとセイヘキ同じだったり? ウゲー!」
「……ねぇ、フェアリー。この前、そのセイヘキの意味教えてもらったけど、……本当なの? レオ兄は……その……」
「あーん? 俺が嘘を言うとでも? お前ら人間は嘘ばっかで汚いクセして小綺麗に飾っちゃってるのが普通だから俺の言葉も嘘だって思うってわけ? バーカ!」
フェアリーとの会話の大部分はレオナールの事に関してだった。
その中で気になる言葉や意味を教えてもらっている内に、フェアリーがたびたび含む言い方をしているものについての事が分かり始めていた。直接答えを教えてくれないフェアリーに焦れる気持ちはあったが、ラウムはそのことで悩んでいた。
「……大人って、みんなそうなの?」
「はぁ? 人間全般がそうなんだよ。嘘吐きめ!」
「ちがうよ、嘘の方じゃなくて……。その、……」
「……フヒャ! 多感なお年頃ってやつですかー? 気になるんだったらやっちまえばいいんじゃないですかねー?」
「やっちまえば? でも……」
「ごにゃごにゃ言ってはっきり物を言えないお子ちゃまはもーおねんねした方がいいんじゃないですかねー? ウザッ」
「ま、待って! フェアリー!」
下を向いて言葉を濁し続ける子供の相手が面倒になったのか、フェアリーは開いた窓から出て行こうとする。それをラウムは止めた。ラウムが不安に思っていることは一つだった。
「その……、レオ兄に、嫌われないかな……?」
「キラウ? 嫌うって? キャハハハッ! アレがお子ちゃまを? そりゃもう喜び狂いますよー!」
ラウムの言葉に興味を示したフェアリーは身体を反転させて子供の周りを飛び始めた。
今までフェアリーが自分の傍に寄ってきたことが無かったので、驚いて周りを飛ぶ光を目で追う。
「で、で、やんのかよお子ちゃま!」
「…………う……」
「お前さー、何返せんの? 今も食べものを運んでもらって守ってもらって、お前は何もしてないですよねー? このままだと捨てられたり?」
「レオ兄はそんなことしないだろ!」
「わっかんないぜ? 旅の邪魔だし、お前が本調子になったらあの村に置いていっちまうかもよー! そのためにあの村に行って慣らしてたりー?」
「それは……」
「俺達がずっとこんなところにいるわけないだろぉ? 甘ちゃんなお子ちゃまですねー」
少年の耳に顔を寄せてそう囁く。
ラウムは少しずつ下を向き、服の裾を握りしめた。
頭の中で打算と葛藤が巡り、少年が育った村での事を思い出してふとどうでも良いような気持ちになった。耳障りな声で笑うフェアリーに目を向けて少年は「……やる」と小さく呟く。
それにフェアリーは心底楽しそうに手を叩いて笑った。