朝、目を覚ます。
意識の覚醒、揺蕩う眠気の中から水面に顔を出すように目が覚める。瞬きを繰り返すと既に見慣れた自室の天井に付着した染みが俺を無言のままに見返す。
思考に空白を残したまま乾いた口内で舌を動かしながら俺は寝台から立ち上がった。
「ふあ」
欠伸をしながら上体を起こす。
カーテンを開けると優しい朝の陽射しが俺に降り注ぐ。
時計を見ると朝八時と普段ならば二度寝しているだろう時間帯だ。
……思った以上に熟睡していたのだろう。
パジャマから普段着に着替える頃には頭も視界も明瞭だった。
気分が乗って、ベッドのシーツを直したり軽く掃除をしたりする。早朝の時間は聡明な俺の頭脳もまだ何の情報も得ておらず疲れていないからだろう。
ストレッチをして身体を解し、洗面台で顔を洗い顔を上げる。
「――――」
薄い茶髪寄りではあるが紛れもない黒髪。
ジッと俺を見つめる男の瞳や顔立ちは標準的な日本人の物だ。見慣れた己の顔を睨みつけていると、何となしに鏡の中の男は唇に指で触れた。
がさついた男の唇に抱く想いなど無い。ただ情欲の記憶だけが鮮明に残っている。
「――――」
あれから数日。
昨日の男は今日の俺に。今日の俺は明日の俺に任せて。
半ば現実逃避しがちな内容が、色濃い記憶が、俺の脳裏を過って。
「ああ、クソ。乙女か俺は」
再度、顔を洗う。
早朝の水は冷たかった。
+
「おはよう、カズマ」
俺が目を覚まし身支度を済ませ台所に向かうとダクネスがいた。
本名ダスティネス・フォード・ララティーナという可愛らしい名前の貴族だ。ダスティネス家は代々王族の懐刀を務める「盾」の一族である。
長い金髪を三つ編みに纏め肩に垂らしている女。
質素な私服と髪色、豊かな双丘は服越しでも主張され、残念な性癖を除けば貴族とは思えない。見た目は俺好みの女ではあるが、好みに近づく程に中身の残念さが引き立つ仕様だ。
スタイルはともかくアイリスにはダクネスのようにはなって欲しくはない。
「――おはよう、ララティーナお嬢様。素敵な朝ですね」
「ら!? お、おはようカズマ。それと、……ララティーナお嬢様は止めて下さい」
「お、おう。ところで今日の当番はお前だっけ?」
「ん、いやカズマだったと思うが。……ここ最近実家の方で私も料理の腕を上げてきたのだ。ここは一つ、『普通』の料理から脱却しようかと思ってな。お前の代わりに作ってるのだが」
「お前が腕を上げるって誤差みたいなもんだろ」
「誤差とはなんだ! 誤差とは! 罵倒すれば良いって物じゃないぞ!」
「いや別に罵倒した訳じゃ……。ほら、お前の料理は別段凄く美味いという訳でもないしさ! 何度も言ってるけど調理に関しては料理スキル持ちの俺に任せて、片付けだけすれば良いんだよ!」
「断る。私にだって女の矜持くらいあるのだ! たまたま朝早く起きただけのニートに負け続けていては、日頃から私に仕込んでくれる当家の料理人達に顔向けできん! いいから座ってろ! もしくはめぐみん達を起こしてこい!」
「へいへい」
ダクネスがどんな朝食を作るのか。
微かな期待をしつつも、彼女に背を向け再度階段を上っていく。
「おい、めぐみん。朝飯だぞー」
「ん……、もうそんな時間なのですね」
黒髪の少女の部屋にノックせずに入る。
ぷわりと鼻奥を擽る甘酒のような香りはベッドに包まる黒髪の少女から漂う。布団に包まり小さく呻く姿からは短気で喧嘩っ早く爆裂に命を懸けるヤベー奴とは思えない。
「朝だぞ、おい。起きろよー」
「んんっ、カズマ。……キスで起こしてくれても、良いんですよ」
「はっ」
「あれ?」
何か寝ぼけた事を告げるめぐみん。
対して紳士な俺は小娘の言葉に対して思わず肺の中の空気を抜くように笑ってしまった。
寝ぼけた少女の挙動は無視しつつも既に起きている事は判明した為、二度寝防止の為にと部屋のカーテンを開けようとして。
「ん? ……おい、めぐみん」
「はぁい」
「酒飲んだ?」
「ええ。昨日一緒にアクアと呑んでまして。実は少し……頭が痛いのです」
「飲み過ぎは控えろって言っただろうが!」
「良いじゃないですか。私はとっくの昔に成人しているのですよ? カズマのいた国ではオール? なる物があるらしいではないですか。少しくらいなら大丈夫ですよ」
「夜中まで飲んでる奴がいるか!」
この異世界では飲酒に関して年齢制限という物は存在しない。
簡単に言えば自己責任。飲むのは自由でその結果は全て己の責任という物だ。
ちなみにめぐみんはシュワシュワは味が駄目だったらしいが、なんやかんやでアクアに勧められ甘い果汁酒の美味しさを知り惹かれた結果がこれである。
「昨日はアクアと二人で女子会をしてました」
「そんな酒臭い女子会があるか。『クリエイト・ウォーター』! ……たく、ほら飲め」
地味ながらも便利な魔法は俺の手のひらから小水を噴き出す。こぽこぽと水音を立て注がれたコップを掴ませると、ちびりとめぐみんは水を飲み始めた。
そんな髪の毛に寝癖のついた少女を見下ろしながら俺は小さく吐息した。
コクコクと喉を鳴らしながら飲むめぐみん。彼女に背を向け、歩く。
ノックをせずに彼女の自室に入り込むと、だらしなさの塊がそこにいた。寝台で大の字になって寝転がる側だけ美少女は空の酒瓶をお供に眠りこけていた。
「すかー……」
「寝てるかー」
酒効果で熟睡をキメている自称女神。
青く長い髪の毛をシーツに乱れさせ眠る姿を見ながら、俺は胸を揉む。
無防備を晒すアクアの胸は水の女神らしく心地よい柔らかさが手のひらに広がる。そんな風に彼女が覚醒するまで暫く揉み続ける。
「……ふぅ、起きろ頭パー。最近めぐみんにまで自堕落っぷりを感染させやがって。アクシズ教の道に引き摺り込もうとするんじゃねーよ」
「んっ……。うぇ? カジュマさん? ……私は寝てるの。神聖なる女神であるこの私の眠りを妨げないで。眠いの。ヒキニートに構う気分じゃないの。ほら出てってー。出ていってー!」
この女、ひっ叩きたい。
「朝飯だぞ。ほら、起きろ」
「いやー! 私から布団を奪わないで! ねえカズマ? ニートの貴方に朝なんて似合わないわ。貴方は昼から夜の駄目な時間帯を生きる人種でしょう? ほら、今なら温かい布団がついてるわ。一緒に寝ましょう?」
「馬鹿言ってないで早く起きろよ! ……あと十秒で起きないと布団の中にフリーズを行う」
「やだーカズマさんたら。そんな悪魔のような所業なんてしないわよね? ねえ」
「馬鹿だなーアクア。俺はやるといったらやる男だぞ? あとは……分かるよな?」
長い付き合いの彼女は文句を言いつつも行動で理解を示してくれた。
青を基調とした衣に着替えた寝ぼけ眼なアクアの手を引き共にリビングに向かう。リビングのテーブルには既に完成したであろう朝食と椅子に座っていたダクネスとめぐみんがいた。
「揃いましたね。それじゃあ食べましょうか」
「いただきます」
「ねむーい。ねえ、カズマ。私、コーヒーが飲みたい気分なんですけど」
「食後の方がいいだろ」
口々に好きな事を言いながら俺たちを朝飯を進める。
本日はトースト、スクランブルエッグといった物だけではなく微妙に凝ったおかずが数品程テーブルの上にある。
「それでさっきの話なんだが」
「なーに、カズマさん? なんだかんだ言いながら貴方が私にちょくちょくセクハラしている事? それとも私たちの下着で夜な夜なゴソゴソしている事? 今日は気分が良いので寛容な女神である私の名において許しましょう」
「ししし、してねーし! ……ほら、最近めぐみん誘って宴会やらなんやらしてるが、あんまり酒呑ませるなよ」
「そうだぞアクア。まだめぐみんは酒を覚えたてなんだ。むやみに飲ませると本当に頭パーになるぞ。飲み過ぎは身体にも毒だぞ」
「誰の頭がアクアですか? 最近はキチンと自制出来るようになってきましたよ」
「大丈夫よ、二人とも。めぐみんの事を心配しすぎ。呑みたい物を呑んで健康に悪いなんて聞いた事が無いわ。……ん? ちょっと待ってめぐみん。頭アクアってどういう事?」
「なんでもありません。……それよりもアクアはそろそろ仕事の時期ではありませんか?」
「そーなのよ! 聞いてよ! この麗しい女神であるこの私がどうして仕事なんてしないといけないのよ!!」
「女神だからでは?」
魔王討伐後、女神であるアクアにも天界で仕事をする機会が増えたという。なんでもアクアにしか出来ない仕事のようで天使たちも困っているらしい。アクアよりも上の神様からの直々の命令らしいがキチンと仕事を行えば、またこの世界に還ってくるのだ。
本当にたまに一、二週間程度の仕事らしく、一年に一回ある程度なのだが。
「まあ、ほら、エリス様を助けてあげると思えばやる気も沸くだろ? アクアが手伝ってやれば泣いて喜ぶんじゃないか?」
「……そうね。駄目な後輩女神を助けるのは先輩の役目だものね。まったく! エリスってばいつまでたっても私抜きじゃ駄目なんだから! 仕方ないからちょっと天界に行ってくるわね!」
豚も煽てれば木に登るという。
コロコロと表情を変える女神を見ながら朝食を進めているとダクネスが。
「カズマは今日はどうするのだ?」
「んー、買い物でもしようかな」
「そうか。……最近はギルドでも馬鹿みたいに宴会開かなくなったようだし安心したぞ、私は」
「最近のカズマは真人間に近づいてますよね。……共に深淵に戻りませんか」
「徘徊ニートになってきたけどね」
「……ところで、皆。今日の朝御飯についてなのだが」
「「普通」」
「!?」
+
アクアが天界に向かう光の柱を皆で見送り、俺はアクセルの街に繰り出した。
とはいえ、ダクネスが言ったようにギルドに行って無駄金を使う訳ではない。
「――アクセルの街へようこそ」
テレポート屋。
遠くの街からこのアクセルまでを一気にテレポートの魔法で移動する職業と言えば良いのだろうか。仕事内容としては人数制限がある、魔法なので個人の魔力総量に依存する、体調に左右されると不安定ではあるが間違いなく馬車を使用するよりも早い。
何しろ文字通り一瞬での移動を可能とするのだから。
「――それではまたのご機会をお待ちしております」
受付の人がお辞儀をする中で運ばれた人がアクセルの街に脚を踏み入れ人混みへと姿を眩ます。そんな人の数を俺はぼんやりと見ていた。
「……あれ? カズマじゃんか」
「ダストか」
「お前、こんなとこで何やってんだ? ナンパか? まあお前なら金目当ての連中だけなら釣れるだろうけどな」
「ちげーよ」
「じゃあ、何やってんだよ」
「……人間観察? まあ趣味だ」
「ほーん。あの糞ガキみたいな事してんのな」
「俺はぼっちじゃないがな」
鼻をほじりながら興味なさそうな顔をする冒険者の男。
名前通りの人物と言えばおおよその性格については理解できるだろう。
「そういや、カズマ。この間、サキュバスの店でよ。良い感じのおっぱいのお姉さんが入ってきてさ――」
「おう」
テレポート屋が見えるテラス席でコーヒーを呑む俺に、自然に酒をたかるダスト。
アクア達とパーティーを組み、また一時期は俺たちのパーティーに所属した事のある、この街でも上位に位置する冒険者の一人と適当に相槌と、女性陣が聞けば顔を顰めるだろう下種の世間話をしていると。
彼の背後、テレポート屋で新たな客がアクセルの街に踏み込んで走る影が一つ。
それを追いかける影がいるが徐々に距離が離れ始めている。
「……!」
「そういやカズマ。お前昼飯食ったか? ……おい、どうしたよ? あの金髪の姉ちゃんが気になんのか? やめとけって。絶対アレ見た目だけで性格キツイだろ。絶対お前の好みじゃないだろ」
「いや身体だけなら……。って、そっちじゃない!」
「だったら……。あっ、ふーん」
「なんだよ」
「いや」
喉を鳴らして酒を飲み、ほのかに頬を火照らせたダストはニヤリと笑う。
何かを察したらしい男のニヤケ面は見るに堪えず、俺は会計の為に立ち上がる。
「おい、ダスト」
「なんだよ、ロリコン」
「そのニヤケ面今すぐやめなかったら、お前に惚れてる貴族の男を枕元に送り込んでやる。
……今度は痔じゃすまないだろうな」
「それだけはやめてくれ!」
「ダスト。バイトをしないか? 十万エリスであの白スーツの時間稼ぎ。冒険者ギルドや他の冒険者に舐めた渾名を広めなければプラスで十万」
「任せろ」
金とは力だ。
男の友情を拳で交わし、俺は路地裏に。
背後では二十万エリスの為にチンピラは走る金髪の女に突撃を行った。
「いったー」
「? すまない」
「おいおいおい。姉ちゃんよ。俺の左腕が粉砕骨折しちまったじゃなねーかよ! どーしてくれんだ、ええっ!! 慰謝料払えや。もしくはその硬そうなおっぱいの一つくらい揉ませろや」
「……は?」
「おいおい。は? じゃねーんだよ。俺の腕どうしてくれ~んだよ! ……ほげぇえあ!?」
ダストが文字通りのゴミにされるまでに作った時間。
肉の殴打音と鶏を絞めた声のような物を背後から聞きながら俺は走る。
人混みの多さと体内時計は昼を少し過ぎた程度だと教えてくれる。そんな邪魔な有象無象の隙間の中を疾走スキルを使用し、聞き耳スキルを併用して、俺は本気である人を探し当てる。
その相手は――。
「やあ」
「!? お、お兄……、カズマ様」
蒼色の瞳がフードの中で大きく見開く。
「……あー、元気だったか?」
「……はい」
「昼飯、食った?」
「まだです」
その瞳が俺を映す。
空は曇り模様の中、唯一大空が広がる瞳が。
僅かに瞳を揺らして此方を見上げる姿に俺は思わず息を呑む。
不思議な物だった。
王城に行けば会えるのに。その脚で向かえば逢いに行けるだろうに。少し気まずく思って次会う時にはどんな顔をしたらいいかと思って。昨日の俺も、今日の俺もヘタレてしまっていた。
「なあ、知ってるか? 意外と俺ってヘタレなところも、少しはあるって」
「知ってるも何もお兄様ってそういう人ですよね」
「――――」
「でも」
「でも?」
「でも。カズマ様はここぞという時には決める殿方だって、私は知っていますから」
くすくすと笑う少女を見下ろす。
それだけで、気まずいと思っていた心の障壁は甘く溶かされていく。
目の前の年下の少女に自然と強張っていた身体の硬直は溶けていき、俺は笑った。
「アイリス」
「はい」
「最近出来た美味い庶民の店があるんだが、一緒にどう?」
「……喜んで」
――人生で初めてナンパに成功した瞬間だった。