少年は部屋の中でそわそわと自身の手の平を開いたり閉じたりを繰り返していた。兄が帰って来たらどうするかを考え、本当にいいものかどうかと自問自答をして顔を歪ませる。意味もなく部屋の中を歩き回り、兄が直して綺麗になった家具たちを見てはドキリとする。
フェアリーはそんなラウムのことを気にかけずに窓の縁に留まり外を眺めて今か今かと待っていた。フェアリーは面白いことが好きで、レオナールが困ったり羞恥に苦しんでいるのを見るのが好きだった。彼ら契約者と人ではない者は繋がっている。フェアリーにとって人間の持つエゴというもの、感情と呼ばれるものの振れ幅や葛藤が殊更に興味深いものであり自身を刺激する甘い酒のようなものだった。
レオナールが動揺するたび、苦悩するたび、悲しみ喜び、何かに執着したり怒りを発したりと、不規則に乱れる情緒の波を感じるのに蕩けるものを得、蜜を吸うが如く際限なく欲した。
待ち遠しいものであり、今すぐにでもレオナールを呼び出してしまいたい欲が止まらない。昔のフェアリーなら即物的に求めていただろうが、今はこの時間を楽しむことを覚えていた。人間の考えがすぐに変わることを知っているため、ラウムの気が変わるのが気掛かりではあったがそれに発破をかけられる自負がフェアリーにはあった。
子供なんて簡単なものだ。
ラウムは窓の縁に腰かけて外を眺めるフェアリーの大人しさが気になったが、それよりもと頭の中を巡るものを反芻する。少年は、ラウムという名前を名乗る前にいた村でのことを思い出していた。その村でのことを思い出すと嫌な気分にはなるが、学んだこともある。それを必死に呼び起こす。
少年は自分自身でもよく分かっていなかった。何故フェアリーの言葉に乗ったのかも、どうして村での嫌なことを再度繰り返そうとしているのかも、まるで自分の事が分からなかった。
それでも少年にはそうしなければならない、という強迫観念染みたものがあった。そうしなければ大人に嫌われてしまうだろう。大人に嫌われた者の末路など、と村を出る最後の瞬間に聴こえた子供たちの悲鳴が思い起こされてどす黒い感情が胸中をかき乱した。
僕は悪くない。悪くない。
何一つ、悪いことはしていない。
そう自分に言い聞かせ続ける。
目を瞑って堪えているとどれだけの時間が経っていたのか、小屋の扉が開いた気配がしてレオナールの声がした。
ラウムはすぐさま帰って来た兄の下に向かう。
部屋から飛び出してきたラウムにレオナールは驚いたが、出迎えてくれたのが嬉しかったのか少しはにかんで「ただいま」と言った。
「お、おかえりなさい……」
「ラウム、魚を獲ってきましたよ」
「魚……?」
「えぇ。村で食べた魚団子、美味しかったでしょう? 海で獲れるものとは違うから風味は変わるかもしれませんが、作ってみようと思いまして」
「また食べられるの?」
「そうですよ。油も買ってきましたし、調理方も村の者に聞きましたからね。あとは私の腕次第、ですかね」
玄関口のすぐ近くにある炊事場に魚を入れた篭を置き、レオナールはおどけたように自身の二の腕を誇示する。それにラウムはふふっと笑う。その空気の動きにレオナールは優しく笑みを広げた。
ラウムの胸で渦巻いていたどす黒い感情はいつの間にか霧散していた。レオナールの言うことが、その笑みが、その優しさが少年の不安をかき消した。こんなに優しいレオ兄が自分を捨てるはずがないと信じれるものがあった。
もう少し経てば日が落ちてしまう時間帯。早速調理に入ろうとしているレオナールの背中を見て、ラウムはこのままでいいかと思い直した。このまま……。
「オイオイなにぼーっとしてんの? ラウムちゃんはやっぱり甘ちゃんですねー。アレを信じんの? ダメダメぜんっっっぜんダメ」
少年の耳元にフェアリーが口を寄せる。それにびくりと身体が跳ねた。
「なー俺教えたよなー? 言葉のイ・ミ。アイツがお前をどんな目で見てるのかお前分かってんだろォ? 分かってるよなぁ。アイツが求めてるモンが分かってんだろォ?」
フェアリーはレオナールに聴こえないようにか、常には無い小さな声でラウムの耳元で囁き続ける。
「このまま兄弟ごっこか? いつまで続きますかねー結局のところお前は赤の他人ですしーただただかわいいかわいいされるだけの子供なんてよーお前じゃなくてもよー! ……いっぱいいるんだぜ?」
キヒヒと笑いを抑えた声が聴こえる。
自分以外の子供。村の中にいた要領の悪い連中のことが思い浮かぶ。
あれらと比べて自分が劣っているとは思わない。
自分以外の子供がこの親切で優しい大人に可愛がられているのを考えて、少年の胸中に先程とは違った種類の感情が渦巻いた。
嫌だと思った。自分以外がレオナールの傍にいるのは嫌だと明確に思った。
「……ね、レオ兄」
「? なんですか、ラウム」
「こっちに来て」
「……?」
魚を篭から取り出していたレオナールは少年の呼び声に振り向く。
レオナールが振り向いたことに満たされる気持ちがあった。手招きしてラウムは自身の部屋にへと兄を誘う。レオナールはそれに首を傾げながらも篭に魚を戻してラウムの言う通りについてきた。
ラウムは自分の部屋に入った。レオナールはなんの疑いもなく部屋に入り、フェアリーがその横をするりと通り過ぎる。すぐにラウムは部屋の扉を閉めた。
「ラウム? どうかしたのですか?」
少年の行動の意味が分からずに眉を下げて問いかける。
そんな兄の姿にラウムは笑ってしまった。今ここで「やっぱりなんでもない!」と言って扉を開けてしまいたくなった。
だがその考え以上に嫌なものがあった。
自分は他の子供とは違って、レオナールに愛されるし愛することもできる。
他の子供たちとは違って、少年はなんでも知っていた。
レオナールはラウムの纏う空気が変なことに流石に気付いていた。
じっとりとした妙なものであることも分かっていたがその理由が分からない。起因しているものも分からずに、ただ少年が何か言うのを待つしかなかった。
ラウムは緊張に汗ばむ両手の平をレオナールの太腿に乗せ軽く押した。
太腿に少年の手が触れた瞬間、不穏にゆるりと緊張していた空気が張り詰める。
少年は空気が変わったことを敏感に感じ取りびくりと身体が震えた。
ラウムの眼前には逞しい下半身があり、布地に覆われた太腿があり、その上に乗る自分の手の平がある。自分とは違った逞しい大人の身体だ。頭上では息を呑む音、ごくりと喉が鳴る音、微かな呼吸音が聴こえた。
いつものラウムならここで顔を上げてどうしたのかと問うていただろう。
だが今はそれができなかった。
フェアリーに言われた言葉が頭の中でぐるぐると廻っている。
それを確かめるために行動をした。
ラウムは震える手でさらに押した。大きな身体はまるでラウムの力が恐ろしいものであるかのように従い、後ろにへと歩を進める。歩が進んだ分だけラウムは距離を詰めた。
図体の大きな男を自分の手で動かせていることにラウムの気分は上を向き始める。
レオナールの背がとうとう壁に追い詰められ、ラウムはそこでようやく顔を上げた。
レオナールの口元は引き結ばれ、困惑しているようだった。
それを見てそっと自身の頬を眼前の太腿に寄せる。上目で兄を観察していると、ヒュッと息を呑んで混乱しているのが見てとれた。
その表情は目まぐるしく移り変わり、最終的に壮絶な痛みを堪えているような顔になった。
眉間に刻まれた皺やひくつく頬、荒く肩で息をするレオナールの姿に気分が良くなった。
いつも自分を守ってくれているレオナールを自分は追い詰めている。
人に親切で優しくて他人の為に動く彼の意識が自身に注がれていることに喜びを覚える。
ラウムの口角は人知れず歪んだ。
太腿に乗せていた手を膝裏に差し入れ、引く。
「レオ兄……座って?」
何度も喉を鳴らし、耐えるように歯を食いしばっているレオナールを見上げて『おねがい』をする。
人の可動部を押されたとはいえラウムの力ならいくらでも抗えるはずなのに、ずりずりと壁をこすって床に腰を下ろした。
立てられた足の膝頭に手を置き開かせ、その空いた空間に身体をするりと滑り込ませる。
いつもは遠い顔が目の前にあることに一際胸が高鳴った。
両手を伸ばして輪郭をなぞる。包み込むようにして頬、顎、と恐る恐る触れた。毎朝きちんと剃られているが、夕暮れ近くになると細かな髭が生えていた。ざらざらとした感触、短く吐き出される吐息。苦悶の表情を浮かべるもラウムに従順に従う兄の姿に身体の内側から湧き上がる衝動があった。
その感情はレオナールに褒められた時に感じるものと似たようなものであり、それよりも激しいものだった。
滅多に自分に触れてくれない兄が唯一触れてくれる場所。「いい子だ」と頭を撫でてくれるのが嬉しくて、ラウムは褒められる毎に貪欲になっていった。
ラウムが嬉しく感じるものは、兄も嬉しいのだと言う。ならきっと、ラウムが兄にされて嬉しいことは、兄にも嬉しいことなのだろう。それならばきっと、兄だって褒められたら嬉しいはずだった。
ラウムは頬を揉んでいた手を兄の頭に移動させた。いつも兄がそうしてくれるように軽く数度叩いてぐしゃりと髪の毛を撫ぜる。そしてラウムが言われて嬉しいことを言った。
「……よくできました。いい子、だね」
「……ッ!」
空気の塊を吐き出して何も言えずに首を横に振る兄の姿。
大きく無骨な手がラウムの横を迷う手付きで掻いている。
何かに耐えているレオナールに心が揺さぶられる。
「レオ兄、触らないで」
ラウムの身体を掴もうとする両手がびくりと震えた。
「そのまま手を下ろして」
少年の言葉に素直に手が下ろされていく。両手の平が上を向いた状態で床に投げ出される。それを見て笑みを深めた。
「レオ兄、僕に触らないでね。……嫌がらないでね。僕は、レオ兄のこと大好きだから……」
心臓がばくばくと音を立てている。
レオナールの服に手を伸ばし、胸元を締める紐を解いていく。
「ラ、ウム、何を……やめ、なさい……」
「……プッ! キャハハハ! ちげーだろ! もっとやってくださいだろォ~!」
「フェアリー……! まさか、……ッ!」
こらえきれなくなったのか腹を抱えて笑い出したフェアリーにハッと顔を向けるレオナールに、ラウムは面白くなかった。紐を寛げて前を開く。下には薄手の布があった。手を這わせて布越しに感じる温かさに目を細めた。
「嫌ならいくらでも抵抗したらいいだろォ~? それをしないってことは! キャハハハ! 良かったですねレオナールさん! あんたの可愛い可愛い弟ちゃんが慰めてくれるってよ~!」
フェアリーの言葉に首を振るレオナール。
ラウムはそんな兄の様子に確信した。
自分はレオナールに対して何をしても許されるのだと。