車の免許を取った花音の弟くんがドライブデートでおねえちゃんに誘惑される話 作:脳みそゆでゆで
風呂からあがり、自室へ戻ってくる。もう丸二年はこの部屋を使っていないはずなのに、ホコリが溜まっていることもなかった。俺がいない間も、掃除してくれていたのだろうか。
背もたれの綿が見えたおんぼろの椅子に、腰かけてみる。
すると――ふいに高校時代の記憶が蘇った。
学習机の引きだしを漁ってみると、やはり後輩からもらったラブレターがあった。こんな俺でも、慕ってくれた女の子がいたのだ。その時、俺はこの椅子に座って、頭を抱えて真剣に返答に迷っていた。
同級生から羨ましがられるような、二つ返事で受けるべき相手だった。なのに俺はけっきょく、断ってしまった。今では青くて苦い記憶だ。でも今さらどうしようもない。当時の俺は別の女性とのことで、深刻に悩んでいたのだ。
――スマホが鳴り始めた。例によって、先輩である。
『……』
「無言電話なら、きりますよ」
『だってぇ、松原がどこにも連れてってくれないから……』
「そうは言っても、今年は実家に帰るって前から言ってたじゃないですか」
『うう……』
べそをかき始めた。そりゃ、俺だって遊びに行きたいけど。するとなんだか罪悪感が湧いてきた。俺は明日、のんきに姉貴とドライブに行くのである。
「な、夏は。夏は絶対約束します。一緒に鎌倉行きましょう、ね?」
『あたしはさぁ~、来年シューカツなんだよ~っ、今のうちから目いっぱい遊ばなきゃいけないろ~っ、ちょっとでもはやいとこ遊びたいろ~っ』
急に声のボリュームがデカくなって、俺は思わず受話器から耳を離した。ろれつが回ってない。酔ってやがるな。ヤケ酒でもしたのだろうか。
「あの、ごめんなさい、ホント」
『松原のバーーーーカ!』
通話が切れた。耳にキーンと甲高い音が残る。ああもう、気持ちは分かるけど、ちょっとぐらい俺の事情も汲んでくれたっていいような。
「今、いいかな?」
振り向くと、部屋の入口に姉貴が立っていて思わず飛び上がった。最近暑くなってきたから、扉を開けたままにしてあったのだ。
さっきの話も、たぶん聞かれたよな。
お風呂あがりですっぴんの姉貴は、高校の頃の面影を強く漂わせていた。ただし、ルームウェアは女子っぽくなっている。ガーリッシュなやたらとモコモコしてるやつで、太ももやふくらはぎがむきだしていた。前はもっと庶民的だったのだ。
「あ、ああ。いいけど」
その白さに目を奪われそうになり、罪悪感が生まれる。
「じゃんっ、こんなの見つけちゃったんだ。一緒に見ない?」
背中に何か隠してるなと思ったら、分厚い本のようなものを出してきた。
「何それ、アルバム?」
姉貴は頷く。さっきのことは、どうやらスルーしてくれるらしい。
「……」
ちょっと逡巡したあと、俺は姉貴の思い出めぐりに付き合うことにした。
ずいぶん古ぼけたアルバムで、まだ俺が幼稚園とか小一の頃の写真が貼りつけてあった。一目で興味を引いた。
「二人ともちっちゃいね~」
たしかにちっちゃい。そして、あんまりにも姉貴の泣き顔を写した写真が多い。
「これ見てみろよ、姉貴また泣いてるぞ。あっ、この写真も」
いちいち取り上げてからかってみたけど、姉貴は懐かしむように微笑むばかりだ。拍子抜けする。余裕のあるお姉さんって感じだ。
「ふふっ、これ見て。かな君、また変な顔してる」
一方ちっちゃい頃の俺はというと、舌をべろりと出したり、頬の皮を引き延ばしたり、いわゆる変顔で写っている。それを指さして、姉貴は面白がっていた。
「俺って、こんなお調子者だったっけなぁ」
「あっ、この写真も。懐かしいなあ……」
その変顔写真に姉貴は目を細めて、うっとりとした微笑みを浮かべた。慈愛という言葉が浮かんでくるような、ムズがゆくなる表情だ。子どもが好きだから、だろうか。直接向けられたものではないものの、写真のなかにいるのはやはり俺なので、ヘンな気持ちになる。
机にひじをついて、写真を眺める姉貴の身体から、ふいにほのかに甘い体臭を感じた。俺は写真に集中した。
今度は、浴衣の写真が出てきた。
背景に写りこんでいる神社が、地元のものではないのが気になった。でも、どこかで見覚えのある景色だ。
周囲に鬱蒼と生い茂る竹やぶ。参道に並んだ屋台。やたらと懐かしい記憶が蘇ろうとする。
そのうちの一枚に、今は亡き田舎のおじいちゃんが写っていた。泣きじゃくっている姉貴をなだめている。それで記憶が、一気に氷解した。
「そうだ、ここって姉貴が迷子になった場所だ」
「そうそう。田舎のお友達とかくれんぼしてたら、迷子になっちゃったんだよね」
姉貴はもう思いだしていたらしい。当事者だしはっきり記憶してるのかな。
ただでさえ迷子がちな姉貴が夕方の神社でかくれんぼするなんて、今思えば自殺行為だ。案の定というべきか姉貴は、神社の周囲の森、いわゆる鎮守の森に迷い込んでしまったわけだ。
その時のことはよく憶えている。
姉貴を見つけたのは、俺だった。竹林の奥から姉貴の泣き声が聞こえてくるのを頼りに、胃袋が口から飛び出るくらいに「おねえちゃん」と叫びまくった。
「だんだん辺りが真っ暗になってきて、どうしようって思ってた時に、かな君の声が聞こえてきたの。すっごく安心したなあ。かな君はあんな暗いところまで探しに来て、怖くなかった?」
「お、憶えてないよそんなこと。懐中電灯でも持ってたから、大丈夫だったんじゃないの?」
適当にごまかす。「動かずに待っていろ」って大人たちに言われたのに、姉貴を探すんだと言って聞かなかったことや、それで親父が同伴するという条件で捜索メンバーに加わったことなど――いろいろあったけど、ぜんぶ憶えていないふりをする。
ある意味、黒歴史だ。こんなことを姉貴に教えるわけにはいかない。
ところで、またも俺が変顔をしている写真が出てきた。
ただ今度はカメラに向かって変顔しているのではなかった。泣いてる姉貴に向かって、変顔を見せていた。俺は姉貴を笑わせようとしていた。迷子の後、どうしても泣き止まない姉貴を。
「あ……っ」
この黒歴史は、憶えていなかった。
「あ、思いだした? このときだけじゃないんだよ。かな君はね、私が泣いてるといつも変な顔して、笑わせてくれたんだ……」
そりゃいい話だ。だが俺にとってはとんだ羞恥プレイだ。当時の俺は、姉貴を守護する騎士みたいなつもりだったらしい。暗闇の中を探しに行けたのも、そんな役目を背負っていたおかげだろう。
――そして、次の写真。
頬に涙を残した姉貴が、唇を軽く突きだして、俺のほっぺたにちゅーしていた。
それは俺が生涯忘れもしない、そして忘れようとしていた、一番美しい瞬間だった。
まさか、撮られていたなんて――。
珍しく姉貴は、写真の中で嬉しそうにしていた。
本来ならこれは姉貴にとっても黒歴史のはずなのだが、そういうそぶりはほとんど見せてくれない。そのせいで、俺ばっかりが恥ずかしくなる。
「あの時は、みつけてくれてありがとうね♪」
耳の近くでそう囁かれて、ビクッと肩が跳ねた。
すっかり大人の女性になった姉貴が、化粧水か何かできめ細やかな肌をツヤツヤさせた姉貴が、濡れた髪の毛を耳にかけながら、はにかんでみせる。
「ふふっ、かな君、この時と同じ表情してるよ?」
鳩が豆鉄砲でも喰らったように目を丸くしていて、耳まで真っ赤ということだ。
その夜は悶々とした。目を閉じているとさっきの「ありがとう」って囁き声が蘇って、なかなか眠りに就けなかった。俺は何度も姉貴の「ありがとう」という言葉を聞いてきた。
今日、久々に聞いた。それは過去の記憶よりもずっと、甘いものだった。
おとなしく目を開け、仰向けになって天井を眺めた。すると、なにやら果実のような甘酸っぱい匂いがした。
姉貴の残り香だ。甘い匂い。いつからこんな匂いをさせるようになったのだろう。
ズキリと胸が疼いた。行き場のないこの想いは、まるで幼い頃の初恋みたいだった。
そう、頬に口づけられた瞬間、姉貴に抱いた感情と一緒だ。
*
翌朝、姉貴が身支度が終えるのを、俺は先に車のシートに腰かけて待っていた。手持ち無沙汰にスマホをいじって、目的地の観光情報なんかを調べている。
でも、内容が全然頭に入ってこない。びっくりするくらい手汗が滲んで、スマホがべとべとしてきた。
姉貴と一緒にドライブするだけ。先輩と行くわけではない。朝から何度も自分にそう言い聞かせてる。なにそわそわしてるんだよ。
しばらくして、姉貴が小走りでガレージに向かってくる足音が聞こえてきた。カツン、カツンという高いヒールの音だ。
「ごめんねっ、おまたせ」
俺はそのギリギリまで、スマホとにらめっこしていた。物音で集中が途切れた風を装って顔をあげる。ドアが開き、姉貴が身をかがめて助手席に乗り込んでくるところだった。
「……っ」
心臓が跳ねる。ノースリーブのニットから剥きだしている二の腕の白さが眩しい。準備に時間をかけただけあって姉貴は昨日よりも入念にめかし込んでいて、大人っぽいオーラがぐっと濃く漂っていた。
「そ、そんな、気合い入れなくってもいいのに……軽いドライブのつもりなんだからさ」
とっさに揶揄っぽい感想を口にしようとしたけど、つい委縮して声が震えた。
「えぇっ。せっかくだし、目いっぱい羽根を伸ばそうよ? ね、いいでしょ?」
「まあ、運転しながら考えるけどさ……」
「それにかな君だって、結構いいお洋服なんじゃないの、それ? ちゃんと丁寧にアイロンもかかってるし。気合入れてきてくれてるんだ?」
「これは、持ってきたのがコレしかなかったってだけで……」
我ながら分かりやす過ぎる。
さりげなく姉貴は後ろ髪をかきあげて、耳を見せた。白い耳たぶに耳飾りが光った。
反対側の髪の流れは、なだらかに肩へ落ちたままだ。やけに色っぽい。
「それでまずは、どこ行くの?」
「あっ、えっと……」
目が合い、姉貴が意味深に微笑んだ。見惚れてしまっていたことに気づかれたかもしれない。慌てて目的地までの経路案内を設定した。カーナビなんて贅沢なものは持ってないので、スマホのアプリだ。
エンジンをかけ、ハンドルを握る。
「んしょっ、と」
姉貴がシートベルトを留める時、ベルトが谷間に食い込むのがうっかり見えてしまった。――不思議な磁場が発生し、視線を胸元に吸い寄せようとする。慌てて俺は前方を見るのに神経を集中した。しっかりしないと。こんなんで事故を起こしたら、シャレにならない。