Ⅲ
4月になり,ミユキは調理師学校に通い始めた。始業が9時なのでこれまでと同じくらいの時間に起きて朝食を摂れば間に合う。朝食を終え,これまでとは逆方向,公園を横切るように歩いて最寄りの電停までミユキを送り,それからボクはもう一度公園を通り抜けて高校に向かう。
3年生になってクラス替えがあったけど,岡田さんとは同じクラスのままだった。ゴールデンウィークの文化祭にクラスで喫茶店をやる話が進んでいるらしい。
「高村クン,ぜひウェイターをやってよ」
と岡田さんから声を掛けられた。
「まあ,いいけど」
「ぜったいかっこいいと思うんだ。歩く姿がきれいだから。トレンチと言うのかな,お盆をもって歩く姿を見たいんだ。きっと評判になって繁盛するよ」
「どんなものを出すの? まさかお酒は出せないよね」
岡田さんは笑う。
「高村クン,時々突拍子もないこと言うね。お酒なんか出せるわけないでしょう。まあ,ジュース,コーラ,コーヒー,紅茶くらいかな。あと,女子たちがクッキー作ってきて出そうと張り切ってる」
「ジュースにクッキー? 口の中が甘ったるくなりそう」
「だいじょうぶよ」
まあ,余計な心配なんだろう。
「・・・・ところで,蝶ネクタイある?」
「蝶ネクタイ?」
「だって,ウェイターなら蝶ネクタイを締めないと」
「うーん・・・・みんなに声を掛けてみる。一人くらいいるでしょう,うちに蝶ネクタイがあるって子」
こう請け負った岡田さんは1週間くらいして
「ごめん。蝶ネクタイ,誰も持ってないよ。クラス40人,誰も持ってないなんて,そんな珍しいものなのかな,蝶ネクタイって」
それは,ボクにも分からない。
「というわけで,高村クン,蝶ネクタイはなしでお願い」
その週の土曜日,ボクは姫に電話した。
「ママ。ジュンです」
「あら,どうしたの? 1週間しかたっていないのに。もう会いたくなったの?」
「いや,そうじゃなくて・・・・お願いがあって・・・・ママのところに蝶ネクタイある?」
「まあ,あるけど」
「貸してくれない?」
「いいけど,何に使うの?」
「それは,会って説明するから。これから行っていい?」
「いいわよ。ドアの鍵,あけておくから上がっておいで。3階にね」
それから15分くらいして,ボクは姫の3階の居室に入った。ママが化粧しないで座って待っている。素顔のママを見るのは2年ぶりくらい?
「どうしたの? わたしがすっぴんで,がっかりした?」
ママが笑って話しかける。ボクも照れ笑いしながらママの前に座る。
「はい,ご注文の品」
と言って,ママはボクに蝶ネクタイを差し出した。
「それで,何に使うの?」
「今度,高校の文化祭で・・・・」
ボクの説明を聞き終えてママはほほえんだ。
「あんたのウェイター姿,見てみたいわね。わたしも,その喫茶店とやらに出かけようかしら」
「えっ?」
「だめなの?」
「だめじゃないけど・・・・」
「だめじゃないけど,迷惑?」
ボクはちょっと考え込んで首を振る。
「ううん。迷惑なんかじゃないよ」
「そう,じゃあ,ウェイター姿を拝ませてもらうわ。あたしは,どうしようか? すっぴんの方がいい,それともめいっぱい化粧して行く方がいい?」
そう問いかけながら,ママはじっとボクを見る。ママに見つめられて,ボクは無意識のように口が動いた。
「お化粧して,一番きれいな着物を着てきて」
ママはニコッと笑い,念を押す。
「ほんとうに,それでいいのね?」
ボクは黙ってうなずいた。
文化祭は土曜日と日曜日の2日間。土曜日の朝,ミユキのシャツブラウスの上に短めのベストを着て蝶ネクタイを締めたボクを見て,岡田さんは
「蝶ネクタイ,どうしたの?」
「知り合いに借りたの」
「ふーん・・・・ほんもののウェイターみたい」
と感心している。ほかの子たちもうなずいている。
「期待してるよ。ウェイターの高村クン」
ボクは期待に応えてきびきび動き回る。時おり,
「ボーイッシュでかっこいいウェイトレスさんね」
というお客たちの話し声が聞こえてくる。
その日,ママは来なかった。翌日,3時過ぎても現れない。〔4時までだということは話しておいたはずだけど〕と気をもんでいると,3時半近くになって現れた。高校の文化祭に場違いな,きちんと和服を着て日本髪のかつらをかぶった妖艶な美人。みんなの視線が集まった。ボクたちスタッフも,お客たちもその姿に注目する。ママはそんな反応を無視して店内を見渡す。あいにく,空いてる席は1つもなかった。
「あら,満席みたいね」
ボクは駆け寄った。
「相席でもよろしいですか?」
「あたしはかまわないわ」
そう答えて,ママはボクだけに分かるようちらりとほほえんだ。ボクはママを案内する。4人掛けのテーブルに1人でいるお客に
「ご相席お願いしてもよろしいですか?」
と声をかける。お客は緊張した表情でうなずいた。ママは彼女に艶然とほほえんで向かいに腰掛けた。ボクはママにメニューを見せる。
「お飲み物,何になさいますか?」
彼女は手書きのメニューをさっと見て
「じゃあ,紅茶をいただくわ」
「かしこまりました。クッキーセットもありますけど?」
と案内すると,ママはおかしそうに笑う。
「あら,ずいぶん商売熱心なウェイターさんね。じゃあ,クッキーも付けてちょうだい」
ボクは注文を取って下がった。
ママはゆっくり紅茶を飲み,クッキーをかじっている。その姿は「優雅」が和服を着て椅子に座っているよう。ボクを荒々しく押し倒し素股にペニスを押し込む人とは,想像できないくらい。
ゆっくり一口一口味わうようにのんでいてもカップ1杯の紅茶はいずれ空になる。カップが空になり,ママがそろそろ席を立とうとした時,ボクの隣にいるウェイトレスの女子が駆け寄った。
「すみません,写真を撮らせてください」
ママは一瞬首をかしげ,それからさっきと同じように艶然とほほえんで
「いいわよ。写真くらい。ただ・・・・」
ママは言葉を句切り,ボクを指さす。
「あのかわいいウェイターさんと一緒にね」
みんなの視線がボクに集まる。ママはボクににっこりほほえんでいる。ボクはママのテーブルに行き,空いている椅子をママの隣に並べ,座った。
「じゃあ,こっち向いて」
と女子が話すのをママは手振りで制し,ボクの方を向き,蝶ネクタイを整える。
「これでよし。さあ,カメラの方を向いて」
ボクは正面を向く。ママも。シャッターがカシャッと押された。
文化祭が終わると,福岡高校の3年生は本格的な受験モードに入る。
ミユキはボクと一緒に部屋を出て,同じくらいの時間に帰ってくる。それから学校の勉強の予習復習をして夕食をボクと一緒に作り,食べ終えて,夜7時頃アルバイトに出かける。帰ってくるのは11時過ぎ,終電で帰ってくる。ボクは風呂を済ませて待っている。帰ってきたミユキに
「おやすみなさい。お風呂,わかしてるよ」
とあいさつしてから寝る。ミユキは,
「わたしを待っていなくてもいいのよ」
と言ってくれるけど,ボクは待っていたい。
ゴールデンウィークを過ぎる頃から,週末,金曜日と土曜日の夜,ミユキの帰りが遅くなった。日付が変わって1時か2時,日によっては3時くらい。ボクは待っていられなくて寝てしまう。翌日,土曜日の朝はいつもと同じ頃に起きてくる。
「無理しなくていいよ。寝てていいよ。お姉さんは学校お休みでしょう」
「うん,でも習慣でこの時間に起きるの。大丈夫よ,お昼寝するから」
こんな会話を交わして一緒に朝食を摂り,ボクは学校に出かける。日曜日の朝は二人とも遅くまで寝ている。
「アルバイトは楽しい?」
「うん。わたし,意外と向いてるかも」
「意外じゃないよ。お姉さんは誰からも好かれるから。でも・・・・」
「ジュン,心配してるの? 大丈夫よ。学校の勉強を怠けたりしないから。ちゃんと卒業して調理師の免許取るからね」
ボクはそれを心配してるんじゃない。いや,それも気にはなるけど,一番心配なのは,ミユキが夜の世界,ボクの知らない世界,ボクの手の届かない世界に行ってしまうんじゃないかということ。それを一番心配している。
「ジュン,そんな顔しないの。大丈夫よ。お姉さんを信じれないの?」
「信じてるよ」
ボクはせいいっぱい明るい声で答える。
それからも,ミユキは月曜日から木曜日まではちゃんと11時過ぎに帰ってきてくれた。
夏休み。ミユキの学校にも夏休みはある。そして,ミユキはアルバイトから帰ってくるのが毎晩遅くなった。
「2学期が始まったらちゃんと月曜から木曜までは終電で戻るから。ジュンは心配しなくていいの」
と語ってくれる。それはウソではないと思うけど。それでもボクは寂しい。ボクは,ミユキの帰りを待つのを諦めた。捻れたような気持ち,やり場のない不満を抱きながら。
夏休み。ほとんどの3年生は志望校・志望学部を決めるために予備校の模擬試験を受ける。ボクも岡田さんも受ける。
模擬試験の結果,山口大学医学部は合格圏内に入っている。九大医学部はかなり難しい。そんな判定だった。岡田さんも同じ頃に結果が出て,同じような判定だった。
「それで,高村クンは山口大学に行くの?」
「うん。受かれば」
「わたしはやっぱり九大医学部を目指したいなあ。高村クンも九大を受けようよ。英語クィーンなんだから,数学をもうちょっと補強すれば九大医学部も合格圏でしょう」
「別に,そんな無理しなくてもいいでしょう。同じ医学部なんだし。卒業すれば国家試験を受けられるし,受かればちゃんと医者になれるんだから。ボクは医学部教授になろうとか大きな病院の院長になろうなんて野心はないから,学歴とか学閥とか,そんなものどうでもいいの」
「高村クンは野心がなさすぎる」
岡田さんは物足りなさそうな口調,そしてちょっと寂しそうな表情。
夏休みが終わる頃,ボクはミユキに
「今度の土曜日,友達のうちに泊まりに行ってもいい?」
と尋ねた。もちろん,「だめ」と言うはずはない。むしろ喜んでくれた。
「ああ,ジュンにもお泊まりするような友達がいるのね。よかった」
こんなに素直にボクを信じてくれるミユキにウソをつくのは,心が痛い。でも,毎晩ボクが寝た後に戻ってくるミユキに,微妙な感情もある。それが,ボクの心を後押しした。
土曜日,ボクはミユキと一緒に夕食を摂ってから出かける。
「お友達のうちで『晩ご飯一緒に』って言われなかったの?」
ボクは一瞬,答えに詰まった。
「言われたけど・・・・お姉さんと一緒に食べる方がいいから」
これもウソ。でも,「お姉さんと一緒の方がいい」というのは本心。
ミユキは夕食を終え,化粧している。初めの頃に比べるとずいぶんじょうずになった。ボクは,ちょっとおしゃれなジーンズにその夏買ったばかりのTシャツを着る。ノースリーブでセーラーカラーが付いている。ママは「普段着でいい」と言うけど,これくらいのおしゃれはしたい。
「そのセーラー服っぽいTシャツ,似合ってるね。とてもかわいいよ。どう見ても女の子だけど」
とミユキが言ってくれる。自分でも似合うと思う。
「じゃあ,ボクは出かけるから」
ボクはミユキよりちょっと先に出かける。ほんとうは一緒に行きたいけど,中洲で一緒に降りると怪しまれそうなので,ちょっとだけ早めに出た。
夜の中洲は昼間とは見違えるように賑やか。ネオンサインが灯り,店の前にきれいな女の人や黒服を着た男の人が立っている。そんな通りを歩くだけで,ボクは見知らぬ世界に入り込んだような気になる。市電を降りて5分くらい歩けば姫の前。ドアを開け,2階に上がっても誰もいないから3階に上がった。素顔のママが待っていた。セーラー服っぽいTシャツを着たボクを見て
「ほんとうに,何もしないで,そのままで女の子じゃない。羨ましいを通り越して,憎たらしいわよ」
と,ママなりの言い方で褒めてくれる。
「じゃあ,あたしは支度するから待ってなさい」
ママは鏡に向かって化粧を始めた。ふだんよりていねいに化粧している。
「ジュンのお披露目だからね。あたしもジュンの美貌に負けないように化けてやる」
そうやって化粧を終えて,ボクの方を向く。
「どお?」
ボクは思わず目を見張った。ふだんでも美しいけど,今日はもっと美しい。ママはボクの反応を見て喜んだ。
「女は化粧でこれだけきれいになるんだよ。でも,ジュンには必要ないわ。今はまだ素顔のままでいい。何歳だっけ?」
「17歳です」
「お店でお客に訊かれたら18歳と答えるのよ。分かってると思うけど。いいね」
「はい」
ママは化粧を終え,ボクと一緒に2階の店に降りる。まだ誰もいない。しばらくして
「おはようございます」
と言って入ってきたのは,ここで働いている人らしい。ドレスを着て化粧しているけど,ママほど美しくはない。ボクを見て
「この子は?」
とママに尋ねる。
「ジュンちゃん。まあ,今日は社会見学ね」
と答えながらママは笑っている。その人も。
それからもう一人,スタッフがやって来て,同じような問答をしている。お客はまだ入ってこない。
「お客が来るのは9時過ぎよ。ほんとうに賑わうのは12時,1時を過ぎてから」
「そんなに遅いの?」
「バーやキャバレーの女たちが仕事を終わって来るのよ。自分たちだけのこともあるし,お客と一緒のこともある」
「ふーん」
やがて,ぼちぼちお客が入ってきた。女だけのグループや男女のカップル。男だけのグループはいない。12時過ぎると,ママが言っていたように水商売の女性たちで賑わうようになる。男の客と一緒のこともあるけど,女どうしで来ているグループの方が多い。ボクは意外だった。こういう店は,男を好きな男がお客としてやって来るのだろうと思っていたから。実際には,女を装おう男が女をもてなす空間のようだった。不思議な世界。
ママはお客に
「本日のスペシャルゲスト,ジュンです」
と言ってボクを客に紹介する。お客は決まったように
「男の子よね?」
とボクの方を向いて念を押す。ボクはうなずく。ボクの胸に手を当て,膨らみがないことを確かめる客もいる。たまに,お客がボクの股間に手を伸ばそうとすると,ママがその手をはたく。
「反則!」
「ええっ,どうして? ここを確かめないとだめでしょう。胸のない女だっているんだから」
という猥談めいた会話が始まる。
ママもほかの2人のスタッフも,びっくりするほど話がうまい。どんな話題でもおもしろおかしくネタにして,たいてい最後は下ネタに落ちる。たまにボクに話が振られると,ボクはドギマギして何も答えられない。するとそんなボクの客慣れない態度を話のネタにして座を盛り上げる。とても真似できないと思いながらボクは見ている。そしてふと思った〔ミユキも仕事場ではこんなふうにしてるのかな?〕なぜか,そうは思いたくない。それで,ボクはママにそっと尋ねた。
「ふつうのスナックやバーの女の人たちも,こんなに話がじょうずなの?」
ママはおかしそうに笑う。
「まさか。こんな話じょうずのホステスなんてめったにいないわよ。ホステスはそれで勤まるの。女だからね。女なら黙って座っているだけでもいい。あたしたちは,そうはいかないの」
「ふーん・・・・」
納得しきれない。2人のスタッフはともかく,ママはお客としてやって来るどんな女の人よりも美しい。黙って座っているだけで,その場が引き立ちそう。文化祭の喫茶店でそうだったように・・・・。
初めての経験で神経が高ぶっているのか,ふだん寝る時間になってもぜんぜん眠くなかったけど,さすがに3時,4時くらいになると眠くなる。そんなボクの様子を見たお客が
「ジュンちゃんどうしたの? 眠いの?」
ボクがうなずくと
「じゃあ,あたしとおねんねする?」
と言って,彼女はボクの腰に手を回して抱き寄せる。ボクはどうしていいか分からず,されるがまま。ママが
「ジュンはチェリーだからね。プレミアムが付くよ」
「いくら?」
「100万」
「ぼったくり」
というぐあいに,また座が賑わう。賑わいの中にいて,自分が話のネタにされたり体を触られたりしながら,そして初めての体験に驚き戸惑いながら,心の一部は醒めていて,ちょっと引いたところからそれを眺めている,そんな感覚に身を任せている。
やがて5時くらいにお客が引け,スタッフも帰って行った。ママはボクと一緒に3階に上がる。
もう朝と言っていい時間だけど,厚いカーテンを下ろした部屋の中は薄暗い。ママは明かりをつけ,化粧を落として寝る支度をしてからボクを抱いた。
「ママ,電気を消して」
「どうして? ふだんは真っ昼間にやってるじゃない。わたしはジュンの顔を見ながらしたいの」
ボクは,化粧を落として男の顔に戻ったママに抱かれるのはいや・・・・と思うけど声に出せない。
目が覚めると,カーテンの隙間から晩夏の明るい日差しが漏れている。時計を見ると11時近い。ママは眠っている。ボクはすぐに起きて服を着て部屋を出た。
「さよなら」
と声をかけたら,ママは寝ぼけたようにこちらに顔を向けた。
電車の中で,部屋に戻ってミユキと顔を合わせら何て言おうと考え込む。別に,何も言わなくてもいいんだけど,ただ「ただいま」って言えばいいことなんだけど,なぜか,正面からミユキの顔を見れない気がする。
部屋のドアをそっと開ける。ダイニングキッチンには誰もいない。自分の部屋にいるのかな?
「お姉さん」
と呼びかけたけど返事がない。どこに出かけたんだろう? お昼ご飯には戻ってくるかな? それとも,ボクがまだ帰ってこないと思って外に食べに出かけたのかな? そんなことを考えていると12時ちょっと前に戻ってきた。ほっとした。
「お姉さん,お昼ご飯は?」
「これからだけど」
「じゃあ,一緒に作ろう」
ボクは声が弾んでいる。
「すぐできるもの・・・・お素麺にしようか?」
「うん,それでいいよ」
お昼ご飯の後,ボクはちょっと昼寝をした。それからはふだんの日曜日と同じように,本を読んだり勉強したりして過ごす。日が落ちる頃に公園に散歩に出かける。ミユキと一緒の夕食。ミユキは「昨日,友達のうちでどんなことしたの」みたいなことは訊かない。これまでもそうだったけど,余計な干渉をしない人。
お風呂に入ってゆったりしていると,昨日のことが思い出されてくる。24時間前,ボクはママの店にいて戸惑いながらお客さんの相手をしていた。いや,むしろ,お客さんがボクの相手をしていた,ボクをかまっていた。ボクはかまわれるまま店の雰囲気に身を任せていた。あの何時間かの出来事が映画のシーンのように次々とよみがえる。
お風呂から上がり,すぐベッドに入る。寝不足の次の日,眠り落ちそうになりながら,残っている意識の部分で考えている・・・・夜の世界,水商売,接客業。興味,好奇心は惹かれる。入り込んでみたい。ボクの中にあの世界,あの雰囲気になじみ共鳴する部分がある。美しいものが素直に褒められる世界。ミユキはあの世界で何を思っているんだろう。ミユキは仕事場でどんなふうに振る舞っているんだろう・・・・こんなことを思っているうちにいつの間にか眠りに落ちた。
ふだんの生活が戻る。2学期が始まるとボクとミユキは学校に行き,ミユキは月曜日から木曜日まではちゃんと終電で帰ってくる。5月,6月頃と変わらない生活。でも,ボクの中で何かが微妙に変わっているのを感じる。
ある時,ミユキに尋ねた。
「いつか,お姉さんがアルバイトしているお店に遊びに行ってもいい?」
ミユキは一瞬驚いて,
「だめよ」
と厳しい口調で答えた。
「どうして?」
「だって,ジュンはまだ高校生じゃない」
そうか,ほんとうは未成年は入っちゃいけない場所なんだ・・・・。
「じゃあ,高校を卒業したら,いいの?」
「それは・・・・」
ミユキはちょっと考え込む。
「やっぱりだめ」
「どうして?」
「だって・・・・弟に見せたくないもの」
「どうして?」
「どうしてって・・・・だめなものはだめなの」
ここでミユキは話を打ち切った。ボクはちょっと不満が残った。「弟に見せたくない」という気持ちも分かるけど,そんなにきっぱり拒絶しなくても・・・・。
10月になると進路を決める三者面談がある。ボクの場合,両親はいないしミユキは忙しくて来れないから,二者面談になった。進路調査票に第1志望は山口大学医学部,第2志望は九州大学文学部と書いて提出した。ボクとしてはごく自然な選択。医者になれないなら,好きで得意な英語を使う仕事に就きたいと思っていたから,そのためには文学部英文科が最適のはず。だけど担任は不思議がった。
「第1志望が医学部なら第2志望は理学部とか工学部じゃないのか? まあ,キミは国語,社会もできるから文学部でも十分合格するとは思うが・・・・それにしても,なんで文学部なんだ?」
と問われたから理由を説明したら,一応は納得したようだった。
何日かして,岡田さんと進路の話になって,同じことを不思議がられた。
「だって,医学部は理系じゃない」
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも,医者って,人間を相手にする仕事だよ」
と答えたら,岡田さんは虚を突かれたような顔をした。そして,ボクは自分の言った言葉で気がついた。〔そうか,医者は人間を相手にする仕事なんだから,水商売と共通点があるんだ〕
大学生になったら,水商売のアルバイトをしようかな。毎日でなくても週2~3日くらい。それなら,山口の方が都合がいいかな。ミユキはボクが水商売に係わるのを好まないようだし,そうでなくても,同じ中洲で働くのはボクにとってもミユキにとっても気詰まりかもしれない。ミユキと離れて暮らすのは辛いけど。
12月,2学期の期末試験。ボクたちにとって高校最後の試験。だけど,受験はそれからが本番。期末試験の翌週,ボクは予備校の模擬試験を受けた。結果判定によれば,山口大学医学部は十分に合格圏内。九州大学文学部はほぼ確実に合格。ついでにチェックしておいた九州大学医学部は合格困難。
この判定表を見せて,ボクはミユキに相談した。
「来年4月から,ボクはここを出て山口で暮らすことになるかも」
「そうね。寂しいけどね」
「お姉さんもそう思ってくれる?」
「当たり前じゃない。これまでずっと一緒に暮らしてきて,5年前からは二人っきりで暮らしてきたのよ。離ればなれになるのは寂しいに決まってるじゃない」
「ありがとう」
ミユキがそう思ってくれるのはとてもうれしい。でも,感傷に浸っていないで現実的な話をしないといけない。
「山口で,ボクは風呂のある部屋に住みたいんだ。というのは,銭湯に行くのは・・・・」
「確かに,ジュンはもちろん女湯には入れないけど,男湯に入っても騒ぎになりそうね」
ボクが話す前にミユキは察してくれた。
「うん,そういうこと。ただ,風呂付きの部屋は,ふつうの下宿とか四畳半一間のアパートとかに比べると家賃が高いよね。その分も含めた仕送り,してもらえる? 貯金は残ってる?」
ミユキは笑みを浮かべた。いつもの優しい笑み。
「心配しなくていい。それくらいはあるよ。ジュンが大学を卒業するまで,贅沢はさせられないけど不自由ない暮らしをさせるくらいのお金は残っているから。安心して」
「よかった・・・・でも,ボクもアルバイトするよ。家賃分くらいは稼ぐようにするよ」
「ジュン,無理しなくていいよ」
そう言葉をかけるミユキをボクはじっと見つめる。
「お姉さんだって・・・・」
「わたし? わたしは,無理なんかしてないよ」
ミユキは,またボクの思いを察して先回りして反論する。
「まあ,医学部の学生なら家庭教師のアルバイトとか,あるだろうね」
「家庭教師?」
それは,考えてもいなかった。
「ボクは,子供に教えるのは向いてないと思う」
「そんなことないよ。学習会は好評だったんだよ。てきぱきと質問に答えていたじゃない」
「ええっと,あれは・・・・」
あれは,ミユキの友人たちが相手だったから,彼女たちもボクを「ミユキの弟ちゃん」と思って接してくれたから。だからうまくいっただけ,と思うけど言葉に出せない。
2学期の終業式。高校に通う最後の日。岡田さんから話しかけられた。
「高村クン,この前の模試はどうだった?」
ボクは結果をありのままに伝える。
「それで,山口大学に受かったら,行くの?」
「そのつもりだよ」
彼女は唇をかんでボクをじっと見つめる。
「わたしは九大医学部を現役合格目指すんだ。九大1本に絞る」
「山口大学は受けないの?」
「受かっても行く気ないから・・・・」
「そうなんだ・・・・」
つまり,来年から岡田さんとも離ればなれになる。いや,ボクが山口大学医学部にすべって九大文学部に入り,彼女が医学部に現役合格したら,学部は違うけど同じ九大に通うことになる。でも,その確率は低いだろう。こんなことを考えていると,
「わたしたち,学校でしか会っていないんだよね。教室か通学の途中か。だから,このままなら今日でもう会うことはなくなる」
ここで彼女は言葉を区切って,ボクを見る。気の強そうな,でも寂しそうな,複雑な表情。
「山口大学の合格発表が済んだ頃,電話してもいい?」
「いいよ」
「じゃあ,電話番号を教えて」
ボクは番号をメモして彼女に渡す。
「それまでは連絡しないよ。高村クンもそれなりに受験勉強するだろうし,わたしはそれこそ必死で勉強するから」
彼女はニコッと笑った。
年が明けて,九州大学文学部と山口大学医学部に願書を提出し,3月上旬に九大の入学試験。1週間後に合格発表。予備校の判定どおり合格していた。
続いて,山口大学の入学試験。前日ホテルに泊まる。大学の最寄り駅は山口駅の1つ手前の湯田温泉駅。名前の通り温泉のある町。駅を挟んで大学と反対側に温泉旅館が並んでいる。直前に参考書なんか読んでも仕方ないと思って,ボクはホテルの周辺を散歩した。温泉町らしく,「夜の街」,歓楽街もある。中洲を見慣れた目にはままごとのように小さな区画だけど。ボクを女と思い込んだ何人かの男から声をかけられたのがおかしかった。その夜は早めに床に就いた。
2日にわたる試験は手応えを感じた。〔たぶん,受かってる〕ボクは試験が終わってから不動産屋で部屋を探した。駅の大学側ではなく温泉町側で,大学に行くバス路線のバス停のそばにある風呂付きの部屋。いくつか見て回って気に入った部屋を決め,3月末まで確保してもらうようお願いし,手付金を入れた。
部屋に帰り着いたのはミユキが出かけた後。「カレーを作ってるよ」というメモがテーブルの上に置いてあった。
1週間くらいして合格通知が届いた。その翌日,岡田さんから電話があった。
「高村クン,どうだった?」
「どちらも合格」
「そう,おめでとう」
その先,言葉が続かない。
「どうしたの?」
「ううん,何でもない」
「岡田さんは?」
「わたしはね,受かってた」
「おめでとう」
「ありがとう」
ここでまた会話が途切れた。それから
「高村クン,明日,会えない?」
「いいよ。どこで,何時頃?」
「あの藤棚のところで,10時くらいは?」
「うん。いいよ」
藤棚には,岡田さんがもう待っていた。ボクは駆け寄った。
「ごめん。待たせた?」
「そうでもないよ」
ボクたちは木のベンチに並んで座る。
「おめでとう」
「おめでとう。岡田さん,最後にボクを引き離したね」
というボクの言葉を聞いて,彼女はしばらく黙っている。
「高村クン,ちょっと受験勉強をがんばって,九大医学部に入ろうとは思わなかった?」
「えっ?」
ボクは思いがけないことを言われて彼女の方を向く。彼女は前を向いたまま,
「高村クンは『伸びしろ』があったはずなんだ。一生懸命勉強してギリギリ学年20番というんじゃなかったもん。いつも好きな本を読んでいて,特に試験勉強もしないで,それで学年20~30番くらいの成績だった。羨ましかったよ。ほんとうに,学問芸術の神に愛されてると思ってた。本気で2~3ヶ月受験勉強すれば,九大医学部だって十分合格できたよ。そうしようとは,思わなかった?」
彼女はボクの方を向く。目が潤んでいる。ボクは答えられない。彼女はまた前に向き直り,
「そんなこと,思わなかったよね」
と言って,フッとため息をつく。
「夏休み,冬休み,春休みにはこっちに帰ってくるでしょう?」
「うん,そのつもり」
「お姉様に会いたいものね・・・・わたしにも会ってくれる?」
「うん,いいけど・・・・」
「いいけど・・・・なに?」
ボクはちょっとためらった。
「つまり・・・・これまでのこと,思い出にしてしまわない?」
「いや!」
彼女はまた顔を上げてボクを見て,きっぱり言い切った。
「思い出になんかしたくない。これからも高村クンの友達でいたい。恋人とは言わないから」
「でも,その方がいいんじゃないかと・・・・だって,ここで終わらせてしまえば,岡田さんも新しい人と出会う機会があるでしょう」
「心配してくれてるの? いいの。そんなこと。高村クンの友達でいたって,新しい出会いはあるはずだから」
「ああ,そうだね」
ボクは安心して返事をする。彼女はフッと笑い,それから悲しそうな顔になった。
「今のせりふ,地味にわたしを傷つけるよ」
「どうして?」
「だって,わたしとの付き合いは新しい出会いを邪魔しない程度のものだということでしょう?・・・・いや,違うな・・・・なんと言えばいいのかな・・・・高村クンとの付き合いはわたしにとって新しい出会いを邪魔しない程度のものだと高村クンは考えている,ということでしょう? つまり,高村クンにとってわたしとの付き合いはその程度のものということじゃない」
ボクは何と返事をしていいか分からない。
「ごめんね。ボクはどう対応していいのか分からないの。ボクを好きだと言ってくれる人にどう対応していいのか分からない。だって,岡田さんだけだもの。初めてなんだ。今のところ岡田さんが最初で最後,ボクに好きって言ったのは」
〔岡田さんが言うような意味で「好き」と言ったのは〕と心の中で言い足す。岡田さんの「好き」は姫のママの「好き」とはぜんぜん違うはずだから。岡田さんはちょっと笑っている。苦笑いかも。
「アポロンに愛された美少年に『好き』と言う勇気を持ち合わせていたのはわたしだけだったということね。自分で自分を褒めてあげたい」
「いっそ,最初にきっぱり拒絶する方が良かった? そうしておけば・・・・」
「そんなことないよ」
と返事されて,ボクは彼女の方を向く。
「そんなことないよ。付き合ってくれてよかったよ。友達付合いは楽しかったよ。まあ,辛いこともあったけど,楽しいことの方がずっと多かった。高村クンと付き合って楽しかったよ・・・・いや,『楽しかった』じゃなくて,『楽しい』んだよ。これからもずっと楽しいんだよ。だから・・・・」
ここで彼女は言葉を句切る。
「だから,思い出になんかしなくていいんだ」
彼女はベンチから立ち上がる。ボクも一緒に立ち上がった。彼女は歩き出しかけて,ボクの方を振り向いた。
「もう3年くらい前になるかな。ここで高村クンから,『好き』ってどういう意味なんだろうねと訊かれて,その人と一緒にいるのが楽しいとか,いつも一緒にいたいと思うとか,その人の顔を見たり声を聞いたりするとうれしくなるとか,手をつなぎたい,抱きしめたいと思うとか答えたよね。覚えてる?」
「うん,覚えてる」
「抱きしめてもいい?」
彼女は強い視線でボクを見る。ボクはゆっくりうなずいた。
彼女はボクを抱きしめる。細い体に似合わない強い力で。それでも,姫のママの抱き方とは違う。荒々しくない,優しい激しさ。服を通して伝わる体の感触もママとは違う。それから,彼女の力が弱まり,片方の手がボクの頭を引き寄せ,頬ずりをする。頬の肌や髪が触れあう感触。ボクは一瞬のうちに思い出す。幼い頃,ミユキがボクをハグして頬ずりした,あの感触・・・・〔だめ。岡田さんに抱かれてミユキのことを考えちゃいけない・・・・〕。
ママはいつものようにきれいに化粧してボクを迎える。ボクを座らせ,抱き寄せ,キスする。ママに抱かれて,ボクは耳元で語りかける。
「福岡を離れるの」
ママはびっくりしてボクを正面から見つめる。
「山口に引っ越すの」
「いつ?」
「4月の初め」
「じゃあ,あと1週間くらいじゃない」
ボクはうなずく。
「でも,夏休み,冬休み,春休みには戻ってくるよ」
「そうか。今年卒業だったね。山口の大学に行くの?」
ボクはうなずく。
「残念だね。高校卒業したらここで働かせようと思っていたのに・・・・でも,店に出さない方がいいのかしら。店に出したら,悪い虫が付くかもしれない。こうやっている分にはあたしだけのものだからね」
そう言って,ママはボクの服をはぎ取り,自分の服を脱ぎ,肌を合わせてボクを抱きしめ,畳に寝かせた。
「今日でおしまい,じゃないんだよ」
「分かってる。でも,次に会うのは夏なんだね」
そう言いながら,ボクの体を丹念に撫で回す。ふだんより時間をかけて,じらすように。そしていつものように,ボクの素股に挿入する。
いつものようにボクのおなかに射精して,それから,いつもと違って,ボクのペニスをゆっくりしごき始めた。
「ママ・・・・」
ママはニヤリと笑ってボクを見る。素股をこすられるのとは違う快感が高まっていく。ボクの中の一部が〔いや〕と言いつのる。自分が男であることを無理矢理見せつけられるようで,いやだ。でも,ボクの中のほかの部分は高まる快感に身をゆだねる。いつの間にかボクはママにしがみついている。ママは手の動きをやめない。そして,ボクはママの手の中に射精した。
「気持ちよかった?」
ボクは脱力したようにうなずきながら,どこか悲しい。意思に反して気持ちよくさせられた感じ。ママは
「いく時の表情,かわいかったよ」
と言ってボクの唇をふさごうとして,目に涙がにじんでいるのに気づく。
「どうしたの? 気持ちよすぎて涙が出た?」
山口に引っ越す前日。ボクはミユキと一緒に夕食を摂っている。一緒に作った鮭のムニエル。ミユキが学校で習ってきて,今日初めて作った。
「初めてにしてはおいしくできたね」
「うん。ジュンのフライパンの火加減がじょうずだから」
「お姉さんの下ごしらえがうまいんだよ」
こんな他愛もない話をしている。明日でお別れだからといって,特別なことを話すわけじゃない。むしろ口数少ないくらい。何も話さなくていい,こうやって一緒にいるだけでいい。ボクは時おり手を休めてミユキを見る。
夕食を終え,食器を洗い終わり,自分の部屋に行こうとしたミユキを引き留めた。
「今日は,一緒にここにいて」
ミユキは笑ってダイニングテーブルに戻ってくれた。何も話すことがないから黙っていると,
「何か音楽かけよう。ジャズでいい?」
とミユキがボクに問いかけながら,答えも聞かずにジャズのレコードをかけた。大きなステレオセットは前の家に置いてきたけど,代わりに小さなステレオプレイヤーを買ってダイニングキッチンに置いている。ボクの好きなジャズバラードが流れる。
「ジュン,いつものように歌ってよ」
「えっ? 知ってたの?」
ミユキは笑う。
「知ってるわよ。ジュンはわたしに聞こえないように小さな声で歌ってたけど,聞こえてるよ」
「恥ずかしい」
「そんなことないよ。ジュンはじょうずだよ。ジュンのささやくような歌い方,好きよ。だから,歌って」
そう言われても,やっぱり恥ずかしい。せめて,差し向かいではなく,横にいて正面から顔が見えないようにして歌おうと思って,ボクは椅子をミユキの隣に移動した。そして,ささやくように歌い始める。
You’d be so nice to come home to
You’d be so nice by the fire
While the breeze on high sang a lullaby
You’d be all that I could desire ・・・・
何曲か歌って,ボクは隣に座るミユキに体をもたせた。
「お姉さん,最後に,ハグして。昔のように,ボクを優しく抱いて」
ミユキはハグしてくれた。ボクはミユキの匂い,ミユキの温もりを感じる。〔そうだね。別れることになったから,こうやってハグしてくれるんだね〕
翌日の朝,ボクは部屋を出た。