※この作品はR-18です。

過ぎ去りし日々に   作:Planador

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雪夜に浮かびし紅楓

 ――お兄ちゃんってさ、手、綺麗だよね。

 それは、いつか霞が口にしていたこと。手相に関心を示して、自分じゃない手をじっくり見たいと言って、だから人の許可も得ずに勝手にじっくりと俺の手を観察し始めたんだったか。

 最初に霞が俺の手を見るようになったのはいつだったか。霞が占いに興味を持ったのは、というより物心がついた時には占いに興味を持っていたようだったから、それこそ霞が三歳ぐらいの時だったろうか。

 恐らく、おままごとの延長だったのだろう。料理だとか、掃除だとか、そういうおままごとを覚える中で、役というのは必然的に出てくる。父さん役と母さん役とやっていくうちに、どうしてか早い段階で覚えたのは手相だった。

 父親役の俺が帰ってきてやることは、食事をして、お風呂に入って、そして手相を見られる。多分後から思い返せば、なんでそういうことをしていたんだろうと思ってしまうような、そんな些細な記憶。

 同じ手を見たところで、毎日変化するようなものでもないのに、飽きずに霞は俺の手を眺めていて、そして毎回違う占い結果を俺に伝える。

 ――今日は大吉だよお兄ちゃん! 何かしようよ!

 ――今日は……よくないね。お外行くなら気を付けなきゃ。

 ――今日は普通なのかなぁ。だったら、いつものこと、しよ?

 恐らく、実際の見方もわかってなかったのだろう。具体的に何があるからなのか、というようなことを尋ねて、その理由が返ってきた試しはなかったから。だから、あくまで霞につきあうだけで、本気で取り合う必要はなかったはずだ。

 なのに、その程度のことで、一喜一憂する自分がそこにいた。適当だったかもしれないのだけれど、この時の自分は確かに霞を満足させることが出来ていたんだ。

 それは、過ぎ去った幸せな日々だった。だけど、やっと、そうやっと笑って思い返せる。思い出なのだと泣くこともなく、ただ落ち着いて過ぎ去った日々を眺めることが出来た。

 ――ねぇ、今日も見せてよ。お兄ちゃんの今日の運勢を占ってあげる――。

 

 

 

 目覚めた時に感じたのは、一種の清々しさにも似た懐かしさだった。

「覚えてるよ……今も、それはきっと、俺の心の中に……」

 本当に、久しぶりの霞との夢だった。やっと、いつかの憧憬として、見ることが出来るようになった夢だった。

 最初の頃は、あれだけ見るだけで胸が苦しかった。今となっては、常に鬼の悪夢に曝されるから、寧ろどこかゆったりとした気持ちで見ることが出来てしまった。

 ここは教室だ。きっと数年にも及ぶ長い夢を見ていて、やっと地に足が付いたかのようにここに戻ってきたんだ。だから今になって、走馬灯のように、霞との夢を見たんだ。

 そうやって、落ち着いた気持ちになったところで、ふと、辺りを見回した。

「……え?」

 そこには、信じられないものがいくつもあった。いたずらで置くにはあまりにも洒落にならないもので、その意味を知らない程俺は無知でもなかった。

 花瓶が、あっちと、こっちと、向こうにも。それが、教室の中に、何本も。

 いや……待て。その花瓶が置かれている場所って。

「クレア……大誠……みさき……京楓!」

 独り残された教室から脱兎の如く駆け出した。逢魔が時の夕日は残酷までに朱くて、そして灼けるぐらいに俺一人を世界に浮かび上がらせた。

 嫌だ、信じたくない。そんな現実は、あってはいけない。だって俺は、まだみんなに、何も言えていない。

 ――これはこの世の事ならず

 ――死出の山路のすそ野なる

 ――西院の河原のものがたり

 ――聞くにつけても哀れなり

 ずっと、頭の中で、西院河原地蔵和讃の冒頭が繰り返し流れてくる。それは町のどこかでずっと繰り返し唱えられていて、それが俺の耳の中まで延々と届けられている。

 いや、俺の内側からそれが響いているのか。だとするならばこれは、誰が何のために繰り返しているのか。

 どこだ。どこにいるんだ。なんで、誰も、俺の前に姿を現さないんだ。琥珀も、鹿乃も、黎だって、誰一人として俺の前に姿を現してはくれない。

 いない。いない。いない。どこを探しても、いない。

 その現実は、考えられる限りでは最も惨いもので。それが本当にそうなってしまったのだとするならば、それは俺にとって正に価値のない世界そのもので。

「嘘だろ……」

 そしてそれは、俺が生きるに値しない世界そのものだったんだ。

 どこにも、誰もいない。みんなが、誰か一人はいそうな場所を探して、それなのにどこにもいない。誰もいない。

 そして向かった先は病院だった。病院の地下の、『入院している患者が行くことはない』部屋へと、ふらふらと足が勝手に向かった。

 名前があった。それは、教室で花瓶が立てられていた机の持ち主の名前だった。同じクラスでなくとも、残る二人の名前もあった。どの部屋も、俺が知っている相手の部屋だった。

 全員の名前がある。俺以外の名前がある。俺以外の名前があるということは、それは生きているのは俺一人ということで。

 その内の一つの部屋の扉を開ける。真ん中で、一つの遺体が横たわっている。

 顔面に掛けられた布を取る。そこに、おしろいで綺麗に施された、美しいまま永遠に眠る顔が現れる。安らかに、誰に向けてでもなく、ただ冷たく微笑んでいる。

「なぁ……なんで俺を置いていっちまうんだよ……」

 それは、紛れもなく、彼女だった。俺が愛した、一番大切な人だった。

 みんな、逝ってしまった。みんな、俺だけを置いていってしまった。

 みんながいなくなって、これからどうやって生きればいいのか。最愛の人を喪って、何のために生きればいいのか。

「どうして……無理だ……俺は……また……大切な人を守れずに……」

 耐えられるわけない。みんながいないこの世界に、価値なんてない。最愛の人が死んだこの世界に、生きる意味はない。

 それでも、せめて彼女だけはと願って。俺が後を追う前に、早く、なんとかと願って。

「頼む……起きて……目を、覚ましてくれよ……」

 

 

 

 

 

「――京楓ぁっ!」

「くっ、苦しいよ、暁……」

 痛い程に抱き締めていた京楓が、急に胎動を始めて、そして抱き締め返してくれる。その時になって初めて、今まで見ていたものが全て夢だったのだと気付いた。それは現実でも幻日でもなく、ただの夢なのだと。

 今抱き締めているものは血が失われた遺体じゃない。熱い血潮が流れ続けている、最愛の人そのものだ。

「……ひどい顔だね……」

 とにかく、怖かった。単に俺が鬼に引きずり込まれるよりも、ずっと。

「――一番ひどい夢だった」

 俺は、京楓に夢の内容を語り聞かせる。一時の安らかな霞との夢。そこから目覚めた先は悪夢そのものの世界だったこと。

 そして、話を聞き終えた京楓は、ぎゅっと、胸に顔を埋めさせてくれるようにして、抱き締めてくれた。

「――本当に怖かった」

「……辛かったよね」

「考えたくもなかった。あんなことが現実だなんて信じたくなくて」

「泣いてもいいんだよ」

「――うん」

 泣きはしなかった。それでも、恐怖からくる涙が数滴だけ、京楓の肌を濡らす。

「きっと、あれは、鬼が一時期抱いた野望通りの結果になった時のことだと思う。双六で、鬼は俺だけを上がらせて、みんなは死ぬようにしようとしていた。その結果の世界を、否が応でも見させられていたんだ。幼馴染のみんなも、双六で縁を結んだみんなも、勿論京楓も誰も生き残ってない、俺にとっては永沈するより辛い世界。どこかで俺は京楓の後を追おうと考えるんだけど、自分を殺める事すらさせてももらえない。ただ、もう絶対に救われることのない魂となって、鬼の右腕になるだけの日々さ」

 それは、その形として現実になることはもうない。だけど、形を変えて、それに近しい状況になることはあるかもしれなくて。

「ねぇ……暁はさ……」

 少し、京楓が震えているように感じた。それを収めるように、一旦は緩めた腕の力をまた強くする。

「誰かが亡くなった時、遺体に向き合いたいって思う? それとも会わないでいる方が幸せ?」

 その質問に、固まる心地を覚えた。京楓が知っているわけではないけど、俺はそのどっちのパターンも経験している。そしてそれは優劣を付けられるものでもない。

 霞の時は、その身体が火に包まれていったから、その後遺体を拝むことさえ叶わなかったのだけれど、大切な人が死んだと目の前の情報だけで認めざる得ない状況も、本当にきつかった。どっちの方がきついというものでもない。

 だから俺は、答えることをせず、ただ京楓のうなじに顔を埋めるだけにする。それだけで、それとなく京楓もわかってくれたようだ。

「ごめん……無粋だったね。なんであれ辛いものは辛いよね……」

 大切な人は今ここに居る。今の俺にとっては、それだけが必要な事実で、それが救いになっていた。

「大丈夫……大丈夫だよ。私はここにいる」

 ふんわりと、頭が京楓に抱き締められる。致している時の昂ぶりにしがみつきたいような強さじゃなくて、ただ俺を落ち着かせるための、優しい抱擁だった。

 俺も震えていたのだろうか。いや、京楓じゃなくて俺が震えていたんだ。それすらも気付けなかった。

 鬼から双六との縁を奪って以降、夢は、絶え間なく続いている。夢では常に誰かが死ぬようになった。時には俺が、時には京楓が、時には全員が死ぬような、そんな夢。

 だから、夢から覚めた時が、一番ほっとしてしまう。だけど安心なんてすぐには出来なかった。見ていた景色が急転直下して、そして暗い自室に引き戻されても、それが自室なのか永沈した先なのかがすぐには判別つかなくて。あぁ、今いるのが二段ベッドの下段なのかと理解して初めて、まだ生きているという実感を得ることができる。

「――ねぇ」

 少しばかり、京楓の腕の力が強まる。今度こそ、京楓の腕が震えているとわかった。

「私の母さんは、鬼に殺されたんだよね?」

 京楓が、その話をし始めるなんて。俺も京楓も、無意識に避けていて、だけどもしかしてそうじゃないかと思っていたことを、京楓からするなんて。

 先日、双六から縁を吸い取った時に見た光景の中に、それは混じってはいなかった。あくまで鬼と双六に関わることだけで、鬼が誰かを殺したとか、そういうことは、何も。

「確証はないぞ。俺だって知らない。あくまでもしかしたらというだけで、証拠も何も残ってはいない」

「でも暁も、確信はしているんでしょ?」

「――そうだな」

 当時の状況を鑑みるに、死ぬ気のない人を自殺か事故に見せかけて殺すならば、何かしらの準備が必要だ。それは睡眠薬のような物かもしれないし、それが出来るような戒かもしれない。そしてそれが出来得るのは、確かに鬼ぐらいだ。鬼が現実で戒を使って、殺人と見せかけないようにするのは、実際容易いだろう。

 だけど、仮にそうだったとして、未必の故意だったのか計画的だったのか、それすらもわからない。そして縁を吸い取った元の盤双六は、その真偽を教えてはくれなかった。

「あれ、今って何時くらいだ?」

「今は……十時くらいかな」

「えっもうそんな時間かよ。いけね、ぼちぼち出るわ」

「あれ、今日予定があるとかどうか言ってたっけ」

「ちょっと、いつものな」

「あぁ、今日行くって言ってたね、そういえば。ごめん忘れてた」

 いつもの、でわかってくれるのが京楓らしい。さて、今日見た夢のことは話すべきかどうか。

「それじゃぁ、大誠に宜しく言っといて」

「あぁ、わかった。夕飯は俺が作るから、遅くならないようにするよ」

 

 

 

「また二人で、酒でも飲みに行くかい?」

「悪い、したいのは山々なんだが、多分俺がすぐにダウンしちまう」

「それもそうか。まぁ、最近の暁は本当にすぐ病縁を使うぐらいにはなってるからね、仕方ないか……」

 そう言って、大誠の誘いを断るのは、正直申し訳なかった。俺が大誠と普通に喋る機会を持ちたいとは思うのだけれど、大概俺たちの間では酒が入るようなもので、ましてや外でほいほい病縁を使うわけにもいかず、その上で今は俺がご遠慮願いたかったから仕方ない。

 酒がなくてもではあるんだろうけど、正直京楓も鹿乃もいない、女性禁制的な話題にも飛ぶからこそ、酒が入らないととなるようなものではある。黎とはそうならないのに、どうしてだろう。

 あぁ、でも昔いつか、二人で酒を酌み交わしたいと話し合ったことはあったか。だから、大人になってからは、却って食事の場は酒が入ることが多くなっていた。

 だからこそ、逆に酒もなく二人して食べるだけというのは、俺たちが一番やるべきことなのだろう。まだ時間も早いし、この後昼食でそれをするには丁度いいかもしれない。

 今日は、久方ぶりに大誠が見習いで働く精神科医を訪れていた。ここのところは京楓から見た俺の様子を確認するためにも大誠が来ることが多かったから、俺から出向くのはそれこそ夢の見初めの頃くらい以来かもしれない。

 ――そうだ、最後に来たのは俺と鬼とが縁で結ばれた直後ぐらいか。気付けばだいぶ時間が経ってしまっていた。

 大誠相手が今日になったのは、単に日曜でゆっくり話せそうだったからだ。特に予定もないとのことだったから、誰にも邪魔されない環境を求めて、精神科医を指定させてもらった。

「それで、夢の調子は、どうだい?」

「――最悪だね」

「ふむ。最悪というと?」

「あまり口で説明できるようなもんじゃないけれど……常に鬼に飲み込まれる心地を覚える、といえば伝わるかな。それが実態を持って、ね」

「あぁ……そりゃ精神が全く休まらないな……ご愁傷様、でいいのかな」

「まぁいいよ、それで」

 今は、どういう時が一番精神が休まるのだろう。眠っている時でないのは確かだ。きっと京楓と抱き合っている時かそういう時かぐらいで、少なくとも京楓がいなければ休める状況にない。そして京楓と寄り添っている時でさえ、鬼は容赦なく俺一人を引き剝がして夢の中へと叩き落す。

「自律神経を狂わせてしまうと、少しの浮遊感を覚えた後にひたすらどこかへ落下する心地があるんだ。それは脳の誤作動みたいなもので、誰でもなり得るんだけど……暁のはそれにも近そうで、とても遠い、よなぁ……」

「うーん、それはついつい夜更かししすぎた時とかに経験はあるけど、今はそういうんじゃなくて……」

「わかってる。でも悪い、自分で経験をしてないと、どうしても他の人への症例の診断をまずは伝えるしかないからね。暁のそれが他の人にはない特殊事例だということはよく理解しているさ。僕の尺度がどうしても収まりきらないところがあるからね。鬼の存在を知っていたはずなのに忘れているとするなら余計に」

 俺が思いだしたから、ついつい俺以外のみんなは、鬼に関する記憶を忘れたままだということを忘れそうになる。そしてそれは、こうやって症状を説明する時とかに、うまく伝えられなくて、それがどうにももどかしかった。

「こうしてみると、記憶が欠落しているというのは、気持ちの悪いものだね、実に」

「逆に、これに関しては、俺から伝えられることは伝えられるが……別にいいだろ?」

「そうだね、いらない。僕個人なら触れる必要もないし、何より暁がこうも苦しんでて、僕が思い出したところでその一助にもなれないのなら、そっちの方で余計に苦しみそうだからね。暁には申し訳ないけれど」

 それはもう仕方のないことだと諦めている。というより、大誠が駄目なんじゃなくて、こんなことに対処できる人なんてそもそも誰もいない。だから自分でどうにかするしかないし、その上で助けを求められる時は積極的に誰かに助けてもらうしかない。

「まぁ、とにかく、死ななければ勝ちだ。僕からも、可能な限りサポートはするから」

「――そうだな」

 ひとまず、一言だけ返す。死なないように。この身に何もないように。それはまず、俺が願うしかないことだから。

 さて、話題が尽きてしまった。大誠とは、最近になってちょくちょく二人きりになる機会があったからこそ、却って新規で話題を出すことが難しい。

 どうせなら、大誠に対して訊けてなかったことを訊いてみよう。科学者か医者か悩んでいて、その上で精神科医を選ぼうとしているのは、まぁあいつがいたからという推測が立つとして。もっと直球に、別アプローチで言うなら。

「大誠はさ、精神科医としてやってけそう?」

「突然どうしたんだ。暁が気にすることでもないだろう」

「いやまぁ、でも友人が大成出来るかどうかを気にするのはそんな変でもないだろ」

「じゃぁ、気持ちはありがたく受け取っておこうか。その上で話すとするなら……」

 顎に手を当てて大誠が考え込む。単に守秘義務で話せないこともあるのだろう。だから、言葉を選ぶようにして、俺が聞いて差し障りのない程度のシナリオを作り上げたのだろう、その上で大誠が口を開く。

「今のところはそんなに悪くはないんじゃないかとは思ってる。少なくとも、学業的な成績は低くはないし、ずっと昔から考えていた夢に向かっているという実感は持てているよ。でも、精神科医になろうと思ったのは、やっぱり鹿乃の存在が大きくて、そしてそれが大きなモチベーションになってたのは、今となっては否定出来ないさ」

「鹿乃も今でこそだいぶよくなったけど、それでも精神的に不安定なとこはあるが……でも精神科に罹るようなものでもないよな? だからメンタルクリニックとか、そういうとこをイメージすりゃいいのか? 今俺たちがいるここみたいな」

「そうだ。だから、精神科医を目指してるとは言っても、どちらかというと、心療内科医が今の僕の目指すところかな。鹿乃のような、心に傷を負ってもなんとか生きている人を、叔父さんみたいに死なせない。その一助をしたいって思うよ。勿論、今の暁だって、救えるなら救いたい。僕には限界があるみたいだけどね……」

「いや、それだけ聞かせてくれたら十分だ。それに、俺だって、確かに精神の在りようではあるんだけど、物理的なものもあるから、精神的な面で頼れそうな時は、いくらでも頼らせてもらうさ。友達価格でな」

「ははっ、なら高く取るからな?」

「それでいいさ」

「まぁ、暁なら無料でもいいけどね。僕が開業してからの話だけど」

「お? その言葉本気にしていいんだな?」

「やっぱ聞かなかったことにしてくれ」

「どっちだよ!」

 まぁ、実際医学部なのだから、俺みたいなのと違って卒業はまだ先だ。卒業までに早くて後二年、臨床医として二年だったか、ともあれこれまでの大学生活と同じくらいの長さの期間が大誠にはまだ待っている。

 少なくとも、大誠にとってはまだ苦しい日々が続くということぐらい、俺にもわかる。でも、それはそんなに悲観的でないものだとするならば。俺は素直に大誠と、何れ大誠の伴侶になるだろうあいつの将来を応援したい。

 それは、大誠には口に出して伝えるべきことだ。でももう一人には正直伝えたくないというのも本音で。だから言うべきは今しかない。

「ほんと――」

 けど、第三者――それこそさっき考えていたことを絶対に伝えない奴によって、その言葉の続きが紡がれることはなかった。

「大誠くん! 遊びに来たよっ!」

 なんだ、この甘ったるい声は。何か聞き覚えはあるんだけど、誰の声か理解するのを、瞬間脳が拒んだような。

「げっ」

「言われると思ったわ!」

 寧ろこっちがげっと言いたい。幸せになってほしいと思うのは本当だ。それはそれとして、犬猿の仲だった、今でもわだかまりが解けきれてない相手の甘ったるい声なんて誰が聞きたいと思うか。

「絶縁」

「殺す気かよ!」

「あの声を一番聞かせたくない奴に聞かれたんだ、殺すしかないだろ」

 現実で縁を切りたい時は、本来絶交というだろう。敢えて絶縁と言うということは、俺の身体を切り刻みたいということに他ならない。

「君たちはもうちょっと仲良く出来ないのか……」

「こいつがいるからいけないんだ」

「俺は何もしてねぇ!」

「いることが悪い」

「自由に出歩かせろ!」

 牢に居ろ、というのは流石に暴言が過ぎる。流石に人権を侵される程の何かはした覚えがない。

 それこそ、俺に何かが起こりそうになって、外に出ない方がいいか、その前に俺が引き籠ってしまいたいかとならない限りは、好きなように動いてやる。まだ、俺は俺として動けるのだから。

 それはそれとして、予定外に鹿乃が来たというのなら。少なくとも俺は知らなかったし、大誠も予定外だったとしても。

「まぁ、鹿乃が来たなら、お邪魔だろうし帰るよ。蜜月を邪魔する程野暮じゃないしな」

「本当か? 暁がよければ別に三人でもいいし、少なくとも暁にそこに関して気を遣わせたくはないんだが」

「いやまぁ、お邪魔虫だろうなってなるのが正直なとこだし、鹿乃がこれだから……な。また機会ぐらいあるだろうし」

 言い終わると同時に鹿乃を見れば、飼い主を守るために吠える番犬のような面をしていた。大誠との付き合いはお前なんかより倍以上は長いんだけどな。

 まぁそれはそれとして。それでも、大誠にあそこまでべったり出来るのなら、余程大誠が手ひどく何かをしでかさない限りは心配しなくてもいいだろう。

 そう、少なくとも、鹿乃は、俺がいなくても大丈夫そうだ。まぁ、鹿乃は元からそうだろうけど。でもそれは、改めて篠月学園のことを引きずってないということがわかって、俺が安心できるから。

「あ、そうだ。鹿乃に一つだけ」

 一つだけ思い出して、尋ねたいことがあったんだった。

「鹿乃は、学院で占い研究会に入る前、占い自体に興味はあったんだったっけか?」

「は? あるわけないじゃん、お前が入れよ入れよとうるさかったんだろ」

「いやまぁそうだけどさ。でも結果的に鹿乃からすれば助かっただろ?」

「それは、まぁ、感謝してないと言えば嘘になるけど」

「それくらい素直になれよ、後輩」

「うわ、うっざ」

 とはいえ、こいつに東雲先輩と呼ばれるのも、きっと身の毛がよだつだろうから、このくらいにする。まだパイセン飲み物買ってこいと顎で使いっぱしりさせられそうになる方がそれとなくわかるもんだ。

「話戻すけど、じゃぁ、その手の関係しそうな知識とかそういうのは、入会するまで、何も知らなかったってことでいいんだよな?」

「だからそう言ってんじゃん。何をそんなに気にしてるの」

「……いや、鹿乃も現実で『記憶が飛んでた』とか『気付いたらそれまで興味なかったことをやってた』とか、そういう経験なかったかなって」

 そう、これを尋ねたかった。俺が、鬼との縁を取り戻してしまってから尚も存在していると気付いた記憶の欠落に。それが、鹿乃にもあるのではないかと。

 そして、鹿乃は、それを。

「――知らない」

 そうやって一蹴した。

「本当に知らない。そんなこと覚えてもいない。でも、『鬼と縁が繋がってたかもしれない』ことだけで、生理的な嫌悪感がする。だから、思い起こさせようとしないで」

「わかった、わかったから。悪かった。これっきりにする」

 これ以上は、無理には聞き出せない。本当に覚えてないのかもしれなくて、そして実際に記憶の欠落があったのかもわからない。俺の見立てとしては、多分俺と同様の欠落があったのだと思うのだけれど。でも、それを虐待されていただろう頃の記憶の中から拾い上げろというのは、確かに無理を言った。

 でも、そうでないなら、初めて『鹿乃を鹿乃と認識して盤面で出会った』時、詠唱していたものは、一体どこで覚えたものだったんだ――?

「――本当に、大変なんだな」

「急にどうしたんだ」

「お前のために、確かに今少しだけ記憶の糸を探ってみようとしたよ。でも、それだけで嫌悪感が沸き上がったのは本当だ。あんたは、否応が無しに、嫌悪感を覚える暇すらくれずに、そいつと結ばれてるんだよなって……」

「さぁ、どうなんだろうな。もうそれすらもわからねぇや……」

 最初に夢に出てきた時は、嫌悪感なんて、覚える暇もなかった。そもそも、夢を見るようになってからの、『夢という得体のしれないもの』の方が余程気持ち悪かった。鬼との縁なんて、寧ろ琥珀に頼んで結ばせてもらったようなものだ。

 でも確かに、記憶が欠落しているという事実こそが、とんでもなく気持ちの悪いものであると、言われて初めて気付く。それは、琥珀が語る鬼の記憶がみんなから抜け落ちて尚も残り続ける、俺だけの欠損だった。そして、それを同様に持ち合わせているとするならば鹿乃しかいない。でも。

「鹿乃は、他のみんなと同様に鬼の記憶全部がないもんな……わかるわけないよな……」

 だから、仮に鹿乃にもそれがあっても、わかりようがないんだ。だったら、そのままでいてほしいと、切に願う。それが絶対に鹿乃にとっても幸せだ。

 さて、そろそろお暇しよう。出たら京楓に連絡して合流だ。琥珀はバイトに出てて、昼の準備もしてないから、それこそ京楓と二人で客としてあかりに行くのがいいかもしれない。

「さて、じゃぁ帰るわ。ありがとうな。ほんと、大誠には助けられてばかりだよ」

「暁は真っすぐどころか愚直すぎるからね……それでいいんじゃないかな」

「褒めてるのか貶されてるのかわかんねぇよそれ」

「褒めてるよ。ほんとに真っすぐすぎるから、僕は君に憧れたんだろうね」

「は? どういうことだ?」

「男に二言はないよ」

「あっおい大誠てめぇ」

 とりあえず、本当に貶されたわけではないということはわかった。多分、親愛の情とか、そういうものだろう。

「『ちゃんと』、来るんだぞ。いつでもね」

「――そうだな」

 そう。ちゃんと来るつもりだ。来れるなら。想定外が起こらなければ。想定外になってくれるのならば。

 言えるわけないじゃないか。もしかしたら――そのもしかしたらを、大誠にだからこそ、言えるわけがない。

「なぁ暁。まさかと思うんだが――」

「どうした」

「いや……なんでもない」

 だけど、そう口にする大誠の表情は、明らかに何かを言いあぐねていた。そして俺は、それに気付かないふりをする。

「なぁ――」

「鹿乃も、なんだよ」

「……そこまでやつれたお前を見るのは、久々かもしれないな。それこそ、『学園』以来か」

「――っ」

 今度こそ、何も言えなかった。鹿乃が怖いわけではないけれど、全てを見透かされている心地を覚えたのだけは、どうにも具合が悪い。

「……ちゃんと、また来るよ」

 だから、それにまともに返事もせず、それだけを伝えて、すぐに二人の元から立ち去るしかなかったんだ。

 

 

 

 

 

 京楓の声がする。もう一人いるけど、あれは――琥珀か。

 ぼんやりとしていたけど、段々視界が晴れるようにして、今いる場所がわかった。これは、うちのリビングか。

「琥珀ちゃんは、もう治った?」

「なんとか……キョウカも、無理しちゃいけないからね」

 京楓は、学院の制服を着ていた。琥珀は、京楓のおさがりの服を着ている。

 今は、俺と京楓は大学生なはずなのに、どうして京楓は制服を着ているのか。治った、って、京楓は制服を着た上で、琥珀と外出して何か事故に巻き込まれでもしたのだろうか。それとも、これは幻日なのだろうか。俺たちが双六から帰ってきた直後ぐらいの、どうにかして落ち着いた頃合いぐらいの。

 おかしい。今見ているのは幻日なはずだ。俺は京楓と琥珀の目の前にいる。なのに二人共俺を俺と認識しないどころか、俺が今ここに居るということに気付いてもいない。

「暁も……暁こそ……無事であってほしかったのに……」

 それは『今ここに居る』俺に向けられた言葉ではなかった。俺こそって。今俺はテーブルを挟んだ京楓の向かいに座っているのに。

 京楓は、何を言っているんだ。俺はここにいる。そう伝えようとしても、声は出ないで、そして手を伸ばしても届かない。

 これは、なんだ。ここに来て初めて、京楓や琥珀の動きが、テレビか映画か、何かスクリーンの向こう側のように感じた。壁か何か、一枚の障壁が間にあって、それのせいで何も伝えられない。

 不意に、視界に違和感を覚えた。リビングのテレビ台の上に飾られるものはずっと変わっていなくて、そしてそこに写真が一つ増えている。

 ――え?

 それは、俺の遺影だった。黒い額縁に飾られた、俺の『生前』の写真だった。

 そして、気付いた。俺が伸ばそうとしていた手は先端が薄くて、そして地に着いていると思っていた足も透けていて、だから俺は今亡霊のように浮いている。

 せめて、俺はここにいるんだと、座っていた椅子から立ち上がって後ろから京楓を抱き締めようとした。俺は京楓の傍を離れない、ずっと京楓と一緒にいると示そうとして。

 するり、と腕がすり抜けた。そのまま隣の椅子に座る琥珀の身体をも通り抜ける。それだけが、唯一つの真実だった。

 あぁ、俺は京楓と離れないと誓ったはずなのに。今度こそ寂しがらせないと伝えようとしたのに。

「やっぱり無理だよ……暁がいないんじゃ……私……」

 そのまま京楓は、琥珀の胸に顔を埋めて、ひっくひっくと嗚咽を上げていた。呼応するように、琥珀も京楓を抱き締め返して、そして細かく震え始める。

 俺はここに居る、と叫ぼうとしても何も届かない。手を伸ばしても、全てがすり抜けて、だから否が応にもいる世界そのものが違うのだと理解させられてしまう。

 そうか、これが死なのか。遺された相手に声を届けられず、ここにいると伝えることも出来ず、ただ相手にも俺にも後悔を残させたまま全てが終わってしまって。

 そのまま、急に何もかもが落ちていく心地を覚える。あぁ、これは意識だけ残っていた俺の残滓が今度こそ永沈する合図だ。

 ――まだ……まだ! みんなにも、琥珀にも、京楓にも! 言い残したことが――。

 だけど、その意識すらも段々と闇に溶けて、やがては俺が何を考えていたのかさえ薄れて消えていく。

 最後に感じたのは、永沈して、叩きつけられた意識が粉々に砕ける心地と、その破片が鬼に拾い上げられ口へと運ばれる絶望だけだった。

 

 

 

 また、意識が『持っていかれて』いた。早くこっちに来い、早く堕ちろと、本能に向けて鬼に呼びかけられている心地がする。虚脱状態になってしまえば、また身投げをしてしまいそうになるだろうと思って、なんとかして精神を強く持った。

 ――京楓は起きてないよな。

 今は早朝だ。京楓の朝練があってもこんな時間に起きることはなかった。朝刊は投函されていても、始発電車はまだ動き出していないような時間。

 京楓を起こさないようにそろりとリビングに降りる。琥珀もいないようだから、今この家で起きている人は俺一人なのだろう。

 腕を真上に上げて、そのまま伸びをするように深呼吸をする。まだ日も昇らない内の朝の空気は冷え切っているくせにどこか夜の熱を孕んでいて、肺に満たすにはどこか気持ち悪い。

 あぁ、そうだ。なんとなく、俺が鬼に呼ばれている時の空気に似ているんだ。呼ばれることに空気も何もないはずなのに、どこか微量の熱にも似た雰囲気が、俺自身や京楓のではない、得体のしれない誰かが持つ生温い体温のように感じられるんだ。

 きっと、もう見ているものは夢ですらない。鬼によって作り出された幻日だ。夢は、意識以外の何も持たない。幻日は、時の流れや五感といった現実にあるものの殆ど全てがある。やがては今いる位相がどこであるかという意識も曖昧になって、そしていつか同化してしまう。

 まだ俺は死んでない。京楓は生きている。見ていた夢はただの虚構なのだと、ひたすらに自分に言い聞かせる。だけど、その虚構は、いつか現実になってしまうのかもわからない。そして、それが現実になった時が、文字通り俺自身を閉ざすXデーとなってしまう。

 胸に手を当ててみる。トク、トクと、心臓が規則正しく、寧ろ少し遅いぐらいの脈拍を以て全身に血流を送り出していた。

 不思議なものだ。この動きが止まってしまえば、人間なんて簡単に死んでしまう。勿論、心臓によって送られる血液を途中で遮断しても、またはどこか送った先を欠損させても、簡単に息の根は止められる。それまでの人生、どんなことがあっても、死ぬ時は一瞬なのだと、思い巡らすことが増えた。

 だからどこかで、策を講じておかなくてはならない。まだ時間は少しばかり残っているはずだ。出来れば自分一人で完結させられるならいいのだけど、それが不可能だとするのならば。

 それまでに、なんとかそれまでに。早い方がいいのはわかっているけど、どうしても踏ん切りが付けられなくて、あと少し、もう少しと願って、ずるずると先延ばしにしてしまう。

 まだ、そうまだ、なんとか、でもいつか、この手で――。

 

 

 

 

 

「柱となる事業が決まったんだ」

 運ばれてきた酒を一口で飲み干してすぐに、落ち着いた瞳で、黎が口を開く。それは、やっと落ち着く時間を取れたという安心が漏れたものだった。

 思えば、黎が酒を飲む図は、地味に初めてお目にかかるかもしれない。そしてなんだかんだ勢いが早い。烏龍茶にしている俺からすると、黎もこうくいくいと酒を飲んで行く図はあまり見ないから新鮮だった。

「銀行の融資も決まってね。だからあとは関係各所に連絡するのを残すのみさ。ひとまずはね」

「おぉ、それはおめでとう。でもそれこそ大変なのはこれからだろ。やることは山積してるんじゃないのか?」

「そうだね。多分年が明けて暫くしてから段々となると思う。それより、寧ろ、その間何も暁を構っていられなかったから、大丈夫か心配だったんだ。変化はない?」

「まぁ、とりあえずはどうにかなってるよ。今はまだね」

 そういう意味では、今だけは中休み状態だ。少し、ほんの少しだけ、短すぎる安寧を得ているという感覚がある。

「それで、どんなのをやるんだ?」

「一言で言えば不動産になるのかな。対面とかじゃなくて、全部ウェブ上で完結するようなものだけどね」

 それは、俺も似たような業種の面接を受けたことがあるものだった。あれは……それこそ丁度初めて鬼に引きずり込まれそうになる、その前後ぐらいだったか。

 でも、そういうところを一回は受けてみたからこそ、ぱっと見は難しそうということだけはわかる。だって。

「その一言だけ聞くと、差別化が難しいように思うけど、何かあるのか?」

「そうだね、ターゲット層を絞って、特化した内容のつもりなんだ」

「というと?」

「ほら、京都って、大学が多いじゃないか。だから他の町と比べても若年の単身者が多い。そしてそういう人たちは基本的に京都に定住しない。そして、そんな大学の時だけ京都にいるような人たちがメインターゲットだね。もしくは就職で京都にやってくる人もかな」

 確かに、京都は学生の町だ。観光客を除けば、丁度俺たちぐらいの人がわんさかいる。さりとて、なんだかんだ企業も多いこの町で、それらの人がそのままそこに通うようになっているのかといえば、そういうわけではない。

「まぁ、僕はその辺りの感覚はよくわかんないだけどさ。学校なんて行ってなかったからね」

「おい待てこら」

「ははは。でも、その辺りの感覚は暁らが教えてくれただろう?」

 どうなのだろう。俺は、そこまでのことを出来たのだろうか。言ってしまえば、黎は早い段階で社会一般のレールを外れたという意味で世間知らずだ。レールの上はこんな感じだよ、と伝えることは出来ても、黎がそれを全部取り入れられるかは別だ。というより、頭のいい黎のことだから、俺たちが教えずとも勝手に学んでしまったんじゃないかという思いもある。

「暁やクレアが、僕を京都という街に出迎えてくれた。そして、時には手を引っ張ってくれた。勿論他のみんなにも感謝しなければいけないけど、ずっとこんな僕に指針を示してくれた暁とクレアには、真っ先にお礼を言いたいなって思ってね。だから、暁は、それを素直に受け取ってほしいな。だってそれは、暁が思っている以上に、本当に助けられたと感じていることだから。僕が双六で漫然と帰らなくてもいいかなと思っていたようにね」

「――そうか」

 それは、つい最近、京楓からも言われたことで。向けた感謝は素直に受け取らないと失礼に当たるというのは、確かに大学生活の中でもよく言われた。

 寧ろ、俺が学んでないんじゃないだろうか。俺だって一度はレールから外れた身だ。そして京楓が脱線していた俺を戻してくれた。そのことに、俺はずっと感謝している。だったら、黎のそれも、きっと同じようなものなのだろう。

「わかった。その感謝、真正面から受け取るよ」

「うん、そう言ってもらえると、僕も嬉しいかな」

 そう考えれば、少し気が楽になった。俺がいたことで、黎の人生が好転したのだと胸を張って言ってもらえるのならば。それは積極的に誇ることではないかもしれないけど、感謝されたなら、素直に受け取るのが道理だろう。

「話を戻そうか。丁度、京都市が空き家の所有者に税金を課すことを検討しているという情報が伝手で入ってきてさ。八月から有識者会議をやっているらしいんだ」

「黎が持ってる伝手というと……」

「暁とクレアの教授だね」

「やっぱり……」

 いや、紹介したのは俺だけどさ。どっちかというと黎が関心持ってるようで引き合わせてくれとお願いされたからという形だけどさ。

「それで、さっきの話に戻るんだけど、京都は若年層――丁度僕たちぐらいの年齢の人が多い町だ。逆に言えば、卒業してからも京都に住み続ける人は、悲しいかな少ない。勿論、地元に帰る人はそれでいいんだけどね。それで、進学や就職で京都に住むことになった人が一から探すのはだいぶ手間だ。だから、初めからそれ専用の寮としていくつか建物を借り上げる。四年間というのをベースに、独身寮的な形で貸すというのがいいかなって。正直言ってしまえば空き家所有者の税金対策の面が大きいかな。無償で借り上げて、それを生かして、所有者にも還元できればウィンウィンだろう?」

 確かに、そういった税金問題は馬鹿にならないと聞いたことはある。俺にとってはどうにも身近な話ではなかったからあまり印象にはないのだけれど、大変な人はかなり大変らしい。

「まぁ、空き家問題は、京都の街に限って言うならば、根本的にこの産業が発展しないことには始まらないのかもしれないけれど。でも、製造業が多く集まるこの町で、建物一棟借り上げて紹介するサービスの需要は必ずある。そしてそれは、大学生の寮にも出来るし、家族連れ向けの戸建てでもいい。ゆくゆくは格安で所有者から買い上げるような仕組みにしてもいい。空き家問題は日本全国どこでもあるけど、どうせなら京都でそれをやって、需要と供給を満たせればいいんじゃないかって思ったんだ。その中で、若者定着の一助になればいいんじゃないかなってね、そう思ったんだ」

「――お前、真っ当にビジネスやってんなぁ」

 まぁ、そりゃそうなのは知ってはいるけど。ともすればみさきより、大誠より頭がいいかもしれない黎の事だ。少しの情報さえ手に入れれば、それくらいの話の繋げ方をするくらい余裕だろう。

「というか、そこまでやるんだったら、もう移住したら? ――いや、もう算段つけてるな、その様子だと」

「そうだね、まずは僕がそのサービスの第一号になるよ。東京にいたって、別に僕にとって何が大事なことがあるわけでもないし、だったらみんながいるこっちに移って、巻き込んで、そしてこの街を興す方が間違いなく楽しいさ」

「まぁそうだよなぁ。俺としても歓迎するよ」

 実際、黎だけはこっちに住んでるわけじゃないから、会いたい時に会えるような奴じゃなかった。これでやっと何かみんなで集まるという時にも気兼ねなく誰かに呼んでもらえる。

「クレアを通して、やっとそういう人付き合いがわかってきた気がするよ。暁一人に頼らなくても、こうも世界は面白いもんなんだって、双六を、その後のみんなとの付き合いを通して、やっとわかってきた気がする」

「それは、それこそ黎が楽しみ方を見つけられたからだろ。俺はせいぜいそれの最初の水先案内人ぐらいにしかなれない」

「だけど、その最初が肝心なんだ。それがなければ、今も迷ったままだったかもわからないしね」

「正直、俺だけの功績ではないと思うけどな……それこそクレアとか。クレアがサイキックを立ち上げててくれてなかったら、俺と黎が出会うきっかけも出来てなかったわけだし」

「そうそう、そのクレアから伝言。暁の料理食べたことあるけど、すごくおいしかったから、暇ならうちでバイトしてみさきのケーキみたいに不定期で何か出さない? だってさ」

「あー、そうだな。確かにそれはやってもいいんだろうけど、金取って出せるものかの自信はないから、保留にさせてくれ。そもそもそれだけの時間が取れるかどうかはわからんしな」

 というか、初めてクレアに俺の料理を食べさせたのっていつだっけ。あぁそうだ、それこそ幻日でだ。陣取り形式だった二面をクレアと上がって、それで付き合うってなってた時。

 その後も、京楓の誕生会とかで俺の手料理食べる機会は何回かあったもんな。正直、俺にはそういう一斉に決まった誰かにおいしいものを振る舞うという方が性に合っている。

「それで、その、こっからが本題なんだけど……」

 さて、少し脂っこいものが続いていたから、少し喉を潤しておこう。口もさっぱりさせたいし。

「人を好きになるって、どういう感じなのかな……?」

 思わず水を噴き出した。今のはタイミング見計らっただろ。そうでなきゃこんな狙ったようにそんな話をし始めない。

 いや、なんだよこいつ。黎が顔をどことなく赤らめてるって初めて見たよ。というか黎でもこんな顔するんだな。双六直後ぐらいまでは黎がこんな顔するようになるなんて思わなかったよ。

 だけど黎は今のクレアを好きとは認めようとしないだろう。黎はそんな男だ。認めないというより、まず理解出来てないというのが正しそうだが。

「いやそこは、黎がどう思ってるかだろ。言われて初めてとかってのもあるとはいうけどさ、とにかくまず黎が相手と一緒に居たいかとか、そういうことを考えないと始まらんわ」

「うーん、別に僕がどう思ってるかより、そこはクレアの気持ちを最優先にしたいんだけどな」

「いやそれはやめとけ。相手の意思を汲み取るのもだけど、自分の意思も大事にしろ。それが介在してないと、いらん軋轢を生むことにもなるからな」

「自分の意思、ねぇ……」

 そう、それはそれこそ俺が踏んだ轍だ。そんなもん、わざわざ他の誰かに踏ませる必要のあるものではない。

 というか相手がクレアということをもう隠そうともしてないな、こいつ。俺が思ってたよりガチだよこれ。

「まぁクレアには、暁相手だったら浮気していいって言ってあるから」

「いや絶対問題そこじゃねぇよ!」

 まず俺が京楓のためにしたくない。仮にその気があったとして、『きっとそれをする暇がない』ということもある。いやそんなこと言えないけど。特に最近の俺の行動を顧みた時にそんなこと絶対言えないけど!

 というか、そもそもクレアからお断りするだろうに。俺はそうであってほしいと願っている。

「じゃ、じゃぁクレアとは今どうなんだ?」

「そうだね、まぁ暁とクレアの教授の紹介だとか、それとは別に二人でとか、まぁ色々やらせてもらってるけど……とりあえずは先日も、二人で旅行行こうかって話が決まったとこ」

「なんだそれ詳しく」

「別に変なことじゃないよ。ただ、クレアがイギリスで僕の好きそうなものを案内してくれるって話」

「いや、あの、それって……」

 クレアの卒業旅行を兼ねたデートじゃねぇか。少なくとも傍からはそう見える。

 正直、結局二人がどこまで行ってるのかという話はよくわかってない。それを黎に尋ねたところで、恐らく黎自身もあまりわかってないというような答えが返ってくることだろう。かといってクレアに尋ねるのも忍びない。他の誰かからならいいかもしれないけれど、俺からそれをするわけにもいかないしな。

「――まぁ、正直黎の思うままに行動して問題はないと思うぞ。勿論クレアのことも考えながらだけど、まずは黎がどうしたいかを前面に押し出すぐらいで丁度いい、とは正直思う」

「ありがとう。なら、それでやってみるよ。クレアにも伝えた上でね」

「いやしなくていいそれはしなくていい」

 あぁもう、黎も融通利かねぇなぁ。俺の話なんて、そこまで肩肘張って受け取らなくていいというのに。

 それとも俺の進言があった方がクレアに話を通しやすいのだろうか。だとすると問題がありすぎるから、どこかでやめさせないといけないのだけど。

「殆ど変わらないよね、本当に、この街は」

 それは、それまでの空気とは相反した、ぽつりと漏れた黎の呟きだった。漏れて、それが水面に落ちて、水紋のようにその意味が広がり始める。

「京都という町が、外部からどのように言われてるか、知ってるかい」

「いや? 気にしたこともない――というより知る術がないだけだけど」

「『ノスタルジーの街』なんだ、京都は。地方で育って、大学だけ京都にいる。そんな人からすれば、古い建物が建て変わらない京都の街は、青春の記憶をそのまま閉じ込めた玉手箱のような存在なんだってさ。あるいは、修学旅行で訪れただけの人なら、修学旅行での思い出としてかもしれないね」

 京の街は、確かに変化が少ない。少ないからこそ、些細な変化でも、それが常に接するようなものであったら、確かに突然何か大事なものが欠落したかのような心地を覚えることがある。

 不意に、夢を見るのが始まった頃に大誠とサシで呑んだ時のことを思い出した。あの時、帰り道、北野白梅町の駅が激変しているのを見て、得も言えぬ憧憬を覚えたんだったか。酔っぱらってたからあまり明確に覚えてはいないのだけれど、でもあの時の人も町も変わり続けているという大誠の言に、確かにどこか寂しさを覚えたんだ。

 俺たちも、いつかそのように思うことがあるのだろうか。何かがあったとして、いつかそうなってくれるだけだとするならば、多分それはいいことなのだろうけど。

「変わることは、本当はいいことなはずなんだ。街も、人も」

「まぁ、実際はそうなんだろうな。ただ、変わらないでいられる方が幸せなんじゃないかって、そう思うこともよくあってな……」

「でもそうだろう? だって今から暁と京楓は付き合う前の関係に戻れと言われて、それで暁は納得出来るのかい?」

「――確かに」

 そういう言われ方をされてしまうと、ぐうの音も出ない。人と人とが付き合うということは、関係性の変化の極北だ。

 というより、変わることで一番の恩恵を受けたのは、それこそ黎なのだろう。サイキックのチャットに飛び込んで、俺とクレアとに出会って、そして俺を訪ねに京都にやってきた。それが黎にとっての今の関係性の始まり。

 かつて俺はみんなの関係性の維持を望んでいた。黎は常に何かが変わることを求めていた。結局は黎が思う通りになったわけだけど、確かに俺も変わったことに依る変化の利益は存分に享受出来たと思うけど――。

 あぁ、そうか。だからこうも変化をするということに黎は恐れないんだ。変化をすることが楽しみであると、『俺たちが教えた』からだ。

 そして、一切変化をしないことが無理であるということは、もうみんな身を以て知ってしまっている。だから、ゆっくりだとしても、変わらないものなどないという事実自体は受け入れる。受け入れて、それがどう自分の、みんなのためになるかを常に考える。

 それでも、一度変わった変化が『もう変わらないようにと願う事』は傲慢なのだろうか。それが変わらなければ、まだみんな幸せでいられるとわかってしまっているのならば。それが、諸行無常の理からは反するとしても。

「話を最初に戻すけど……それで、黎は俺に対してどうしてほしいとかあるのか」

「さぁ、どうかな。正直、これ自体は暁の御眼鏡に適う事業ではないとは思ってる。でも、町の事を考えるという点では一緒だ。それに、それこそ暁がやりたいと思っていることの一助にはなれるかもしれない。そういう点からも、いつかは暁にも見てもらいたいなとは思ってる。それで、京楓も、それには賛同してくれてさ」

「京楓が?」

「あれ、暁は何も聞いてないのかい。京楓、自分の意思で僕の会社に来るって」

「おまっ、えっ、そんなこと一言も聞いてねぇぞ!? あっ、だから今日京楓は一人で出るって言ってたのか!」

「そうそう。そうやって、決まったのがさっきだったからねぇ。話す余裕がなかったんじゃないかな。というかBOINEで聞いてるわけじゃなかったんだね」

 だから俺が出かける前に私も後で出ると声を掛けられたのかと、今更ながらに合点が行った。そのすぐ後にこれだったから、俺がまだ知らなくてもおかしくはない。

 俺を一切抜きにして、京楓がそういうことを決めてくれるのは、京楓自身で将来を決めてくれていて、俺としては安心できる。それは『京楓が自分で選ぶ未来』だから。そしてそれは出来る限り俺の意志の介在があってはならない。

「ちなみに、何をやらせようとか考えてるのか?」

「じゃぁ逆に質問してみようか。僕は何を京楓にやらせようとしてる?」

「わざわざ尋ねるってことは、さっき話してた本業とは別箇ということだな……」

 なんだろう。少なくとも京楓が嫌がるようなことをやらせようとしているわけではないことはわかる。というより、京楓が自発的に何かをするってことは、それは京楓がやってもいいと思う事か、寧ろ京楓がやりたいと思う事かだ。

 ヒントがあるとしたら黎がこれまでやってきたことだろう。役所との交渉みたいなことは恐らく関係ない。東京で何をやっていたかはよくわかってはいないけど、こっちでやっていたことといえば……動画配信か。それと京楓は絡みそうだ。

 その上で、京楓がやりたそうな事。京楓にやらせたい事。テニスは流石に関係ないだろう。となると。

「――グルメリポートの動画配信?」

「お見事。流石だね」

「そしてそれを本業の物件紹介の際に付随材料的に地域情報として紹介するんだな」

「そこまで思い至るか。まさかそれまで言い当てられるとは思わなかったよ」

 まぁ、それぐらいは容易に想像がついたのは本音だ。京楓がやりたいと思う事。食べることが何よりも好き。ある意味ではテニス好きより先に来る顔で、俺みたいにテニスも出来るような奴じゃなければ、それが京楓のイメージとして真っ先に来てもおかしくない。

 それにしても、グルメリポーターか。女子にしては大食漢な方だし、でもそれはあくまで運動の賜物なのだから、あくまで店とかまでは歩いて行くようにしてもらわないとな。

 というか、それって、俺と出会う前に京楓がみさき辺りに語っていたという夢そのもので。そしてその話は、京楓自ら話をしていなければ黎は恐らく知らない。

「暁は京楓の顔をネットに出しちゃっても大丈夫? 京楓は構わないとは言ってるんだけど、暁の話は聞いておきたくて」

「京楓が気にしないんだったら俺から言うことは特にないぞ。どっちかというと帰ってからちゃんと夕飯食べられるだけの腹は残してやってくれってことぐらい」

「ははは、流石に京楓のお腹に満杯になるくらいまで料理を押し込むような真似はしないよ」

 まぁ、あとは京楓がハッスルしなければいいだけか。なんだかんだ京楓も、俺に対して綺麗でいたいと言ってかなりそういうとこは気にしてるから、大丈夫だとは思うんだけど。

「そういやここ数日の暁、早くもお礼参りみたいにみんなの元巡ってるんだって? それでずっと出てて、二人がゆっくり話す余裕なり情緒なりになってなかったんじゃないかなって」

「いやまぁ、確かにそうなんだけど……」

 昨日は大誠の元へ。三日前にカラス。今日は黎の番だ。その前からも、一対一とかで、尋ねられる人の元は可能な限り巡っていた。

「もしかして、お気に召さなかったかな」

「そんなことはないさ。寧ろ黎の元だっていうんだったら、下手なところよりよっぽど安心できる」

「一応尋ねるけど……暁は僕の会社に誰かを採用するのは、反対?」

「まさか。寧ろ黎の会社だったら他よりも安心できるくらいだ。大企業だって、そこに入ったと思ったら関連子会社に研修という名目で出向させて、数年後には転籍として完全に飛ばすことがあるっていうだろ? そういうあくどいことは絶対ないって言えるからな」

「ありがとう。縁故採用しかしないと言われないようにしないといけないのが目下の悩みかな。流石に今年は知り合いにしか頼める状況にはないけれどね。幸か不幸か、その知り合いはみんな何かしらの強みを持っていて、不思議と僕が欲しい人なんだよね」

「そうだな、ひとまず労基法に違反してなければいいよ。もっと言えばホワイトならありがたい」

「ふふっ、黒い働き方は僕だけが被るようにするよ。クレアだけは付き合わせちゃうかもしれないけれど」

「あぁ……程々にな」

「ふふっ、クレアからまだ大丈夫と言われるなら、その限りではないけどね」

 その受け答えで、もう心配しなくていいだろうなと思った。少なくとも、仮に急に二人だけの世界に放り出されたとしても、どうにかしてやっていけるだろう。

 だから、俺から伝えることはきっともう何もない。俺からすれば、二人がそうなれた一助程度になっていたことを願うばかりだ。

「ところで、暁が僕のところに来てくれるとしたら、どんなことを任せてあげられればいい」

「どんなことって……そりゃ、まずは黎がやってほしいと思うことを話してくれればだけど……」

「それとも、今やってる内容そのままの方がいいかな。正直、暁にはそれが絶対的に向いてるとは、僕自身は思ってないのだけれど」

「あぁ、いや……それでいい、別にいいよ。いいんだが……」

 どうにも、その答えに窮してしまう。少なくとも黎は、俺以上に俺が本当はやりたいことを見抜いていたんじゃないかって、そんな気がして。

 正直、お金のこととかを優先しすぎていたきらいがあったから、そこまで頭が回っていなかったというのがある。それはきっと今更過ぎる話ではあるのだけれど、そこにきっと俺自身の幸せを含有させていなかったのは事実だ。

 そりゃ、教授のお誘いは魅力的だけど。それは『俺一人の幸せ』であって、『俺と京楓の幸せ』ではないだろうからこそ、ずっとそれを選べずにいた。俺が京楓の事を気にしなければ、あるいは京楓も同じことを志向していたのなら、すぐにでもその手を取ったのかもわからない。

 だから、未だに悩んでいる。そもそも、もう悩む必要すらなくなったとも言えるのかもしれなくて、だからこそ考えることを途中でやめてしまっていたというのもあったのだけれど。

「でも、暁って、なんだかんだ『現場』が好きだよね」

「そうか? まぁ確かにずっとデスクで文章と格闘してるのよりかは歩き回る方がいいかなとは思うけど、それがどうした?」

「いやさ。大学でもフィールドワークとかが一番楽しかったっていう話をしていたと聞いててさ。クレアも、ただじっとしているよりかはまだ動いた方がいいタイプだからわかるんだけどさ。暁は、じっくり一つの事を研究するスペシャリストタイプだっていうのは、すごく思うよ。それを調べるのに、どんな手間をかけてでもやろうとする。忍耐強さって言えばいいのかな、それが暁の強みであって、それを生かしてほしいと、僕は思うね」

「粘り強いつもりはないけどな。ただ、好きなことはとことん追求したいだけだ。でも、俺が望んでいる高収入な職って、どうしてもそういうのが少なくてな」

「だからこそだよ。本当に、暁はやりたいこととこうあってほしいことというのが、どれも相反していて、つくづく勿体ないなぁと思うよ。別に暁が悪いわけじゃ全くないんだけどさ」

 その言葉に、思わず押し黙ってしまう。俺がやりたいことは教授がやっているようなこと。俺があってほしいことは給料ががっぽりもらえるような職に就くこと。この二つは、悲しいかな両立することは余程の事がなければなくて、やりたい事でいっぱい食えるようになるためには、まずもっとやるべきことが増えてしまう。

 だけど、もう関係がない。俺自身のことだけなら、『少し先のことですら考えたって仕方がない』。

「僕と暁とクレア――あと鹿乃もか、この四人だもんね、そういう視野が広げられそうなのは」

「どういうことだ?」

「元々京都市内で生まれたわけじゃない組。さりとて僕以外は既に『他所者』というには歴が長すぎる。でも、『若者』なのはまだみんな一緒だし、『馬鹿者』は……まぁこれもみんなそうかな、暁は特にだけどね」

「おい、褒められてる気がしねぇぞ」

「褒めてるよ、これでも。だけど暁は、多分みんなの中でも特筆して突飛な想像を膨らませられる想像力を持っている。だから、僕はね、そんな暁の想像力と、それと時には思慮深く、時には後先考えない行動力が欲しいんだ」

 不意に、俺の中だけで時間が止まる。その言葉の意味を咀嚼するのに少し時間がかかって、そして今自分自身が求められていたという結論に至って初めて、これはお誘いなのだということを理解した。

「暁が、ちょっとでも僕の会社でやることに興味が持てるというのなら、席は空けておくよ。何れにしても、実際、きっと暁みたいな人、というより暁が欲しくなるだろうからね。だから席を空けておくのは既定路線かな」

「――いいのか?」

「いいも何も、最初から僕はその気だったよ」

 急に、これまでの世界が変わった心地がした。それは、俺が喉から手が出る程ほしかったもので、それを黎はあっさり俺に提示してくれたんだ。

 全部が全部、無駄なことだったとは思わない。だけど、もっと早く黎にはそういったことについて相談していれば、気に病むことも少しは少なかったんじゃないかっていうのは、今更ながらに思う。

 でも、それでいいのだろうか。同じことは教授相手に対しても言える。それは、黎だから手を取って教授のそれは蔑ろにしていいわけではない。やっぱり、まだ迷いがある自覚がある。

「暁が気を張っているのはわかっていた。だから、もっと早く手を伸ばしてあげるべきだったんだと思う。だけど暁は、明確に高収入の職を探していて、そしてそれは僕が提供できるものなのか、それが全くわからなかったんだ。だから声を中々かけてあげられなかった。そこは、謝らなければいけないね」

「いや、それだけで本当にありがたいよ。ほんと、ありがとな。きっと、どこかでお世話になるとは思う。ただ、まだ決めかねてるとこがあるから、すぐには返せないんだ」

 それ自体は嘘ではない。決めかねているのは本当だ。ただ、正直決めるのは先延ばしにしたいというのは、現状どうしてもあって。その方が迷惑を掛けなくて済む。

「というか、本当に俺なんかを――いやごめん、それは言わないお約束だな。でも、本当にありがとう。予防線扱いするのは申し訳ないけど、でもお陰でそれに関してはすごく気持ちが楽になる」

「まぁ、割と就職浪人に怯える声も聞くからね、仕方ないよ。僕は暁に手を差し伸べるだけだし、暁が手を伸ばさない決断をしたところで、それならそれでいい。僕は、暁がまた困るようなことがあった時に再び手を伸ばすだけだからね」

「助かる。まぁ、そりゃ決まらないなら教授の、とは言いたいけど、やるなら生半可な気持ちじゃやりたくないというのも大きくてな。ほんと、黎にも迷惑かけてる。まぁ、黎の会社か、教授かの二択かなという気は正直してる。だから、あとは俺がどっちかに頷くだけなのかもしれないけどさ。でも待たせちゃっててほんと悪い」

「確かに、暁一人だから出来る話なのも、まぁ否定は出来ないよ。流石に暁じゃなければ、あまり待てないからね」

「俺からすれば、その流石を、他のみんなにもやってあげてほしいと思うけどな」

「まぁせめて、あの双六面子全員くらいはどうにか出来るぐらいではありたいね。カラスはご勘弁願いたいかもしれないけれど」

「なんだそれ」

 そこで、初めて腹の奥から笑いが込み上げてきた。そのまま居酒屋に青年二人の笑い声が響き渡る。

 黎と二人でこういう笑い方をするのは、気付けば初めてだったかもしれない。流石に大誠とは何回かあるけど、黎ともせめて一回ぐらいはあってもよかったのに。

 次にそれが出来るのはいつだろうか。でもそれは多分――。

「あ、いけね、そろそろ時間だ」

「あれ、暁、こんな時間から何か予定あったのかい」

「悪いな、ちょっと京楓に呼ばれてて」

「そうか、だから暁は酒を一滴も入れなかったんだね」

 つまりはそういうことだ。一緒に酒を飲んでるならその限りではないけれど、素面であいつのことをちゃんと見ていたいと思うからこそ。昨今の体調だと、酒が入ると疲れ果てるというのもあるけど、わざわざ黎にも伝える必要はないだろう。

「わかった。暁は他の誰よりも京楓を優先してこそ、だろうしね」

 その一言に少し顔が赤くなるのを感じる。そりゃ最初から隠しているわけでもないし、そもそも最初から知っているわけだけど、それを改めて指摘された際に恥ずかしいと思うかどうかは別だ。

 ずっと座っていたから、レザー張りの座面が熱を持って凹んでいて、俺が立ってもその凹みがすぐに元に戻ることはない。長く圧がかかっていればへたれる。強く圧がかかれば元には戻らない。――俺も、それに近いのだろうか。

 ずっと同じ状況だったものは、すぐにはその姿を変えられない。だったら、その姿が変わることを余儀なくされた時、同じ姿に戻ることは出来るだろうか。今話した感じだと、黎は大丈夫だと信じたい。俺以外に、俺以上に、依存できる相手が今はいると言っていいのだろうから。

「今日は雪が降るらしいからね……足元に気を付けて」

「あぁ、それは黎も……というより、黎こそかな」

 外は既に息が白い。室内は暖房が効いている。誰だってその寒暖差に風邪を引きそうになるだろう。まずは俺がそうならないようにしないと。

「もう、雪、降り始めてるぜ」

 

 

 

 

 

「滑らないようにね……って、おおっと」

「大丈夫か? その靴だとそうなるだろって言ったのに。肩掴んでろ」

「うん……ありがと」

 何足かある内の、よりにもよってその靴か、と思ってしまう。スニーカーの靴裏のゴムがもうだいぶすり減っているものだったから、一緒に家を出るとしていたら間違いなく勧めなかった。先に言っておかなかった俺が悪い。

「まだ、場所によっては紅葉も残ってるね。最近だと紅葉と雪が一緒の事ってあまりなかった気がする」

「だからこのお誘いだろ?」

「そうだね。折角なら暁と一緒に探したくてさ。やっぱりこういうのは……二人きりが……いい……」

「……うん」

 今更になって少しの恥ずかしさが勝るようになってしまう。そんなものはとうの前に捨てたとばかし思っていたけれど、時折こうやって初々しさが顔を出すのは、果たしていいことなのかどうなのか。

 雪が降り始めているのはわかっているのに、わざわざ傘を一本しか用意しないで。その結果がお互いに肩を濡らさないようにこれ以上なく密着することだった。そしてそれは、雪の中を散歩するという話が上がった時点で決まっていたことでもある。

 外を歩いていて、こうも密着する機会なんて流石にない。幾ら家にいる時とか二人きりの時とかは様々な意味でべったりになることが割とあるとはいえ、外でべったりということは二人きりであってもやることはない。つい先日、学院に行った際に京楓が腕を組んできたのは、それこそあまりないことだ。

 京都の町は夜に遊ぶ場所がないと言ったのは誰だったか。そういう人が言う遊ぶ場所がないというのは、あくまで人と付き合うということだから、俺たちみたいにこうやってただ街中を歩くだけというのとは関係がない。寧ろ、他の人に殆ど会わない方が好都合だろう。

「そういや黎から聞いたよ。黎の会社入るんだって?」

「あっ、黎から聞いちゃったの?」

「まぁさっきって聞いたし、そりゃそれまでに俺にも伝えようがないわな」

「まぁそうなんだけど、でも、本当なら、暁の事が落ち着いて初めて伝えたかったかな……」

「いいよそれくらい。そもそも暫く先俺としては京楓が望んだ通りの進路なら、早く落ち着いてくれた方が京楓のためにもなるってなってたから」

「そうだけど……でも、進路が決まらない暁を前に言うのもどうかと思って……」

「俺も多分一緒にやるよ。もしくは教授の誘いに乗るか。消去法のつもりは全くなかったんだけど、結局俺が求めてることを考えれば、どの道そうなったと思うから。だから、その点については京楓はもう心配しなくていいよ。突然梯子外されでもしたら別だけどさ」

 そこまで喋って、やっと京楓がほっとした様子を見せる。京楓の少しの心配が、ほっとした息に乗って、白く立ち込めて霧散した。

 ここまで何も嘘は付いていない。選ぶだけなら、ありがたくも乗せさせてもらえばいい話だ。それに、俺たちが卒業するまでに鬼との関わりは終わるという絶対的確信がある。だから、今はこういう言い方をしていられる。

 師走とはいえ、そもそも月曜の夜は、流石に外を出歩いている人は少ない。既に雪が降りしきり、白く染まり始めた世界に俺たち二人が船のように浮いていた。喋りさえもしなければ、俺たち二人の吐く息と少しばかりの雪を踏みしめる音だけで世界は支配される。

 無機質なアスファルトの川に浮かぶ傘一輪。俺たちが進む道に足跡はなく、一輪が過ぎ去って初めて二人分の足跡がそこに残される。

 これが真の意味で白一色の世界だったら、賽の河原を思い出してしまっただろう。だけど、まだ雪は積もり始めで、薄く黒灰色のアスファルトの舗装が見えるから、あれと同一視をすることもない。何より隣に最愛の人がいる。

 そして、傘を少し上にあげながら斜め上を見上げる。視線の先には、流石にだいぶ朽ちた枯れ紅葉があった。

「――ここも枯れてるね」

「まぁ、始まりも早かったからな、今年は。中々上手くはいかないだろ。そもそも先に探しておければよかったんだけど」

「はぁ、やっぱり雪と紅葉を同時に見るのは厳しいかなぁ」

「まだまだ歩けるだろ、他行こうぜ」

 それでも、もうずっと住んでいたとしても中々出会えない景色には心躍るものがある。関西地区の中でも、京都は大阪や神戸に比べれば盆地だからこそ、雪が降りやすい方だ。だけど、北国みたいに毎日降るわけではなく、そして一つの季節が雪で閉ざされるわけではないからこそ、どちらかと言えば珍しいというのが先に来る。ましてや紅葉が一部でまだ残っているような状況では尚更だ。

 こういう時に、こうも、行けるところには行っておこうとなるのは、誰の影響なのだろう。それこそ、新しい世界を見たいと願った黎にも近いのかもしれないけれど、やはり、京楓と二人で色々なものを見たいという願いがあるからなのだろうか。

「どこまで歩く?」

「京楓が望む限りならどこまでも。でも琥珀に心配させない程度にしよう。また怒られちまう」

「りょーかい。でも時間は意識しないとずるずるといちゃいそうだよねぇ……」

「それもそうだな……」

 英彩学院に忍び込んで、改めてどれだけお互いのことが好きかということを再確認してからというものの。付き合い始めた頃と同じくらいか、またはそれ以上に、京楓のことばかり考える時間が増えていた。

 京楓が一度は俺と琥珀を窘めた夜遊びも、自分がやってみると存外にはまってしまうものらしい。今では常に俺たちが琥珀に窘められるようになってしまっている。俺自身はやっぱりまだ夜半の寝つきが悪いところがあるし、どうせならというところはあるけれど。

 ともあれ、京楓の提案は、夜に残っている紅葉を探しに行こうというものだった。天気予報で雪が降ると言われた時には、その日にしようと自動的に決まっていた。

 雪降る夜に、歩いて回れる範囲で、どこかよさそうなところを探す。歩いて回る範囲だから、流石に例えば鞍馬とかそんなところまでは行けないけれど、お互い体力はそこそこにあるんだ、10km程度ならものともせずに回ってこれる。嵐山ぐらいなら往復してきてもいいのかもしれない。

 それにしても、今年の紅葉は、兎角長い。早い段階で急に冷え込んだと思ったら、その後温かくなることもあって、お陰で長く楽しめている。

 逆に言えば、一斉に絢爛とした見栄えには中々ならなかった。木々の一本一本が各々寒暖差の感じ方が違って、隣同士の同じ条件の木々でさえ色づき方が変わっている。

 だから、12月の中旬である今に至るまで、真っ赤に染まった木が残っているところもあった。それでも、ここまで時期が遅くなると、それもかなり減っている。だから今回は、それを探す散歩。

「――ふと思ったんだけどさ、と言っても暁が話したくなければそれでいいけど」

「なんだ?」

「霞ちゃんって、こういう町の変化に敏感だった?」

「――よく振り回されたよ」

 白い息と共に、それだけが漏れた。本当に、何事も自分から突っ込んでいく性格で、それの収拾をつけるのが俺の役目だった。俺が兄だからという自意識が強くなったのは、きっと霞のその性格に起因する。

「何事も好奇心旺盛でさ。疑問に思う事とかはすぐに突っ込んでいくし、ちょっとの変化も見逃さなかった。俺が興味のあることにはのめり込んでる自覚があるけれど、霞のそれは全方位に向けてだった。それに付き合わされて、でも気付けば俺が気になることにもなっていったんだ。俺の趣味とか、半分ぐらいは霞が発端だよ。占いがその最たるものだった。そして、きっと京楓とは喧嘩してでも仲良くなれたんじゃないかって思う」

「――そっか。仲良くしたかったな」

「俺も、京楓には会わせてみたかったよ」

 そう、それは本心だ。霞と京楓が出会うことなんて絶対なかっただろうけど、クナドと京楓としての会話を見ていて、きっと喧嘩は多くとも仲良くなれただろうという確証が持てている。

 もしかしたら、少しでも運命が変わっていれば、今この隣にいたのは霞だったかもわからない。だけど、俺はこうして今京楓の隣に立っている。それだけが事実だ。

 あの時、霞ではなくて俺が死ねばよかった、というつもりは毛頭ない。それに、起こったことを変えられるわけでもないのだから、もしかしたらを考えたところで仕方がない。それでも、霞が今でも生きていたら何をしていただろうという妄想は、どこかでしてしまうのだ。夢に出てくるようになったのよりもっと前。双六から還ってきて、霞を忘れないと誓ってから、ずっと。

 そう、それこそ不意に交差点の角からも飛び出すような子で、俺もどれだけヒヤヒヤしたか。例えばこの角を曲がろうとした際に――。

「あっ……」

 そこから先は、思考でさえもどこかへと飛んで行ってしまった。だってそこに、俺たちが見たかった、求めていたものがものの見事に居住まいを正していたのだから。

 一本だけすっくと紅楓が立つとある京の街角。そこに雪が降り注いで、見事な紅と白のコントラストを描き出している。

「綺麗……」

 人は、余程驚いた時か、余程素晴らしいものを見た時かしないと、真の意味で言葉が出てこないことは中々ない。そして今の俺たちは、正にその後者だった。本当に、綺麗としか言葉が出ない。

 傘を傾けて、頭上に広がる紅の視界を眺める。角度的に、傘が傘としての意味をなさなくなっていたけど、俺も京楓も気にしなかった。どうせ大層な荷物は持っていないし、風邪さえ引かなければ物を濡らす心配もする必要がない。

 だから、思い切って傘を畳んでしまった。そして塀に傘を立てかけて、頭に雪が降り注ぐのも気にせず、刻一刻と白が紅を侵食していく様を見続けていた。

「あっ……」

「ほら、手先は冷えやすいから……」

「うん……」

 冷える手を、同じく冷える手と繋ぐことで、一つの熱が生まれる。その熱はどんな熱よりも尊くて、そして愛すべき存在であることをお互いに知っている。

「一緒にこの景色が見れてよかった」

「――私も」

 この町の楓の名を授けられた、俺の最愛の人をそのまま抱き寄せる。勢いで、頭にうっすら積もった雪がパサッと落ちた。

 カイロすらもいらない。お互いがお互いの暖房だ。いつしか色気もなく身体を擦り寄せあったこともあったけれど。今は様々な意思を込めてこうやって抱き寄せられる。その熱が、急に愛おしいものに思えてきて、一つの焦燥感ともなって俺を離さない。

 あぁ、まただ。もう最近はずっとそうだ。傍に京楓がいることが、とても愛おしくて、これ以上大事にしたいことなんてなくて――。

「――苦しいよ、暁」

「ごめん、でもこれくらいでもまだ足りない……」

「でも、この苦しさが嬉しい、かな」

「――うん」

 あまりにも、切ない。

「――暁だ」

 背中に回された腕が、指先まで一つ一つ確かめるようにして、俺の背中の感触を確かめている。

「暁の温もりだ……」

 それは、どこかいつか失われるものへの感触を確かめるのにも似ていて。だから、俺はつい、その真意について尋ねてしまう。

「改まって、そんなにつぶさに確かめて、どうしたんだ」

 だけど、京楓は暫く無言を貫き通した。熱があるわけではない。だからぼんやりしているわけではないのだろう。寧ろ、はっきりと意識して背中に回した手を動かしている様子だ。

「ねぇ、暁」

 一分ぐらいが経っただろうか。徐に顔を上げた京楓は、感極まったかのような、だけど不安で仕方がない目をして口を開く。

「私ね、暁が好き。この世で一番好き。だから、暁のことは、可能な限り知っていたいと思うんだ」

 その言に偽りがないということだけはすぐにわかった。だって、その声は震えていたから。震えて尚、それだけを先にまず伝えようとしてくれていた。

 だけど、それよりも。京楓が言いたいことの主題はそこになくて、何より俺の内心を見透かされているような心地を覚えて――。

「正直に答えて」

 そして京楓は。

「暁さ……」

 俺がひた隠し――いや、自分のことながら自分自身が認めようとしてこなかった事実を暴き出す。

「もう、限界が近いんだよね……?」

 そして、俺は。

「……あぁ」

 それを否定しなかった。否定、してはいけなかった。

「――やっぱり、そうだったんだね……」

 もうすぐで夢は終わるということを、俺だけが知っていた。それは希望に溢れた終わりではなくて、タイムリミットを迎えて、ミッションクリア出来ずにゲームオーバーになるそれだった。

 実際どんなもんか、いつまでかなんて正確にわかるものではない。だけど、肉体的にも精神的にももうボロボロなことはわかっていて、そして何れもが壊れる足音が傍まで迫っていることもまた理解してしまっていた。

 それこそ、削りに削られたみさきの鬼縁みたいなものだ。既にひびが入り、それでいて尚も外圧がかかり続けている。パリンと音を立てて割れ、中にいる俺を鬼が捕えて引きずり込むまでに、そう時間はかからない。

 俺自身の精神だけが耐えればどうにかなるものだったならば、まだ手の打ちようがあっただろう。そうしたら、分霊箱にわけたかのようなあらゆる逃避先に縋って、ひたすら逃げ続けた。肉体的な疲労もあったけど、休んでまだどうにかなる範囲だった。

 だけど、鬼と縁が結ばれた時。鬼は、縁を伝わって『悪意』を送り込んでくるようになった。それは俺自身のこと、俺と京楓に関すること、霞に関することなど、俺にとっての悪夢と呼べるようなことばかりで、そしてその中に物理的な毒も交えてきたんだ。

 そして、先日学院で双六と机から鬼の記憶を吸収してからは余計にひどくなっている。それまでは、あくまで現実に存在する盤双六を経由した、双六があるからこその夢しか見なかった。そして今、縁は俺と鬼とを直結している。だから、鬼が俺に見せようとしている悪夢が直に伝わってしまっていた。

 それは、俺が望んだ結果だ。だから、最初に手引きをしてくれた琥珀を責めることは絶対にしない。それに、双六に結び付けられていた縁を吸収しなくとも、どうせいつかは同じ状況になったとは、琥珀もカラスも言っている。その時が、少し足早に近づいているだけなんだ。

 その上で、間断なくこれがこのまま続くのだとするならば。打開策が、今後も見つからないとするのならば。

「――持って一ヶ月じゃないか、とは思うよ」

「……そう」

 それが、俺が自分自身の余命として下す宣告。幾ら大誠に病縁を使ってもらおうと。幾ら京楓やみんなに精神的にも癒してもらおうと。累積し、また日増しに強まる鬼との縁による夢への蝕みは、正に呪いとして俺を弱らせていた。

 誰のせいにするつもりもない。少なくとも、誰も悪くない。京楓はずっと俺を支えてくれた。琥珀には寧ろ無理をさせてしまった。みんなには度々お世話になった。誰も悪くないというのに。どうして俺は誰かを悲しませてしまうのだろう。

 黎が、俺たちの世代にとって、京都という町はいつか憧憬になるそれであると言った。そうでなくても、どちらにせよ、今の生活はいつか憧憬となるものだ。そして、それが俺は人より早いだけの事。そう少しだけ早い。霞のそれに比べたら、俺なんてまだまだだ。

 だけど、みんなに、京楓にとって、俺のいない景色は憧憬になってくれるだろうか。誰かはなってくれるかもしれない。だけど、京楓に関しては、きっとなりえないだろうなという確信だけがある。

「暁が鬼になっちゃったら……その時はどうなるの……」

「そうだな……」

 きっと、京楓もわかっている。だけど、俺の考えを改めて伝える必要があって、だけどそれはただの答え合わせ以外の何物でもない。

「鬼というのは、元々物部総司としてこの現実での姿があったわけだ。だけど、双六の時に俺たちに負けて永沈し、現実では死亡した。だから、現実では火葬されて、その肉体は残っちゃいない。だから、本来ならそんな復活なんて簡単には出来ないはずなんだ」

 だから、本当なら関係がない。だけど、俺が持っていた天縁は、端的に言えば使い方によっては『運命を捻じ曲げる』ことが出来る代物だ。だから、ともすれば『そういうこと』が出来る。出来てしまう。

「だけど、鬼はひたすらに俺を永沈させて取って食おうとしている。だからきっと――というより間違いないと思っているんだけど、鬼は『俺の精神が壊れる』ことを望んでいる。肉体だけは生かして、その上で俺の肉体を乗っ取る気なんだろう。そうすれば、鬼はこの現実に復活することになる。俺の皮を被ってな。そしたら、天縁を手にすぐにでも行動を開始するだろう。真っ先に、京楓は殺されるだろうさ。それこそ――」

 そこからの詳細は、言葉に出来なかった。毒と血の記憶。俺の意識が飛ぶ前に、京楓も大量の血を吐いて、赤い海に沈もうとした時の記憶。それを再来させるわけにはいかない。でも、俺という自我が永沈して、肉体だけが乗っ取られた時は、その時は。

「京楓を殺して終わるわけじゃない。元々双六で鬼が俺だけを上がらせようとしたのは、俺が持っていた天縁が生きているようなもので、そしてそれを使って世界を掌握しようとしていたんだ。だから、その時は、世界が終わる。どうなるのかはわからないけど、少なくとも京楓を含めてみんな生き残れはしないさ。だから、俺という精神が永沈したのなら、俺が俺でなくなる前に、俺が生きて鬼になってしまったら――」

 そして俺は、京楓にとっての死刑宣告を、するしかないんだ。

「――その時点で俺を、すぐ、容赦なく殺してくれ」

「……やだよぉ」

 ぎゅっと、肩が掴まれた。京楓が、今までで一番俺のことを強く掴んでいた。

「やだ、やだ、やだよぉ! 暁が死んじゃうのだけはやだよぉ! そんな……私、生きていけないよぉ!」

「……京楓」

 それは、懇願ですらなかった。その純粋な駄々こねは、だからこそ俺を深く抉る。

「無理だよ! もう私も、暁なしじゃ生きていけないんだもん! 暁は、私がいなければ生きていけないと言ってくれた! 私もそうなの! 私ももう、暁なしで生きられないの! そんな、暁が死んじゃったら、私、私ぃ……」

 冬の切り裂くような寒さのように、京楓の叫びが俺の鼓膜まで切り裂くようにして飛び込んでくる。幼児返りをしたかのようにただただ同じことを叫び続ける京楓があまりにも痛々しくて、思わずその小さくなった身体を抱き締める。

「無理、無理だよぉ……暁がいなかったら、私も……私だって……」

 こんな時、何と言えばいいのか、全く以てその解を知らなかった。

 無責任に俺なんて忘れて、なんて言うのは簡単だ。積み上げた十二年の歳月を、その程度と言い切れるのならば、それはとても容易いことだろう。

 勿論そんなことはない。俺にとってのこの十二年は、全てに於いて俺の生きる意味だった。それを切り捨てるのは、それこそ俺という存在の自殺みたいなものだ。

 京楓にはずっと幸せでいて欲しい。だけど、俺が早逝したとして、京楓の幸せはどこにあるのだろうか。俺を喪って、京楓は独りで立ち上がれるのか。

 無理だろうな、と思った。自惚れでなければ、俺と京楓は、ずっと寄りかかっていた。それは、片方が消えれば、もう片方は支えられずにそのまま倒れてしまうようなものだ。

 そして、だからと言って、別の誰かに俺の代わりに支えてもらえだなんて言えない。それは本気で京楓を怒らせ悲しませるということを知っているし、何より俺がその図を見たくない。

 俺は、京楓なしでは生きられない身体に、早い内にされてしまっていた。気付けば京楓も、俺がいなければ生きていけない身体になっていたと、いつからか知っていたのに。そしてそれが俺も嬉しかったはずなのに。

「どうして……どうしてなのぉ……! 何も……何も、暁に対して出来てないよぉ……! もっと暁にしてもらいたいこと、いっぱいあるのに……私は傍にいて一緒にそれが出来ればいいだけなのに……それだけなのに……」

 結局、みさきや琥珀、クレアや大誠らに支えてもらえるとしても、京楓にとって俺に代わるような存在は絶対に見つけられないのだ。その事実は、正直嬉しくもあり、現状俺が置かれた状況的には、京楓の運命を捻じ曲げてしまったという申し訳なさが先に立つ。

 ともすれば、というよりきっと京楓は俺が死んだら壊れてしまう。だったら、俺が死んだら、壊れる前に死んでほしい、と思うのは我儘なのだろうか。それとも、俺が死んで、鬼に身体が乗っ取られた際に、真っ先に狙われうるのは寧ろ優しさなのだろうか。

「私ね、暁だけしか愛せないんだ……もう、今から暁以外の人と歩む人生は無理だよ……独りで歩くことも……みんなに支えてもらったとしても……」

「俺もそうだよ……俺だって京楓と歩む未来しか考えたくない……。だけど……このままじゃ……俺……」

「だから……だからこそだよ……そんな、無理だよ……やっぱり……暁が……いやぁ……いやだよぉ……!」

 唐突に、いつかの夢がフラッシュバックする。あぁ、京楓が嫌だ嫌だと叫ぶのに既視感があったのは、夢でここのところずっとそれを見せつけられていたからだ。そしてそれは、まもなく正夢になろうとしている。

 その時、ポキリと、何かが折れた音が聞こえた気がした。多分それは幻聴みたいなもので、だけど何か幻肢痛のような痛いという感情が、どこからともなく襲い掛かってくる。

 あぁ、折れたのは。頭上の紅葉の枝が雪の重みによってということなんかじゃなくて。

「――もう、歩かなくてもいいか……?」

 なんとか延命させていた、俺の精神そのものだ。

「ずっと立ち止まって、そのまま終わりを迎えてしまっても、いいか……?」

 そしてそれは、ずっと隣で立ってくれていた、京楓の心をも折ってしまう。

「もう、無理だよ……終わりもなく歩けなんて……そんな……これ以上……」

「いいよ……暁がそれでいいなら……でも……」

 この温もりを抱き締める事すらできなくなりそうだなんて、最初の頃は考えもしなかったというのに。この一週間程度に急速に悪化して、そして余命一ヶ月だなんて、自分ですらこんなにも終わりが近いとは思わなかった。

 こんなことで泣かせたくなんてなかったのに。こんなことで絶望を抱かせたくはなかったのに。こんなことで――こんなことだからこそ、京楓は絶望しているんだ。

 生きているから、絶望が訪れてしまう。俺が今生きているからこそ、京楓が絶望してしまう。そうだということを考える事すらしたくなかったのに。それだけは考えてはいけないことだったはずなのに。

「無理だよぉ……私も歩けない……暁も歩けないなら……私……」

「――ごめんな」

 きっと、俺たちが引き離されただけで、お互いにどこかで繋がっていた血管が千切れて、あの紅い紅葉のように辺りを鮮血に染めて散ってしまう。そしていつか、その紅すらも、真っ白に染まった記憶の中に埋もれて見えなくなってしまうのならば。

「やだ……やだよぉ……生きてけないよぉ……暁がいなきゃ……私……っ」

 ――せめてこの場で、京楓と一緒に、積もる雪に溶けてしまえればいいのにと、それだけを思った。

 

 

 

 

 

 そして、帰ってきて、京楓と二人、部屋の扉を閉じるが早いか、真っ先に唇が京楓によって塞がれた。

「んっ! じゅるるるっ! ちゅ~~~~~っ」

 予想はしていたけど、それは帰るまでずっと顔を真っ赤にしていた京楓に襲われるというのが一番近くて。お互いの舌が荒々しくお互いの口の中を蹂躙しながら、同じように荒々しくお互いの衣服が脱ぎ散らかされていく。

「早くっ……早くほしい……っ!」

 そのままお互いに一糸纏わぬ姿になって、ベッドに倒れ伏せば、あとはもう文字通りずっと京楓と肌を重ねるだけだ。

「あっ、駄目っ、暁、そこ舐めるのはっ、あっ! あんっ!」

 外は雪が降りしきっていて、世界は白く染まって行っている。白い結晶に外の音が全て吸収されて、だからずっと俺と京楓の息遣いしか聞こえない。

「暁がそこ舐めるなら、私だって、暁のをっ……」

 ぴちゃぴちゃという音ですら、雪に溶けていくような心地を覚えた。俺と京楓だけ、世界に二人きり。六畳間だけの狭い世界に閉じ込めた、幸せな箱庭。

「気持ちよくなるなら、そんな口でじゃなくて、お互いので……だけど……その前に……っ」

 どうせ、もうすぐ終わってしまうんだ。だったら、せめてその直前まで、幸せを幸せと感じながらそこで溺れていたい。

「ちゅー、ちゅーしたいっ……ぎゅってしてくれて、上だけでもずっと繋がってたい……っ」

 せめて、俺は京楓との子供を残したい。子供だけでも、遺したい。明日かいつかはわからないけれど、なんとかして。

「んじゅっ! じゅるっ! ちゅ、れろっ……」

 明日で世界が終わるとしたら、京楓との子供を遺したいとは、いつかみさきに語ったことだ。それが現実のものになろうとしているなんて、考えたくもなかった。

「ちゅーらけや物やりない……挿えてぇ……もうわらしも我慢れきないよぉ……」

 だってそれは、俺にとっての世界の終わりで、だけど京楓にとって世界は続くかもしれない。その時に、希望が少しでも遺せるのならと、そう思って。

「あんっ! いい、いいよぉ! 奥にまであき、あぁんっ!」

 別に、死ぬ前にやり残したことを、というつもりは微塵もない。だけど、この状況が解決しないなら、結果的にどこかでそうなってしまうだろうというのが気持ち的にも避けられなくて、それが故に京楓と気持ち的にも離れたくないという思いが強まっている。

「もっとぉ、もっとぉ! いっぱい突いてぇっ! んっ、んじゅるるっ! ん~~~~~っ!」

 そして、京楓と行為に耽る間だけは、そんなことも忘れていられたんだ。

「……ぎゅってされながら暁と一緒にイきらい……」

 目の前の現実から目を逸らして、ただ大切な人だけを見ていられる内は、自分が今幸せであると実感できたから。

「イくっ、イくうううっ、あきらあああぁぁっ!」

 京楓の膣内を白く染め上げ、どっちが持つ熱かもわからなくなるぐらいに溶け合うのは、これ以上ない幸せだったから。

「きょ、うも……いっぱい……あんっ……気持ちよかったよ……暁でいっぱい……奥まで……」

 いつか、それすらも出来なくなるように全てが終わってしまうとしても。

「あっ……駄目ぇ……抜けないでぇ……私の膣にずっといてよぉ……」

 ――俺たちは、全てが明けた朝を待ち続ける。

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