Prélude
10歳の誕生日,ボクに個室が与えられた。父がボクに語りかける。
「今日から,ここがジュンの部屋だ。あとで,お姉さんお部屋から自分の持ち物を運んでおきなさい」
「もう,お姉さんの部屋に入っちゃいけないの?」
「いけないわけじゃないけど,机があるんだから自分の勉強はここでしなさい。それと,ベッドもあるから,今日からここで寝るんだよ」
「お姉さんと一緒に寝ちゃだめなの?」
父は首を横に振る。
「どうして?」
「ジュンは男の子だから,もう10歳になったから」
「どうして,男の子は10歳になったらお姉さんと寝ちゃいけないの?」
父はまた黙って首を横に振る。
「それから,お風呂も一人で入るんだよ。お姉さんと一緒じゃなくて」
「どうして?」
「だって,ジュンは男の子なんだから」
ボクは理解する。問うても無駄だということ。〔どうして,男の子はお姉さんと一緒に寝てはいけないの? どうして,男の子はお姉さんと一緒にお風呂に入ってはいけないの?〕と問うても,誰も答えてくれないこと。
その頃,姉のミユキもボクが一緒に遊ぶのを避けるようになった。
「お姉さん,ボクのこと,嫌い?」
「嫌いなわけないじゃない」
「じゃあ,どうして一緒に遊んでくれないの?」
「だって,ジュンは男の子なんだから,ほかの男の子と一緒に外で遊びなさい」
ボクは男の子たちの世界にはなじめない。それまでミユキと一緒になじんでいた世界,優しく上品で美しい世界とはかけ離れた粗野な世界だったから。それでも,ボクはミユキを困らせないよう外に出る。そして家の周りを散歩する。福岡市からバスで20~30分くらい。住宅地が途切れて農村に移り変わるあたりにボクのうちはあった。ちょっと歩けば田んぼや畑,小川や池がある。そんな風景の中をボクは一人で歩く。10分,20分,30分くらい。そして部屋に戻る。外に出てもボクがほかの子たちと元気に遊んでいるわけじゃないことをミユキも知っていたはずだけど,ボクを叱ったりはしなかった。
幼い頃から,ボクはいつもミユキと一緒だった。ミユキと一緒にお風呂に入り,ミユキと一緒に寝る。ミユキのお下がりを着てミユキと同じように肩まで髪を伸ばし,いつも女の子に間違えられた。自分でも女の子と思っていたのかもしれない。うちに遊びに来るミユキの友人たちに混じっておままごとをした。プラスチック製のおもちゃの包丁やまな板,鍋やフライパンで料理を作ったり,作った料理をプラスチック製の小さな食器に盛ってお客様役の友人たちに勧めたり。時には,ミユキがお母さん役,ボクが子供役になり,ミユキの膝に頭を乗せて眠るふりをする。友人たちはボクの髪を撫でながら「かわいいね」と言ってくれる。そうしているうちにほんとうに眠ってしまうこともあった。
やがてミユキたちが小学生になり,2年生,3年生になると,ままごと遊びはすたれていった。ボクは部屋で本を読むようになった。1学年上のミユキと一緒にいて,ボクは小学校に入学する前から字を覚え,小学校に入学する頃には子供向けの本は読めるようになっていた。本を読むことでさらに漢字も覚え,より難しい本も読めるようになり,ますます読書が好きになった。同じ部屋にいたミユキは何をしていたのか? 記憶がはっきりしない。でも,一緒に遊ばなくても,ボクはミユキと一緒の部屋にいるのがうれしかった。たまにミユキの友人たちが遊びに来ると,本を読むのをやめてミユキたちの遊びに混ぜてもらうこともある。そうでなくても,彼女たちがいろんな遊びをしたりおしゃべりしたりしている傍らで本を読んでいた。もっと静かな部屋に行って読もうとは思わなかった。騒々しくても,ミユキと同じ部屋にいる方が好きだった。
母は,ボクが3歳の時に死んだらしい。母の記憶はまったくない。ボクの古い思い出の中でも,家事は通いの家政婦さんがやっていた。ミユキが料理を手伝うようになったのはいつ頃だろう・・・・ボクがまだ個室を与えられる前だから8歳か9歳頃のこと? 一緒に料理をしたくて
「ボクも手伝うよ」
と言ったら,許してもらえた。
ボクはミユキと一緒に何かをするのが楽しかった。何でもよかった。それが料理なのは偶然のこと。でも,ボクはじきに料理が好きになった。初めのうちは火を使ったり包丁を使ったりするのは「危ないから」といってやらせてもらえなかったけど,やがてフライパンで炒めるとか野菜を切るという仕事もやらせてもらえるようになった。そして,簡単な料理なら家政婦さんに手伝ってもらわなくても作れるようになった。目玉焼き,卵焼き,焼きそば,ナポリタン・スパゲッティ,野菜炒め・・・・。
個室を与えられ,ミユキと一緒に寝ることを禁じられ,ミユキと一緒にお風呂に入ることを禁じられるようになっても,一緒に料理をするのは許されていた。それがうれしくて,ボクはいろんな料理を作った。家政婦さんに教えられて,あるいは料理の本を読んで。
いつだったか,ミユキが
「ジュンはわたしより料理がじょうずね」
と褒めてくれた。
「そんなことないよ。お姉さんの方がじょうずだよ」
とボクが答えると,ミユキはボクの肩に手を置き,黙って優しい眼差しをボクに注いだ。その眼差しがうれしかったから,ボクは〔また褒めてほしい〕と思った。褒められることそのものがうれしいんじゃない。褒められて,ボクが「お姉さんの方がじょうずだよ」と言って,それでミユキがボクを優しく見つめくれる,それがうれしいから。
家政婦さんが実家の事情でボクのうちに通うのを辞めることになったのは,ミユキが中学に入学するちょっと前。父が,新しい家政婦を探すのも大変だと言ってるのを聞いて,ボクは
「ご飯はボクが,ボクたちが作るよ」
と言った。ミユキも
「うん,ジュンは料理がうまいよ。わたしも手伝うし」
と言う。父はちょっと驚いた表情でボクたちを見る。
「そうしてくれるなら,ありがたいが,ほんとうに大丈夫か?」
「大丈夫よ」
とミユキが断言する。ボクもうなずく。
「じゃあ,お願いしよう。だが,大変そうならいつでもそう言うんだよ。無理してはいけない。いいね」
と父は念を押した。
それから,ミユキと二人で食事の支度をするようになった。朝はトースト,卵(目玉焼き,オムレツ,スクランブルエッグ),野菜サラダ。昼は,ボクたちは給食,父は外食か出前。晩は,学校から戻ったボクたちがその日によっていろんな料理を作った。家政婦さんのいないキッチンでミユキと二人で料理を作るのは楽しく,うれしかった。
その年,ミユキは中学に入学した。翌年,同じ中学にボクも入学した。その町の中学校では,男子は丸刈りが規則だった。「ぜったい似合わない」と思ったけど,規則に逆らう勇気はなかった。中学に入学し,丸刈りになったボクを見てミユキは思わず笑った。悲しかった。
「あっ,ごめんね,ジュン。笑ったりして。3年間の我慢だよ。高校生になれば,また髪を伸ばせるから」
ミユキは,悲しませてしまったのを悔やむように,ボクを一生懸命慰めてくれる。
丸刈りのボクはもう女の子に間違えられることはない。その代わり,優しい顔立ちを「男のくせに女みたいだ」とバカにされた。幼い頃からミユキたちと一緒にいることで身についたていねいな言葉遣い,しとやかな立ち居振る舞いもバカにされた。言い返そうとは思わない。何を言っても分かりはしないとボクは思う。上品なものや優雅なものをバカにする田舎の中学の男子たちに何を言っても分かりはしない。ボクは誰とも付き合わず,誰とも友達にならず,ただ本を読みふける。
読書に没頭するボクは,知らぬ間に「物知り」になっていた。中学に入学して最初の試験,1年生の1学期の中間試験で学年1番だった。1学期の期末試験でも,2学期の中間試験でも。
11月中頃,紅葉のきれいな晩秋の頃,父が死んだ。学会からの帰りに乗った飛行機の事故。突然すぎて悲しみを感じることができないまま,お葬式はごく内輪で済ませた。告別式は11月の終わり頃に歯科医師会の人たちが仕切ってくれた。告別式を終えて家に戻った時
「これからは,二人で暮らすのよ」
そう言ってミユキはボクを優しくハグしてくれた。何年ぶりだろう,ミユキがこんなふうにボクを抱いてくれるのは。頬に触れる髪の感触が心地よい。髪の匂い,肌の匂いも懐かしい。幼い頃,一緒に寝ていつも感じていた,空気のように当たり前にボクのそばに存在してた匂い。ボクはそれを丹念に味わうようにゆっくり息を吸う。
ミユキの温もりに触れながら,父がもういないこと,ボクたちが孤児になったことがやっと実感される。寂しいとは思わない。ボクのそばにはミユキがいてくれるから。これまでと同じように,二人でご飯を作って,二人一緒に学校に行く。それはこれからも変わらないはず。
ミユキは中学2年生,14歳。ボクは中学1年生,まだ誕生日が来てないから12歳。父の貯金と事故の賠償金で,ボクたちが大人になるまで不自由なく暮らせるくらいのお金はあった。
「これからは,二人で暮らすのよ」
・・・・うん,ボクたちは二人で暮らすんだね。これからずっと一緒に。
Ⅰ
父が死んで歯科医院は閉院した。待合室にあるステレオセットでボクはレコードを聴いている。父が趣味で集めていたレコード。モーツァルト,ヴィヴァルディ,クープラン。そしてジャズのレコード。読書に疲れ,散歩にも出かける気にならない時,ボクは待合室でレコードを聴く。モーツァルトのピアノソナタやピアノ協奏曲,ヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲,クープランのクラヴサン曲集・・・・それから,ジャズバラード。“You’d be so nice to come home to”,“Fly me to the moon”,“Sentimental journey”,“It’s only a paper moon”,“Misty”,“Blue canary”・・・・英語の歌詞に惹かれ,父が持っていた英和辞書で単語を片っ端から調べて意味を勝手に想像した。時おりレコードにあわせて歌うこともある。ミユキに聞かれると恥ずかしいから,そっとつぶやくように小さな声で。
待合室でレコードを聴いているボクにミユキが話しかけたのは年の暮れの頃。
「わたしたち,引っ越すかもしれない」
ボクはびっくりしてミユキを見る。
「二人で住むにはこの家は広すぎるでしょう。病院の設備だって使わないのはもったいないし。だから,歯科医師会に相談して,ここを買って開業してくれる歯医者さんを探してもらっているの」
「見つかったの?」
「うん。まだ確定してはいないけど,見つかりそう」
「いつ引っ越すの?」
「できれば,来年の3月」
「来年の3月?」
「3学期の期末試験が終わったら」
「ふーん」
「市内に引っ越そうと思ってるの」
「じゃあ,転校するの?」
「そうよ。ジュンは転校したくない?」
「別に・・・・」
転校したくないなんて,思いもしない。ボクを「女みたいだ」と言ってバカにする同級生たちに何の未練もない。
「市内の中学は男子も髪を伸ばしていいんだって。だから,ジュン,また髪を伸ばせるよ」
そう言って,ミユキはボクを見る。ボクもミユキを見つめた。
診療所付きの家を買ってくれる人は1月のうちに見つかった。そして3月上旬,期末試験が終わった翌日,ボクたちは引っ越した。吉塚駅から東公園に向かって歩いて5分くらいの2DKのアパート。中学は東公園を突っ切った向こう側にある。
4月の初め,ボクは中学2年生のクラスで担任教師から
「転校してきた高村順くんです」
と紹介された。同じ頃,ミユキは
「転校してきた高村御幸さんです」
と紹介されていたはず。
その日から,ボクとミユキは毎日一緒に公園を横切って中学に通った。まだ県庁が天神にあった頃,東公園は今よりずっと広かった。ちょっと時間に余裕を持って部屋を出て,公園を散歩するようにゆっくり歩いて通学した。桜が満開の花を咲かせていた。桜が散るとツツジ,そして藤棚から藤の花房が垂れるようになる。でもボクが一番気に入っていたのは大きなバラの花壇,勝手に“Rose Garden”「ローズガーデン」と名付けていた。四季折々にいろんな品種のバラが咲く。脇のテラスからそれを見下ろすように眺めるのが好きだった。
ミユキは新しい学校でもすぐに人気者になった。いつもそうだった。小学校でも中学校でも。美人で明るくて気が利いて,誰からも好かれる人だった。ボクは1学期の中間試験で学年1番になった。田舎の中学からの転校生が学年トップになって,驚かれもしたし,「田舎者のくせに」と陰口をたたかれもした。陰口には慣れている。以前の中学でも「女みたいなくせに」と陰口をたたかれていたから。だけど,いじめられることはなかった。たぶん,人気者のミユキちゃんの弟だから。以前の中学でもそうだった。ミユキは,もうボクと一緒に遊んではくれないけど,それでもボクをかばってはくれた。
1学期の定期試験では学年で2番だった。1番はボクの知らない女子。その子はボクに対抗意識を持っているみたいだった。ボクは試験の順位にあまり関心がない。もともと人と競い合う意識が薄かったから。人と係わることに興味がなかったから。それより,本を読む方が好きだし,楽しかった。
夏休み。ボクは中学の図書館ではもの足りなくなって,須崎公園にある県立図書館に通って本を借りるようになった。まだ福岡市内に路面電車が走っていた頃,公園を通り抜けて千代町(ちよまち)の電停から循環線で市民会館前まで乗るか,一番近い電停から貫通線で県庁前まで乗って,そこから須崎公園まで歩くか。どちらにしても,日中の日差しを避けて日が傾く頃に出かけた。
長い夏休みが終わる頃,ボクの髪は耳を覆うくらいに伸びていた。そして,私服を着て歩いていると,また女の子に間違えられるようになった。うれしかった。県立図書館で女の子に間違えられた日,うちに帰ってミユキに話した。
「ねえ,ボク女の子に間違えられたよ」
ミユキはボクに優しくほほえんでくれた。
11月頃には,ボクの髪は肩に届くほどに伸びていた。この頃,学校で女子たちの会話を立ち聞きした。
「高村クンって,女の子みたいでかわいいよね」
「うん。ピーターみたいね」
ピーターというのは,その頃デビューした中性的~女性的な美貌で人気を集めた美少年タレント。そのピーターにたとえられたのがうれしくて,ボクはまたミユキに話した。
「学校で,女子たちがボクのことをピーターみたいでかわいいって言ってた」
ミユキは喜んでくれた。
「うん。ジュンはかわいいんだよ。丸刈りの時だってかわいかったけど,髪を伸ばせば女の子みたいになってもっとかわいいよ。それが分かる女の子もいるんだよ,都会の学校には。田舎の学校と違って。田舎と都会では美意識が違うの」
ミユキの言葉にボクはハッとした。
「ひょっとして,引っ越したのはボクのため?」
「えっ?」
「だって,家を売って小さなアパートに移るだけなら,あの町に残ってもよかったでしょう。それを,こっちに引っ越したのは,ボクのため? ボクが『女みたい』とバカにされないで『女の子みたいにかわいい』とほめられるようになるため?」
ミユキは笑って何も答えない。ボクは,きっとそうなんだと確信した。〔ありがとう。ボクも何かお姉さんを手助けしたい〕心の中でつぶやいた。
初めて中洲の路地を歩いたのは,その年の暮れ頃。ミユキと一緒に映画を見に行った帰り。ふと,中洲の街中を覗きたくなった。西日本で指折りの歓楽街,バーやキャバレーや小料理屋がひしめくように建ち並んでいる。夜は人で賑わう中洲の路地も昼間は閑散としている。路面電車通りに沿って映画館が並ぶあたりに人出があるほかは,人通りはまばらで,野良犬が飲み屋の前に出されたゴミをあさっている。そんなうらぶれた景色になぜか心惹かれる。夜になれば,きれいに化粧した女の人がきれいなドレスや着物を着て歩いているんだろうな・・・・。
それからも,ボクは一人で時々昼間の中洲の路地をあちこち歩くようになった。夜に中洲の街を中学生が歩いていると補導されたかもしれないけど,昼間なら何も言われない。日差しの下,寝ぼけたような路地のたたずまい。ちょっと時間が遅くなると,営業の準備を始める人たちの出入りを眺めることもある。それもまたおもしろかった。
翌年,ミユキは吉塚から2駅区間電車に乗って通学する高校に進学した。二人で作った朝食を摂り,一緒に部屋を出て駅の手前の交差点まで一緒に歩く。ボクはそこでミユキを見送って,引き返して中学に向かう。一人で通り抜ける公園。ちょっと寂しかった。
ボクは中学3年生,高校受験の年。志望校は福岡高校に決めていた。地元の人が「ふっこう」と呼ぶ学区で一番の名門校だけど,ボクにとっては部屋から歩いて15分くらい,公園に寄り道してのんびり歩いても20分くらいで行ける通学に一番便利な高校でもあった。
夏休み前の模試ではほぼ確実に合格と判定された。それで夏休みは,受験勉強はほどほどにして英語を集中的に勉強した。ジャズの英語の歌詞をちゃんと理解したかったから。県立図書館で高校レベルの英文法や英作文の本などを借りて読んだ。そうやって勉強した上でジャズの歌詞を読み返すと,思わず笑ってしまいそうな誤解をしていた箇所がいくつもあった。それと,英語で文章を組み立てるのがおもしろくなった。ふと思い浮かんだこと,日常のささやかな出来事,読んだ本の感想などを英語で綴ったりした。
2学期,3学期はこともなく過ぎ,3月上旬に入学試験。
入学試験が終わって2~3日した頃,ミユキから相談を受けた。
「ジュンは英語が得意よね」
「うん」
「実はね・・・・」
ミユキは英語が苦手だった。高校1年の英語の成績が思わしくない。英語の教師から,「このままでは英語の単位を出せない。春休みになる前にノート1ページ分くらいの英語の日記を書いて提出しなさい」と言われた。でも,英語が苦手だから単位を落としかけているのに,ノート1ページ分の英語の日記なんて書けるはずがない。それで,ボクに代筆を依頼した。
「うん,いいよ。お姉さん日本語で日記を書いて。ボクがそれを英語に訳すから」
ミユキは2日後に日本語の日記をボクに渡した。ボクは1日かけて英語に訳した。ミユキの役に立てるのがうれしかった。それだけでなく,英語の文章を組み立てるのが楽しかった。
合格発表の日,ボクはミユキと一緒に福岡高校に出かけた。すべるとは思っていなかったけど,掲示板にボクの受験番号を見つけて,やはり安心した。帰り道,ボクはミユキに語りかけた。
「お姉さん,ふっこうに歩いて通えるから今の部屋にしたの?」
「まあ,それもある。ジュンはぜったいふっこうに行くと信じてたから」
「でも,お姉さんが高校に行くには不便だよ」
「不便というほどじゃないよ。たった2駅,10分もかからない」
「それでも・・・・」
ボクは心の中で〔ありがとう〕と言った。言葉にできなかったけど。
ミユキと一緒に高校の制服を買いに行く。中学の制服はミユキに任せていた。今回はボクも行く。この頃,ボクは身長がミユキに並んだ。体格は華奢でミユキより細いくらい。この華奢な,少年と言うより少女のような体つきに愛着があった。この体型に似合うできるだけ細身の学ランを買うつもりだったから,今回はミユキに任せずボクも出かけた。なるべく細身の学ランがほしいというボクに店員さんは
「高校生になると体格もよくなりますよ」
と語る。普通の男子のようにがっしりした体格に憧れていると勘違いしたらしいその店員にボクは
「ぜったい太ったりしません」
と断言した。ミユキはこの問答をおかしそうに聞いている。
店を出て,ミユキはボクに問う。
「ジュンは,今の体型のままがいいと思ってるの?」
「うん」
「でも,身長はもっと伸びる方がいいでしょう」
ボクはちょっと考えて,
「身長も今くらいでいい」
「どうして?」
「だって,お姉さんの服をボクも着れるじゃない」
ボクは「男」になりたくなかった。ボクにとって男になるということは,エレガンスと無縁になること,そしてミユキの世界から引き離されるということだったから。
中学生から高校生になる狭間の春休み,ボクは昼下がりの中洲の街を歩いていた。ふと見上げた袖看板,「姫」というお店の名前の脇に「シスターボーイの店」という言葉が目に留まった。シスターボーイという言葉は知っていた。男でありながら女のように美しくエレガントな人たち。このお店にはそんな人たちが集っているのかな?・・・・そんなことを考えながら袖看板を見上げていると,3階建ての建物の3階の窓が開いた。ボクはあわてて駆けだした。丁字路になっているその路地の突き当たりまで駆けて後ろを振り返ると,窓から誰かがこちらを覗いている。顔立ちは逆光線なのでよく分からない。ボクを見てるのかな?・・・・ほんの2~3秒そうやって見あってから,ボクは路地の角を曲がった。
高校の新学期。3月まで中学生だった子供が4月になったからといって急に何かが変わるわけではないけれど,でもやっぱり何かが違う。野蛮さが薄れた感じ。田舎の中学から福岡市内の中学に転校した時に感じたことだけど,それがもう1段階進んだよう。高校ならどこでもそうなの? それとも,いろんな中学から優等生が集まるこの高校だけのこと? どっちにしても,ボクにとってはうれしいこと。だけど,その一方で驚きもあった。同級生の中に,体格がたくましく,薄くひげが生え始めている人がいる。大人の男の人みたいに。ボクも何年かしたらこんなふうになるのかな? ボクは頭を振ってそんな考えを追い払った。
授業は,福岡でも指折りの名門校ではどんなに難しいんだろうと思っていたけど,思ったほどではない。ちゃんと聴いていれば理解できる。そして意外なことに,幼い頃からほとんど外で遊ばずテレビも見ず本を読んできたボクは,この学校でも「物知り」と認定された。「ふっこう」には,ボクくらいの物知りは掃いて捨てるほどいるだろうと思ってたけど,そうではないようだった。
この学校の生徒たちも中学の生徒たちとさほど変わりはしない。放課後,気のあった友人どうしでおしゃべりしている。その話題は同級生や教師のことでなければテレビの番組や芸能人のこと。そんな話の輪に加わらず,授業が終わればさっさと部屋に帰って本を読んでいるボクは相変わらず誰とも付き合わず一人だった。中学でも高校でも,変わることはない。
高校の始業時間は中学よりちょっと遅い。だから,吉塚駅までミユキを送った後に時間の余裕がある。ボクは公園に寄り道して高校に行く。
4月下旬。公園の藤棚の藤の花が咲き始めている。その下のベンチに腰掛けてボクは10分くらい本を読む。高校に入ったら英語の原書を読んでみようと意気込んで読み始めていたエミリー・ディキンソンの“Poems”。
藤棚の下で本を読んでいると
「高村クンおはよう」
と声をかけられた。
「ああ,岡田さん」
中学でボクと学年トップを競っていた女子。中学のそばに住んでいるらしいから公園を横切って通学するんだろう。
「のんびり本なんか読んでると遅刻するよ」
「まだ大丈夫でしょう」
と言いながら,ボクはペーパーバックの本をカバンに入れて立ち上がり,彼女と並んで歩きだした。ボクよりちょっと背が高い。体つきはボクと同じくらい細い。ショートヘアが似合っている。
しばらく黙って歩いていた彼女が
「あたし,ピーターが好きなの」
と口にした。
「ピーター・・・・ああ,きれいだよね。ボクも好き・・・・今,何歳くらいなんだろう」
「わたしより3つ年上だから,今年で19歳じゃない?」
「ふーん・・・・」
19歳くらいまでは,あの女性的な体型や顔立ちを保っていられるのかな?・・・・ボクは自分の考えに入り込んだけど,ふと思い出した。中学で女子たちがボクのことを「ピーターみたいにかわいい」と話していたこと。その女子たちの中に岡田さんもいたこと。
「岡田さん,ひょっとして,ボクが好きなの?」
彼女はきつい目つきでボクを見つめ,
「自意識過剰!」
と言って,急ぎ足でボクから離れて学校に向かった。
翌日,藤棚の下で本を読んでいると,岡田さんが通りかかり
「遅刻するよ」
と言って,さっさと学校に向かっていった。
そのまた翌日,
「高村クンはいつもここで本を読んでいるの?」
「藤の花の咲く頃はね。ふだんはローズガーデンのそばのテラスで読んでることが多い・・・・ああ,ローズガーデンというのはあのバラの花壇のこと」
「ふーん」
と言って,彼女はボクをおいて学校に向かった。
ゴールデンウィークが終わると,そろそろ1学期の中間試験が気にかかり始める。それはボクの高校でもミユキの高校でも同じ。それで,ミユキから相談された。
「学校で弟自慢をしてね,1年の英語の単位がかかった課題を弟にやってもらったって話をしたら,クラスの人たちから『そんなに頭のいい弟がいるんなら,英語の試験対策を一緒にやってほしい』と言われたの。大丈夫?」
「大丈夫って,どういうこと?」
「つまり,その子たちがうちに来るから,英語の分からないところを教えてほしいの」
「それくらいなら,別にかまわないよ・・・・あっ,でも,男子もいるの?」
「いないよ。女子が4~5人くらい」
「ああ,それはよかった」
ミユキは笑う。
「ジュンは男子が苦手なの? まあ,あの中学でいろんなこと言われてたからね。でも,こっちに引っ越してからはそんなひどいことは言われてないでしょう」
「そうだけど・・・・」
でも,ボクはやっぱり男子は苦手。
「まあ,いいわ。ともかく女子だけだから,安心していいよ」
ということで,次の日曜日,ミユキの同級生が5人やって来た。吉塚駅で待ち合わせて,ミユキに連れられて部屋に入ってきた彼女たちはボクを見るなり
「えっ? 妹さん? 弟って聞いてたけど」
ミユキは愉快そうに笑った。
「弟よ。しょっちゅう女の子に間違えられるけど」
「えーっ,ほんとうに男の子? かわいい!」
と口々に言いながら彼女たちは部屋に上がった。
5人分の椅子はないので,ダイニングキッチンのテーブルをミユキの部屋に片付けて,床に座ってもらう。ミユキを入れて6人が車座に座り,教科書や参考書のほか持ち寄った飲み物やお菓子を広げる。ボクは真ん中にいて,彼女たちの疑問,質問にてきぱきと答えていく。彼女たちの一人が,
「1年生なのに2年生の英語がちゃんと分かっているのね。弟ちゃん,かわいいだけじゃなくて頭もいいのね」
と感心したように語る。ミユキはうれしそうな顔をしている。ミユキが喜んでくれて,ボクもうれしい。ミユキの友人たちと共に過ごす時間。女子の世界。5~6年前まで身近にあり,それから失われてしまった世界。ボクにとって一番親しかった世界。それが戻ってきたよう,つかの間かもしれないけど。
勉強会は2時間くらいで終わった。
「フーッ,助かった」
「これで中間試験はばっちり」
などと語り合っている。そのうちの一人が
「弟ちゃん,高校に行く時は学ラン着るんだよね。着て見せて」
と言い出した。ミユキは苦笑いしながら,
「ジュン,まあ,リクエストに応えてあげて」
と言うので,ボクは部屋で学ランに着替えてきた。
「学ラン着ても女の子っぽいのね」
「なんだか,チアガールみたい」
と口々に語り合っている。ボクは,
「もう,脱いでもいい? 休みの日は私服でいたいから」
「ああ,うん,いいよ。ありがとう」
ちょうどお昼時。さすがに7人分の料理は作ってられないから,みんなで近くの食堂に食べに行くことになった。
「お菓子食べてて,ちゃんと昼ご飯も食べるの?」
と何気なく尋ねたら,彼女たちの一人が
「弟ちゃん,かわいい顔してずいぶんきついこと言うね」
と言って,ボクの髪をくしゃくしゃとかき回した。ああ,いいな,子猫がじゃれあっているようなこの感じ。ボクはうれしそうな顔をして彼女を見る。
「どうしたの? こんな時,たいていの男子は『何するんだよ!』と言って腕を振り払うでしょう・・・・あっ,そうか。弟ちゃんはふつうの男子じゃないのね」
ほかの人たちが笑っている。
「ジュンはふだんから間食しないからね」
とミユキが説明する。
「だからこんなに細いんだ」
と別の誰かが感心したようにつぶやいた。
食堂でミユキと友人たちはおしゃべりに花を咲かせている。そんな中で友人の一人がボクに話を振った。
「ミユキも美人だけど,それよりもっときれいね」
ボクをほめてくれているんだとは思うけど,ボクは
「そんなことないよ。お姉さんの方がボクよりずっときれいだよ」
と,ムキになって言い返してしまった。彼女はちょっと驚いた顔をして,
「・・・・うん,もちろん・・・・ミユキも美人よ。クラス一の美人」
と答えた。ボクは唇をかみしめてうつむいた。ムキになったことが恥ずかしかったから,そして,ミユキがボクほどきれいじゃないと言われたことが悔しかったから。
ミユキの高校でもボクの高校でも中間試験が終わった5月下旬,もうほとんど花の散った藤棚の下で本を読んでいて,ボクは岡田さんから話しかけられた。
「高村クン,30番以内だったね」
「うん」
福岡高校では,試験の後に学年で30番以内の生徒の氏名を張り出す。ボクは25番だった。ふだんはこれだけでさっさと学校に向かう彼女が,この日はそのままボクのそばに立っている。
「高村クン,以前わたしに『ひょっとして,ボクが好き?』って訊いたけど,自分はどうなの?」
「どうって?」
「高村クンは,わたしのことどう思ってるの?」
彼女は気の強そうな目つきでボクを見る。
「嫌いじゃないよ。嫌いなら,話しかけられても答えないから。でも,『好き』かどうか・・・・『好き』って,どういう意味なんだろうね? どういう状態を『好き』って言うんだろうね?」
「それは・・・・」
彼女も返事に困っている。
「・・・・たとえば,その人と一緒にいるのが楽しいとか,いつも一緒にいたいと思うとか,その人の顔を見たり声を聞いたりするとうれしくなるとか,手をつなぎたい,抱きしめたいと思うとか・・・・」
「そういうこと・・・・」
ボクは考え込む。ミユキと一緒にて楽しい,一緒にいたいと思う。ミユキの顔を見たり声を聞いたりすればうれしい。そして・・・・ボクはためらうように自分の考えを進める。ミユキと手をつなぎたい・・・・そう思う。ミユキにハグしてほしい・・・・そう思う。
ボクはうつむきながら小さなため息をついた。岡田さんは黙って立ち去った。次の日から,ボクはもう藤棚の下で本を読まず,ローズガーデンのテラスで読むことにした。