Ⅵ
冬休みが終わり短い冬学期が始まって間もない土曜日。シンクで洗い物をしているわたしの正面に座った女客がわたしを見ながらニコニコほほえんでいる。わたしはその視線に気づいているけど,特に声をかけようとはしない。これまで何度かスワニーに来ていて,顔は見知っている。名前は知らない。
「ジュンちゃんみたいな子,いいなあ」
わたしに話しかけているとも,独り言を言っているとも,どちらとも受け取れるような口調。わたしは彼女に目をやる。
「ほかの男たちみたいに脂ぎってないもんね」
「脂ぎってない?」
「つまり・・・・」
彼女はわたしに顔を近づけ,ほかの男客に聞こえないよう小声でささやく。
「『やらせろ』って欲望が見え見えじゃないってこと」
あの,ねっとりとまといつくような視線のことを話しているのかな? 彼女はしょっちゅうそんな視線にさらされているのかな? だとしたら,うっとうしいだろうなあ・・・・わたしがこんなことを考えている間も彼女は話を続ける。
「みんなそうだった。これまで出会った男はね。あんたはちょっと違うみたい。でも,寝たら一緒なのかな。やっぱり欲望をむき出しにするのかな。だとしたら,ちょっと寂しいな」
「嫌いなんですか? そういうこと」
彼女はフッと笑う。
「人肌の温もりは好きよ。なんだか安心する。温もりを感じながら寝るのは。あたしはそれだけでいいんだけどね,男はそれじゃおさまらないみたいね」
「それなら,女の子と一緒に寝れば?」
「女と?」
彼女はびっくりした表情でわたしを見る。
「あんた,かわいい顔してずいぶん大胆なこと言うね」
「大胆,ですか?」
「大胆だと思うけどね・・・・」
こう言って,彼女はわたしを見つめる。そして,
「ジュンちゃん,あんた自分のことはどう思ってるの? 男と思ってるの,女と思ってるの?」
「わたしは・・・・中性というのが自分では一番しっくりいくんだけど」
「中性? またまた,おもしろいこと言うね」
「男とか女とか,そんなこと意識したくないと言う方がいいのかな」
「ああ,その気持ち,分かる」
「分かってくれますか?」
「なんとなく分かるよ。疲れるのよね,男と女の関係って」
「あなたも,おもしろいこと言いますね」
彼女,アサミさんはミユキと共通するものは感じない。匂いも,声も,しぐさも,ミユキを思い起こさせるものはない。だけどなぜか好意を感じる。だから閉店時間になって「これから一緒にお茶でも飲む」と言われて,「はい」とうなずいた。でも,中洲と違って山口の小さな温泉町にはこの時間に開いている喫茶店はなかった。
「しょうがないわね。うちに来る?」
わたしたちは彼女の部屋に行った。
「お茶を飲もうって誘ったんだから,お茶を入れるわね。紅茶と緑茶,どっちがいい?」
「紅茶」
彼女は紅茶を2人分淹れてカップをテーブルに置く。わたしたちは向かい合って座る。
「椅子が2つあるんですね。誰かと一緒に住んでるの?」
「まさか。一人暮らしよ。椅子が1つだけというのは寂しいから,2つ置いてる。お客なんかめったに来ないけどね」
そう言って,彼女はわたしを見ながらにこにこしている。
「どうかしましたか?」
「別に,どうもしないわ。きれいな顔を見てるとうれしくなる,それだけよ」
そう言って,彼女は自分で入れた紅茶を飲む。わたしも。
のんびり紅茶を飲み終えて,彼女はわたしに尋ねる。
「どうする? ママのところに帰る? それとも,ここに泊ってく?」
わたしはちょっと考える。これからママのところに戻るのはめんどうくさい。それに,〔この人なら大丈夫〕と思える。
「泊めてください」
彼女はうなずいた。
「ベッドは1つしかないけど,それでいい?」
「はい」
「じゃあ,先にシャワーを浴びてて」
わたしはシャワーを浴び,先にベッドに入った。やがて,彼女もシャワーを浴び終えてベッドに入る。
「ああ,いいなあ,この人肌の温もり。それに,ジュンちゃんは肌がきれいで滑らかね。ほんと,女の子みたい。触れ合ってて気持ちいい」
わたしたちはお互いに相手の体の温もりを感じあいながらいつしか寝入った。
目が覚めると彼女の顔が目の前にある。
「あっ,びっくりした?」
びっくりするというより,寝起きで自分の状況が分からずに戸惑った。そして,昨夜からの出来事が思い出されてきた。
「寝顔がかわいくて,ついじっと見てたの」
そう言われて,わたしはほほえんだ。
「うん,その笑顔も好き」
そう言って,彼女は起き出した。
「朝ごはん作るから,待ってて」
「手伝いましょうか?」
「いいよ。どうせたいしたもの作らないから」
15分くらいして,
「ジュンちゃん,起きておいで」
と声をかけられた。テーブルにはご飯とお味噌汁と卵焼きとお漬け物が並べてあった。
この日の後もたまに,月に1回くらい,アサミさんの部屋に泊めてもらうようになった。
1つのベッドに肌を寄せあって寝る。眠りに落ちるまでの間,彼女はいろんなことを話す。たとえば,こんな昔話。
「若い頃はいろんなことがあったの。自分で言うのも何だけど,あたしって『男好き』するタイプなのね。いろんな男から惚れられて,いろいろ面倒くさいことがあったんだ」
「どんなこと?」
「二人の男から惚れられて,どっちとも決めようがないから放っておいたら刃傷沙汰になってしまって,あたしにも刃物を向けてきた」
わたしは驚いて彼女を見る。
「大丈夫だった?」
「うん。刃物を向けるだけで,切りつけはしなかった・・・・どうしたの? そんな顔して,あたしを心配してくれてるの?」
彼女はわたしの頬を指でつつく。
「それからまた二人の男から惚れられて,以前そういうことがあったから,片方だけに決めたら,振られた男が逆恨みして。じゃあ,どうすればいいって話だよね」
彼女はおかしそうに笑う。
「女房のいる男から惚れられて,あたしがいなきゃ夜も日も明けぬみたいなこと言うから付き合ってたら,女房が怒鳴り込んできて,慰謝料を請求するなんて言い出して。向こうが勝手に惚れたのに」
彼女は拗ねたような顔をする。
「そんなこんなで,ある時割り切ったの。だったらお金をもらってやらせれば後腐れないだろうって。そんな女だと思えば,男も本気で惚れないだろうってね。それでもたまに本気で惚れる男がいるけど」
彼女はフッとため息をつく。
「ごめんね,こんな痴話ばなし,聞きたくもないよね。でも,あたしは,そうやっておとなしく聞いてもらえるとうれしいよ。あんた,お店でもそうだよね。お客のどんな話でもおとなしく聞いてる。いい子だね」
こんな話をしながら,そっと肌を触れあっている。その温もりがうれしい。わたしはそれだけでいい。アサミさんもそれだけで満足してくれる。性を感じずに済む関係。でもそれは例外的なことなのだということは分かっている。彼女が,ふだんは性にまみれたような仕事をしていて,性に疲れているからこそなのだ,ということも分かっている。
短い冬学期が終わり,春休み。福岡にもうわたしの部屋はないし,ミユキのところにも泊りたくないから,岡田さんのうちに泊めてもらう。案内してもらうために,いつもの藤棚の下で待ち合わせる。岡田さんは先に来て待っていた。早足で近付くわたしに語りかける。
「どうする? すぐにうちに行く? それとも,これまでみたいにここでちょっと語り合う?」
「ちょっと,ここにいよう」
と言って,わたしは彼女の隣に座る。とはいえ,話すことを思いつかない。彼女がフッと笑った。
「どうしたの?」
「だって,語り合うと言いながら,高村クンが何も話さないから。話したいことがあったんじゃないの?」
わたしは考え込む。何か語り合いたいと思っていた。でもいざその場になると,語ることを思いつかない。ひょっとして,ただ一緒に座ってこうしていたいだけなのかな。そしてふと思い出す。この前ミユキに会った時のこと。ミユキがわたしに語った言葉。「ジュンは昔からそんなふうだった。おとなしくて,控えめで・・・・でも,わたしと一緒にいたがったよね・・・・」
そんなわたしに彼女が話しかける。
「あの時,高村クンがお姉さまへの思いを打ち明けた時,『相談したいことがあれば何でも話して。相談に乗るよ』と言ったね。あの言葉は今も生きてるよ。どんなことでも話してくれていいよ。どんな悩みも受け止めるよ」
彼女はわたしを見つめる。そして,静かに歌い始めた。サイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』の歌いだし
“When you’re weary, feeling small
When tears are in your eyes,
I will dry them all”
キミが弱っている時,ちっぽけに感じる時
涙がキミの目にあふれる時
それをみんなわたしが乾かしてあげる
その「キミ」というのはわたしのこと? 「わたし」というのは岡田さんのこと? わたしに語りかけているの?
「ありがとう」
思わず言葉が漏れる。わたしは視線を落として歌詞の続きを語るように歌う。
“I’m on your side, oh, when times get rough
And friends just can’t be found
Like a bridge over troubled water
I will lay me down”
そばにいるよ,辛い時も
友達がいない時も
逆巻く水に架かる橋のように
身を投げかけるよ
歌い終わり,視線を彼女に向ける。彼女はわたしをしっかり見つめ,うなずいた。
その優しさを素直に受取っていいのかな? わたしは今もミユキへの思いを断ち切れない。そんなわたしが彼女の好意,優しさを受取っていいのかな?・・・・そんな思いを見透かすように,彼女は語る。
「高村クンがお姉様を慕い続けているのは分かっているよ。それを分かった上で,わたしは高村クンが好きなの。高村クンのためにできることをしたいんだ」
「岡田さん・・・・」
言葉が続かない。あの勝気な少女が,こんな優しい女性に変身した・・・・。こんな思いにふけるわたしに彼女が声をかける。
「そろそろ行こう」
彼女は立ち上がり,わたしも立ち上がり,歩き始める。
「こっちだよ」
わたしたちは公園を通り抜け,家並みの間を歩く。彼女がさっきとは違う軽い口調で話しかける。
「ぜんぜん話は変わるけど,高村クンには性欲はないの?」
わたしも敢えて軽い口調で答える。
「ないかもしれない。性欲がホルモンに支配されているのなら,わたしはもう何年も女性ホルモンを使っているから,ホルモン的には女かもしれない。・・・・いや,女性ホルモンは男性ホルモンに拮抗するんだから,お互いに打ち消し合って中性になっているというのがいちばん正確かな。性欲らしいものは感じない」
「そうなんだ・・・・」
「岡田さんは感じるの?」
「まあ,普通の女子の性欲は持ち合わせているよ。でも,心配しないで。ちゃんとコントロールはできるから。高村クンが寝てるところを襲ったりしないから」
そう言って,彼女は明るく笑った。
こんな話をしているうちに,彼女の家の前に着いた。ほんとうに大きな家。ただ,かなり古びた木造家屋。
春休みが終わると,6年生。特に何が変わるわけでもなく,ベッドサイド・ラーニングも後半に入る。月曜日から金曜日までまじめに実習に取り組み,土曜日はスワニーでアルバイト。終わったら,ママの部屋に泊めてもらう。たまにアサミさんの部屋に泊まることもある。日曜日の午後に宇部に戻る。このパターンの生活が繰り返される。そして,学生時代最後の夏休み。
博多駅から直接梅沢医院に向かう。
女性ホルモン剤を処方してから,梅沢先生がわたしに尋ねた。
「この医院を継がないかという話をしたのは,去年の夏だったね。来年3月には卒業,国家試験だけど,気持ちは決まったかな?」
わたしは軽くうなずく。気持ちはもう決まっている・・・・それはそうなのだけど,山口にも心残りがある。スワニーという小さな世界,それと同じ世界を福岡で見つけるのはきっと難しい。そして,アサミさん。人の肌の温もりを感じあえる人。これからの一生のことを考えれば,この心残りは断ち切るべきだと理性で判断できる。そしてわたしはきっと理性に従う。それは見えている。でもやっぱり,名残惜しい。
梅沢医院を出て,天神の喫茶店で待ち合わせてミユキに会う。いつものように言葉少なくお茶を飲む。簡単に近況を語り合う。とりとめもない話。でも,そのとりとめもない話が心からいとおしい。そんな会話のあいまに,わたしはふとまじめな口調で語りかけた。
「あの時,『わたしを好きと言ってくれる人はいる』とわたしが答えた時,お姉さんは『その人をだいじにしてあげなさい』と言ったよね」
なんの脈絡もなく語り始めたけど,ミユキは「あの時」がどの時のことなのかすぐに分かってくれた。
「だいじにしているよ」
「そう・・・・それはよかった」
「その人もわたしをだいじにしてくれている。とてもだいじにしてくれている。その人はほんとうにとても・・・・」
ここで言葉が詰まった。「とても」に続く言葉を思いつかない。とても親切? とても優しい? とても心が広い?・・・・そんなありきたりの言葉では言い表せない。そんなふうに言葉に詰まったわたしを,ミユキは優しく見つめる。「とても,なんなの?」などと問い詰めたりはしない。
5時前に喫茶店を出て,ミユキは店に戻る。わたしは岡田さんの家に行く。バッグを置いて,一緒に公園に出かける。彼女の家に泊めてもらうけど,家の中で語り合うことはなく,公園に出かける。夏のこの時刻,まだ夕方という言葉が似合わないほど明るい。藤棚の下のベンチに腰掛けて,彼女はわたしに問う。
「高村クン,卒後の進路は決めてるの?」
「大学には残らない。福岡に戻って,婦人科と内科の小さな診療所をやってる先生のところで徒弟修行する予定。婦人科が主で,簡単な内科疾患にも対応できる医者を目指すんだ」
「福岡に戻ってくるのは,うれしいな。でも・・・・ちょっと心配」
「何が?」
「患者にもて過ぎるんじゃないかって」
わたしは笑った。
「そんなに無邪気に笑わないで」
「あっ,ごめん。でも,その心配はご無用。女医で通すから」
「女医?」
「うん。わたしはふだんから初対面の人には女と思われるんだ。男と思われることはめったにない。わたしが診察室に白衣を着て座ってたら,患者さんはごく自然に女医さんと思うはずだよ」
「確かに・・・・わたしは初めて見たのが丸刈りの学ラン姿だったから間違えなかったけど,髪が伸びて私服だったら女の子と思っただろうね」
わたしたちは笑いあった。
「岡田さんは?」
「わたしは外科志望なの」
「ああ,似合ってる」
素直にそう言ったわたしに彼女は笑いかける。
「・・・・外科と一口に言ってもいろいろあるよ。脳外科,心臓外科,整形外科,形成外科などなど。わたしは形成外科を考えてる」
「ふーん。ただ治すんじゃなくて,きれいに治してあげるんだ。美容形成も?」
「それも考えなくはないけど・・・・」
彼女はちょっと間をおいた。
「高村クンはよく『男でいたくない』みたいなことを語るけど,それはどこまで本気? 体を作りかえる,体から男の特徴を取り去ろうという気持ち,意志はある?」
「それって,つまり・・・・」
「性転換手術よ」
以前にも,ちょっとだけ話題になった。
「・・・・でも,日本では違法じゃないの?」
「違法とまでは言えない。実際,やってる医者もいる」
「岡田さん,やるつもり?」
「興味はある」
そして彼女はゆっくり深呼吸して,言葉を続けた。
「もし,高村クンが手術をしたいと望むなら,わたしが執刀する。ほかの医者にさせたくない。そのためのスキルを身につけるよ」
彼女は強い眼差しでわたしを見る。真剣な眼差し。本気で話してるんだ。わたしは・・・・突然そんな話題を切り出されて,ちょっと混乱している。
翌日,宇部に戻る。その週の土曜日,山口に行く。スワニーの仕事が終わって,その日はアサミさんの部屋に泊まった。
翌朝,目が覚めて一緒にベッドの中にいる穏やかな時間。わたしは話を切り出した。今のうちにきちんと話しておきたいから。
「アサミさん,わたしは今年で大学を卒業するんです。授業は12月のうちにすべて終わり,卒業試験も終わります。それが終わったら,年内に福岡に引っ越すつもり。つまり,もうここに泊ることはなくなります」
わたしは顔を横向けて彼女を見る。彼女もわたしを見ている。
「分かってるよ。初めから分かってたよ。ジュンは学生だもんね。卒業したら,いなくなるよね。あたしだって分かってて付き合ってたんだから」
わたしは何も言うことを思いつかず,ただ彼女の手を握る。
「それに,ジュンちゃんが学生でなくても,こんな美形があたしなんかとずっと付き合うなんて,あり得ない」
「そんな言い方しないで。『あたしなんか』なんて,そんな言い方・・・・アサミさんはいい人だよ」
わたしは彼女を見つめる。彼女はうれしそうにわたしと指を絡める。
「ジュンちゃん,あんたも,いい子だね」
わたしたちはそのまま黙って体を寄せあっている。それから,起き出した。
夏休みが終わり,秋学期が始まった。ベッドサイド・ラーニングもあと3ヶ月あまり。国家試験まで半年。80~90%が合格する試験だから,なおさら「ぜったいすべれない,すべりたくない」という緊張感もある。そして,卒業後の進路のことも話題になる。医局からの勧誘も5年生の頃と違って現実味を増してくる。進路について問われるとわたしは
「福岡に帰ります」
とだけ答える。
「ああ,九大病院に入局するのか」
と誤解して納得されることもあるけど,敢えて誤解を訂正はしない。
11月半ばを過ぎる頃,ミユキに部屋探しを依頼した。梅沢医院にほど近い西門通りかその近辺,バス付き1Kかワンルーム。
「あまり日当たりのよくない部屋がいい」
と電話で希望を伝えると,
「なんで? たいてい,日当たりがいい部屋を希望するでしょう」
「だって,それくらい小さな部屋で日当たりがいいと,夏は蒸し風呂みたいに暑くなるんだよ」
と説明すると,
「なるほど。経験者は語る,だね」
と納得してくれた。
12月に入って,ミユキから適当な物件が見つかったと連絡があった。
「一度見に来る?」
「ううん。お姉さんを信用してるからその部屋にする。そちらで契約を済ませておいて。そうすれば,卒業試験が終わったらすぐに荷物を送れるからね」
12月の半ば過ぎ,卒業試験が終わった。わたしは山口に向かう。ふだんと違う木曜日の夜。アサミさんはこの日,仕事を早上がりして部屋で待っていてくれた。
「今日はこれからずっと空いてるよ。ジュン,どうしたい? どこか遊びに行く? こんな小さな街にもキャバレーがあって,この時季は賑やかだよ」
「わたしは・・・・そんなところに行くより,アサミさんとここで過ごしたい」
「うん,それでもいいよ。でも,晩ご飯は食べに行くよね」
わたしたちは連れだって食事に出かけた。
「ジュンは飲めないんだよね。あたしだけ飲んでていい?」
「もちろん。わたしに遠慮しないで」
アサミさんは焼き魚と一緒に,人肌に温めた日本酒をおいしそうに飲んでいる。部屋に戻り,ほろ酔い加減のアサミさんと肌を寄せあって眠る。
翌朝,アサミさんとの別れ。彼女は駅までわたしを送ってくれた。田舎の駅の小さなホーム,小郡行きの電車を待つ間,手をつないで黙っている。2両編成の小さな電車が来て,わたしは乗り込む。アサミさんはガラス窓越しに座席に座ったわたしをじっと見ている。電車が動き出すと,手を振った。わたしも一緒に。
その日の午後,宇部の部屋に引っ越し屋さんが来て荷物を運び出した。わたしは電車で福岡に向かう。不動産屋で部屋の鍵を受取り,岡田さんのうちに泊めてもった。
翌日,土曜日の朝,荷物が届くのは午後の予定なので,岡田さんを散歩に誘った。行き慣れた東公園。
「東公園? うん,いいけど・・・・」
彼女の反応がいつもと違う。
「どうしたの? 行きたくない?」
「そんなことはないけど・・・・まあ,行けば分かる」
行けば分かる・・・・どういうことだろう。疑問に思ったけど,問いただしはしなかった。そして,東公園に行って,わたしも分かった。あの藤棚もローズガーデンもつぶされて,建設工事現場になっている。
「県庁が東公園に移転するって話,知らない?」
「ああ・・・・」
それは,聞いたことがある。それにしても・・・・
「なんで,よりによって・・・・」
それ以上,言葉が出てこない。どうして,あの愛らしい藤棚や美しいローズガーデンをつぶさないといけないのか・・・・。
「わたしたちのデートの場所は消えてなくなってしまったの」
という彼女の言葉を聞きながら,わたしはうつむいて黙っている。それから首を振る。
「消えないよ。わたしの,わたしたちの記憶からは消えはしない。ずっと残っているよ。岡田さんも忘れないでね」
「もちろん」
彼女はわたしを見る。
「忘れるはずないじゃない」
午後,わたしは部屋で荷物を待ち受けた。聖福寺などいくつかお寺の建ち並ぶ御笠川に近い静かな路地裏。新築ではないけど老朽でもないごくありふれた2階建ての木造アパート。運び込まれた荷物を片付け終わると夕方近い時間になっていた。梅沢医院の土曜日の診療時間は終わっているから,来週の月曜日行くことにして,わたしは医師国家試験の問題集を取り出して勉強した。
月曜日の朝,梅沢先生はいつものように女性ホルモン剤を処方してくれる。
「引っ越しは済んだのかい?」
「はい。土曜日のうちに済みました。すぐ近く,聖福寺のそばですよ」
「じゃあ,これからはちょくちょく来れるね。というか,4月からは一緒に仕事するんだね」
そしてちょっと間をおいて
「国家試験まであと3ヶ月足らずだけど,朝起きて夜寝るまでずっと試験勉強というのも疲れるだろう」
「はい。さすがに,それは」
「年が明けてから,午後の何時間かここに来ないかね? まだ医師免許がないから医療行為はできないが,いろいろ手伝ってもらえることはある。キミも少しは勉強になるかもしれない」
「いいんですか? それならぜひ」
年が明けてから,わたしは午前中と夕方からの時間は国家試験の勉強に充て,午後の3~4時間くらい梅沢医院で過ごすようになった。雑用を手伝いながら,梅沢先生の間近にいて先生の診療スキルを学ぶ。白衣を着て先生のそばに立っているわたしを見て,たいていの受診者は「看護婦さん?」と尋ねる。
たまに,診療が終わってから,その日の症例のいくつかを取り上げて,診断や処置についてわたしの質問を受けてくれることがある。鑑別診断として,国家試験の勉強で仕入れた知識を動員して珍しい病気の名前を挙げると,梅沢先生は
「ああ,そういう病気もあったね。わたしはまだ一度も遭遇したことがないが・・・・いや,わたしが見落としているだけかもしれないけどね」
と穏やかな口調で語ったりする。
こんなふうに1月,2月は静かに過ぎていき,3月中旬に試験。4月下旬に合格発表。合格していた。梅沢先生は喜んでくれた。もちろん,ミユキも喜んだ。そして,岡田さんとは喜びあった。合格を伝えあう電話で
「これからは『高村先生』と呼ばないといけないかな」
と言われて
「やめて,気持ち悪い」
と答えたら,電話の向こうで明るい笑い声がした。
この日から梅沢医院では,再診の患者さんはわたしが対応することになった。梅沢先生は脇の椅子に座ってスーパーバイザーをやってくれる。患者さんがわたしではなく先生に話しかけることもあるけど,先生は患者さんをわたしの方に誘導してくれる。初診の患者さんは先生が対応する。昼休みと診療終了後の1時間くらい,その日の症例について検討する。わたしを丹念に育てようという気持ちが伝わってくる。そしてこの日から,内科の新患は受付を停止した。
梅沢医院は水曜日と日曜日が休診日になっている。それで火曜日の夜,中洲に出かけた。スワニーみたいな場所がないものかと思って歩くけど,店が多すぎて迷ってしまう。結局,ルナに入った。以前来たのは大学1年生の夏休みだから,もう6年前。その頃のことを覚えている人はいないだろうと思ったら,ママは覚えていた。
「ひょっとして,ミユキちゃんの弟さん?」
「はい。よく覚えていましたね」
「印象が強かったからね。お酒は飲み慣れた?」
「いえ。今でも飲めません」
「じゃあ,何がいいかしら?」
「トニックウォーターをお願いします」
わたしはカウンター席に座ってママと話す。
「ピアノがあって,お客がピアノの伴奏にあわせてジャズとか歌えるお店って,知りませんか?」
「ああ,それなら」
と言って,ママは“Quarter Note”「クォーターノート」というお店を教えてくれた。わたしはさっそく出かけた。
クォーターノートはスワニーと同じくらいの広さで,同じようなアップライトピアノが置いてある。ピアノの伴奏にあわせてお客が歌謡曲を歌っている。カウンターの中に女性が一人,ママさんかな? わたしはカウンター席に座った。
この日から,月に1~2回くらいクォーターノートに出かけるようになった。ママは気さくな人で,店の雰囲気も悪くない。わたしは2~3曲くらい歌わせてもらう。それなりに楽しい空間なのだけど,時おりねっとりとした視線を感じる。大学で時おり感じた視線,あるいは姫のママがわたしに向けた視線。スワニーでは感じなかったのにと思って,わたしは自分の勘違いに気づいた。スワニーでは,わたしは男だったんだ。ここでは女で通している。だからこんな視線を投げかけられる。気詰まりだった。せっかく楽しい店なのに。
あの日も,そんな視線を感じていた。その時,ドアが開いて男女二人連れが入ってきた。女性がわたしを見て,
「あら,先生! ここに来てるの?」
と声をかけた。梅沢医院の患者さんだった。彼女は連れに
「わたしがお世話になってる婦人科の先生」
と説明している。同伴出勤なのかな。彼女はわたしと二言三言話をしてボックス席に座った。
「ジュンさん,女医さんだったの」
と,ママが驚いたようにわたしに問いかける。わたしはちょっと照れ笑いしてうなずいた。
それから,あの視線を感じなくなった。
彼女が受診した時,その話をすると,
「そりゃあ,女医と分かればたいがいの男は引くでしょう」
と笑って説明する。
「そんなものなの?」
「男って,そんなものよ。まあ,わたしなんか,男の目を向けさせることができるなら,むしろ快感だけどね。それを仕事にしてるみたいなもんだし」
と,彼女は屈託なく答えた。
クォーターノートでは,自分の職業を明かしたくなかった。医者という肩書きを離れてくつろげる世界にしたかった。でも,女が一人でああいう場所にいるとあのねっとりした視線にさらされる。女医という鎧をまとえばそれから逃れられる。どちらの方が良かったのか,考えても仕方ない。もう女医と知られてしまったのだから。
その代わり,これをきっかけに彼女とは受診の折に屈託のない話をするようになった。そしていつしか,ほかの水商売の女性たちとも打ち解けた態度を取れるようになった。医者と患者の関係ではあるけど,その限度の中で,女どうしの気楽な付き合いのように。
岡田さんとは月に1回くらい会っている。大学病院で,軍隊式というか体育会系というか,厳しくしごかれている彼女のぼやきの聞き役になることが多い。勝ち気な彼女,弱音は吐かないけど,ぼやきはする。それを聞きながら,わたしには無理だなあと思う。
「そんな荒っぽい研修を2年も受けてたら,心のうぶ毛が1本残らず抜け落ちてしまわないかな」
「心のうぶ毛?」
「うん。ある人の表現なんだけど,なんとなく分かるでしょう,何を言いたいか」
「繊細な感受性とか思いやりとか,そんなもの?」
「うん。まあ,そんなもの」
「まあ,そんなものは抜き取られてしまうだろうね」
「でも,それって,患者さんを相手するのに必要なものじゃない?」
彼女は苦笑いする。
「まあ,2年間はがんばるよ」
「ぼやきを聞くだけなら,いくらでも聞くよ」
「ありがとう。なんだか,立場が逆転したみたい」
卒業前に「どんな悩みも受け止める」と言ってくれたけど,そしてその気持ちを失ってはいないだろうけど,今しばらくは,わたしの悩みを語るのは控えておこう。
ミユキとは,毎週でも会いたいのだけど,難しい。フレンチレストランのオーナー兼シェフの補佐役というか現場責任者みたいな立場になって,午後2時から5時までの休み時間もいろんな仕事を抱えているから。レストランの経営は料理を作って食べさせるだけではない。
それでも,月1回くらいは時間を作ってわたしと会ってくれる。いつものように言葉少なに,差し向かいに座っているけど,
「もともと味には自信のある店だったけど,最近は評判が広まって,お客が増えて繁盛するようになって,忙しいの」
「お姉さんの力もあるんじゃない。内助の功じゃなくて,外で働いているんだから外助の功かな」
くらいの会話は交わす。ミユキの店が繁盛するのはうれしい。でも,ちょっと寂しい気もする。わたしと会える時間が減るから。