「えーっ、暁暑さあたりで倒れちゃったの!?」
「そ、だから今日はうちで休んでる。あとで大誠のところ行くって」
「あっちゃぁ、急ぎじゃないっぽかったんだけど、暁に伝えなきゃいけないことあるにはあったからなぁ。明日は何もないから大学にも来ないし、明後日かなぁ」
「BOINEじゃ駄目なのか?」
「うーん、前にも伝えた話だから、わざわざ早急に返信が欲しい話でもないしねぇ。明後日直に伝えるよ」
私を訪ねてきた京楓を前にして、私は卒論に頭を悩ませていた。お話自体は、私はあくまで伝言役を仰せつかっただけ。今時まともに携帯も持たない先生のお陰で、それが故に学生らの自立心を高めるのに一役買っているのには皮肉なものだ。
なんでわざわざ私に伝えてるかって? それは、勿論。
「先生ですら私と暁がペアだと思ってるの、流石にどうなんだろうなぁ」
「教授は私と暁の関係というか、暁とクレアさんの関係を知ってるんでしょ?」
「でも先生は京楓とも一緒にいるところ知らないから」
「あぁ、確かに」
先生にとって、学生らの個人的な動向は全てゼミ生からの伝聞だ。だから、時には何かしらの情報が歪んで届くことがある。
まぁ、先生から見てもそう見えるならそうなのだろう。流石に私と暁を含めてなんとか両手の指に届くぐらいのゼミ生はみんな正確な関係性を知ってるけど。
「ところで京楓は今日はそれ以外の用事は?」
「あぁ、私も卒論を。参考文献がここの図書館にあるっていうから。いつも使ってるはずなのに、全然私も気付いてなくてさ。今返却されてるって言うから、それを借りに来たんだ」
京楓が書かなければいけない卒論の傾向の参考文献は、生憎あかりにはない。だから、京楓は卒論の執筆に、私や暁よりかは苦労をしているはずだ。
京楓からすれば、身近に頼れる資料がいっぱいあって、それをあまり使ってない私が羨ましく見えるだろう。私の場合は、あかりにある資料を持ち出して、それを基に先生に尋ねていることが多いから、結果的に大学に来ることが多くなっているだけだ。
「暁がさ、そういう参考文献の探し方がうまくてさ。私もすごく助かってるんだ。私も、少しはそういうこと、暁に頼らずにやれればいいと思うんだけどね」
「まぁ、頼れるところは頼っていいんじゃない? それを吸収出来ればいいんだし」
「クレアさん……それは割と刺さる……料理とか……」
「あー……なんかごめん」
でも、料理の腕は京楓だいぶ上がってると思うんだけどな。いつも通り暁が作ったというものをつまみ食いしたら京楓作だって聞いて驚いたことあったし、もう謙遜する程ではないと思う。
まぁ、私はバイトもあって作る機会が暁並みに多いから? 京楓には負ける気がしないし? でも暁には負けるかな……なんであんなシンプルにおいしく、時には独創的なものが作れるのよ……。
「ふと思ったんだが、そういや黎は最近京都に来てないんだ?」
「黎? 特には聞いてないな」
来るなら来るで連絡がある。でも連絡は大概前日とかだし、都合如何では全く会えないことも多い。
「でもなんで私に聞くの?」
「だって、暁とクレアさんと三人で、よく会ってるって暁から聞いてるから」
「あぁ、まぁそれ自体はオフ会みたいなものかな。みんなとの関係だし、別に今更混ざりたいなら混ざってくれればいいのに」
「いや、でも会話内容が私には難しすぎるかな……」
そんなこともないと思うんだけど。とはいえ、確かに暁の趣味を踏まえて色々やってるような節があるから、内容はいつも突拍子もない。そして黎はいつも動画を回していて、暁がやることなすことを納めている。あれは何に使っているのだろう。
「とにかく黎は、こっちに来るってなったらまずは暁に連絡入れて、その上で私に連絡寄こすから。いつもそうだから、だったらグループ作っちゃえばいいのにっていっつもなるのよねー」
「まぁほら、黎は暁のこと好きすぎるから……」
「そこは彼女として見ててどうなんでしょうか京楓さん?」
「寝取られそうになったら身体を張って阻止する」
「寝取られって……流石に……あるかも……」
「いやそこは否定してよ!」
「でも暁は京楓好きすぎるし、流石に暁は否定するんじゃない?」
「そう思いたいけどさぁ……」
いや彼女が弱気になってどうするのよ。あなたの彼氏は美女祭りの中からあなたを選んだのよ?
「というか寝取られって、どうして急にそんな」
「……暁と一緒に携帯小説的なもの読んでたら文脈的に出てきた」
「いや一体どんな話よそれ」
「幼馴染と付き合ってるんだけど転校生女子に彼氏を取られそうになってた……結局は元の鞘に収まったけど、気が気じゃなかったよぉ」
「ふーん。でもなんで二人で一緒に読んでたの」
「その時のシチュで……ちょっと……何かしようと……」
「……聞かなかったことにするわね」
想定もしていない方向から生々しい話になるのはやめていただきたい。猥談を聞きたい気分とそうでない時とあるが、今は後者だ。
というか、双六では暁と……経験あるのよね……私から誘って……思ってた以上に大きかったな……じゃなくて。
そういえば、京楓はそれを知っているのだろうか。暁は覚えているはずだ。京楓に話して、嫉妬されてるとかあるのだろうか。流石にそれを聞く勇気は持ち合わせてはいない。
「とりあえずさ、クレアさんも卒論まだまだなら、私も同じような感じだし、なんなら二人で進行度合いの報告を定期的にしようよ」
「あー、仲間ね。それは確かに助かるかも。暁はもっと行ってるみたいだしねぇ」
「暁のペースは早すぎるんだよー。一人でぽんぽん進めちゃってさぁ」
「なら京楓の見てあげればいいのにねぇ」
「でもそれも悪いから……それじゃ、私は図書館行くから」
「わかったー。ありがとね」
京楓を見送って、部屋に一人残されて初めて、私は盛大なため息をついた。
同じ学科どころではなく、同じゼミというのもあって、大学では暁は恐らく京楓より私の方が一緒にいる時間が長い。昼食とかは私と暁、京楓の三人で食べることが多くて、大学内に於いて暁と京楓が二人きりというのは、私が知る限りあまり多くない。
だから、事情を知らない人たちからすれば、どうにも暁の彼女は私に見えるらしい。付かず離れずを繰り返し、でも四年間割と隣にいる機会が多く、私自身に浮いた話がないと、そうもなるのかもしれない。
そして、私は。
「それを喜んじゃってるんだもんなぁ……」
勿論否定はしている。知ってる人は知っているけど、初見だとそうは見えないという点について否定できる材料がこちらにはない。
そして、それを私がどう思うかは別だ。本当に常に暁の隣にいるのが京楓じゃなくて私だったら。何度も考えたその思いをいつも表面上は否定するけれども。奥底で燻っているものは中々消えない。
言われ続けたからこそ気付いてしまった節もある。それでも、双六で一度は好きになったのは事実だ。そして、良くも悪くも暁はあの時からあまり変わっていない。だから、再燃してしまえば、私が勘違いするには十分足りえるのだ。
バレてないと思いたいけど。でも、合縁で繋がった関係には、多分この気持ちも知られている。そして知られたままこうなのだとするならば、お互いが不幸せになるだけだ。
「ごめんね。ちょーっとだけ暁貸してほしいなぁ。ほんとは借りパクしたいけど……」
既に見えない背中に向かって、聞こえないように呟く。誰もいないから、大声で喋ったところで聞かれないだろうけど、でもやっぱり本心をひけらかすのは恥ずかしいという思いが勝る。
お話にならないのはわかっているけど。それでも、一縷の希望を捨てきれないのは暁にも原因があると嘯きたくもなる。
私は携帯小説の転校生女子になれるのだろうか。なってはいけないんだろうけど、なれた上で、幸せに終わってくれるのなら、願わくば。
その時、携帯が突然振動をした。電話じゃない。一件のBOINEの通知だった。
「あれ、暁から?」
そして、送られてきた文字列を見て首を傾げた。
「何々……明日この時間も大学にいるなら、俺が行くからそこにいて……?」
あぁ、やっぱり私は、少しだけ欲深いのかもしれない。だって、この程度のことにもどこか喜びを覚えちゃうんだもん。
「――で、僕のところにね……成程」
翌日、丁度予定のなかった俺は、大誠の元を訪れていた。
大誠が見習いをしている精神科医。閉院をしてから、こっそりお客としてではなく訪問した。本来なら睡眠外来にでも行くべきなんだろうけど、昨日看病してもらったお礼も兼ねてだ。
「まぁ……正直、来てもらった上でこう言うのも正直心苦しくもあるのだけれど」
そして、現時点で割と様になっている座り方を俺に見せて、そして改めて大誠が深く座り直す。
「僕も、多分あまり力にはなれそうにないんだよね。如何せん、恐らく暁が尋ねようとしていることは、僕も記憶がないことなんだ」
「そこは京楓と琥珀が言った通りか、やっぱり」
それ自体は想定内だ。そもそもがお礼の方が先だったし、あくまで確認がメインに過ぎない。
「双六から抜け出した翌日のこと、覚えているかい?」
「――そうだな」
前日までと何かが違って、だけどそれとなく晴れやかだった、双六から帰ってきた翌日。そう、あの時は――。
「あの時、僕も暁も京楓もクレアも、双六にいた面子全員が、担任のことを覚えていないって言ってただろう。それが、『それまでの僕らの現実と違う唯一のこと』だった」
未だに、あれは思い出そうにも思い出せない。普通なら、何かを忘れているならばそれを気持ち悪いと思うものだけど、気持ち悪いという感情も湧かず、ただそれが普通だと受け入れていた。
「多分、鍵自体はそこにあるんだろうと思う。だけど、僕たちには確証が持てない。琥珀がもしかしたら何かを知ってるかもしれないけど、琥珀が覚えてない担任のことを知ってるとも思えない。だから、少なくとも僕の方は手詰まりだ。琥珀に何か聞けばわかるかもしれないけど、それを期待するのも違うと思うしね」
それは、俺の認識を敷衍するものであった。そうだろうという予感があって、それを論理立てて肯定してくれるだけの作業。
「ということで、僕から言えることはこの程度かな。悪いね、これは僕もある種の当事者だから、というところがあるからなんだけど、これしか言えないのも心苦しいんだ、これでも。それを理解してもらえると助かる」
大誠はそう言うけれど。裏を返せば、大誠は俺たちが何故か忘却した相手が鍵であると睨んでいるということだ。実質、方向性だけでも提示してくれたことにはなるから、俺としては助かる。
「ひとまず、今日のところはお金取らないから」
「いいのか?」
「ま、見習いの内の友人の相談ぐらいはそれでいいさ」
よかった。価格相場を知らないから、法外な値段吹っ掛けられたらどうしようかと思っていた。仮にそれがあったとして、弁論的に大誠に勝てる自信は一切ないし。
「開業したらちゃんとお金は取るからね」
「友人価格は……」
「今日の分分割上乗せで幾らか高くするかな」
「友人価格ってそっち!? 安くしてくれないの!?」
「逆だ。友人だからこそ確実に来てくれるだろうからという指名料だよ。本来お金なんていうのはそういうのでいいんだ」
「あくどいな……」
「言ってろ」
そりゃ、腕が確かな友人がいたとして。一から同じような職人や医者などを探すより、そりゃぁその友人を選ぶだろうけど。大誠の言うことは理に適ってるけど、それを真正面から言うものでもないと思う。
「ま、暁は多分僕に頼ることもないとは思うけどね……とりあえず、頑張って」
「それはどういう意味だ?」
「馬鹿だから頼る前に勝手に解決してしまう」
「なんだとぅ」
「馬鹿、というと難だけど、これでも褒めてるんだぞ? 自分で道を拓けるのはいいことだ。ここは、本来それが中々出来ない人のためにあるからね」
――褒めてるんだろうけど。俺はそんなに強くねぇよ。
急に真面目なことを言われたから面食らってしまう。全くこいつは、不真面目な時と真面目な時がこうやってくるくる変わるから調子が狂う。こっちの調子ぐらい察してほしいものだ。
「本来精神科は門戸が広くあるべきだとは思うんだ。ちょっとの悩みでも気軽に相談してもらえるような、そんな場所であるべきだと僕は思うし、今後そういうことが出来ればと思ってる。昔、お寺や神社が担っていたような役回りを出来ればってね」
賽銭投げて神頼み。それをするなら、もっと親身に人の話を聞いてあげられる医者になりたい。大誠が目指す精神科医の姿は、なると決めたと朗々と話していた時から変わっていなかった。
「だから暁も軽率に来てね。僕の裁量で賽銭ならぬ診察代はがっぽりもらうから」
「やっぱがめついなお前!」
「はっはっは。まぁ今日はこんなところでいいだろ」
そう言いながら、大誠が諸々の片付けをし始める。患者を前にして自身の帰る準備をする医者なんて見たことがない。
「おっと、暁、帰るんじゃないぞ」
大誠の声は、どうしてかどこかうきうきとしたようなもので、それが面白い話を聞きたいがための好奇心から来ている風なのを、長年の勘が察した。これは、逆に俺がほじくり返す必要があるかもしれない。
「たまには普通に暁の話を聞きたくてね。いい飲み屋を知ってるんだ」
「飲み屋というか……」
「まぁ、普通に餃子屋だね」
大誠に連れてこられたのは、北野天満宮から少し東に行ったところにある餃子屋だった。
「席は……空いてるね。今日は近隣大学生らの占拠はなし、と」
そうして俺たちは窓際の席に座る。今出川通りの車の通行量はそこそこにあって、暗くなった街にヘッドライトの明滅が繰り返されている。
「お勧めは?」
「そうだね。まぁビールで乾杯するとして、やっぱりあれだね」
奥の厨房に向けて、大誠が手を上げて店員を呼ぶ。妙にこなれた感が出ていることが、大誠がここの常連である証左だろう。
「すみません、瓶ビールとレタスの餡かけを一つ。あと定食Cを二つ」
ちなみに、観光都市という一面に隠れがちだが、その実京都は国内有数の工業都市だ。だから京都の飯は所謂ブルーカラー向けにどれもこれも味が濃い。京風と謳う食べ物は外から見た京都のイメージなだけで、餃子やラーメン等京都を頭に関する食べ物はどれもガッツリ系だ。朝にラーメンを食べる習慣があるのも工業都市ならではだろう。この店自体は開店が夕方五時からなようだけど。
「定食の中に餃子は入ってる。あとはラーメンとライスだね。ライスはおかわり自由だから」
「あぁうん、ありがとう」
乾杯用に餃子はわかる。だけどそれより先に挙げられたレタスのあんかけという他で聞かないメニューに心が躍る。
そうこうしている内にビールと、その噂の品が運ばれてきた。
「先に確認しとくけど……」
「どうした?」
「まだ、君は水を飲んでない。がぶ飲みしなさい。先に三杯程度」
「へいへい……」
「君が倒れたのは水分不足もあるからだろう?」
まぁ実際、どの道意識的に水分を摂らなければいけない季節だ。それがわかってて、水をそんなに飲んでなかったのは、確かに倒れるのを早めた一因だろう。
大誠に監視されながら指定された分の水を飲んで初めて、自分のグラスにビールが注がれる。本当は真っ先に欲しかったが、変に酔ってまた倒れるわけにもいかないから、ここは我慢するしかない。
「それじゃ、お疲れ」
「乾杯」
それでも、やはり暑い時期には冷えたビールは染みる。汗もかいているから、更に水分も摂らないとアルコールが早く回るだろう。
「さて、まずはこのレタスのあんかけを食べてもらおうか」
ガラスのお椀に盛られたそれを見る。ぱっと見はどうってことのない、文字通りの『レタスのあんかけ』だ。箸ですくい上げると、どろっとレタスに絡む餡がべったりくっついている。
「――旨いな」
餡の味が、なんというか『深い』。味が特別濃いわけでもなく、それでいてレタスを包む優しい味は、しっかりと出汁が効いている。
成程。これは大誠がまず勧めるのもよくわかる。
「……あれ?」
おかしい。さっきまでここにはレタスがあったはずだ。
「僕の分はどこ行ったんですかねぇ!?」
「え……まさか俺、一人で全部食べてた?」
「ここまでがっつく暁を見たのは初めてだよ……すみませんレタスのあんかけもう一つ」
丁度ラーメンを運んできてくれた店員さんに大誠がもう一度頼み直す。
「まぁ、その食べっぷりなら、ひとまずは大丈夫そうだね。僕が言うことでもないか」
なんというか、記憶にない。ただ、旨いという感情に支配されて、他に何を考えるまでもなくひたすらに箸だけを動かしていた。
「ありがとう大誠。これはおいしいわ。これ餡の作り方気になるなぁ。うちで出来ないかな」
「京楓に食べさせたいってか」
「それもあるけど、俺が食べたいし試したい」
これを自宅で再現出来たら最高だ。出汁はなんだろう。餃子屋だし、きっとラーメンで使う豚骨だとかの出汁と同じものを使ってるようには思うんだけど。でもそうすると家では中々再現できない。まぁべらぼうに遠い場所ではないから、食べに来ればいいんだけど。
そんなことを考えていると、急に大誠に本題を切り出される。
「さてと。食べながらでいいから近況を聞こうか。どうだい、夢の話……は置いといて、元気してたか?」
「まぁ……見ての通りかな。元気じゃないけど病気でもない、みたいな」
「なんだそりゃ」
でも実際、そういうのが一番適当なように思う。大学生活自体は楽しい。ただそれはそれとして、悩みも多い。悩みを逐一考えていたら普通に気が滅入ってしまう。
だから、それこそ大誠に相談をすればいいことなのかもしれないけれど。でも正直どうにも癪だ。内容的に俺が解決しなきゃいけないことも多いし、それにものによっては京楓以外には話したくないことだってある。死んだ妹が夢に出ることなんてその最たるものだ。
勿論、口にすれば、だからこそって大誠は言うだろうけど。でもきっと、事情を知っているからこそ、知ってる範疇でしか答えてもらえないだろう。結局、自分でどうにかするしかない。
「そういえば、大誠と二人きりって、よく考えてみれば殆どなかったよな?」
大誠が塾に行くことが多かったから、いつもの面子の中では大誠との時間が一番少なかった。家族だからそりゃ京楓が一番とはいえ、唯一の同性相手が一番少ないというのも珍しい話だ。
「確かに……僕もあまり記憶にないね。双六はともかくとしても、こうも二人きりは意外となかった」
京楓とみさきと併せて四人は何度もあった。みさきがいない三人ということも結構あった。京楓がテニスをやるために別行動だった時も、みさきと二人ということはあっても、思い返せば大誠と二人きりということは殆どない。授業などで男子だけ女子だけという分類の時は、そもそも団体的な感じで誰かしらがいる。
何より俺が、京楓と離れていることがそこまでなかったんだ。だから長い付き合いなくせして、その実二人きりの想い出というものがからきしになっていた。
「意外となかったんだなぁ……」
「こうしてみるとびっくりだね」
そもそも。大誠は昔から塾とかに通い詰めで、京楓もみさきも、大誠と二人きりだった機会は俺と同程度だろう。だから、俺からすれば、いつもの面子の中では唯一の同性でありながらも一番縁が薄い相手であると言える。
多分、俺は大誠の人生に他のみんなに比べてあまり影響を及ぼしていない。大誠は、元からある程度の進路を決めていた。だから、俺などへの観察をする余裕があったし、何かあった時には助言をくれていた。
要はみんなの中で父親みたいな存在だったのだ。母親はみさきで、息子の俺と娘の京楓は共に不出来。勿論、だからと言って優劣があったわけじゃないけれど、気付けばそんなポジションに収まってた。
大誠に対し、いつもの面子の中で影響が大きかったのはやはりみさきだろう。この面子の中では、みさきと大誠の付き合いが一番長い。大誠が何かしらの医者を志すきっかけと言うのも、どうにもみさきにあるようだし。
だけど、結果的に一番影響を与えたのは鹿乃となったことは疑いようがない。それが大誠にとって幸運だったのか不幸だったのかはわからないけど、あの時空から降ってきた彼女が、大誠に取っての人生のターニングポイントだったのは事実だ。
学院卒業前。精神科医になることを決めたとみんなに伝えてきた大誠は。鹿乃の頭を軽く抱き寄せながら『こいつのお陰で決心がついたよ』と言い放って。それでいてまだ付き合わないのかとみんなで小突くこともしたけど。大誠に取っちゃ、それらは全て些細なことでしかなかった。
今の大誠にとって、鹿乃は碁盤の目で区切られてない将来への羅針盤だ。俺たちの誰もがそれになれなかったことに、少しだけ悔しさを覚えもするけど。
「ま、僕が真っ先に気にすることは、やはり最近の暁と京楓がどんな感じかというとこなわけだけど」
「それしかねぇのかよ!」
大誠は今も変わらず忙しい。進路を明確にした大誠は、そこを目指して邁進している。だから、ともすれば学院までの時より忙しくしているかもしれない。
それもあって、大誠は余計に会う機会が少なくなっている。ずっと前からのことかもしれないから慣れているけど、でもあの双六を経験してしまっている以上、縁というものは奇特で、それが故に維持をしようと試みなければ簡単に途切れてしまうことを俺たちは知っていた。
「そ、それ言うなら大誠だってどうなんだよ。鹿乃との付き合いの話、大誠からも鹿乃からも聞かねぇぞ」
だけど、裏を返せば、それは俺たちが大誠と鹿乃の近況を聞きたがっているということでもある。鹿乃は琥珀を尋ねにうちには割と来るけど、でも大誠との関係は琥珀相手でも話してはくれないし。
「あー、それはなぁ、うん」
急に大誠がどもった。これは何かある。
「――笑わないか?」
「内容による」
「嫌な予感しかしないが……まぁ話そう」
さて、蛇が飛び出てきそうだが、果たして。
「愛が重い……」
「……ブワッハハハハハハハハ! ハヒャヒャヒャヒャビャァ!?」
スパーン! といい音がした。普通に痛い。
「笑うなって言ったよな……」
と、言われても。だって、あの鹿乃が、なぁ?
「無愛想の極みと言うか、そりゃぁ今でこそってとこはあるだろうけど、俺からすればあいつはいつまでも沈痛な面を下げてるってとこはあるからなぁ……」
「おい。それは聞き捨てならんな」
「いやいやいや、単純な出会った頃合いだけで言うなら、あいつは誰よりも先に知ってるから。なんなら大誠や京楓やみさきより早いわけで」
「まぁそりゃそうだろうけどね……」
あいつが俺に対して向ける視線なんて、陰鬱としたもの、言うなれば猜疑心に満ちたものばかりで、それが故に大誠相手にデレッデレな姿を想像しろという方が難しい。
「だが、暁一人が知っている鹿乃はもういないんだ。それはわかってるよな」
「それ自体を否定はしない。しないが……違和感がな……」
というより、双六の時ですら、凶暴性を身に纏っていただけで、本質はそう変わってなかったんだけどな。双六から帰ってきてからの変わりっぷりは、何か悪いものを食べたのかと思うぐらいのものだ。
大誠が鹿乃と付き合うことになると言った時。知ってたという反応と驚きと、反応は半々だった。鹿乃が大学を決めてちょっとしたくらいだったろうか。
だってなぁ? あの鹿乃が大学受かったご褒美欲しいって言って大誠を誘ったっていうからなぁ? そして据え膳を食う以外の選択肢を強制的に潰された大誠は、責任を取って付き合うと鹿乃に伝えたという。
まぁ、その時の大誠のコメントも『結婚させられることになった』だったしなぁ。それはそれで結婚は早すぎるだろとか、やっとかとか、それを聞いた鹿乃が顔を赤らめながらまだ付き合うだけだよと弁明するとか、まぁ色々あったけど。
一番想定外だったのは、大誠がべた惚れしたってことだ。大誠本人は隠しているらしいけど、気付いてないのは大誠だけだろう。
「で? 話を聞く限りだと、だいぶ鹿乃から大誠への一方的だな。最初のきっかけだって大誠が受け止めようとしたからだし、ほんとに大誠は鹿乃に何かしてやってんのか?」
「ほぉ。それはだいぶ聞き捨てならないな」
大誠が明確に臨戦態勢を取る。これは酒飲みの面倒な絡みが始まるぞ、シラフの俺が説き伏せてやる。
「鹿乃は、あれでいてな、かなり尽くしてくれる奴だ。京楓はどうだ? 話を聞く限り暁が尽くしてやってるじゃないか」
「それはいいんだよそれで。俺は京楓に何返しても返し足りないからそれで丁度いいんだ。そりゃ俺だって京楓に尽くされたいとかあるけどそれとこれとは別問題だ」
「言ったな? 今尽くされたいって言ったな? それは願望であって、実際にされているのとは程遠いんだ。わかっているのか?」
「あいつはどっちかというと並んで立ってる感じだからどっちかが尽くしたらどっちかに尽くし返すみたいな感じなんだよ! それは幼馴染というか家族のような阿吽の呼吸でしか出来ないもんなんだってば!」
「阿吽の呼吸だぁ? わざわざそんなものが必要になるのがアホらしいな。そう言うなら黙って京楓に尽くしてやれよ」
「じゃぁ逆に聞くけどよ、大誠は鹿乃に何か尽くしてるのか? お互いがお互いに対して不満を抱かないのが円満の秘訣だろ? 片側通行は破滅の元だぞ」
「それは……」
詰まった。明らかに詰まった。追撃をするならここだ。
「ほら! そこで答えられてない! つまり何もしてないってことだな!? そうなんだろ!?」
「そういうわけではない! だがその前に暁も京楓から受け取ってるわけではないんだろう!? だったらその関係は暁の理論の通りなら不健全じゃないのか!」
「だーかーらー俺も京楓も満足してるってんだろ! それに俺だって京楓にしてもらっているつもりでいるぞ!」
「ほぅ、なら具体的に言ってもらおうか」
「わかってない……お前は本当にわかってない……。京楓はなぁ、『いて』くれればそれで十分なんだよ! 存在してくれるだけで俺には十分なの!」
「僕に具体例を聞いておいて自分がそれは卑怯だぞ! というかなんの説明にもなってない!」
「鹿乃はお前にとって最近会った後輩なだけだろ! 俺と京楓は幼馴染であって家族! 家族に特別なことは必要ない! 無償の愛一つあれば唯一にして絶対の生きる理由になる!」
「そんな無茶苦茶な理屈が通ると思ってるのか! 人に説明を求めるならまずは自分がしてみるんだ!」
「だー! その辺りの機微は大誠には絶対わかんねぇよ! 口じゃ無理だ! 感じろってんだよ!」
これでは埒が明かない。燃料だ。燃料を足そう。だから、グラスをひったくってビールを流し込もうとする。
だけど、手に取ったグラスは空だった。そういえば、さっき瓶自体も空にしてしまっていた。だから注文しなければ酒はもうない。
大誠もそれで我に返ったようだ。数秒前までの自分と、今の静寂を比較して、存外に大きな声で会話していたことを知る。
「――やめようか、これ……」
「そうだな……不毛すぎる……」
他に目ぼしい客がいなくて助かった。いや明らかに店員さんにも聞こえるような声で話してたから普通に致命傷なんだけど。
流石に、この空気でずっと居座れるほど神経は図太くない。丁度飯関係も全て一旦空にした状態だった。今日はこれが引き際だろう。
「騒がしくしてすみません。おあいそ……」
まぁ、でも、確かにいい店だった。またちゃんとこの店に来るために、騒ぐのは程々に。出禁にされたらたまったものじゃない。
さて、西院までは北野白梅町からまっすぐに南下して大体4km。歩くには微妙に遠いし、酒酔いにバスは辛い。同じ理由でタクシーも却下。そもそも高い。
「――嵐電で行こうか」
「そうだな」
帷子ノ辻までぐるっと回りこむし乗り換えも必要だけど。でも車みたいな揺れ方はしないから変に気持ち悪くなることは少ない。バスより安い均一運賃だから財布にも優しい。
そして、北野白梅町の駅まで歩いてくると、大誠が驚いた様子で駅舎を見上げた。
「――ここ、駅舎もっと古くなかったっけ?」
「俺は全然来てないから知らないけど……そんなに変わったの?」
「新しくなったというか……まぁとにかく、見覚えがないような感じで驚いた」
言われてみればそうだったかもしれない。駅に沿ってバス乗り場が新たに整備されていて、屋根付きのバス停が次に来るバスと乗客とを闇の中静かに待っていた。
本来ならば古くなって役目を終えた建物は建て替えられるのが常だ。京都という町は歴史的建造物が多いから、どうしても実感が薄くなりがちになってしまう。
確かにこの駅は、うっすらと覚えているのは、なんというか、昭和の香り漂うどこか古ぼけた建物だった。それが今ではこざっぱりとしたものに建て替えられていて――。
「人も町も、常に変わり続けているんだな……」
その大誠の漏らした呟きが、どうしてだか頭から離れなくて。
変わらないものなんてないんだと、酔って回らない頭で、それだけを思った。
夏休み中の大学程、騒がしい所と静かなところがはっきりしているところはそうないと思う。そして俺の目的地は、本来なら誰もいないはずの静かな部屋だった。
BOINEじゃ、クレアはバイト以外は大学で卒論に頭を悩ませているらしい。あまりあかりでやらないのは、教授がいるメリットの方が大きいからとのことだけど、俺としてはあかりでやってくれれば楽なのになぁってなる。
まぁ、こんな頭振り回してうなる姿を他の誰かに見せられないってのもあるんだろうけど。客前でそれなら、飲食店としてもどうなんだという話にもなるし、わからなくもない。あとは彼女が所属しているアニメ研究会にも顔を出せるから、それもあるのだろう。
「クレア」
俺は、先ほど自販機で仕入れたばかりの冷えた緑茶のペットボトルを置きながら話しかける。
「卒論の研究、俺も手伝っていいか?」
自分が声をかける前にそんなことを突然言われたからか、クレアの目が白黒している。
「問題ないしありがたいけど……突然どういう風の吹き回し?」
「そうだな……話すと少し長いんだが」
そうして、俺は京楓に話した内容の夢の話を同じように伝える。
「双六の時の記憶そのままの夢ねぇ……。それで双六の研究ね。確かに筋は通ってるね」
話を聞いたクレアは、腕を組んで、頭の中で情報を整理しているようだった。すると、何かに合点が行ったかのように、急に俺に対して身体を乗り出してくる。
「あっそうそう、聞いたよー? 暁、自宅で急に倒れちゃったんだって?」
案の定、クレアにもその話は行っていたか。まぁ、先日京楓と会ってたようだから、その際に伝わったんだろう。
「あ、そっか、研究の手伝いって、もしかしてそれに関連して」
「そうそう。何か手掛かりになるかなって」
「いいけど……それで何か解決の糸口が掴めるっていうの?」
「さぁ? ただ、実害が出ちゃってるから、俺としては藁にも縋る思いってのは本音だ」
「私から見るとそれより休んだ方がいいと思うけどなぁ……」
クレアは動かしていた手を止め、完全に俺の方に向かい合う。暫く自身のそれを進めることを諦めたようだ。
「そうそう、私からも伝えることがあるんだった」
ポンと手を叩いて、忘れていたという素振りを俺に見せる。それだけで、何を話すのか、内容の察しがついた。
「暁、先生が決めるなら早い方がいいぞって」
「まぁそうなんだけどなぁ……」
ずっと、俺とクレアのゼミ担当教授から俺にだけ言われていること。教授の研究内容の手伝い。すなわちそれは、どこか大学院に進んで、そこで選ぶ研究と併せて二つの研究を掛け持ちすること。そして教授の研究手伝いは新卒給料より少し安いくらいのお金も出すと言ってくれている。
教授はゼミの中でも特に俺のことを気に掛けてくれていた。俺とクレア以外にも何人かゼミ生はいるが、ゼミ生の中でも明らかに目の掛け方が違うということは自他ともに認める共通認識となっている。
ま、当たり前だけどやることはやって、その上で高評価もらってるわけだから、文句自体は付けられようがないんだけどな。趣味と実益が合わさるから必然的に好きなことで動くだけで研究になってしまうし。
「私からしたら、院に進んで、お金貰いながら好きな研究出来るって、これ以上ない贅沢だと思うんだけどな」
「それ自体は俺もわかってるさ。研究自体が大変というのはあるだろうけど、大変なのは就職とかそういうことをしたって変わらないし、何に身をやつすかが変わるだけさ」
「――やっぱり京楓のこと?」
「それもある。けど一番は、俺自身のことだ」
「暁、好きなことが出来るって大事だよ? 仮に同じ時間を何かに取られるとするならば、どうせなら好きなものに時間を割きたくない?」
「いや……でもさ、それでもやっぱり……」
「別に先生にも誰にも言わないから、どもるなら私には話してくれていいのに」
まぁ確かに、今俺たちの他には誰もいないし、クレアも教授に告げ口することはないだろうから、話しても問題はないか。
「一言で言えば、薄給」
「まぁ、確かに普通の会社員と比較してもたかが知れてるよねぇ……。とはいえ、院に進むなら進むで、お金はかかるしねぇ」
「そりゃそうだけど、でも、そもそも本当は院に進むつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。卒業したらちゃんと働かないとなって。でも、やっぱり京楓や琥珀に料理は作らないとだし、時間は時にはお金より大事だって感じることも、やっぱりあってさ」
最初は、それ以外考えてなんていなかった。あの家にずっと厄介にさせてもらっている以上、卒業をした段階でお金だけはちゃんと入れるようにだけはしないとって。
そもそも、大学に行かせてくれただけでもありがたいのだ。ましてや院なんて、とてもではないがお金の負担が大きすぎる。
「でも、初年度から高給取りみたいなものって、ベンチャーか、もしくはじゃじゃ馬のように働くしかないとこで、とにかく残業が絶対すごく多いはずなんだよな。生憎頭がいいわけでもないのは自覚してるし、特別な技能持ってるわけでもないし。となると給料高くてがむしゃらに働くか、低くても時間を取るかってなるからな……」
そしてそれは立場上どちらも譲りたくないのが本音だ。付き合ってるからとかそういうのは抜きにして、京楓や琥珀が俺がいなくても生活が一切出来ないとは思ってはいないけど、せめてあの二人のためにちゃんと稼いでやって、その上で家事とかもしてあげたいと思うのが本音であって。
「とにかく、俺は俺一人のものじゃないんだって、京楓が教えてくれたから。これでも前向きには考えてるんだ。教授も諸々手続きあるだろうし、俺も決めたら決めたらで院入試のこととか考えなきゃいけないしで早いに越したことはないんだけど」
「はいはい」
京楓にしか話してないが、実はこれでも一ヶ所だけ企業内定は出ている。だけど、初任給は教授が提示した金額と同一で、その上残業時間が妙にホワイトすぎて、それでいて夜遅くに入居するビルの前を通ったら、電気が煌々と付いていたこともあった。何より離職率がどうにも高い。
要するに、ブラック企業的な臭いが拭えないとこだ。新卒カードを切ってまで、三つ指ついて入るべきとこかと問われたら、正直疑問符が浮かばざるを得ない。
まぎれもなく勉学にいそしんでいたという自覚があって。それを面接でお祈りという形で否定されて。時には人格自体も否定されて、心に決めていた恩返しの時が遠ざかるだけということだけを後から知る。
大誠にサラリーマンは向いてないと評されたのはいつだったろう。それを、こんな形で知りたくはなかったのに。やり方が悪いだけかもわからないのだけど、社会人のスタートラインにすら立たせてもらえないという事実は、今の俺にはあまりにもきつい。
「けどなんでそこまでお金重要なの? 事あるごとに口にはするけど、ちゃんと聞いたことなかったな」
「あれ、そっか、クレアには話してなかったっけ。まぁ、話すというか……察してほしい、というのが本音だけど」
「あぁ……そっか、ごめん。それを暁の口から言わせるのは酷だったね、そうだよね」
クレアが神妙な顔をする。やはり、察せられた際の反応はどうにも慣れない。そういう顔をしてほしいわけじゃないというのは簡単だけど、でもそれを押し通すのもエゴなんじゃないかとは常々思う。
「まぁ、教授の誘いには、勿論利点もあるんだけどさ」
「例えば?」
「確実に転勤がない」
「それは……暁には確かに大事かもね……」
あの家で暫く――もしかしたらずっと――暮らすつもりな以上、俺が他のところに行ってしまったら、京楓や琥珀が食いっぱぐれてしまう。琥珀は『あかり』でどうにかしてもらった上で自炊だとして、京楓は、自分一人で全てをこなせるかというと、厳しめに見ると、まだ怪しいとこがあるのも事実で。
――そりゃ、俺のと同等とか言わなければ問題ないけど。俺が散々手ほどきしたんだから。
「転勤がないといえば、工場とかは?」
「それはなー。ごく最近になって、そうすべきだったんじゃないかってちょっと思ったよ。それとも、今からでも考えるべきなのかなぁ」
余程のことがなければ、若い内から一千万も稼げるような職には付けない。出来るとするならば、時には血反吐を吐くようなことをしてやっととなることだってある。工場とかは、堅実ではあるかもしれないが、猛烈に稼ぐようなことは難しい。
だけど、働く先を選べば転勤がなくて、堅実に稼げて、時間はしっかり確保できることが多い工場勤務が、あの家のために俺がすべきことだったんじゃないか。そんなことを、ごく最近になって気付いたのだ。勿論卒業したらそれでもいいのだけど、好きなことが出来ている手前、それを手放すのも惜しいという気持ちにもなってしまう。
もっと決心が早ければ、そういうところへの就職へと舵を切っていたのだろう。だけど今からやるには遅すぎるという感覚が拭えないし、何より学部専攻と関係がなさ過ぎてアプローチ方がわからない。
折角大学へと行かせてもらったんだ。人生の夏休み的な四年間とするんじゃなくて、今後の人生のために必要だった四年間にしたい。
「で、とりあえず、卒論の手伝いは寧ろ歓迎だし、それなら暁のその夢の話と併せて、私からも調べてみるね。ところで私は暁の手伝いはしなくていいの?」
「いんや、それは特にその気はなかったな。まぁ協力してもらえそうなことがあったら頼ってもいいかなとは思うけど、今のところ予定はないなぁ」
正直、自分の卒論はもう八割方完成している。これは京楓にしかバレてないが、就活が嫌で目を逸らしてしまっていた結果、卒論だけは他の人より何倍も速いペースで進んでしまったというのが真相だ。ちなみに、教授に卒論のペースを伝えたら、余計に是非とも手伝いにと目を輝かせていた。
勿論それじゃ駄目な奴だった。だから名の通った企業でいいように稼ぐという道は既に諦めている。でも、インターンだなんだと大学の講義を疎かにしてまで有名企業に入りたいかと言われればそういうものじゃないとなるし、それはそれで俺が重要視したい事の幾らかは失われてしまう。
結局、働くビジョンがこの期に及んで見えてないのが問題なのだ。だからせめて、何を最優先させるかということを筆頭に今悩むべきであるのだけど、そのリミットは本来ならば既に過ぎている。
「私からしたら、暁が悩む理由がわからないんだけど」
「理屈じゃないんだよなぁ……いやまぁ理屈もあるけどさ」
最優先させたいことは京楓の事。家の事として見るならば琥珀も入るだろう。
京楓にはあぁ言ってしまったけど。俺が仮に命を賭してでも守りたいものは、あの家族であって、そして仲間たちなんだ。そして俺自身は、クレアと違って弱い人間だという自覚があるから、その輪にしがみつくしかない。転勤だとかでみんなから独り離れ遠方にでも飛ばされたら、正直生きていられる気がしない。
みんなを守れるように。そしてその中に俺がいられるように。選択は慎重にしなければいけない。
「そうそう、手伝いに当たって、一つだけ条件付けてもいいかな」
「――突拍子もないものでなければ。というか俺がクレアに何か頼むのが筋じゃね?」
「まぁまぁそう言わず。それはちゃんとその後で聞くから」
「いやなんでそうなるの……それで」
そしてそんな中、頼れる相手にはどこか甘える性質のある彼女は。
「どっかでデートしてよ。私と」
俺の懸念を気にも留めず、そう、突拍子もないことを言うのであった。
河原町が京都一の繁華街だとするならば、四条高倉はビジネス街の四条烏丸との中間点が故の均衡地帯といったところだろうか。アーケードはずっと烏丸近くまで伸びてるから、どちらかといえば河原町の繁華街がここまで来てるという方が正しいのだけど。
「だって四条高倉からの方が寺町銀座近いじゃん?」
阪急に乗らず、わざわざ観光客で混むバスに乗り込んだ理由をクレアはそう説明した。まぁそりゃ自宅から西院の駅まで歩く手間も省けたけど。でも他の車で道が混んでいるのだから、余計に時間を食っただけなようにも思う。
日曜の繁華街は、当たり前だけど人通りが多くて、場所によっては人を避けて歩くのすらままならない。だから、こうして見ると確かに四条河原町側から混む歩道を歩かずに済むのは楽かもしれない。
「そういや今日出かけるの、京楓にはなんて説明したの?」
「そっくりそのまま伝えたよ。『クレアが俺とデートしろというからしてくる』って」
「ほんとにそのままだ!? そしてさり気なく事実が捻じ曲げられてる!? 京楓はなんて?」
「『それは寧ろクレアさんが暁の言うこと一つ無条件で聞くべきだろ』だってさ。俺が最初に言ったことと同じ」
「まぁそうなるかぁ……図々しかったかな」
その言に、俺は無言を貫いた。嫌ではないつもりだが、だからといって図に乗らせたいわけではない。だから、それとなく察してくれという暗黙の了解的に察してくれ――というつもりだったのだけど。
「まぁなんだかんだ暁は合わせてくれるからね。だからついつい甘えちゃうというか、暁を振り回したくなっちゃうな、とか」
「おい俺の意志はどこ行った」
「あ、メロンブックス寄っていいよね?」
「聞けよおい!」
そもそもメロンブックス寄りたいのはクレアが最初に出してた要望だったわけだし。そうでなければ四条高倉でバスを乗り捨てないし。
だからまぁ、そりゃ嫌じゃないけどさ。それでも、どうせなら俺は、と思うところもあるわけで。
結局メロンブックスはウインドショッピングだけで終わらせた。クレア的には買いたいものがあったようだが、どうにも大きいブツだったようで、今買うには後々面倒だという理由で一旦は見送ったそうだ。
その後、寺町通りの地場チェーンのおばんざいの店で昼食を済ませる。クレアが、ディナーで来ると五千円とかかかって高いんだからと言って紹介してくれた店だったけど、千円前後でチキン南蛮か十食限定の黒毛和牛ハンバーグとかが選べて、おばんざいがあって、且つ何故か豆腐お替りし放題のヘルシーなプレートが食べられて、確かに中々破格な店だった。これはまた来るしかない。
食後は、人混み激しい河原町を抜け、鴨川に至る。京阪側の少ししか人が歩いてない河原と、他方信号待ちの人でごった返す四条通りとの差が激しいのは、いつ見てもどこか可笑しい。
「いつものことだけど人混み疲れる! 河原に下りる! 下りたい!」
そしてクレアは、どこか駄々っ子のような面持ちで、急に俺の手を引っ張り始めた。
「痛い痛い……そんな引っ張んなくたって逃げねぇぞ」
「空間の余裕は心の余裕!」
「いやよくわかんないから!」
そりゃ混んでて人にぶつかったり足踏まれたりでイライラするようなことは減るだろうけど。というか観光客か誰かはわからないが、妙に俺たちのことを生暖かい目で見ている人たちがいたぞ……クレアは気付いているんだろうか。
祝日の鴨川河川敷の午後は、人のことは言えないが、カップルからしたら絶好の逢引スポットなのだろう。炎天下の中、よくもまぁ日向に座って逢瀬を楽しめるもんだ。
しかし、参った。午後にはなったし、東側の四条京阪側は、少しだけでも影が出来ているものかと思ったが、全然そんなことはなく、西側の四条河原町側と変わらない日向の様相を示している。これでは、四条河原町側に居座るカップルたちを笑えない。
「やってみる?」
「いやどうしてそうなるの」
「人混みで疲れた! 休憩しよーよーねー暁―ねー」
「それは慣れてるだろって……それに日向に座るには流石につれーよ……まぁ橋の下なら」
橋の下に、堤防が盛り上がっているポイントを見つけて、そこに腰を下ろす。ビニールシートなどはないから直に座っていることにはなるが、これはもう仕方ない。クレアもそれは承知の上だろう。
そしていざ寄り掛かると、案外上流から吹き降ろす風が涼しくて、日陰に腰を下ろしたことと相まってこれなら暫く過ごせそうという心地を覚える。
「はー、一息付けたー。暁は慣れてるでしょ、こういうの」
「いやそんなことはないぞ。そりゃ京都在住とはいえカップル全員が必ずどこかで一回は鴨川に座るわけじゃない」
「いやいや冗談でしょそれ。というより京楓といつもしてたんじゃないの?」
「いや京楓とはしてないな……だいぶ前にみさきとなら」
「えっ、みさきと!?」
「京楓と付き合うようになる前の話だよ。鴨川カップルの法則を見に行くぞーって俺が言って、でも大誠は塾、京楓はテニス部で、暇で俺と出かけたかったって言うみさきと来ただけ」
まぁ、これ自体は隠すようなものでもない。幻日に出てくるようなものなら、大切であれど、今の俺と京楓の関係性を壊すようなものではないからだ。
あの時は、みさきが再びの病に倒れる前で、それで俺も誰かと付き合うというようなことを考えてなかった時期だったから、みんなとのあいまいなぬるま湯に浸かっている関係がずっと続くことを望んでいたっけ。
「へー、暁、みさきとそんなことしてたんだねー」
そして、その時の話を聞いたクレアは、何やら興味深そうに耳を傾けていた。
「『ののさん』としての活動かぁ……知ってたら私もそれ行ったかもなぁ」
「いやいや、その頃俺とクレアはただのクラスメートで、特段親密というわけでもなかったんだし、あったかなぁ、そういうこと」
「うーん、でもみさきとは親しかったから、みさき経由で参加したかもよ?」
「と言っても、そういうことがあった時の俺は、食い気味に勧誘するか、もしくは何か裏があるんじゃないかって訝しがるかのどちらかだろうな」
「でもお互いに『のの』と『紫炎』であることは知らないわけで」
「活動しながらそういう話になって、その上でバレがあったら面白かったかもな。双六の一面の幻日の時点でそれが判明してるとか」
「双六は置いといてもさ。突然出会った同好の士! 話が通じる仲間が出来る! 面白そうなネタがあれば駆けて行く二人! 深まる二人の仲! そして!」
「そこから始まる――っておい、俺に何を言わせようとしていた」
「バレたか」
全く、油断も隙も無い。クレアが俺を頼ってくれるのはありがたいけど、でもそういう誘導尋問的なことは話が別だ。
俺で完結する話ならまだいい。でも俺は京楓を生涯の伴侶にすると心に決めた以上、冗談であってもそういう話に乗るわけにはいかない。俺が京楓にべた惚れと言われればそれまでだけど。でも、京楓も俺を好いてくれているという確信があるからこそ、生半可な気持ちでそんなことをするわけにはいかない。
「そんなifを考えたところで仕方ないだろ。責任転嫁というわけじゃないが、みさきが俺にクレアをそうやって紹介しなかった。それで話は終わり」
「ぶー、ちょっとくらい妄想してもいいじゃんー」
とはいえ。仮に実際に紹介されていたとしたら、どうなっていただろうか。少しだけ思考がそっちへと動く。
京楓とはずっと家族として宜しくやっていきたい。それと併せて、幼馴染組とはぬるま湯の関係でいたいと思っていた頃だ。琥珀は当時猫で、鹿乃は同じ学園にいることを気付いていなかった時で。当時、殆ど幼馴染組だけで完結した世界に求めていたものは、それらに縛られない新しい風だったのかもしれない。
――あぁ成程。そう考えると、確かにあり得たのかもしれないな。今隣で笑う彼女と、趣味をきっかけに『そういう関係』になっていた可能性が。
「さて、疲れも取れたし、ゆっくり歩いて次行こうか。目的地は別途あるし」
「あ、目的地ってあったんだ、今日のデート」
そう口にしながら、少しだけ頭を振って、先程までの考えを打ち消した。あくまであったかもしれない話を今更考えても仕方ない。何より、俺の彼女は京楓で、ずっと好きだった初恋の相手だ。まだこの時は家族だ幼馴染だ親友だの文言でそれに気付けていなかっただけで。
それを知ってか知らずか、クレアは少しだけ視線を遠くに飛ばしていた。橋から南東の方角へ、堤防で隠れた先への町へと。
「私が行きたいとこはね、ここじゃなくて別のとこだから」
「……あぁ」
クレアが来たいと言っていた場所に着いて、俺は感嘆の声を上げることしか出来なかった。確かに、ここならば、クレアが来たいと言っていたのも納得だ。
「ここは、いつ来ても静かだよな。一応は観光地なはずなのに」
紅く染まる六道の辻。俺とクレアが『盤面で』初めて出会った場所。
あの時は秋の紅い空だった。今は夏だから、空があの時より澄んで、故に空は極彩色の夜へと連なる階調を描いている。
「ちょっと待ってて、買いたいものがあるから」
そういうと、クレアが何やら脇の幟が建つ店に入る。幟は二つあって、緑色をしたのは宇治茶、赤色をしたのは子育飴と書かれていた。
「お待たせー」
一分後、クレアが一つの包みを持って店から出てくる。
「えっと、この幟にある幽霊飴っての?」
「そうそう。で、これがね、素朴な味でおいしいの」
「へぇー。そもそもこの辺りは殆どこないし、知らなかったなぁ」
「あ、お金はいらないから。単に私が食べたいからってだけだったし」
一つとして同じ形がない、原材料が麦芽水飴と砂糖だけの手作り感溢れる飴を口に入れると、ゆっくりと優しい甘さが溶け出してきた。
「幽霊子育飴って言ってね。慶弔四年――1599年にある女性が葬られたんだけど、数日後に子供の泣き声が聞こえてきて、掘り返すとその亡くなった女性の子供が生きてたんだってさ。女性は、この飴をずっと買いに来ていた女性で、それでこの飴も自然と幽霊子育飴という名前がついて有名になって、今に至るんだって」
クレアから飴の袋を借りて、ついている紙の付記を読む。その子はその後寛文八年――1668年の3月15日まで生きたそうだ。正直、京都では歴史が浅い方に分類されるかもしれないが、それでも京名物と名乗る分には十二分なように思う。
それから、お互いに飴を舐める間は、下手に喋ると飴なり唾液なりが零れ落ちそうになるから、暫く二人して無言だった。時折、どちらからともなく、舐める飴が歯に当たるカツンという音がそれとなく響く。
今の関係は、双六から帰ってきてから、四年近く続くもので、それが故に、二人きりで会話が途切れることは多々あって、だけどそのどれもが不快なものではなかった。それはクレアが持っていた相縁から始まった通じた意識もあるだろう。
これが彼氏彼女の関係なら、一つの飴をどちらかが口に入れ、そしてキスでお互いの口を飴が行ったり来たりするのだろうか。だけど現実にはそうでないから、二人して同じ袋の、だけど割られて別の粒になった飴を舐めている。
今、クレアは何を考えているだろう。正直、内容の想像はついている。それは六道の辻に来た時点で、もしかしたらと俺がずっと思い続けていたこと。
「――ねぇ」
そして、その考えに呼応するかのように、先にクレアが口火を切る。
「暁はさ、ずっと京楓しか見てないよね」
――あぁ、やっぱり最初からクレアは、今日この話をするために俺をここへ連れてきたんだ。
「双六で、この場所で暁と出会って、西院の駅で暁に待ってるって伝えて、それで、幾度となくここを訪れては、暁が来るのを待ってたんだ。ずっと来ないから、もう私から連れてきちゃった」
あの双六から帰ってきて。幾重に張り巡らされた縁は、新たな想いを生むことになった。そしてそれのせいで、クレアは精神的にずっとここに取り残されることとなった。
クレアが双六に来たきっかけは、みさきのためだったとは言うけれど。その中で俺と組んで、カラスと戦ってあがりを目指して。その中で結実した好きという気持ちは、何物にも代えがたいものだった。
「――私、待ってるべきなのかな。ずっとここで、また暁が来るのを待ち続けなきゃいけないのかな」
ここは六道の辻。クレアと初めて出会った場所。待っているという言葉と共に、彼女は今も茜色に染まる空の下で、俺のことを待ち続けていた。
ここは怪鳥以津真天がいたところ。双六で永沈して死して苦しみを繰り返す幼子が留まり続ける場所。きっと、俺が現れなければ、クレアも死して尚この場所に居続けたのだろう。それはさながら主人を待つ忠犬のように。
西院・円町界隈が京の西の墓所だとするならば。ここは鳥野辺の麓、京の東の墓所。そんな場所にクレアをずっと放っておくわけにはいかない。
だから、俺はこうして答えを返す義務があったんだ。
「ごめん」
それが、彼女の軛を否応がなしに放つ引き金となる。
「嘘、ついたんだね、私に」
あぁ。確かにその通りだ。言い訳なんてしようがない。
「――ごめん」
だから俺は、これを繰り返す以外に何も出来ない。
どれくらい時間が経っただろうか。頭を下げて、かなり時間が経ったようには思う。
「あーあ。やっぱり駄目かぁ。負け戦なのはわかってたけどさぁ、こうもすっぱり切られると寧ろ清々しいもん」
その言葉に返す言葉を、俺は知らなかった。何を言っても傷つけてしまうとするならば、何も口にするべきではないのはわかっている。
「いいよ、頭上げて」
「いいのか?」
「だって、仕方ないじゃん……」
それは自嘲だったのだろうか。事情を知っていて尚も表立っては口に出さず、俺の傍に居続けてくれた彼女自身になのか、それとも俺に向けた諦念だったのか。
「まぁ、ずっと知ってたからね。暁と京楓がずっとその関係で、そしてその関係のままずっといたことも知ってるから。だから、最初から私なんかが入る余地がなかったってだけ」
そう、寂しそうに口にするクレアは、どうにかして自分に言い聞かせるような、少しばかりの諦めの悪さを見せていた。
「――通じ合わせられないって、やっぱり辛いね」
以心伝心だからこそ、わかってしまう。クレアは、俺の言葉を求めていない。俺が何かを言うことで、余計に彼女を傷つけてしまう。
それでも、クレアが大切な『親友』であることには変わりがなくて。だからこそ俺は口を開こうとしてしまう。
「クレア、やっぱり――」
「いいのいいの。それだけ確認できれば十分だから。それとも私が迫れば、京楓と別れて私と付き合ってくれるの?」
「いや、それはない」
「ははは、だよねー。まぁ私も『京楓が好きな暁が好き』っていうとこもあったから」
そうまで言われてしまえば、俺から言えることは何もない。後々気に掛けないようにということなのだろうけど、それが故に今だけは心苦しい。
「一つだけ約束してくれないかな」
ふと、真剣な目をしてクレアが俺を見つめる。
「気に病まないでね。あと、これ以降はこれまでの親友に戻るから、暁もずっと同じようにしてくれること! いい?」
「――二つあるじゃねぇか」
「と、とにかく! そういうことだから! わかった!?」
まぁ確かに、サバサバしてて、気負わず付き合えるところこそが、クレアが親しみやすい一因なのは間違いなくて、そしてその関係はずっと続けてくれるというのならば、俺としてもこれ以上にありがたい話はない。
そして、それがクレアのいいところなんだよな。だからこそ、こういう関係でいられた。居続けてしまった。
「付き合わせてごめんね。ごめん、この後ここで人と待ち合わせしてるんだ。だから、先に帰っててもらえるかな」
それは、まず間違いなく嘘だろう。そうでなければ、デートだと言っていたのに、その後に予定を入れるとかいう不自然なことになってしまう。
「――悪かったな。それじゃぁ、お先に」
そして俺は、その嘘を丸呑みした。それが俺のためであって、クレアのためでもある。そしてそれが、クレアがした約束を守ることにもなる。
「えっと、じゃぁ卒論のことでまた明日……は既に予定があるから、明後日にでも。あかりでいい?」
「うん、いいよー。私バイトの日だから、いつ来てくれてもいいや」
それだけを交わして、俺はクレアから背を向ける。
クレアの卒論の手伝いはどうしよう。まぁ、クレアもわかってて了承は出したのだろうから、それは問題ないだろう。俺の卒論はひとまずは手堅くまとめるとして、そうすれば少なくとも卒業単位に絞れば然程苦労することもない。
それよりも、今日の夕食だ。京楓は今日起こることを理解していたのだろう。だから、京楓のためにごちそうを作ってやらねばなるまい。
でも、今から帰っても、現時点で仕込んである何かというのはないし、手間暇かけたものは出来そうにもない。ならば、手間かけずに満足感が得やすいもの――スパイスが効いたものだな。
確か鶏モモ肉があったはずだ。よし、帰りがけ少しばかりスパイスを買い込んで今日は鳥の香味焼きだな――。
暁の背中がどんどん遠くなっていく。そして姿が見えなくなって初めて、私は深い息をついた。あのまま行けば、五条道のバス停に出て、そして202号系統のバスに乗るだろう。そうすれば乗り換えもなく西院まで一本で帰れる。丸太町経由なら信号を渡ることもない。
「ずっと好きだったけど、仕方ないよね。知ってたし、この方が何というか自然だって、私も思うし」
待ち人きたれり。その上で待つのは無駄だと教えるだけして彼は去っていった。
薄情なのだろうか。それとも、教えてくれただけ義理堅かったというべきなのか。
「あーあ、もっと早く吹っ切れればよかったのになぁ。私が臆病だっただけかー。チャンスなんて幾らでもあったのになー」
飴を一粒、口の中に放り込んだ。琥珀色に輝く飴は一粒が大きくて、一回舐め始めると中々消えない。それが、踏ん切りが悪かった私と重なってしまうことに苦笑する。
その亡くなった女性の子供は、その後八歳で僧となり、修行を怠らず、高名を得たそうだ。それを抜きにして、現世を儚きものだと感じた女性は、頭を刈り上げて寺に出家することもあったという。
だから、その理屈に則れば、私も尼さんになるべきなのかもしれないけど。でも、この世を儚きものだと達観するには、まだやりたいと思う物事が多すぎる。
「あの世界を見てしまえば、修行しなくてもなんて、ちょっと思っちゃうよねぇ」
それに、この現実が極楽浄土以下のものであるとは到底思わない。少し自分から動いてみれば、面白いことはそこら中に転がっている。
この淡い想いは潰えてしまったんだ。ならば、私が次に夢中になれるものを探すしかない。私が『紫炎』だからというのもあるけれど。
電話をしてみようと思い立った。きっと『彼』なら、先程の話を、その相手と相まってそれを興味深く聞いてくれるだろう。ひいては、彼自身の様々な興味を掘り出すきっかけになるかもしれない。
着信音が聞こえて、五回ほど鳴って――よし繋がった。
「もしもし黎? 今ねー、暁に振られちゃったとこ。それでさ、面白いこと探しに行きたいんだけどさー、黎なら興味ないかなー?」
遠い山崎の山へ、陽が落ちる。空がインディゴブルーに置換され、東山に響き渡っていたひぐらしの鳴き声が、不意に途切れる。
「クレアさーん、そろそろケーキ焼きあがりそうー」
「ありがとー。じゃぁみさきはそのままクリームとかお願いできるー?」
「おっけー」
その確認を取って、予め泡立てておいた生クリームをスポンジに塗り始める。少しの加減で味は全然別のものになるから、意外と気が抜けない。
私は今、『あかり』でアルバイトをしている。担当は接客とちょっとした料理と、日替わりのケーキ。私の予定に合わせてシフトは入れてるから、ケーキは日替わりというより不定期だ。私がいなければケーキは出せない。そういう意味では、完全にケーキ要因と化してる節もある。
クレアさんがいて、琥珀ちゃんがいて、そんな楽しいバイト生活。店長さんも優しいし、お客さんも顔馴染の人ばかりで落ち着いて働ける。何より、私のケーキを目当てに来てくれる人がとても多い。
今日はシンプルにショートケーキだ。プロの人からすればショートケーキは邪道と言う人も多いみたいなんだけど、私は好きだ。何よりシンプル過ぎるからこそ、真の意味で技量が問われる。そして、少ない素材を的確に主張させるために、特にクリームの甘さなどは調整を的確にしなくてはならない。
私は、クリーム自体の甘さは控えめにして、イチゴの甘みを引き立てるのが好きだ。クリームだけでは少し甘みが足りないぐらいの方が、ともすれば二個目も食べてもらえるかもしれないし、何よりその方がコーヒーに合う、と思っている。
私の夢は今も昔もケーキ屋だ。それは尚も変わらない。そしてケーキを焼いていられるここのバイトは、私にとって天職と言えた。趣味でケーキを焼いて、それを暁くんや大誠くん、京ちゃんらに食べてもらうのは私の楽しみの一つだった。
だから、学園の卒業前にクレアさんからあかりでのアルバイトを持ちかけられた時は殆ど二つ返事での了承だった。ケーキの試し焼きも行って、クレアさんのお父さんからも二つ返事でゴーサインが出たし。
「おー、今日もよく出来てるねぇ。また一切れ私にも頂戴よ」
「うーん、余りそうだったらね」
クレアさんに食べられそうになっているのを軽くいなす。ありがたいことに私のケーキは売れ残ることが殆どない。だから、これがクレアさんの胃袋に収まる可能性は割と低いのだ。私がケーキを焼く日は店頭にポップ代わりの黒板を置くから、お客さんはあるかどうかはすぐにわかる。
まぁ、だからこそクレアさんはたまに売れ残るケーキをおいしいと思うのだろうけど。毎日のように食べてたら、流石に飽きると思うし、何より色々と気にしなくちゃならなくなると思う。主に体重計とか。
「というかみさき、ぶっちゃけここでずっとケーキ屋いててもいいんだよ? そうすればうちが儲かるし、それくらいなら給料的にもちゃんと弾ませるし」
「うーんとね。でも私は私のケーキだけで店を持ちたいっていうのはやっぱり思うんだ。それがずっと夢だったし、それは今でも変わらないし、なんなら他の全てを捨ててもやってもいいと思ってるよ」
「えー!? そんなこと言わないでよー、うちでずっとケーキ焼いててよぉー」
「寧ろ泣きつかれるの!? えーっと、じゃぁ、卸しということでいいなら……」
「ほんと!? じゃぁそれ約束だからね!? 年中無休でお願いしますっ!」
「スポンジの出来が悪いものだけ持ってこうかなぁ」
「ひぃごめんなさい冗談です! 営業妨害は困ります!」
まぁそんなことしたら評判下がっちゃうからしないけど。でも独立したら卸すのぐらいは問題ないだろう。
「そういえば、みさきがケーキ屋やりたいっていうの、明確な理由知らないんだけど」
「あれ、話したことなかったっけ」
というか、よくよく思い返せば、具体的なことはみんなにも話した覚えがない。幼馴染組は理由なんてなくても夢を持つというような頃からそれを知ってるし、却って誰かに話す機会もなかった。
なら、話してしまおうか。別に隠しているつもりはなかったけど、尋ねられたなら丁度いい。
「ケーキってさ、お祝い事とかでよく食べられるものでしょ。そして、ケーキが嫌いな人はあまりいない。だから、まずはおいしいものを作れるようになりたいという、よくある憧れからだった」
女の子ならよくある夢だろう。京ちゃんはそんなことなかったけど、少なくとも私は、まず幼心の憧れとしてのケーキ屋の夢があった。
「昔ケーキ屋さんの厨房を家族で見学させてもらったことがあってね。そこで見た現場は、一言で言うなら重労働だった。ボウルは大きくて重そうだし、それを片腕で持ち上げて片手でかき混ぜて。クリーム作るのも繊細だし。女の人はケーキ屋を目指す者じゃないというような話も聞いてたけど、確かにそれも頷けるような環境だった」
ケーキという単語から想像されるような華やかさは殆どない。僅かに模様を描くような、最後の仕上げの場面でそれっぽいものはあったけど、それ以外は正に男手というような体力勝負で、身体が生まれつき弱かった私にはとてもじゃないけど出来るような仕事ではなかった。
「でも、だからこそもっと憧れたんだ。ずっと身体が弱くて、その頃の私は満足にケーキを作ることは出来なかった。だけど、みんなに夢を届けるパティシエの皆さんは、こうも大変なんだって。だからこそ、私もそんな大変なことが出来るようになりたいと思った。大変なことが出来るようになって、夢を色んな人に届けられるようになりたいって思った。いつか病気が回復して、身体がお店に出すようなケーキ作りでも耐えられるようになったら、それを生業にしようって。よく女の子の夢でケーキ屋さんってあるけど、私の場合はその重労働を知った上で夢になったんだ」
ケーキなら、体が弱ってる時でも食べたいってなった。甘くて、カロリーもあるから体力も付いて、そして食べていると幸せになれる。私にもこんなおいしいものを作れて、人々を幸せに出来るのなら、それはとても素敵なことだって思ったんだ。
「成程ねぇ……。でも、その理想の通りだとすると、甘さ控えめなのは違うんじゃない?」
「あぁ、それは、甘みが強すぎると本当に甘いのが駄目な人には寧ろ辛いってなっちゃうから。まだ控えめな方が受けやすいからね。勿論必要な甘さはちゃんと出してるつもりだし、何より子供でも安心して食べられるケーキを今は出したいし」
それもあって、お酒を使ったケーキは今のところあまり出していない。この店でお酒を使うのは、カフェ・ロワイヤルを筆頭にコーヒーと絡めたものが中心で、そうするとそれに私の出る幕はない。
「確かに、みさきがここでケーキ出すようになってから、お子さん連れのお客さんがいらっしゃるようになったよね……その時は完全にケーキ目当てだし……」
隠れ家的なカフェ且つ本を並べた喫茶店という空間に、お子さん連れが時折見えるのは割と他にはないだろう。その人たちは皆、私のケーキを食した人が口コミ的にその人の子供を連れてくるという、すなわちリピーターだ。
私からすれば、ケーキはたまの贅沢に食べるものだと思うのだけれど。それでも毎日のように自分の子供に食べさせる人はいるようで、コアなお客さんは、私が出勤してケーキを作るという日には必ずのように顔を出される方もいらっしゃる。日替わりということもあって飽きがこないそうだ。
だから、新たな客層を呼んでくれると、クレアさんのお父さんからは絶賛してもらっている。私は、やれる限りここでケーキを作り続けるだけだ。
気付けば、大学四年間、下手すればここでケーキを焼いている時間が一番長かったかもしれない。勿論大学でも勉強はしたし、付き合いもあった。だけどここに来ればみんなに会えた。クレアさんにも、琥珀ちゃんにも、京ちゃんにも、そして暁くんにも――。
「邪魔するよ」
その声に、店の入り口に目を向けると、案外この店には珍しい顔馴染が立っていた。
「あれ、大誠くん。珍しいね、今日は予定空いてるんだ?」
「あぁ、鹿乃と待ち合わせということになっててね。いるかい?」
「そっか、だから縁ちゃんが来てたんだ。縁ちゃーん、大誠くん来たよー」
そう声をかけると、縁ちゃんが途端に大誠くんに駆け寄っていく。
おーおーおー、こうしてみると仲睦まじい二人だなぁ。
そして、二人が改めて席に座ったところで、私は前々から疑問に思っていたことを大誠くんに投げかける。
「そういえば前から気になったんだけどさ」
「ん、どうした?」
「大誠くん、今はエロ本どこに隠してるの?」
それを聞いた大誠くんは、口に含んでいたコーヒーを勢いよく噴出した。
「きゃっ、大誠くん、それは流石に……」
「わわっ、拭かなきゃっ」
「そうさせる必要を生じさせたのはどこの誰ですかねぇ!?」
幸い、蔵書にはどれにもかからず済んだようだ。拭くべきはテーブルと床と壁の一部。それと縁ちゃんの服と顔。
あせあせと掃除をしながら、私は大誠くんに顔を向けずに質問をする。
「それで、どこに隠してるの?」
「いやだから答える奴がどこにいるんですかねぇ!?」
どう尋ねても答えてくれない。別に、在処を知って大誠くんの部屋を漁りに行くわけじゃないんだし、縁ちゃんに告げ口するつもりもないから、教えてくれればいいのに。でも目の前にいたな。まぁ些細なことか。
「みさきぃ……あんたって人のこと考えないよね」
「そんなことはないと思うけどな?」
そう答えると、二人から白い目で見られた。そんなに変なこと言った覚えはないんだけどな。
「それで、暁くんは今日は?」
「そしてその流れでそれを尋ねるのね……」
脇のクレアさんにまで白い目をされた。解せない。
「アキラとキョウカはデート」
「へぇ、いつも仲が宜しいことで」
「嫉妬したキョウカによるアキラとの口直しデートだって」
「うぐっ」
横にいるクレアさんが思いっきりダメージを受けた。何があったんだろう。
「まぁ、買いたいものはあるみたいだから、今日は二人はここには来ないと思うよ」
「ありがとう琥珀ちゃん……それ聞いちゃったら私暁にどんな顔して会えばいいかわからないよ……」
「――クレア、アキラと何かあったの」
「むぐっ」
あれ、もしかして琥珀ちゃんは何かをわかってて聞いてたわけじゃないんだ。意図せずして、琥珀ちゃんは人の精神的に柔らかい部分を砕いてしまっていたらしい。
「ボクはキョウカが嫉妬してることしか知らないんだけど、それでその反応ってことは、クレア、もしかして」
「……うううううう……っ」
人の声で地鳴りを再現しているかのような音がクレアさんから漏れている。そしてそれが途切れたかと思えば、今度は急にばっと顔を上げた。
「えーそうよ暁に告白して玉砕しましたよただいま傷心中ですよ悪い!?」
――うわぁ。そりゃぁ、こういう反応にもなるよね。
「ふーん、流石暁だ、今も京楓にぞっこんだね」
ほら、黎くんだってそういう反応に――って。
「れ、黎くん!?」
「や。みんな揃ってるみたいだね」
何食わぬ顔で来店した黎くんは、果たしてクレアさんが針の筵になっている話題にも臆せず突っ込んでいく。
「それで、面白そうな話をしてたみたいだけど?」
「ごめん……もうやめて……お願い……というかタイミング……」
ここまでクレアさんが低頭なのは初めて見たかもしれない。確かに、これが私だったとして、この追い打ちはご遠慮願いたいところだ。
それにしても、黎くんが来る時は、大概事前に連絡があるから、正直驚いた。少なくとも私には報告が来ていない。
「あぁみさき、黎は私が呼んでたの。正確には黎が来るって言うからいつ頃かって先に確認してただけなんだけど」
なんだ、そんな経緯が。
「って、どうしてクレアさんだけに連絡が?」
「あぁ、今回はクレアから僕に、何か面白いことないかって連絡があったんだ。だから、ほいほい呼ばれて来てみたってだけ。それだけのことさ」
ほぉほぉ、そうですか。そうですかー、ふーん……。
「にしても、黎はこれという必要なやることがないんだろうなーいいなー」
多分それは、クレアさんのそういうつもりもない何気ない一言だったのだろう。
「ん? 起業したけど?」
「へー起業かー、そっかー」
成程ー起業かー。
「って、ええええええええええっ!?」
今日一の驚きが店内に響き渡る。たまたま今はみんなしかお客さんいなかったからいいけど、そうでなければクレームものだ。
「え!? 何、ってことは今黎って社長なの!? 何してんの!?」
「事業ねぇ。まぁ正直始めたてだからなんといっていいのやら……」
でも、確かに何をしているかは聞きたい。あの黎くんが、何に関心を持って何をするのか。そりゃ気にもなる。
「まぁ、社訓があるとするならば『暁のように好きになれることを全力で』、かな」
「うわ、出たよ榊黎の東雲暁信仰」
「ははっ、そう言われると照れちゃうな」
「隠そうともしないんだね……」
縁ちゃんと大誠くんが揃って呆れている。でも、確かに暁くんを果報者と茶々入れたくなるくらいには想われていることの証左ではある。
「とりあえずは、暁とクレアと出かけた際に、暁がやってみたいと思ったことを検証して、それを動画サイトに上げて再生数で回すとかね。なんだかんだ十万単位の再生があるんだ」
「え、あれそんなことしてたの!? 初耳なんだけど!? だから動画回してたんだ!?」
「あれ、クレアには何も話してなかったっけ?」
「知りません! というかお金発生してたの!? しかも単位が十万!? 玉石混交のジャンルじゃ普通に有名な方じゃん!?」
「ごめんごめん。折角作った会社を万全にしたくてね。今度クレアにも還元するよ」
なんというか、私達から見ても突拍子もない。ただ、それ単体では黎くんが始めそうにはない内容なのは、暁くん譲りなのだろうか。
「というより、クレアは、僕の会社はやってみる気はない?」
「黎の? どんなものかにもよるけど、中途半端に突飛じゃなければ」
「そうだね、クレアがしたいことはやらせてあげたいかな。ちなみに今大学四年なら、その辺りのことは、どう?」
「私は……何個か内定もらってるけど……でも正直私を英語要員としか考えてなさそうなとこは多いのよね……今じゃ英語より日本語の方が、なのに」
「まぁ、それを選ぶのでもいいし、無理にとは言わないよ、勿論。気になったらでいい。まぁ、少し自惚れたこと言えば、僕がやることは大概成功しちゃうから、そう悪い事にはならないんじゃないかな」
「それが本当っぽいのがちょっとむかつくのよね……」
「ははっ、まぁクレアはそれを悪気があって言ってるわけじゃないのはわかってるからね」
「ちなみに私に何か任せてくれるとしたら、どんな感じのこと?」
「そうだなぁ……。訪日外国人向けに、具体的には京都に来る人向けに、英語とかで案内するウェブサイトを作ってもらう、とかかな。その上で、サイトには遊び心を設けて、ただサイトを見てるだけでも時間を潰せて熱中できるような、そんなサイトをかな」
「へぇ、黎にしては中々面白い事考えるじゃない」
「いや、これは暁のアイデアなんだ」
「暁の? じゃぁ暁はこのことを知ってるんだ?」
「そりゃぁ勿論。というか、まずは暁に助言を求めた格好だったからね。でも、暁は教授からの相談とか、普通の就活だとかで悩んでいるようだったから、無理に呼ぶことはやめた。その代わり、いつでも来ていいからねって」
「さっすがー。暁に対しては根回し早いじゃない」
「お褒めにあずかり光栄だよ」
黎くん、それ褒められてないからね? クレアさんに少ーしだけ青筋浮かんだの、私見逃さなかったからね?
「でも、それって収益出るの? なんというか、タダ働きになってない?」
「あぁ、そこは抜かりない。というより、クレアと暁の教授に繋いでもらえるように暁にしてもらってる」
「え、先生!? 私にはそんな話一言もなかったよ!?」
「暁に相談ってのは、それもあったんじゃないかな。多分クレアには、全部が決まってから言うつもりだったのかもね。そうすれば、何かがあって出来なくなっても、クレアに変な期待を抱かせることもなかったはずだから」
「そっかー……。だから教授、私には就職斡旋というか、そういうサポートがみんなよりあまりなかったんだ……」
「それはご愁傷様。だけど、教授も考えていてくれたんだと思うよ。クレアに対して何が最適かってのをね」
「だったら私に先に――いやでも確かに拠り所にはしちゃうかもなぁ。わかった。考えてみる」
「ともあれ、そういうことだから。今のところそれと別件で進めていることは順調に進み始めてる。だから『いつも通り』、失敗はないんじゃないかなって僕は思ってる」
「黎の言うことはわかった。でも、それって私でいいの?」
「勿論! だって紫炎は、僕にとって必要な人だからね」
「暁じゃないんだ? あと紫炎言うな」
「暁は別格かな。でもクレアは、ずっと僕のことを知っていた。クレアがあの掲示板を開設していなければ、僕たちは出会うこともなかったんだ。だから、そういう意味では、真っ先に感謝をしなければいけないのはクレアかもしれない。プラットホームという場を提供するのは、すること自体が人より労力がいるからね」
「まぁそりゃぁ、黎とはそれを踏まえたらみんなより長い付き合いかもしれないけど……。でもそこまでのことをしたつもりも、正直ないんだけどなぁ」
「僕としては、そういう意味では、それを提供してくれることの多いクレアにもずっと傍に居て欲しいなぁって思うことはあるよ。会社の話も、クレアに対する場の提供のお返し、とでも思っておいてくれるかな」
「うーん、でもまぁそうね、黎がいるなら色々面白い事出来そうとは、私も思うよ」
「ははっ、そう言ってもらえると心強いや」
「ちなみにカラスは?」
「わかってて聞く君も中々いじわるだね、紫炎」
「だから紫炎言うな!?」
「自業自得だよ」
クレアさんと黎くんがやいのやいのやっている。そこに挟まれる当然にも近しい疑問。
「……レイ」
「ん? どうしたんだ、琥珀」
黎くんが不思議そうな顔で私たちを見る。だけど、お二人以外は全員同じような顔になっているはずだ。少なくとも私が見る限りはそうだ。
「二人は、付き合ってるってわけじゃないんだよね?」
「ちょっと! こ、琥珀ちゃん!?」
「クレアはあいつに浮気しようとしてたわけか」
「ちっがーう! 縁ちゃんなんでそうなるの!」
「はぁ……二股はもっと性質悪いって……」
「聞こえてるからね?」
「ははっ、まぁ僕なら暁優先でも構わないからね」
「ちょっとー!? 火に油注がないでー!?」
クレアさんがわたわたし始めた。あぁなると、暫く復帰は出来ない。
となると、この状況、取りまとめられるのは私ぐらいしかいないらしい。それに、女の子は恋バナが大好きだ。だから、黎くんをお借りすることにしよう。
「さて、黎くん。それはそれとして」
「どうしたんだい?」
「話だけ聞いてると、クレアさんと黎くんの距離がそれとなく縮まっているように聞こえるのですが」
「あー、やっぱりみんなそう見えるのか。僕としてはそこまでのつもりもなかったんだけど」
恐らく、これ自体は真なのだろう。だけど、人から見た黎くんの行動は、クレアさんをそれとなく説き伏せてるそれだ。
「人を好きになる――暁が京楓とそうなって、どんなものなのか知ろうとしてみたんだ、僕も。ただ、暁と京楓が特殊過ぎたのかもしれないね、僕にはよくわからなくてさ」
「あの二人を参考にしちゃ駄目だよー。それよりかは大誠くんと縁ちゃん……も割と特殊だねぇ……」
黎くんの他人への関心の薄さは筋金入りだ。誰よりも物事をうまくこなせて、それが故に興味を抱けなくて。そしてその反動が全て暁くんに来ている。
だけど、黎くんだって性欲なりなんなり、生物としての根源的な欲求を前提とした興味はあるはずなんだ。ならば、そこを前提に尋ねてみるべきだろう。
「そうだなぁ、黎くんの暁くんへの感情は、どうなの?」
「好きだよ?」
「えっと、じゃぁもしも、もしもだよ? 黎くんが暁くんとそういう――性的なこともしたいってなったとしたら?」
自分で口にしておきながら、想像するだにすごい光景だ。かつて暁くんと大誠くんが、という図を想像してみたことがあるけど、如何せん刺激が強すぎた。何も知らない赤の他人ならそうはならないだろうけど、二人共親しいからこそ、その想像は途端に刺激が強くなりすぎてしまう。勿論、暁くんがそうやって迫ることはないと言い切れるのだけれど。
そしてその図を想像したのだろう、黎くんは、少しだけ顔を赤らめた。
「暁が迫ってきたとするならば、拒否はしない、かな……」
「ほぉー。で、それは愛だ恋だってなる?」
「なる……かもしれないね」
「女の子に対しては? というより、性欲自体はあるんだよね?」
「まぁ、性欲の話だけなら、男子より女子だね。暁で、ということは流石にないよ」
「でも迫られたら?」
「ま、まぁ、どちらかというと、暁を否定しないとこが大きいかな……」
「本題。じゃぁ、クレアさんに迫られたとしたら?」
そこで初めて、黎くんが長く考え込む。それ程までにこの質問の意味は大きいと私は思う、のだけど。
「まぁ、でも、そうだね、仮に死ぬまでクレアが傍にいるという生活があったとして、それは確かに悪くはないのかもしれないね。僕としては暁とかみんなにもいてもらいたいけれど」
「本題からずれてる……まぁいいや」
ちぇっ、ここからが面白い所だったのに。でも、アンダーな話がなくても、聞きたい話はまだまだある。
「じゃぁ、じゃぁだよ? 全員とはいられないとして、もし一人とだけずっと一緒にいれるとしたら、誰? 誰でもいいから」
気付いたら、すごく前のめりになっていた。だけど、暁くん以外の他人に関心を持つ黎くんなんて記憶にある限りなくて、だからこそつい前のめりで聞いてしまう。
「そりゃぁ暁だろうね。理由あって暁が駄目だとしたら……それこそクレアなのかなぁ?」
「ほほー」
「何かとても意味深だね、みさき」
「だって、ねぇ?」
それが、黎くんが暁くん以外に見せる、初めての誰かへの執着心だったから。
相手がクレアさんというのは、すごく納得できる。だけど、クレアさんに対しても、殆ど暁くんと扱いが同格になっているということに、黎くんは気付いているのだろうか。なら、第三者、いや第二者にも聞いてみるしかない。
「さて、ここまで一言も発してないクレアさん、どうぞっ」
「え、わ、私!?」
私が振ると、クレアさんは一層狼狽して、そして明らかに目を回し始めた。
「わ、私は……み、みさきの発言はインクレイドルに準じます! マスター気味にジャワなリレーションを持ち出さない!」
「おぉ、久々に聞いたその慌てた時の謎のカタカナ交じりの謎言語」
「謎言語言うな!」
「で、何がいいたかったの?」
「私もわかってない!」
「ふむふむ、クレア自身も理解出来ない謎言語、ね」
黎くんはそうまとめたけど、単に飛び火することを予測できなかったクレアさんの失態だと思う。あそこまでの会話をしておきながらそれがないと考えるのは、流石に考えがなさすぎるだろう。
「それで、みさきはどうなんだい?」
――そして、この流れならば、私にそれが飛んでくることも、また自明の理なのだ。
覚悟はしていたけど、やはりこの質問は来るよね。
「あははー、私はー、そうだねぇ。でもあまり浮かばないのが正直なところかなぁ」
常套句的な文言でひとまずこの場を納める。果たして、すぐにクレアさんに話題が移ったおかげで、それ以上は追及されずに済んだ。
今の一言だけで、背中に汗がだらだらと流れていた。だから、クレアさんの突発失恋慰め会などというものが始まっても、私はクレアさんに上辺だけの言葉を口にすることしか出来なかった。
私は誰にも言えない気持ちを秘めている。それすらも、みんなからは悟られないように。
やっぱり、駄目だよ。今でも私はそれを引きずっているんだもん。
ねぇ、それは許されることなのかな。
私の想いを、彼に今からでも伝えることは、許されることなのかな。