――『助手君、……カズマ君とねエッチしちゃった』
何気ない言葉だった。
湯船に浸かって、邪魔もなく友人との会話をしようとした時に。
――『実は私の正体は女神エリスなのでした!』
衝撃よりも、まず理解が出来なかった。
この人はいったい何を言っているのだろうか、と。
――『アイリスさんがこんなところでコソコソと準備している間に、私とアクア先輩でカズマ君を食べちゃいました! まあ、食べられもしたんだけどね』
時間が経過する程に、その言葉を思い出す度に。
――『ここに出されちゃった。孕め! って言ってさ。凄かったよ』
毒が身体を蝕んでいくかのように、あの女の言葉が脳裏を過る。
――『もうカズマさんは私たちの物です。結ばれたんです。身体も……魂も』
挑発だと思った。冗談であれと思った。
関係を結んだ相手を奪おうとする泥棒に何を言ったのかは思い出せない。醜態を晒した覚えは無く記憶も朧気だが、告げられた言葉を、表情を、優越感に浸った瞳だけは忘れられない。
――『アイリスさん。そのうえで提案があるのですが』
奪われたくない。失いたくはない。
裏切られた。悔しい。悲しい。許せない。
感情の向かう先は様々だ。
ある男であり、ある女であり、そして何より不甲斐ない自分自身。
感情的になり喚き暴れるなんて子供のような癇癪を起さない自分を褒めたかった。
人はモノではない。奴隷でない限り誰かの所有物などではない。
そんな綺麗ごとは頭から転げ落ちて、残ったのは怒りだけだった。
『――――』
こみ上げてくる怒りが。
理不尽という、常識外からの侵略者への、怒りに、溺れていく。
『――――』
得意気な顔で、つらつらと告げる銀髪の少女を前に笑みを浮かべる。
武器が無くて良かった。もしこの手にあったなら首を落としただろう。
友人だと思っていたのに。きっと此方の恋心など理解してくれていただろうに。それを理解してもなお、平然とした顔で笑みを浮かべて人のモノに手を出すなんて。
なんて――、
+
ふいに、首に掛かった腕が外れ窒息死への道筋が絶たれる。
暗闇に一瞬銀髪の少女の姿が見えた気がしたが、微かに開いた視界には金色が滲む。
「――ぶ、ぶ」
咳き込む喉に、慌てて酸素を求める。
底なし沼に溺れて浮かび上がる筈が無かったのに、運良く顔を出せたような感覚だ。まさか死ぬと思っていたのに窒息する寸前で空気を再び吸う事が出来るようになるとは。
――せめて一思いに殺して欲しかった。
「げほっ、ごほっ!!」
手足をバタつかせ引き攣ったカエルのような醜態を晒す。
口端から泡を吹かせ、身体を動かす事を忘れ、状況を理解せず、必死に呼吸を繰り返す。
窒息への道筋は中途ながら終焉を迎え、しかし身体が唐突な空気に追いつけない。
萎えた肺を膨らませ、咽ながら再び萎めて膨らませる。ブラックアウトした筈の意識は電流が奔ったかのように強制的に戻され、不足していた酸素を急速に取り込んでいく。
運悪く死に損なったのか、或いは死ぬことすら許されないのか。
仮にソレが彼女の手によって故意に引き起こされたなら、こんな拷問染みた真似をあと何回味わさせられるのだろうか、と最悪な想像が頭を過る。
有り得ないと思いたい。それでも、もしこの後もこの拷問を繰り返す気ならば。
ハーレム、などとのたまった己の意志がこの世界から消えるまでだろうか。
じっくりと苦しめてから生の意志を殺して、肉体も精神も彼女は殺すつもりなのか。
「――――」
だとしたら、アイリスの選択は的確だろう。
達観していた死への妥協、それを壊され、今はただ生への渇望に縋る。どこにでもある空気を吸うという生への執着に捉えられていた。
このままジワジワと鑢で骨を削るように王女に殺されるのか。
桶の入った水に顔を沈めさせられ、死ぬ寸前に顔を上げさせる。そうして空気という名の生を実感させて、己を裏切った事を悔いさせて何度も死ぬ寸前にまで追い込まれるのか。
そんな絶望が胸中を過る中、頭痛と耳鳴りと涙で滲んだ目元を手で拭うと薄い青い光が見えた。
――その光を前に、想像は想像に過ぎないという事を少しずつ理解していく。
「…………」
「――アイ、リス」
羽布団のように軽い金髪の美少女がそこにいた。
俺の腰に圧し掛かり、衣服すら身に着けず白い裸体を晒す彼女から発せられた青色の光が俺の喉付近へと当てられている。
徐々に、少しずつ、緩慢とだが空気が足りず喘いでいた肉体から痛みが減っていく。
回復魔法の類、或いは王族の固有スキルなのか。いずれにしても乳房や恥部を隠す素振りも見せず、見ている此方が痛みを覚える悲哀に満ちた表情の彼女は青色の光を俺に浴びせ続ける。
「――ぁ」
「……!」
目が、合った。
唇を噛み締めて、大きな瞳から涙を溢れさせる少女。
大粒の涙は宝石のようで、サファイアを思わせる暖かい滴がポタリポタリと俺の肌に落ちる。
前傾姿勢で俺の肩に置いた指は頼りない程に震えていた。
俺を見るアイリスの眼差しには、様々な感情が、絶望と怯えが見えた。何もかもが終わったかのような、まるで借金三億を背負ったかのような、そんな陰惨な表情に陰りのある瞳が俺を捉える。
そんな感情に反映されるように彼女の手にある青色の光が揺らぎ消失する。
「――――」
何を口にすれば良いのか。
助けてくれてありがとう? どうして殺さなかった? 浮気して悪かった?
色々な言葉が思考を過るも目の前で泣いている少女を前に、全てが霧散していく。
結局何も言えず、王女の発言を許してしまった。
「――ごめんなさい」
「――――」
「ごめんなさぃ……」
首筋に涙が零れ落ちる。
目元を拭って、嗚咽を漏らすアイリスを前に息を吸う。
「良いのか?」
「ぇ?」
「俺を殺さなくて良いのか?」
「――――」
肺に空気を取り込んで、緩慢な頭をどうにか回して。
取り敢えず、頭に浮かんだ言葉だけを彼女に告げる。
「アイリス。……俺は、お前が好きだ」
「……ぇ?」
「俺はお前が好きだ。……だけど、アクアやエリス様に手を出してしまった。欲望に忠実に、ちょっと我慢すれば良いだけなのに、我慢出来ずにホイホイと手を出してしまった。……そんな屑にお前は泣かされてる。何だかんだであいつらも嫁にしたいなって開き直る屑にはもうどうすれば良いか分からない。だったらせめてお前の好きなように任せてしまおうかな、と」
心からの本心だった。
アイリスをほったらかしにして、アクアやエリスに手を出してしまった。人間なら金とかでなんとかなったかもしれないが、相手は女神だ。本能で手を出したからにはただでは済まないというのを予感していた。多分、死んでも死にきれなそうな何かがあると思った。
別にそれでも良かった。何を隠していても彼女たちに手を出した事は後悔してなかった。
ただ、それでアイリスの心を傷つけてしまったのなら。
ハーレムを求めた愚かな男を、満足いくまで殴るなり煮るなり好きにして欲しかった。
「だから、謝るならアイリスじゃなくて、俺だ。……ごめんな」
相も変わらず状況は少女に馬乗りになられた状態だ。
身体から力を抜き、両手を広げた男の腰に全裸の美少女が乗っている。
死ぬのは怖い。首を絞められるのは怖いが、目の前の少女をこれ以上悲しませるのは嫌だった。
「俺の意志がもっと強靭なら……浮気してごめんな」
「……そうですね。カズマ様は最低です。でも、そうじゃないんです」
此方を見下ろすアイリス。金色の髪が垂れ下がり苦渋に満ちた表情は変わらない。
「カズマ様と結ばれてからどんどん欲深くなってるんです。カズマ様はモノじゃないのに、カズマ様を私のモノにしたいって。頭の先から爪先まで誰にも渡したくないって。ホイホイ女の人に手を出したカズマ様よりも擦り寄ってくる人たちに対してそんな事を思ってしまって……私は嫌な子なんです。醜くて酷い人なんです」
「――――」
「カズマ様がエリス様やアクア様と行為に及んだ事を知った時、私がどんな気持ちだったか分かりますか?」
「……どんな気持ちだったんだ?」
「分からないです。頭の中が色々な事がぐちゃぐちゃになって、失いたくないって……。奪われたくないって、……そう思って」
「…………」
「だから、もういっそカズマ様を殺して、私も死のうかなって。でもそうしたらカズマ様はエリス様の元へ逝ってしまう。そうしたら二度と逢えない。今度は私の手でカズマ様が離れてしまうって思ったら、嫌いになられたらって思ったら、もう自分がどうしたいのか、分からなくて……!」
「殺すのを止めたと……」
コクリと頷くアイリス、その姿を見て身体の奥が熱くなる。
この熱は怒りだった。その矛先は決して目の前で無く金髪の少女にではない。世界で最も身近な存在、優柔不断で愚かな自分自身に対する物だった。
「馬鹿が……」
馬鹿だ。大馬鹿だ。どうしてこんな簡単な事に気付けなかったのか。
決まっている。調子に乗っていたからだ。
「アイリス」
上体を起こし、俯く彼女の腰を抱き寄せる。
未だに涙が止まらないアイリスを抱きしめて、胸と胸が密着する程にくっついて。
嘘偽りのない言葉を、万感の想いを口にした。
「アイリス。俺は――お前が好きだ」
「――――」
「アクアやエリスに手を出しちまったどうしようもない男だけど。ハーレム気取りで女神と浮気しまくった屑だけど、……世界で誰よりもお前が、アイリスが好きだ」
「――――」
「それだけは嘘じゃない」
「――――」
ぐすり、と鼻を啜る音が聞こえる。
顔を合わせ、涙で溢れる瞳を擦るアイリスを見ながら俺は口を開く。
嗚咽を漏らす彼女の滑らかな背中を摩り十分もした頃、涙混じりの声で彼女は告げた。
「……本当に?」
「ああ」
「……信じられません」
「…………」
「だから、証明して下さい」
「証明……」
「そうです。教えて下さい」
乱暴に目元を擦った彼女は大空を思わせる双眸で俺を射貫く。
甘さはなく、憎悪もなく、静かに此方の覚悟を問い掛けるように頬に手を当て小声で囁く。
教えて欲しいとコツンと額を合わせる彼女は微笑を浮かべた。
「私をどれだけ好きなのか」
+
時計の長針が何度回っただろうか。
少なくとも一回では無かったかもしれないし、実は一回も回っていなかったかもしれない。単純に時計に目が行かない程に熱中し、他への関心を向ける事など良しとしなかったからだが。
「カズマ様って……本当に最低です」
「んん……」
僅かな寝言に閉口するアイリスは無言のまま隣に目を向ける。
先ほどまでこれ以上なく愛し合った彼はスッキリしたらそのまま眠ってしまった。散々アイリスを泣かせて、啼かせて、クレアやレインどころか家族にすら見られた事の無いはしたない行為を散々繰り広げて、素知らぬ顔で眠っているのだ。
王族にさせたら重罪どころか死刑になるような事ばかりさせたのだ。許さない。
そっと鼻を摘み、顔を顰めるカズマを見て少しだけ溜飲が下がる。
「カズマ様ですもんね……」
目と鼻の先に全裸の少年がいる。
――否、そろそろ少年から青年になりつつある裸体を堂々と晒す彼は死んだように寝ている。
その胸板を掌で撫でて、その感触に胸をドキドキさせながらカズマの寝顔に目を向ける。
粗暴で怠惰でヘタレな男、相手が貴族だろうと、王族だろうと、それどころか神を相手にしたってその態度を何一つ変える事が無い。無礼で、あけすけで、王族にある事無い事吹き込み、大人げなく、そして何よりも彼は身分よりも相手自身を見てくれる。
王族ではなくただのアイリスを見て、普通に接してくれるのだ。
それが嬉しく、たまらなく愛おしいと感じる。
「――カズマ様」
そんな彼をアイリスは殺すところだった。
アイリスの見てない間にフラフラと女のところへと向かい不貞行為に及んだカズマ。アイリスという相手がいながら行った行為は許されない筈だ。相手が神だろうと許せない。許さない。
自分でも感情的になっているのは分かる。
数年に渡る高等教育により、カズマの言う一夫多妻制は他の有力な家との繋がりを強靭な物へと変え、王国をより盤石な物にする為に必要な事なのだという事はアイリスも分かっている。
そんな事を考えていたかはともかくカズマは女神と、神と男女の関係になったのだ。
「なんて……」
――なんて卑しい女なのだろう。
神を前にして、友人だった銀髪の少女と青髪の少女にアイリスは思う。
意志の弱いカズマの事だ。何かしらの褒美として身体を差し出す、といった大義名分を用意して見事に釣り針に引っ掛かったのだろう。神といっても所詮はそんなものなのか。
そんなハニートラップに引っ掛かるカズマが恨めしい。
そんなカズマを理解していると言わんばかりに手を出した女神が疎ましい。
そして、それ以上にそちらに対しての対策を講じえなかった自分が憎たらしい。
そんな思いがぐちゃぐちゃになって。
ふと我に返って、安易に殺人という手段に手を出しそうになって。
殺す寸前で思い留まって、それを許されて自己嫌悪と幸福感に包まれてしまったのだ。
「――――」
嫌悪感を覚えながらも、ふと優越感に駆られる。
サトウカズマが許す相手、特に自身の殺害を許容する相手などいるのだろうか。
あの時絞め殺そうとした相手がめぐみんやララティーナなら彼は許さないのではないのか。そんな些細な『もしも』の出来事にすら頬が緩むのを覚える。
「ふふ……」
彼の胸板に顔を擦りつけながら多幸感に笑みが零れる。
前提からして有り得ない、と思った。
だって彼女たちは結局はどっちつかずの対応で肉体関係ですらないのだ。あれだけ時間があって、アイリスがカズマと出会う前から一緒にいたのに、結局は恋人未満の関係でしかない。
――アイリスとは違うのだ。
「愛してますよ、カズマ様」
「…………」
返答はない。寝ているのだから当たり前だ。
いつかは彼から言って欲しい言葉だ。
冗談交じりでもなく、照れ臭さが混じっていても良いから、本心の言葉を。それを求めるのは、どこかひねくれたカズマに対して酷という物かもしれないから今は代替品で我慢する。
貰った『好き』よりも先の言葉をアイリスは彼に求め始めている。
『愛している』とどこか捻くれた彼が言いそうにない言葉をアイリスは求めていた。
「私って本当に欲深いんですよ。カズマ様」
眠るカズマにアイリスが手を伸ばすのはベッドの下だ。
昼間に冒険者が聖書に釣られていたすぐ近くに隠されていた小さな箱。
中にあるのは小さな指輪が二つ。
玩具の指輪と、録音機能の付いた高級ながらも玩具のソレと似た装飾のされた指輪だ。
「…………」
特別な効果や力がある訳ではないただの指輪だ。
左手に嵌めた玩具の指輪など、殺人未遂を犯した王女の前に無防備に寝顔を晒す冒険者がお土産にプレゼントしてきた物だ。もう片方の指輪は偶然にも手に入った音声が無ければガラクタだ。
意識の無い冒険者ごと布団に包まりながら、アイリスは寝る前の日課を行う。
耳に指輪の小さな宝石を宛がい、リングにある小さな摘みを捻る。
微かなノイズと共にアイリスの耳朶に響くのは男の声だ。
『――アイリス……愛してる』
「……ッ」
脳髄にまで届くような甘い声音だ。
どこか恰好付けたキザな声色は今でもあの時の情景を容易に思い出させる。突然の事に反応出来なかったアイリスを余所に、不安に思った彼が己の顔を店員に見せて鼻で笑われた光景が瞼の裏に思い浮かび笑ってしまう。
彼の声を聴く度に、貰った指輪を撫でて眠る前の空想に微睡む。
カズマとこんな事がしたいな、と。
一緒にあんな場所に行きたいな、と。
そして眠る前に、やりたい事を紙に綴って眠る。
――それが新しく出来た誰も知らないアイリスの日課だった。
「あのパスタ屋さん。また行きたいです」
「……ん、んん」
「カズマ様があのメニューを作ってくれても良いんですよ? 食べたいです」
眠っている相手に離し掛ける行為に意味は無い。
首に自分が残した痕を撫でながらアイリスはカズマに話し掛ける。
普段は寝台で一人彼の声を聴く。今回はソレに実物大の抱き枕と質感と匂いと体温というおまけ付き。控え目にいって最高だと胸板に顔を擦りつける。
『どれくらい私の事を愛しているのですか?』
「――――」
『魔王を倒しちゃうくらいかな。アイリスの為なら俺はなんだってやってやるよ!』
「……ッ」
偶然か、身動ぎするカズマが腕を動かす。
アイリスを抱き枕と認識したのか、布団の中で腕をアイリスの背中へと回し密着する。
素面ならば恥ずかしくて茶化しそうな行為も眠ってしまえば問題なく平然と行う。王女の心臓の鼓動など無視して抱き寄せる冒険者の首元に、ふとアイリスの唇が触れる。
摘みを捻る。
『アイリス……愛してる』
今までは眠る前に声を聴くだけで満足だったのに。
今回は空想ではない現実が視界を、嗅覚を、味覚を、聴覚を支配していた。
『……愛してる』
ちゅっと触れた首筋は僅かに汗の味がした。
クラクラとする汗と男の香りが鼻腔を擽る度に、ドクンと鼓動が高鳴る。
『……愛してる』
冗談で言った言葉だと分かってる。
今はともかく、以前揶揄う為に告げていたカズマの言葉だと、分かっているのだ。
『アイリス』
それでもこの機械の音声を、繰り返す事を止められない。
「ん……」
布団の中で身体に手を宛がう。
片手は耳に当てたままで、玩具の指輪を付けた手は少し汗ばんだ己の下腹部へ。
『愛してる』
「私も……」
くちゅり、と恥部を撫でる指は真新しい蜜で濡れていて。
鼓動の高鳴りを理解しながら、ゆっくりと指の腹を動かす。
『アイしてる』
「――私も愛してます、カズマ様」
いつか本気で言ってくれないかな、と期待しながら。
この気持ちが独りよがりのモノにならないように、想いを馳せながら。
指輪から手を離す事も出来ずに、今日もアイリスは一人で夜の日課に励むのだ。