Ⅴ
3年生になるとすぐ解剖実習が始まる。ホルマリン漬けされていた遺体を3人1チームで3ヶ月くらいかけて解剖していく。ホルマリンの臭いのただよう実習室で死体を切り刻む作業に耐えきれずに学部をやめる学生がたまにいるらしいけど,この学年にはいなかった。わたしも怖いとか気味が悪いとは思わなかった。ただ,ホルマリンで変色した遺体の股間にあるペニスを見てグロテスクとは思った。
解剖学の講義は骨,神経,筋肉,内臓・・・・というように系統別に進むけど,実習は腕,脚,腹部・・・・というように部位別に進む。まず表面の皮膚を観察し,皮膚を切り開き,皮下脂肪を取り去り,浅層の筋肉,深層の筋肉,そこを走る血管,神経を観察し,筋肉を取り去って骨を観察する。胸部,腹部では内臓も解剖する。最後は頭部。
もちろん,3年生の春学期は解剖実習だけというわけではない。組織学実習も始まり,生理学,生化学,病理学といった基礎医学科目の講義も始まる。いよいよ医学部らしくなる。
ミユキは,入学前から話していたように,風呂付きの部屋の家賃を含めてちゃんと生活できる金額を仕送りしてくれる。教養課程から医学部に移って勉強も忙しくなるからアルバイトはしないつもりだった。だけど,スワニーの雰囲気から離れてしまうのは辛かった。本格的に医学の勉強が始まったからなおさら,医学の世界とは別にもう一つ,わたしが医学部生,医者の卵として遇されることのない小さな世界がほしい。なので,土曜日だけアルバイトを続けることにした。最寄りの宇部新川駅から小郡(おごおり)で乗り換えて湯田温泉駅まで,昼過ぎに部屋を出れば十分に間に合う。午後5時から日付が変わって1時頃までスワニーで働き,その日はママの部屋に泊めてもらい,翌日,日曜日の昼頃宇部に戻る。これが週末のパターンになった。
梅沢先生といろんな話をするようになったのは,3年生の冬休みからだった。
先生は余計な詮索をせず淡々と女性ホルモン剤を処方してくれる。わたしがそんな先生に興味を覚えた。男で女性ホルモン剤を使うのは,わたしはたぶん例外で,ほとんどは姫のようなお店で働いている人たちだろうと,その頃のわたしは思っていた。そういう世界に係わりのある医者というは,やはりどこか「くずれた」雰囲気のある人,「遊び人」っぽい雰囲気のある医者かなと思っていたけど,梅沢先生は実直で温厚な老紳士としか見えない。
「先生はどういうきっかけでわたしみたいな人に女性ホルモン剤を処方するようになったんですか?」
「キミみたいな人とは,どういう人なんだろう?」
「あっ,いや・・・・」
言葉に詰まったわたしに先生は穏やかな視線を向ける。
「まあ,別に身元調査するつもりはないよ・・・・キミ自身はそういう仕事はしていないとのことだけど,男性で女性ホルモン剤をほしがるのはゲイバーで働いている人が多いのは事実だ」
先生はここでちょっと言葉を句切る。
「ここを開業して10年くらいした頃かな。近くに『鬼あざみ』というゲイバーができた。そこの人たちが,ご近所だからということかもしれないけど,風邪とか頭痛とか,時には不眠とかいったことでうちを受診するようになって,何かのきっかけで女性ホルモン剤の話が出たんだ。よそからえらく高い値段で買っているらしい。わたしとしては,ぼられているのがかわいそうでね。まあ,妥当な値段で売ってあげることにしたんだ。その噂が広まって今に至る,ということだ」
「その人たちがどんな気持ちでゲイバーの仕事をしているのか,興味はありませんか?」
「まあ,興味はあるけど,厚かましく問いただしたりはしない。医者は必要もないのに患者の心に踏み込むべきではないからね」
「だから,わたしにも,余計なこと訊かずに処方してくれるんですね」
これをきっかけに,春休み,夏休み,冬休みに梅沢医院を受診すると先生とちょっとした会話を交わすようになった。性同一性障害とかトランスジェンダーという言葉が一般社会はもちろん医者の世界でもほとんど知られていなかった頃。
「先生のご専門は?」
「専門というほどのものはないよ。ただの町医者だ。手術はしないから外科じゃない。消去法で内科になるのかな。あと,婦人科のまねごとみたいなこともしている」
「婦人科?」
「うん。例の『鬼あざみ』の人たちが中洲のホステスさんたちにここのことを広めたらしい。それで,そういう人たちからいろいろ相談を受ける。中洲のすぐそばに,水商売の人たち御用達みたいな診療所もあるんだけど,ちょっと離れているのがいいといってここを受診する人もいるんだ。ピルを処方することもある」
「ピル?・・・・まだ日本では認可されていないんじゃないですか?」
「避妊用としては認可されていない。ただ,欧米で避妊用ピルとして使われているのとほとんど同じ成分の薬,つまり黄体ホルモンと卵胞ホルモンの合剤は日本にもある。月経困難症とか月経不順とか性器出血とかに適応がある。それを処方している。ほとんど同じ成分だし,ピルの作用機序からして避妊用に使えるはずだ・・・・あっと,ずいぶん専門的な話になったね。難しくてよく分からないだろう」
「いえ,分かります」
わたしはちょっとためらって,思い切って話した。
「実は,医学部の学生なんです」
「そうなのか!」
先生はびっくりしてわたしを見る。
「山口大学の?」
「はい」
梅沢先生とこんな話をしたのと,岡田さんからちょっとユーモラスなエピソードを話されたのと,どっちが先だったろう・・・・。
「わたし,同級生の男子から告白されちゃった」
わたしは突然そんな話を聞かされて戸惑う。
「別に,高村クンを嫉妬させようというわけじゃないよ。そもそも,高村クンは嫉妬なんかしないだろうし」
わたしもそう思う。彼女は反応をうかがうようにわたしを見ている。
「どうしたの?」
「こういう話を聞くとたいていの人は,男であっても女であっても『それで,何と答えたの?』みたいなことを訊くんだけどね」
わたしはそんなこと思いつきもしなかった。
「冷たいわけじゃないことは分かってる。ただ,そういうことへの関心がすっぽり抜け落ちてるのよね,高村クンって」
「そうだね」
「昔からそうだった。中学生の頃から,人が何していようと『我関せず』って感じ。中学生のわたしにはとても不思議だった」
「今は?」
「今は,慣れた」
彼女は笑う。わたしもつられて笑った。
「高村クンが訊かないから,自分で話すけど,かなり迷ったの。その男子のこと,別に好きじゃないけど,嫌いでもない。だったら付き合ってもいいのか,それともやっぱり断るべきなのか。そう考えていて,思いついた。これって,わたしから告白された高村クンが悩んだことと同じじゃないって」
彼女はわたしに視線を向ける。その目にきらりと光が宿っている。
「結局,断った」
「そうなんだ・・・・どうして?」
「面倒くさかったから」
「ふーん・・・・」
「それでまた考えた。高村クンは,面倒くさいと思わず付き合ってくれたんだ。いい人だなって」
「いい人・・・・かな?」
「わたしにとってはね」
それから彼女はちょっとイタズラっぽい目つきになった。
「いい人だから,利用させてもらった」
「利用?」
「うん。たいていの男子というものは“No”と言われただけじゃ引き下がらないの。『なんで?』『どうして』と詰め寄るの。それで『好きな人がいるの。遠距離恋愛してる相手がいるの』と答えた」
わたしは思わず笑った。彼女も笑っている。
「事後承諾してね。実害はないはずだから」
「うん」
「こうやって二人で歩いてるところを見られたら,『岡田の遠距離恋愛の相手はあいつなのか』って噂になるかも」
「高校の時みたいだね」
「そうね」
わたしたちは笑いあった。別れ際に彼女はわたしを抱く。この頃になると,強く激しく抱きしめるのではなく,優しくハグするようになっていた。
4年生になると内科学とか外科学といった臨床科目の講義が始まる。医学部だけで授業を受けるようになって1年以上が過ぎ,クラスのまとまりのようなものができている。そして全員がもう20歳を越えている。それで,「クラスコンパ」と称して,大勢群れて飲みに行くことがあるらしい。わたしは1度誘われて断り,2度目の誘いも断ってから,もう声が掛からなくなった。お酒は飲めないし,飲めても一人で静かに飲みたい。そもそも週末,土曜日の夜はスワニーでアルバイトだし。「付合いが悪い」と言われるのは気にしない。子供の頃から慣れている。
授業を聴いていて,疑問なことやよく分からないことがあると,高校時代は手を挙げて質問したけど,大学の講義ではやりづらい。それで,授業の後に質問に行く。そういう学生がわたしのほかにも何人かいる。おもしろいことに,その顔ぶれはどの科目でもほとんど変わらない。誰かの質問に触発されて別の人が新たな質問をすることもある。いつの間にかお互い顔見知りになった。「常連」というのかな。その中に,自分ではぜんぜん質問しないでほかの学生の質問と教授の説明を黙って聴いている人がいる。わたしは興味を引かれた。
「あなたは,ご自身ではぜんぜん質問しないんですね?」
わたしに問いかけられて,その人は一瞬困ったような表情を浮かべた。
「・・・・うん。ほかの人の質問を聴いてるのも勉強になるから」
「ああ,確かに・・・・」
「特に,高村さんの質問は」
「えっ?」
「だって,ノートをとらなくても授業をちゃんと理解して覚えていられる秀才なんだから」
そう言われて,わたしはけげんな顔をした。
「忘れた? 2年くらい前,教養課程でノートを借りようとした女子にそう答えてたでしょう」
「ああ・・・・」
わたしは思い出した。そういえば,この人はあの翌日わたしに話しかけてきた人かな・・・・。
いつだったか,その人がわたしに声をかけた。
「とても失礼というかぶしつけな質問だと思うんだけど・・・・高村さん,ほんとうに中性的というか女性的というか,そんな感じだよね。それで,恋愛の対象は女性なの? 男性なの?」
「恋愛の対象?」
そう問われて,わたしは戸惑った。そもそも恋をしたことがあるのかな? 好きな人はミユキ,でもそれは恋なのかな? 岡田さんとの付合いは恋じゃない。姫のママは?・・・・わたしにとっては恋ではなかった・・・・。答えに詰まったわたしを,その人は誤解した。
「ごめんなさい,こんな失礼な質問。忘れてください」
そう言って,走って立ち去った。
そして,5年生の夏休みが明ければいよいよベッドサイド・ラーニング,実際に病院の病棟を廻る実習が始まることになっている。そんな5年生の夏休み。
いつものようにわたしに女性ホルモン剤を渡して,梅沢先生はわたしに尋ねた。
「医学部の学生さんなら,この医院を継ぐ気はないかね?」
「えっ?・・・・ここを?・・・・先生,引退するつもりなんですか?」
「今すぐというわけではない。ただ,わたしももう70の坂を越えた。『医者の不養生』ということわざほどではなく,それなりに節制しているからあと5~6年くらいはがんばれるけど,さすがに80過ぎてまで働きたくはない。キミは今5年生だね」
「はい」
「2年後に卒業して,2~3年か3~4年くらいわたしと一緒に仕事して,それから引き継いでくれないかと思っている。こんな小さな医院でも,頼りにしてくれている患者さんも何十人かいるんでね。それとも,こんなちまちました町医者の仕事には興味ないのかな?」
「そんなこと,ありません。もともと大学病院に残るつもりはないんです。こういう小さな診療所で仕事できるなら,その方がいいと思っています」
「それじゃあ,ぜひまじめに検討してくれないか。今ここで返事しろとは言わないから」
「はい」
返事をして,わたしは気にかかっていることを話した。
「わたしは子供の頃から男性が苦手というか相手するのに疲れるんです・・・・あっ,先生は例外ですけど」
あわてて言い足したわたしに先生は笑顔を見せる。
「じゃあ,婦人科にすればいい」
「そうなると,今の患者さんのうち男性はお断りしないといけなくなります」
「まあ,それは仕方ない。今でも8割方は女の患者なんだ。2割の患者さんは,わたしが引退する時に転院してもらおう」
「それでいいのですか?」
「キミがぜひそうしてほしいと言うのなら」
「どうして,わたしのためにそこまで考えてくださるんですか? ここを継いでくれそうな医者は探せばそれなりに見つけられると思うんですが」
先生はフッと穏やかな笑みを浮かべた。
「はっきり言うと,キミを気に入っているんだ」
「わたしを?」
「もう4年になるかな,キミがここに通うようになって。それでも年3回だから十何回くらいだけど,キミの控えめというか押しの強くない人柄は見て取れる。そういう医者の方が望ましい」
わたしは「どうして?」というような表情になる。
「ここの患者さんにはそういう医者の方がいいと思う。世の中,十人十色でいろんな人がいる。『オレについてこい』タイプの医者を好む患者もたくさんいる。ただ,ここの患者はそういう強引なタイプの医者ではなくてもっと穏やかに対応する医者の方を好んでいる。30年近くわたしがやってきて,そういう患者が集まったんだね」
「そういうことなら,わたしにとっても願ってもないことです」
「うん。さっきも言ったように,今ここで決めなくてもいいけど,期待はしているよ。唯一心配なのは・・・・」
ここで先生は言葉を句切った。そしてちょっと笑いながら,
「患者さんが医者であるキミに惚れないかということだね」
と言い足した。わたしは冗談として流していいのか,まじめに対応すべきなのか,判断に迷う。それで,ふと思いついたことを口にした。
「女で通せば?」
「ん?・・・・」
先生はけげんな顔をする。
「わたし,たいてい女に思われます。初対面で男と思われることはめったにありません。ここで白衣を着ていれば患者さんはわたしを女医さんと思うでしょう。それを,敢えて訂正せずそのままにしておけばいいんじゃないでしょうか?」
「なるほど」
先生は愉快そうに笑った。
「確かに,医師免許に性別は記載されていないからね」
「そうなんですか?」
「ああ,そうだよ。それに,ジュンという名前は女性でもおかしくない・・・・キミが『女医です』と名乗るのは問題かもしれないけど,相手が勝手に思い込むのは問題ないだろう」
こんな思いがけない会話を交わして医院を出てから,わたしは気がついた。ここで働けば,女性ホルモン剤がいつでも手に入る。
明日は山口に戻るという日の夕方,わたしはミユキと一緒に晩ご飯を食べている。食べ終える頃,
「ジュン,話しておきたいことがあるの」
とミユキが声をかけた。
「わたし,結婚を申し込まれてる」
わたしは驚いてミユキを見る。
「ルナのお客さん。フレンチレストランのオーナー兼シェフなの」
「それで,お姉さんは?」
「受けるつもり」
わたしは何も言葉を思いつかない。ただ黙ってミユキを見ている。じっと見つめているうちに目頭が熱くなってくる。そして涙が溢れそうになる。それを,ミユキは指でそっとぬぐってくれる。ぬぐいながら,わたしをじっと見つめる。そして語りかけた。
「いつかは・・・・いつかはそうなると分かっていたでしょう。それとも,わたしがずっと独身でいると思っていた?」
わたしは唇を噛みながらうつむく。何も答えられない。
しばらくの沈黙のあとで,ミユキがつぶやくように語る。
「ずっと以前,高校生の頃,ジュンに彼女はいないのと尋ねたことがあったね。あの時は『いない』って返事したけど,今もそうなの? 好きな人はいないの?」
わたしはちょっとためらってから答える。
「わたしを好きと言ってくれる人はいる」
ミユキはわたしの顎に手を付けてわたしの顔を上げさせ,わたしを見つめる。
「その人を,だいじにしてあげなさい」
結婚式は8月の終わり頃。わたしが学校を休まずに式に出席できるようにと配慮してくれた。その前夜。わたしはミユキと語り合う。
「結婚したら,引っ越すんだよね」
「うん。隆さんと一緒に暮らす」
「この部屋は引き払うんだ」
「寂しい?」
「そりゃあ・・・・」
「何年住んだんだっけ」
「わたしが13歳の春からだから,9年と5ヶ月・・・・そのうち4年くらいは,わたしは山口に住んでいたけど・・・・でも,ここもわたしの部屋だと思ってたよ」
「うん,もちろん,そうなのよ」
「思い出がいっぱいある。お姉さんとの思い出だよ。お姉さんと一緒に暮らしたんだから」
わたしはミユキを見つめる。もう涙は出ない。ミユキもわたしを見つめる。ミユキの目が潤んでる。
式は簡素だった。ミユキの側の出席者は弟のわたしのほか,何人かの友人たちだけ。相手側の出席者は母親と兄のほかに数人の友人。父親は幼い頃に亡くなっている。「似たような境遇なの」とミユキが話していた。式でわたしに言葉が求められた。わたしは何も思いつかない。だから歌を歌った。『愛の讃歌』。
あなたの燃える手で
あたしを抱きしめて
ただ二人だけで
生きていたいの・・・・
熱い恋の歌を歌い終わって涙ぐんだ。きっと,弟の姉への気持ちの発露だと思われている。ずっと一緒だと思っていた姉を失う悲しみの涙,ずっと一緒にいたいという願いが叶えられなかったことを嘆く涙であるとは,誰も気づかないだろう。・・・・いや,ミユキはきっと気づいてた。
式が終わり,新郎新婦がささやかなハネムーンに旅立つのを見送り,「二次会」と称して中洲に繰り出す人たちから離れて,わたしは東公園に向かう。約束の時間にはまだちょっと早いけど,ミユキのいなくなった部屋で時間をつぶす気にはならないから,藤棚の下のベンチに座ってぼんやりしている。日が少しずつ陰っていく頃,岡田さんがやってきた。いつものように快活な足取りでわたしのそばに来てベンチに座る。
「お久しぶり」
とか
「元気だった?」
というお決まりの言葉を交わしてから,しばらく二人とも黙っている。そして,わたしがポツリとつぶやいた。
「今日,お姉さんの結婚式だった」
彼女はハッとしたようにわたしを見る。わたしたちは見つめあう。そして,わたしはゆっくり倒れるように体を傾けていき,顔を彼女の膝にうずめ,静かに泣き始めた。彼女はだまってそっとわたしの髪を撫でる。どれくらいそうしていたのだろう。わたしは顔を上げる。
「ごめんね。ジーンズを濡らしてしまった」
「いいんだよ。そんなこと,気にしなくて」
彼女はわたしの顎に手を当て,その手をゆっくり引き上げる。それにつられてわたしは体を起こし,彼女と向き合う。彼女は両手でわたしの頬を包む。そして優しい視線をわたしに注ぐ。黙って,ただわたしを見つめる。
帰りの新幹線の中,わたしはもう泣きはしない。涙もこぼさない。ただ,立原道造の『夏の弔ひ』を心の中で口ずさむ。
逝いた私の時たちが
私の心を金にした 傷つかぬようよう傷は早く複(なお)るようにと
・・・・ ・・・・
おぼえていたら! 私はもう一度かえりたい
どこか? あの場所へ (あの記憶がある
私が待ち それを しづかに諦めた -)
9月から始まったベッドサイド・ラーニング。わたしは熱心に励んだ。誰よりまじめに勉強しているという自負はある。そして土曜日の夜は,これまでどおりスワニーで仕事をする。お酒を出し,料理を作り,グラスや食器を洗い,時にはお客の相手をして,たまに歌う。
彼女は春頃からほぼ毎週やって来るお客だった。ママによればほかの曜日には来ない,土曜日だけ「ジュンちゃんを目当てに来てる客」。わたしもそれは感じる。わたしを見る視線に熱がこもっている。そうと分かっているからわたしは,冷淡とは言わないまでも,あくまで「お客様」として失礼のない態度で接するようにしていたのだけど・・・・。
その日彼女は,カウンターのシンクで洗い物をするわたしの真正面に座っていた。間近にいる彼女からかすかに匂うのは,香水? それとも自然な体の匂い?・・・・なぜか懐かしく,心惹かれる。そして思い当たった。これはミユキの匂い,幼い頃,一緒に寝てハグしてくれたミユキの匂い。そのせいなのか,わたしはふだんより心を込めて対応したのかもしれない。彼女と話していて,ふと,ミユキと話しているような錯覚におちいる。わたしが彼女の誘いに応じたのも匂いのせい? そして,ミユキがわたしの手の届かないところに行ってしまった悲しみのせい?・・・・分からない。
誘われるままホテルに入り,一緒にシャワーを浴び,ベッドに入った。服を脱ぎ,体を洗った後でも,わたしを抱く彼女からミユキの匂いがする。彼女のかすかな体臭。その体の温もり。ミユキと一緒に寝てハグされている幼い自分になったよう。でもそれは錯覚なのだと彼女の手が教える。わたしの頬を,胸を,おなかを,腕を,脚を撫でる彼女の手が,それは錯覚だと教える。その手の感触はミユキのものと違っているから。そして,あの日,藤棚の下でわたしの髪を撫で,頬を包んだ岡田さんの手の感触とも違っている。この時,わたしの目から涙が溢れてきた。彼女の手はそのまま脚を撫で上がり,股間に触れようとする。わたしはハッと彼女の方を向く。
「ジュンちゃん,どうしたの?」
わたしの目が涙ぐんでいることに気付いた彼女は戸惑うように,心配そうに,わたしを見る。
「ごめんなさい」
わたしは起き出した。そして何度も「ごめんなさい」と言いながら服を着てホテルの部屋を出た。
わたしはふらつくようにスワニーのママのうちに歩く。そんな時間に帰ってきたわたしを,ママは何も問いたださずに迎え入れてくれた。
翌朝,わたしは何もなかったように二人分の朝食,トーストとスクランブルエッグとコーヒーを作る。
それからも時おり,スワニーでお客の相手をしていてふと心がざわめくことがある。ミユキを思い出させるものを感じる時。ある人は声の質がミユキに似ている。ある人はちょっとした時の目の動きがミユキに似ている。ある人は髪を耳にかけるしぐさがミユキに似ている。そんな類似を感じると,心がざわめく。これまで5年近くスワニーで仕事してきて,こんなことはなかったのに・・・・。
こんなわたしも宇部に戻ればまじめな医学生。ベッドサイド・ラーニングは誰よりまじめに取り組んでいる。2週間ごとに各科を廻る。消化器外科,血液内科,泌尿器科,耳鼻咽喉科,小児科・・・・。どこに行っても,2週間の実習期間が終わる時には「卒業したらうちに入局しないか」と主任教授や助教授から声をかけられた。
冬休み。もう帰る部屋はない。でも,梅沢医院に行く用事はあるし,ミユキに会いたいし,岡田さんにも会いたい。ミユキに相談して,ミユキが隆さんと暮らすマンションに1泊させてもらうことになった。
午後1時半を過ぎた頃,わたしはミユキが働いているフレンチレストランに入った。
「申し訳ありません。ランチタイムのラストオーダーは締め切ったのですが」
とウェイターさんから声をかけられた。
「あっ,いえ・・・・そうではないんです」
と言って,わたしは言葉に詰まった。「ミユキ」と言っても「お姉さん」と言っても通じないだろう。
「その・・・・オーナーの奥さんに会いたくて」
「どちら様ですか?」
「弟です」
ウェイターは厨房に引っ込んだ。それからすぐ,ミユキが出てきた。
「ああ,ジュン,ちょっと待ってて。2時過ぎくらいまで」
この店は11時から2時までがランチタイム,5時から9時までがディナータイムだった。
言葉どおり,2時過ぎにミユキはわたしのところに来た。
「もういいの?」
「うん。弟がはるばるやって来たんだから,ちょっと早めに上がらせてもらった。どこか出かける?」
この店の中で話をするのも気詰まりだから,どこかに出かけたいけど,どこも思いつかない。
「近くの喫茶店に行こうか?」
「うん」
ちょっと歩くと天神のオフィス街。たまたま目に留った喫茶店に入った。午後のこの時間帯,店内はすいている。わたしたちは,あの部屋で一緒に朝食や夕食を摂っていた時のように向き合って座り,紅茶を注文した。ウェイターが下がって,わたしたちは向き合った。さて,何を話そうか。とりたてて何も思いつかないから黙っている。ミユキがクスッと笑った。
「どうしたの? 何かおかしいことがあるの?」
ミユキは首を振る。
「ううん。ただ,ジュンが黙ってるから」
「何か話さないといけない? 黙って一緒にいるだけじゃ,だめ?」
「いいよ,それでも。ジュンは昔からそんなふうだった。おとなしくて,控えめで・・・・でも,わたしと一緒にいたがったよね・・・・かわいかった。あっ,今でもかわいいよ」
「ありがとう」
ミユキにそう言われるのが一番うれしい。わたしは気になってることを尋ねる。
「お姉さんは,ずっと厨房にこもってるの?」
「そうでもないよ。仕事の流れを見て,フロアに出てウェイトレスの仕事をすることもある」
「ああ,それはよかったね」
ミユキはけげんな顔をする。
「だって,調理師学校を卒業する頃,『ずっと厨房にこもりっぱなしというのはいやだな』みたいなことを言ってたじゃない」
「ああ,そんなことあったね・・・・よく覚えてるね,そんな昔のこと」
覚えてるよ。ミユキの言ったことはみんな覚えてるよ。ミユキと向かい合いながら,わたしは心の中でつぶやく。
結局,途切れがちの会話を交わしながら,わたしたちはその喫茶店に5時近くまでいた。
「じゃあ,9時前にもう一度お店においで。それから一緒にうちに戻るから。・・・・ああ,そのバッグ,預かっておこうか?」
姉はわたしが手にしている1日分の着替えを詰めたバッグを指さす。
「いいよ。これくらい,持って歩いて邪魔にはならないから」
それから,岡田さんと待ち合わせした東公園に向かう。冬至の頃,もう夕暮れ時で,暗くなりかけている藤棚の下で待っていると,10分もしないうちに岡田さんが駆け寄ってきた。彼女はわたしのバッグをめざとく見つける。
「今日はどうしたの? そんなバッグを持って。ふだんはほとんど手ぶらで来るのに」
わたしは事情を説明する。
「・・・・ふーん,じゃあ今度からはわたしのうちに泊まれば?」
「えっ?」
「おばあちゃんと二人で大きな家に住んでるの。部屋が余ってる。もてあましてるんだ。それに・・・・高村クン,辛いでしょう。お姉様が旦那さんと一緒に住んでいるところに泊めてもらうのって」
辛い・・・・とは自覚していなかった。でも,確かに居心地がよいとは思えない。できれば,泊まりたくはない。
「確かに,何となく気詰まりな感じがするね。ご主人に遠慮しないといけないみたいで」
こんなことをつぶやくわたしに岡田さんは話を続ける。
「気詰まりなら,今度からうちにおいで。・・・・心配しなくていいよ,部屋に忍び込んだりしないから」
冗談めかした口ぶり。わたしは笑う。彼女も笑う。
「まあ冗談だけど,多少は本音もある。肌を触れあいたいというくらいの欲求はあるんだよ」
「肌を触れあう・・・・」
その言葉はわたしを幼年期の思い出に誘う。ミユキと一緒に寝て,肌を触れあい,体を温めあった思い出・・・・。
「子供の頃は,姉と一緒に寝て肌を触れあっていたんだよ。肌の温もりも感じていた。無邪気に・・・・大人になるとあんなふうに無邪気には振る舞えなくなるんだね。わたしが男だから? 姉が女だから?・・・・わたしが女なら,女どうしなら,今でもあんなふうに無邪気に振る舞えるの?」
「それはどうだか・・・・女どうしでも性愛はありえるから。でも確かに,男と女が肌を触れあうとセックスがお決まりみたいになるけど,女どうしならただの無邪気なスキンシップもありえるかも・・・・高村クンは女になりたいの?」
「男でいたくない」
彼女はフッと笑った。
「いつかもこんな問答したね」
「そうだね」
「高村クンが恋い慕う相手がお姉様だと分かった時のことだね」
「そうと分かってからも,岡田さんはわたしに優しくしてくれる。ほんとうに,ありがとう」
「どうしたの,急に? お礼なんか言われると,戸惑うよ」
そのユーモアを含んだ口調もわたしにはありがたい。
「どうしたんだろうね」
それはきっとミユキの結婚のせい。あの時から岡田さんへの気持ちが微妙に変化している。でも,それを言葉で伝えることはためらわれる。その代わりのように,わたしはこの秋のスワニーのお客とのことを話した。彼女に体を撫でられながら,ミユキの手の感触と,岡田さんの手の感触を思い出してしまったこと。
岡田さんは黙って聞いている。聞き終えて,
「高村クンが女と一緒にホテルに行った話を聞かさせるのは複雑な気持ちだよ。でも,その場で,お姉様だけじゃなくてわたしのことも思い出してくれたのは,うれしいよ。それと・・・・」
「それと?」
彼女はちょっと笑みを浮かべる。
「その女の人の立場に思いやると,ちょっとばかり同情するよ。そのつもりで一緒にホテルに入ったのに,急に相手が出ていったなんて,まるで喜劇じゃないの」
わざとおもしろがるような口調で話す。わたしもつられて笑う。でも,それからまたまじめな顔に戻る。
「わたしが男であるなら,女の人からは否応なしに性愛の対象と見られてしまうものなの?」
「・・・・たぶん・・・・」
「岡田さんも?・・・・岡田さんも,そんな気持ちでわたしを見てるの?」
彼女はうつむいて唇を噛む。
「・・・・そんな気持ちがぜんぜんないと言うと,ウソになる・・・・たとえば・・・・」
「たとえば?」
「あの日,お姉様の結婚式の後,わたしとここで会った日,高村クンがわたしの膝で泣きじゃくって,その後,顔を上げさせてじっと見つめあった。高村クンの頬を両手で包み込むようにして。あの時,ほんとうはキスしたかった。唇を重ねあわせたかった。でも,高村クンがうちひしがれているのにつけ込むようなことはしたくなかった。それに,そんなことしたら高村クンが驚いて逃げ出すかもしれないと思って,心にブレーキをかけた」
「そうだったの・・・・」
あの優しい眼差しの背後にそんな心の葛藤があったとは,ぜんぜん気がつかなかった。
「幼い頃は,わたしだけじゃなくて,たいていの人も男とか女とか意識しないでじゃれあっていたよね。いつ頃から? それを意識しだすのは? 10歳くらい? もっと早いかな,7~8歳くらい?・・・・大人になってしまったら,それを意識しないで付き合うのは無理なの? それは,失われた楽園? Lost Eden?」
「高村クンにとっては,あの時代が楽園なのね」
わたしたちはちょっと黙り込んだ。それから,また岡田さんが言葉をつなぐ。
「高村クンの体が男でなくなったら,もしそうなったら,高村クンをぜんぜん男と意識しなくなるかな?」
わたしは彼女を見る。
「そんな手術があること,知ってるよね?」
わたしはうなずいた。
こんな話をして別れる時にはすっかり夜になっていた。彼女はいつものように別れ際わたしをハグした。
ミユキに言われたとおり9時ちょっと前にフレンチレストランに行き,そこでミユキたちが仕事を終わるのを待って,三人一緒に帰った。2LDKの2部屋のうち,寝室に使ってない方の部屋を片付けてわたしの布団を敷いてくれた。
目がさえてなかなか眠れないけど,日付が変わって1時間,2時間する頃やっと眠りに落ちた。いくつか夢を見た。ストーリーはぼやけているけど,寂しく取り残される感覚が共通していた。
翌朝,朝食の支度をしているミユキを手伝おうとしたら,隆さんから
「お客様はそんなことしなくていいよ。ゆったり座って待ってなさい」
と言われた。お客様・・・・そう,わたしはここでは「お客様」なんだ。こんなわたしの気持ちを分かっているのか,いないのか,ミユキは
「二人でいた頃は,一緒に作ってたからね」
と話しかける。そう,あの頃は,いつも一緒に朝ご飯を作って,食べて,一緒に出かけていた・・・・。
「朝食の支度,隆さんは手伝わないんですか?」
と尋ねたら,彼は思ってもいないことを訊かれたような驚いた表情でわたしを見た。
三人で口数少なく朝食を摂る。隆さんが
「ジュンさんはおとなしいんだね」
と語りかける。
「あっ,はい」
わたしはぎこちなく答える。
「歌はうまいけどね」
とミユキが話を継ぐ。
「ああ,ルナでのエピソードは聞いたことがあるよ」
えっ,その話題,出していいのかな・・・・わたしはミユキを見る。ミユキはおかしそうに笑っている。
二人は10時頃に部屋を出る。わたしも一緒に出て梅沢医院に向かった。そこで女性ホルモン剤を処方してもらい,そのまま博多駅に向かう。新幹線の車内で,〔次からは岡田さんの家に泊めてもらおう〕と決めた。