――秋津市東側・住宅街・遠坂邸――
時刻はアーチャーがライダーの下へと向かうよりも遡る。
朝方、遠坂邸には変わることのない朝が訪れていた。昨日と変わらず、大きすぎる屋敷の中には遠坂蓮司とアーチャーの二人だけがいる。本来の主であった遠坂煉を失ってから、変わることなく二人で過ごすにはこの屋敷はあまりにも大きすぎる。
「魔術協会や諸々の手続きは聖杯戦争が終わったら行うよ。父さんがいなくなったとしても、まだまだ聖杯戦争は続く。この街の混乱も収まらない。父さんはこの街に大きな影響力を持っているから、今はまだ父さんの死を明るみに出す時じゃない」
「それがいいだろう。煉殿を見送るのであれば聖杯戦争が終わり、この街が落ち着きを取り戻してからでも遅くはない。影響力を持つ人間の死は多かれ少なかれ世を騒がせる。煉殿は個人の思惑がどうであれ、この街の発展に寄与してきた。多くの恐怖が渦巻く街の中で犠牲になったことを受け入れられはするだろうが、悪い方向に進みかねない」
「はい。全てが終わった後にやるべきことをやります。少し早いですけれど……僕は次の遠坂の当主ですから」
自分のことを遠坂の当主であると口にする蓮司の表情に、気後れはなかった。不安はあるだろうが、自らのありのままの姿を受け入れ、成長していくことを受け入れる。
分不相応であっても、その立場に相応しい者へとなることを思い描けているのならば、蓮司は挫けることはあっても、向かう先を見失うことはないだろうとアーチャーには思えたのだ。
「アーチャー、一つだけお願いがあります」
「………キャスターとの戦いに同行させてほしい、かね?」
「なんでもお見通しだな、貴方は。その通り、聖杯戦争に今更参戦するつもりはありません。だからといって、総てを黙って見ていられるほど僕だって心穏やかな訳じゃない。
彼女に……、父さんが命を落とすきっかけの書状を渡した彼女の真意を問いたださなければ、僕の聖杯戦争は終われない」
あの巫女服の女性、彼女の真意が何であったのかを僕は未だに知らない。父さんを騙していたのか、あるいはキャスター陣営に騙されているのか、全く別の外の理由があったのか。何もわからない。
「知らない方が良かったと思うかもしれないぞ」
「わかっているよ、知ったところで父さんが生き返るわけじゃない。でも、知らなくちゃいけないと思うんだ。知らなければ、総てを受け入れられない。残酷な真実が待っていたとしても、前を向くためには必要なことだと思うから……」
「………、キミの決意がそこまでのモノであるのならば、私から言うことは何もない。我々は令呪と言う縛りを与えられていない者同士だ。君の決意を私が止める理由はない。
今の君ならば、問題はないだろうからね」
「意外です、正直、拒否されると思っていた」
「昨日までの君であったなら、私は決して認めなかっただろう。自暴自棄となり、向かう先を見失っていたモノは、容易く復讐へと走り、己の命も未来も粗末にする。
しかし、今の君は違う。自分の身を弁え、向かう先を朧気ではあれども見据えている。生きるために、前に進むために戦うと言うのならば、私はそれを咎めはしないよ。
人生の先達として、必要なことであるのは十分に理解している」
蓮司が自分で口にしたように、辛い過去には何かしらの手段で決別を果たすしかない。些細な失敗であれば成長する、あるいは忘れることで乗り越えることができるだろう。
しかし、遠坂煉の死という大きすぎる失敗を、蓮司は忘れることは決してできないし、しないだろう。
何かしらで代替する、取り戻すことも唯一不可分な肉親である以上不可能だ。ならば、向きあい続けるしかないのだ。
自分の心に折り合いをつけて、心に刻み付ける。それを成長の糧とする。方法がそれ以外にないとなれば、一宮梓沙との激突は蓮司にとって必要だとアーチャーは思う。
蓮司が桜子とぶつかることで、現状を打破できたように。梓沙と向き合うことは今の蓮司にとって決してマイナスになるとは限らない。
「ありがとう、アーチャー。足手まといになるつもりはないから」
「そうかしこまる必要もない。結局の所、私は私の目的でキャスターを倒すのだ。あらゆる者を利用してでも、私はかつて私が尊敬し、目標とした者たちの目指した世界を否定しようとする彼らを認めたくないだけなのだからな」
「………トルコ共和国の建国者ムスタファ・ケマルが、オスマン・トルコ帝国を打倒し、新共和国を建国する上で参考にしたのは、数十年前に行われた日本における明治維新だったという話だね」
「当時のオスマン帝国は疲弊しきっていた。侵略国家として無数の領土を広げ、恵みを得ていた時代などとうに過ぎ、増えすぎた領土は管理が行き届かず、西欧列強との軋轢を生み出し、民族同士の諍いの原因となった。しかし、長く続いた帝政に支配者たちも民も自分たちを変える気概はなく、結果として西欧列強に領土を奪われていくばかり。
その敗北すらも、管理が楽になるなどと嘯く始末。国家そのものが余命宣告をされているに等しかった」
中東に生まれたオスマン帝国は、かつて西欧諸国を恐怖させるまでに至った強国だった。しかし、西欧で産業革命が起こると国力は一気に西欧に覆され、多くの領土を侵略した結果として無数の問題を孕んだまま徐々に国力を衰退させた。
「きっかけは、エルトゥールル号という親善使節が維新後の日本へと向かった折だ。奇しくも台風に巻き込まれたエルトゥールル号は座礁し、多くの船員が犠牲となった。しかし、全滅したわけではない。日本の救助団の懸命な努力により彼らは救われ、生きてもう一度祖国の大地を踏みしめることが出来た」
トルコ共和国という国は親日国家であることが知られている。しかし、何故トルコが親日国であるのかまでを知っている者はそう多くはない。
それがエルトゥールル号の悲劇、そしてその後に続く日本人による決死の救命作業であった。
「エルトゥールル号の縁もあり、当時の軍学校には日本からの講師が訪れていた。幼年の頃の私は、彼らの口から日本における明治維新を聞かされ、大いに胸を躍らせた。
国を閉ざし、西欧列強の脅威に晒された国家が自ら国を開き、そして我らが同胞に手を差し伸べてくれた。国家の腐敗を知りながら、手をこまねくしかない我々にとっては、日本と言う国は一つの明確な指標となった」
エルトゥールル号の事件より10数年後、日本は大国ロシアとの戦争に臨み、一歩も引かない戦争を実行して見せた。隣接した大国家であるロシアを相手に戦い抜いた国と言う評価は瞬く間にオスマン帝国の中でも広まった。
それはオスマン帝国という瀕死の国家に生きる者たちにとって勇気を与えた。変わることができるかもしれないと希望を与えるには十分な意味があった。
「私は勇気と向かう先を与えられたように思った。無論、明治維新を掲げる中で決して褒められることばかりではなかったことは承知の上だ。国を生み出すとは綺麗ごとだけで為し遂げられない。
しかし、先人たちが流した血の上に、今の君たちが生きるこの国がある。現界して、改めて納得したよ。私が目指した先人たちの道筋は決して間違いではなかったのだと」
父さんはサーヴァントを見繕う際に言っていた。古今東西あらゆる場所に強力無比な英霊はいる。しかし、最後にモノを言うのは、マスターに全面的な協力、信頼を置いてくれる英霊であると。
父さんは間違っていなかった。この人は……、アーチャーはきっと召喚されたその時から変わることなくずっと、今を生きる僕たちの味方であろうとしたのだろう。
「故にこそ、私はキャスターたちの願いを叶えさせるわけにはいかない。彼らは敗れ去った夢だ。国を閉ざし、自分たちの夢想に逃げ、現実を見据えようとしない者たちだ。彼らと同じ立場でありながら、夢から覚めたからこそ、明治維新が為し遂げられた。
ならば、私は……いいや、私だけは、聖杯戦争など関係なく、彼らを認めるわけにはいかない。彼らを認めることは、ひいては私の民たちの努力までもを否定することになる」
攘夷を許すことは、己が勇気を与えられたかつての先人たちも、トルコ共和国と言う祖国をも踏みにじる結果になりかねないと思っているからこそ、アーチャーはその身を殉じることを決めたのだから。
「謝るのはこちらの方だ、蓮司君。私は私の個人的な目的のために君たちを利用する。サーヴァントとしては失格もいいところだ」
「なら、こうしませんか? もしも、キャスターを倒しても、まだ僕たちが陣営として残っていたら、その時は……本気で聖杯を掴みに行くっていうのは?」
「ほう、それはそれは……うむ、中々に面白い。個人の願いすらも超えた後であれば、君を本当のマスターと呼ぶことも悪くないかもしれぬな」
そんなきっと、起こりえないであろう結末を思い浮かべながら、蓮司とアーチャーは今宵の戦いへの決意を固くする。
「さて、君は学園に向かいたまえ。七星桜子もそろそろ迎えに来るだろう。私は会わねばならない者に逢いにいってくる」
「ライダーは、協力してくれるかな?」
「協力させるとも。あの男がいなければキャスターは討ち取れない」
「アーチャーのことを信じます」
残りわずかな時間を共に過ごしたいと言う気持ちが蓮司にもある。だけど、これから先を考えるのならば、やらなければいけないことはわかっているから……、蓮司は随分と長く通っていなかった学園へと向かう準備を始めた。
――秋津市東側・住宅街・秋津学園――
「で、どうなのさ?」
「いや、もう、これは絶対そうでしょ!」
「遠坂君奥手だと思ってたんだけどなー、まさか、本当に桜子とくっつくなんてなー」
「で、どっちから行ったの? やっぱり、桜子の方から?」
「そんなわけないでしょー、だって、桜子だよ? 告白とかそんなこと絶対するタイプじゃないっしょ!」
ガヤガヤと教室中が騒然としていた。昨日までの陰鬱な空気がどこか遠くへ飛び去ってしまったかのように騒ぎあう教室の真ん中で話題の人となっているのは遠坂蓮司、そして、他のグループ内で取り囲まれるように詰問されているのは、もう一人の当事者である七星桜子だった。
「だーかーらー、何にもないってば! ていうか、むしろやめなよ、蓮司君病み上がりで大変なんだから! みんなで好き勝手に聞きまくっていたら迷惑じゃん!」
「そういうはぐらかしいらないから。で、どうなんですか、七星桜子さん? いつからなの? ていうか、どこまで行った?」
「意味わかんないこと言わないでよ!」
「だーかーらー、二人で何やってたのかって聞いてんのよ!」
最初のきっかけは言うまでもなく、数日に学園へと登校してきた蓮司に対しての皆の興味関心だった。遠坂煉の死は公に明かされていない。そうした状況の中で蓮司は2日間に渡って休まなければならなかった理由を、体調面の不良という形で片付けた。
勿論、後々になれば嘘であると分かってしまうことではあったが、余計な混乱を生まないためには仕方がないことだと割り切り、学園側にはその嘘をつき通した。
問題はその後、ようやくクラスに戻ってきて、これまでとほとんど変わらない日常へと戻るはずだったが、言うまでもなくクラスメイト達の質問攻めは止まらない。
何かあったのか、もう大丈夫なのか、最近の事件が原因だったりするのかなどなど、多数の質問が繰り出されたわけだが、その質問の中に桜子と一緒に学園に来たことを問う質問があった。
クラスメイトたちからすれば、久しぶりにやってきた蓮司がいつもとは違う人間と一緒に登校してくれば、特に理由が無いと分かっていてもおちゃらけ程度で問いを投げるのはそう、不思議なことでもない。
――桜子さんとは、ちょうど通学路で会って
などと、蓮司は特に何か疑問を抱くこともなく言葉を口にした。
油断をしていたところもあるだろう。聖杯戦争の舞台ではない場所で、世間話程度の感覚で口にした言葉だったが、蓮司の「桜子」呼びは大きく波紋を呼び、現在の喧騒な状況が生み出されてしまった。
「いや、俺達も怪しいとは思っていたんだよな。いくら七星さんが誰にでも優しいからって、遠坂のことを気にかけているのは明らかだったしな」
「なんだよ、遠坂。お前も結構隅に置けないな。病気でも看病でもしてもらっていたのかー?」
最初は姦しく女子が騒いでいただけだったが、気付けばクラスの男子たちまでがおちゃらける様子で声を上げていた。
桜子は慌てふためいて否定をしているが、あれではますますおもちゃにされるだけだろうと蓮司はため息を零す。
「みんなは少し勘違いをしているけれど、別に付き合っているとかじゃないよ。ただ、心配して家に来てくれたのは本当」
おおっ!っと声が上がる。特に意味のない団結力に蓮司も無駄な疲労感を覚えるばかりだったが、なんとなく、嫌ではなかった。
これまでは遠目で見ているしかなかった同年代の生徒たちの当たり前の風景の中に自分も巻き込まれている、当事者になっていると言う意識がなんとなくではあるけれども、嬉しかった。
(まぁ、あっちからすれば、はた迷惑もいい所だろうけれど、そもそも、自分の名前で呼んでくれって言ったのはあっちな訳だし……)
桜子は必死に何かあったわけじゃないよーと声を上げているが、その慌てふためきぶりと顔を赤らめて反応している様子から、明らかに嘘を口にしているのがバレバレであり、もう少し何とかなかったのかと思いたくはなってしまう。
「それで遠坂君は、桜子のことどう思ってるの?」
「やっぱ、Loveなの……?」
興味津々に聞いてくるクラスメイトは、僕の答えがどんなものになるのかをとても楽しみにしている様子だった。
その様子には僕も気恥ずかしさを覚えるもので、自分でもよくもまぁ、昨日は本人にあんなことを言えたもんだなと。
「うーん、どうだろう。まだわからないな」
動揺することもなく、あっさりと答えた曖昧な言葉にみんなは少し目を丸くしていた。その答えの意味が分からなかったと言うことだったのかもしれない。僕の気持ちを測りかねていると言った所だろう。
他人に分からないのだから、僕にだってわかるはずがない。僕と桜子さんのこの先がどうなるのかなんて、誰にだってわからないんだ。
失って、塞ぎこんでみてようやく分かった。自分自身が生きる世界の大切さ。この当たり前を守るためにも僕たちは何があろうとも、キャスター陣営を止めなければいけない。
それ以外の総ては、終わった後にまた考えていけばいい。ただ、まぁ、ひとまずは、桜子さんに助け舟を出すことからかな……
・・・
「あー、もう、みんな好き勝手に言ってくれて。あたしはね、理解したよ、あれは僻みだよ、あたしと蓮司君が仲良くしているのがみんな、気に喰わないんだよ! まったく、そりゃ、みんなが蓮司君に見向きもしていなかったからじゃん。まったく、今更だってのに」
「はは、まぁ、僕が軽率に名前を読んじゃったからってのもあるんだけどさ、ごめん、学園では、今までのように七星さんって呼んだ方がイイよね」
「イイ、名前で呼んで」
「いいの?」
「あれだけ騒がれる前だったら、確かにそうした方が良かったかもしれないけど、今更じゃん。なんか、みんなに言われたから変えましたーみたいなので、癪だしさ。あたしはもう気にしないって決めたし」
明日、また同じようにからかわれたら、絶対に同じように反応するだろうにと蓮司は思ったが、ここで話を蒸し返すと、桜子とまで口論になりそうだったのでやめた。
クラスメイト達との会話は騒がしくてなかなか馴染めない。魔術師同士の必要最低限の会話の方が楽って言うのは自分のことながら、なかなか人付き合いってものを今まで軽視してきたんだなと痛感するばかりだった。
「うーん、あたしの方こそごめん。結局騒がしくしたのって、あたしがしどろもどろになっちゃったからだし。みんなからかいすぎなんだよ、何にもないですよって言っているのにさ」
「肯定しても否定してもどうせ騒がれたさ」
「いいじゃん、別に。仲良くしていたってさー」
「でも……僕は少し嫌じゃなかったかな。みんなにさ、少し受け入れてもらえたように思ったんだ」
「蓮司君の場合は、みんな最初から変わっていなかったと思うけどな」
「そうかもしれない。そうだってようやく気付くことが出来たんだよ」
劇的に世界は変わらない。いつだって変わることができるのは自分の側だけだ。
父を失い、塞ぎこんで、荒療治ではあっても桜子の影響で立ち上がった蓮司には、同じ世界であっても少しばかり見える景色が変わっているのかもしれない。
ただ、魔術師として修練を積むことだけが自分を成長させてくれるわけじゃないと、今の蓮司は知っている。
今日の学園での時間だって魔術師としての日々を優先して、クラスメイト達と距離を置いていた時には得られなかったものだった。
今更と言えば今更なのかもしれないが……、蓮司は周りの子供たちが得られる当たり前をようやく実感することができるようになったのかもしれない。
「桜子さん、この後、アーチャーと一緒にもう一度唯一神理教の総本山に行くんだろう。僕も行くから」
「蓮司君……、その、大丈夫なの?」
「アーチャーには許可は取ったよ。聖杯戦争のマスターではないけれど、足手まといになるつもりはないよ」
「いや、そうじゃなくて……、あの人に会うかもしれないんだよ?」
「だからこそだよ。何もかもをアーチャーや君に任せて、それですべてが終わったなんてことにはしたくない。辛いこと、聞きたくないこと、見たくないこと、きっとあると思う。だけど、逃げたくないんだ。誰よりも大切だった父さんの死からは目を背けたくない。
遠坂の後継者として恥じない自分でいたいんだ」
蓮司の言葉には昨日までの蓮司にはなかった強さがあった。それは蓮司なりの覚悟の現れ、目を逸らすのではなく、立ち向かっていこうという思いの現れであることは桜子にも分かった。
ただ、その強い思いがあるだけに桜子は不安でもあった。
「もしも、あの人に会ったらどうするつもり? たぶん、戦いになる。それは間違いないと思うけれど」
「勿論戦うよ。桜子さんたちだけに任せるつもりはない。ただ、こんな我儘を言っておいて何を言っているんだって話しだけどさ、もしも、僕が怒りで我を忘れて暴走するようなことがあったら、その時は止めてほしい」
「蓮司君……」
「会ってみないと自分の気持ちがどんなふうに動くのかわからないんだ。今はこうして冷静に話していられるけれど、もしも、本人を目の前にしたら話をする余地なんてないくらいに怒りでどうしようもなくなってしまうかもしれない。
桜子さんから見て、僕がそうなっていた時には遠慮なく気絶でも何でもさせてほしい。君が判断したことなら、仕方がないことだって思えるから」
「そこまで言われると、あたしとしてはやっぱりやめておいた方がいいんじゃないかなって思うなぁ。蓮司君が自分のことをどうなるか分からないって言うように、あたしだってどうなるかわかんないんだよ……」
4日目の結末に忸怩たる思いを抱えているのは何も蓮司だけではない。桜子だって無力感を味わわされた。遠坂煉と言う人物は、桜子にとって決して好感触の相手ではなかったけれども、だからといって死んでほしいと思っていた相手ではない。
一緒に戦っておきながら何もできなかったという思いは桜子自身も共有している。
「もしかしたら、あたしも頭に血が昇っちゃうかもしれない。あたしはセレスさんのように冷静でいられるってタイプでもないし……、下手をしたら……」
「どうかした?」
「ううん、何でもない! まぁ、そういうわけで思う所はあるわけだけど、蓮司君もそれで行かないって言う事もないだろうし。オッケー、あたしがなんとかしてみせよう!」
プランが何かあるわけでもないが、桜子は任せておけとばかりに胸を叩く。辛い思いをもうしたくないと思っているのは二人ともに同じ。あの日に悔しさに塗れた二人だからこそ、今日という日に再起を誓う思いはより一層強い。
まもなくその時が来る。決戦が近づいてくる。桜子にとっても蓮司にとってもこの先の未来を決めるための決戦、この戦いは彼らが考えている以上に大きな意味を持っている。
しかし、彼らはそこまでの想いに拘泥しない。あくまでも自分たちが出来ることを一つずつ進めていくだけだ。キャスター陣営との決戦、抱く気持ちはそれぞれ違えども、誰もが4日目の雪辱を晴らすことを誓い、その時を迎えようとしている。
――秋津市西側・繁華街・勢至姆組事務所――
カチカチと時計の音が静かに規則的なリズムを刻んでいく。静寂そのものである部屋の中で、いまや組長室の主となった神丘奉は言葉を発することもなく、ただただ静かに物思いに耽っていた。
奉は決して考え無しで行動をするタイプではない。自分なりの着想、自分なりの好き嫌いを盛り込んだうえで行動する。
考えどころではあった。今宵は3日前にキャスター陣営と密約を交わした約束の日だ。今日を迎えるまでにセイバーとアサシンを倒すための同盟、後者を倒す事には成功したが、前者を倒しきれていないのは事実。最も、次にセイバーが来たとしても、奉は決して後れを取ることはないと確信めいた思いを抱いていた。
(日を増すごとにバーサーカーの実力は高まっている。昨日はセイバーをギリギリまで追い詰めることが出来た。バーサーカーは決して斃すことができない。なら、セイバーが来たとしても、バーサーカーはより強くなるだけだ)
セイバーについては問題ない。櫻一郎を追い詰めたマスターの方はいまだに問題があるが、サーヴァント同士の争いに決着がつけば、マスターなど怖れるに足らずだ。
(問題はあの久坂の野郎だ。奴は今日で勝負が決まると口にしていた。ならば、どうする。俺達は何処で奴らと袂を分かつ……?)
久坂は間違いなく自分たちを出し抜くつもりであることは分かっている。問題はどこで連中と袂を分かつかだ。
連中が他の陣営を無力化してくれると言うのならば、それに乗っかる方が奉にとっては楽だ。バーサーカー陣営は他の陣営の情報を積極的に入手しているわけではない。これまでに闘ってきたアサシンもセイバーもバーサーカーの力押しによって勝利あるいは優勢に持ち込んだに過ぎない。
万に一つ、バーサーカーの能力を無力化することができるような陣営が存在していた時には……バーサーカー陣営は対策を講じることが出来なくなるかもしれない。
そういう意味では、久坂達の目論みを成功させておく方が後顧の憂いを考えなくて済む。キャスター陣営は既に手の内のほとんどを見せられている。あの志士たちがどれ程、バーサーカーに飛び込んできたとしても、今のバーサーカーに太刀打ちすることはできない。
「となれば、やはり奴らの目的を遂行させてから潰す方が良いか……ふん、一人前に先の展望を考えている。もっと、力任せに叩き潰すことが出来てしまえば楽だってのにな。お前もそうは思わないか、バーサーカー?」
静寂であった部屋の中に獣の唸り声のようなものが木霊する。霊体化しているために姿は見えないが、バーサーカーはずっと奉の傍に控えている。
既にこの獣と契約を行ってから半月以上が経過しようとしている。今ではこうして傍に置いておくことにある種の安心感のような物すらも覚えているのだから、わからないものだ。
この部屋は本来、奉にとって誰よりも敬愛する典嗣の部屋であった。しかし、既に死体は処分され、典嗣の気配を感じさせるものは何一つとして残っていない。精々がコレクションの調度品や道具があるくらいか。
長年にわたって敬愛してきたはずの人物のものが立ち並んでいる部屋にいる事実よりも、数週間の時間を共に過ごしている獣に対して安心感や親近感を覚えるというのはどういうことであろうか。
奉も難しく考えることはしない。典嗣は結局の所、自分を裏切った男なのだ。どれほど尽くしてくれたとしても最後に裏切ってしまった事実は消えない。己に身勝手な生命を与えておきながら、偽物の烙印を下したあのロクデナシどもと本質的には何も変わらなかった。
奉は懐から取り出したタバコに火をつける。肺の中に煙が入っていくと、一瞬ではあるが、嫌なことの総てが忘れられるようだった。かつて感じていた苦味を覚えることはない。むしろ、心地よい味と覚えるのだった。
聖杯を手にして、本物の人生を手にすることが出来れば、心の中にぽっかりと浮かびあがっている空洞のようなものが埋められるのだろうか。物心ついた時からずっと満たされないまま、行き場所を失ったように存在しているこの感情の意味を理解することができるのだろうか。
「若、失礼します……」
「ああ、櫻一郎か。どうだ、少しは休めたか」
「昨晩は不甲斐ない姿を見せてしまい、申し訳ありませんでした」
「気にするな、奴らを撤退に追い込めたのはお前の力があればこそでもあったんだからな。むしろ、奴らは今日も現れるかもしれない。そうなれば、櫻一郎、お前の力が必要になる」
「ええ、承知しています。二度の敗北が許されないことは肝に銘じているつもりです」
「お前が味方でいてくれる限り、俺はまだまだ戦えると実感するよ。それで、何か用があって来たんだろう?」
「ええ、清河八郎から書状が若に」
「いや、あいつが顔を出せば済む話だろう」
「そのことですが、清河八郎は既にキャスター陣営へと戻りました」
「あ?」
聞いてもいない話が突然出てきたことで、奉は何かピリッとしたものを背中に感じる。この聖杯戦争の中で何度か経験しているものだ、往々にして奉にとってよからぬことが起こる時の前兆とでもいえばいいのか。
「キャスター陣営は今日の夜に向けて、勝負を仕掛けるつもりであるため、早々に拠点へと戻らせていただくと口にしていた次第です。その謝罪の内容を含めた書状がそちらであると」
「ふん、こんなものを用意するくらいなら自分の足で弁明に来いってところだ。まぁ、いいか。野郎がいようがいまいが、俺たちには関係のないことだ」
おもむろに書状を開く。そこに記載された内容に目を通し……、しばらくしてから奉は目を大きく見開いた。
「くく、くっくくくく」
「若……?」
「まったく随分と笑わせてくれるよ、久坂。いや、わかっていたぜ。お前が何かで俺達を出し抜くつもりでいるのかはわかっていたとも。なるほどなぁ。俺達は前提からして騙されていたわけだ」
奉はそう呟くと書状を掴み、躊躇なくそれを真っ二つにする。忌々しげに、もう二度と顔を見せるとばかりの態度で書状をビリビリに破り捨てて、櫻一郎へと視線を向ける。
「櫻一郎、悪いな。少しばかり今日の予定を変えるぜ」
「では……」
「ああ、連中とつるむのも終わりだ。ここまで随分と役に立ってくれたが、奴らももう用済みだ。セイバーだけじゃない、キャスターも奴らが電波塔で事を為すよりも先に俺達が潰す」
結局、他の陣営を潰すことに変わりはなくなってしまうが、久坂達の口車に乗せられれば、その面倒事をするための土俵にすら立てなくなる可能性がある。
「くく、久坂、テメェは俺達を騙したわけではないと言うだろうし、ああ、その言葉は受け入れてやるとも。だが、好き勝手をするんだ。だったら、俺達が好き勝手をすることだって受け入れて然るべきだよな」