Ⅳ
大学の講義が始まった。医学部も1年目は教養課程。ほかの学部の学生たちと一緒に聴く講義も多いし,科目によって一緒になる学生たちの顔ぶれは変わるから,高校までのクラスほど人間関係は濃くない。そして講義の内容はそれまでの読書で蓄積した知識でかなりカバーできる。予習復習にあまり時間を割く必要がないから,週2~3日くらいならアルバイトも無理ではさそう。
大学に入ったら自分のことを「わたし」と言おうと決めていた。もともと,「ボク」というちょっと子供っぽくて男であることを明示する人称代名詞は使いたくなかった。「オレ」は論外。「わたし」は大人なら男女ともに使える。入学式の時から「わたし」で通した。
そのせいもあってわたしは女と思われている。一緒に授業を聴くだけなら性別は分からない。高校までは「男のくせに女みたいだ」とか「男子なのに女子みたいにかわいい」ということで目立ったけど,初めから女と思われていればそのような目立ち方はしない。ごく普通に美人と思われているだけ。
その代わり,時おり学校の中で,ねっとりとまといつくような視線を感じるようになった。福岡の街を歩いていて時おり感じたことがある。女を欲望の対象として見る男の視線。わたしを女と思い込んでわたしに欲情する男子学生がいる。たぶん,一人ではない。何人か,ひょっとしたらもっとたくさん。福岡でそうしたように,わたしはそれらの視線を無視する。無視する以外の対処法を思いつかない。
夜,わたしは温泉町の小さな繁華街を歩いている。いくつかのスナックバーのドアに「アルバイト募集」の貼り紙がある。ドアノブに手を当てるけど,ドアを開く勇気はない。そうやって何軒かやりすごした。何軒目かドアノブに手を当て,手を離して,でもすぐに立ち去れずに留まっていると,隣のドアからピアノの音が漏れてくる。はっきりと聞き取れないけどジャズっぽい曲。
「スワニー」という表札のかかっているドアをそっと開けると,カウンターバーの奥にアップライトピアノがあり,たった今までそれを弾いていたらしい中年の女性が顔をわたしに向けている。
「お客?」
「えっと・・・・その・・・・」
彼女はけげんそうにわたしを見る。
「何かご用?」
なんと答えればいいんだろう。貼り紙もないのに「アルバイトしたい」と言うのもおかしいようだし・・・・でも,このまま立ち去るのも変なようだし・・・・
「入ってもいいですか?」
「ええ,もちろん。もう営業時間ですから」
彼女はわたしをお客と勘違いしてるのかな。わたしはそれを否定できないままカウンターの一番奥の席に座る。彼女は椅子から立ち上がり,カウンターの中に入って,
「何をお飲みになる?」
と,わたしに尋ねる。
「じゃあ,コーラ」
彼女はコーラを開け,グラスに注いでわたしの前に置く。
「ピアノをお弾きになるんですね」
「まあ,下手の横好き」
「そんな,下手なんて・・・・どんな曲を弾くんですか?」
「ふだんは歌謡曲」
「歌謡曲?」
「うん。お客が喜ぶからね。歌の伴奏を頼まれることもある。あと,たまにクラシックの有名どころの曲,ショパンの『子犬のワルツ』とか,ベートーヴェンの『エリーゼのために』とか,そんな曲をリクエストされることもある」
「でも,さっき弾いてたのはジャズっぽかったけど」
「うん。わたしはジャズが好きなの」
「わたしも好きです。“You’d be so nice to come home to”とか」
「あら・・・・」
彼女の表情が心なしか明るくなった。
「歌える?」
「ええ」
「じゃあ,わたしが伴奏するから歌って。ちょうど,ほかに客はいないから」
「いいんですか?」
「いいわよ」
彼女のピアノにあわせて歌う。ピアノに限らず,伴奏付きで歌うのは初めて。歌い終わると,彼女は拍手してくれた。
「うまいじゃない・・・・うまいと言うか,独特の味があるね。ハスキーヴォイスであまり感情を込めないでつぶやくように歌うけど,それがいい」
そう言いながらカウンターの中に戻る。
「ところで,お酒は飲めないの?」
「ええ,飲めないんです。でも,こういう場所に入ってみたくて・・・・」
「ふーん・・・・」
彼女は何か考えている。
「あなた,ここでアルバイトしない?」
「えっ?」
「見てのとおり,わたし一人でやってるの。カウンターの仕事だけなら,それなりに混み合っても一人でやれるんだけど,ピアノを弾いてられないのね。あなたがカウンターの仕事をやってくれるなら,わたしは客がたて込んでいてもリクエストに応えられる。もちろん,わたしもピアノ弾いてばかりじゃないわよ。本職はスナックのママだからね」
わたしは戸惑いとうれしい気持ちが混じっている。
「お言葉はうれしいです。こういうところでアルバイトしたい気持ちはあるんです。ただ,学生なので毎日は難しいです」
「そう?・・・・じゃあ,忙しい週末だけ,金曜と土曜だけなら?」
「それでもいいですか?」
「それでも,うちは助かる」
魅力的な申し出だけど,
「それともう一つ。わたし,女じゃないんです」
女じゃない,我ながら奇妙な言い方だと思う。でも,わたしはどうしても自分を「男です」と言えない。男らしさに自信がないということもあるし,自分を男と認めたくない気持ちもある。彼女は驚いたようにわたしをじっと見る。
「信じられない・・・・そんじょそこらの女よりずっときれいよ。それに,何というのかしら,雰囲気が女っぽい。優しいというかエレガントというか・・・・」
「ありがとうございます」
わたしは素直に礼を言う。ほんとうに,うれしいから。でも,伝えるべきことはきちんと伝えておかないと。
「それと,こういう仕事は未経験です。もともと,人付き合いは苦手で。友達もあまりいなかったし」
「まあ,本格的な接客はしなくていいわ。わたしだってできないし。自分からいろんな話題を振らなくても,お客の話を聞くだけでもいいの。話を聞いてほしくてお店に来てるんだからね,たいていのお客は。適当に相づちを打って聞いてればいいの。そのうち,お客の好みや性格が分かってきたら,それにあわせて一言二言話をすればいいよ。それより,カウンターの仕事をきちんとやってほしい。お酒を出して,洗い物をして」
「お酒って,カクテルとか?」
彼女は笑う。
「カクテルなんてめったに出ない。一応シェイカーはあるから暇なときに練習してもいいけど。水割り,ハイボール,ロック,ストレート,それにビール。たまにコーラとかソフトドリンク。そんなものよ。それより,あなた,何か料理はできる?」
「フライパンを使う料理はわりと得意です。焼きそば,ナポリタン・スパゲッティ,ドライカレーとか」
「ああ,それは助かる。ここはわりと早い時間から開けるから,お酒の前に軽めの食事をしたがる客もいるの。その手の料理はちょうどいいわ」
わたしにとっては思いがけない幸運。週末ここでアルバイトすることになった。金曜日は午後6時,土曜日はもう少し早く5時くらいから夜中の12時か1時くらいまで。さっそく,その週から。
スワニーでのアルバイト。基本的にはカウンターの中にいる。お客にお酒を出したり,簡単な料理を作ったり,洗い物したり。接客はしないつもりだった。接客はママの仕事。だけど,たまにわたしに話しかけてくるお客もいる。そういう時にはできる範囲で相手をする。困った時はママがフォローしてくれる。ママはお客のリクエストに応えてピアノを弾くこともある。お客の歌の伴奏をすることもある。そして,必ず一晩のうちに2~3曲,わたしに歌わせる。初めのうちは歌い慣れたジャズばかり歌っていたけど,「日本語の歌も聴きたい」というお客からのリクエストに応えて何曲か覚えた。『別れのサンバ』『人形の家』『夜と朝のあいだに』『別れの朝』など・・・・。
やがて,女客も一人,二人と来るようになった。ママは
「ジュンちゃんが目当てなのね」
と語る。
「わたしが目当て?」
「うん。こんなにきれいでエレガントだからね。ありがたいことだわ。ただ,本気で惚れられるとやっかいだけど」
「惚れられる?」
それって,どういうことなんだろう。岡田さんがわたしに示した態度のようなもの? それとも,姫のママがわたしに示した情愛のようなもの? わたしは,子供の頃うちに遊びに来たミユキの友人たちと過ごしたように対応したいのだけど。そして,そのような対応をお客たちは喜んでくれていると思うのだけど・・・・。
アルバイトを始めて2ヶ月くらい過ぎた頃,ママがわたしに話しかけた。
「ジュンちゃんは未経験だって言ってたけど,未経験にしては客あしらいがうまいね」
「客あしらい? そんなことぜんぜん意識してませんけど」
「そうなの? 意識しないでやっているのなら,それはそれですごい」
「どんなところが,そんなふうに見えるんでしょう?」
「つまり,ジュンちゃんがアルバイトするようになって週末は女客が増えたの。ジュンちゃんが目当てなことは間違いない。別に色恋がらみじゃないけど,それでもいくらかは期待もあるのよ。本気で惚れてはいないけど,それでもちょっとは気を惹きたい,そんな気持ちもあるのよ。でも,ジュンちゃんはそんなお客の思いをみごとにスルーして,ただの友達どうしみたいに接している」
そう言われても,わたしにはよく分からない。
「わたしは,惚れるとか,気を惹くとか,そういうこと,よく分からないんです。・・・・小さな子供たちが男とか女とか意識しないでじゃれあって遊んでるでしょう,あんなふうにできればいいなと思っているんです。わたしとお客さんとが」
「男とか女とか意識しないで・・・・それは,大人になってしまったら無理よ」
「そうですか?」
わたしはちょっとがっかりした。そんなわたしの様子をママはおもしろそうに見ている。
「ジュンちゃんは,男として女にもてたいという欲はないの?」
「もてたい?・・・・それって,どういうこと?」
このわたしの言葉を聞いて,ママは笑った。
「こんなきれいでエレガントなのに,恋にはぜんぜん関心がないの? だとしたら,ジュンちゃんに本気で惚れる女はかわいそう。お客のことじゃないわ。そうじゃなくて,でもたぶんどこかにいるでしょう。これから出会うでしょう。ジュンちゃんに本気で惚れる女」
わたしは岡田さんのことを思い出した。
「まあ,でも」
と,ママは話を続ける。
「こういう仕事をするには,その方がいいわね」
「そうですか?」
「うん。自分がお客に本気で惚れてしまっては仕事にならないのはもちろんだけど,お客から本気で惚れられるのも面倒だからね。ひいきにしてもらうくらいが一番よ」
夏休み。大学は8月末まで休みだけど,スワニーのアルバイトをずっと休むわけにはいかない。わたしも,ずっと休んでいたくない。スワニーで働くのは気に入っているから。それで,夏休みの最初の週の週末だけお休みすることにした。日曜日に福岡に帰り,翌週の金曜日の夕方までに山口に戻るようにすれば,2週間近く福岡にいられる。
昼前に着いた。ミユキが迎えてくれた。
「お帰り。3ヶ月ちょっとね。元気にしてた?」
「うん。お姉さんがそばにいないのが寂しいけど」
「それはわたしも同じだけど・・・・」
ミユキは優しい笑みを浮かべる。
「でも,慣れないとね。ずっと一緒というわけにはいかないんだから」
わたしはミユキを見る。〔わたしはずっと一緒でいたいんだよ。それは不可能なことなの?〕
「ジュン,どうしたの? そんなにわたしを見つめて」
「ううん,何でもないよ。・・・・久しぶりだから」
一緒にお昼ご飯を食べる。それから,3ヶ月のブランクがなかったかのように,ふだんどおりの時間,高校を卒業するまではふだんどおりだった時間が流れる。隣の部屋にミユキがいる,それがわたしにとってどれほどうれしいことか,つくづく実感する。日が落ちる頃,一緒に散歩に出かけた。日曜日はミユキもアルバイトが休み。街灯がともり始めた黄昏の公園。
「はたから見るとデートと思われるかも」
わたしが冗談めかして言うと,ミユキはわたしの頭を軽くはたく。
「バカなこと言うんじゃないの」
ミユキは冗談として対応する。わたしは,少しは本気も混ぜていたんだけど。
翌日の夕方7時前,ミユキがアルバイトに出かけるのを見送る。
「帰りは遅くなるの?」
「うん。夏休み中はね。ジュンは先に寝てて」
「うん」
わたしの悲しげな顔を見て
「学期中はちゃんと終電で帰ってきてるんだよ。ジュンがいなくても,ちゃんとやってるからね。心配しないで」と慰める。
「心配なんかしてないよ。信頼してます,姉上様」
わたしはおどけた口調で答える。
それから,わたしも公園に出かけた。夏至から1ヶ月くらい過ぎたばかりの夕方7時頃,まだ明るさが残っている公園。わたしはローズガーデンの前のテラスに座って岡田さんを待っている。昨日彼女から電話を受けて,今日ここで待ち合わせた。昼間,ミユキが部屋にいる時間には一緒に部屋にいたいから,ミユキがアルバイトに出かけた後のこの時間を指定して。5分ほどして岡田さんが駆けてきた。
「ごめん,待たせた?」
「そんなことないよ。わたしも今来たばかり」
岡田さんとミユキはわたしが自分のことを「ボク」でなく「わたし」と言うことを初めのうちはおかしがったけど,すぐに慣れてくれた。
彼女はわたしの隣に座ってローズガーデンに咲くバラの花を見ている。それから,大事なことを思い出したかのようにわたしの方を向いて,
「久しぶりね。元気だった?」
と尋ねた。
「うん。岡田さんも?」
「うん」
と答えて,また言葉が途切れた。そして
「わたしから会いたいと言っておいて,いざ会うと何も話すことを思いつかない」
「別に何も話さなくてもいいよ。黙って花壇を見ているだけでもいいんじゃないの?」
彼女は笑う。
「高村クンらしい。そういう,あっさりしたところ」
それからまたしばらく黙っていて,わたしから声をかけた。
「花壇の周りを歩かない?」
「いいよ」
しだいに暗くなって街灯の影がはっきりしてくる。わたしたちはバラの花を見て回る。街灯の光を受けた花,陰に沈む花・・・・。
「なんだかデートみたいね」
と彼女が言って
「冗談よ」
と笑いかける。わたしは彼女に顔を向け,
「岡田さんにとっては本気なんでしょう?」
と問いかける。彼女はハッとした顔をする。
「岡田さんの気持ちは分かっているよ。わたしもそれくらいは分かるから」
彼女は照れたような笑みを浮かべる。
「うん。わたしは本気・・・・高村クン,ありがとう。ほんとうは,お姉様と一緒にいたいんでしょう?」
「お姉さんは今の時間アルバイトをしてるの。中洲のスナックで」
「そうなの?」
「うん。去年の春から」
「お姉様は高村クンに似て美人だから,人気者でしょうね」
「そう思うよ。一度,お姉さんのお店に行ってみたいんだけど,だめって言われてる」
「まあ,お姉様の気持ちは分かる」
彼女はフッと笑う。わたしもつられて笑う。それで気持ちがほぐれたのかな,ふと口をついて出てしまった。
「実は,わたしも週末の金曜と土曜だけだけど,同じようなアルバイトしてるんだ」
彼女はびっくりしたようにわたしを見る。わたしもハッとした。なんでこんなこと言ってしまったんだろう。ミユキにはぜったい話さないつもりだった。岡田さんにも話すつもりはなかった。
「同じようなって,つまり,スナックで?」
「うん・・・・まあ,そんな感じの場所。カウンターがあって,ピアノがあって,ママが時々ピアノを弾く。ママの伴奏でわたしが歌うこともあるけど」
「歌手をやってるの?」
「まさか。歌うのは1日で2~3曲。そのほかは普通にカウンターの中でグラスを洗ったり,お酒を出したり,料理を作ったりしているんだよ」
「向いてるかもね。ウェイター姿が似合ってたもん・・・・高村クン,もてるでしょう?」
正面からそう訊かれてわたしは戸惑った。
「えっ・・・・もてるって・・・・」
すると彼女は朗らかな様子で笑った。
「どうしたの? 何か,変なこと言った?」
わたしは,なぜ彼女がこの場面で笑うのか理解できない。でも,この問いはさらに彼女を笑わせてしまった。笑いが収まって,
「たいていの男子はね,『もてるでしょう』って言われたら,反射的に『そんなことないよ』って照れながら否定するよ。否定しないで考え込むなんて,ほんと,高村クンらしい」
「そんなものなの?」
「そんなものよ」
それからちょっと間を置いて,彼女は話を続ける。
「きっと,お客さんの中には高村クンを好きな人がいるよ。でも,高村クンはそんな気持ちをスルーしているよね」
「お店のママにも同じようなことを言われた」
「高村クンは一途にお姉様を好きだからね。お客の気持ちなんかスルーするよね。わたしには分かるよ。ママさんはここまで分かってはいないでしょうけど。お姉様のことは話してないんでしょう?」
「もちろん,話してなんかいないよ」
「そうしておいてほしい。お姉様のことは,わたしだけが知っている秘密であってほしい」
わたしは,そう語る彼女の気持ちを想像する。
「岡田さん,辛いの?」
「まあ,辛くないと言えば,ウソになる」
彼女は明るい口調で答える。
「高村クンの目をわたしだけに向けさせたいからね。でも,それが無理なことは分かっている」
「ごめんね」
「高村クンが謝らなくてもいいよ」
彼女はフッと笑った。
「別に,悪いことしたわけじゃないんだから。まあ,わたしが高村クンを思ってる度合いが100だとしたら,高村クンはわたしを50くらいしか思っていないけどね。でも,それは初めから分かってたことだから。それに,高村クンは優しいし」
「わたしが,優しい?」
「うん。ほかの男子みたいにがさつじゃない。態度も言葉遣いも優しくて,一緒にいて心地いいよ。たまに残酷なこと言うけどね。自分では意識していないみたいだけど」
わたしはうつむいた。
「高村クン,そんなに落ち込まないで。・・・・要するに,わたしは高村クンが好きなんだ。それだけ」
わたしたちはローズガーデンの周りをめぐり,それから藤棚の方に歩く。高校生の頃,朝いつもわたしたちが通学途中で落ち合った藤棚。
「高村クン,抱いてもいい?」
わたしはうなずき,彼女はわたしをきつく抱きしめる。
「もう一つ,わがまま言っていい?」
「なあに?」
「高村クン,お人形のように抱かれるんじゃなくて,抱き返して」
わたしはためらうように腕を彼女の背中に回す。彼女はフッと笑った。
姫のママに会いに行ったのはその週の土曜日。それまでと同じように,きれいに化粧してきれいな和服を着て迎えてくれる。それまでと同じように,わたしの肌を指でじらすように撫でる。
「もう3年だね。初めて来た時と同じように滑らかな肌。余計な筋肉の付いていない柔らかな腕。だてにホルモンは使ってないね」
そして,それまでと同じように,わたしの素股で欲望を満たす。
自分の欲望を満たすと,わたしのペニスを巧みに刺激し始める。ママの指の刺激に抵抗しようと思っても快感はいやおうなしにわたしの体を突き抜ける。ママはニヤリと笑う。
「ホルモン使ってても,立つものは立つんだね」
わたしは顔をそむける。ママはわたしの顎に手を当て正面を向かせる。
「恥ずかしがらなくてもいいよ。気持ちいいものは気持ちいいって,素直に認めなさい」
わたしは素直に認めたくない。自分が男であることを突きつけられるようで。それでも,アクメに達しそうになると快感に負けてママにしがみつく。目に涙がにじむ。そんなわたしをママはおもしろそうに見ている。
・・・・わたしは帰り支度する。女性ホルモン剤の箱をバッグに入れ,立ち上がりかけて,ママに話しかける。
「お医者様を紹介して」
「えっ?」
「女性ホルモン剤をくれるお医者様を紹介して。これから・・・・これから,お医者様からもらうようにする」
「どうして?」
わたしは唇を噛んでうつむく。
「どうしてなの? 急にそんなこと」
「どうしても」
わたしはうつむいたまま答える。ママの視線を感じる。
「あたしを嫌いになったの? ほかに好きな人ができたの?」
わたしは顔を上げて首を振る。でも,それ以上何も言葉は出てこない。そんなわたしをママはじっと見つめ,それからため息をつく。
「ともかく,もうあたしに抱かれたくないのね。・・・・まあ,約束だからね。あたしに抱かれたくないのなら医者を紹介してやると言ったのは,あたしだから」
ママはもう一度軽くため息をつく。
「・・・・3年あまりの恋だったね」
「恋だったの?」
「何だと思ってたの? ただ欲望を満たしているだけだと思ってたの?」
「・・・・」
わたしはそう問い詰められると何も答えられない。ママはフッと笑う。
「まだ子供ね。覚えておきなさい,大人の世界には体の関係から始まる恋もあるってこと」
それから,ママは手近にある紙に「梅沢医院」という名前と住所を書き付けてわたしに渡した。
「西門通りからちょっと路地を入ったところ。『鬼あざみ』のそばよ」
「鬼あざみ?」
「知らないの?・・・・まあ,知らなくて当たり前か。博多で一番古いゲイバーよ」
わたしはメモを受け取って,そのまま立ちすくむ。自分が恩知らずに思えてくる。
「ごめんなさい。親切にしてもらったのに・・・・」
ママは笑う。
「いいのよ。恩に着ることはないわ。わたしだって,この絶品の美少年を3年間独り占めにしたんだから。おあいこよ。余計なこと考えないで,さっさと行きなさい」
そう言われて,わたしは階段を駆け下りた。
帰り道,ふと思いついた。わたしがママに「こんなことしないで」と言えば,ママはしないでいてくれるのかな。そして,わたしの素股で自分の欲望を満たすだけで済ませてくれるのかな。ママと別れなくてもよかったのかな。引き返して,そう言うべきかな?・・・・でも,わたしは引き返せなかった。
週が明けた月曜日,わたしは梅沢医院を訪れた。冬休みまで5ヶ月くらい。姫のママからもらった1箱100錠では足りないので,もう1箱ほしかった。
中洲と東公園の中間くらい。西門通りの古びた商店街からちょっと路地を入ったところに「梅沢医院」という看板が見つかった。何の変哲もない小さな診療所。ドアを開けると待合室らしい狭い部屋に2人がソファーに座って順番を待っている。わたしがどうすればいいのか分からずその場に立っていると,奥の診察室のドアが開いて看護婦らしい50歳前後の女性が顔を出した。
「新患ですか?」
「はい」
「じゃあ・・・・」
と言って,彼女は診察室を出てわたしに問診票を渡し,
「ここで待っている間に必要事項を書いてください。どう書いていいか分からないところは空白のままでいいから。書き終わったら待っててください。順番に呼びますから」
「はい」
20分くらいして呼ばれて診察室に入った。70歳前後と思われる温厚な男性が白衣を着て座っている。わたしは軽く会釈してその前の円椅子に座った。
「高村順さんですね。山口からいらしたんだ。今日はどうしたの?」
「あの・・・・女性ホルモン剤がほしくて」
「ああ,そういうこと・・・・山口にもそんなお店があるんだね」
「そんなお店?・・・・あっ,いえ違います。そういうお店で働いてるんじゃないんです」
わたしはあわてて答える。スワニーは「そんなお店」ではないだろう。
「ああ,失礼。とてもきれいな人だから,そういう仕事をしているのかと思った・・・・まあ,ともかく女性ホルモン剤がほしいんだね」
彼はそれ以上わたしのプライバシーに立ち入らない。
「どれくらい?」
「できれば1箱,100錠。しょっちゅう来れないから,まとめてほしいんです」
「まあいいでしょう。睡眠薬みたいに悪用される薬ではないからね」
わたしは薬を受取る。
「次は冬休み,12月か1月に来ます」
「ああ,学生さん?」
「はい」
これが,梅沢先生との出会いだった。
山口に戻る前日の木曜日。ミユキが仕事に出かけた後,わたしは迷っている。ミユキがアルバイトしている店の名前は教えてもらえた。でも「来てもいい」とは言われていない。〔勝手に行ったら,怒られるかな?〕でも,興味がある。仕事をしているミユキの姿も知りたい。お店の雰囲気も。3ヶ月くらい自分もそういう仕事をしているから,なおさら興味がつのる。
8時過ぎ,わたしは部屋を出て電車に乗った。
夜の中洲を歩くのは2度目。去年の夏に比べると少しは勝手が分かっている。もう18歳だから,補導される心配もないはず。こんなことを考えながら歩いていると,
「ジュンちゃん!」
と声を掛けられた。声の方を向くと,きれいに化粧した女の人が手を振っている。
「去年,姫で会ったジュンちゃんでしょう?」
そう言いながら,その人はわたしに近付く。
「忘れたの? つれない子ねえ」
わたしはすっかり忘れている。でも「はい,忘れました」と答えるわけにもいかないから,黙ったままでいる。
「これから姫に行くの? それなら,今日,仕事の後でわたしも行くわ」
「いえ,姫に行くんじゃないんです。ルナというスナックバーに行こうと思って・・・・」
「スナックバー?・・・・好きな子でもいるの?」
「いえ,そんな・・・・」
「別に,何時に約束ってわけじゃないんでしょう。ちょっとおいで」
彼女はそう言いながらわたしの手を引く。わたしは逆らえず彼女について,ナイトクラブらしいお店に入った。
この時間,お客はまだ少なかった。彼女はわたしを,指名されていないホステスさんたちの待機場所みたいなところに連れて行った。誰かが声を掛ける。
「新人?」
「違うわよ。姫のママの秘蔵っ子よ」
「姫のママの?・・・・じゃあ,ひょっとして・・・・」
「そう,ひょっとして,なのよ」
その場にいたホステスさんたちの視線がわたしに集まる。
「これからご出勤?」
「いえ・・・・」
わたしは小さな声で答えて首を振る。
「お店で働いてるんじゃないみたいなのよねえ,ジュンちゃん。本職は何なの? どっかのクラブのウェイターさん?・・・・だったら,この時間に外をほっつき歩いてないわね・・・・まさか,背広着てネクタイ締めて会社員とかじゃないよね?」
「学生です」
「えっ? 学生さん? どこの?」
「山口の」
「それはちょっと遠いね。福岡の学校に転校しなさいよ」
「それより転職すればいい。しがない学生やってるより,ホストかゲイボーイに転職すれば,アンタならうんと稼げるよ」
わたしをネタに勝手なことを言い合ってる。それでも,15分くらいで彼女はわたしを解放してくれた。
「ルナ」という看板のあるドアをそっと開いて,中を見る。
「いらっしゃいませ」
と何人かの声がする。その中にミユキの声も混じっているような。中に入ると
「ジュン!」
という声がした。
ミユキがテーブル席から立ち上がってわたしを見ている。ほかの人たちはまずミユキに視線を向け,それからわたしの方を向いた。わたしは中に入りながら
「一度だけだからいいでしょう」
と話しかける。ミユキは怒ったような困ったような顔をして,
「もう,来てしまったんなら,しょうがないでしょう。空いてる席に座りなさい」
わたしはカウンターの真ん中あたりに座る。椅子が10席くらい並んだカウンターと,4人掛けテーブルが5つ。テーブルは5卓とも客が座っている。カウンターも半分くらいうまっている。カウンターの中の人が
「ミユキちゃんの知り合い?」
と尋ねる。わたしが答える前にミユキが
「弟です」
と答えたら,みんなが驚いた。
「妹じゃなくて?」
「弟なの。いつも間違えられるけど」
「ミユキちゃんの弟さんなら,ここに座れば」
と,ミユキがついている客がミユキの隣の席を指す。
「だめよ」
とミユキが否定した。わたしもそれはさすがに気まずいだろうと思ってカウンター席に座る。カウンターの中のママさんらしき人が尋ねる。
「ジュンちゃんというの? 何を飲む?」
「トニックウォーターありますか?」
「ジントニック?」
「いえ。ジンは入れないで,トニックウォーターだけ。お酒は飲めないんです」
「あら,かわいい」
それからママさんはテーブルについてるミユキに
「ミユキちゃん,気になるの?」
と尋ねる。ほかのお客から笑い声が上がる。
「まあ,気になるだろうなあ」
「だから,ここに座ればいい」
さっきのお客が話しかける。わたしは「どうしようか?」という表情でミユキを見る。ミユキは苦笑いを浮かべて
「こっちに座りなさい」
と自分の隣の椅子を指さした。
テーブル席についたわたしは,その客からだけでなく,隣のテーブルの客たちからもいろいろ訊かれた。
「学生さん? どこの大学?」
「山口大学です」
「ああ,じゃあ,お姉さんとは離れて暮らしてるんだ。寂しいねえ・・・・それで,学部は?」
わたしはためらったけど,ウソは言えないから
「医学部です」
と答えたら,予想どおりの反応が返ってきた。
「えーっ,医学部。優秀なんだ」
「医者の卵かい。そうは見えないなあ。・・・・あっ,いや,けなしてるんじゃない。つまり,医者にするにはもったいないくらいの美形だと言ってるんだよ」
「キミが医者になったら,女の患者が押し寄せるだろう」
「女医さんと間違えて男の患者が押し寄せるかも」
わたしは,自分の容姿が話の種にされることにはスワニーで慣れている。ミユキは慣れてないみたいだった。同級生の学習会ではそんなこともあったけど,それとはぜんぜん雰囲気が違う。困ったような顔をしている。こういう話になるのを予想して,わたしがここに来るのを嫌がっていたのかな?・・・・話題を変えたいけど,どうすればいいか分からない。
そんな時,流しのギタリストが店に入ってきた。流しのギター伴奏にあわせてお客が機嫌良く歌っている。
「ジュンちゃんと言ったっけ,歌ってみないかい?」
「えっ?・・・・わたし,歌謡曲は歌えません」
「歌謡曲『は』歌えないということは,ほかの,フォークとかロックとかなら歌えるのかい?」
「ジャズなら・・・・」
「ジャズか」
と言って,客はギタリストに声をかける。
「流しのお兄さん,ジャズはやれる?」
「ジャズですか? まあ,何曲かは」
こんなやりとりがあって,わたしはギター伴奏で“Sentimental journey”を歌った。
「弟さん,うまいじゃない」
と,スタッフの一人が褒める。ミユキは恥ずかしそうな,でもうれしそうな顔をしている。
「もう1曲。ジュンちゃん,日本語の歌は歌えないのか?」
「ええ,まあ,何曲かは」
「じゃあ,歌いなさいよ」
わたしは『別れのサンバ』を歌う。みんな拍手してくれた。
「なんだか,今日は弟さんが主役みたいね。ミユキちゃん,影が薄いね」
「そんなことありません」
わたしは思わず言い返す。周りから笑いが起こった。
そうやって,わたしは奇妙に周りになじんで時間を過ごす。やがてママさんがミユキに
「ミユキちゃん,今日は弟さんと一緒に帰りなさい」
と言って,終電前の時間に帰してくれた。
電車の中で,わたしとミユキは並んで座ってずっと黙っていた。最寄りの電停で降りて歩きながら,わたしは話しかけた。
「お姉さん,怒ってる?」
ミユキはわたしの方に顔を向ける。暗くてよく分からないけど,苦笑いしているのかな。
「まあ,いいわ。お客さんも楽しんでくれてたみたいだし。でも,今日だけよ」
「うん。分かってるよ・・・・ごめんね」
「謝らなくてもいいけど」
翌日の午後,わたしは山口に戻った。
山口で過ごす夏休み。週1~2回くらい大学の図書館に行き,借りていた本を返却し,新たに本を借りて来て,部屋で読みふける。金曜日と土曜日の夜はスワニーでアルバイト。授業ない時間を読書に充てているほかは学期中と変わらない。
9月になり,授業が再開しても,特に変わったことはないはずだったけど,一つだけ変化があった。どういうきっかけかは分からないけど,わたしが男であることが同級生たちに知られるようになった。
「高村さん,男だったの?」
「なんで,隠してたの?」
「男だなんて,信じられない」
なんて言葉をかけられても,わたしは苦笑いするだけ。中には冗談めかして,
「高村さんが好きだったんだよ。あなたのことを考えて勉強も手に着かないくらい,夜も眠れないくらい好きだったんだよ。わたしのこの気持ち,どうしてくれるんだ!」
などと言う男子学生もいた。ひょっとして本気が混じっているのかも。
意図的に隠していたわけではない。周りがわたしを女と信じているのを放置していただけ,そう言っても
「なんで間違いを訂正しなかったの?」
と問い返される。「女と思われている方が楽だから」と言っても分かってくれないだろう。
「面倒くさかったから」
と答えたら,
「信じられない」
という反応が返ってくる。それでも,1~2ヶ月たつうちに騒ぎは徐々に収まり,わたしは「女子みたいな男子学生」として受け入れられていった。スワニーで「女の子みたいな男の子」として受け入れられているように。
だけど,わたしに向けられていたねっとりとまといつくような視線は消えなかった。以前ほどではないけど,時おり感じる。わたしを男と知った上で欲情する男子学生からの視線なのか・・・・。この視線,高校では感じなかった。街中で感じることはあっても学校の中では感じなかった。大学生は高校生に比べて大人だから性欲が表に現れるようになるのかな?・・・・それとも,岡田さんと付き合ってると思われていたから? 「親分の彼氏」と認定されていたから?
そんな視線を時おり感じながらも,学校でもアルバイト先でも平穏な日々が続く。わたしは隣にミユキがいない生活に少しずつ慣れていく。山口で暮らすまでは,ミユキがいない生活に慣れるなんて夢にも思わなかった。でも,人はたいていのことには慣れていく。それはそれで,ちょっと寂しいけど。手紙は1ヶ月に1回くらい書いている。特別な事件なんかないけど,ふだんの他愛もない出来事を書き送る。ただ,スワニーでのアルバイトのことは書かない。わたしが水商売に係わっていることは知らせない方がいいと思うから。手紙を書けば,ミユキは律儀に返事をくれる。
秋学期が終わり,冬休み。福岡に帰省する。博多駅に着いたその足で梅沢医院に向かい,女性ホルモンを処方してもらう。それから東公園の部屋に行く。ミユキがアルバイトに出かける時間にはかなり余裕がある。
「久しぶりに一緒に夕食の支度をしない?」
「あっ,いいね。何にしようか?」
いろいろいろいろ語り合って,結局,作り慣れ食べ慣れたナポリタン・スパゲッティに落ち着いた。ミユキは笑っている。
「学校でいろんな料理を習うんだけど,そういう凝った料理より子供の頃から食べ慣れてるものがいいね。特にジュンと一緒に作って食べるんなら」
できあがったスパゲッティを皿に盛り,テーブルに向かい合って食べる。
「お姉さん,来年の3月に卒業したら調理師の免許をもらえるんだよね。調理師の仕事をするの?」
ミユキはフォークを持つ手を休めて答える。
「それも考えた。求人はいろいろあるんだけど,ルナの人たちから引き留められているんだ。ママからも一緒に働いている子たちからも,お客さんたちからも」
「人気者だね」
ミユキはフッと笑う。
「お給料は,はっきり言って,調理師やるより今のスナックの仕事の方がいい。やりがいは・・・・調理師の仕事ってどんなものか分からないけど,今の仕事もそれなりにおもしろいんだ。いろんな人が来て,いろんな話をしてくれる。わたし,人と話すのが好きみたい」
「お姉さんは子供の頃からそうだったよ」
「そう? 調理師の仕事でも,カウンターでお客さんと話しながら料理を作るのならいいけど,厨房にこもりっぱなしというのは・・・・ちょっと考えてしまうな」
「だったら,無理して調理師の仕事に変わらなくても,今のままでいいんじゃない?」
「意外ね」
「意外?」
「だって,わたしが今のアルバイトを始める時,ジュンはあまりいい顔しなかったじゃない」
「あの時は心配したけど・・・・」
自分自身が水商売の世界に親しんでいる今となっては反対しない,ということは言わないでおきたい。
「夏休み,ルナに遊びに行った時,お姉さんとても生き生きしてたから」
「あら,ありがとう」
ミユキはにっこりほほえんだ。
翌日の夕方というか夜,ミユキがアルバイトに出かけてから,わたしは公園の藤棚の下で岡田さんと待ち合わせた。ベンチに座って語り合う。
「夏休みは,この時間まだ明るさが残っていたのに,もうすっかり夜だね」
「冬至,一番昼が短くて夜が長い季節だからね」
こんなとりとめもない話をした後,わたしたちはちょっと黙っていた。それから,わたしが話を切り出した。大学で時おり感じるねっとりとまといつくような視線のこと。高校でそれを感じなかったのは岡田さんのおかげなのかなと思っていることも。
「わたしにそんな神通力はなかったよ。『親分』というのはあだ名だけなんだよ。大学生は高校生より大人で,そういう感情というか欲情が表に現れてしまうってことでしょう」
「やっぱり,そうなのかな」
「高村クン,わたしに余計な恩義を感じなくてもいいよ」
彼女はわたしに笑いかける。
「わたしは感じないんだよねえ,高校でも大学でも,そんな視線。まあ,わたしは高村クンほど魅力的ではないから,人を欲情させないんだろうね」
「視線はあるけど,岡田さんが感じないだけかも」
「それって,わたしが鈍感ってこと?」
そう問い詰められて,わたしはあわてた。
「いや,そんなつもりじゃ・・・・」
岡田さんは笑い出した。
「高村クン,そんなにあわてなくていいよ。からかっただけなんだから」
彼女はひとしきり笑ってから,
「でも,高村クンがほんとうは男だと知ってがっかりした男たちはたくさんいるだろうね」
「かもしれない」
わたしは「この気持ち,どうしてくれるんだ!」と冗談めかして訴えた男子学生のことを話題にした。岡田さんはまた笑う。
「でも,その人,口調は冗談めかしていても,ほんとうは本気だったんだよ。ただ,そんなことまじめな顔では言えないから,冗談めかしたふうでないと言えないことだから・・・・高村クン,罪が深いね」
「そう言われても・・・・」
「まあ,罪と言うのは言いすぎだけどね」
「でも,どうして,わたしが男だと分かったら,みんながっかりするの? わたしが男だと分かったからといって,わたしの顔立ちや体型が変わるわけじゃない,わたしの立ち居振る舞いや雰囲気が変わるわけじゃない,わたしの人柄や性格が変わるわけじゃない。わたしはそれまでどおりのわたしだよ。外面も内面も。そういうわたしを身近に見て『好き』と思ってくれた人が,わたしの性別を知ってどうして落胆するの? セックスするんじゃなければ,男か女かって,どうでもいいことでしょう? わたしを女と思って好きになった人はみな,セックスがめあてだったということ?」
「まあ,そう言い切るのは難しいけど」
「だったら,そんなにがっかりしなくていいじゃない。セックス抜きで付き合うんなら,わたしが男だろうと女だろうと関係ないでしょう。露骨な言い方になるけど,性器が男性形か女性形かが問題になるのはセックスする時だけでしょう。一緒に語り合ったり,食事したり,お茶したりするのに,相手の性別を気にする必要はないでしょう」
「高村クン,たまにとても大胆なこと言うね」
「大胆かな?」
「まあ,よく考えれば,筋は通ってるんだけどね。確かに,セックスするんじゃないのなら,相手が男か女かって,どうでもいいことかもしれないけど,でもやっぱり,大胆な主張だよ。と言うか,男と女の違いって,性器の形の違いだけ?」
「突き詰めれば,それだけじゃない? 確かに,傾向はあるよ。男は粗野な人間が多いとか,女はおとなしい人が多いとか。でも,例外もいくらでもあるじゃない。わたしも,粗野な人は嫌いだから,男は嫌いになることが多いけど,上品でエレガントな人なら男だって嫌いじゃないよ。男より女の人の方が付き合いやすいことが多いけど,付き合いにくい女の人もいるし,付き合いやすい男の人もいるよ。男か女かって,人を判断する決め手にはならないよ。それが決め手になるのは,セックスの時だけじゃない?」
「そういうふうに理詰めで追及されると反論できないんだけど・・・・でも,やっぱり,男なのか女なのかは気になるよ」
「ふーん・・・・」
「不満?」
「不満というか・・・・人は男女の区別から逃れられないのかなあって・・・・」
「大人になったらね・・・・だから,高村クン,女と誤解されたならなるべく早いうちに『男です』って言う方がいいよ。それがいやなら・・・・」
「それがいやなら?」
「それがいやなら,最後まで女だと思わせ通す」
そう言い切って,岡田さんはわたしに目を向け,フッと笑った。
冬休みが終わり,短い冬学期も終わると,1ヶ月くらい続く春休み。わたしは,その頃ちょうど博多まで開業したばかりの新幹線に乗って福岡に帰った。ミユキは学校を卒業し,調理師免許を得た。
「結局,ルナの仕事を続けることにした」
「うん,それでいいと思うよ」
「ジュンからそう言ってもらえると,うれしい。そして,心強い」
「別に,わたしの意見なんか・・・・」
ミユキはわたしの手を握ってじっと見つめる。
「大切な,大切な,弟の意見よ」
そう言われて,わたしもミユキを見つめる。〔ミユキこそ,わたしにとって大切な,大切なお姉さん〕と心の中でつぶやく。
春休みが終わり2年生。春学期はまだ一般教養科目が続く。
5月の連休が終わって間もない頃,歴史の授業の後で見知らぬ女子から声を掛けられた。
「高村さん,ノート貸してくれない? 前の授業を欠席したので」
「申し訳ありません。わたし,ノートはとってないんです」
「えっ? ノートをとってないの?」
そう,わたしは小学生,中学生の頃から,授業中にノートをとったことがない。そういう習慣がない。
「わたし,先生の話を聴きながら手を動かすって,器用なことができないんです。授業をしっかり聴いてると,それに集中して手は動かないんです」
「・・・・でも,それで困らない?」
「別に困りませんよ」
「そうなの・・・・」
彼女は驚いたような,戸惑ったような顔をしている。高校時代も,同じようなことで驚かれたことはある。そんなに驚くべきことなのかな? わたしは自分の勉強の仕方を振り返って説明を試みた。
「授業で先生が話すことって,だいたい知ってることなんです。いや,全部知ってるわけじゃありません。ただ,それに関連することは知ってるから,どういう話なのか道筋が見えるというか,枠組みが分かるというか,新しく聴く話もそれまで知ってることに関連づけられるというか,そんなふうに授業を聴きながら内容を整理できていくんです。それで,授業の内容の概略は覚えていられるんです」
わたしがこう説明しても,彼女の驚いた表情は変わらなかった。
翌日,別の男子から声を掛けられた。
「昨日,文学部の女子から話しかけられてたね。なんて言われたの?」
「ノートを貸してほしいって」
「ふーん。それで,貸してあげたの?」
わたしは首を振る。
「わたし,ノートをとってないから」
「そうなんだ」
彼はおかしそうに笑って立ち去った。おかしいことなのかな?
秋学期からは解剖学や組織学など医学部の講義が本格的に始まる。学生たちは学部と付属病院のある宇部に引っ越す。