――声が聞こえる。明るく、楽しそうな声だ。
それは久々に家族揃って出掛けようとしていた日の事。その家族は、行楽地に向かうためのバスを待っている。
このバス停は様々な会社のバスが来る。だから、バスが来るからと言って、すぐに乗るわけではない。まだかまだかと、乗ろうとするバスが来るのを待っている。
その中の一つ、それまでとは違う色のバスが停留所に停まった。これこそが乗るバスのようだ。
だけど、そこで少年は体が止まってしまった。本能が、このバスに乗ってはいけないと訴えかけている。
駄目だ、そのバスにだけは乗ってはいけない。それがわかっているのに、どう足掻いてもこの声が届かない。
頼む、それにだけは乗らないでくれ。父さん、母さん――。
「――霞!」
「うわっびっくりした!」
タオルケットごと飛び起きてしまったら、隣にいる存在まで起こしてしまったようだ。
丑三つ時、余程朝が早くなくてはいけない人でないならば、早く目が覚めてしまったといって起きるような時間でもない。
「――ごめん、早く布団かけて。暁もだけど私も風邪引いちゃう」
「悪い……」
熱帯夜でも、腹冷え防止にタオルケットを一枚かける以外は、最近はいつも就寝時は裸だ。それは、ひとえにしばしば隣で一緒に寝る存在がいるから。
野々宮京楓。幼馴染で、親友で、家族で――俺の一番大事な、彼女。肉親亡き今、明確に誰よりも大切にしたい相手。
タオルケットを元あった通りにかけ直すと、京楓としっかり目が合う。部屋自体は真っ暗にしているはずなのに、それ故に大きくなっている瞳孔が、俺の視線を捉えて離さない。既にだいぶ眠気は吹き飛んでいた。多分京楓もそうだろう。
「ここ数日ずっとだね」
「いや……悪い」
「だけど、そろそろ聞いてもいい?」
「――何が?」
「その霞って人の事」
ドクン、と心臓が早鐘を打つ。ぼんやりとした頭に、急に巡り始めた血流がアンバランスで、内容と相まって少しの気持ち悪さを覚える。
「大学の知り合い? でもそんな人いたような気はしなかったけどなぁ。それでも暁案外付き合い広いから私の知らないとこでいるかもわからないけど」
それは、忘れたくても忘れられないことで。忘れられないでいられることは幸せなはずで、だけどその事実は常に俺に重くのしかかる。
「これは最初の頃だったかな。時折ね、暁、幸せそうな顔をしているの。その時も同じ名前を呼んでた。私がいる隣で、知らない女性の名前を呼んでさ。今日は苦しそうだったけど、きっと何か天罰でも喰らったんじゃないかって思ったよ」
そうだな。彼女が夢に出るだけで幸せだって思えたのは確かだ。俺が彼女のことをまだ忘れないでいられてるって言う証だから。
「とにかく、そんな夢に出て、暁に叫ばせるような関係を結んでいる相手がいるなんて思わなかったよ。だったら家族として、彼女として聞かなきゃいけない気がするのよね」
それは俺が忘れていいものではなくて、だけど今の生活には関係ないからこそ表に出さないようにしていたのに。
「で! その霞って人! 誰!?」
そして俺は、独りでに勘違いで熱くなる京楓を他所に、シンプルで揺らぎようのない一つの事実を告げる。
「――俺の……妹……」
「――あ……」
あぁ、そんな顔をさせたいわけじゃないのに。
「その……ごめん……」
「まぁ……それまで告げてなかったんだし、そりゃ気になるよな」
「だけど暁に嫌な思いさせちゃった……」
それが嫌なものかどうかなんて言えない。嫌というより辛いだけだ。だから俺は、どのようにも取れるように無言を貫く。
そして京楓は、それを嫌な思いをしたという無言の肯定として受け取ったようだ。
「本当にごめん……勝手に一人で嫉妬して、それで暁の気も知らずに暴走して……」
「それ以上言うなって」
更に何か言いかけた京楓の口を、抱きしめて俺の肩に持ってくることによって黙らせる。そうしてやっと、京楓もそれ以上口にするのをやめた。
ぎゅっと抱いた温もりは、いつもより少しだけ縮こまっている感触を覚える。少しつーんとした数時間前の行為の残り香が、少しだけ鼻に届く。湿気が多いから、換気をしなければこの臭いは室内に暫く残るだろう。
「私には、真の意味で兄弟がいたことはないし、ましてやそれを亡くした経験なんてあるわけないから、暁が、その霞ちゃんに対してどう思ってるのかまではわからない。だけど、それが悲しい気持ちだってことはわかるよ。それがどこか私には遠い出来事のようにしか感じられないけど――」
それは多分独り言なのだろう。だから俺は、それに心の中だけで相槌を打つことにした。
「私達が付き合い始める前までに、例えば何かあって暁が逝っちゃったとかあったら、私も同じような気持ちになったのかな……」
――きっとなったさ。少なくとも逆の立場なら、俺はなった。
「もう、理科室で暁が倒れてたのを見た時のような気持ちはしたくないの……に……」
――俺だって、京楓だけはとなんて、もう思いたくもねぇ……。
「身体が……冷たいよ……暁……」
ごめんな――それは俺の所為だ――。
やっぱ――お――も――。
その後も、霞のことを夢に見る日が続いた。
ある時は俺の記憶の原風景として、霞がまだ赤ん坊ぐらいで幼かった頃のもの。ある時は霞がやっと一人で立ち上がって歩けるようになったぐらいの頃のもの。ある時は嫌いな野菜をどかして俺に押し付けようとしていた時のもの。
だけど、夢で起きる直前で、いつも俺は霞に手を伸ばして、そして目の前で消えて、そうやって目覚める。
そして今夜は。姿かたちは現出せずに、声だけが聞こえる。
「――て」
まただ。また俺をどこかへと招く声。
そう、あれは、いつかの双六に導かれた時の声のような。あの声の主は彼女だったのだから、だからそうだ、この声も――。
「――きて」
「か、――すみ……?」
いつもの天井だと気付くのに、数秒かかった。天井というより、二段ベッド上段の底面。京楓の生理が始まったから、事もせず今日は別々に寝ていたが故に、上では京楓が横になっているはずだ。
いつも以上に夢を見ていた時間に比べて時間が経っている感覚があったから、今日はまだ寝れている方なのかもしれない。だけど、夜中目が覚めることを身体が覚えてしまっているのならば、早く直さなければいけないのだけど、どうやったら直せるかも皆目見当がつかない。
それにしても、来て、って。もう賽の河原に招かれるようなことは、余程のことがなければないのに。
それとも、あれは『起きて』だったのだろうか。でも起きればそこに霞はいない。
「何かの暗示……という訳でもないよなぁ……」
感覚的にこれは暫く眠れないと直感が告げている。京楓が熟睡していることを確認して、静かに部屋を出る。
どうにも身体が汗臭い気がする。そしてそういう時は、えてして身体が水分を欲している。だから向かう先は台所。お手洗いに行く程の出したい水分の持ち合わせはない。
わざわざ、冷蔵庫から何かを出そうという気にはならなかった。冷たすぎるものを欲しているわけじゃないし、何より時間的にも眩しいものを視界に入れたくない。
コップを手に取り、水道水をぐいっと飲み干すと、じんわりとした湿り気が増したような感触を覚えた。飲んだすぐそばから、汗が蒸発して、暗闇に溶けていく。
夏場の夜は、どことなく冬場のそれよりは明るい気がする。だから、暗闇の中に潜む少しの影の濃淡が、それとなくわかりやすい。
そして、不意に気配を感じた。誰かいるような感覚をその前に覚えていたから、驚くということはない。
「――眠れないんだね」
「琥珀……」
ぼんやりと同居人が佇んでいた。元々黒猫なだけあって、漆黒というにふさわしい髪の毛は闇と同化して、少しだけぼんやりと明るい空間に浮かぶ黒として余計存在感を増している。
「どうした、琥珀も急に目が覚めちゃったのか」
「猫って夜行性でしょ。だから時折夜中に目が覚めるんだ。人間になってからも、ずっと」
「あぁ、成程ね。昼眠くならないのか?」
「なる時はなるから、休める時に結構寝てるんだ。『あかり』での休憩時間とか」
「昼寝という概念……でもないか。琥珀にとってはそれが普通だったもんな。今の方が勝手には寝られない分つらいとこもあるんじゃないか?」
「そうでもないよ。だってボクは今はもう人間だし。他の人より少しだけ、猫であるということに詳しいだけ」
便利なんだな、と思った。賽の河原にやってきて、そしてこうして幸せを享受出来ているなら、俺から言うことは何もない。
「ちなみに、日によっては遅くまで二人が起きてるのも知ってるよ。主に部屋で出来る運動のために」
「それは教えてくれなくていい……」
そりゃぁ、何年もそんな感じならバレてないと思う方がおかしいとは思っていたけれど。でも言わないでくれる優しさってのもあると思う。
「それで、アキラはどうしたの」
さて案の定尋ねられた。水を飲みに来た、は嘘ではない。嘘ではないけど、どうにも『それのため』とは思われなさそうだ。
「んー、ちょっと悪夢というか、そんな感じのをな」
そして結局嘘をつかない程度にごまかさずに答えてしまう。
「悪夢っていうと?」
「なんだろうな、そんなおかしいものでもないんだ。ちょっと夢見が悪いだけ。すぐ忘れちゃうようなもの」
最後は明確に嘘だ。正直、内容をそのまま琥珀に伝えるのは憚られる。ずっと俺の最愛の人にもそうだったんだ、琥珀にまで言えるわけがない。
「ふーん……。アキラがそういうなら、そうなんだろうね」
そして琥珀は、それを深くは追及しなかった。それでこの話は終わり。だから俺も、きっと琥珀も、今ここにいる意味は残っていない。
「別にボクに話さなきゃいけないことは特にないよね」
「そうだな。そもそも深夜に立ち話でするような内密なものも一切ないさ」
「わかった。それじゃ、おやすみ」
それだけ言い残して、琥珀は先に自室へ戻っていった。
暗闇の中、独り取り残される。別に心細いというわけではないが、それでも冷蔵庫が駆動していることを示す低周波以外に音という音が見当たらない。
琥珀は今でも夜目が効くのだろう、わざわざ光源を灯すことはしないようだ。勿論人間だって、瞳孔が開けば少しの光量である程度の空間は把握できるようになる。それでも、何かを探したい時は、流石に明かりをつけないと始まらない。
「探し物も何もないからいいけどな……」
どうせ起きた理由はお手洗いですらない。起きたいと思って起きたわけでもなかった。ならせめて、好きな人がいる場所の近くにいたい。
部屋に戻っても、俺が出て行った時と様子は変わっていなかった。京楓が目覚めたということもないのだろう。
少しだけ、京楓の寝顔を覗いてみた。特に何かに苦しむようなこともない、そういう寝顔。それに安心して、そして愛おしいから、何か愛情を示したい欲が生まれる。だから頬にキスしようかと思ったけど、俺の姿勢が無理やりになって、起こしてしまうかもしれないから、別の機会にすることにした。
見届けて、体を横たえると、ベッドのへりに視界を阻まれて、目を開けていても部屋が見渡せない。それがどこかで心を落ち着かせ、そして余計に眠気を遠ざける。
すやすやと眠る京楓の寝息がBGMだ。聞こえるものはそれだけで、それが余計に、今の俺自身の孤独感を増大させる。
結局。寝つけたのは、午前五時ぐらいの、日の出前後ぐらいだった。
紅く染まった春日神社に、一人で足を踏み入れる。いや、俺はたった今ここに『降り立った』んだ。そして俺はそれを、どこか俯瞰的に見つめていた。
俺が誰かと話している。だけど、そこには誰か人はいなくて、いるのは黒猫が一匹。
「みさきが、亡くなったってさ」
――あぁそうだ、これは双六の……嵐山の面を上がった時のだ――。
だから、次に移る行動は、その黒猫を抱え上げること。抱え上げて、それで。
そう。そうだ、だからこの時は、言葉が伝わらなくても、想いを伝えようとするために――。
「琥珀――」
目覚めると、いつもの天井。まだ外は暗く、この時間に起きるというようなものではない。
琥珀は隣の部屋で寝ているはずだ。今俺の腕にくるまっているなんてことはない。
完全に明晰夢だった。あの実体験すらもそもそも夢のようなものではあったけど、だからといってまたも走馬灯宜しく繰り返し見なくてもいいのに。
「――いや、だからなのか……?」
もしかしたら関連性があるのかもわからない。だけど、ぼんやりする頭では頭が何も回らない。
仕方ないのでまた眠りにつく。だから、これはただの質の悪い睡眠。そう考える以外に何も考えられない。いつかは落ち着いて眠りにつける。そう信じて。
せめて、夢の内容が変わってきたということは、京楓には報告しなきゃな。最近は霞が夢に出てこないって。代わりに双六の時の記憶をよく見返すと。
そして、それが気付けば、ここから更に二週間も間断なく続くことになるとは、この時は考えてもいなかったんだ。
最近、どうにも体がおかしい自覚がある。熱があるという程ではないのだけれど、体の内側に熱が籠り、頭がずっと回らない。
いつも通りにご飯を作っただけなのに、琥珀からは異様に塩辛いと言われる。その時は京楓は体育の講義でテニスやったあとだったからか気にしてなかったみたいだけど。
というより、妙に火傷や切り傷を負ってしまう。一回料理する度に、生傷が一つ。前はそんなことなかったのに、以前京楓を見てて危なっかしいと思ったままのことを、俺自身がしてしまっている。
夏場の睡眠不足は敵だ。それくらい、わかっているのだけど、夢が俺を寝付かしてくれない。
そして今日。いよいよ昼間の行動にも支障をきたして、京楓に一報を入れた上で、早々と帰ってきた。
誰もいない家に帰宅して、後ろ手に鍵を閉めると、途端に心細くなる。琥珀は働きに出ている。だから今家には俺一人。外界と遮断され、ほぼほぼ無音な空間にということに気付いて、初めてえも言えぬ孤独を感じる。
それよりも、暑さのせいだろう、余りにも頭が働いてない。頭が膨張するような感覚がある。寝不足の時はいつもこうだ。
誰もいなかったから、家の中は風通しがなくて蒸している。籠った熱気がサウナの湿気のように体にこびりついて離れず、それがまた体力を奪っていく。
足元がおぼつかない。というか、家の中ってこんなに傾斜あったか? 急に登ったり、かと思えばすぐに下るような坂なんて。
やること――そうやること。そうだ、いつものようにあれをして、えっとそれで、……あれ? あれってなんだっけ?
――えっと、それで、それを踏まえて……何を踏まえるんだ? それよ、りっ……!
――っつー、なんか顔思いっきり打ち付けたぞ……。あれ、俺、なんで足ばたつかせてんだ?
えっとやらなきゃいけないこ……あれやることって……。
えっと、京楓がか――えにりょ――し……。
え――あ――け……。
暁が早めに帰るという連絡をもらってから、私はバイトが終わる琥珀ちゃんを待って、買い出しに出かけた。
料理自体は暁からある程度は教えてもらってるし、買い出しに一緒に行くことも多いから、冷蔵庫に何があって、その上で何が必要か、ということを頭に入れるのは慣れた。多少間違えて覚えていても、今日は琥珀ちゃんがいるからダブルチェックにもなっている。
その上で、具合が悪いという暁のためのヨーグルトやらゼリーやらを買っておいて、そして帰宅してみれば。
「――暁っ!?」
倒れていた。私の愛する人が。
「暁っ、どうしたのっ、しっかり、ねぇ暁っ!」
「待って。一旦落ち着いた方がいい」
「でもっ!」
「それでも。寧ろキョウカは一旦そこにいて」
暁の身体を揺さぶる私を止めるようにして、琥珀ちゃんが熱や呼吸を測る。
「――疲労かな、息は整ってるから、疲れが出たんだと思うよ。でも暑さ当たりはしてるみたいだから、氷枕は用意しなくちゃね。とりあえず、そのままだと熱中症になっちゃうかもだから、その対策の方がいいかも」
今は大ごとではないという事実に、まずはほっとする。だけど、それは放っておいていいわけではない。けれど、自室に運ぶのは、二人がかりでも大変だ。
「とりあえず、ソファーに運ばなきゃだね」
「う、うん……」
暁を一旦仰向けにして、その状態のまま、私が上半身を、琥珀ちゃんが足を持ってソファーに横たえる。琥珀ちゃんと二人で運んでも、やっぱり男の人だけあって、ずっしりとした重みがあって、やっぱり暁は私とは違うんだなって、心の片隅で感じた。
「熱高い、息も細々……出来そうならタイセイ呼ぶ?」
「うん、お願い……」
憔悴していると認めざるを得ない私と違って、琥珀ちゃんの行動は的確だ。琥珀ちゃんに指示されて初めて、タオルを取ってきたり、それを水で冷やしたりといった行動がしている。
「あ、もしもし、タイセイ? うん、アキラが熱中症みたいな症状で倒れちゃって――」
そして私が何も出来ない間に、大誠への電話も済ませてくれている。
「とりあえず、タイセイが来るまで待ってようか」
琥珀ちゃんのその一言に、私は無言で頷いた。じんわりとまとわりつくような湿気が、体中に沸き上がった嫌な汗と混ざりあって不快な気分にさせる。
「別にキョウカが悪いことしたわけじゃないんでしょ?」
「うん……暁がずっと夜眠りが浅くて、それでずっと徹夜してたみたいになってたようだから……」
「そうだね。ボクも夜に起きてきてたアキラと会ったし、その時点で最近目がよく覚めるって言ってたよ」
そうだったんだ。私が熟睡している横で、暁はずっと不眠に苦しんでいたんだ。私だけ知らなかったんだ。
「私は……彼氏が寝られない中隣でグースカ寝ていたんだな……」
「だからキョウカが自分を責めることじゃないから」
そこからは、ずっと無言だった。それは、玄関のチャイムが鳴るまで続いて、どこか悠久の時を感じさせた。
そんなこと、暁に言ったら笑われちゃうかな。それとも、霞ちゃんを思い出して嘆き悲しむかな。いずれにしても、いい反応でないことだけは確かだった。
「お邪魔するよ。で、暁は?」
勝手知ったるという様子で家に上がった大誠は、ソファーに寝かせられた暁の様子にさして驚かない。似たような症状は割と見るのだろう。
「こりゃまた苦しそうだな……まぁ、熱中症じゃなければ休めばどうってことはないだろうが……まぁ御託はいいか」
そうぶつくさ言いながら、大誠が暁の身体に手をのせて、聞き慣れた言葉を発する。
「病縁」
この言葉を聞くと、誰であろうとも安心する。これだけが世の理から外れていて、だからこそおいそれとは使えないものだ。故に、これが使われる時は私の身内と呼んで差支えのない間柄のみになる。
病縁のお陰で、暁の顔つきがだいぶましになったように見えた。少し落ち着いたかのような、安心出来る寝顔だ。
「さて、用も終わりっと。たまたま僕が近場にいる時でよかったよ」
「タイセイ、麦茶ぐらい飲んで」
「それくらいはもらおうかな」
グラスに冷えた麦茶を琥珀ちゃんが注いで、そしてそれをぐいと大誠が飲み干す。飲み干した時の表情は、一応は一仕事をしたという落ち着きがあるものだった。
私、何も出来てないなぁ。琥珀ちゃんにも大誠にもやってもらって、私は一人慌てていただけだ。
「で、とりあえずパッと見た感じだと、何らかの原因で疲れが溜まって、そこにここのところの暑さでやられた、というところだろうけど……京楓、何か心当たりは?」
大誠に言われて、少しだけ記憶を掘り返してみる。といっても、推測などせずとも思い当たる大きい理由は一つしかない。
「暁、最近明らかに寝不足だったから……」
「おいおい不摂生かい。そんなんで僕を呼ぶぐらいのことに発展させないでくれるかな」
「そうじゃなくて」
あれは、不摂生の一言で片付けていいものではない。寧ろ、そうならないように努めて、あれだ。
だけど、私が話していいことなのだろうか。でも今だけは、まずは私から話さないと始まらない。
「暁、最近毎晩うなされてて……夢に見るみたいなんだ、双六の時のこととか、それ以外にも色々、悪夢を」
「うなされて、双六の時の……連日……? 詳しく聞いてないか?」
「えっと、双六の記憶はほんの一例みたいで、私たちと出会う前のこととか、そういった暁にとって辛いことをいつも見るみたいで……」
「心の病……? いやでも、そんなことはそれまでのことを考えてもないだろうし……すまない、僕にはわからない」
最近は、暁のそれが毎日のようにだったから、私もそれがおかしいことだという認識が薄れていた。本当は、もっと早く相談すべきだったんだ。
だけど、想定外にこの話に反応したのがもう一人。
「キョウカ。それ、ボクも初めて聞いた」
「あぁ、うん、そうだね、琥珀ちゃんにも話してなかったね。
「琥珀は聞いてなかったのか?」
「内容まではね。うなされてることは知ってた。でも、そんな内容だとは思ってなかったから。でもそうだとすると……うーん……」
「心当たりがあるの?」
「――いや、なんでもない。ボクの思い違いだと思う……けど……でも……」
代わりに、少しばかり考え込む仕草を見せる。
「もしかしたら、原因がわかる……かもしれない」
「ほんとにっ!?」
「もしかしたらなだけ。でも、ボクが何かを伝えられるかもしれない。それでも、可能性は低いと思う。だから期待はしないでおいて。可能性を潰すためという方が大きいから。そんなことはまずないと思ってはいるんだけど」
かなり抽象的な説明だった。私だけがわからないのかと思って大誠の方を見れば、同様にさっぱりな顔をしている。
「一つだけ……でもこれは一から説明しようにもアキラは絶対に理解できないし、時間もかかる。だからちょっと様子見させて。キョウカもタイセイもわからないだろうし」
「わからないっていうのは……僕たちでは力になれないって事かい?」
「正直に言うと、そうだね。まぁ、原因のとこは可能性ってだけだけど。一応、覚えといてくれるといいな。キョウカとタイセイは――多分そこまで気にしなくていいと思うけれど」
いつになく饒舌な琥珀ちゃんに、私はぽかんとしていた。大誠も目が点になっているけど、私も似たようなものだろう。
「――琥珀ちゃんは、何か知ってるの?」
それは、私と大誠が抱く当然の疑問だった。琥珀ちゃんは猫だったことは知っている。だけど、だからといって原因でもなければ、琥珀ちゃんが暁の不調の理由を把握している要因はあった記憶がない。
「知ってるというか……みんなが忘れただけ、かな。思い出す必要もないよ」
そして琥珀ちゃんは、私たちからは思いもよらない返しでそれを受ける。忘れている? 何を? いつから?
「それは、暁のために僕たちが思い出した方がいいってことはないかい?」
「ないと思う。少なくともボクだけは覚えている。アキラは忘れている。本当に必要になったら言うけど、思い出しても気持ちのいいものじゃない。だから、少なくとも今はそのままでいてほしいかな」
琥珀ちゃんだけが覚えていて、暁を含めてみんなが忘れていること。琥珀ちゃんが猫だったことはみんな知っている。猫に関係すること? いやでも、そういうような雰囲気は見受けられない。
そんな、思考に沈む空気を察してか、徐に大誠が立ち上がった。
「――さてと、僕は帰るかな。一応やることがあってね」
「わかった。タイセイ、見送る」
「ん、ありがと」
琥珀ちゃんが大誠の背を追ってぱたぱたと駆けて行く。玄関先で何かを話していたのだろう、数分程度琥珀ちゃんは戻ってこなかった。
大誠が帰ると、再び静かな空気が流れる。静かで、湿気によってどこか重くさせられている空気だ。
「タイセイ、次の研修に行く合間だったんだって」
「そっか、悪いことしちゃったね……」
タイミングがよかったのかもしれないけど、一面的には最悪のタイミングだ。仮に遅刻して怒られるとなった時に私では責任が取れない。
「ボクも部屋戻る。キョウカはアキラと一緒にいてあげて。アキラも、まずはキョウカの顔が見たいだろうから」
そしてリビングには私と暁だけが残される。一人落ち着いて初めて、やっとリビングの冷房が効いてきたことを実感した。これなら暁ももう暑くはないだろう。
――まずはキョウカの顔が見たいだろうから。
琥珀ちゃんのその言葉に、ふっと、次にすべきことが頭に浮かんだ。それは、ほんの思い付きだった。
あくまで暁が苦しまないようにと思ったこと。そしたら、私が何をすればいいか、ぱっと浮かんだだけだ。
「えっと……」
おずおずと、暁の頭を上げて、そこに私の腰を滑り込ませる。これなら、暁が目を覚ませば、まず視界に入るのは私の顔だ。
そういえば、いつも一緒に横になるかそうでないかという状態ばかりだったから、気付けばしたこともされたこともなかった。そして、私の太ももを枕にした暁は、心なしか、表情を少し楽にしたように見えた。
「暁、あったかい……?」
――少しは、柔らかく思ってくれてるといいな。
頭が冷たい。それでいて、後頭部は温かい。間隔を取り戻し始めて、少し強めにかけられた冷房が存外に体を冷やしていたことに気付く。
血が回り始める。すると、その所為かずきずきと頭が痛み始めた。
「あ、起きた?」
「きょ……か……?」
「あはは、そんな感じに言われると、初めて会った時のこと思い出すな」
真上から、京楓の声が聞こえる。目を開けると、柔らかい表情で、京楓が俺を見下ろしていた。
そうか、膝枕か。そういえば初めてだな。俺が京楓にしてあげたこともなかったから、こうして見ると新鮮な図だ。
「頭痛ぇな……」
「大丈夫? そんな無理して起き上がらなくていいから」
ちらりと、壁掛け時計を見る。帰宅した時間から、優に三時間は経っていた。既に日差しは西に傾き始め赤みを増している。
「そっか……だいぶ時間が経っちゃってるな……」
膝枕はいつからだろう。気持ちいいからずっとしていたい気持ちはあるけれど、でもずっとしているのも京楓に悪いし。
だから、早めにどこうと思って頭を上げようとしたのだけど。
「――おっと」
「だから無理しないでって!」
「……悪い」
思いっきり落ちかけた。とはいえ、血が巡ってくれば、それなりには動けるようになる。
「えっと、何があった?」
「帰ってきたら暁がそこに倒れていたから、琥珀ちゃんと一緒に看病してて、琥珀ちゃんに大誠を呼んでもらってた」
「大誠!? それくらいの状況だったのか俺……」
「念のためだったし、大誠もついでがあったから来てくれたけど。でも、かなり苦しそうだったのは本当。大誠呼ぶの提案したのも琥珀ちゃんだったしね。私は何も出来てなかったな……」
「でも、こうやって膝枕してくれていたじゃないか」
「それは琥珀ちゃんが上に行ってからだから。大誠が帰って、琥珀ちゃんも戻って、私に何が出来るだろうって考えて、そうなっただけ。本当に、私は何も動けてないから」
実際どうだったのかはわからない。だけど、京楓がそこまで言うのならそうなのかもしれない。俺には確かめる術がない。
「ところでさ、琥珀ちゃんが気になることを言ってたんだけど。夢の原因がわかるかもとかなんとかって」
本当か、と聞きたいのをぐっとこらえる。あくまで『かも』だ。特定を出来たわけではないぞと、言葉の端々が伝えている。
「でも今ただ説明しても暁にはわからないだろうってさ。私も大誠も理解できないみたいで、琥珀ちゃんだけが何かを知っているんだってさ」
琥珀だけが知っている事柄は、何かあっただろうか。正直、そんなことがあったような記憶はない。
そんなことを考えていると、急に京楓が俺の顔を覗き込むような仕草を見せた。急に大写しになった京楓の顔が視界いっぱいに広がって、俺の顔に翳を作る。
「――どうしてそんな無理してたの」
「無理、とは?」
「だって、こんな、ほら、いつもの暁ならこんなに手に傷がない……」
あぁ、やっぱり気付かれていたか。まぁ、そりゃ昼も夜も、歩いていても横になっていても手を握る機会なんて多いから、バレていたところでおかしくはないけれど。
「擦り傷みたいなのじゃない……切り傷だもん……包丁を満足に扱えてないってことだもん……私がやるよりひどい……」
京楓に、私がやるより、と言われるとなるとよっぽどだ。そりゃ、今でこそ俺がみっちり指導して、俺がいなくても一定の質を出せるようにはなった。だけど、今でもたまに包丁さばきが俺から見てて少し怖くなるのは事実だ。
京楓が成長したのだろうか。いや、俺が退化したのだろう。正確には状態異常と呼ぶのが相応しいだろうけど、だけど俺には退化も同然だった。
「せめて私がもっと早くから作るって言っていれば……」
「いや、俺が作りたかっただけだから。寧ろ最近は、京楓の作る機会を奪っちゃってるなって思ってたぐらいだから」
やっぱり俺は、満足そうに、いっぱい食べる君が好きだから。それが欲しいから、俺は俺から積極的に何かを作りたいって思えるんだ。
「はは、やっぱり京楓のことを第一に考えちゃうからかな。俺のことなんてどうでもいいからさ」
「えっ……」
俺としては軽口のつもりだった。俺が怪我しようが、京楓がおいしいって言ってくれるなら。何事も、京楓が満足してくれるならそれでいい。そう思っているのも事実ではあったけど。
だけど、京楓はそうは受け取らなかったようだ。急に顔は青ざめ、唇がわなわなと震えだす。
「何……? 暁は……私が大好きな暁は、自分のことを何も考えていなかったって言うの……?」
「きょ、京楓……?」
「ふざけないでよっ!」
想定外の大声が、回らない頭にジンジンと響く。喧嘩で大声になることはあっても、こうも一方的に怒鳴られたのは初めてだと、無意識に思った。
ボタリ、ボタリと、熱い雨が降り始める。それを俺は、どこか遠い景色のように眺めていた。
「私はっ! 東雲暁が好きだ! だけど暁が! 自分のことを大事にしなかったら! それで暁がさっきみたいに倒れたら! 私は自分以外の誰を大事にすればいいっていうのっ!」
この時になってやっと、明確に失言したことを悟った。
俺にとっての宝物は京楓だ。そして京楓にとっての宝物は俺なんだ。だけどその宝物が勝手に傷ついてもいいというなら、それは怒るだろう。俺だって、京楓に勝手に傷つかれたら同じ反応を返すだろうに。
これは俺に怒っているんじゃない。京楓の自尊心が傷つけられたことへの不甲斐なさなんだ。
「――ごめん」
「許さない」
「撤回するから」
「自分を大切にしないって、もう言わないなら」
手を伸ばして、京楓の涙を拭う。京楓はされるがままになっていた。
「――ねぇ」
不意に、京楓が先程の熱い雫のようにぽつりと漏らす。
「暁は過去のことでずっと苦しんでいる。鬼無水はずっと病気に苛まされていた。大誠は縁ちゃんの苦しみを知って寄り添ってあげている」
ここまで口調が弱い京楓は久々だ。弱気だからじゃない。京楓は、それ以上に不甲斐ないと感じた時が一番弱くなる。
「――私だけ、ないんだ。なんにも苦しんでない。暁の過去のこと、気付けば知ろうとしてこなかった。暁が過去の事忘れられるようにと思ったのは事実だけど、私が暁の過去を知ることを恐れていたんだ。理不尽と不平等を恐れるあまり、暁にそれら全てを押し付けちゃってる。暁とずっと平等でいようとしてたのに、全然平等なんかじゃないよ……」
それはきっと独り言だったのだろう。これを俺は聞いてはいけない気がした。だって、俺とずっと一緒にいたからこそそれは生まれた気持ちで、そして俺には聞かせてはならないはずの心情だったろうから。
「辛い……暁の苦しみを一緒に背負ってあげられてないことが、今はこんなにも辛いよ……」
そう、静かに語る京楓の声が、段々とか細くなっていく。京楓の両手に包まれた頬は、いつもより温かくなかった。
「――俺としてはさ。救ってくれただけで恩なんだけどな」
まずは、これが偽らざる気持ち。他にもあるけど、一つだけ挙げろと言われたらこれになる。
「家族を失って、ずっと塞ぎ込んでいた俺に必要だったものは、家族の温かみだった。それを夙にくれたのが京楓だった。京楓にとっては日常だったものでも、俺にとっては毎日が新しい日常の入り口で――俺はそんな日常に助けられたんだ。そしてその牽引役が京楓だったんだよ」
普通の日常が欲しかった。学園にいた頃は、それが一番縁遠いものだったから。それを待ち続けて、だけどもう届かないものだと諦めて、そしてただ部屋の片隅で虚空を見つめていたんだ。
そして逃げ出して、京楓と出会った。みさきや大誠も交えて色々なところをほっつき回るだけだったかもしれないけど、あの時の俺にはそれは胸躍らせる冒険以外の何物でもなかったんだ。
「だから、何もしてないって自身を否定しないで欲しい。それは、今京楓が俺に対して怒ったことのカウンターになっちまうから」
「うん……わかった」
京楓の頬を撫でていた手を少し降ろす。そして、その流れで小指だけを立てた。少しそれを曲げて、同じようにしてと合図を送る。
「ほら、約束」
「うん……約束」
指きりなんていつ以来だろう。初めてってことはなかったと思うけど、片手で数えられる程しかなかった気がする。
それにしても、思い返せば、確かに疑問だらけだ。どうして霞の夢を急に見るようになったのか。どうして毎晩繰り返し見るのか。どうしていつも夢に引き込まれるような心地を覚えるのか。
俺は、俺たちは何かを忘れている。どうして双六世界になんて行くことになったのか。双六世界で何故俺と京楓は反目していたのか。色々挙げればきりがない。
今になって、何かがわからないという事実に震えがする。授業で習った内容を忘れたというようなものじゃない。それは記憶の欠落であり、俺という存在を形作った経験の忘却だった。
いつも何かを感じていたはずなのに。それを京楓と、みんなと経験したはずなのに。みんなに聞いてもわからないというばかりで、それが異常であるということにも俺たちは気付けない。
調べる必要があるだろう。それがきっと、この夢の原因を探ることに繋がると信じて。