母親に手を引かれて暗い場所を歩く。
母親の前には見知らぬ男が歩いている。その後ろを灯りを持った母が追随する。
男の足取りは時折ふらついていた。酒を飲んでいるからだろう。母の足取りは重く、そんな母を見上げる少年の足も鉛のように重かった。
できるのならばこのまま自分が母の手を引き男が向かう先とは別の場所に逃げてしまいたかった。
それができないのは重々承知だった。
声に出さずに嫌だと何度も訴える。母の表情は暗闇の中で何も見えなかった。灯りがあるにも関わらずにその顔は黒い。
陽気な歌が聞こえる。男が調子はずれの鼻歌を歌っていた。
男が扉をくぐり、母が一瞬立ち止まる。
扉の先から母を呼ぶ声が聞こえ、少年は掴まれた手首の痛みに呻いた。
母が歩き始める。……嫌だった。
※※※
嫌な夢を見た。
じっとりとした汗が体に纏わりつき妙な息苦しさに喘ぐ。
震える唇からか細く息を吐き出し、少年は自身が見ているものをようやく認識し始めた。
……木目の天井が見える。
大きく見開いた目で木目をなぞり、ゆっくりと時間をかけて胸元をきつく握り込む自身の手の存在に気付く。突如眠りから引き摺り上げられ混乱をする少年は、さらに時間をかけて自身が今ベッドの上にいることを知った。
ばくばくと大きく跳ねる心臓の煩さと苦しさに大きく呼吸をする。
何度も呼吸を繰り返して落ち着きを取り戻して来た頃、少年はようやく外部にへと意識を割く余裕ができ首を巡らして周囲に目を向けた。
「……?」
少年が今いる場所は見慣れた自室だった。
開かれた木窓から温かな陽射しが差し込んでいる。椅子や机、戸棚と一つ一つ視界に収めていき、静かな朝の空気に紛れ込んだ音に耳を澄ませた。自然の中に住まう動物たちの声ではない何かの音。
ゆっくりと顔を傾けて窓の方を見やり、その音の正体を探る。
あれは、あの甲高い声はフェアリーの声じゃないか?
その声を引き金に、自分がレオナールにしたことを思い出した。
「……レオ兄!」
勢いよく体を起こす。
少年はいてもたってもいられずベッドから這い出した。
フェアリーの甲高い声は途切れることなくひたすら何かを詰るよう聞こえていた。
窓から外を見て辺りを見回す。小屋を囲む木々が見えるばかりで目的の人は見当たらなかった。
ラウムは逸る気持ちのまま窓から身を乗り出して外に飛び出た。
裸足であることも気にせずに声が聞こえる方に駆けて行く。フェアリーの声が近付き、中空に浮かぶその姿を遠目で視認する。フェアリーは一本の木の周りをぐるぐると動き回っていた。嫌な声が響き、時折指をさして馬鹿にしたように笑い転げる。
その動きはよく見知ったものだった。あれは兄のことを馬鹿にする時のフェアリーの動きだ。
フェアリーは途中からラウムの存在に気付き、少年を指さして笑う。
気にせずに木の傍に駆け寄り、裏側にいるであろう兄の名前を呼んだ。
「レオ兄!」
「…………っ」
少年の考え通り、木に凭れて座り込む兄の姿があった。
レオナールは近くにある少年の顔に怯み身を引いて距離を取ろうとする。
その反応にラウムは怒りに似た衝動を覚えた。咄嗟に手を伸ばして兄の両頬を包み込む。過剰に身体を跳ねさせるレオナールの、整えられずに伸びている無精髭が少年の柔らかな手の平に痛みを与えた。
「逃げないで」
「……ラ、ラウム……私は……」
「よーよー! レオナールお兄さんどうですかね柔らかなお手ての感触は! そのまま引っ掴んで頬擦りしちまいたいですよねー! んで近くにある唇を貪っちゃって泣かせてやりたくて仕方がないんですよねー! キャハハ! オラオラ頼んでみろよ情けない声で「お願いしますもう一度私の×××を慰めてくれませんか」ってさぁー! キャハハハハ!」
フェアリーの言葉にレオナールは苦悶の表情を浮かべ、震える吐息を吐いた。逃げようとする兄を追いラウムはさらに体を寄せる。
「おっ、もう一度おっぱじめるか? 今度は最後までヤっちまえよ! かわいい弟ちゃんが寝てる間に妄想したことをそのままヤっちゃえって! キャハハハ! そいつもそれを望んでるんだってよ「おにいちゃん僕を見て」ってさぁ!」
「ラウム……私は……わ、わたしは……」
姦しく喚くフェアリーの声はよく響いた。
頬に添えられた少年の手に、震える大きな手の平が触れるか触れないかの寸前で留まっている。
ラウムは苦悶に歪む兄の顔をじっと見つめていた。
フェアリーの言葉がずっと聴こえる。
少年が寝ている間にしていた妄想とはなんだろう。
……そのことが分からないほど少年はお綺麗ではなく、少年の胸中は数多の感情が渦巻いていた。
感情の処理が追い付かず兄に対してどういう言葉を吐くべきだろうと考えている最中、兄が少年の手の平から抜け出して行動を起こした。
レオナールはラウムから体を離すと、打ち付ける勢いで地面に頭を擦りつけた。
「……え?」
「ラウム、申し訳ありません……っ!」
兄の行動に理解が及ばず、ラウムは呆然と兄を見下ろした。
今の兄の姿は、両手を地面につき顔を擦りつけている状態だ。無防備な背中と後頭部にラウムは虚をつかれる。兄は一体何をしているのだろう? とふとした疑問に覆いかぶさるようにレオナールの大きな声が響いた。
「私は、あなたに酷いことをしました。兄として許されない、いや人として許されないことです!」
「ッぷ、キャハハハ! うわ情けねー! 見てみろよお子ちゃま! これがお前の尊敬してたおにいちゃんの姿だぜしっかり焼き付けておけよー!」
「怖かったでしょう、わ、私は自身の欲望に負けてあなたを傷つけて、許されないことを……っ」
「泣いてる弟の声に興奮してたんだよなお前はー! 「やめておにいちゃん!」「やだっ」「はなして!」って泣き喚いてる弟の声が忘れられねぇんだよなぁ! きっもちわりぃんだよ!」
「……っ! ラ、ラウム、私が、したことは許されないことです。ですが、ゆ、許されるのなら……」
「おーおーコイツまだ自分が「許される」と思っちゃってるみたいだぜ? キャハハハハ! 許してボク悪く無いんです! 悪いのはボクの」
「ラウム! も、申し訳ありません……っ!!」
「キャハハハハ! モウシワケアリマセンモウシワケアリマセンって馬鹿の一つ覚えみてぇに鳴きやがってよォよォ! 本当にそう思ってんのかよーよー! キャハハハ! バーカバーカ!」
酷い状況だった。
レオナールの悲痛な謝罪の言葉に被せるようにしてフェアリーの横やりが入れられる。内容は聞き苦しいものであり、ラウムの心に嫌悪が広がっていく。兄の情けない姿を少年はただただ見つめていた。
その後も兄は自身のしたことを詫びる言葉を並べていく。
弟の傷ついたであろう心を慮り、自身の非を認めて何度も謝り、そのたびにフェアリーが兄の謝罪を台無しにする言葉を吐く。
本当に酷い状況だった。
静かな森に響く声が雑音にしか聞こえなくなってきた頃、ラウムは自身の胸に湧き上がるものに気付いた。嫌悪とないまぜになったそれは喜びだった。
自身よりも立派な背丈を持つ「男」が非力な存在である自身に謝っている。
全面降伏の体勢で少年に許しを請い、自分の声を待っている。
……それは酷く興奮するものだった。
いまだに謝り続ける兄の前に膝をつく。
近くの気配に兄の体がびくりと震えた。……その反応が、少年の心を満たしていった。
「レオ兄……顔をあげて?」
「……ラ、ウム……」
「あのね、……僕、レオ兄のことを、……許さないから」
「……っ」
乾いた舌をなんとか動かして少年は言葉を吐いた。
知っている兄の顔よりも随分と老け込んだように見えるその表情は、絶望の色に染まっていた。
その頬に再度を手の平を添えてさらに言葉を続ける。
「許さないから、……だから、これからは僕の言うことを聞いてね?」
「は……」
「僕が許すまで僕の傍にいて、言うことを聞いて、僕のご機嫌伺いをしてね」
「そ、れは……?」
「い、いい子に……してたら、ご褒美をあげる」
戸惑いに揺れる表情。ちくちくする頬をゆっくりと撫でながら、ラウムは必死に言葉を搔き集めた。
時折唇に親指を添えてなぞる。ひくつく感触に寒々しい気持ちを覚え、唾を飲み込んだ。
「ラウム……?」
「返事は」
「え……?」
「はい、わかりました、ありがとうございます、は?」
「ラウ、ム……」
「ックヒャヒャヒャ! 良かったじゃないですかオニイサン! ラウムちゃんは一緒にいてくれるってよお前みたいな奴の傍にさぁ! あーさむさむ! さっむいこと言っちゃってお子ちゃまがよく頑張りまちたねぇキャハハハ!!」
野次を飛ばすフェアリーの声を無視して頬を撫でる。
兄が答えるまでは耐えなければならない。震えそうになる手をなんとか抑えつけてゆっくりと撫で続ける。顔には微笑みを貼り付けて、じっと兄の顔を見続ける。
早く答えろよ。
いまだに困惑の表情を浮かべている兄にイラつく。
早くしろ。
頬を撫でる手が徐々に力を帯びていく。
このまま爪を立ててやろうかと思い始めてきた頃に、レオナールは震える声で「……はい、わかりました、ありがとうございます」と言った。
途端に弾けるように響くフェアリーの面白くて仕方が無いという笑い声。
ラウムは兄の言葉に深い満足を覚えて息を吐いた。