「暁、本当にランドセルはおさがりでよかったの?」
私としては、それが気がかりだった。暁が、寧ろ中古がいいと言ったぐらいには拘りがなくて、それでいいのかと逆に不安になる。
「いいんだよ。わざわざ新品にすることもない。どうせ六年も使わないなら、俺にはそれでいいさ」
おば様方に暁の話が行っていて、そしたらその内のお一人が、今は中学生の息子さんが使っていたそれを保管していて、それを譲ってもらえることになった。だから、結局うちとしての必要経費はゼロだった。
「それに……」
「ん? どうしたんだ?」
「――いや、なんでもない」
少し、暁が口を噤む。何かを言いあぐねていることだけはわかったのだけれど、無理に私はそれを尋ねないことにした。
「――楽しみだな!」
「うん!」
何と言ったって今日は、やっと迎えた暁の編入初日だ。少しぐらいは気分を上げていこう。
私は暁の手を引いて学校へと連れて行く。正確には私が暁の手をぐいぐいと引っ張るようなものだったけれど、それは拾ったその時のような、それにも似た感じだった。私が、暁を全力で引っ張っていくんだという、そういう決意も込めて。
「あ、京ちゃん、暁くん、おはよー。暁くんのランドセル、様になってるねぇ」
「おはよう、暁。そのランドセル、似合ってるぞ」
合流した鬼無水と大誠も併せて、四人で登校だ。一人増えただけで、途端に更に騒がしいものになるように思えて、どこか不思議に感じる。
今までは六つの足音を響かせていた。今日からは八つの足音だ。そしてそれは減ることはない。
「――なんだか、感慨深いな」
そう、やっと。長かったのか早かったのかわからない三ヶ月だった。終わってみればあっという間だったかもしれないけれど、それでもそれまでの人生の一年間には匹敵するぐらいの密度を伴っていたと思う。
正直、私のこれまでの人生で一番濃くて長かったのは間違いない。それは一方では刺激的で、一方では落ち着ける時間だった。ただ、二人きりの時間がずっと続くという、望まずとも手に入った永遠は、これからも延々と繰り返していくことだろう。
「――三年間か」
「そうだよー、三年間、暁くんはここで私たちと一緒に過ごすの!」
「まぁ、三年間なんて今の僕たちには丁度いいかもしれないね」
「――あの二年を上塗り出来るなら、それでいいさ」
「ん? 暁、何か言ったか?」
「なんでもない」
私たちにとってはこれまで通りの日常。街並みが変わったわけでもなく、日常で起こるイベントが特段変わるわけでもなく、ただ暁という存在が増えただけ。
――いや、違うな。暁がそこに加わったことで、新たな日常が始まるんだ。それはこれまでの日々よりもきっと楽しくなるもので、イベントもそれによって大きく変わるのだろう。
楽しくしてみせる。それは私たちが楽しむためにも。何より、暁に満足してもらうために。
そんなことを考えていれば、もう学校に着いていた。暁と話していたからか、その道のりはこれまでより長く感じた。
「それじゃぁ京楓、ちょっと行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
テストを受けに行った時に職員室の場所は把握しているようだから、一人で行かせて大丈夫だろう。
そう、このことに関しては、暁は私の助けをもう必要としていない。確実に、暁が一人で出来ることが増えている。拾った手前、どことなく私もお姉さんぶってしまうことがあるように思うけど、よく考えれば、ずっと独りだったからこそ、一人で何かをするということ自体の適応力は高いのかもしれない。
「大丈夫だよ京ちゃん、暁くんは別に京ちゃんがいなくたって一人で出来るよ」
「――わかってる」
だからこそなのだ。暁が一人で色々なことをやれるようになるのは素直に嬉しい。だけど、私の手を離れて独り立ちするのには、まだ早いと思う自分がいる。それも、暁が早いんじゃなくて、私が寂しいからなのだ。
「まぁ、暁は暫くは京楓の力を借りないといけない場面は多々あると思うし、僕たちも京楓に任せてしまうことも多いと思うけど、その時は宜しく頼む」
「勿論私たちにも助け求めていいんだからね? 暁くんの力になりたいと思うのは私たちも一緒だし!」
「――う、うん、助かる。何かあったら、言うよ」
――あぁ、そっか。暁は私の傍にいてくれるんだ。それは、私が暁を拾った時から運命づけられていることで、そしてすぐに終わることはない。どんなに早くても、何事もなければ十年近くは続くようなものだろう。
なんだ、私は何を気にしていたのか。だったら、私だってちゃんと常に暁に、二人に向き合わなければ失礼というものだろう。暁の成長を手助けしてくれるという二人に。真面目に私と暁のことを考えてくれている二人に。
とにかく暁が最優先だ。それさえ間違えなければ、『いつもの三人』が『いつもの四人』でいられるようになる。
――だから、今は、それよりも。この学年になってから、ずっと私を悩ませている、嫌らしい相手への対処をする方が先だ。
「おーい、おとこんなが誰か連れてきてたぜー」
教室に入ってすぐに聞こえてきた悪口を、私は無視する。彼が私によく突っかかってくるようになって、私は久々に人は誰しも分かり合えるものではないということを思い出した。
おとこんなって。小学生男子が男子っぽい女子をからかう際によくあるような表現だ。だから、それこそ今ぐらいの時期には他でもよく飛び交うような表現なのかもしれないけれど。
それでも、明確に嫌と言って尚も続けられていて、流石の私もフラストレーションが溜まっていく。嫌だと言ってもやめられなくて、先生に言ってもいない場所で言い続けられてて、今更どう対処すべきかという術を知らない。
「京ちゃん、気にすることはないよ」
いつものこと。そういつものこと。今年からクラスが同じになった男子が、性懲りもなくつっかかってくるだけのこと。だから私はそれを無視するだけ。
だけど、それを、暁には知られたくないと思っている自分がいた。鬼無水と大誠はいつも聞いてるから知っている。最初の内は、嫌がってる私を見て注意もしてくれていたけど、効果がまるでなかったから、最近は私に対して気にすることはないと声をかけるだけになってしまった。
それより、この話は、実は母さんにも話せていない。基本的に母さんには、当たり障りのないことぐらいしか話せてない自覚がある。
だって、心配かけたくないんだもん。実の娘が、学校で変なことを言われ続けているって。
そんな思考を、前に座る鬼無水が遮ってくれる。
「それより京ちゃん、暁くんと授業受けるの、楽しみ?」
「まぁ、それはね。何かあったら私が助けなきゃ」
「でもよかったよねぇ、暁くんの席は京ちゃんの隣って決まってて」
「というか、先生は私の隣を空けるために直前の席替えをしたって言ってたぞ」
「そっかぁ、なら初めからそのつもりだったんだね」
そんな話をしていれば、気付けば先生が教壇まで来ていた。となると、教室の扉の外には、今暁がいる。学校なのに、今私が大声を出して呼べば、それはきっと暁へと届く。
「さて、今日はこのクラスにやってきた転校生を紹介します」
どこか事務的な言葉と同時に、暁が入ってきた。もう、大声を出さなくても、暁に声が届く。学校なのに、暁がいる。
さぁ、暁にはこの学校を楽しんでもらって。私はそんな暁を堂々と引っ張っていけるように――。
だけど、私にとってのその期待はあっけなく潰えることになる。
「あー、おとこんなが手引っ張ってた奴だ、あいつ」
瞬間、目の前が真っ暗になった。母さんにも話していなくて、鬼無水にじわじわと辛いと相談していたことが、暁に一発でバレた。
駄目だ、言い逃れが出来ない。条件が揃ってしまっていて、暁にはそれが私の事だとわかるように聞こえてしまっている。
暁には、聞かれたくなかった。そんなもの、無視すればいいと言ってしまえばどれだけ楽だったろう。だけど私は紛うことなき女子で、そして嫌だと思っていることを取り繕おうとしてしまうぐらいには、私は子供だった。
そして、暁は。
「――えっとさ」
あろうことか、転入の挨拶もせず、声の主の元までずかずかと歩いて行った。
「京楓が、なんだって? 男っぽいって?」
「んだ? 別に関係ないだろ」
「こんなに可愛いのに?」
それはすっとぼけではない、何も疑問に思ってない顔だった。それでいて、顔面を限りなく近づけていて、あぁ、それが暁にとっての威圧なのだろうということがわかる。
きっと、まずは私のためではあったんだろうけど。でも、あの表情を見るに、きっと私が何か言われていることに怒って、それであぁも突っ込んでいったんだとわかった。そしてそんな暁が怒る様子は、私ですら初めて見る。
「そりゃ俺より体力はあるし、男の俺より勝ってるところは幾らでもあるから、そういう意味ではそうかもしれないけれど……でも! こんなに可愛くて、性格もよくて、なのにその程度の言葉でしか京楓を形容出来ないのは……京楓のことを知らなすぎるんじゃないかなって、そう思ったんだ」
教室は、静まり返っていた。転校生としてしか言われてない、まだこの教室にて異物でしかない男子が、突然発言をした男子の元へ向かって行って、その発言を窘めていたら、誰もが呆気にとられるのも道理だ。
当人は、完全に目を白黒させている。流石にこうも突っ込まれるとは想像していなかったのだろう。誰だって、想像するわけがない。
「それで、どうなんだ?」
少しだけ時間が経って。やがて、暁は向けられていた視線を逸らされた。
「――あっち行けよ、俺はあいつに興味がない」
それが終局の合図だった。それをきっかけに、再び時間が回り始める。
「あ、あの、東雲くん……」
「あ、ごめんなさい。すぐ戻ります」
そしてそのまま、ツカツカと黒板の前まで歩いて行った暁は、慣れたような手つきで自身の名前を黒板に書く。
――いや、慣れてるんじゃないな。どこかでこっそり練習をしていた手つきだ。そういえば時折この教室の黒板が誰かが名前を書いて黒板消しで消したような痕跡が残っていたことがあった。あれは、試験を終えた暁がその足でやっていたのだろう。今更ながらにその事実に気付いた。
「東雲暁と言います。この町に来てまだあまり経ってないので、わからないことも多いとは思うのですが、何かあったら助けてもらえると嬉しいです」
そこまでは普通の自己紹介だ。私だって同じようにするだろう。当たり障りのない、特に触れられたくない過去を持つ暁だからこそ、そうなるのは必然だった。
だけど暁は、そのまま他の人は誰も予期していないだろう言葉を放つ。
「あと……事情があって、そこの野々宮さんの家に住んでいます。なので、学校に来てなくて連絡をしたいとかあったら、野々宮さんに伝えてください。宜しくお願いします」
その一言で、また教室は静まり返ってしまう。そこから刹那の間を置いて、却って教室内が騒がしくなった。
別にそのことを言うべきではないと止めていたわけではない。だけど、自分から話すとは思ってもいなかった。暁なりの考えがあるんだろうけど、だったら先に相談ぐらいしておいてほしい。
結局、暁が私の隣の席に案内されて、そこから授業が始まるまで、周囲の視線は生暖かい物ばかりで、かといって誰かがこっちに来るわけでもなくて。
だから、暁の学校デビューは、それはそれはとても浮いたものになってしまった。
そう、給食が終わってからのお昼休みまでは思っていたのだけれど。
――どこから来たの!?
――何か好きなものあるのか!?
――野々宮さんとはどんな関係!?
――さっきのかっこよかったよ!
「暁くん、大人気だねー」
「――そうだね」
こればかりは、憮然として返すしかなかった。やっぱり、どこに行っても転校生の最初は人気なのだ。
結局、最初はみんな声をかけるタイミングを計りかねていただけらしい。私や鬼無水、大誠が何かせずとも、最初に一人が飛び込んでいって、そしたらわらわらと色々な人が暁に興味津々という体で突っ込んでいっただけだ。
心配を返せとは言わないけれど。暁が浮いた存在になってないのは喜ばしいことだけど。それでも、杞憂でよかったはずの心配は、一周回って少し私が蝕まれていた。
そして、そんな暁の返答も。
「そうだな、だって俺はラッキーな男子だからな!」
そう、さっき自己紹介をする前に突っかかってたような雰囲気とは真逆の、快活な受け答えで、早速人気者になっていた。
正直、これらの流れを見ていれば、暁はどんな子なんだろうと思ってもおかしくはない。だけど、それは他方で、裏表がありすぎる『不思議な子』と思われていそうで、それはそれで嫌だった。
普通どこから来ましたとは言わないで。そもそも『転校生』じゃなくて『転入生』という紹介で。そのニュアンスの違いを知っているのは私と鬼無水、大誠ぐらいなものだけど。
ともあれ、あれだけ鮮烈なクラスデビューを『させてしまった』からこそ、やはりどことなく不思議な子と思われても、仕方のないことで。それが定着しないかが不安だった。
「でも、結果オーライじゃない?」
「まぁ……暁が馴染めそうだというのなら、それでいいんだけど」
それ自体は本心だ。私の『役目』は、暁を独り立ちさせられるようにすること。その後の進路を決めるのは暁自身で、それに私の意志が介在してはいけない。
それでも、どこか得も言えぬ感情が渦巻いていることだけはわかった。あれだったら、最初から私が手引きしなくとも問題ないように見える。とすると、別に私がやれることはないのではないか。
それでいいんだろうけど。無理して私が、何か必要なことを抱え込む必要もないんだろうけど。
「京ちゃんさ、ヤキモチ焼いてるでしょ」
「そんなことないぞ?」
「うーそ。暁くんが取られちゃいそうになるって、そんな顔してる」
「取られちゃう? そういう顔?」
「うん、そんな感じかな。違うとするなら、京ちゃんがやることがなくて不満そう、という顔かな」
「そうじゃない。そうじゃないんだけど……」
いや、その通りだ。だけど、それを素直に認めるのはあまりにも癪で、だから私はついそれの否定に走ってしまう。
私の手を借りずとも馴染めるということが、私にとってはどこか寂しかった。だけど、そんなこと、鬼無水に言えるわけもない。
「……暁、上手くやれるかな……」
「大丈夫だと思うよ? その証拠に、ほら」
「えっ……えっ!?」
気付けば、私の机の周りにも、クラスメートが大挙してやってきていた。
――東雲くんと一緒に住んでるのっていつから!?
――家での東雲くんってどんな感じなの!?
――東雲くんの一番ラッキーってどういうことなの!?
――野々宮さんは東雲くんに対してどう思ってるの!?
「まぁ、こうもなるよねぇ」
「きっ、鬼無水、助けてー!」
「うーんと、ちょっと無理」
救援信号、届かず。鬼無水には断られた。大誠は教室にいない。暁は私と同じ状況。
成程、まずは私も暁と同じ状況に置かれて慣れろと。こんなことに慣れる必要があるとは思えないのだけれど。
そんな思考も、質問攻めに遭えば立ち消えていく。結局、この時はなぁなぁでやり過ごすことしか、私には出来なかった。
「疲れた……」
「まぁ、あれだけ質問攻めにあってたら仕方ないよね。暁はよく頑張ったと思うよ」
「正直助けが欲しかった……」
頭が茹で上がった暁を、それとなく大誠が支える。流石に口には出来ないけど、体が大きいから、暁を支えるには丁度収まりがいいように見えた。
「京楓は……まぁ、大丈夫そうか」
「まぁ、私もちょっと疲れたけどね。でも暁の手前、そうは言ってられないよ」
「と言っても、いつもより疲れてるようにも見えるから、今日はちゃんと休んどけよ、暁の手前というなら余計にね」
「――そうだね」
大誠は、今日に限ってはクラスの誰ともつるもうとはしていなかった。ずっと輪から外れて、だけどずっと様子を窺っていたから、見えるものがあったのかもしれない。
確かに、今日のクラスの雰囲気が異様と呼ぶにも近かった。その中心は勿論暁で、転入生の最初の一日だったのだから当たり前ではあるのだけれど、私にもやはり質問攻めが来たのだから、そりゃそうなるにも決まっている。
というか、よく考えれば、それは暁がうちに住んでいるという話をしなければ問題なかったのではないだろうか。それさえなければ、少なくとも私の元へも誰かしらが大挙して押しかけるということはなかったはずだ。
成程。つまり今日のあれこれは全て暁のせいだ。だったら、少しぐらい、暁に大きく出たってきっとばちは当たらない。
「あれ、どうした、京楓?」
「知らないっ」
まぁ、今だけはこの対応も許されるだろう。今日私が疲れたのは暁のせい。よしこれでいい。
「ねぇねぇ京ちゃん。そういえば尋ねるタイミングを失ってたんだけどさ」
ふと、鬼無水が後ろからとてとてと私に追いついて口を開く。声の大きさ的に、暁や大誠には聞かれたくないことのようだ。
「以前京ちゃんが一緒にいるって言われてた男の子って、暁くんのことでいいんだよね?」
「うん」
「だよね!」
いや、それは自明の理だろう。前日になってしまったとはいえ、暁の転入前に先に鬼無水と大誠に紹介したのは、それまで暁を理由に遊べてなかったというのを伝えてはいたからだ。
「――それにしても、不思議な子だね」
ドクン、と変な心臓の高鳴り方がした。鬼無水は、私程詳しくはなくても、暁が特殊な環境にいたという事実は、言外から知ってはいるはずだ。そして、暁がみんなと一緒の普通でありたいと思っているということも、また同様に知っているはずで。
「不思議って……?」
その鬼無水が。鬼無水が、それを言うのか。
「あぁ、さっきの『あれ』は全く関係ないの! 多分京ちゃん、そのことで気に病んでそうだったから、このタイミングで不思議っていうのは言葉が悪かったね」
「それならいいけど……」
本当に。どこか変、というようなニュアンスで言っているわけではないのだというなら、それでいい。いいのだけれど、先に受けた印象が不穏だったからこそ、どこか私は不信感を抱いてしまう。
「勿論変な意味じゃないよ? だけど、京ちゃんがずっと私たちとも最低限でしか遊ぼうとしないで付きっきりになる子ってどんな子なのか、ずっと気になってたから」
「それは……」
心配させちゃったかな、と思った。確かに暁に付きっきりで、鬼無水や大誠と過ごす時間が激減していたのは確かだ。二人でさえそうなのだから、他のクラスメートらは言わずもがなだろう。そしてそんな状況なら、ちらっと聞いている二人が何かしら疑問に思うのも当然のことだ。
それでも、暁が在りたいと願う『普通』がまだ程遠いのもまた確かで。そしてそれは、最初に私が、次に鬼無水と大誠がそう思えなければ駄目なんだ。
「でも、優しいっていうのは、間違いないよね」
「えっと……」
「だって、そうでもしなきゃ、自己紹介をする前からあぁも男子の元へなんて行かないよ?」
「それは……」
確かに、そうだ。よく考えれば、あれだって今日の事だ。当たり前なのだけれど、その後の質問攻めの方が色々あったから、どこか昨日かそれ以前の事のように感じていた。暁が登校するようになったのは今日からなのだから、本当は今日以外ありえないというのに。
「まぁ、それがあったから、『不思議』って表現しちゃったところはあるんだけどさ」
「あぁ、うん、それなら……わかるかな」
「でもきっと、それがいいところなんだろうね。よかったね京ちゃん、暁くんにはしっかり想われてるよ」
「まぁ、暁は優しいからな。別に、私が想われてるとか、それは関係ないぞ」
「いやでも京ちゃん、今日それをずっと気にしてそうだったっぽいけど、違うの?」
「ま、まぁ、嘘かと言われたらそうじゃないんだけど、でも……」
「というか、だからじゃないのかな。暁くんがつっかかるぐらいのことがあって、だからこそ、暁くんが京ちゃんと同居してますって、わざわざあそこで言ったのは。京ちゃんに何かあったら暁くんが来るぞっていう」
「あ……」
ここに来て、人の気持ちは難しいと素直に思った。実際に暁がそう思っていて、そしてだからあぁ言ったのだとするならば。それを私は私が今日疲れたのは暁のせいと思って八つ当たりしていたわけだ。八つ当たりというには違うかもだけど、それでも私のためを思ってしてくれたことだとするならば、気持ち恩を仇で返しているような感覚にもなる。
やっぱり、まだ暁と話すべきことは多い。でもそれは、きっと人間として普通の事で、それを私は怠っていただけだ。
「でも、どこか不安定というか、少し見てて不安になるところもあるよね」
「と、いうと?」
「なんていうのかなぁ、京ちゃんに対して過保護とでも言えばいいのかな。どうしてそこまでって思うところはあったんだよね。京ちゃん、何か京ちゃんから聞いても大丈夫なことってある?」
「そ、それは暁の口からでもいいか? 私が勝手に言ってもちゃんと伝わらないだろうし」
「それもそうだね。聞いても大丈夫そうだったら、暁くんに尋ねてみるよ」
そして鬼無水は、私が止めるまでもなく、暁の元へ行ってしまった。私の横に立つ相手はいなくなって、私独りが三人の前を歩く図に変わる。
それでいいのだろうか。暁のことを、私から話していいかなんて、そんなことないに決まっている。だけど、暁に尋ねたところで、きっと教えてくれるとは限らない。
それでも、暁が私以外の誰かにそれを話せる日が来るのならば、それはきっととてもいいことなんだろうけれど。でもそんな日は来るのだろうか。
「京ちゃーん、やっぱり駄目だってー」
ほら、そうだろうと思った。
「まぁ、暁が話してくれる時でいいんじゃないかな。私たちは、暁が笑って話せるようになるのを待つしかないよ」
「そうだねー」
それは、私が鬼無水に、暗に掘り返す話ではないと投げた牽制球だった。それは、誰であっても無闇に聞いてはいけないという、一人聞いてしまっているからこその、暁への刺激を防ぐのと私の一つの独占欲。
でも、言ったこと自体は事実だったのだ。いつか暁が笑い話かそれに類する具合な気持ちで話せるようになるならば、それはきっと傷も癒えた証になるんじゃないかって。
――結局、暁が自身の過去を私以外にそれを話すことはなくて。この時から十二年半後、私から鬼無水に話すこととなる。
「京楓」
「ん?」
まぁ、今はそこまで考えなくてもいいはずだ。
「今日の晩御飯、なんだろうな」
「――ばーか」
だって、暁が望んだ『普通の生活』は、まだ始まったばかりなのだから。
もう一つの転機は、夏休みにみんなでキャンプに行った時だったかもしれない。
たき火の薪を探しに行った鬼無水が戻ってこなくて、それを暁が見つけて探して戻ってきた時の事。
「暁……腕、大丈夫……?」
「あぁ……」
その腕は、初めてテニスラケットを持っていた時同様、赤く震えていた。見ているだけで痛い痛いという悲鳴が聞こえて来るかのようだ。
「全然、気付いてなかったや」
そんなわけはないだろうに。鬼無水を抱えている間は確かに火事場の馬鹿力が働いていたかもわからないけど、それが終われば一時的な麻酔のような効果も切れるだろうから、寧ろ余計に痛いはずなんだ。
「とにかく、京楓はみさきのこと見てやってくれよ。人が多くて悪いってことはないだろうか」
「いや、私は暁を看る。鬼無水はみんなで看てもらってるし、だったら私は暁を気にしなきゃ」
鬼無水の、大誠の両親とが鬼無水を介抱して、熱はないか、食欲はあるかどうかを診ている。だから、大人ばかりがいるそこに、私が入るスペースは現時点でない。
「いや、でも別に大丈夫だから」
「大丈夫なわけないでしょ!? その腕で! それもずっと鬼無水を背負ってきて! だったらせめてそれが大丈夫になるようにしなきゃ!」
「だから大丈夫だって!」
どうにも、この時の私はムキになっていた。鬼無水を助けた暁に、私から出来ることはないか、何が出来るかだけを考えていた。そして、その赤く腫れた腕は、処置が必要なそれであると、以前の経験が告げていた。
前はテニスラケットを二時間ばかし振り回しただけであれだったのだ。流石にテニスラケットと比べてしまうとあまりにも重い女子を三十分ばかしずっと背負っていれば、こうなるのも道理だ。
「ほら、せめてすぐに冷やしてよ! すぐそこで幾らでも冷やせるんだから!」
「っと、そんな無理に引っ張るなって!」
「やめない! まずは冷やして!」
「わかったーって! これでいいだろっ……っ……っちぃーな……」
夏でもよく冷えた清流に浸された暁の腕が、じんわりと腕の赤みをゆっくりと消していく。それと共に暁もさっきまでの覇気が消え、少しばかり疲れたかのような表情になる。
ここだ。ここで暁に言うべきことをちゃんと言おう。疲れてる中申し訳ないけれど。
「暁は無理しすぎ! 途中で暁も倒れちゃったらどうしたの!」
「倒れねーよ! みさきを抱えて倒れるわけにはいかねーだろ!」
「そんなこと言ったって! 私が拾った時も! 私がいなければどうなってたかわからないじゃん!」
「あ、あれは俺一人のことだったし、そもそもあの時は死んでもいいってなってたから……」
「それ! 自分の事を考えないで無理し過ぎなの! それが他の人にも迷惑かけるかもしれないじゃん!」
だから、暁には無理をしてほしくなかった。鬼無水だってそうだったけど、鬼無水よりひどい状態だった暁の事も知っているから、余計にそう思ってしまう。
だけど、それこそが暁には逆効果で。
「京楓は気にしすぎなんだよ! 俺だって、一人で出来ることはある! 京楓のそれは、おせっかいだ!」
カチン、ときた。でもそれ以上に悲しくなった。
「じゃぁ……っ!」
独りで生きればいいじゃない、と言いかけて思い留まった。それは、それだけは禁句だ。
「じゃぁ、なんだよ?」
「暁には……まず自分の事を考えて欲しいなって……」
結局、いつも口にしていることを繰り返すだけになってしまう。それは、今言う事ではないことなのはわかってはいるのだけれど、じゃぁ、に繋げるとすると、これしか浮かばなかった。
「でも、あの状況だったらそんなことは言ってられない――仲間を助けたいって思うのは、自然なことだろ!?」
それは、その通りだ。だけど、それ以上に、暁の方がはっとしたような表情になって、そのままどこか、ばつが悪そうな様子になる。
「いや……そっか、少しだけでも……いや……でも……」
「急にどうしたの」
「ごめん、なんでもない――わけではないんだけど、でも、俺が達したいと思っていたことの、その一部だけでも出来たことだったんだ。だから、殊勲というか、なんというか……」
さっきまでの暁は間違いなく殊勲賞のそれで、それは否定されるべきではないのだけど。でも確かに私の言葉はそれを否定するようなものになってしまっている。
「なんていうんだろ、当たり前だけど、別にみさきが倒れてたのがいいって話ではないぞ。だけど、あぁやって助けられたという事実が、俺の気持ちを少し軽くさせてくれたのは事実なんだ。そのことは、認めてほしいというのは本音かな」
「それは……暁が……」
家族の事を、と口にしかけて、やめた。それは、恐らく私がまだ聞いていいことではない。
暁にとって大事なのは、鬼無水が無事だったこと。そしてそのこと自体は、無駄だったとは私含め誰も思ってない。だったら、まずは暁の頑張りを褒めるべきだろう。というか、それすらまだしていなかったのか、私は。
「――頑張ったね」
「……ありがとう」
「でも、暁の腕の事は、暫くは面倒見るからね。それだけは受け入れなさい」
「――へいへい」
私も口がよくなかったかもしれない。それに、思わず出かかった一言は、暁のこと自体を否定するようなものだった。
だからこそ、それを打ち消すために、本当はここから更に続けるべきだったのかもしれない。だけど、丁度ご飯の準備が整ったことによって、話自体を続けることが出来なかった。
だからこの時は、それを気にすることも出来ずに、話はここで終わってしまう。そしてその雑念は、BBQの煙で燻され、焼いた肉と野菜の旨みによって噛み砕かれた。
そして、夕食も終えて、みんなが寝静まった夜の事。
その時、私は鬼無水と一緒に寝ていた。だけど、ふっと意識が醒めて、そうすると脇の川の音とかが気になって急に眠れなくなってしまった。
だから一枚羽織るものを持ってテントの外に出た。勿論街灯も何もない河原は明かりに類するものがなくて、だから懐中電灯を手にあてもなく歩く。
川に面した大きな岩に辿り着いた。ここは昼間、上って川に飛び込む遊びを、私の母さん監督の下で、私と暁と大誠とで遊んでいた岩だ。
そしてそこに暁がいた。一人座ってぼんやりと星空を見上げている。
じゃり、と足元の小石が耳には優しくない音を立てた。水流以外の静寂の中に混じったその音に、暁が振り返って私を視認するのがわかる。
「京楓、起きていたんだ」
「うん、ちょっと目が醒めちゃってね」
そう口にする暁は、確かに目がトロンと落ちているわけでもなくて、本当に眠気がないのだろうということがわかった。
正直、気まずさがまだないわけではない。BBQではまずは鬼無水の心配がみんな優先されていたし、それにかこつけて私と暁とで喋ることが殆どなかった。そしてその後も基本は業務連絡ぐらいしかしてなかったから、こうも二人きりになるのは、言い合いをした時以来だ。
それでも、とりあえず普通に会話が出来ていることにほっとする。少なくとも暁からの敵意みたいなものは既になくて、だから私も自然体で話すことが出来る。
「隣、行っても大丈夫?」
「別に問題ないぞ」
手をかけて登って、そういや暁は一人で登ったんだろうかということを考えていた。そうだとするならば、割と暁の腕は治ってきているのかもしれない。
そして上って暁の隣に腰かけるが早いか、ひゅぅ、と一陣の風が吹きつけた。その存外ともいえる冷たさに、思わず身震いがする。
「うわっ……ちょっと寒いね」
「山の中だからな。決して気温も高くはないさ」
一枚羽織るものを持っていたとしても、川面を飛ぶ風に吹かれると存外に体温が奪われる。ここは標高が……たしか1000mぐらいだったか。
不意に、自分の身の回りの空気が暖かくなる心地を覚えた。少し遅れて、全身を覆うように何かに包み込まれるような心地があって、暁がかけていた毛布をかけてくれたのだと、その重みで知る。付けている意味をなくした懐中電灯も毛布に覆われて、伸びてきた暁の手によってパチリと消された。
「ほいっと。よかったわ毛布そのまま持ってきておいて。これなら寒くないだろ?」
「あ、ありがと……」
突然の行動に驚いてしまって、パッと毛布を投げた腕が痛くないか気にする余裕もなかった。この岩を一人で登れるなら大丈夫だろうけど、それでもやっぱりまだ心配してしまう。
でも、それ以上に、今一枚の毛布を暁と二人で分けあっていることの方がドキドキした。だって、これって、まるで。
「それで、この星はどうだ? 京楓は見たことあったか?」
「えっ……」
さっきまで、懐中電灯の明かりに隠されていた星空が急に私たちの前に顕現する。そこからの意識は、目の前の星空を前に全て向けられて、浮かんでいた雑念が綺麗さっぱり消えてしまった。
「きれい……」
それは、少なくとも私は初めて見るものだった。キャンプとかは初めてではなかったけれど、夜はテントの中にいるのが常で、そもそもキャンプ以外を含めても、こうも星空を眺めること自体が初めてだったかもしれない。
暗くなってすぐには南西にあった月は既に西の空に姿を消していて、だから星空の煌めきを邪魔する明かりはどこにもない。だから、ミルキーウェイとも呼ばれる光の多重奏はこれ以上なく眩く私の瞳に映る。
暫く、ずっとそのままでいた。気持ちいいと呼べる程度の暖かさがあって、そして視線は頭上の星空に釘付けだ。
川が、空にも走っていた。渓谷にある河原は、両岸の森によって空を細長い額縁にして、その額縁を突き抜けるようにして天の川が流れている。
こうも綺麗に見えるのは、あぁやって自然の額縁に切り取られているからなのだろう。お陰であの天の川だけをつぶさに見ていられる。
そして、それをずっと見上げていて、少し首が痛くなってきたかなと思った頃合いで、徐に暁の口が開く。
「さっきは悪かったよ。どうしてだか止まらなかった」
「その前に私も言い過ぎだったところはあるし、それはお互い様だよ」
「でも、流石にあれは言い過ぎだ。少なくとも、心配してくれる人に対して口にする言葉じゃない」
それは、私もだった。そう口にしようとしたところで、暁の言が続いた。
「どこか、羨ましく思ってたのかもな。本当なら、俺がそう思う事すら烏滸がましいのかもしれないのに」
「それは……」
「あぁいや、ごめん、なんだろうな、少なくとも京楓に見つけてもらって、こうやって今過ごせていて、それなのに更に羨ましいと思うなんてさ。それでも、なんだろうな……」
真っ暗な視界に全てが塗り潰されていて、暁の顔を拝むことは叶わない。だけど、今の暁の表情は、何をどう伝えようと悩んでいるそれなのだろうという想像は付いた。
「正直、今が楽しくて、本当にこれでいいのかって思うこともあるんだ。ただ、毎日を楽しむだけでいいのかなって」
「暁には、そんなことは気にしてほしくないって、ずっと言ってるんだけどな」
「うん。そしてそれを素直に受け取れてない俺が無駄に素直になれないだけの話だよ。だから、京楓がそう思ってくれるのは嬉しいし、俺がもっと素直に受け取らなくちゃいけないだけ。そんな悩みですら贅沢ですらないと教えてくれた京楓やみんなには本当に感謝しているんだ。本当は今京楓一人だけに伝える事ではないんだろうけど」
「それは、また伝えればいいだけだよ。別にそういう感謝は何回伝えても減るものじゃないんだし」
「うん、そうだな。そうする。また明日にでも改めて」
そう答えはしたけど、でもこれ以上伝えることもないんじゃないか。鬼無水も大誠も、これ以上なく暁からは感謝をされてるとは聞いてるし、私もそれを直に耳にしているというのに。ましてや今から将来のことを悩むだなんて。
「楽しいと思うことを積み重ねていって、いつしか楽しいと思えることに囲まれていられるようになれれば、それはとても幸せなことだって思うんだ」
「それはその通りだと思う。でも、それをわざわざ言う事?」
「あぁ、俺もそうだけど、みさきの、みんなのことを考えてかな。まずはみんなで楽しく日々を過ごせれば、それでいいから」
――そうだよね。暁は何か将来の事を考えて言っているわけではない。今の暁にそれを考える余裕もきっとなくて、だから単に他愛もない無邪気な願望なのだろう。そして私もそうだ。
「今更だけど、みさきは大丈夫そう?」
「あぁ、うん、今出てくる時もぐっすり寝てたし、朝までゆっくり休めるんじゃないかな」
「そっか、よかった」
だから、鬼無水のことは今は気にしなくていいだろう。急に目覚めて私がいないと騒ぐようなこともないし、それがあるなら恥ずかしながら寧ろ私の方だし。
「今日の事が、みさきにとってトラウマにならなければいいよなって思ってたから。そうならなければ何よりだ。得てして辛い記憶って残るものだから」
それは、妙に実感の籠った言葉だった。きっと、多分、それはそういうことなのだろうけれど。具体的にどうだったかを、詳しく尋ねる勇気は、まだない。
「みさきは身体が弱くて来ても楽しめないことがあるかもしれない。だったら、俺たちがするべきことはみさきが楽しめるように万全のバックアップを整えておくべきことだと思うんだ。そしてそれらは俺たちが楽しむために必要なことでもある。今回は上手く行かなかったかもしれないけれど……でも、結果的には俺のやったことがそれに繋がったとは思いたいんだ。だって、それがなければ、続行どころか、仲間を失ってたかもわからないんだから」
「確かにそうだけど、でも……」
暁からは、出会う前は辛いことしかなかったとしか聞いてない。それでも、今一番辛い思いをしているのは鬼無水だと考えて、そしてそうやって行動している。
「少なくともさ、俺はこのキャンプがとにかく楽しい。だから可能ならこれ一回限りにはしたくない。何があっても続けたいと思うし、例えばみさきの体調が悪いことに常に振り回されるようなことにもなりたくない。だから俺はみさきの身体が万全になるようにいくらでも協力するし、その手間は幾らでも惜しまないさ」
「私だって、そういうことには勿論協力するし、寧ろ率先してやるよ! でも、それで暁の具合が悪くなることだけはやめてよ。それじゃぁ本末転倒だもん……」
「悪い。まぁ、京楓が俺のことをそこまで考えてくれてるのはわかった。だったら、俺もそれくらいしてやれるようにならないとな。確かにさっきはみさきが最優先だったけど、いつもだったら京楓が最優先になるとは思う」
「それって……」
暁が、私の事を一番に見ていると宣言しているようなものではないか。そしてそれは聞く人によっては――。
「じゃぁ、そんな無粋な話はそろそろ終わりにして、星でも見ようか。帰ったらこんなの中々見れないんだし」
「あっ、うん、そうだね……」
暁が横になるのを、私から逃げていく毛布で知った。だから私はそれを追いかけて同じように横になる。
それをしたくなるくらい、満天の星空だった。山の天気は変わりやすいとはよく言うけれど、でも今日は雲の一つも出てくる気配もなくて、だからミルキーウェイの大河をじっくりと眺めていられる。
額縁の中でさえこれだけ星々がいっぱいあると、どれがどの星座だかわからない。暁はわかるのだろうか。それとも私と同じようにどれがどれかわからないのだろうか。もしわからないのなら――ちょっと嬉しい。
でも、なんでもいいやとなった。わからなくてもこの綺麗な星空の美しさが変わるわけではない。だったら、この景色を覚えていられる方が大事だ。
「あっ……!」
その時、思わず声が漏れてしまった。私でもわかる夏の夜空に浮かぶ目印。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
どうしてだか、それを暁に伝えるのは憚られてしまった。だって、その程度のことで喜んだようにしているのは、ちょっと恥ずかしかったから。
夏の大三角。星座を探すより何より一番わかりやすいアステリズム。そしてその内の二点はベガとアルタイル――七夕伝説の織姫と彦星だ。
わざわざ、織姫と彦星を見つけたよ、だなんて。そんなの、最初からその気があるようなものではないか。そんなの、この二人きりの場面だからこそ伝える事でもない。
――逆に暁は、それを私以外にも伝えたいのだろうか。相手には迷惑だと一蹴されるかもしれないけど、もしそうなら。
「そういえば、他に誰かこの星空を見せたいと思う人はいないの? 鬼無水とか、大誠とか、父さんや母さんとか」
「他の人に? うーん……」
暁のことだから、みんなでわいわいやる方が好きなんじゃないかと勝手ながら思っていた。まだみんな起きている時なら、みんなで眺める方が好きなのかなと。
「正直、目が覚めて、外に出てこれを見て、最初は独り占めしようと思ったんだ。俺だけが知っている絶景だって。どの道、みんな寝てるなら、わざわざ起こしに行くのもだし、嫌でも独り占めになるしね」
「誰も起こそうとしなかったら、確かにそうなるけど、でもそれをしてでも誰かに見せたい人はいるのかなって」
「でも、独り占めするのも怖かったんだ。独り占めなんじゃなくて、それは自分しか知らないが故に、誰とも共有も何も出来ないものなんじゃないかってね。そしたら、また独りぼっちな心地を覚えて……」
「それは……」
とても怖いことだと、それだけは理解した。一度は独りきりになった暁が、また孤独を覚えるというのは、どんなに過酷なことだろう。
「だけど、俺と同じように京楓も起きて、そしてやってきた。実は、それでどこか心が軽くなったんだ。まぁ、特定の誰、というのはあまり考えてなかったのは本音。そして最初は独り占めしようとして、みんなでわいわい眺めるものではないとも思っていたのも本当。だけど、一緒に眺める人を誰か一人選ぶとしたら多分京楓で、そして京楓の方からやってきた。だから、今はこれ以上を望まないし、この状態がいい。勿論京楓こそ誰か呼びたいっていうなら別だけど」
「ううん! 私は別に誰でも……というか私もこの状態でいい……」
「そっか。とにかく、今はこの星空を京楓と二人占めしたいって、強く思ってる。俺たちだけが楽しめた、最高の絶景を。だから、京楓も覚えててくれよ、この星空を」
「わかった、約束ね」
私が織姫で、暁が彦星であるという宣言のようにも聞こえるということに、この時は気付いていなかった。気付けないぐらいに、二人だけの時間が何物にも代えがたかった。
でもそれすらもどうでもよかったのかもしれなかったのかもしれない。隣で横になる暁の温もりが愛おしくて、そしてこのままでいてほしくて、この時間が終わりを迎えて欲しくなくて――。
ただ、こんな穏やかな時間がずっと続けばいいと、そう思った。
そして、翌朝。
「暁! ちゃんと寝られた!?」
「あ、あぁ、あの後は本当にぐっすりだったぞ?」
「腕は……もう腫れてないね、だけど疲れは抜けてないだろうから、まずは帰るまでは私が看るから!」
「お、おぅ、そこまでしなくても大丈夫だと思うけど、じゃぁ宜しく頼む」
結局、私が気にしたのは腕だけじゃなくて全身だった。やっぱり、昨日の疲れも残ってるだろうし、その上夜更かしまでしてしまっていれば、取れる疲れも取れていないはずだ。
正直、ある意味では昨日暁が言ったことを全部無視しているのと変わりない。
暁が鬼無水の体調を気遣うのは、親友としてだとするのならば。私が暁の体調を気遣うのは、親友として、家族として当然のことではないだろうか。
そして、暁が私に対して考えていることを、私が暁に対してやってはいけないという話はない。だったら過保護と言われようと、私は暁の心配をするまでだ。
「だって、昨日あああったんだから、私が暁の心配をするのはそんなおかしいことじゃないでしょ!? 暁が無理をしてたらまた無茶しないか見るのは姉の役目だ!」
「だから俺が兄だっての!」
ええいこの間だけでも姉でいさせなさい。もしくは出来の悪い兄でいてほしい。とにかく今この間だけは暁は私に面倒をかける側であるように。
だって、ずっとやれてこれなかったことだったから。最初だけで、その後はずっと逆の構図だったから。今度こそ私が暁の面倒を看るんだ。
だけど、その目論見は思わぬ方向から打ち破られる。
「じゃぁ私は京ちゃんの心配する! だったら二人共『双子』でいられるよね?」
「それは……」
確かに、二人に暁を紹介した時そういう話にはなったけど。だけど、どの道どっちが上かという話にはなるわけで。
というか、そもそもの話として。
「き、鬼無水はそこまでしなくていいぞ!? というか鬼無水こそそれこそ一番無茶が出来ないでしょ!」
「えー、丁度いい落としどころだと思ったんだけどなぁ」
「みさきはまず自分の心配をしろって!」
「昨日京ちゃんに言われてた暁くんが言う事かな? 私も人のこと言えないけどさ」
「でも、まだ鬼無水は万全でもないでしょ!? そっちが優先だよやっぱり!」
「ごめんね、もうお陰様で私はピンピンしてるんだ。それで、どうして京ちゃんも暁くんも目の下にクマが出来てるの?」
鬼無水が、手にしていた手鏡をこちらに向けながらそう口にする。その顔は笑っていて、だけど目はどこか笑ってはいなかった。
「あっ!? ほんとだ……」
確かに、私の目の下は少しばかり凹んでいた。暁も、よくよく見れば私と同じような感じになっている。
「それで一体、京ちゃんと暁くんは目の下にクマが出来るぐらいに何をしていたのかなー?」
「な、何もしてないよ!? ねぇ、暁!」
「あ、お、おぅ、そうだな! 夜目が覚めちゃって中々そこから寝付けなかっただけだから! 俺は知らないけど京楓もそうなんじゃないか!?」
「そう! 私もそうなの!」
「なーんか怪しいんだけどなぁ……まぁいいか」
それは追及を断念したのか、それとも諦められたのか。何れにしてもこの後クマのことについて鬼無水から問いかけられることはなかった。
でも、二人だけの約束としたあの星空のことを、鬼無水に言わないままで済んだのは助かった。別に口にしたからと言ってどうにかなるわけではないのはわかってはいたけれど、でも折角なら約束は約束として守りたかったから。
そして、そんな私たちを見たのか、黙って見守っていた大誠がおかしそうに笑う。
「ふふっ、やっぱり京楓も暁も、結局はこう元の鞘に収まったよね」
「そうだねー、私たちは遠巻きに見守ろうっか」
まぁ、傍から見れば雨降って地固まるという奴のように見えるのだろう。だけど、いつ雨が降ったのかがわからなければ、何があったのかとなるのも自然なことだ。
結局、外野からすると、この一言に集約されてしまうわけで。
「変な暁くんと京ちゃーん」
「あはは……」
ともあれ、暁に鬼無水と大誠を紹介出来てから暫くは、もしかすると、一番幸せな時期だったのかもしれない。
暁は想像以上に鬼無水と大誠に馴染んでくれた。二人の性格的に拒絶することはないとは思っていたけれど、二人共とても気前よく暁を迎え入れてくれたように思う。
鬼無水はともかくとして、特に大誠は、グループで初めて同性の友人が加わったからか、恐らく自身が考えている以上に舞い上がっていた感じがある。それをツンデレって茶化したら、割と追いかけ回されたっけ。
初めて鬼無水と大誠に暁を紹介してから暫くは、どっちが兄だ姉だって論争はしてたけれど、でもそれは別に然程重要なことではなくて。そりゃぁ、やっぱりどこかで私が暁を導かなきゃと思って姉に拘ったところはあったけれど。暁が気負うことなく過ごしてくれるなら、それより大事なことはなかったから。まぁ、それでも暁が兄然としてるのは納得が行かなかったけど。
でも、暁が兄にあそこまで拘ったのは意外だった。それは、亡くしたという家族に、妹さんがいたということにも関わるのだろうけれど、そのことまでを強く言える程の度胸も、また持ち合わせてはいなかった。
忘れろとは言えない。だけど、枷だとも思ってほしくない。それとも、兄であろうとしたことが、暁が忘れないための拠り所だったのだろうか。もう、今となってはそんなこと絶対に聞けないけれど、でもこの時は、それを願っていたのも事実だ。
だからだろうか。暁が兄であるということに拘ろうとしなくなって、自然とどっちが兄だ姉だ論争は消滅していった。どっちが上かじゃなくて、それこそ双子として日々を過ごすようになって、それっぽい関係が一番居心地がいいとお互いに気付いて。お互いに、重要なのはそこじゃないと理解もするようになったからこそ。
そして、私は私で、暁に教えられることはずっと継続して教えてきたつもりだ。運動を中心に、暁のためになるようなことなら、なんでも。
さりとて、私も全てが全て暁に対して教えられるわけでもない。その筆頭が勉強だった。悲しいかな、私の理解力は同級生と比べても特別いいわけではなくて、そんな私が暁に物を教えるのは土台無理な話だったのだ。
だけど鬼無水も大誠も、勉強が出来るから助かった。というより、同級生の中で二人で一位二位を争う秀才だ。だから、暁はただでさえ遅れていた勉強を取り戻すことが出来て、秋ぐらいまでには完全に追いつくことが出来た。気付けば、私の方が暁より遅れ始めていたくらいだ。
そういや、鬼無水が文字通り鬼に見えるようになったのも、それこそこの頃ぐらいからだった。暁の勉強が上向きになってきて、それに対して私の学力が伸びてないからと言って、その後のケーキをアメにやらされるようになったんだったか。
逆に、鬼無水に対しては、効率的な運動方法を一緒に考えるのは楽しかった。本当はテニスを鬼無水にもやらせてみたかったけど、テニスは激しい運動の一種と言われてすごすごと引き下がったんだっけ。代わりに暁が自分からやってくれるようになったのは嬉しかった。
いつしか、暁の時間は、私と二人の、私たち四人の時間となって。そうやって暁の時間が彩られていくことが、何よりも嬉しかった。その彩は、私が、私たちが色づけたものだったから。それは、どんなことにも代えがたい達成感だった。
そして、十月になれば。
「これ、私のために!? えっ!? すごく嬉しい!」
暁が、私のために誕生会をわざわざ企画してくれた。それも、私のために、私だからこそやりたかったんだと暁が添えてくれてまで。
あの時、あぁ、暁も本当に私を、私たちを大切にしてくれているのだと肌身で感じた。暁が、私を介さずとも、鬼無水と大誠とに相談をして、私のためになることをやってくれるだなんて。
だから私も暁の誕生会を企画したいと思ってはいたのだけど、それは暁に固辞されてしまった。
「だって、京楓にはあぁも助けられたんだから、これくらいはね」
それでも、そのことだけは口にはしてほしくなかったのは本音だった。私は暁にはそんなことも考えてほしくない。でもそれ以上に、暁が私をそれくらい大事に想ってくれていることが、何よりも嬉しかった。
それ以外にも、以前教えたテニスを時折暁と身体を動かす目的で継続してやっていたら、そしたら暁も結構体感他の男子に引けを取らないぐらいにはうまくなっていた。専用のシューズとかまで揃えれば中々いい線行けるんじゃないかとは思うぐらいにだ。
だから、中学になったら、意地でも暁とテニスを一緒にやりたいと願うようになった。そうすれば、いつも暁と一緒に好きなことをしていられる。暁も純粋に運動として以上にテニスそのものを好きになってくれれば、もっと毎日が楽しくなるだろう。そして合間には鬼無水と大誠と一緒に遊んで、時折四人で遠出もして過ごすんだ。
気付けば、暁の体力も、最初に気にしてたような鬼無水より悪いなんてことは一切なくなって、テニスのお陰か大誠よりもいいというようなぐらいにまでなっていた。
辛い記憶なんて忘れて、今を楽しんでくれればという目論見は、この時点で粗方成功していたと思う。そしてそれらは、私が幸せであるという環境に身を置いていて、誰かに何も奪われたことがないからという、至極単純なものだった。
――だから、私にとって初めての、暁にとって二度目の不幸が訪れるなんて、考えもしなかったんだ。
「なんで母さんはわかってくれないの!」
それは、単に私の我儘だった。年頃の、と言っていいのかはわからないけれど、だけど要望の内容は少しばかり背伸びをしたような、そんな内容の我儘。
それを母さんは一蹴した。示しがつかないから、というわけではないようだったけれど、だけど私の主張が認められなかったことだけは確かだった。
でも、何より、私がイラっとしてしまったのは。
「暁はそんなこと言ったことないわよ、って……!」
どうにも、暁と比べられることが嫌だった。それは私の出来不出来という話じゃなくて、未だに自分のやりたいことを私よりかは表に出さない暁が、こういう時に出汁に使われることに我慢がならなかった。
そして私が取った行動は、いつか暁を連れてきた時のように家出紛いをする――気でもいたのだけれど、こういう時に限って生憎外は雨だ。だから自分の部屋に籠って、ただ枕を抱いてゴロゴロするだけ。
「――私がしたい欲しいって言わなきゃ、暁が息苦しいだけじゃん」
正直、欲ばっかり言っているつもりはない。もしかしたら母さんはそんなことないと思っているかもしれないけれど、今の暁の欲のなさを基準にさせられると、それでは殆ど何も欲しいものが買ってもらえなくなってしまう。
だから、暁をこっちに引き込んでしまえばいいのか。だって、ずっと暁にはもっと欲しいものを口にしていいと言っているのだ。だったら、これを機に暁にも我を出してもらえればいい。
そんなことを考えていたら、だいぶ時間が経っていた。気付けば階下から音がしない。
どうしたんだろうと思ってリビングまで下りてくる。果たして、母さんの姿はそこにはなく、代わりに書置きが一枚残されていた。
『お買い物に行ってきます。帰ったら、お話の続きをしましょう。母より』
それ自体は特段おかしいことではない。小学生の間は携帯は持たないという約束があったから、外とかに出ている時の個別の連絡手段がなくて、だからこそ急な外出とかの時に書置きがあるのは普通の光景だった。
ぶーという音がする。見れば、母さんの携帯が何か着信を知らせるライトを灯していた。どうやら忘れて行ってしまったらしい。その音に、どうしてか、独り家に取り残されたかのような感触を覚えた。
昼過ぎからずっと雨が降っている。それはいらないことを口にして落ち込む私の心のようだ。
「少しぐらい……たまには我儘言ったっていいじゃん……」
確かにさっきまでの話は、私が少し背伸びをしている自覚はあった。だけど、一部のクラスメートは既に持っててもおかしくはないようなものだし、別に私が欲しがったって不思議ではないとは思う。
「暁にも……暁にこそ、もっと我儘言ってほしいのに……」
我慢をひたすらに強いられてきた暁には、もっと素直になってほしいとずっと思っていた。今もまだどこか遠慮が見えるような気がして、どうしてもこの家の中では暁に我が物顔で振る舞っていてほしいからこそ、つい欲を出してと促してしまう。
私もそれに乗じているところはあるけれど。でもそれは、私が素直にやりたいことをやらせてもらえるような姿を見せてあげないといけないと思うところもあって。
「それで……そのまま難しいことは考えないでいてくれたらいいのにな……」
もう、出会った時の、あんな表情が抜け落ちたかのような顔はしないでほしくて。出来る事ならば悲しい顔もしないでいて欲しいって。
「ただ……楽しいことだけを……」
意識が落ちる前、ただそれだけを思った。
「ただいまーっと。ふーっ、雨が止む気配はないなぁ」
その声で、ふっと意識が戻る。どうにも少しうつらうつらとしていたらしい。
「あれ、京楓一人?」
「うん。母さん買い物だって」
ぼんやりとした頭で、それだけを返す。まだどこか夢現とした頭の中で思考はまとまらず、暁に対しても何を言えばすぐには掴めない。あぁいや、それより先に母さんに言うべきことだ。
母さんが帰って来たら、さっきのことを謝らなければいけない。落ち着いて考えれば、確かに私も我儘なところはあった。
そうだ、いつものことじゃないか。母さんであれ暁であれ、喧嘩なりなんなりした時は、少し時間を置いて、そして何が悪かったかを考えて謝るっていう、いつもの。
「タイミング的にもうすぐ帰ってくると思うんだけ――」
言いながら時計を見上げる。二本の針が指し示す、その時刻。
「ど……っ!?」
まず先に暁に意識が向いていたから、そのことに気付いていなかった。だって、さっき見た時から。
「二時間も寝てたの、私……!?」
「それだけ疲れてたんじゃないの。なんだかんだ京楓、活発な分疲労も溜まっててもおかしくないし」
「あれ、じゃぁ、今……うわっ、外真っ暗……!」
意識があった時には、厚く垂れこめた雲の先にあっただろう太陽はいつしか本格的なかくれんぼを始め、同時に窓の外に見える木々は闇に姿を溶かしている。とうの前についている街灯はじっと下を向いて、何もないアスファルトの地面の一部へスポットライトを当てていた。
でも、ということは、どうにもおかしい。だって、だとするならば、さっきまでこの家には――。
「あれ、じゃぁ母さんは?」
そう、それなのだ。ただの買い物にしては幾分時間がかかりすぎている。
「母さん、家出てからどれだけ経った?」
その一言に、急速に頭が冷える心地がする。だって、うとうとし始めた時点で、もうすぐ帰ってくるんじゃないかと思ったぐらいだったから。
「えっと……暁が帰る三時間前ぐらいに出たから……」
「そんなに前? 本当に買い物って言ってたの?」
「それは間違いないよ! だってほら、この書置き!」
ばっと、手元に残されていた書置きを暁に突き付ける。その筆跡は、暁も母さんのものだと認めるものだった。だから、本当に書いてある内容以外の事はないはずだ。
なのに一向に帰ってこない。連絡すらもくれない。いつ帰ってくるかということは言われてはいなかったけれど、だとしても現時点で想定しうる時間からは逸脱している。
急に、ずっしりとした不安が押し寄せてきた。そしてそれは、何かを感じ取ったのか、それとも私から伝播してしまったのか、暁にも目に見える形で伝わってしまう。
だって、母さんが出て行った時には晴れていればまだ日は高いぐらいの時間だったのに、今は。
「もう夜だよ……?」
「京楓はいいから何か食べとけ……なんでもいいから」
もう、いつもなら夕飯を食べているような時間だ。そんな私のお腹を案じて、暁が台所にあったバナナを一本持ってきてくれた。
そしてそれを食べたからといって、何か状況が変わるわけではない。一時的にお腹は膨れても、何も動きがないことに焦りが見え始める。
「探しに行った方がいいのか……? あぁくそ、わかんねぇ……!」
暁がやがて頭を掻きむしり始める。それは私ですら初めて見る暁の焦りだった。喜怒哀楽はどれも見てきたつもりだったけれど、暁がこうも別の意味で極限状態に置かれているのを見るのは、確かに初めてだ。
一方で私は、ずっと何も考えられていなかった。落ち着きがない暁を横目に、ずっと呆然と座っているだけだった。
「待つべきなのか……? それとも何かしに行くべきなのか……?」
「暁……そんな……落ち着こうよ……わかるけど……」
「だけど! だけど……こんな、何も出来ないなんて……」
本当にただ買い物に行っただけだったのか。でも、いつも時間がかかる外出は都度内容を伝えてくれていたからそれはない。人に会いに行くだとか、小学校関連の集まりがあるだとか、ちゃんといつも内訳を話してくれていた。
何時間経っても、外の雨は降り止まない。強まることも弱まることもなく、ただしとしとと降り続けている。ただただ、何事も変わらず無感情に、世界を濡らし続けている、空が零した落とし物。
「もう父さんも帰る頃だよ……?」
「連絡……そう連絡だけでも……あぁくそ、母さん、なんでこういう時に限って携帯がうちにおきっぱなんだ……!」
「連絡……誰に……?」
「そりゃ勿論……勿論……」
そのまま暁が押し黙ってしまう。何を言いたいかは理解した。だけど、それを口に出すだけで、世界そのものが大きく反転してしまいそうだということは、私にもわかった。
「――京楓は、もう寝てて」
「暁は」
「俺はいいから。俺が、父さんにも伝えるから」
「でも、じゃぁ暁は……」
「俺は……」
そこで暁が、声を詰まらせるかのようにして、だけど途中で口にするのをやめてから、私に向き直る。
「起きた時には……きっと……」
元通り、と言いたいのはわかった。だけど、それは声にはならず、ただ暁の唇が動いただけ。
だけど、今だけは暁の気持ちを汲んでやるべきなのかもしれない。押し付けてしまう罪悪感はあるけれど、それが却って暁の負担を減らす方向に作用してくれるのならば。
「――わかった。暁も無理しないでね……?」
無言で暁が頷いて、それを見届けて私は階上へと向かう。家の中は私一人の足音しかなくて、だから私が足を止めてしまえば家の中は無音になってしまって、それが今だけは異様に怖かった。
寝ずの番を暁が自分から言いだしたのは、無理して暁が背負おうとしているだけなのだろうか。この時に至るまで、私は暁にとって誰かがいなくなるという経験が初めてではないという事実に思い至れなかった。
そして、無理してでも暁と歩調を合わせるべきだったのかもしれなかったとなったのは、ベッドに入ってからも、一睡も出来ないことに気付いてからだった。
でも結局、夜遅くなっても、母さんは帰ってこなくて。結局、その日は帰ってきた父さんが、事態の大きさを察して警察に連絡して。その間、暁もただ何もせず座っていただけだったんだと、翌朝沈んだ声で聞かされた。
翌日も暁と二人、学校を休んで、それで警察の捜索を待つことしか出来なくて。そしてその間も、私はただ何も考えられず座っているだけだったんだ。
その時のことは、殆ど覚えていない。ただじっと、ぼんやりとしながら、いつ終わるかもわからない幻肢痛が過ぎ去るのを待っていた。
突然かかってくる電話の音にビクリとする。慌てて暁がそれを取って、そしてすぐに戻す。顔も知らない電話営業の相手が、とにかく恨めしかった。
視界は何も映さない。耳に入る全ての音が雑音だ。そして私はただ、伝えたい一言だけを反芻し続けて、そしてそれがするりと逃げていく心地を覚え続けている。
私の少しの願いが、永遠に叶えられることのないものとなってしまおうとしていると、どこかで理解をしてしまっていて。雨の音と共に、どこかでメキメキと、何かが剥がれ落ちるような音がしていた。
「私……まだ、母さんに謝れてないよ……」
あぁ、これが自分の世界が崩れる音なんだ。何か自分を構成していた大きな枠組みが壊れてしまった音なのだと、どこかで理解をしてしまった。
暁はずっと前に同じような感じでこれを経験していたのかな。それとも、これよりも深かったのかな。今の私にはそんなことまで考えられないや……。
そして、翌日未明。
「どうし、て……」
――増水した川底から、母さんの遺体が見つかったんだ。