世界の色が褪せている。何を話しかけられているのかも、よくわかっていない。きっと私を気遣ってくれているのだろうけれど、その言葉は届かない。私には届いてはいない。
「――うか。京楓……。ほら、俺が付いてるから……」
いつかの暁もそうだったのだろうか。私は独りきりではない。だけど、ずっと独りであったかのように孤独にも思えて、そして気付けば何事も遠ざけてしまう。
「無理はしないで。俺だってそうだけど、京楓が立てそうになかったら、一緒に立ち上がってあげるから……」
鬼無水の声は届かない。大誠の声でさえも。だけど、暁の声は届く。同じ絶望を知っている暁だからこそ。それだけは、私に素直に届いてくれる。
「辛いなら、今はまだそのままでもいい。俺だって二年ずっとそうだった。そのままでも、俺は寄り添うから……」
それは、前向きな言葉で、そして可能な限り小さいことだった。最初から大きいことをするのではなく、少しずつ、なんとかして、ゆっくりと立ち戻っていけばいいと。
「心の痛みなんて……どうしようもないんだ……。だから、せめて目を逸らしてもいい……根本的には解決することはないから……」
だから、どうにかして私はその声に応えることが出来た。それがなければ、仮初ですらずっと立ち直ることは出来なかっただろう。
「……俺のことは気にしなくていいから。それより、京楓こそ……大丈夫じゃないよ……」
それよりも、暁にとっては、これは二度目なんだ。だから、本当なら私が暁を気遣ってやらないといけない。私が暁の姉を自認するのなら。
「俺が手を引っ張ってやる。無理はさせないし、辛いとか駄目なら言ってくれ。でも、そうでもしないと、京楓はこのまま……」
なのに、結局、私は寧ろ暁に気遣われるばかりで、私から暁に慮れることは何もなくて。
「俺は気にしなくていいから。京楓が一番辛いということは、十二分にわかっているから……」
――私は、閉じた朝を迎え続ける。
暁も話そうとしないのは、忘れてるんじゃなくて、私に歩調を合わせてくれているからだとは思っている。それとも、意図的に忘却しようとしてそれが成功しているのか、とにかく暁と私の間でこの時のことが話題に上がることはなかった。
母さんの死は、自殺で処理された。当時は原因が何もわからなくて、だからこそ私たちは何も出来なくて。ただ押し寄せるは無力感のみだった。
でも、今だからわかる。母さんは、殺されたんだ。それは、双六から還ってきてからの気付きだった。だけど、殺されたとして、どうやってだったのだろう。
死因は水死。警察の人曰く、母さんは確かに特段誰かに何かをされた上で川に投げ落とされたというような状況ではないとのことだった。司法解剖しても、不審な点は特に見当たらなく、また抵抗したような跡も残ってない。指紋か何かがついていることもなく、仮に殺人だったとしても、立証は厳しいという判断を下された。頼みの防犯カメラにも、不審な何かが映っていることもなければ、それ以上、私たちが証拠が残っていそうなものを出すことも出来ない。
故に、自殺。又は、何らかの形で川に転落した事故。現場検証をした警察の判定は、それだった。
だけど、母さんが何かに悩んでいたということはない。ともすれば私も知らないところで何か抱えていたものがあったかもわからないけれど、余程私が困らせているということがなければまずは私を叱っていただろうし、そもそも父さんに何か相談をしていただろう。
逆に事故ならば仕方ないともなりはするけれども。でも現場的に事故というような状況ではない状態だったし、かといって誰かに目撃されたような形跡もない。
だから、どうして早々と事故で処理されたのか、本当にわからなかった。だけど手がかりがないというのもまた確かな事実で、そして犯罪に巻き込まれた形跡がなければそうなってしまうのも、また無理はなかったのだと、数年経ってやっと飲み込んだ。
どちらにしても、母さんが還ってくることはない。誰かがうちを訪問しない限り、リビングにある四脚の椅子が同時に埋まることも、もうない。
そして、つい数日前まで温かかった母さんは。いつしか冷たくなって、気付けば熱い炎でとても小さくなって、そしていつしか冷えた骨壺に入っていた。リビングのテレビの下には変わらないほほえみをたたえた母さんの写真が飾られて、そしてそれは変わることのなく、それが故に母さんがいないという事実が重くのしかかる。
そんな私たちを嘲笑うかのように日々は過ぎていく。残酷なまでに身の回りの世界は変わらないで、なのに心は置き去りにされたままで、そして急速に引き離していく。
鬼無水や大誠ですら、最初は腫れ物に触るような扱いだった。でも、私が最初はその二人の言葉ですら耳に入らなかったから当然だ。
だけど、段々といつも通りに近い接し方に変わってきてくれた。明言はされなかったけど、暁が口添えをしてくれたらしい。
それでも、それだけだ。暁と、鬼無水と、大誠だけ。あれだけしつこいと思っていた学校でのいじりも、学校内外関わらず、誰かから積極的に話題として触れられることがなくなった。おとこんなというような茶化しが入ることこそ消えたけれど、かわいそうな子という視線で、ただ遠巻きにみんなから見られる日々。
そしてそれは、暁にも同様に向けられていた。やっと安住先を見つけられたのに、かわいそうにという心にもない同情。
気持ちはわかる。そんな状況なんて想像も出来ないだろうし、想像もしたくないだろう。真の意味で心が籠っていたら、それはきっと経験者のそれで、そしてそれは既に痛みを覚えた人のそれだ。感じない方がいい痛みを知っている人のそれは、それはそれで私にも辛い。
だけど、暁にそんな目線が向けられて欲しくなかった。それはきっと暁が再び経験するもので、それは暁が辛い記憶を思い出してしまいそうになるからだ。なのに暁は、そんな素振りも見せないで、ただ私の傍に黙って立っていてくれていた。
唯一本気で私が怒ったのは、母さんが死んだのは暁がうちに来たからじゃないか、という誹り。それは、偶然耳にしたのを、居合わせた私と鬼無水が涙ながらに反論も許さないぐらいにまくし立てて、その後そんな話を聞くことはなかったから、なんとか暁の耳に入ることはなく済んだんじゃないかと思う。
そんな暁は、欲しいものを積極的に口に出してほしいという私が望んだ姿からは余計離れてしまった。淡々とやるべきことをやるだけの、ともすれば暁をうちに連れてきた直後よりもひどく機械的な生活。でもそれでいて、何かへと没頭を急にし始めたかのようにも見えて、暁がわからない。
そして、それはある時一つのお守りに変わっていた。女人守護とある、一つのお守り。
「それは一体……」
「春日神社で売ってる、西院野々宮神社のお守り。今のうちにあるべき守護はこれだと思ったから」
「そんな、わざわざ……それに、今から買ったところで……」
「わかってるよ、気休めだってことは。でも、それくらい今の京楓は見ていられなくてさ……せめて京楓だけでも……」
暁を以てして、私のことが見ていられないというのは、一方ではショックで、他方では納得してしまっていた。そもそも、普通に会話をしたのが、父さんと暁、それに鬼無水と大誠以外本当に誰も浮かばないのだ。
これをきっかけに、この頃から暁はよく神社に行くようになった。別に何をするというわけでもない。ただ同年代の子たちが百円をゲームセンターのコインや駄菓子に溶かす中、暁は五円玉二十枚にして、五円ずつ持って毎日参拝するような、そんな生活。何に祈っていたのか、察しは付いたけど、それを私から尋ねようとはしなかった。
歩調を合わせるようにして暁が占いに興味を持ち始めたのもこの頃だった。急に何かに取り憑かれたかのように占いを始めて、一丁前に手相を見始めた時はそれこそ私ですら心配してしまった。だって、その最初に手相を見てもらった時まで、明らかに目が虚ろだったから。その後は普通の目に戻って、自分の意思でオカルトに手を出していたけど。
一方で、私の生活圏は、案外変わらなかったのかもしれない。四人で遊ぶか、テニスをおば様方とするか。暁と二人きりのテニスは――殆どやらなくなった。家はともかく、外でも暁と二人きりというのは、必然的に暗い空気になりそうで、お互いにそれとなく避けていたというのもある。
そのおば様方とのテニスでは、変わらず温かく迎え入れてくれた。私の身に何があったかを全て知った上で、普段通りに接してくれた。そのことに涙が出る程嬉しくて、だからこの頃は唯一の心の安寧はおば様方とするテニスの時間だけだったかもしれない。暁もいない、暁がいないからこそ浮世を忘れてただ元から好きだったものに没頭できる時間。
そして、そこから帰った先の母さんのいなくなった家は、明らかに何かが欠損した、抜け殻が棲む家となってしまった。その抜け殻は、掴もうとしても、するりと抜け落ちてしまって、決して手に取ることが出来ない。
元から母さん専用の部屋というのはなかった。父さんと一緒だった寝室が、一番母さんの色が濃かった部屋だ。そしてその父さんは、部屋を変えることなく、一人で同じ寝室で毎晩眠っている。
今の父さんはきっと孤独だ。だから、真に気にかけてあげなきゃいけないのは父さんだ。母さんを一番大事に想っていたのは間違いなく父さんで、そして父さんはそんな一番大事な人を失ったのだから。
父さんは、殆ど家に帰ってこなくなってしまった。最愛の妻を亡くし、寝室の隣は常に空洞。そんな状況だったら、家にいたくないと思うのも道理だろう。特別趣味を持つような人でもなかったから、そうなれば、生きがいを仕事としてしまってもおかしくはなかった。
私は弱い。母さんを喪って初めて、私はずっと幸せな環境にいたということに気付かされた。お父さんを気に掛けることも出来ず、鬼無水と大誠が構ってくれなかったら、暁共々どうなっていたかもわからない。
それでも、私と暁がどうなっていたかわからないだけだ。表面的には大丈夫に見えても、家の中はとてもではないが段々と人に見せられるようなものではなくなっていった。
母さんが死んで、真っ先に困ったことは食事だった。生憎、私は母さんから料理の手ほどきを受けていなかった。そして父さんも、料理を作れるような人ではなく、当然暁が覚えられたわけでもなく。
結果的に、食卓に並ぶのは出前か冷凍食品か、そういう出来合いのものが多くなっていった。台所に誰かが立ち入ることは減り、使われない調理器具は埃がたかるようになる。やがてはそれをも隠すかのように奥底へとしまわれていった。台所で使うものはシンクと電子レンジぐらいになろうとしていて、そして使わない場所から埃が溜まっていく。
その埃の厚みは、剥がれ落ちていく母さんとの思い出にも似ていた。積もれば積もる程、記憶の中の母さんの表情や仕草が、一つ一つ気付かない内に消えていく。そして頻度が極端に減った掃除の時に、それはいらないものとして燃えるゴミになった。
そして気付けば、父さんの姿ですら、殆ど家から消えていた。代わりにあったのは、月一回机の上に置かれる莫大な生活費。暁と二人で使うには多すぎるお金。お小遣いとは別の、私と暁と二人で使ってという父さんからのお気持ち。
「これ……どうしようか……」
母さんを喪った隙間を埋めるためのものとして、お金があった。だから、私はそこに様々なものを注ぎ込んだ。
ある時それはゲームになった。暁と話し合って、二人で楽しめるゲームを買って、家にいる時にやることが終わってから二人してプレイするようになった。
ある時それは漫画になった。どこかで目を逸らしたい現実から目を背けたいがために、暁と一緒に物語にのめり込んだ。
ある時それはテニス用品になった。いい靴を買って踏ん張りが利くようにし、いいラケットを買って少しの力でボールを遠くまで飛ばせるようになった。
ある時それはオカルトグッズに――ならなかった。暁がオカルトグッズを買う時はあくまで暁だけのお小遣いからで、この中から手を付けられることはなかった。代わりに暁のお小遣いはオカルトグッズで殆どを占めていたのだけれど。
私たちはまだ子供だ。だから、お金の有難みはわかっているようでそうではない。暁は多少なりともわかっているようには見えていたけれど、それでも恐らく他の大人や父さんと比べてわかっているわけでもないだろう。
結果、私はその有難みを意図的に無視することにした。お金はただ貯めるだけでは意味がない。使ってこそ意義がある。そして親が子に何かを買い与えるのは子の成長過程で必要なことなんだ。
だから、当初私はそれを湯水のように使おうとして。結局暁が一度のお金に制限を設けることを決めたとはいえ、それでも当時の小学生からすれば山のようなお金を使わせてもらったんだ。
どうしてだろう。そうやって、心の隙間を埋めるがために様々なものに没頭して、どうにかして満足しようとしているのに。
なのに、それなのに。
「満たされないよぉ……」
私は、何を求めていたのだろう。段々、それすらもわからなくなって、やがては何に悩んでいたのかも埋没していく。
逆に、母さんがいなくなったことによって、余計に暁との距離が近づいたようには感じた。暁と接していなければ母さんと接していた時間が、全て暁との時間に置き換えられていく。
リビングのテレビの脇には母さんの遺影が飾ってある。それはテレビを見るという動作の中で自然とそれが見えるようにするために置かれたものなのだけれど、目線は自然と遺影がある場所を避けてテレビに行くようになっていた。
母さんは忌避すべき存在ではないのに。でも、その話題に触れることを意図的に避けてしまっている時点で同罪なのだ。
暁は占いにはまるようになって、いつしか知識だけは一丁前になっていた。その手の話は、どうやら鬼無水が聞いているらしい。でも楽しみはすれど、嬉々として聞いているわけではないらしいから、純粋な興味が半分、話を合わせるのが半分というところだろう。占いという事柄、女子としての関心もあるのかもしれない。私には――その手の関心が薄い。
暁との喧嘩も増えた。四六時中顔を突き合わせていれば意見の違いも生まれるし、そればかりは仕方がない。特にお金の使い道は二人で相談しなければいけないから、何が欲しい何が必要だを巡って争いにもなる。
無意識に駄々っ子な娘を演じていたつもりはないのだけれど。それでも私にも譲れないものはある。そしてそれは暁も一緒だ。私がテニスを好きで、そして暁もそれは認めてくれていることだったから、テニスに関して問題はそうは起きなかった。どちらかと言えば、私が暁のオカルトグッズを集め始めたことに関しての喧嘩が一番多かったように思う。
結果的に、そうやって私たちは『妥協』を覚えていった。高望みをしているつもりはないけれど、それでもどうやっても手が届かないものはあるし、私たちで変えられないこともある。お母さんがいないのもそう。好きなことが被らないのもそう。そして父さんと起きて顔を合わせることは殆どなく――。
気付けば、父さんと話す時は、仮面が付くのが常になっていたように思う。少しでも心配をかけないように。だって、少しの綻びで、お父さんの情緒を乱してしまうかもしれないから。
代わりに、暁と二人か、みんなといる時は馬鹿を多くするようになった。私はもう大丈夫なんだ、私は毎日を楽しめていると自分に言い聞かせるようにして。そしてそれは実際とても効果的だった。暁と歩調を合わせるようにして、ずっと黙って待っていてくれた鬼無水と大誠との輪に戻ることが出来たんだ。
お陰で、仮面を付けずとも、暁や鬼無水、大誠らとは自然に笑えるようになったと思う。それは思い込みだったのかもしれない。だけどその思い込みが、いつしか本当となって、やがては自然体で溶け込めるようになった。
そしてこの時程、家では暁と同じ部屋でよかったと思ったこともない。寝て起きるまで、ずっと暁が傍にいて、真の意味で独りきりなのはテニスとかでの往復している時か、何らかの理由で暁と別々に帰った上での、暁が帰るまでの家の中ぐらい。
とにかく、一人きりにならないように。出来れば暁が、それが無理でも誰かと一緒にいられるように。だから、一人きりの帰り道とかでは、小走りで帰宅する癖がついた。運動にもなるし、何より嫌な思考に囚われずに済む。
だけど、同時にそれは、私の中から母さんを緩慢と消していくことと同義だった。そして母さんについて考えることそのものが嫌な思考であるという繋がりがいつの間にかできている自分に、ひどく嫌悪感がする。
それでも、それでいいのだと、ある日暁が言ってくれた。ただ辛い思いばかりしなくていい、今の私の姿勢のままでいられた方が苦しまないで済むからと。
そして私は、その言葉を鵜呑みにした上で、これまで通りの生活を続けることにした。おば様方とテニスをして、あとは私と暁の二人か、四人で過ごす毎日。その時は、それだけで満ち足りたと思うには十分だった。
だから、これ以上、小学生時代で特筆すべきことはないだろう。私と暁と、鬼無水と大誠の四人だけの話だ。おば様方とするテニス以外では、お父さんも含めて、そこに他の誰かはもう登場しない。
いつの間にか、桜が咲いて、梅雨を抜け、暑くなったと思えば紅葉が散っていて、寒いと思う間もなくまた桜が咲いて――。
――気付けば、中学生になっていた。毎日、私服で登校する日々は終わりを告げ、段々と将来どうしたいかということを考え始めるようにもなってくる。
勉強は、それこそ鬼無水と大誠にも見てもらうことはあったから、どうにかなっていたと思う。勉強も最初から躓かないように、鬼無水神ならぬ鬼無水鬼も最初からフルスロットルで私や暁の前に立っていてくれている。
いつも西院公園でテニスをやらせてもらっていたおば様方とは、中学進学を機に、部活にも入るので、割ける時間がなくなってしまうという話をしてお別れを告げた。その分、部活はしっかりやろうって、決意を新たにして、体裁だけでも意気揚々と扉を叩いたんだ。
それでも、どうしても友達作りには臆病になってしまっている。まるで鬼無水と大誠と出会った時のようだ。テニス部では、少なくとも技量は見込まれて早速部のエースみたいな扱いにはなっていたけれど、それもあってどうにも表面的な付き合いしかまだ出来ていない。
クラスも、何の因果か暁とも鬼無水とも大誠とも同じクラスで、だから最初の段階からいつものグループで集まってしまって、わざわざ中学から別の親しい人を作ろうとはなれなかった。そして同じ小学校から進学した別の人が、他の人に家庭環境が漏れ伝わって、そして結局この四人で固まってしまう結果になった。それはそれで孤立することもなかったし、またそれ自体は非常に落ち着ける関係であったからこそありがたくもあったのだけど。
結局、学校でのテニスと、仲間と遊ぶのとに没頭する日々。かといって、小学校の時より難しくなった勉強に身が入るというわけでもなく、授業で学んだ以上の事を進んで覚えようとはどうしてもならなかった。勉強も人付き合いも、暁共々、特に鬼無水には世話になりっぱなしだ。
その暁は、テニスをするのかどうか悩んでいた。最悪、専用のシューズやウェアとかラケットとかもなく、部活にも入らず、たまに私とやれるようにすればいいんだろうけど。でも、私自身の欲を言うならば、出来れば部活も含めて暁とテニスをしていたい。
父さんとは、時折話していた。でも、元から週に二日ぐらいは朝早く家を出て夜遅く帰ることが多かったのが、週に四日か五日というような頻度になるようになっていた。つまり、出勤日はほぼ毎日だ。そして休日も、何かと理由を付けてさっさと外へと出て行ってしまう。
だから、家では殆ど暁と二人っきり。強いて言うなら、放課後は私がテニス、暁がオカルトの何かをしている時間で、それ以外の時間は殆ど顔を突き合わせている。元々ずっとそれに近いような生活ではあったけれど、中学に入ってからは余計にそれが顕著になった。
この頃になれば、一人になった時も常に母さんのことを考えるというような状況からは脱していた。それは忘却だと誰かから指摘されたとしても、そのことにすら無自覚になるくらいには忘れていて、毎日が恙なくて、そして罪の意識が消えていた。
その母さんについて、暁は何を考えているのだろう。私から見る限り、暁も私と同じような経過を辿っているように見える。それは母さんの実の娘から見れば寂しいことだけど、当の私がそうなっているという自覚がある手前、暁がそうなっていたとしても私に何か言う資格はない。
それより、ここのところの暁は、何か拠り所をなくしているようにも見えた。だから、ある時急に、ふらっと暁がどこかに消えてしまいそうに見えて、そっちの方が余程怖かった。
いつしか拾った男の子と同じ部屋で暮らすようになって、いつしか母さんよりも大きな存在になって、やがて母さんの存在の残滓すらをも消していく。同い年だから母さんよりも接する時間が長くて、緩慢と、だけど着実に私の中で暁という存在が私の中の大きなウェイトを占めるようになる。
いつか、ふらっと暁が消えてしまいそうになった時は、私はどうすればいいのだろう。この場所に残るべきなのか、それとも暁にずっと付いて行って、私だけでも一緒にいるよと声をかけてあげるべきなのか。だけど、拒絶されたらどうしよう。いやいいのだ、元々うちは暁が一人立ち出来るようになるための止まり木だ――。
こんなの、私のエゴだってことはわかっている。でも、いつか私が暁に対して宣言したことを、私の方から破ってしまいそうで。だけど、私にそれを破ってほしいと暁の口から出ることをいつからか望んでいて、そして暁とした約束を遂行しないでほしいと心のどこかで願ってしまっていた。
こんなことで、いつか傷は癒えるのだろうか。暁は二年間沈んだままで、そして無理やり引き上げられなければきっとそのままだったのだろう。
私には、無理やり引き上げてくれるような人がいない。いや、そうされるなら、きっとその手を振りほどいただろう。結局暁のように私のペースに合わせて一緒に並んでくれる人がありがたかったのだ。そして私は暁にその役割を押し付けていた。
このままでいいとは思わない。だけど、このままでいることの居心地が良くて、そうすれば嫌な感情からも目を背けることが出来て、結局何も動けないままでいる。
私は何をすべきなのだろうか。暁だって特別何かをしているわけではないけれど、だからこそ、そのままでいいならこれ以上は何も変わらずいられればいいのに。
そんな行き着くべき場所に辿り着かない答えを求めて、就寝前のベッド上段から暁に話しかける。
「ねぇ、暁……」
だけど、暁に、その声は届いていなかった。完全に一方向のみを向いて、一つの事に集中している。
部屋の電気は消えてる中、スタンドの電灯だけを頼りに、必死に何か本を読んでいた。漫画ではない、何か図か写真が載っている本で、図解の脇には何か文章があった。
遠巻きだから、どういう本を読んでいるのかはわからない。占いに関する本だろうか。暁が欲しくて買ったならそれでいいのだけど。学校の勉強でないことだけは確かだった。
「あ、あぁ、ごめん、何か呼んだ?」
「あ、いや、別に何か必要なことがあるわけじゃないんだけど……」
暁は、オカルト系のあれこれをする時に、夜更かしをほぼしない。暁が夜更かしをするのは、寧ろ私に誘われて同じ漫画を読むだとか、私に起因するところが多かった。
だから暁が別の趣味を見つけたのか、だけどそれは夜更かしするレベルで熱中するものなのか、その辺りもよくわからない。出来れば実益を兼ねた趣味ならいいな、とか考えてしまうと、即座に私自身に跳ね返ってきてしまうけれど。
「暁、ここのところ朝寝坊することが多いけれど、それのこと?」
「あぁ、うん、まぁそうだね。でももうそろそろ終わるから」
「それならいいけど……明日は私が早いから、遅れないようにしてね」
「大丈夫だよ。そうならないように、『京楓より先に起きる』から」
「ふ、ふーん……? それならいいけど、でもだったらそれこそもう寝なよ……」
「……それもそうだね」
その言を合図に、ライトが消されて、部屋全体が暗くなる。ごそごそと音がして、暁が下段に潜り込んだということが分かった。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみ……」
そのまま、暗闇に溶けるようにして、自分の意識も落ちていく。ふと、夢でだけでも、また母さんに会えたらいいのにと思った。
それとも、会えない方が幸せなのかな。別れて目覚めた時、泣くのだろうか。それすらもわからないや……。
そして、翌朝。
「――あれ……?」
意識が覚醒すると同時に、聞こえてきたのは包丁の音。それはとてもテンポがよくて、どことなく手際の良さを感じさせる。包丁を、トントントントンと小気味よくリズムを奏でることなんて、ここ暫くこの家ではなかったことだ。
「母さん……?」
帰ってきた? いやそんなわけはない。だって、母さんは、もう。
今が夢の中でないことはわかっている。紛れもない現実だ。だというのに、この家では母さんだけが奏でられた音階が、どうしてか階下から聞こえてきて、そして私はその誘蛾灯に引き寄せられていく。
「おかあ――」
「あ、おはよう、京楓」
「――暁……?」
望んだ人は、そこにはいなかった。当たり前だ、その人は既に亡くなっていて、ここに今立っていたとするならば、きっと足は透けていただろう。
代わりに、同居人が、いつもと違う姿で立っていた。小学校の授業で作ったエプロンを久々に持ち出してきて、そしてそれを着けて慣れない包丁を捌いている。そういえば、さっきベッドの下段に暁がいないということを確認もしていなかったと、この時になって気付いた。
「ちょっと待ってて、もうすぐ出来るから」
「出来るって、何が……?」
「決まってるでしょ、朝ごはん」
その一言で、また今の光景から現実感が消えた。だって、この家はもうずっとこんな家庭料理があるような家じゃなくなっていて、だから今目の前で出来上がりつつある料理が本物なのかすら疑問に思えてしまう。
だけど、これが夢じゃないということを、嗅覚が教えてくれる。焼いたこれは……豚肉だろうか。そしてそれ以上に、炒めた玉ねぎが香ばしい香りを醸し出している。
というか、よく見れば。
「暁、泣いてたの……?」
「あぁこれね。いや玉ねぎ切ってたんだけど、眼鏡とかそういうのはなかったから、どうしてもね。玉ねぎ切ると涙出るっていうのは、小学校の家庭科でやったし覚えてるでしょ?」
「あぁうん、そうだけど……」
そうだ。そんな基本的なことも忘れていた。包丁を握るなんて、正味数年はしていない。それこそ小学校の家庭科まで遡る必要があるかもしれない。
それ程までに、この家の食事は自立できていなかった。
「とりあえずさ、座っててよ。京楓、今日部活の朝練でしょ?」
「あぁ、うん……」
最初からテニス部に入ることを決めていた私は、入部確定者として既に朝練にも顔を出させてもらっていた。その週に数回ある朝練の日は、起きて身支度してそのまま家を出て、道中のコンビニで朝を買うというのが既に定着していて、だから起きてからの時間の長さ的に本来ならもう家を出ている。今日は包丁の音でそれよりも更に朝早く目覚めただけだ。
暁には、今日は早起きするからね、だから学校は先行ってるよと伝えていた。それはあくまで一人で家を出てねという話で、私より先に起きてねとお願いしたわけではない。
そして並ぶは、一汁三菜がきちんと並んだ、実に日本らしい食卓だった。それは、母さんがいた時まで、最近では家庭科の教科書の写真でしか見ていなかったようなもので。
「これ……全て暁が……?」
「いやぁ、だいぶ不格好になっちゃったけど……見様見真似で、かな……」
「見様見真似で、これ?」
「というより、生姜焼きは漬ける手間とかもあるし、スーパーで買ってきたのをそのまま焼いただけなんだけどさ。だからあまり代わり映えしないかも」
「そんなことはない!」
代わり映えは、とてもした。出前かインスタントか、米すら炊いてこなかったこの家で、一周回ってそれはとても新鮮なものだったんだ。
少なくとも、これは暁が私に、私のために作ってくれた朝ごはんだ。それは疑いようがない。まずは、私のために作ってくれたという事実に感動してしまう。
「いつから……」
そう、それが、一番の疑問。私の前でそんな素振りを見せていた覚えがない。少なくとも、かなりの時間を暁と顔を突き合わせていたのに、そんなことをしている気配も見当たらなかった。
「いつから、準備を……?」
「準備って……料理が出来るようになるまでの?」
「そうそう」
「えっと……一週間ぐらいだったかな」
「えっ」
それは、単純な驚きだった。だって、一週間程度でこれが出来るようになるのかということと、暁が一週間も何かこういうことをしていたのかということと、一週間なら私にもそれくらいで出来るようになるのではという期待と。
だけど、本当はいつどこでということなんてどうでもいいのかもしれない。今目の前に広がるものの目的が、全て暁から私に向けられたものだと、暁はそう言ったのだ。何度でも、それだけを反芻してしまう。
「本当に……わたしのために……」
「ま、まぁまずは食べてもらわないと……な? 口に合うかどうかわからないわけだし、まだ」
「うん……もらうね……」
いただきますをして、箸とお椀とを持ち上げる。こんな『普通の朝食』が久々すぎて、却って作法的にこれでよかったんだっけとなってしまう。そしてそんな私を、暁が対面でニコニコと見つめている。
まずは味噌汁だ。箸を濡らして、玉ねぎと油揚げが入った汁物を一口付ける。
「あっ……」
「何か……まずかった……?」
「あ、いや……そうじゃなくて……」
不思議な感じがした。これは間違いなく家庭料理のそれだ。インスタントで作った味噌汁の味では全然ない。だけど、母さんが作っていた味のそれでもない。
母さんの味付けとは似ても似つかない。だから、急に誰か他人の家の食卓にお邪魔をさせてもらってしまったというよそよそしさがある、そんな味だった。
鰹節がいっぱい入っているのは、少し舌に張り付く感じがあるけれど、玉ねぎとも油揚げとも違う感触があるから、あったところでしつこいとは感じない。寧ろ、噛み心地が複雑になって食べてて飽きることがない。多分出汁用のものを取り除いてないだけで、それがミスなのか意図的なのかはわからないけれど、私はこれがいいとなった。
ひとまず、端的に、結論を言うならば。
「おいしい……」
「よかったぁー」
暁がほっとした声を出しているが、本当においしいのだ。
次は主菜だ。まずは炒めた玉ねぎ。口に放り込めば、熱せられて染み出した自然な甘みが広がった。そして豚の生姜焼きは、硬すぎず、それでいて噛み応えのある触感が、肉を食べているという心地にさせてくれる。
そしてご飯は、そんなおかずに合うように少しだけ炊き加減が硬めだ。だから、おかずと一緒に食べた時にごはんが崩れず、それでいて生姜焼きの風味と合わせるには丁度良くて、とにかく箸が止まらない。
「そっか、そっか……」
「えっ、京楓、どうしたの、泣いて……!?」
「そうじゃない、そうじゃないの……」
正直、涙が出そうになるぐらいには感動していた。食べたことのない、だけど安心できる味わいは、確かに誰かの手作りだと断言できる味。
家庭料理っぽいものを食べに行く機会自体はこれまでもないわけじゃなかった。でもそういうのは、どこか出かけた時とかに、『そういうところ』に行った時に食べるものだったから、それをいつもいる家で食べれるということが幸せこの上ない。
だから、言うなれば、これは『暁の味』ということなのだろう。この手間暇かかったように見える、少しだけまだら模様に感じる味こそが、今の暁の味だった。
「あれ、だけど、ということは……」
いや、まさか。だけど、暁がこうも料理を出したってことは。
「あれ、京楓、急に立ち上がって……どうした? 何か足りないものあった?」
「全部……揃ってる……」
向かった台所は、全てがあった。私たちが、一度は奥へと閉まった調理道具が、全て使いやすいような形で並べられている。
それは、母さんが台所に立っていた頃の状態そのままだった。違う点は立っている人が母さんじゃなくて暁なことだけ。
レトルトを温めるために一組だけ置いていた菜箸立てには、フライ返しやおたま等、あらゆる棒状の調理器具が所狭しと並んでいた。少し前に時間が経ってしまった出前を温めた時に足を踏み入れた時は、使わない調理器具には埃が溜まっていたはずで、コンロは昔の油汚れが残っているままだったはずだ。そしてずっと変わることもないだろうと思っていたそういった汚れが、今では一つも見当たらない。
どうしてこれにすら気付かなかったのだろう。それだけ私が台所に足を踏み入れないという証左なのだけど、一週間で料理をしたっていうのは、まさか。
「掃除は……いつから……」
「掃除含めて、かな。でも掃除はせいぜい二日で終わったよ。範囲は決まってたしね。あとは練習あるのみだった」
じゃぁ、本当に、一週間で、掃除から料理そのものまで、全てを。
「手間ちゃんと掛けられて、よかったよ、ほんと」
そんなの、手間なんてもんじゃないよ。ただ、やってこなかったことを全て暁に押し付けちゃってただけだよ。
「せめて掃除ぐらいは、という顔してるな。それじゃぁ、京楓へのサプライズにならないだろ」
「やっぱり、サプライズで……?」
「まぁ、今後の事を考えればそういう形にしない方がいいんだろうけどな。別に今回だけのつもりはないし、今後もやりたいと思ってるけど、まずは京楓への感謝と、それと……」
「それと?」
「――いや、感謝で。勿論父さんへも。それ以外はないさ」
暁が恥ずかしがってその後を続けようとしなかったんだと、この時は思っていた。でも違うよね? 本当は、母さんがいなくなってずっとどこか沈んでいた私を勇気づけようとしてくれたんだよね? 暁も辛かったはずなのに、ただ私のために、私のためだけにと。
「ごめん、ちょっとメールだけ送らせて」
それだけ口にすると、ささっと携帯を操作する。テンキーの悲鳴にもならない小さな音がリビングに響かないで、だから少しの間だけ静寂にも似た音に空間が支配される。
そして、ぱたり、と携帯が折り畳んで初めて、私は顔を上げた。
「これで、よしと」
「何か急用が入っちゃった?」
「そうだね、急も急、かな」
そのまま、今送ったメールの画面が暁に見せる。見せている最中に、メーリングリストで私が送ったメールが改めて着信して、同じ内容の通知がポップアップで表示された。
「部長に送ったの。『急用が入ったので今日は朝練お休みします、放課後は出ます』って」
「もしかして……俺のせい?」
「せいだなんて言わないでよ! こんな……私のためにだなんて……」
「でもごめん、俺が時間取っちゃったみたいになっちゃったから」
「だからそう言わないで! 私にとってはこればかりはこっちの方が何倍も大事!」
そう、これだけは流石にテニスを差し置いてでも優先されるべきこと。暁にとっての初めての経験は、私にとっても大事にしたい。
「だから、暁も食べよ? 一緒に」
「――うん、そうだな」
そのまま手を合わせて、暁もいただきますをする。外食時とかでもちゃんとそういう礼儀は忘れないようにはしていたつもりだけど、真の意味で感謝をしたくなったのはいつ以来だろう。母さんの食事でもなかったような気持ちだ。
そして、暫く食器の音以外がしなかった――だけど私は朝食のおいしさに身悶えていた――空間に、ぽつりと、暁の声が通る。
「――一つ謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
顔を上げてみた暁の顔は、何かを決心したかのようで、そしてどこか寂しそうだった。その表情に、暁が伝えようとしている内容を理解する。
「テニス部、やっぱり入るのやめるよ」
「――そっか」
特段、驚きはなかった。暁が乗り気じゃなかったわけではないのはわかっている。だけど、暁にとっては、家の事を優先すべきなのかと悩んでいたのは知っているから、今更引き留めようとしても難しいだろう。それこそただの私のエゴになってしまう。
そして、すぐには、だったら私も一緒にやるよと言えなかったことが、私の弱さだった。
「じゃぁ、オカルト研究会にするの?」
「まだ未定かな。だけど、入る方向で前向きに考えてはいる。だいぶ参加要件とか緩いみたいだしね。少なくともテニス部含めた運動部よりは」
あぁ、やっぱり。正直、この時点で暁が一気にはまる兆しを見せていたオカルトのそれは、気付けば暁のライフワークへと変わろうとしていて。そして、正直私はまだ、この時はそういう趣味なのかと、つい思ってしまっていた。
でも、それを私から言い出すことは出来ない。だって、何か自分のためだけに自分がしたいことをしてほしいと常々言ってきたのは私自身だ。そして暁が見つけた趣味が、法やら何やらから逸脱するようなものだったら止めるけど、特に害のないものを制限する義理はない。
それに、あくまで占いだとかそれに基づく研究だとかがメインで、人を変な宗教に落とし込もうとしているわけではない。季節のイベントがある時等、時折グッズが部屋に溢れ返りそうになるのだけ目を瞑れば、暁一人の範疇に収まる趣味だと言えた。実際暁がオカルトに開眼してから社会の点数で暁に勝てることがほぼなくなっていたし。
だからそれは、実益を兼ねた趣味。そしてそれはやがて私にも帰ってくるのだと、私はそうやって納得をした。
「一個だけ約束してくれるかな」
「いいけど、何?」
「また私とテニスしてよね。時折でいいから」
「――勿論」
なら、いいや。暁と一緒にテニスをしたかったのは本音だけど。暁がテニスをしたくないわけじゃないということさえわかったなら。部活が負担になってしまわないのならそれでいいと。
だから、今は、ただ頷くだけにしておいた。
結局、暁はオカルト研究会に入ることになって。だけど週に二回あるかないかの活動よりも、常にうちの事を考えてくれるようになっていた。
それは本来私がやるべきことだったのだろう。でも、テニス部の活動が割と忙しくて、結局は暁任せにしてしまった。
その暁は、何かに取り憑かれたようにして、料理に没頭して。そして。
「――すごく、おいしい……」
一ヶ月後には、お店の味ばかりが食卓に並ぶことが全く以てなくなっていたのだった。
暁が料理をするようになってから、明確に生活スタイルが変わったと思う。
まず、朝早く起きるのが苦ではなくなった。いつも起きて、一人で冷凍食品を温める、朝練の日はコンビニで何か買うという状況だったのが、暁も一緒に起きて、暁が作る朝食を待つというスタイルに変化した。
やっぱり、誰かが一緒に起きてくれるというのは大事だ。朝練がない日は寝坊しかけるというようなことも割とあったのだけれど、気付けば一時間ぐらいは寝るのと起きるのが早回しになってて、だから結果的に睡眠の面でも健康的な生活が送れるようになった。
何より一番大きいのは暁が作る朝食だ。暁なりに栄養価と満腹感が両立するよう考えてくれたメニューは、元から言う気のない文句すらも全く出ないもので。それが毎日の楽しみとなるのにそう時間はかからなかった。
まとめて作れば楽だからということで、いつ帰ってきていつ出ていくかわからない父さんのためにも同じ料理を出してあげてて、だからそれは確かに血の繋がりのない父さんと暁の交流ともなっていた。
一時は色彩を失ったかのように静かすぎた我が家だったけれど、暁が救ってくれた。何か匂いが再びこの家に充満するようになり、規則的な音というものが時折響くようになった。
だけど、結局これは、暁の負担が増えただけというのも確かで。料理を作るのも、食材を買い出しに行くのも、食品の保管一式まで、全て暁に任せっきりになっている。
私は何をすべきなのだろう。父さんはこの家のためにお金を稼いでくれている。暁は料理をしてくれている。私はテニスを楽しむぐらいで、この家のためにやれていることが何もない。
そうだ、私は忘れたのか。暁がこの家にいてもらうために、暁に対して私が出来ることを何でもしてやろうって。暁に恙なくこの家で暮らしてもらうんだと、最初に決意したのはなんだったのか。
だったら、私が次にやるべきことは、料理を覚える事なんじゃないか。暁があぁもパッと出来たのだからというわけではないのだけれど、それでも暁と同じくらいには出来るようになりたい。
まずは考えるより動け。暁は確か一週間と言っていたか。それだけあれば、あぁやって何かしらを出せるようになるのだとするならば。それこそ私自身の成長の証に出来る。
成長そのものは人によりけりだ。だから無理に一週間じゃなくてもいい。それでも、どんなに遅くても三週間ぐらいで出来るようにはなっておきたい。
だから、休日の朝、こっそり独り暁を起こさないように部屋を出て、同じように出来ないか、挑戦しようとしたんだ。
メニューはどうしよう。冷蔵庫には……丁度イワシがある。じゃぁ、メインはイワシの塩焼きだ。
「魚焼きのグリルはこれで、えっと、水を入れるの……?」
まともに使ったこともなかった自宅の台所を、見様見真似でいじる。魚焼きグリルなんて、一切手にも触れた記憶がなかったから、それこそおっかなびっくりだ。
「付け合わせは漬物の袋がある……これでいいかな」
暁が作ってくれた料理も、一から十まで暁が調理したものではなかった。だから、別に既製品を使う事自体は問題ないだろう。それをお皿に出すだけで調理をしたっぽく見えるのは、それこそ先日の暁の料理で学んだことだ。
「お味噌汁はまだ難しいかな……即席スープでいいかな」
そういえば、毎日お味噌汁を作ってほしいというのはプロポーズの言葉だっけ。私もいつか誰かに言う日が来るのだろうか。暁はそもそも自分から毎日作るよと言ってそうだな。
「ご飯は……うっ……どうすればいいの……? これもレンジでチンする奴で……」
結局イワシの塩焼き以外、どれも既製品になってしまっている。
「塩ってどれくらい振りかければいいの? えーい、ままよ!」
勢いよく塩を振りかけて、焼きあがるのを待つ。それは私にとって期待半分、不安半分だった。テニスの試合をする時より緊張はしている。
「おいしくできるといいなぁ……暁をぎゃふんと言わせてやる……」
――そして、出来上がったのは。
「えっと……これは……」
イワシが中に埋まっている、塩の塊だった。
どこかでこんな料理を見たことがあった気はする。でもそれは確か普段の家庭料理で作るようなものではなかったはずだ。
「明らかに塩が多すぎじゃないかな。それだけ塩を使うのは、せいぜいパスタを茹でる時ぐらいだったと思う」
「そっか、うーん、配分って難しいなぁ……」
そう、難しい。私にとっては初挑戦だったけれど、このくらいでへこたれるわけにもいかない。暁に満足してもらわなきゃ。
「って、暁!?」
「何をしてるのかと思えば。京楓も料理の練習?」
「あ、え、えっと……」
暁に指摘されて狼狽える。確かに暁の言う通りなのだけど、でも正直、暁には見られたくなかったのは本音だ。だってこれはあくまで暁に突然私の料理を振る舞うっていうのが目的で、だからこそそれはシークレットでなくてはいけなかったのに。
だけど、バレてしまったものはもうしょうがない。開き直って、どのようにすれば尋ねてみればいいだけだ。
「あ、暁! 最初はどんなもんだった!?」
「最初か? うーん、そうだなぁ……」
「なんでもいいよ! 暁も最初から成功してたわけじゃなかったとは思うし!」
「いやそりゃそうだけど! まぁでも、うん、俺だって最初はこんな感じだったよ。塩ひとつまみとか、その基準はどんなんだって、最初はなるよな」
確かに、レシピ本とかにあるような単語の基準がよくわからないのはその通りだ。レシピ以外で使わないような単語が並んでいると、それを覚えるだけでまずは一苦労だ。
「というか、それはそれでという感じだな。鯛の塩釜とかあるだろ? それっぽく見えるけど……」
「普通に焼き魚……」
「だとすると塩が幾らなんでも多すぎるな……」
やっぱり。自分でもわかってはいたけど、作ろうと思っていたものからかけ離れたものとなってしまえば、それは明確に失敗だ。次回以降の糧にはなるけれど、それでも暁に見られる前に成功をしたかったのも本音だ。
「それで、昔暁が失敗した分はどうしたの?」
「全部自分で食べたけど……」
あぁ、やっぱりそうだよね。少なくとも私はそんな失敗作っぽいものは食べた覚えがないから、捨てられてなければ暁の胃袋に収まったと見るべきだろう。
だったら、私も、同じようにするまで。塩がいっぱい。運動でどうにかなるだろうか。ええい、ままよ。
「っておいおいおい! それは流石に身体に悪いって!」
でも、幾らなんでも捨てるのは勿体ない。だったら、食べるしかないだろう。
「……しょっぱい」
「おいおい……体壊しても知らねぇぞ? というか普通にそれヤバいって、せめて汗かきまくるぐらいには何かしないと」
「そしたら、汗かきまくるぐらいに運動する。今日は予定もないし、身体動かしまくる」
「はぁ……しゃぁねぇなぁ。俺の責任でもあるし、付き合う」
「あれ、どこか行くの?」
「京楓のその塩分減らすんだよ。作ってくれたもの食べたらテニス行くぞ、テニス。水はいっぱい持ってくぞ。というか今まず水を飲め」
「――うん!」
「でもその前にグリル洗わせてくれ。汚れ落とすのは早い方がいい」
「うん……」
「あ、塩まみれなのは関係ないぞ? どの道グリルだけは使ったら即洗うんだ。そうしないと汚れがこびりついて中々取れなくなっちまうからな」
そう言うと、即座に粉洗剤を水で溶かして、ゴシゴシとグリルを洗い始める。こびりついてた汚れが落ちて、少し色の変わった水がシンクに流れ落ちる。
グリルを洗うのも、ともすれば暁からすれば当然の事なのかもしれない。でも、それはあくまで今後の手間を考えての事だ。そんなことにも、この時の私には気付けなかった。
「塩は……どうすっかな。まぁ、これくらいなら出汁というか、あっさりしたものをさっと塩でやるか。キャベツとかあったかな」
「塩キャベツ? 父さんがよくお酒のつまみに食べてるもの?」
「そうそう。それを細切りにした昆布とかと一緒にだな。ごま油で炒めたものはご飯にも合うぞ」
「へぇー……」
いつの間にか一丁前にさっとレシピが浮かぶようになっている暁を、私は少し遠い目で見た。ただの料理だけじゃなくて、お酒のつまみみたいなものも、いつの間にか暁は覚え始めている。
暁がこれくらいのことを出来るようになるまでどれだけの努力をしたのか、正直私にはわからない。その実一週間というのも見栄かもしれないし、単にそれ以外の努力を含んでないだけかもしれない。
それでも、努力したからこそ暁がこうも出来るようになったことだけは間違いないだろう。だったら、私も同じようにするだけだ。あの夜、寝る間も惜しんで暁が料理本を見ていた時のように。
「じゃ、とりあえずテニスすっか。いっぱい汗流すぞ」
「うん!」
失敗作を無駄にしないのは、あくまで結果論だったのかもしれないし、実際にそれが出来るからこそ暁なりに勿体なくないように頭を働かせてくれただけかもしれない。暁なら、きっと指定された条件で最良の料理を作ることなど造作もないだろう。
それでも、それが私にだけの、私にとっての優しさにも見えて――。
「やっぱり、暁は優しいね」
「そりゃぁ、京楓が頑張りたいって言って、それが俺が付き添えることなら、応援したいと思うから」
「ありがとね」
だけど、何回やっても。
「うっ……これは流石に甘すぎる……牛乳入れればましになるかな……うわ、今度はべちゃべちゃになった……」
私の料理の腕前は上昇の兆しを見せなかった。
「炒めすぎたかな……あっ、油がこれは多すぎる……少しの水を……火柱―っ!?」
レシピ通りにやっていないわけではない。だけどどこかで何らかの失敗をしてしまっている。
「センスがない……わけじゃないと思うんだけどなぁ」
そう暁が言うってことは、きっとやり方自体は間違いではないのだろう。
確かに、雑な自覚はある。包丁で切る時に、具材の大きさがバラバラでいいやとか、強火と弱火の使い分けがあまりわかってないだとか、調味料の加減が難しいだとか。
手際が悪いのも一因なのだろう。同時に焼くことと煮ることと炒めることを同時に暁はこなしていくのに、私はその内の一つも満足に出来やしない。
暁が全部見ているわけではないし、その上で私なりのアレンジを試みようとしてみたこともあったけど、それは暁に見つかって止められたから、結局は基本的なことしかしていない。なのにこれで、どうしたものかと私も暁もうんうん頭を唸らせ続けていた。
だけど、それが続いたある日の事。
「うわっ!? あっちゃー……いったぁ……」
包丁で思いっきり指を切ってしまった。それもざっくりと、深く。
ジンジンとして、ドクドクと血が流れだしてくる。参ったな、テニスをするのにも支障が出てしまうかもしれない。ひとまず、暁にこれを見られる前に――。
「うわっ!? 京楓、それどうした!? 包丁か! まずは流水で冷やして! 早く!」
暁に見られたと思う間もなく、腕が暁に取られて、間髪入れずに切り傷に流水が沁み始める。突然の刺激に身体がビクッとなるも、暁に抑えられた腕が跳ねる衝動を許してくれない。
「ちょっと待ってろ、流石にこの深さだと絆創膏……いや、範囲も広いしガーゼの方がいいかな……とりあえず戻るまで流水で冷やしてて」
暁に抑えられる感触がなくなって腕が軽くなる。救急箱を取りに行く暁を視線で追っかけるけど、それ以上のことは何も出来なかった。
「お待たせ、ガーゼの前に、沁みると思うけど消毒液な。はい、指を突き出して――」
手際が、段違いだった。うまく行かないが故にどれも小手先でこなそうとしていた私には、到底できない芸当だった。
さっきまでとは別の刺激が傷口に染み渡る。どうにもじたばたしたい心地に囚われたけど、それはきっと傷が沁みるからじゃなくて、暁に恥ずかしいところを見せてしまっているからだ。
そしてそれら一連の処置が終わって、一息ついたタイミングで暁が口を開く。
「京楓、無理してない? どうにも俺にはそう見えるんだが」
「……そんなことないよ」
「そうかな。正直、今の京楓は、嫌々料理をしてるように見える」
「そんなのっ……」
否定しなくてはいけない。今の私は、暁においしい料理を食べさせたいがために頑張ってるんだって。
でも、楽しめてないのも事実だった。暁には簡単に出来た、簡単にこなせているように見えたことが、どうして私にはこうも難しいのだろう。
暁は一週間で出来た。私はどんなに長くても三週間と時間を取ったつもりだったのに。もう既に私が決心してから一ヶ月が経過していた。
「正直言うと……最近の京楓、無理ばかりをしてるように見えてさ。料理を覚えようとしてるのは、俺から見ててもいいことだと思うし、是非ともとはなるよ。だけど、それで、京楓がやりたいことまでを制限されてしまうのは俺が嫌なんだ。それに、無理して覚えようとして、覚えられなくて嫌悪感を覚えられる方が、後々響くと思う」
暁の言うことも尤もだった。今の私じゃ、その内料理そのものが嫌いになりそうな自覚はある。勉強も難しくなってきてるし、テニスはしたいし、合間に料理を覚えようと思ってもそれでうまくいくはずもない。そして暁は、その内のテニスを犠牲にしてこの腕を身に付けた。それをしてまで私が覚えられる気力は、ない。
「まぁだから、また気が向いた時で大丈夫だよ。これ自体は俺がやりたくてやってるんだし、それに、それくらいのことはさせてほしいから」
「だけどっ……」
だけど、なんだろう。ここで何か言う方が、それこそ暁を困らせてしまう事だけは、私にもわかった。
ちゃんとは言ってくれないけど、暁が止めたのは、私の作業が危ないからだ。そしてそれを私は理不尽な戦力外通告のように感じてしまった。
暁は私が何もせずともこの家で料理をしてくれるという。それは暁がしたいからしてくれていることではあるとのことだけど、それ以上に私や父さんに対して出来ることとしてやっているように見えて、つまりは暁が義務を覚えていないかが不安だった。
だったら、暁がそう思わないように私だって何かすべきだ。私だって女子なんだし、私も料理を覚えたい。そしてその内、暁と肩を並べて料理を出来るようになりたい。
でも私は、暁がやりたくてやってることをも奪うことになるのだろうか。私がそこに乱入することによって、私が見つけてほしいと願っていた、暁がやりたいと思う事すらも邪魔してしまうのだろうか。
わかっている。暁はあくまで私の事だけを考えてそのことを言ってくれているんだって。そして暁自身がやりたいということも、これまでの雰囲気から見るに嘘ではない。
それでも、少なくとも今この時は、このまま料理を覚えようとすることは、ただ暁を邪魔することにしかならないと理解するしかなくて。
「掃除とか、他の家事は一緒にやってくれてるんだし、まずはそっちから、さ」
「――うん」
せめて、またすぐに、暁の一助になれるようにと願って、今この時は頷くしかなかったんだ。
だけど、結局、この時を最後に、暫く料理に挑戦しようとは、どうしてもならなかった。
最初の目的が早い段階で達せられなかったことも大きい。だけど、その目的の相手に、無理をしないでほしいと言われて、それが私にとっての否定のように感じてしまったんだ。
勿論そうでないことはわかっている。だけど、それをそういうことであると身体が理解してしまって、それが精神を汚染して、私が『やらない言い訳』として形作ってしまうことに、そう時間はかからなかった。ひいては、自己嫌悪の象徴としてまで。
私、暁のために何を提供できているのだろう。ずっと何か、家のためになろうとしている暁を尻目に、私は与えられたものをただ飲み込むだけ。暁と比較してしまうと、自分が我儘ばかりを言っているのは理解しているのだけれど、それに対して適切な行動が何も出来ていない。
この料理の手伝いだって、どうだ。結局暁の手を煩わせる以外の事を何もしていないではないか。だったら、初めから色気を出そうとしなくてよかったのではないか。何も変わらないまま、何も。
――それは、私にとっての初めての挫折だったのかもしれない。
「んっ! んんっ! んんん~~~~~っ!」
深夜、必死に声を押し殺して、下段で眠る暁にバレないようにする。カタカタと、小刻みにベッドが揺れていた。
まただ。最近では週一でこんなことになっている。それは傍から見れば乱れているというのが一番相応しくて、そしてそんな姿は誰であっても見せるわけにはいかない。
中学の保険の授業で性教育があって。セックスの存在を知って、たまに何の気なしにいじってみていた場所が、そのための場所だと知って。気持ちいいってどういうことなんだろうとやってみた結果がこれで。
こんな小さい穴にそれだけのものが入るというのは本当なのだろうか。長いお手洗いをする時に、確かにいつもは閉じている別の穴から何倍も大きいものを出すことはある。だけど、それは出せば終わりなのであって、入れることがスタートな行為に、果たして身体が持つのだろうか。
まず、それをする相手は誰なんだろう。今は知らない誰か? いやそれじゃ浮かびようがない。大誠? 多分そこまでの関係にはならないと直感でわかる。
――暁? 暁は家族だ。だけど、血の繋がりはないから別にそんな関係になっても問題ない――というのはどこかで聞いた覚えがある。それに、なんだか、暁だからこそ、それがいいと感じてしまったような。
うん、すごく腑に落ちた。暁は私の事をよく知っている。私は暁だったら求められてもいいと思う。私は、求められるなら、私の事をよく知っている人じゃないと嫌で、そしてそれはきっと暁以上の人が現れることは恐らくないんだ。
だから、初めて一人でシてしまった時以外で行為のお相手をしているのはいつも暁で、そしてそれはずっと続くことになる。だから、結局、空想でも現実でも、私は暁のものしか覚えることがなくなったんだ。
相手は暁だろうなと思ったのは、付き合いの深い相手だからというぐらいの理由だった。だけど、触れている内に、触れている間は暁のことしか考えられなくなっている自分に、この時は気付いてなかった。
最初に感じたのは、罪悪感だった。勝手に得体のしれない自分の欲望に暁を付き合わせて、そして暁までをも汚してしまっている。そんな醜い想像に、空想の中でも『家族』を付き合わせているのだ。
私がものを知らなかったというのはあるのだけれど、空想の内容はワンパターンだった。私が暁に好きと言って、暁も私に好きと言ってくれて、その上で優しく壊れ物のように私の事を扱ってくれる。暁が上手いから、私も痛みを覚えることがなくて、そして苦しむことなく気持ちよくなれるっていう、そんなありきたりなもの。
私だって乙女、もとい恋に憧れる少女だったから、やっぱりこの人じゃないとと思える相手じゃないと嫌だというのはあって。そしてこの時点でその可能性が一番高いと思っていたのは暁で、暁以上の相手が現れることはないだろうと、漫然と理解していた。つまりこの時の私は、既に暁と恋仲になるということを疑ってもいなかったということに全く気付きもせず、そして個人的な話だけで言うならば、妄想の中のお相手が暁なのは、寧ろそれでよかったんだ。
だから、本当はこの時点で答えなんて出てるようなものだったのだろうけど、この時はまだその矛盾に気付くことはなくて。そしてそれを本当にわかってないところもあったぐらいには、私は生娘だった。
結局、やってることは暁を私のための道具にしているようなものだ。こんな私を知られたら、暁は軽蔑するに決まっている。
だけど、そんなことがどうでもよくなってしまうぐらいには、知ってしまった行為は気持ちよくて、そしてやめられなくて――。
「っふぁ~~~……おはよ……っ……っ!?」
そして、朝起きれば、暁の顔が見られない。恥ずかしいというより、そんな私が恥をかかせていたのに、厚顔無恥に顔を合わせるわけにはいかない。
「おはよう……どうした京楓、顔真っ赤じゃないか」
「なな、なんでもないっ!」
「いやいやそう言われても……熱はない? 大丈夫?」
「だから大丈夫だって!」
「ほんとかぁ? ちょっと失礼するぞ」
台所にいた徐に暁が近づいてきて、そしてまず暁のひんやりとした手がおでこに持ってこられて、それが離れたかと思えば、暁のおでこが……おでこが!?
「ふにゃっ!? にゃにゃにゃ、にゃにをっ!?」
「ふーむ、熱はないようだな。手がひんやりしすぎるというような感触もないだろ、この程度なら」
いや寧ろ今ので熱が上がるんですけど。今のとこの後また暁が同じようにするのを再びやるなら、ここの体温変化が絶対に説明できない。
「平熱の範囲だけど、それでも少し体温上がってるか? 京楓、夜更かしでもしてたか」
その一言にビクッとなる。夜更かしというか、夜中もぞもぞとしたタイミングで目が覚めて、その上での『夜遊び』だ。確かに長い眠りではなかったかもだけれど、却ってその後はよく眠れたぐらいだ。
どうしよう、ばれてないよね。あんなのがばれてたら、それこそもう暁と一緒に住めない。
「――まぁ、女性はそういう体温変化は割と男より起こり得るから、これでも平熱なぐらいなんかな。しんどそうだったら言ってくれよな」
「あ、ありがと……」
結局暁は、私の秘め事に気付くことなくその話を終わらせた。そしてもやもやとした暁への欲求不満が後には残される――暁への? 何?
「なぁ、京楓」
「なっ、何!?」
まずい、明らかに飛び跳ねるぐらいにびっくりしてしまった。不審に思われてないよね、いや絶対に思われてる。というかこれから来るのってきっとそういう質問で。あぁどうしよう。
だけど、暁が発した言葉は、私が想定していたものとはかけ離れていた。
「京楓は、ほんと頑張ってるよなぁ……」
徐に口にした暁は、どこか顔が赤かった。そのまま少し恥ずかしそうに、頭をばりぼりと掻いている。
「朝練がある日にこうやって早起きするの、ほんとすごいよな。俺もそれより早く起きてるとはいえさ、でも朝通学する時に京楓だけ一人なわけで、よく頑張ってると思うよ」
「べ、別にそれくらいはそんなでもない。それより、いつも暁を付き合わせちゃってる方が悪いよ、やっぱり」
「いやいやそれくらいは。寧ろ、朝練がない日は俺の方が寝坊してるようなことも多いわけだし、そこはお互い様だから」
確かに、起床時間自体は私の方がコンスタントかもしれない。朝練の頻度がそこそこにある関係上、ない日でも同じように目を覚ましてしまうことはよくある。
ところで、睡眠といえば。どうしても私は昔の感覚が抜けきらないところがある。
「――暁は、よく寝るよね」
「言う程か? そりゃぁ、昔は確かにそうかもだけど……出会ったばかりの頃の印象が残ってる?」
「それは、……正直、うん」
体力が絶望的だった暁は、すぐに疲れてしまって、そこから回復するためによく昼寝をしていたのは、よく覚えている。その時の私は、暁の寝顔を眺めたり、そもそも横で一緒にお昼寝したりしていて、恐らく少しだけ私の方が起きている時間が長かった。
そして、今では僅かな差とはいえ私より暁の方が起きている時間が長い気がする。基本的には同じ時間に寝て同じ時間に起きるけど、私が朝練がある時は私より暁の方が少しだけ早く起きるから、多分ひと月で数時間だけ、私より暁の方が起きている時間は長いだろう。
そしてそれは、結果的に料理を全て暁任せにしてしまっている私の所為でもある。そして私はテニス部の朝練があるからこそ、私の行動に暁を付き合わせてしまっているという方が正しい。
だから、それはわざわざ暁が言うことではない。寧ろ私が暁に言うべきことだ。私が、暁に感謝をしないといけないんだ。
「暁は……私に何か希望とかある?」
もう、殆ど二人暮らしにも近いような、そんな生活の中で。気付けば生まれてからの累計でも、暁の顔を眺める時間が誰よりも多くなるような時間の中で。ともすれば既に私の胃袋という名の生殺与奪を暁に握られているような状況の中で。
「無理だけは、しないでほしいかな」
暁がいつも傍にいることに、今更ながら気付いた。
「俺は、京楓が望むようにするよ」
「元気でいて欲しい、じゃ駄目?」
「それじゃ、俺も京楓に対して同じ望みで」
それ自体は、暁が真に願っていてくれていることだったのだろう。先に相手に対して同じことを思ったのは私が先なのは間違いないのだけれど。そしてそれは、出会ってからの三ヶ月があったからこそだ。
あれだけ濃密な三ヶ月は、きっと後にも先にもないだろうと、この時は思っていた。それでも、暁にとっての辛い過去を忘れさせようとするならば、きっと同じように濃密な時間がもっとあった方がいい。そしてそれは、可能ならば私が提供してあげられれば、恐らく私にとってもいいことになるはずだ。
私が一番提供すべきなのは、きっと時間と場所だ。だからなのか、暁は物を求めない。趣味に関連した、これというもの以外は何も自発的に買おうとしていない。
暁は、あまり物に執着していなかった。強いて言うなら占い関係のグッズは大事そうにはしていたけど。逆に暁だけが持つ私物というのはその程度だ。他の暁のものは、漫画やゲーム等、どれも私と共用になっている。
でも逆に、それ以外のものは、消耗品などは最後まで大切に使い潰す。あらゆる手を使って限界まで使い続け、別れを惜しむようにして最後は丁寧に使い終える。所作を見る限り、みみっちいというわけではなく、感謝を込めてそれを使い切るように見受けられた。
暁が占いグッズを大切にしているのはわかるとして、それ以外の物は集めず、ともすれば必要な服とかさえ最低限で済ませてしまう。趣味に注ぎ込んでいると言えば聞こえはいいかもしれないけれど、だけど暁はお金を使っている気配がない。貯金を意図的にしているわけでもなく、かといって趣味に全額注ぎ込んでるわけでもなく、それでも使うお金を抑えているように見受けられた。
時折、私や鬼無水とかに奢ろうとしてくれてるのは、そもそも暁なりの使いたい欲なんだろうか。多分、鬼無水や大誠と四人で旅行やキャンプに行く時に暁がお金をしっかり使うのは、それの還元という側面もあるのだろう。
そんな暁の本心が、読めそうで読めない。いや、私が読もうとしてこなかっただけなのか。出来る事なら暁のお金は暁に使ってほしいと思うのに。暁のためだけというのは、それこそ一部のオカルトグッズ程度で、それ以外がまるでない。
「みんなとの、京楓との関係が、ずっと変わらずにいられたらいいのになぁ」
その時の私は、みんなとの、暁との漫然とした、だけど何も考えず、頑張らずに私を肯定してくれる、そんな関係性にずっと浸っていたいと思っていた。だってそれが私にとってのその時考え得る一番の幸せで、そしてその幸せの中で生きていると感じていたから。
だから、ずっとこのままで。あらゆることがそのままでいられるなら、少なくとも悲しみを感じることはないから。鬼無水も倒れるようなことはほぼなくなった。みんな楽しく過ごせている。なら、それでいいじゃないか。
何より、そうすれば、嫌な思い出も、悲しい記憶も、どれも忘れたまま生きていけると、そう本気で思い込んでいて――。
「ずっと、このままでいられたらいいよね」
その時、その暁の言葉に反発しなかったのが、一番いけなかったのだろう。
思えば、暁と一番心理的にシンクロ出来ていたのは、多分鬼無水に勉強を見てもらっている時ぐらいになっていたのかもしれない。
勿論、それは暁と二人馬鹿をしている時も、四人で何も考えず遊んでいた時もあったのだけれど。でも、頭を空っぽに出来ている状態は、気持ちが通じ合っているのとは違う。全く同じようなことを考えていたのは、きっと勉強の時の鬼無水への怨嗟だけだ。
そして、中学から英彩学院に進学しても、その辺りはあまり変わらなかった。四人共、中学時点でやっていたことを、学院に進学してもずっと続けていただけだった。私はテニス。暁は占い。鬼無水はケーキ作り。大誠は……勉強が趣味みたいなものか。
そしてこの頃になれば、母さんを失った悲しみも殆ど癒えていた。いや、覆い隠せていたというのが正しいか。私も暁も、勉強に付き合いにと忙しくなってきて、悲しみを思い出す間もなかった。
本当は片隅に追いやるべきではないのだろう。忘れることは絶対にない。だけど、思い出すには辛すぎるというのなら、忘れるにも等しいぐらいに奥へ奥へとしまうしかない。
気付けば、女子テニス部では早い内からエースになっていた。有望株だと、弱小チームに舞い降りた救世主だと、何の僻みすら見せず先輩方は褒めてくれる。
テニスということに限定すれば、強くなりたいという思いは確かにある。だけどそれは、暁や鬼無水、大誠との関係を無碍にしてまでなりたいものではないし、そもそもここはテニスの強さで選んだ学校というわけでもない。ただ地元で、四人で同じように通えるところとして選んだ進学先だ。
それでも、みんなの期待を裏切れるわけでもない。だから、そのキラキラとした視線に応えるようにして、テニスに身を入れる。それ自体は嫌なわけではない。だけど、元々自分がやりたいからしていたことなのに、周りの期待のためにやるというのは、なんというか、面白くはなかった。
それでも、トーナメント戦でそこそこの順位、それも英彩学院の生徒としては過去最高順位になった辺り、決して無駄ではなかったと思いたい。試合の応援には必ず暁も鬼無水も大誠も来てくれたし、これらの活動をするためには暁の支えがなければ無理だった。
とはいえ、試合に勝っても負けても、暁は頑張ったねと私の事を褒めてくれる。何があっても、変わらない顔で迎え入れてくれる。でもそれは、暁にとって、私の試合結果は然程興味がないのではないかという悩みにも繋がった。そんなことはないとわかっていても、負けた時でも変わらず出迎えてくれるだけとわかっていても、どうしても考えてしまう。
そんな暁が、女子テニス部の活動で一番喜んでくれたのは、主将抜擢の報だったかもしれない。二年次の時点で、部の中では私に勝てる人がいないというのと、ちゃんと部の人の動きを見てくれているからというのと。そしてそれは総じて『面倒見のいい』という一言でまとめられていた。そしてその結果を、頑張ったねと、暁は褒めてくれた。
でもそれは、四人が四人でいられる時間が段々と減っていくということでもあった。朝の通学路はいつも四人で行っていたのに、朝練の時以外にも私一人が先に出ることが多くなって、帰りも四人でいられることが少なくなっていく。私がテニスをやりたかったのだから仕方ないのだけれど、でもこればかりは割り切れなかった。
そもそも、私は面倒見なんてよくはない。家では暁におんぶに抱っこの自覚があるし、だからといってテニスで忙しいと言い訳をしてそれを改善しようともしていない。勉強だって鬼無水や大誠のように点が特段いいわけではないし、暁のように強みがあるわけでもない。
結局、テニス以外で特筆することなんて私にはなくて、そしてそれは私がテニスしか強みと思えないということでもあった。だけど、そんな中でも、常に暁のことは考えてしまう。
私は、暁のためになれているのであろうか。テニス以外のことでは、暁と一緒に行動していることは多い。休日はそれこそ暁とテニスをしていることもあるし、四人で遊ぶことも多々ある。長期休みの時は四人で旅行にもちょくちょく行った。逆に言えばそればかりかもしれないけれど、閉じられた、だけどこれ以上なく通じた関係にずっと浸かっているのは、単純に心地よくて、そしてこれ以上なく怠惰な気持ちにさせる。
それこそ喧嘩も多くした。暁とは一番していたし、時には鬼無水や大誠とだって。そんな順風満帆に常に行くわけでもない。寧ろぶつかってこそ理解が深まることだってある。私たちはそうやってずっと付き合ってきたんだし、それがあったからこそ、閉じられた世界が無風の関係性とはならなかったんだ。
そんな私たちにとって唯一幸いだった事は、四人全員が三年間ずっと同じクラスだったことで。それは間違いなく幸せなことだったと言えるし、そして少なくとも私の成長に関しては一番の阻害要因だったのだろう。それは間違いなく私たち四人にとっての青春で、そしてある種の停滞だった。
ただ、鬼無水が段々と普通に生活を出来るようになっていっていたことだけは、いい意味での変化だった。鬼無水の病気も学院入学以降はほぼほぼ寛解していて、だからこそ気兼ねなくそういったことが出来るようになっていたのも大きい。あとは四人での関係の緩慢な延命処置だけを施せば、私にとっては変わらない言い訳の理屈が完成する。
そうやって時は進んでいく。何も考えずぬるま湯に浸かり続けて、やがてはそれに溶けるように沈んでいくようにして、日々は巡っていく。
だけど、否応なしに将来のことを考えなくてはいけない機会というのは出てくる。それが押し付けられた、何の意味があるんだというようなものであっても、強制的に考えさせられてしまう。
それは、夏の盛りも過ぎて暫くした頃の進路調査票――ではなく、将来の夢の作文だった。一部の人は、既に春以降の進路が決まったが故の、大人としての夢の再確認だった。
「あれでいいじゃん、占い師とかでさ」
「食えないからだめだ」
「なんでそこは現実的なの……」
どうして今更将来の夢なんだ、逆に今それ言われることこそ難しいじゃないかとやいのやいの言いながら。
「あ、夢できた。ホワイトなところに就職しよう」
「現実的だなぁ……」
「現実を見ざるをえないでしょ」
鬼無水の合格祝い兼私の誕生会をどういったものにしようかということを、暁と大誠と話し合って、将来自分がどんな姿になっているかということから一時的にでも考えないようにして。
――そして私は作文に就職とだけ書いて、それを提出した翌日。
「何も思い浮かばなかったんです……」
暁は、笑われていた。そろそろ受験でピリピリしようかというクラスにもたらされた一つの清涼剤として、自ら笑われに行っていた。
確かに、暁が作文を書いていた時の様子はいつもと違っていたようには思う。必死に占いをして、そしてどこか苦悶の表情を浮かべながらもなんとか仕上げていた。その時の様子は何かを隠したいがためのようにも見えて、だけどその意味合いを暁からは伺えていない。
鬼無水は結局ケーキ屋のまま提出したのは、ある意味では度胸があると思ったし、だけどちゃんと未だにそれが夢として鎮座ましましている理由にも筋が通っていて、素直にすごいなと思った。
大誠は前々から口にしていた内容の事だったから、特段驚きはない。強いて言うなら、まだ決めきれてなかったんだという感嘆だけ。でも大誠なら、望んだ職に順当に就けるのだろう。
そして、暁は。勿論、少なくとも私なら恥ずかしくて出せないような、あの作文通りの内容が夢と言い切れるものでないことはわかっている。でも、かといって――。
「暁くんは、真面目に考えたらどうなるの?」
「どう……だろ。エリートサラリーマンか、エリート公務員か、一流企業社長か……」
「エリートはともかく、普通の社会人か」
「給料がいい職がいいのか?」
「ん……まぁ」
含みを持たせた言い回しではあったけれど、そんな話は、私ですら聞いたことがなかった。確かに授業での職業研究の時とかに、給料の多寡はよく気にしてはいたけれど、でもそれはあくまで占いだとかの暁の好きなことが優先された上でだとばかし思い込んでいて。
そして暁は、それを改めて決定づける一言を口にする。
「意外だね。暁くんは、お金なんて二の次だと思ってた」
「まあまあ……お金は大事だし」
その暁の言葉に、何も出てこなかった。絶句していたわけではないのだけれど、それが私に対して何かを問いかけられているようで、ずっしりと重いものが載せられた心地がする。授業中だったから助かった。これが何らかの形での会話中だったら、私は逃げ出していたかもわからない。
ここに来て初めて、ずっと暁がどんな思いを抱えていたかを知ることになった。それは私が真っ先に気付くべきで、その上で優しく気にすることはないんだよと声をかけてあげるべきことだったんだ。
確かに、片鱗はあった。ずっと『何かを買ってもらう』ということに対して、極力避けるような動きをずっとしていたし。だから、あまり暁が父さんやうちでの生活面に関しての我儘を言うような姿は、確かに殆ど見ない。我を通す時は、あくまで私と喧嘩なり言い争いなりしている時か、譲ってしまうとその後大きな影響がある物事にぶちあたっていた時ぐらいだ。
もらったお小遣いでは、節制して殆ど使わないというようなことがなかったから、だいぶそんな意識も薄れたのかと思っていた。そうでなければあぁも縁起物だとか、猫と会話できる機械だとか、私や鬼無水に驕ろうとするだとかしない。
でも、それはあくまで暁がそれを有意義だと思っていたからであって。そうでないものに関しては、確かに終ぞしていなかった。帰り道の買い食いだとか、あくまで誰かが暁と一緒にいる時ぐらいで、自分からしていた覚えがない。
だから、テニスをやらずに料理を頑張って。私たちが私たちでいられることに腐心して。そしてそれが暁の当座の幸せになっていたんだ。暁なりの、将来のことを考えない中での、自分なりの楽しみだったんだ。
つまり、本来なら真面目にやらねばいけないはずのものでネタに走ってしまうぐらい、暁が本当にそうでありたいと考えることは、ずっと表に出してこなかったということであって。そして私はずっとそれに気付いてこれなくて。
何より、暁が直前に口にしていた言葉がフラッシュバックして、そして私の頭にこびりついて離れない。
――今は目先のことで精一杯ですよ。
暁は、これを誰に対して言ったんだったか。すぐに返してるから、その私もみんなも忘れた相手に対してだったかもしれない。
どうしよう。暁がやりたいと自分から思ったことぐらい、否定するんじゃなかった。無尽蔵に買ってくると思ってる占いにまつわるグッズと同じ調子で、それを否定するんじゃなかった。
私、さっきなんて言ったっけ。そうだ。暁に尋ねられてとりあえず進学と答えて、ウケを狙うものじゃないって、そう言ったんだ。
ウケは確かに狙うものじゃない。だけど、ウケしか狙えないぐらいに、現実のそれを重く考えすぎているとするならば。それは、未だに暁が引け目を感じていることへの証左となる。
具体例が浮かんでないのも本当なのだろう。だけどそれはやり方がわからないだけで、何がしたいかということは、暁の中でずっと前から決まっていたという事なんだ。そしてそれは、私に、父さんに対して何かを返さなければという義務感から来ているのだと。
そもそも、そんなことを考えていてほしくもなかったのに。そんなことも気にせず、暁は暁のことだけを考えて、毎日を過ごしていてもらいたかったのに。
「あぁぁ……うわぁぁぁ……」
鬼無水と大誠は、恐らく暁の抱えているものに気付いていない。でもだからこそ、対等な関係として暁と同じ目線で物事を見ているし、また暁と同じ目線に立っている。
私はどうだ。何かにつけて暁に負担を押し付けて、言い訳だけは並べ立てて自分一人ぬくぬくとしていなかったか。そしてその間、私は何も努力をしてこなかった。
私がずっと目指していたはずの自分なりの将来の姿からは遠く離れて、だけど暁には変わらず私の理想を押し付けていて、そしてそれを自覚して初めて私自身が何も変わっていないことがわかって、そして変わろうとする勇気も持ち合わせていないことに気付いて――。
「何も考えられてないのは……私の方だよ……」
この時になって初めて、私は暁に求めていたものの愚かさを思い知ったんだ。
思い返せば、いつしか。
「暁くん、私ちょっと河原町に買いたいものがあるんだけど、ちょっと量が多くなりそうだから、手伝ってもらってもいい? 荷物持ちで申し訳ないんだけど……」
私がやれることは何一つなくなっていて。
「暁、ちょっと僕の頼まれごとと塾が被っちゃったんだけど、頼まれごとの方、暁に任せちゃってもいいかな。ちゃんと不足のないようにはするから」
それでも、それでも私は『四人』でいたかった。
「今回のテストの点数は……じゃーん! って、あー! 大誠くんに負けちゃった……」
四人で変わらずいられる内は、私たちは『四人』でいいから。そこに明確な役割は存在しない。
「いいだろ二人は。俺なんて二人の足元にも及ばないよ」
何も変わらずにいられれば、ずっとそうでいられる。何より、暁と離れないでいられると。
「まぁ、暁と京楓はもうちょっと頑張るべきだとは思うけどね……」
そうやって、自分をごまかし続けて、そしてみんなを騙し続けて、そうやって数年を過ごしていた。騙した結果が楽しくないわけではなかったし、一定の効果はあっただろう。あったからこそ、続いてしまったんだ。
「まずはこの面々に発表するね。なんと! 推薦で大学! 受かりましたー!」
でもその希望は、鬼無水が早くも合格したということで、既に呆気なく崩れ去っていた。
「みさきはほんとすごいよな。あれだけ学校に来れない日があっても、何倍も努力して、基本毎日学校行ってる俺たちよりもいい成績取ってくんだから」
少なくとも、私がどんなに必死に勉強しても、鬼無水の学力に追いつくことは出来ない。すなわち、あと一年も経たない内に、この四人が四人では常日頃からいられなくなってしまうということで。
「まぁ、みさきは頭の回転もいいからね……。僕も同じくらいの回転が欲しかったよ」
そもそもが、鬼無水と大誠の希望進路が違うとわかっていた時点で、そんなことはわかりきっていたはずなのに。
「大誠くんに言われたくはないなぁ。私だって大誠くんのあれやこれや、羨ましいって思うことはあるもん」
いや、全部わかっていたはずなんだ。それを私は、ただ視線を逸らすだけでいて、真剣に向き合ってこなかっただけなんだ。
「まぁあとは暁と京楓がどうなるかだね……僕も受からないことには始まらないけどさ」
そしてそれが瓦解してしまえば、いつかは変化の矛先が私にも向けられるのは自明の理で。
「そしたら私が暁くんと京ちゃんの勉強見るね! 二人共やれば出来るんだから、直前ぐらいは頑張らないと!」
だけど、変化をした先で私が望むような姿なんて何もなくて、だけど三人共どこか何かを見据えていて。
「流石の余裕だね。まぁ、みさきが余裕あるなら、実際全部任せちゃってもいいのかな。これまでもそうだったしね」
混ざれない。そう、混ざれないんだ。私なんかじゃ、この三人には。
「じゃぁ、京ちゃんと暁くん、頑張ろうね? やっぱり二人にもいいところ行ってほしいから」
そして私は、今日も横並びで歩く三人を、一歩後ろから付いていく。
「今日さ、例の私の親戚がまたお笑いのリベンジをするっていうんだけど、行く? 何回か機会はあるから今日である必要性はないんだけど」
最初は、いつも私独りで前を歩いていた。今では独り、後ろを歩いている。
「おー、今日は塾もないし、行ってもいいかもしれないね。暇つぶしぐらいにはなるだろ」
結局、思い返せば、四人で同じように横並びで歩けていたことなんて、殆どなかったのかもしれない。そして、そこから真っ先に外れたのは、いつも私だった。
「俺も大丈夫だ。京楓は……部活なかったように思うし、大丈夫だと思うけど、聞いてみるか」
それに気付いた暁が、振り返って私の意見を尋ねる。
「おーい、京楓は大丈夫? この後部活なかったよね? いや一緒に帰ってる段階でそれもないか」
そして私は、目の前の会話からも目を逸らすようにして、思い付きの嘘をその場ででっちあげた。
「あ、いけない。ごめん、部活絡みで急用を思い出しちゃって、学校戻らなきゃ」
四人が四人であり続けたいと願うが故に、その寿命を短くするだけの短絡的な嘘をつく。
「じゃぁどうしようか。今日行く? 別の日にする?」
「うーん、京ちゃんいないし、別の日がいいんじゃない? 折角ならみんなで行くのがいいよ。多分四人じゃないと空気に耐えられないと思うし」
「――みさきの感想はともかく、そうだね、僕も賛成。まぁ僕が今度は予定合わせなきゃいけなくなるね……多分どうにかなると思うけど」
そしてその結果は、あったであろう私が望んでいたはずの時間を壊すもので。
「それじゃごめん、三人共先帰ってて」
今日は、活動日ではない。だけど、そうでなくても自主練を入れて、それを部活と称することはできる。そして私は、みんなの誘いをも断って、それをしてしまった。
「混ざれるわけないよ……あんな、こんな、一人何も出来てない私なんかが……みんなとなんて……」
あの後。私の誕生日に、鬼無水が倒れた。私の大切な人が倒れたのは、これで三度目だった。
勿論、鬼無水のお見舞いを優先した。だけど、それ以外の時は私の背後に忍び寄る様々な不安から逃げるようにして、部活へ都度顔を出すようになって。それは、現実味のない事実からの逃避だった。
こうして私は、独りになりたくがないために、一人私だけの防空壕に駆けずり込むようになった。行けば誰かに持て囃される、私にとっての聖域。
テニスは裏切らないから、そういう意味では気が楽だ。決まったように練習をこなして、試合の経験をこなして、上手くなるためのコツを覚えて、体力も技量も身に付ければ、試合で打ち負けることは少なくなる。
せめて、テニスだけでも真剣でいよう。目を逸らさずに、まずは後輩の成長を見るように。
――あれ、野々宮主将、急にどうしたんですか、今日は二年生以下の練習ですよ?
だけど、『テニスだけでも』という思考になっている時点で、本来私が向き合うべきものから逃げているということの証左となる。
「ちょっと混ざってもいいかな。ごめんね、みんなの練習を邪魔するつもりはないんだけど。監督してるからさ」
人の気持ちは、本当にわからない。それでいて、自分の思うがままにならない人の気持ち、具体的にはみんなの気持ちが、常に私に向いていればいいというありもしない願望に期待を寄せている。
――流石主将ですね! ありがとうございます!
そんなことを考えてしまうのは、全部自分が三人に追いついていないと思うからで。それでいて追いつくためにはどうすればいいのかもわからなくて。
結局、私はテニスをどう捉えてるのだろう。暁にも鬼無水にも大誠にも絶対に勝てるものだけど、単純にその三人に勝つだけでいいものではないはずだ。でもまずは勝たなければいけない。
勝つ。何に? 試合に。誰に? 相手に。
「折角だから私が試合形式で動きを見ようか。誰からやる?」
そうだ、結局は、試合で相手に勝つことが目的なんだ。だったら、手っ取り早く済ませてしまおう。
まずは勢いをつけたサーブで相手の勢いを削ぐ。相手にとって勢いが強すぎるサーブは、そもそも打ち返しに行く気力を湧かせない。まずはそれをかます。
相手がサーブの時は、疲れない程度に打ち返しに行って、その上で相手のいる位置を瞬時に判断して、相手が打ち返せないような位置へとボールを打ち込む。
でも先にラリーだ。まずは私にとっては簡単なラリーを、でも相手にとっては左右に動かさせるように打ち返し続けて、様子を窺いつつ相手の体力を削る。
「サーブで打ってくる位置は殆ど決まってるね……向こうはいつもならサーブ直後は立て直すのに時間がかかる……ならネット直下に打ち返せるように……」
あぁ、もう深く考えたくもない。ラリーを続けるのは程々にして、早めに切り上げられるようにしよう。もうラリーなんて続けさせずに、有無を言わせず終わらせる。
そしてそれを、ワンゲームずつ、ざっと五人程繰り返す。特定の一人だけを相手にするわけではないから、ラリーを悠長に続けてる暇はないということで納得してもらえるはずだ。
流石に指導は、自分から言いだした手前、やらなきゃいけないのだけれど。それでもいつも同じ練習をする後輩だ、動きの手癖が激変しているわけでもないから、前々からそうだと思っていたことをただ告げればいい。彼女はサーブの着地点が見え透いている。彼女はサーブの後の立て直しに時間がかかって打ち返せる率が低い。彼女はネットすぐに打ち込まれると打ち返すことそのものを諦めてしまう。
そしてそのようにして全員の指導が終われば、そこそこに時間が経っていた。時間的にもそろそろ切り上げるべき頃合いだろう。
「私……何をしていたの……?」
ナイスショット、圧倒的でした、指導も的確でしたと、部活の面々は口々に私を褒めてくれる。キラキラとした目で、今日言われたことを今後に生かそうとしてくれている。
そんなことはない。可愛い後輩たちのその言葉を疑う気はないのだけれど、でも私自身が認めるその不出来さに、『ふり』だとしても首肯することが出来なかった。
――では主将、今日は予定外ながらも指導してくださってありがとうございました!
そして、練習も終われば、頭を空っぽに出来る時間は終わりを告げる。私にとっての、色々と気付いてしまった事実と、強制的に向き合わされる時間がやってくる。
だけど、今日は先に、先程までの私道の内容を思い返す。思い返さなければいけない。
「今日のプレー、ひどかったな……」
あんな、よくもいけしゃあしゃあと、あんなプレーで指導と称せたものだ。ラフプレーで押し通すにも無理がありすぎる。
テニスは、元々はある程度をラリーを続ける競技なはずだ。だけど、私が指導中に考えていたことは、兎角相手を叩き潰すことだけ。圧倒的な力量差で、相手に手も足も出させないと考える事だけ。
そんなの、本来狭義の趣旨からも反している。テニスが紳士淑女のスポーツと呼ばれる所以からも、そんなプレーを志してなんていけない。そしてさっきまでの私は、ずっとそんな資格がない状態で後輩らの相手をしていたんだ。
「本当に迷惑じゃなかったかな、私……」
一体、今日の私は何をしに来たのだったろう。暁と鬼無水と大誠に言い訳をして、その出汁に女子テニス部を使っただけだ。
そして、独りきりになって初めて、私は孤独を覚える。既に他のみんなは全員帰宅をしていて、私一人残りたいという我儘を通して部室に佇んでいる。
「主将失格だよね……わかってるよ……私が一番……」
元から私が主将という器に適任かと問われたとして、特に暁の支え無しではやってこれていなかったから、正直そうは思えなかったのだけれど。でも、今日のプレーは、我ながらやってていいかどうかという問題ではないかと感じていた。あのプレー内容は、それこそ私にテニスを教えてくれた全ての人に唾を吐き捨てるような、そんな内容だったと思う。
ふと、最初にテニスを教えてくれたおば様方のことを思い出した。母さんが亡くなったという話は耳にはしていたみたいだけど、それでもその事には触れずにいてくれて。そしてお別れの時は、とても穏やかに、私の事を送り出してくれたんだったっけ。
――ありがとうございました。
――いいのよ、私たちは若い子にテニスの楽しさを教えてあげられただけで充分よ。
――それに、私たちも張り合い出ちゃったもんねぇ。あなたがいなければもっと早く歳だからと言ってやめてたわ。
――寧ろ私たちがあなたに感謝したいぐらいよ。ずっとテニスを楽しんでね。
皆さんお年を召していたから、あの後暫くして、腰を痛めたり、そもそも病気になったりして、実質的にあの会は解散してしまったと聞く。その内の幾人かは、もうこの世にはいらっしゃらないだろう。
結局、直接には暁をあの人たちには紹介が出来なかった。男子禁制という名目だったから気が引けたというのはあったのだけれど、ランドセルを譲ってくれたとか、それ以外にも相談に乗ってもらっていたのだから、せめて一回だけでもご挨拶させてあげられればよかったのに。
もう戻らない日々。私が、暁と出会う前の、純粋に三人の関係とテニスとを楽しめていた日々。今となっては、テニスを道具としてでしか楽しめていないような気もしていて、その考えが浮かぶ度、そんなことはないと必死に自分を否定している。
いつも、みんなからテニスの腕を褒めてもらえること自体は嬉しい。だけど、部活の面々ではなくて、もっと褒めてもらいたい人がいる。
それは暁だ。だけど、それと同じぐらい、あのおば様方にも褒めてもらいたかった。昔と同じように、今のプレーを見てもらって、その上で上手くなったねって。
だけど、その頃の記憶には、必ず、母さんがいて。
「っ――っ……」
あぁ、何も返せてないよ。暁にも、おば様方にも、何も出来てないよ。母さんに何も返せないままだったのに、それに学んですらいないよ。
そんな後悔も、全部終わってから気付くんだ。母さんは喧嘩別れしたままで、おば様方は満足に感謝を口に出来たとは到底思えず。そうなってほしくはないけど、鬼無水にも鬼無水のためになることが出来てないと思うし、暁は――。
「暁は……暁だけは終わってない……?」
――でも、暁は。私がやるべきことを全て私から押し付けられて、それを不満の一つも言わずに難なくこなして。そして手段が決まっていないだけで、将来どうあってほしいかというビジョンが決まっている。
私はどうだ。のうのうとやるべきことから逃げて、何をすべきかという本質も見えず、結果ただ一人現状を享受するだけ。そこに将来性はなく、ただ無為に日々を過ごす姿があった。
「やっぱり……暁の傍にいる資格、ないよ……」
暁を拾った時に自ら掲げた理念が、質量を持って私を押し潰そうとしている。暁には独り立ちしてほしいと。そのこと自体はもしかすると叶うかもしれない。だけどそれは、私も同様に一人で生きていけるということが前提としてあって、なのに肝心の私が何も達せられていないままだ。
それとも、初めから暁にずっと傍にいて欲しいと言えば、こうはならなかったのだろうか。苦しかった日々は忘れて、ただ享楽的に過ごしてくれればいいよと。
だけど、きっとそれでは私がそれに引っ張られただけだろう。その時は、鬼無水の頑張りも恐らく無駄にするだけで、暁と二人、落ちるところまで堕ちていたのかもしれない。
結局、私がどこかで気付くしかなかったんだ。そしてその機会は、ともすれば終ぞ失われてしまっていたのかもしれない。
「暁……」
大誠も鬼無水も、暁と対等になれているのに。
「どうしてこうなっちゃったんだろう……」
私一人だけが、みんなと対等じゃない。
「私が……私が逃げ続けていたから……」
このままじゃ嫌だった。駄々をこねているだけかもしれないけれど、それじゃ駄目だという危機感はあって、だけど具体的な行動は何一つ思い浮かばず、結局何も出来ないまま焦燥感だけが募っていく。
誰に引き上げてもらえばいいのだろう。こんな私に、今更手を差し伸べてくれる人なんて。羽化不全を起こした蛹が、ちゃんと羽化できるよう尻拭いをしてくださいだなんて。
どうせ大誠は塾だ。鬼無水は、連絡をすれば来てはくれるだろうけど、こんなことで連絡するわけにもいかない。暁は言わずもがな。
私が掬い上げた手は、いつしか大きくなって、なのに私の手は小さいままで、今度は私が掬い上げてもらえるのをただ待つだけになっている。まるで子供のように、ただただそれだけを待ち続けている。
結局、私が自分でどうにかするしかないんだ。だけど、もう私一人ではそんな並び立てるための勇気なんてない。
そして今、私は終わることのない後悔に苛まされている。私が看喪ったのは、未来への道筋。今を享楽的に生きることによる、未来の可能性の消失。それを無意識に、時には自覚してやっていて、そんな奴につける薬なんてない。
「助けて……助けてよぉ……暁……」
それは救難信号だったのだろうか。それとも、ただの懇願だったのだろうか。独り、虚空に呟いたところで、助けなんて来ない。
だから、私から向かおう。せめて私に出来ることは、自分から見つけてもらうことだけなのだから。
「お帰りー。練習、大変だったね」
家に帰ると、既に暁が台所に立っていた。丁度米を研ぎ終わったぐらいらしく、炊飯ジャーに水を適量入れている最中だった。
「まぁ、それは私が忘れてただけだから……」
ひとまず、場当たり的に出まかせの続きを口にする。暁は果たして、それの追及をしなかった。
「ぱっと見疲れてるな。ご飯はまだちょっとかかるし……お風呂先にするか?」
「――いい。ご飯まで待ってる。一時間もかからないでしょ?」
「まぁそうだな。だったら座って待つか、先に宿題でもしててくれ」
「宿題は暁と一緒にやった方が捗るから後で。でも何する気でもないかな……」
「じゃぁ座ってて。疲れたならぼんやりしてていいから」
そう暁が口にすると、再び暁は私に背を向けた。水道がジャーと一気に水を放出する音が聞こえて、それはすぐにきゅっと閉められる。
あんな対応を私にされても、それでも暁は私の事を気遣ってくれる。当たり前だ。私が勝手に暁を遠ざけようとしているだけなのは、自分が一番理解をしている。
それとも、これを当たり前と思う事すら烏滸がましいのだろうか。ただ暁の善意に付け込んで、のうのうとそれを享受するだけの略奪者なのだと。
「――なぁ」
気付けば、暁が私の目の前にいた。手ぶらで、何をするわけでもなく、ただ座っている私を見下ろしていた。
「料理はいいの」
「米だけ水に漬けたところだからな。おかずはまだこれからだから、逆に今は手が離せるというか、どうとでも出来る」
だったら、確かに何もしていなくてもいいのだろう。暁的に影響があるとするならば、ご飯の時間が幾分遅くなる程度の話だ。私にとっては死活問題にもなりうるのだけれど。
私は、随分と間の悪いタイミングで帰宅してしまったらしい。暁と話す準備を、今の私は何もしていなかった。いつもこのくらいは暁の手が離せない状態のことが多いから、今日がイレギュラーなだけで、それに運悪くはまってしまったらしい。
「――京楓、本当に何もなかったのか? 俺たちと別れる前の京楓、どうにも思い詰めてるように見えたぞ」
その言に、無言を貫く。それをすぐに答えられる返事を持ち合わせていなかったし、何より今は一人にしてほしかった。それでいて私は暁に察してもらえることを望んでいる。
「無言は肯定とみなすぞ」
「――なんでもない」
「なんでもなくないな」
そうよ。だから察してほしい。察した上で、暁に強い言葉をぶつける前に一人にしてほしい。
「なぁ、何に思い悩んでるんだよ。そんなんじゃ――」
「暁には関係ないっ!」
――あぁ。そんなことを言いたいわけじゃないのに。暁を突き放すつもりはないのに。ただ一人にしてほしくて、だけど独りきりにしてほしくないだけなのに。
ふっと、後ろから抱き締められる心地がした。そのまま耳元で、大きすぎず、だけど小さくもないくらいの声で、暁が私をあやすかのように語り掛けてくる。制汗剤をしたとはいえ、暁にとって今の私は臭いだろうと思いつつも、それを理由に振り払う元気も持ち合わせてはいなかった。
「俺はさ。確かに野々宮の人間じゃないかもしれない。だけど、ずっとこの家で暮らしてきて、だから同居人の機微ぐらいはすぐにわかるつもりでいる。同居どころか、部屋まで一緒の家族の機嫌なんて、わかってやらない方がおかしいってもんだ」
「そんなの……っ」
「そうだな、このままなら後で京楓は自己嫌悪することになるんだろうな。本心ではないこと言ったって。そんなこと言うつもりじゃなかったのにって」
「だからっ」
「なんでわかるかって? 京楓は自分の本心を後から気付く傾向にあるからだよ。自分の本心をその場では理解してない。だから、今京楓が自分の気持ちがわからなくても仕方ないよ、だってそれはいつものことだからね。その代わり、俺がちゃんと理解してやらなきゃいけないんだ」
「そんなのっ……そんなのってっ……」
「まぁタネを明かすとさ、喧嘩とかした時も、部屋が一緒じゃ結局同じ場所にいることになるだろ? すると溜め息ばかりが聞こえてくるんだ。そして時折ぼやきも聞こえてくるんだよな。俺が寝てるような時にも、暁になんと言って謝ろうとか、そういう声がな。というより、そういうのを重ねて、あぁ、今の状況はこの後こうなるんだろうなっていうのを見極められるようになったってとこだ。フェアじゃないかもしれない。でも、京楓のそういうとこはちゃんと知りたいと思った。だから、そこで学ばせてもらったよ。そして今の京楓は、明らかに本心を口にしていない。俺が本心を理解してもらいたいと思われる程好かれてるとは思ってないけどさ」
「好かれてないなんてことはない!」
「――やっと、本心に気付いてくれた」
「なっ――」
「……まぁ、こういうのを自分で言うのも恥ずかしいけどさ。でも、今の咄嗟の返しは、嫌われてはいないと理解するには十分だったよ。少しブラフをかけた、悪い」
じたばたと身悶えようとして、暁の抱き締めてる腕の感触を覚えて、すぐに諦める。だから私は、ただ真っ赤になっているだろう顔に手を持ってくることしか出来ない。
駄目だ。本当に暁には一から十まで性格を知られている気がする。そして、暁には私にはそれくらいには好かれているという自信があることまで。
正直、素直に恥ずかしい。嫌らしいとは全く思わないのだけれど、それはそれとして、それなのに私は暁のことを理解出来てない自覚があって、それが故に余計劣等感が身に染みる。
「京楓はなんだかんだで強情なのはよーく知ってるからな。だから、後ろから手を繋ぎとめようとするだけじゃ、きっとそれを振り払ってしまう。生憎俺より力も強いしな」
「褒められてない……」
「でも実際、手を振り払おうとしてしまうだろ? まぁ京楓が口では否定しても実際はそうはならないという確信があるけどな」
「じゃぁなんて言えばいいの……」
「何も言わなくていいよ。俺は、ただ京楓をそのままにさせないために、無理やりにでも引き止める。だから手が振り払われるなら、こうやって後ろから抱き着いて、そうやって止めようとするさ」
そしてその目論見は、確かに絶大な効果を発揮している。こんなの、私が振り払えるわけもない。
ずるい、と思った。こうも、全てをわかったように思われていて、そして実際強ち間違いではないこの状況が、とても悔しくて、そしてどこか嬉しい。
「京楓はさ、俺の幼馴染で、親友で、そして家族なんだから……だから、そんな気に病まないでほしい。多分、京楓に一番近いのは俺で、そんな俺がそう思うんだから、そうであってほしいなって」
「――幼馴染でも、親友でも、ましてや家族でもなかったら、気にもしなかったの?」
あぁ、私、意地汚い質問してる。どう答えたって、私の気分を害するのはわかっているのに、そうさせるように私から仕向けるなんて。
そして、暁は。
「――無意味だな」
そう、私ににべもなく返す。
「そりゃぁ、仮に全く出会わず、京楓に拾われることもなかったなら、京楓の存在すら知らないんだから気にしようがないさ。だけど、こうして身近な存在なんだ。気にしないと言う方が無理があるだろ。鹿乃のように、何かしら恨みがあったとしても、無関心というのは相当厳しいはずだ」
まずは自明の理の事。それくらいは私もわかっている。
「まぁ、これが例えばただのクラスメート的な存在なだけだったならば……助けたいとは思ったと思う。ただ、あくまで俺が抱えられる範囲でだ。どうしても、その段階で俺がまず助けたい、助けられるってなった人から助けていくのが道理だろう。親しい人を放っておいて、全く縁もない、または縁が薄い人を助けたとして、結果的に親しい人を助けられないのだとするならば、それはとても無意味なことだからな。自分の世界は自分だけのもので、そして悲しいかな、全ての人が自分の世界に入りきるわけでもない。他に何も憂いがあるような状況でなければ助けられるだろうし、俺が自他何れかの問題を抱えていたら助けられないさ」
それは、そうだ。だけどそれはクラスメートという基準の中での話であって、だったら『普通の友達』というような枠であって。そして私ですら同じように返すだろう返事が、勝手に抱いた期待を下回るもので、少しの失望感を覚える。
「やっぱり――」
「でも、最後に一つだけ付け加えるとしたら……そもそも今更、そんな可能性なんて、考えたくもないよ。だって俺の世界は、京楓に拾われてからは何をするにも京楓が最初に来るんだから。俺の世界の先頭は、京楓なんだから。京楓が何か問題を抱えていたら、俺に何か問題があったとしても、全てを投げ捨てて駆けつけるさ」
それは、暁が、暁自身より私の事を優先してくれるという宣言だった。私にとっては最初の決意が失敗に終わったことを示す、暁の口から改めて聞かされる答え合わせだった。
もしかすると、それは今自分自身がした質問を忘れるくらいには衝撃的だったのかもしれない。そして八年に渡る私の人生の意義が丸々意味のないものだったという事実は、私の心をあらゆる意味で揺さぶるには十分だった。
だからこそ、自分が意地悪いとわかっていても、自分の気持ちに見て見ぬふりをしようとして、私は悪態をついてしまう。
「そんなの、信じられるわけない……」
「気を悪くしたか? だったら申し訳ない。だけど、俺としては、何をするにも、まずは京楓にお伺いを立ててたつもりなんだけどな」
ふと、思い返してみる。でも確かに、何をするにも、鬼無水や大誠や、みんなの個人的な事情が最優先される場合を除いて、確かに真っ先に尋ねられていたのは私だ。私が是とするか否かを決めるという。そしてそれは、責任を私に投げるんじゃなくて、私の意見を真っ先に確認して、そしてそれを暁に取りまとめてもらうというようなもので、決して私を蔑ろにしていたわけじゃないんだ。
最初に『お伺い』があったのは私の誕生会だったか。あれは翌年以降も同じようにやってほしいかということを尋ねられていたんだ。四人で旅行に行く時も、確かにまず私が行きたい場所を聞かれてた気がする。
とはいえ、希望を聞かれていたのは私だけじゃない。暁は私と同じくらい――その内の半分は私の事に関してだったけど――意見を言ってたし、鬼無水や大誠だってそれこそ我が強かったから、曲げられないことは幾ら私や暁の希望が別途あってもそれを受け入れられることはなかった。
私は一人特別扱いされていたのだろうか。暁より鬼無水より大誠より、私一人が様々な意味で唯一無二というような扱いだった覚えはない。寧ろ誰かしらが我儘を言って、それに我儘で返して、誰かが妥協案を探って。我儘を言うのは私と暁が多かったけれど、それでも時にはみんなで我儘しか出ないこともあって、その時はみんなでみんなが満足できるような線を探して――。
違う。みんながみんな、『みんなが特別』だったんだ。だから鬼無水の体調はみんなで気にしてたし、暁のことはみんなで楽しくしてあげようとしていたし、少し他より一緒になる時間が少なかった大誠にも、ちゃんとみんなでいる時間を取ろうとしていたんだ。そしてみんなの我儘を叶えられるように、みんなで我儘を言っていたんだ。
そう考えると、私はそれこそこれ以上ない我儘を言っていたのかもしれない。ただただもっともっとと私一人の特別をこれ以上求めて、大事なことまでを見落とし続けている。
そして、私がこれ以上ない我儘を言っているということは。そしたら、私の――。
「――俺は、いなくならないよ。どこにも」
あぁ、それは気休めなのかもしれないけれど。私が本当に欲しいものだった。それを暁は、さも当然のように私に提示してくれる。そしてそのことに、どうしてだかひどく安堵してしまう。
だけど、それが真の意味で証明できないことも、私たちはまた知っている。だって実例をこの身をもって知ってしまっているから。いつもは奥底で眠っているのに、ふとした瞬間に顔を出して、そしてそのことにばかり気持ちを奪われる、思い出すには辛すぎる過去。
「わからないよ……そんなの……」
「そうだな、わからないな。俺たちがどんなにその気がなくても、永遠を誓っていたとしても、意図せず引き離されてしまうことはあるかもしれない」
わかっている。暁もわかっていて口にしている。だけど、ならどうしてそんな言い方を。
「じゃぁ、こう言えばいいか? 『引き離されても、俺は京楓を探し求める』って」
「あっ……」
それは、私と一緒にいようとしてくれるという宣言で、そして何があっても私の傍に居続けようとしてくれる宣言でもあった。
でも、それはまるで――。
「――偽善者だな、俺も」
「そんなことないよ。嬉しかったよ」
「いや……ちょっとな、こっちの話だ。京楓は気にしなくていい」
「何それ」
この時の暁が何を考えているのかはよくわからなかったけれど。でも、親友としても、幼馴染としても、家族としても大事に思ってくれていることがわかるから、それでいい。
それとも、それらとも違う何かなのだろうか。それらを意識した上で、暁は言葉を発してくれているのだろうか。だとすると、嬉しいとは思うのだけれど、少しだけ困る。
――困るって何にだろう。暁にとって私が特別な人だとするならば、それはいいことじゃないか。
そうか、暁が私だけを特別だと思うなら、それこそ今度こそ四人が四人でなくなってしまうかもしれないんだ。それは嫌だ。そしたら、どうすればいいだろう。
だったら、私も暁を特別だと思えばいい。そして鬼無水も大誠も特別だと思えばいい。ずっと私自身はそのつもりでいたけれど、これまで以上にもっと、四人が四人でいられるようにすれば、きっと私も常に四人の内の一人でいられるだろう。
でも、そういうことじゃないんじゃないだろうか。確かに私は暁に鬼無水や大誠以上の対等を求めた。でもそれは、暁が私と同じくらいの歩幅になれるくらいになってほしかったからで、そしてそれはいつしか同じ歩幅でいてほしいという私自身の願望になっていて――。
この時、一つの想いが浮かんだ。それは気付かない内にずっと傍にあったもので、それは他の人に対して抱くことはない感情だった。
どうして暁とは、鬼無水や大誠以上の対等を求めたのか。どうして、暁ばかりを特別視していたのか。どうして、暁には笑っていてほしいとずっと願っていたのか。
――あぁ。私、ずっと、暁のことが好きだったんだ。そんなことにもずっと気付けなかった。
だけど、それは家族に向けるものなのか、それとも元々『家族じゃない他人』に向けるものなのかの判別は、まだ付かない。それは私がきっと暁よりまだ子供なところがあると自覚しているからで、そして背伸びばかりを繰り返す私は、きっと暁に何も返せる気持ちがないし、生半可な状況で返してはいけない。
「俺は、京楓を一番大切だと思っているから」
でも、暁もそれを理解しているのだろうか。理解していないとするならば――正直、嬉しい。だって、それは私と同じことで悩んでいるということになるのだから。
ずっと、暁の手を引っ張っていかなくちゃと思っていた。暁は家族だと言い聞かせながら、私たちのことは気にせず育ってほしいと願って。でもそれは、口ではそう言いながら、暁を真の家族とは認めないということでもあったんだ。
なんてむごいことを言い続けていたのだろう。真に独り立ち出来るように願っていたのなら、家族だなんて言わなければよかったのに。家族でいて欲しければ、ずっと一緒にいてと言えればよかったのに。
つまり、結局は私が素直になれていなかっただけで。そしてそれは、私のためにも、暁のためにも、私が真っ先に気付くべき類のものだったんだ。
私は暁に手を引っ張ってもらいたいのだろうか。それとも引っ張りたかったのだろうか。後者は挑戦して、そして失敗した。かといって、前者であってほしいわけでもない気がする。だったら、きっと望むものは、自ずと一つに絞られてくるんだ。
何れにしても、私の今の気持ちは――。
「私も……暁が一番大切な人だよ……」
ずっと、家族でいてほしい。ずっと、私の傍で笑っていてほしい。――ずっと、私から離れないでいて欲しい。
「俺からは、京楓から離れるつもりはないから」
明確に暁を異性として好きだとはっきり意識したのは双六から帰ってきた時かもしれないけれど。でも、原初の、元々の家族以外の、他人に抱く親愛の情みたいなものも恋心と呼べるとするのならば。
「――うん」
――この時が、私の初恋だったのだろう。
あのね。暁が私を探してくれるって言った時、告白でもしてくれるのかって思ったんだ。女の子はそういうのに憧れるし、私にも、という期待は、やっぱりあったから。
だけど、仮にこの時告白されていたとしても、きっと気持ちには答えられなかったと思う。だって、そんな気持ち自体が、この時まだ誰にも浮かんだことがなかったんだもん。
でも、きっと、この時点で暁しか見えてなかったんだろうね。だって、そうじゃなきゃ、この時点でこんなにも暁の言葉が沁みることもなかったから。こんなにも暁が、暁だけが大切だってなっていなかったから。
だから、もう、わかるよね? 暁が血を吐いて毒に沈んでいるのを見た時の、私の気持ち。わざわざ、どれ程の気持ちを抱えたのか、言わなくてもいいよね?
それまではずっと、四人でいられればそれでいいと、それだけを願っていたつもりだったのだけれど。でも、暁にこう声をかけてもらって、暁が沈んでいるのを見つけて、そして双六で全てを思い出して――。
ずっと私は、暁だけは、暁だけを失うことを、何よりも恐れていたんだって。気付かぬ内に、私が一番『変わる』ことを求めていたんだって。
あとは言わなくてもいいよね? 本当に何も、言わなくていいよね?
そして、双六から還ってきて。真の意味で暁と唯一無二の関係になって。それと琥珀ちゃんとも一緒に暮らすようになって。
鬼無水の恋心は知っていたから、それでも私の恋心を鬼無水に相談してしまったことだけは申し訳なかったと思う。だけど、暁の心が私に向いていると、あの時はどうしてか確信出来ていたから、そんな無謀なことも出来てしまったんだ。勿論その後鬼無水には謝った。謝った上で、感謝をして、鬼無水に赦してもらった。
その上で、まずやるべきことは大学に受かることだった。嵐山のデートに行ったことを鬼無水と大誠とに咎められて、志望校の問題をやってみて、これはまずいかもしれないともなって。だから、そこからの一・二ヶ月はそれこそ暁を拾ってすぐの三ヶ月間の再来だったように思う。つまりは必死の勉強だ。
受験直前にはなっちゃったけれど、鬼無水の助力も得て、暁と二人、必死に追い込みをかけた。クレアさんも同じ大学志望だったから、途中から三人で頑張るという姿勢になってたっけ。
そして無事合格して。合格してからの暁と二人きりの時は登校日とかでもよく甘えるようになった。私は女子テニス部主将としての引継ぎがあったから、暁より登校の機会も多くて。だけど、暁はいつもそれが当然であるかのようにいつも一緒に登校してくれて。そして暁はその間、大概占い研究会の部室で待っていてくれたんだ。
それでも、教室で致すことになったのはやりすぎだったとは思うけど。あの時は、確か暁が誰だったかに用があって、そのまま私を待っていてくれたんだっけ。後から思い返せば、学院生の内じゃないと出来ないのだから、それが出来ただけでみんなより少し特別だったと思うことにした。実際その後占い研究会の部室で私から誘って致すことも結構多かったし、初体験とこの時とで対面座位が一番好きってなったし。
卒業式前後の話は――特筆することもないと思う。私たちの関係の話でいうならば、女子テニス部の話は暁にはあまり関係がないから。まぁ、そりゃ、暁との関係は今度こそどうなのよと詰問されて、もう付き合ってると口を割らざるを得なくて、それでやんややんやとからかわれたというのはあったけど、でもその程度だ。
クラスのみんなとも――多分人によっては今生の、千差万別な別れ方をした。だけど少なくとも双六面子は密に連絡を取って、その上で入学までの間も積極的に会うようにしていれば、結局は大学入学後の状況とも却ってあまり変わらない。だってあそこで出来た縁は、一生モノどころか、下手すれば成仏してからも続くようなものだ。卒業程度で無碍に出来るものではない。
そして、大学入学を数日後に控えたある日――というより暁を拾ったその当日から九周年の日の事。三日後の入学に備えて、諸々準備をしていた昼下がり。
「ねぇ、京楓、ちょっといいかな」
暁が階下から、私のことを呼んでいる。
「今って、急ぎのこと何かしてる?」
「いや、別にこれと言ってはないけど」
「よかった、ちょっとある程度時間もらってもいいかな」
「わかったー。別に今日は時間的な縛りはないから、大学の準備とかする余裕を残してくれればー」
暁のことだから、きっとちょっと買い物に行くのに付き合ってとか、もしくは買い物に行くからこそ留守番をお願いだとか、そういう話だと思って。
だけど、階下に降りて、私が考えていた状況とは明らかに違うことに気付いた。
「あれ、暁も、琥珀ちゃんも――父さんまで……?」
そこには、全員がいた。暁も、琥珀ちゃんも、父さんも。ただ、最後に私が来るのを待っていた。
「こうやって四人で揃うのは、中々なかったよね。でも折角揃ったならさ、今の内にね」
目をぱちくりさせる私に、暁がどこか優しい口調で語りかけてくる。
「少し、話そうよ。家族みんなで、今までのことと、これからの在り方をさ」
「あんなに、すっきり出来るもんなんだね……」
三時間ばかしの家族会議を終えた私たちは、自室に舞い戻っていた。琥珀ちゃんも父さんも、各々が自室に向かったから、今この家で二人以上でいるのは私と暁だけだ。
長く話し込んでいた。主に暁の事。主に母さんがいなくなってからのうちの事。主に琥珀ちゃんを引き取ったが故の事。主にこれからのこの家のこと。
基本的には事務的な話ばかりだったけれど、これからの生活に関することは優先的に話し合われた。特にこの家に住む者として本当だったら真っ先に報告をしなければいけないこととかで、そして口にする前は緊張するのに、話し終わればあっという間なもので。
琥珀ちゃんが改めて宜しくお願いしますと言って。改めて父さんに私と暁の交際報告をして。それが終われば、そこからは父さんによる思い出話だ。それは私にまつわることが大半で、幾つかは私でさえ知らないことだった。
「私、産まれるのが予定日よりだいぶ早かったことも知らなかったな……」
十月二十二日に急に産気づいて、そして母さんは私を産んだ。その早さは、本来なら未熟児になってもおかしくないぐらいだったみたいで、だけど健やかと言い切っていいぐらいには私はすくすくと育ってくれたんだそうだ。
それは日付と相まって、まるで京都という町に祝福されたかのようで。もしくは、誰かが十月二十二日その日に私が産まれるように設えてくれたかのように。
西院周辺では関係は少ないかもしれないけれど、十月二十二日といえば、京都では時代祭がある日だ。北に行けば、京都三大奇祭の一つ鞍馬の火祭りもある。そもそもが、桓武天皇が長岡京から平安京に移った日その日、つまり京都の町の誕生日だから、そんな日に産まれた京楓は本当にラッキーだ――とは前に暁が話してくれたことだけど。それで、桓武天皇の第五皇女の布勢内親王が西院の野宮に移って、それが野々宮の由来――で合ってたっけ。
そんな私を、暁は徐に突然、ぎゅっと抱き締めた。
「――好きだよ」
それは、何度も聞かせてくれる、私にとってのいつも一番欲しい言葉。
「突然どうしたの」
だけど、暁は無言のままで、そしてその腕を離そうとはしない。だから、ゆっくりと私も同じように腕を暁の背中に回し込む。
雰囲気的に、シたいわけでもなさそうだ。私も今のタイミングでという感じでもなかったし、それならそれでいい。どうしてか暁とはシたいと思うタイミングが被ることも多いし。
不意に、背中に回っていた腕がゆっくりと解かれた。それを合図に、私も腕を解いて、そして二人向き合うようにして座る。
「京楓成分の補充、かな」
「何それ」
「ずっと話し合ってたから、その分のね」
悪い気はしないな、と思った。寧ろ、暁が私を求めてくれていることがわかって嬉しい。
そして沈黙が訪れる。さっきまで話していたことは、私たちの今後をも変えるようなことだった。私自身はいいけど、どちらかといえば暁のことだ。それを思い返せば、熟考するのにはまだ時間が足らなさすぎる。
ふと、さっきは尋ねられなかったことを、二人きりになった今だからこそ尋ねてみようと思った。その話題になって、ずっと私がどう思っているか聞きたかったこと。
「暁は……あれだけの遺産があるって、知ってたの……?」
「直前まで知らなかったけど……正直、どうでもいい、かな……」
東雲家の生き残りが暁だけで。そしてその資産は、全て暁に所有権が移ることになった。だけど、暁はその権利を行使する術がなく、そもそもそのことを知らずにいたから、後見人の人がそのまま一式を管理という名の放置をすることとなった。まだ小学生の低学年だった子にそれを理解しろというのは難しいし、仕方がない。
そして、私たちが双六をしていた前後に、暁の後見人は亡くなったという。だから、暁の後見人が一時的に父さんに移ることになって、暁が持つ遺産がそっくりそのまま父さんによって管理されることとなった。そして暁が高校を卒業するにあたって、父さんは後見人から退き、既に満年齢になっていた暁一人にその権利なりなんなり一式が改めて移ることとなった。
その額、二千万円以上。それは、暁が孤児になって以降は、全く手を付けられていなかったものだという。
きっと、暁の父さんと母さんが、暁と霞ちゃんを育てるための軍資金としていたものだったのだろう。それだけの額が預金として手を付けていなければ、他生活費を考えなければ、確かに最低でも二人分の高校卒業までの進学費までは余裕で工面できる。
そして暁は、それを基本的には手を付けないと明言した。大金が手に入ってそれに目がくらむ人はいくらでもいるけれど。一度は失った家族が遺してくれた大切なお金だからと。お金がいっぱいあることで幸せになれるわけではないからと。そう言って、いつか必要になった時のためにと、これまで通り存置すると決めた。
「まぁ……お小遣いとかはなしにして、俺の交遊費はそこからありがたく切り崩させてもらうよ。入学金は持ってもらっちゃったけれど……在学中の学費もそこから払う。バイトとかもした方がいいだろうけど、どうせならやりたいことに没頭したいのは本音。それを生かして、卒業後に専門知識を生かせる仕事がしたいとは思うよね。まずは高給取りな仕事という前提はあるけど……」
そして、変わらないのは、それまでのスタンスも。あくまで遺産の存在が牡丹餅だと思うが故で、牡丹餅程度で曲げられるような考えはしていないと。
「お金は大事だ。その思いは変わってない。そして、大金が突然自分の手に入ったからと言って、ここまで無償で育ててもらった手前、そこから何か返せるようにはしないと」
だけど、私にとっては、その志は立派で、それにも救われてきていたとはいえ、その実、やっぱり私も常々思っていたことが、変わらず暁に対しての疑問として口をつく。
「――暁はさ、もうちょっと素直になってくれていいと思うんだよ」
「素直っていうと? 別に捻くれてるつもりはないけど」
「捻くれてはいないけどさ。でも、私や父さんに対して、お金のことを第一に考えてたでしょ。肩代わりしてるわけでもない私が言うのもなんだけどさ、暁のその気持ちだけでいいんだよ。加えて、料理始め、この家の家事を誰よりも率先してやってくれていた。まぁ、今では琥珀ちゃんもやってくれちゃってるし、私もやらなきゃではあるんだけどさ。でも、そんなことを考えるまでもなく、暁は自分からやってくれていたから」
「好きだからやってたとこはあるけどな……」
「でも最初は必要に迫られてというか、私たちのことを考えてくれた上でだったんでしょ? それが基でテニス部も辞めちゃうくらいに」
そう返すと、途端に暁が口を噤む。
「何か、言いづらいこと?」
「言いづらいっていうか、なんというか……好意を無碍にしちゃってたのはわかってたから……」
「いいよ。今ならわかるもん」
当時は散々文句を言った覚えがある。でも今から思い返してみれば、確かに暁がテニス部で費やすことになっただろう時間は、殆どが料理や他の家事をする時間に費やされることとなって、暁が決心した時点で、最初から部をやりながらというような選択肢はなかったのだと、今だからこそわかる。
「最初から、私がやろうとするべきだったんだと思う。暁が思い立つよりもその前に、私が見様見真似でも始めてみるべきだった。結局は暁に任せちゃったけど、あそこで匙を投げることなくやるべきだったって、今なら思うよ。そしたら暁も、もうちょっと自由な時間が出来たのかなって思うから」
転機は幾らでもあった。双六に依らずとも、暁と同じように並び立つ機会なんて、幾つも目の前に転がり込んで来ていたというのに。それを毎回無視していたのは私だ。
「だから――今度こそ、料理、ちゃんと教えてよ。少なくとも、暁が手が離せないということは今後絶対に出てくる。そんな時でも、これまではずっと暁に頼り切りになっていた。本当だったら、言い訳して暁に頼り切りのままでも、極論困るのが暁だけだったら寄り掛かったままでもいちゃうかなという気はしてるけど――」
それは、あくまで二人きりでずっと暮らすという事が前提だ。二人きりなら、迷惑を掛けちゃうのは暁だけでいい。最愛の人に、これくらいのことはいいよねと、その関係を免罪符にただ寄り掛かるだけであるならば、当座は許される。
「でも、これからは琥珀ちゃんもいる。暁が頑張って、琥珀ちゃんも頑張って、私一人だけ何もしないなんて、それは嫌だ。暁とこの関係になって、改めて今のままじゃいけないって思った。暁がなんと言おうと、ずっと甘え続けてしまった自覚があるからこそ、私がやらなくちゃいけないんだ」
だって、そうしないと、暁の傍に居続ける資格なんて絶対にない。暁が許してくれても、ともすれば暁がそれで倒れてしまうとしても。鬼無水やクレアさん、琥珀ちゃんを蹴散らしてしまった私がきっと許されない。
「私もやる。暁に任せきりになってた家事を、私も一緒にやる。ともすれば暁から全部奪うぐらいにでも。何より、暁にずっと任せてた料理を今度こそ覚えて、席に座ってただけの暁においしい手料理を食べさせたい。だってそれは、ずっと私だけが享受してきたことだったから」
暁の独り立ちを願っていて、それにかまけて自分が独り立ちをしてこようとしなかった。まずは大学は一緒のところには行けることにはなったけど、だからといって四年後もずっとそうとは限らない。暁や私が就職だとかで遠くに飛ばされることだってあるかもわからない。そんな時、ちゃんと一人で自立できるようになっておかないと駄目なんだ。
「まずは洗濯かな。これはほんとすぐにでも暁から奪い取るよ。やっぱりこれこそ私がまずはやらなければいけないもん」
「――やけに洗濯には拘るな」
「だって、私のだけじゃなくて、琥珀ちゃんの……」
「あ……」
そこで暁がしまったという顔をする。まぁ、私がもっと早く気付くべきだったし、琥珀ちゃんは琥珀ちゃんで無頓着だったから、今まで問題になってなかっただけだけど。
だから、最近干すことだけでも私がやるようにしていたのだ。大概私と琥珀ちゃんのを先に分けて、それを琥珀ちゃんが洗うということが多かったけど。暁も気付いてなかったわけではなかったろうに。
「だけど琥珀ちゃんにもやらせないかな。だって全部私が洗うなら暁のもあるし、でもそれ見ていいのは私だけだし」
「男の下着なんてそんな特別なもんじゃねぇだろ……。でも悪い、もっと早く言えばよかったな」
「まぁ、結局は交代交代になっちゃう気もするけどね。その辺りは今度琥珀ちゃんとも話そうか」
私と暁は大学に行って。琥珀ちゃんはあかりで働いて。そうなれば、全員が全員上手く家事を出来る時間帯にいれるとも限らないだろう。ともすれば、その日一日の家事を全て誰か一人任せになることもあるかもしれない。暁がやるならこれまで通りの手際でどうにかなるかもしれないけれど、私がその枠になった時は、きっと何かしら上手く行かないだろう。
そうならないために、やり方を今度こそマスターする。また暁に手間を掛けさせちゃうけど、でも、それをしないことによる手間を考えれば、きっと容易いものだと信じて。
そう意気込んでいると、暁が何かおかしなものを見たようにふふっとほほ笑んでいる。
「――京楓もさ。そこまで考えなくても大丈夫だよ。考えるというか、思い詰めるというか」
「そうじゃない、そうじゃないの! 私がそれじゃぁ気が済まないの! それくらいしなきゃ、私が暁に何も返せない!」
「うーん、いやまぁ、そうなんだけどさ……」
何をどう伝えようかと、暁が何かを言いあぐねている。それは適当な言葉が出てこないんじゃなくて、そもそも私の考えが何らかの形で違うということを指摘したいかのような、そんな雰囲気だった。
そして数分ぐらい経って、やっと暁の口が開く。
「京楓はさ、どんな時でも俺と対等でいてくれた。本当だったら、京楓は何事も俺に対してお姉さんぶるとか、『救ってやった』って思わせることだって可能だったろ」
そんなつもりなんて毛頭なかった。それでも、やろうと思えば、確かに可能だったのかもしれない。
「そしてそれは京楓が拒んだ。拒んだというか、考えもしてなかったのかな。まぁそれ自体はどっちでもいいや。とにかく、京楓が望んだのは、俺と対等であれということだった。散々どっちが兄だ姉だと言ってたとしても、双六で使えた縁は罪業天秤だった。そしてそれは双六内外の言動を鑑みても、俺との関係がそうであってほしかったから――違うか?」
「それは……」
暁は、完全に理解していた。幾ら私が言葉で取り繕っていても、その奥の本心をこうも当てられてしまえば、私から言えることは何もない。
勿論フェアではなかったのだけれど。双六の時の宿縁を持ち出されてしまえば、反論しようがないけれど、だけど逃げ道も塞がれてるわけで、納得出来るわけでもない。
「――俺さ、もう、本当に一人では生きられなくなっちゃったんだ」
その言に、思わずどういうことと尋ねようとする。だけど、それをするより先に、暁の口が再び開いた。
「共依存……が正しいのかはわからないけどさ。少なくとも俺は、京楓がいなければ無理な身体にされちまった」
私もだよ。私も暁がいなければ駄目になっちゃうの。ずっと暁が私なしでも生きていけるようにと願っていたのに。結果的に私が暁なしで生きれなくなっちゃった。
「本当に俺は、みんなみたいに一人では生きられないさ。正直俺は、みさきも、大誠も、クレアも、琥珀も、誰かに一人で生きろと言われたとして、なんだかんだそれが出来ると思っている。黎は元から一人で生きてきたにも等しいし。鹿乃は……あいつは大誠がいないと駄目だろうけどさ。大誠さえいれば、どうとでもなりそうだけど、でもそれは一人で生きている事にはならない。あいつに一人で生きろと強制するのはまだ酷だし、するつもりもないけどな」
縁ちゃんこそ、確かに誰かに支えられて生きるべきなのだろう。他のみんなは、確かにみんなとの縁さえ途切れなければ、何らかの形で生きていけるとも確かに思う。そして、暁が今上げた中に、私が入っていない。
「――鹿乃と一緒なんだ、俺は。いつからか、俺の行動理由の大半が京楓のためになっていた。勿論みんなのためとか、そういうのはあるけれど、それでも何かをする時に真っ先に優先させたいと思うのはずっと京楓だった。じゃぁどうしてかって、その、なんだ、俺は、何事も京楓と対等でいていいって示してくれた、京楓のその行動にずっと救われてたんだよ。だからこそ、そんな京楓に対して何かしらを返してやりたいって、ずっと思ってた。お金は必要だけど、でも絶対ではない。一番早い話なら返す方法がお金が早いってなってただけ。だから俺個人の話をするだけなら、お金なんてどうでもいいんだ、本当は。京楓と一緒に生きていけるなら、それだけでいいはずだったんだ」
その言葉は、私の本心にも似ていた。私と暁の単語をひっくり返せば、本当に私が考えていることと一緒だった。
「本当なら、京楓と今の関係になれた時点でもっと早く言うべきだったんだと思う。俺が真にしたい、ずっとしたかったことは、京楓に何かを返すことだったんだって」
「そう言わないでよ!」
それ以上は我慢がならなかった。暁は、私の口だけの言葉に救われていたと言った。だったら、私は。虚実ない交ぜになっていた本心を持っていた私は、ずっと暁に嘘をつき続けていたことになる。
「寧ろ、私の口と気持ちが相反していて、だから暁をそうさせてしまったんじゃないかって、そう思って……」
でも、これ以上の言葉を、暁はきっと望んでいない。私だって暁からの謝罪を聞きたいわけじゃないし、となるときっと暁だってそうだ。
だったら、もう開き直ってしまえ。私に出来なかったことを暁にも強制するな。その上で二人にとっての未来を示せ。
「だから、やめよ? 独り立ち出来ないと認めちゃって、だからこそどうするのが一番いいのか、これからもずっと一緒に考えよ?」
「――そうだよな。羽化不全を起こしたのはお互い様だ。だからお互いに責められるべきじゃない。それに、だったらずっと離れずにいればいいだけだもんな」
私は暁を独り立ちさせられることが出来なかった。暁は私に依存してしまった。ならば、これはきっと両成敗なのだろう。そしてそれは、とても幸せな両成敗だった。
「でも、これだけは言わせてくれ」
そして、改めて暁は私の事を抱き寄せる。
「ありがとう。あの時から俺の生きる意味は京楓で、そしてそんな京楓とずっと対等でいられたことが、俺にとっての一番の幸せです」
――すっと、これまで悩んでいたこと全てが、何一つなかったかのように溶けて消えていった。
私は、ずっとその言葉が欲しかったのかもしれない。暁の生きる意味が私であるというのは、それはそれとして嬉しいけど。それより、暁と対等であると、ずっと対等であったと、暁自身が認めてくれるのは、何よりも私にとって望んでいた事だった。
ずっと私は思い悩んでいたように思う。鬼無水にも大誠にも、暁にまで置いていかれているという恐怖が付きまとっていて、だからどこかで独り立ちしなくちゃとずっと思っていて、それが全然出来ていなくて。
だけどそれは、私が勝手に抱いていた過剰な自意識だったのかもしれない。双六でそれを思い知って、暁のことがこんなにも好きだったと気付いて、暁と同じ気持ちだったとわかって。そして暁は暁で、ずっと私と同じ思いをしていたと知った。
だから、結局は別々の道を歩いているつもりで、その実同じ道どころかずっと手すらも繋いで歩いていたのだろう。そして導かれるようにして、私たちは同じ場所へと辿り着いたんだ。
「それも……これのお陰なのかな」
嵯峨野の方の、野宮神社、その縁結びのお守り。私と暁が、付き合って一週間後の初デートでお参りして買った、どんなものよりも霊験あらたかに思えるもの。それを、手を伸ばして、慈しむようにして撫でる。
私のがピンクで、暁のが青。並んで、ずっと寄り添うようにして、そのお守りはぶら下がっていた。
「まぁ……でも多分それは関係ないと思うよ」
「あれ、暁がそんなこと言うんだ」
「だって、俺と京楓の足跡だろ? これを買ったのは数ヶ月前だ。だからというわけじゃないけど、俺と京楓がこうなるっていうのが決まっていたというのなら、それはお守り一つ、二つに背負わせるには重すぎる話だ。せめて、あそこの黒木鳥居にというぐらいじゃないと割に合わない。別に、京楓と出会わせてくれたのが奇跡というつもりはないけれど、でも運命だったとは思うよ、実際。まぁ、だから、縁結びにも依らない――なんだろうな」
「なんだろうって、それでいいの?」
「いやだからさ、それこそ、何かの導きはあったかもしれないけれど、予定調和でも、いつか出会うことが運命づけられて、それで今こうしてられるとするなら、それはとてもラッキーなことだなって」
あぁ、それなら確かにその通りだ。私も、きっと最初から暁しか見えてなくて、正直そういう意味では他の男子はどうでもよくて、暁と出会わなければ、一生独り身だったのだろうという確信がある。だからというわけではないけれど、私だって、私にとっての幸運の象徴は暁その人だ。
ずっと、暁に何をしてあげれるか、そればかりを考えていた。でも結局は私が暁に助けられてばかりで、暁がなんと言おうと何も出来てこなかった自覚がある。だけど、他方で、何かをしなくてはいけないという思いにばかり駆られて、いの一番にやるべきことが、ずっと成し遂げられてなかったんじゃないかっていう気がしていた。暁と対等になるという、私も暁も真に願っていたことを。
「明日、デートでも行こうか」
「いいけど、どんなのを考えてるの?」
「四月一日なら、野々宮巡りとでも称してさ。そこの野々宮祭りを見て、その後嵯峨野の方の野宮神社にでもお参りかなって。俺と京楓、うまくやってますよって報告でもさ。土曜だから混むかもしれないけど」
「いいね、それ。やろっか」
結局は、ただの錯覚だったんだ。私も暁も、お互いにありもしない義務感に駆られて、そして必要以上に慮っているつもりで、結局は相手の事を考えられていなかった。寧ろ、お互いの気持ちに素直になる方が、もっと早くお互いに大人になれたのかもしれない。
「桜には……ちょっと早いか。今年はだいぶ遅いな」
「いいじゃん、だったら翌週にまた行けばいいだけだよ」
「じゃぁ、ゆっくりどこか桜も見に行くか。二人で」
「……うん」
でも、そんなことを言っても今更だ。事実、私も暁も、そのままでいたいという願いを持っていた。だからそうなることはやっぱりなかったのかもしれないし、それに遅ればせながらたった今どこかで望んだ関係になれている。結局は結果オーライなのかもしれない。
だから、そんなずっと無駄なことを考えていた自分自身を隠すように、ぎゅっと、強く暁を抱き締める。
「どうした、京楓?」
「馬鹿だよ、やっぱり」
「馬鹿って、そこまで言う程か?」
「――こっちの話」
ずっと埋められていなかったその溝はただの錯視でしかなくて。元からあると思っていた私たちを隔てる幽玄の谷は存在しなかった。
暁なしの生活なんて、もうずっと考えられなかったけれど。『名実共に』付き合い始めて、やっと私は二律背反の状態から解放された。
その気がなくても、私たちは多分ずっと世の中のカップル宜しく付き合っていたのだろう。そしてそれを意識するきっかけが双六だったというだけだ。
そして、改めて暁とこれからどうしたいかということを話し合って。そりゃぁこの時は、母さんが亡くなった時のこととかまでは話さなかったけれど、それでも私がずっと暁のことをどう思っていたかということを話して。そして暁は私の全てを肯定してくれて、その上でどちらが上も下もない、目線はずっと同じだったよと教えてもらって。
周りから見ればそうじゃないかもしれないけど、何かあっても、口では不満を示したとしても、例え本気で喧嘩しても。最後にはちゃんと元の鞘に収まるように、私の隣へと帰ってきてくれる。
そう、私は、そうやって暁と、やっと全てに於いて対等になれたんだ。そして、対等な関係でいいとずっと認めてくれていた暁を好きになることは、私にとって必然だったんだ。
「――知ってた? 暁って、有言であれ無言であれ、してくれる行動がどれも私のためになってくれていたんだよ」
長い話だった。それは、改めて俺と京楓が共に歩んできた道を再確認するもので、思い返せば、そのどれもに意味があった――と思いたい。
「でもそれは……京楓ならきっとそれを望むだろうなって思って、それがどれも嵌っただけだったから……」
「そうかもしれないね。だけどね、そういうことを考えられる方が貴重なの。私は、対等でありたいと思っていながら、暁に対して何も返せてないってずっと思っていた。だから、時には、暁が私のために何かをしてくれているという事実が辛いと感じることもあったんだ。それなのに、私は現状を維持することを選んで、そして暁のために何をするわけでもない日々を過ごした。その繰り返しだったんだよ。本当は、今でも思うことはある。暁が夢に苦しむ前から、これでいいのかって。だけどそれは、暁の言葉で意識的にそう考えないようにした。今私が何も出来てないのは、暁の夢に関することでだけでだよ。それですら、一番の悩みに寄り添えなくて心苦しく思うけど……」
そう言って申し訳なさそうにしてくれたところで、俺から返せることはない。それ自体は、俺自身が京楓にどれだけ寄り添えてるかの問題で、だから俺は俺で京楓にそう思わせてしまうのが心苦しかった。
「夏にさ、暁が倒れた後に怒った理由、わかったでしょ?」
「まぁ……あれはそうだな……うん」
それだけ京楓が俺の事を想ってくれているとするのならば。俺という存在が宝物であるとするならば。それは俺の考えとは別問題だ。
とにかく、思い返した意味はとてもあったように思う。今の京楓が考えていることは大体お見通しだけど、昔何を考えていたかというようなことは、わからないことも多かった。
そもそも、付き合うようになって、今更ながらに知ったことも多い。京楓が俺が考えていた以上に寂しがり屋だっただとか、思ってた以上に嫉妬深かっただとか、だから思ったより京楓は俺のことばかりを見ていてくれているだとか。
それでも、時折、俺は京楓の愛に応えられてるのかどうか、不安になることもやっぱりある。
「京楓は俺の事を買い被りすぎだ。それは昔のこともだし、今だって……」
京楓は俺を信用してくれていて、だからこそこんな俺でいいのかという疑念が浮かぶこともある。俺と出会わなかった京楓は、どんな成長をしただろうか。そんなもしもを考えたところで仕方ないのだけれど、ふと不安になった時に、どうしてもそれが気になってしまう。
「それより、私がもっと暁を理解してあげれればよかった。結局、私一人の我儘であぁなっちゃった気がしてる。
「無茶言うな。あの頃の京楓にそれを求めるのは酷だ。それに、変化を望まなかったのは俺も一緒だ。そしてあの頃はそれが一番居心地が良くて、そしてそれは京楓もだった。だったら、今こうしていられるのが最良の結果だったと思うしかないじゃないか」
「でも、私だって、もっと暁のオカルトの話を邪険にせずにいればよかったと思うよ。テニスは私が好きで、どちらかといえばそれに付き合わせてしまっていた格好だったし、だったらもうちょっと暁の関心事の話ぐらい聞いてあげるべきだったかなって」
「いや、それはいいよ。テニスは俺もやりたかったこと。オカルトは京楓が興味がなかったこと。確かにみさきにはよく話を聞いてもらっていたけど、どうでもいいと思った時のみさきの反応はそれこそ冷淡だったよ。俺も、相手の関心を図らず喋り過ぎちゃうことも多かったから、最初から突っぱねてくれるだけ寧ろありがたかったかもしれない。そもそもこの家には物を溢れ返らせちゃってたしな」
「いいよ、寧ろ少ない方だよ。こういうのは場合によっては無尽蔵に増えるけど、暁は旅先でのそれとかぐらいしか追加でということもなかったし、あとは季節の行事に関わるものだったから飾るのもルーチーンだったしね」
それでも、ルーチーンということは、常に引き出しの何個かは常にそういったグッズで占領をしてしまっていたということだ。今でこそ、大学入学前後で憑き物が落ちたかのように半分以上は処分をした。今残っているものは、インテリア的にも飾っていて違和感のない物か、もしくは俺と京楓で各々が気に入ったものぐらいだ。あとは捨てる――のも忍びないし、学院のオカルト研究会に寄贈したり、単純に好きそうな人にあげたりして、今では全盛期の半分以下だ。
だから、今の部屋の中はそういう意味では誰か旧知の仲以外の人を急に部屋に呼んでも恥ずかしくないような室内にはなったと思う。そして、そう考えれば考える程、俺の趣味は考えていた以上に京楓に迷惑を掛けていたんじゃないかと、そう思ってしまう。
最初は、霞がやってたなと思い出したところからだった。そしたら、急な義務感に襲われて、気付けば西院野々宮神社のお守りを買っていた。手相のあれこれを覚えていた辺りで、急に何を『させられていたのか』という感覚に陥ったけれど、どうせなら霞が好きだったことをやってみるのが罪滅ぼしになるならとなって。そして気付けば極めるぐらいには嵌ってしまっていた。
あの頃は、俺も不安定だった自覚がある。どうにかして京楓を守ってやらなければと思って、だけどあの時の俺にやれることは少なかった。結局は京楓と一緒に馬鹿をやることが一番効果があって、だけどこの時それしか出来なかったことを、未だに後悔している節がある。中学の時にやっと覚えた料理だって、あの時の京楓の沈んだ顔を浮かび上がらせるには遅かったとなるぐらいだ。
――そして、今でもこれでよかったのかと、迷っている自覚がある。
「俺は情けない奴だよ。未だに独りで生きれない。京楓にみんなに、迷惑を掛けながらずっと生きている。あの双六で必要だとわかったのはみんなとの縁だけど、みんなはその縁を基として独り立ちしてるのに、俺だけが未だに縁に寄り掛かったままだ」
一息で喋ってから、大きなため息が一つ漏れる。存外大きな息になってしまったと思った。
けれど、同じような音でもう一度ため息が漏れた。それは、俺がしたものではなくて、つまりは京楓がしたそれで。
「私はそうは思わないかな。暁が思うことは、私だって思うことだから。暁がそう感じるのは仕方ないのかもしれないけど、でもそれが暁の専売特許だと思ってるのだとするならば、それは違うと明確に言える」
「専売特許とは思ってないけど、でも……それこそ大学入学前に話した通りだよな、悪い」
羽化不全を起こした俺たちは、考えることも似たようなことになる。きっと、これは今後もずっと続くのだろう。
「暁は、いつも誰かと一緒にいたよね。少なくとも、私なんかよりはずっと誰かと一緒にいた。家では私がいて、学院時代の放課後、鬼無水といる時間は誰よりも長かったように見えるし、大学に入ってからは講義の関係もあるだろうけどクレアさんが常に近くにいた。私から見れば、暁は人に恵まれてたと思うんだ」
「そうかもしれないけれど、でも……」
京楓が人に恵まれてなかったのか、という突っ込みを飲み込む。それでも、確かに京楓と出会ってからの俺は、独りぼっちであるということが少なかった。一人きりだったのは、買い物に出ている時とか、家で料理をしている時とか、そういう家事に関することをしていた時ぐらいだ。
みんなはどうだっただろう。でも、よくよく考えていれば、誰にも黙って密会をしていたとか、そういうことがない限り、確かに俺は様々な人の時間を奪い続けていたのかもしれない。
みさきは俺と一緒にいる時間が一番長かった。大誠は、会った時間とその後の行動的に俺かみさきかのどっちかだろう。そして俺は、京楓と一緒にいる時間が一番長かったんだ。京楓も、俺との時間が一番長かった。クレアは俺が京楓と付き合うまではみさきで、大学に入ってからは俺だろう。琥珀は案外誰ともトントンだろうか。
「付き合うまでに関してはさっき語った通りかな。大学入ってからは他の女の子とも……でも、見た感じ、大学以降で知り合った人にはそういうことなかったように見えるけどな」
「まぁ、そうだな。何かあっても二人きりになるのはみさきやクレア、琥珀とぐらいだった。クレアが率としては断トツだったけど」
「みんなだったら、双六の時の記憶もあるだろうから、ね? 三人共私にとっても大事だし、ちゃんと最後は私の元へと帰ってきてくれているから。帰ってきさえすれば、ちょっとの文句はあっても、それ以外には何も言わないよ。帰って来さえすれば――」
それは、いつか帰って来させられないようにされた、あの時のことを強く思ってだろうか。心配かけたし、
――そういえば、あの時の記憶のなさは、それこそいつか占いに嵌り始めた時のような……?
「それはそれとして、暁の簡単な占いやってますって評判、何もしてないのに私にまで回ってきた時はほんとびっくりだったよ。見に行ったら暁何人ぐらいに囲まれたっけあの時……?」
「二十人とかだったかな……。いやほんと、大学では京楓以外の女子にあんなに囲まれるとは思ってなかった。嫉妬してたのは知ってるし、ヤキモチさせてしまったと思う」
「まぁ、あれは暁の本位じゃなかったのはわかってるから。言う程でもないけどね。でもちょっとじれったかったのもほんと」
大学で、占いが好きな女子があんなに多いとは思わなかったというのは本当に誤算だった。手相ぐらいは確かに見れるけど、みんなして見に来るから、一時期女子ばかりが俺の周りにいたことも確かにある。そして専攻が同じだったクレアとはつかず離れずの距離で、クレアが恋人だと周囲から間違われるぐらいにはずっといた。一人で行動して、そして一人で何かを成し遂げたというのは稀だ。
「まぁ、私だってずっとテニスで他の男子と接する機会も多かったし、それを考えればお相子というか、暁が知らない人だったから、期せずして二人きりになっちゃってた時とか、暁の方を嫉妬させちゃってなかったかなって」
「あ、割とテニサーの男子との面識率高かったぞ、それこそ手相見に来た女子の彼氏ですーだとか、男子の方が男子だけでテニスやろうぜーとかあったから」
「えっそうだったの!?」
「知ってたから俺からは何も言わなかったんだよ。何か言う権利もなかったしな」
「そうだったんだ……」
京楓が当初俺の事をこの家を気にせずとも羽ばたいてもらえるようにと考えていたのと同じように。俺が原因で京楓を抑圧することはあってはならないとずっと思っていた。だから大学生活中のお互いへの干渉は必要最小限にしていた。どの道、どちらからともなく、お互いを求めてすり寄ってしまうのだから、それ以外の時間は自由でいよう、自由でいさせようと。
でも結局、お互いがお互いのことばかりを考えている時間が一番多かったように思う。そしてそれは、とても幸せな時間だった。
それを周りも尊重してくれた。大学で出会った面子は、必然的に俺と京楓を二人きりにしてくれた。俺の学部面子は俺とクレアが付き合ってると本気で信じるのが多かったから、説得をするのに苦労したけれど。双六面子は言わずもがなだ。
ただそれだけのこと。それ以上のことは何もない。だから俺が言うべきは、みんなに対して、俺のために時間を割いてくれてありがとうということぐらいだ。
なのに、どうしてだろう、どうしてもっと京楓に寄り添ってやれなかったのかという後悔が来てしまうのは。結果的に、京楓の寂しさをずっと埋めてあげられていなかった。
「暁と過ごす大学生活は、本当に楽しかったよ。私と暁と、よくクレアさんもいたよね。それ以外の人もいたりいなかったりして、だけど結局は二人きりの時間が一番充実していたんだ」
「それは俺もだ。他の大学生なら毎日別れてまた翌日を楽しみにするのかもしれないけれど、俺たちは寝ても覚めても一緒で、それが本当に嬉しかった。だからこそ――」
でも、だからこそ。
「俺は今度こそ、独りじゃ生きられなくなっちゃった。大学に入る前にそんなことを言った覚えがあるけどさ。あの時ですら何もわかってなかったって、今なら言える。ちょっとでも京楓と引き離されたくない、引き離されたら鬼とは関係なしに生きていられるとは思えないよ」
「そっか。正直、嬉しい、かな」
――一言が時には呪いになって、時には救いになる。
「やっぱり私は、暁の人生を歪めちゃったね」
「そんなこと……っ」
「大丈夫だよ。歪んだというと語弊があるかもしれないけれど、でも私も暁によって歪んでるから。暁と出会ってなかった私がどうなったかはわからない。でも、暁が私と出会って、少なくとも暁の顔色はよくなったと思うんだ。自画自賛かもしれないけれど、私はそう信じてる」
「……そりゃぁ、京楓と出会えたことこそがラッキーだったからな」
それは自画自賛でもなんでもない、当然の話だった。いつしか京楓にはバレていて、以来常に伝えていることだ。
「でも、それでも。やっぱり暁は人より重い物を抱え続けちゃってると、私は思う。いらない気苦労をしてしまうのもだからじゃないかなってさ。私は、暁が私に気を使ってほしくて拾ったわけじゃないんだから」
「それは……」
そうでもしないと俺はいてはいけないのだと、確かに最初は思っていた。それは義務感のようなもので、京楓を満足させて初めて、俺はこの家にいていいという免罪符が出来るのだと。
「やっぱり暁は、究極的には独りで生きなければいけない、というのが染みついてるんだと思う。でも、もうそれからはとっくに解放されてて、それでも何かを返さないと気が済まなくなっちゃったんだろうね。いいんだよ、そんなことを考える必要も、やろうとする意志も。私が暁に求めてた、無理にうちのことを考えなくていいということとは相反するものだし、そしてそれはいつしか対消滅していたものだから」
それは、俺への無限の信頼だった。
「独りで生きなくたっていい。存分に私に寄っかかってくれていい。いっぱい私以外の人に頼ってもいい。最後に、私の元にさえ帰ってきてくれればいい。私もそうするから。――私が言えた口じゃないけどね。そして私も、ずっと暁に傍にいて欲しい。ちょっとの間もなく、ずっと隣に」
そして鬼と対峙して疲弊しきった俺へのこれ以上ない応援だった。
「大好きだよ、暁。暁も、同じように想っていてくれれば嬉しいな」
正直、嬉しかった。京楓は何も、自分以外との関係を断てと言っているわけではない。それでも、一番に私の事を見て欲しいと願う京楓は、俺が抱く独占欲を満たすには十分だった。
京楓の独占欲が程々に、だけど常に俺に向けられていて、そしてそれを俺も心地よいと感じていたというのは、付き合い始めてからのようで、その実ずっとだ。そのことに、今更ながらに気付かされた。ずっと俺たちは、無意識ながらにお互いが一番大切だった。名実共に付き合い始めてそれが露わになっただけだ。
そんな感じだったから、これ以上大学時代の話までをすることもないだろう。嘘をついていない限り、隠し事も何も本当になかったから、お互いがお互い何をしてきたかということをどれも知っている。そして、大学時代のそれは、本当の意味で俺と京楓が二人で歩んできた日々だった。
だけど、それはそれで、ただ京楓の、俺の辛い記憶を忘れたいがためのものであったことも確かだった。どうして俺が京楓を求めたのか。どうして京楓が俺とあそこまで対等であろうとしたのか。改めて、その理由を理解できた気がする。
家族だからと、甘えている自覚はあった。甘えていいのは当然だ。それでも、『当然であることを当然だ』と考えている自分がいなかったか。京楓が抱えているものに気付けなかったのは、俺の罪だ。
いや、気付けなかったんじゃない、俺も無視していたんだ。京楓が精一杯踏ん張る姿を、それが当然だと思って、俺もそれに合わせてしまったから。本当は、何重にも塗り固めた塞ぎたい素顔があって、その上から仮面をずっと被り続けていたんだ。
結果的に殆ど同じ気持ちではあったのだけれど。それでも、だったら最初からそうだよって、その時点では傷の舐めあいになったとしても言ってあげられなかったのかなって、今だからこそ思う。
「でも、よかった。やっとこれで暁にも話していなかったことがなくなった気がする」
「俺は――大体話した通りかな。今京楓が話した気持ちと、そこまで逸脱もしてなかったしな」
「そっか。やっぱり私たち、ずっと同じことを考えてたんだね」
そして、京楓がゆっくりと、両腕を俺の首に回すようにして抱き着いてくる。勢いが強くないそれを、俺も同じようにして腕を京楓の背中に回した。
「――すっきりした」
「そんなに言う程か?」
「言う程だよ。特段隠してたわけではないけれど、でも積極的に言うことでもなくて、だけど話してないことにどこかうしろめたさを感じているところはあったもん」
「いやまぁでも仕方ないだろ。それに、母さんのことは、そうそう話そうとは思わないだろ……俺だって、話していいかわからなかったしな……」
悲しい記憶になんて、誰しもが好き好んで触れたいとは思わない。それを口にする時は、誰しもが痛みを伴い、そして心から血を流しながら、痛みと向き合うこととなる。
俺が家族を亡くしたという記憶は、極論を言えば俺が痛みを感じれば済む話だった。だけど『母さん』を喪った記憶は、この家に住む者なら誰しもが痛みを覚える話で、だからこそそれは不可侵の話題という扱いになって、そしてその内意識的に遠ざけられた。
「私は、思い込みでみんなを遠ざけようとして、そして暁に縋った。暁がいることを免罪符にして、私自身が成長しないでいようとしていて。それでも、暁は、嫌な顔一つせずに私に付き合ってくれたもんね」
「――家族だから当然だ、じゃ駄目か?」
「駄目、かな。家族でも嫌なことは嫌と言ってくれなきゃ、それが嫌だから」
その一言を境に、不意に静寂が訪れた。話を始めた時点で暗くなり始めていたのに、ずっと部屋の電気も付けずに話していたから、お互いの視界は暗くて、お互いの熱の方が強く感じられる状況だ。
そして、その静寂が合図だったのかもわからない。徐に、京楓が俺を抱き締める腕に力を込めたのがわかった。どこか、その熱も上がっているように感じる。
「……寂しくなかった」
背中に回された手が立って、爪が少し食い込み始める。突然の鈍い痛みに体が熱を持つが、それを振り払おうとは思わなかった。
「寂しくなかったよ。寂しくなかったんだもん……!」
一つだけ。そう一つだけ、京楓が俺にも話してくれなかった静かなる激情。その存在を俺も気付いてはいたけれど、口にしてしまえば京楓が壊れてしまいそうで、これまで触れることは叶わなかった。
俺と出会ってからの京楓は、全てはここに帰結する。帰結してしまう。自身でも気付いていなかった痛みが、今になってようやく発現したんだ。
「忘れることがずっと怖かったはずなのに……っ! 私は、暁がいたからそれを忘れていただけでっ! 本当はずっと寂しかったんだっ! それでいて、父さんの孤独からも目を逸らして! 私がすべきことはいっぱいあったはずなのに! なのに、ずっと私、暁一人に甘え続けていた……っ!」
それはきっと、ずっと押し込めていた京楓の叫びだったのだろう。押し込めていたというより、京楓ですら意識してない程奥底に眠っていた、人に見せるものでもない負の感情。誰とも対等であろうとした京楓だったからこそずっとどこかで気にしていたことで。それが、今になって罪悪感として初めて表に出てきたものだった。
「やっぱり寂しかったよ……! 父さんはいた、暁もいた、だけど母さんがいなかった……! 暁がいることを隠れ蓑にして、寂しいと思うことからも目を背け続けて……それでいて口ではああ言ってもずっと暁に甘え続けて……! 最低だ……私、最低だっ……!」
そんなことないよと言ってあげたかった。だけど、俺にそれを言うことは許されない。言ってしまえば、俺だって同罪だ。
「他のことなんて何も望まないから……! せめて謝らせてほしかった……っ! 許してくれなくていいから……詰られてもいいからぁっ……!」
何より、京楓に吐き出させてあげることが大事だった。全てを吐き出すのに言葉はいらない。寧ろかけてはいけない。かけてしまうことで、昇華されるべきものが不完全になってしまうから。
ならば俺は、それを全て受け止めよう。寂しい気持ちを抱え込まないでという切ない祈りを込めて。最愛の人が、切なさに押し潰されてしまわないように。今だけはとても小さい彼女が、罪の意識に苛まれてしまわないように。
「あああぁぁぁああっ! うわああああああああああぁぁぁぁぁ! 母さん……ごめん……母さん……っ!」
ずっと押し込められていた寂しさと言う名の憧憬が発露されていく。十年以上に渡る寂しさは、とてもじゃないけれど俺以外の誰かが抱えられるようなものではなくて、だから、ただ子供のように泣きじゃくる京楓を、同じ子供が寄り添うようにして抱きしめたんだ。
「……よしよし」
気付けば、俺も涙ぐんでいた。それは、京楓だけじゃなくて、俺も気付かないようにしていたもので、そしてこれは俺にとっては二度目の家族の死だったから。
俺にとっても命の恩人だった。母さんが認めてくれなければ、俺はまた流浪の民となって、今度こそ行き倒れていたかもしれないし、それこそ篠月学園に戻されていたかもわからない。まずは母さんが、俺が生きるための基盤を築いてくれたんだ。本当に、感謝しようにもしきれない。
寂しかった。俺も、とても寂しかった。俺がやっと再び手に入れられたと思っていた温もりが、再び消えてしまった。もしかしたら俺のせいかもと思うこともあったけど、それ以上に、取り乱す京楓の傍にいてやることが一番大事だと思って、俺の感情からは目を背けて。
それでも、俺も我慢出来なかったから、京楓の髪に顔を埋めるようにして、熱い雫を数滴零す。今俺からできる、最大限への彼女への追悼。それを、数滴に凝縮して、その実の娘の髪や肌に染み込ませたんだ。
「――ごめんね。みんな、暁に背負わせちゃってたよ……」
「いや、俺だってわかっていたはずなのに、ずっと我慢させちゃってたんだから――悪い」
「謝らないでよ。辛いことを忘れて、暁と享楽的にでも過ごしてきたのは私の選択なんだから」
そして、それがその時の最適解だったのは間違いない。真正面から受け止めていたら、それこそ潰れてしまっていただろう。そしてそうやって潰れたことがあるのが俺だ。
死にかけていた俺に、手を伸ばしてくれた強い姿が潰れるのだけは見たくなかったから。だから、無理してでも俺は変わらないでいようって。京楓のために出来ることはしてあげようって。俺はそれだけを心に決めていたんだ。
だけど、それが却って京楓が思い詰める原因になっていたのだとするならば。
「本当だったら、私、暁の傍にいちゃいけないよ……」
「いてくれよ。俺は京楓がいい」
「鬼無水、私よりもずっと先から暁の事が好きだったのに、私の事恨んでるよね……」
「恨んでないさ。そうじゃなかったら、あぁも送り出してなんてくれはしない」
「クレアさんも、琥珀ちゃんも……」
「いい、いいんだ。京楓がいいと願ったのは俺なんだから。俺は京楓じゃないと嫌だし、それ以外考えられない。そして京楓にもそう思っていてほしい」
「……うん」
鼻を啜る音が一回だけ響いて。
「私も、暁じゃないとやだ……」
嫌だ、じゃなくてやだ、と言うところに、少しの幼児返りを感じた。えっちの時とか、たまにそうなることはあるけれど、そうでもない時のこれは久々だ。
「――落ち着いたか?」
「なんとか、ね……」
その会話があってからも、暫くは京楓を抱きしめたままでいた。少しばかりいつもより熱を持った京楓の身体が存在感を主張している。それは、寂寥感という単語が具現化したものだった。
俺だって、寂しかったから。その寂しさを埋められるのは、ずっと共に過ごしてきた京楓以外にあり得なくて、そしてその埋め合わせを、セオリー通りに求めたんだ。
「――どうして人って、変わっちゃうんだろうね」
ぽつり、と京楓が呟く。そしてそれは俺もずっと思っていたことだ。
変わらないものはない、と答えるのは簡単だ。それに抗っていられれば、自分だけは変わらずいられるのだろう。『自分が変わらない』だけでいいなら、それでいいのだろう。
だけど、それを即答出来るわけもなかった。それは、みさきがずっと願っていたことで、そして俺は当人の口から改めて聞かされたばかりだ。
「変わらないものに触れられれば、少しは何かを思い出せるのかな……」
変わらないものなんて、と思いかけた。だけど、ちらっと、耳にした話を急に思い出す。その話は、ともすれば俺にも関係しそうな話だった。
「その、変わらないもの、で思い出したんだけど……話は急に変わるんだけどさ」
京楓の背中に回していた腕を下ろして、改めて向かい合う。暗い部屋ではあまり意味がないけれど、それでも夜目は十分に効いているから、京楓が居住まいを正して真顔になるのはわかった。
「最近英彩学院って、最近七不思議があるって噂があってさ。琥珀があかりでお客さんが話しているのを聞いたって言うんだけど」
「そんなの私たちの代にはなかったよね? どんなの」
「何やら、『屋上から飛び降り自殺しようとしても受け止めてくれる太った亡霊がいる』だとか、『理科室では夕暮れ時にきれいな赤い花が咲く』だとか、」
「それどれも私たちの内の誰かが経験してることじゃない!? そりゃ私たちの代にあるわけないよ!」
「まぁそうだな……。正直、噂にするのはいいんだけど、大誠のなんかは誰かが真似しないか心配ではあるよな……」
まぁ、俺たちのだって、そういう形で噂になってるのは正直気分のいいものではないのだけれど。まぁ、真似したくて真似出来るものではないから目を瞑ろう。
問題は、これだ。その続きを、少しだけ言うのをためらう。
「それで、あとは……『職員室には呪われた机があって、それに触れると生気を吸われる』」
「それって……」
「まさかとは思うけど……ね」
まさかであってほしい。それは、ともすれば途端に俺に関係することで、そして俺のことを抜きにして鬼が実害をもたらしている実例が出ていることになる。
だけど、そのまさかが今も尚続いているのだとするならば。ともすれば、自分たちの与り知らぬところで、何か実害が出ているかもわからない。
変わってほしくないものがあるのは確かだ。だけど、変わらないことが何か多大な悪影響をもたらすことがあるというのならば。
「――夜のお散歩でも行こうか、今から」
「まさか……」
「うん、そのまさか、だな」
それは、以前琥珀が俺に提案した時と同じような軽い口調で。それを真似るようにして、ごく自然なように京楓にそれを告げる。
「確かめるだけでいい。真偽を確認して、本当かどうかだけでも調べたい」
「――本当にそれでいいの?」
「やれることは限られているだろ。俺が何かを出来るとは、今の手持ちの情報だけで考えると正直思えない」
「嘘つかないで」
「――どうせやるなら徹底的にだ。引きずり込まれない限りは俺がどうにかしたい」
「そう言うと思ったよ……」
諦められるだろうとは思った。その上で、危険なことはしないでと、京楓が口にするものだと。
だけど、行かせない、とは一向に言われない。だから、その流れでつい京楓に尋ねてしまう。
「止めないのか?」
「私も一緒なんでしょ? 暁は危険かもとわかってて、それでも私がいること前提としているということは、可能な限り一蓮托生でいるという心構えなのかと思ったんだけど。それこそさっきまでの話で、そう思うようになってくれたのかなって」
「ほんと嘘は付けねぇなぁ。そうだよその通りだよ。悪い、俺が京楓の決心を低く見積もってたかもしれん」
「暁を止めようとしても無駄なのはもうわかってるから。それに、解決するなら、ともすれば暁にとってもいい方向に向かうかもしれないんでしょ?」
「それは……」
「どうなるかなんてわからないけれど、だったら前向きに捉えて、私はそっちに賭けたい。ちゃんと私と一緒にって言ってくれてるしね。というか、私も一緒にってことは、何かあったら止めてっていう役割があると解釈しているんだけれど」
「そうだな、それはある。無理はしないと決めてはいるから。だけど一人だったら、きっと無茶をしてしまう。そのためのストッパーだ……と言ってしまうのも、申し訳ないんだけどさ」
「私としては、私がいないと寂しいという理由だったら、それはそれで嬉しいんだけどさ」
「――そうだよ」
俺の言葉を受けた京楓が呆気に取られているのが暗闇でもわかる。夜の学校が怖いとかそういうんじゃないけれど、それでも、鬼に関することで一人で立ち向かうのは、やはり恐怖だ。
あぁ、くそ、それは言うつもりじゃなかったのに。だけど、こうも当てられてしまっては言い逃れが出来ない。
「やっと、暁が私を必要だって言ってくれた」
「……ずっと言ってたつもりだったんだけどな」
「夢のことに関しては、だよ。ずっと、なんの力にもなれなくて、暁が苦しむのを間近で見ていることしか出来なかったから……」
そうか、京楓にとっては、やっと俺が俺の夢の事で頼ってもらえることが出来たと感じているのか。確かに、京楓にこの事で頼れたのはからきしだ。そして京楓がそれを苦しく感じていたというのなら、俺がすべきだったことは外部でもいいからサポートしてもらうことで。
だったら、全力で頼らせてもらおう。同時に、甘えさせてももらおう。こうも直接関わるかもしれない状況は初めてなのだから。
「善は急げ……というには違うかな」
「それでいいよ。俺は、俺のことが改善するのを期待して行くんだから。周りへの影響を止めなきゃいけないというのは、勿論あるんだけど」
とにかく、実害が出ている可能性の考慮は、これまで一切していなかった。場所柄、在学期間よりその後の方が長くなってしまえば、そんな情報は入ってこようがないからこそ仕方ないのだけれど、それでももっと早くその可能性に至れなかったのかという後悔はある。
「英彩学院は……三年以上ぶりだよね」
「卒業してから行ってないなら、まぁそうなるよな。もう、卒業してからの方が長くなっちゃってるんだよな」
そう口にして、初めて時の流れの速さを感じた。これまでの大学生活はそれ程までに短かっただろうか。それとも、幸福に身を置いていて、その大切な時間がただ過ぎ去るのをぼんやりと眺めていただけだったのだろうか。
気付けば、新しいと思っていた環境すらも終わりが近づいていて、そして今ある景色すらも、すぐに憧憬のそれへと移り変わってしまう。
でも、憧憬に移り変わる前に、まずは俺がそれを憧憬と思えることが今後出来るように。そして、いつか誰かがそれを憧憬と思えるように。
「――暁が求めているものがあったらいいね」
そして、制服に着替え終わって、俺たちは夜の町へと繰り出す。向かう先は、きっと俺の夢の終着点であり、また起点のはずの場所だ。
――夢はまだ、途切れずに続いている。