初っ端から黒猫館のネタバレになるので、まだ原作を読んでなくて、読むのを楽しみにしている人はご注意!
オープニングその1
或る女の最期
昭和三十二年。
終わりの日は唐突に来た。
大室あやは、大雨が降るその日も帰る主のいない屋敷の掃除をすると、晴れていれば夕日が刺し込むはずの自室でベッドに倒れ込んだ。
窓の外からザァザァと響く童女の号泣のような雨音を耳にしながら、あやはため息をついた。
壁に指したカレンダーを見る。
「もう五年、か……」
鮎川家の最後の人間である鮎川有砂が自ら命を断ってから。
あるいはまだ五年しか経っていないと言うべきか。
あの日からずっと停滞した時間の中で、同じ日をぐるぐると過ごしている気がする。
過去を思い、未来は見えず、その日をずるずると生きる。
まるで死を待つためだけに生きている老人のようだ。
三十を越えて行き遅れているとはいえ、少女のような容姿と、服の上からでもわかる熟れた肢体、なによりその半生によって醸成された身に纏う退廃的な気配が禁断の果実のような魅力をあやに漂わせていた。
事実、必要なものを買い出しに行けば、通りすがる男達から好色そうな視線を向けられ、生唾を飲み込む音を聞いたのも一度や二度ではない。
その気になれば、新しい主人に雇われてメイドになることも、どこかのお大尽の妾になることも、出来るだろう。
仕えるべき人間がいなくなったあやは、その気になれば自由になれた。
この屋敷の所有権を持ちながら、厚意であやを住ませてくれている不動産屋の主人にも遠回しにそう言われている。
あるいは、そう。
あの懐かしい山奥の屋敷で二週間だけ滞在していた書生の青年を思う。
今は何をしているだろうか。
法学を専攻にしていると言っていたから、今頃は弁護士になっているのだろうか。
そんな彼の元に身を寄せる自分を想像して、微笑した。
昼夜を問わず忙しく働く青年の身の回りを甲斐甲斐しく世話する。
身体を求められれば喜んで応じて、淫らに乱れて何度も果てて、彼からも何度も注がれ、ことが終われば甘えるように身を寄せて抱きしめられる。
公私にわたって彼を支え、やがてこの身に彼の子を何度も宿す。
子ども達が健やかに育っていくのを彼と見守る。
そうやって、終わりが来るその日まで、彼と穏やかに季節を巡る。
そんなあり得ない想像に口を綻ばせながら、雨音を子守唄にうとうとと眠りに入りかけたその時だ。
甲高い悲鳴のような雷が屋敷の庭に落ちた。
あやは、その轟音に飛び起き、慌てて窓に駆け寄った。
「桜が……!」
庭の桜の木が真っ二つに爆ぜ割れて、天にちろちろと赤い舌を伸ばして燃えている。
その有様は、さながら豪奢に開花した彼岸花を思わせた。
だが、あやの目を見開かせたのは燃える桜ではない。
割れて倒れた桜の枝の先に屋敷があったのだろう。
窓の外から見えた屋敷の軒が燃えていた。
焦げ臭い匂いが遅れて漂ってくる。
じきに火の手が回り、屋敷すべてが燃えてなくなるだろう。
もとからこの屋敷にいるのは自分だけだ。
今すぐ外に出れば助かる。
だが。
(私に生きる意味なんてあるの……?)
仕えるべき人も、守るべき人もいなくなってしまった自分に。
それは五年前から、絶えず自問していたことだった。
その度に出る結論は否だ。
死ぬ理由もなかったから生きていただけ。
あやにとって、五年前からこの世は、後悔と悲しみだけを抱えてただ生きているだけ、という地獄でしかなかった。
或いは……
書生の青年を再度思う。
手紙にしたためた再会の約束のために、あの火の手から逃れるという選択肢もあるだろう。
これを機に、本当に全てを忘れて、新しい人生を始めてもいい。
そう逡巡し、しかし自分でも驚くほど短い間で答えは出た。
苦笑する。
結局の所、自分の心は五年前に死んでいたのだ。
「ええ、そうね」
いまさら生き足掻こうとは思わない。
クローゼットからメイド服を取り出して袖を通し、棚から化粧箱を取り出し、手早く身支度を始める。
もう何年もしていなかった化粧なのに、いざ鏡を見ると、自分でも見事と思えるような手付きでファンデーションを塗る女がそこにいて、すこし可笑しかった。
身支度を整え、廊下に出る。
振り返って自室を見た。
人生の半分を寝起きした部屋であれば、それなりに愛着はあった。
たとえその殆どに幸福がなかったとしても。
「ありがとう」
そう、最後に礼を言って扉を閉じた。
煙がすでに屋敷に中に入り込み、灰が舞う視界の中を確かな足取りで歩む。
いつか、有砂さまが快復なさったとき、健やかに過ごすことができるように建てた屋敷。
結局、そんな日は来なかったけれど。
そんなことを考えながら、目的の応接間に着き、ドアを開ける。
「よかった。まだ火が回ってない」
すでに煙が窓の隙間から入り込んでいたが、まだ少しは猶予があるらしい。
天井のシャンデリアを灯すと、天井の煙が部屋に薄く歪な陰を作った。
主がいるならば座っていたであろうソファの後ろに控える。
遠い昔、まだ未来の暗雲を知らず、幸福な世界しか知らなかったあの頃のように。
或いはあの山奥の館で、破滅の坂を緩慢に降っていたあの頃のように。
煙に目が滲んで視界がゆがみ、思わず目をこする。
そして目を開いて、アッと声を上げた。
ソファで旦那さまと奥さまが仲睦まじく談笑していた。
向かいの席では招かれた書生の青年と伸行さまが学問で論を交わし、中に入れない有紗さまが二人にわがままを言う。
青年たちが困ったように笑い、それにつられて旦那さまと奥さまも笑って有砂さまをたしなめる。
そんな、あり得ない幻を垣間見て、しかし、一瞬後には何事もなく誰もいない。
あったかもしれないその幸福の空想に、あやは涙を流して、ああ、と嘆きの声を漏らす。
「なぜ、こんなことになってしまったの……」
ずっと昔、幸せな日々が終わったあの日から、心の奥に淀んでいた問いが、流す涙につられたのかするりと口から零れ出た。
答えるものはいない。
視界の端で窓枠が燃え、部屋の中に火が入り込むのが見えた。
火はあっという間に部屋に燃え伝わり、真っ赤に染める。
バチバチと火の粉が舞い、炎が一層激しく鳴き叫ぶ。
部屋どころか屋敷そのものがみしりみしり悲鳴をあげ、やがて、ぎしりと重く長い断末魔をあげ始めた。
屋敷の電線が、何処かで焼ききれたのか、天井のシャンデリアの灯りが消え、床と壁を這う炎が煌々と照らす。
煙と熱に巻かれ、あやは思わず咳き込んでたたらを踏んだ。
ソファを掴んで踏みとどまる。
意識がどんどんと遠くなっていく。
いよいよ最後の時が来たらしい。
ーー私の人生は鮎川の屋敷と共にあった。
幸福も後悔も全て。
最後の鮎川の屋敷と共に消えることができるなら、自分にしては上出来な終わりだろう。
炎の赤が全てを埋め尽くす中、あやは涙を流したまま、胸の前に手を組んで、微笑んだ。
「有砂さま、奥さま、伸行さま、旦那さま、お父さん。こんなわたくしですが、どうか温かくお迎えください」
ーーそして、村上さま。末永く、お幸せに。
その言葉だけ口にせずに祈り、瞳を閉じた。
ただ、結論だけを言うのであれば。
彼女の地獄は、
極東で、人生の大半が不幸だった女が報われることなく独りぼっちで死んだという、ただそれだけの、戦後当時にはよくあるお話。
えっちなオープニングその2は16:00に投稿。