※この作品はR-18です。

六三四の剣、轟嵐子十八歳の夜   作:江崎栄一

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○四 路地裏のキス

 気が付けば人通りの少ないところまで歩いてきてしまった。ネオンサインはまばらになり、周囲から雑踏の足音はもう聞こえない。二人の顔を照らす光は弱くなっていた。

「あはは。わたすとすたことが、つまらねぇ方向に向かって歩いてたみたいだなっす……。戻るべ、六三四」

 私が明るい方に向かって歩き出そうとすると、六三四が手を掴んだ。指が食い込み、痺れた感覚が腕に走る。その力に暴力的なものを感じた。

「わ! 何を……」

 そのままぐいっと引っ張られ、体が反転した。その両肩に六三四の手が置かれた。

「これだけはわかってけろ。オレ……オナゴさ抱いたことはねぇよ。好きなのはよ……おめだけだ、嵐子」

 曇りのない瞳が私を見つめている。

「六三四……」

 これは本当だと思った。こんな真剣な顔をしながら嘘をつくなんて、六三四のような不器用な男にできるはずがない。

 世の中には、女をモノにするために涙を流して嘘をつくような卑劣漢がいることは身を持って知っている。

 一方の六三四は、私の知る限りもっもと嘘をつくのが苦手な人間だ。十歳の頃からずっと一緒に過ごしてきた六三四が嘘をついたところは見たことがない。

 もしも六三四が嘘つき男だったら、私はとっくに手篭めにされていただろうし点…。

「わ、わたすだって男に抱かれたことなんてねぇ! あんた以外の男なんて考えられねぇっす!」

 私は嬉しさのあまり、つい声を荒げてはしたないことを口走ってしまっていた。まるで六三四に抱いて欲しいと言っていると捉えられても仕方がない。こんな静かなところで、誰に聞かれているかわからないのに。

 六三四の腕を振り払おうとすると、肩を掴む指に力が込められた。両腕は鉄のように硬直し、私の動きを完全に封じていた。

「なあ、嵐子……。あの時の続きさしていいか?」

「あの時?」

「雪が降る夜だ。オレたちキスさしようとしたことがあったべ……」

 一年前。私が六三四のことを異性として意識し始めた時のことだ。私たちは二人で雪山を歩いていた。雪の下に隠れた木の根に足を取られて転んだ私を抱き起こした六三四に、つい私から「キスさしてみねぇか」と持ちかけたのだ。

 お互い合意までしたのに、どうすればいいのかわからず、結局未遂に終わってしまった幻のキス。あの時に勇気を出してキスしておけば良かったと今でも後悔している。

「あったな。よっぐ覚えてるよ……わたす」

 胸が高鳴った。

 辺りを見回す。細い路地が目に入った。街灯の光も差し込まない暗闇。私の視線に気づき、六三四もそっちを見た。

 六三四は私を見下ろす。目があった。その瞳の中に情熱が灯っていた。遠くのネオンサインを反射して赤く光っている。

「嵐子……」

 私の鼓動はどんどん速くなっていく。

「うん」

 六三四の手が背中を押し、暗闇に向かって促す。私はゆっくりと歩を進めた。闇に包まれてしまえば、六三四の自制心を抑えるものは何もなくなるだろう。

 私たちは光の届かない路地裏に滑り込んだ。

「いいか?」

「六三四……キスしてけろ」

ーー 遂に六三四とキスさするんだ……。

 インターハイを終えてから付き合い始めておよそ半年。勉学に集中するために当面は不純な行為はしないことにしていたから、十八歳同士の男女だというのにまだキスもしていない。

 剣道ばかりに高校生活を使っていたため私たちの学業成績は最悪だったから、仕方ないと思っていた。

 だから私たちは一緒にいながらも、身体を触れ合わせたり愛を語り合ったりなどということはしてこなかった。今までのように剣友であり、そして受験勉強を助け合う友としていつも一緒にいることにした。

 頭でそう決めたとしても、体は割り切れるものではない。熟れきった身体。好き合った相手と四六時中一緒にいて見つめ合っていては、内から溢れ出る欲求にいつまでも耐えることなど不可能だろう。

 浪人することを決めた今、受験まで約一年の猶予ができた。これで気を緩めるわけではないが、あと一年も二人の仲を進展させないなどということはできないと自覚していた。

 暗闇の中で、六三四は私の両肩を抑えた。

「嵐子。オレ……おめのことが好きだ。ずっと大切にする!」

 六三四は眼をかっと開いて力強く言う。わざわざ愛を囁いてからキスしようというところに誠実さを感じた。そして、どこか懐かしくも思った。今私は六三四を見上げているが、まだ二人の眼の高さが同じくらいだった頃にもこんなことがあった。

 犬の子っこを六三四から貰い受けたのに、私の不注意から死なせてしまった時だ。泣いても怒っても仕方ないと、六三四は私を慰めた。

 その時に聞いた六三四の身の上話もよく覚えている。自分は死んだ父への悲しみを堪えて、思い出を胸に、その父のような強い男になるために頑張っていると言った。

 その時に私たちはそれぞれ、岩手の虎と呼ばれた六三四の父、東北の鬼ユリと呼ばれた六三四の母のような強い剣士になることを誓ったのだ。

 その二人は夫婦として結ばれていたのだから、実はあの時に私たち二人が男女の仲になる約束をしていたことになるのかもしれない。

「六三四……わたすもあんたが好きだっす……大事にしてけろ」

 私は上を向いたまま目を瞑り、唇から力を抜いた。ほとんど時間を空けずに、六三四の唇が重なった。まるで初めからすぐ目の前にあったかのよう。

「ん……」

ーー わたすは愛されてるんだ……。

 六三四に背負われて登った展望台。そこから二人で一晩中見つめていた盛岡の夜景。私たちは今、その光の渦の中で口づけをしている。喧騒から僅かに離れた路地裏にはほとんど人の声は届かず、二人の呼吸と衣擦れの音だけが聞こえていた。

 初めて味わう淡い快感が胸の内に広がっていった。それを更に高めるように六三四は激しくキスを続けた。唇で、激しく唇を噛む。肩を掴んでいた手を背と腰に回し、力強く抱きしめた。私も六三四の背中を抱いて応えた。

ーー ファーストキスがこれだったら良がったのに……。

 そう思いながら六三四に身を任せた。キスは苛烈さを増していく。強く口を吸い、熱い息をかけ合い、舌を絡ませ合った。雑誌で見たことのある、フレンチキスという奴。私も夢中になっていた。

「嵐子……」

 六三四が口を離して言った。荒い息をあげて肩を上下させる。目付きは真剣なままだがどこか虚になっていた。

「六三四……」

 私は弱々しい声で答えた。不思議なことに足腰から力が抜け、六三四の支えがなければ立っていられない状態になっていた。六三四を見上げると、私の眼から涙が溢れた。

「嵐子……泣いてるのけ? すまねぇ、オレ何か悪いことすちまったかな」

「そんなことねぇっす……ただ嬉しくて涙さ出ちまったんだ」

 私は鼻をすすりながら笑って六三四を見上げた。優しくて、どこか寂しげな表情で六三四は見下ろしている。

「オレ、もう一度キスさしてぇ!」

「してけろ……あんたの気の済むまで、好きなようにしてけろ!」

 言い終わった直後に六三四は唇に吸い付いた。私の言葉でタガが外れたようだった。一度目とは違い、初めから激しかった。舌で唇を割り、強烈に口を吸う。求める度に前歯が当たり、カチカチと音がする。幼い気さえした。

ーー 六三四は剣のこと以外は何でも素人なんだ。

 剣道で高校一の腕前を誇る六三四も、意外と他のことは下手だったりする。勉強は言わずもがな、野球やテニスなんかはやる気があれば上達しそうだが、バットやラケットを振るばかりで競技に集中することもない。

 そんな男だから、たとえ女に興味があっても、その扱い方を考えるなんてことは今までになかっただろう。スマートなデートの仕方、女の楽しませ方、キスの仕方……身体を触ったり、その先のことも。

「好きだ、嵐子! オレ、我慢してたんだ。ずっとこうしたかった!」

 六三四はキスを終えて私を抱きしめた。私の身体はのけ反り、背骨が軋むほど固く拘束された。耳元で六三四が荒い息を立てる。

 私の息もあがっていた。決して六三四のキスが下手で呼吸ができなかったというわけではない。私も興奮していた。こんな情熱的に抱きしめられるのはもちろん初めてだし、何よりそれをしているのが六三四だからだ。

 今までは受験勉強が大事だと言って、二人とも気持ちを抑えていた。とめどなく内から溢れ出る情熱や欲望を吐き出す先もない。溜まった鬱憤を剣にぶつけるしかなかった。毎日疲れ切るまで素振りをした。だけどもう我慢の限界が来ていた。

ーー キスするくらい問題ねぇ。

 私は六三四に身体を預けたままにした。屈強な腕が背中を抱く。分厚い胸板に顔が押し付けられる。その胸板が速いリズムで大きく上下する。六三四の興奮を身体で感じた。

 徐々に胸の動きが小さくなり、呼吸が落ち着いていく。情熱はエスカレートすることなく、こうやって想いを確認することによって少しは落ち着いたのだろうか。かく言う私もこれだけはっきりと好きだと言われて安心した。

「嵐子……嬉しいぜ」

 六三四は甘えるように呟いた。

「六三四……わたすもあんたにこうすて欲しかったんだ。あんたに求めて欲しがったんだ!」

 身体を包む腕から力が抜けた。私は少し身体を離して、六三四の顔を見上げた。いつにも増して優しく愛情のこもった顔だった。

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