クレアからの告白があって、それから暫く経った。暑さは一番の盛りは過ぎ、少しだけマシになったからか、夢見が悪くてもすぐに暑さにやられるということはなくなった。
夢は、今も途切れることなく続いている。霞のことを見ることは殆どなくなり、最近では双六での走馬灯が主だ。
「……うぅ」
そして、昨晩見ていたのは、クレアとの初体験の走馬灯だった。夢精的なものが隣に寝ていた京楓の太腿を濡らしたが、どうして濡らしてしまったかという理由はとてもじゃないが言えない。
京楓には京楓の太腿に反応しちまったと話すことで事なき事を得たけど。実際それ自体は嘘じゃないし。でも直接の理由は隠し通す必要がある。
そしてさっきまでしていたことは、クレアの卒論の手伝いだった。あんな夢の後の直後にそれだと、幾らなんでも気になってしまう。
いや、諸々終わったはずなのに意識しちゃうってほんとどうなんだ。しかも今日はノースリーブでなんというかいつもより露出の多いような感じの服装だったし……。
「流石にひでぇよ……あんなことがあって、そういう方面は終わったって双方わかってるはずなのによぉ……」
勿論、京楓から乗り換えるつもりなど毛頭ない。精神的にも肉体的にも、京楓以上の相手なんて絶対にいないし、そもそも俺が京楓がいなければ生きていけない。
ただまぁ、それはそれとして、美味しい果実は食べられるだけ食べたいとなるのは、なんというか、意識に依らない男の性だ。多くの種を残そうとする、生物としての本能だ。言い訳をするつもりはないので、余計に罪悪感を感じてしまう。
そりゃぁ、その時は『生』ではなかったけど。でも、ゴムの有無で感触が大きく変わるわけではないのは京楓と何回もしてて知っている。強いて言うなら、俺にとっての一種の征服感が増すかどうかだ。
――あれ、そういや走馬灯に於けるみさきとの時って――。
「――おい」
そんなことを考えていたからか、急な呼びかけにすぐには気付けなかった。声の主は、あまり積極的に関わろうとは今も思えない相手。
「鹿乃?」
「おい」
こいつはいつもそうだ。用があってもなくても俺に対してはいつもこれ。そもそも用があることが少ないけど、何かあった時はいつもこれだ。
俺は帰宅中。帰ったら夕飯の買い出し予定。そして因縁の相手にガン飛ばされている状況。正直さっさと帰りたい。
だけど、それにしてはいつもと気迫が違う。俺何かしたっけ、まぁこいつの理不尽に近い絡みはいつものことだけど――と思っていると。
「ちょっと付き合え」
「付き合、え!?」
急に手を引っ張られる。一体なんだ、俺が何をしたって言うんだ。
というか、こいつの手、ほんと小さいな。身体つきもだし、なんというか全てが小さいよなぁ、クレアとは対極だ。そりゃ大誠も好きになるよ――じゃなくて。
そりゃ、今でこそ多少は会話は出来るようになったし、全部が全部刺々しいものではなくなってきているとは思うけど。それは鹿乃も俺もすき好んでやっているわけではなかったから。
だから、和解と呼べる程の雪解けまでは行ってないのは事実だ。例え、俺と鹿乃の不仲が俺たちのせいでなかったとしても。
――あれ、そういえばどうして俺たちのせいじゃなかったんだっけ?
「珍しいね、暁くんと縁ちゃんが一緒にいるなんて」
「……みさきには聞いてない」
鹿乃に強引に連れてこられた先はあかりだった。みさきがいるから、今日はケーキの日だ。時間帯と相まって、早速ケーキ目当てのお客さんで中々に賑わっている。
そんな中、俺は鹿乃を目の前にして固まっていた。とりあえずコーヒーだけでも頼んだはいいものの、なんというか、鹿乃に睨まれている。双六盤面で同様の状態だった時は、大概その後すぐに絶縁でめった刺しにされて殺されていたから、それこそ死の間際という心地を覚えて精神衛生上宜しくない。
これがそれこそ京楓相手なら暇なんてなく喋っていて、寧ろ時間なんて短く感じられるのだろう。だけど俺は、今更鹿乃相手に何について喋ればいいのか、皆目見当もつかない。
図だけ見ればお見合いっぽいところもある。いやいや、相手は鹿乃だぞ。他の相手なら俺には心に決めた彼女が、というところだけど、なんせ相手は鹿乃だ。事情を知ってて、その上で先の言葉を絶対に言うことのないだろう相手。
流石に鹿乃相手には言っちゃなんだが、これ以上大きくはならんよなぁ。大誠の興味は知らんが、抱き心地だとか性格だとか、何から何まで京楓の方が上――。
「ねぇ」
それは、唐突に向こうから切り出された。いつも俺に対して向けるようなものではない、いつもより弱い口調だ。
「あんたは、『学園』について、どれだけ覚えてる?」
「学園って……」
――なんで、突然今更それを持ち出すのか。それはお前にとっても灰色の記憶のはずなのに。
俺たちの、灰色に塗れた記憶。俺の人生にとって、『停滞』という言葉が当てはまる二年間。
「私はお前が嫌いだ。今でも、あの時のことは夢に見ることはあるし、それに根付いたお前の存在が今でも憎い」
まぁ、そうだろうな。鹿乃はなんだかんだ好き嫌いをはっきりと主張するタイプで、それ自体に裏表はない。そして、常に嫌いと明言している俺のことは例外、なんてことは当たり前だがなく、こいつのいつか殺すリストの最上位に恐らく入っている。
「でも、じゃぁ、どうしてお前が嫌いって言われた時に、説明がつかないんだ。確かにお前は私を置いて一人で逃げ出した。そしてお前はずっといい思いをしていた。私はずっと虐げられていた。それだけで憎む理由にはなる」
「……つまりどういうことだ?」
鹿乃の話の方向性が見えない。憎んでるなら憎めばいいのに、それとは別の理由を欲していることに違和感を覚える。
「いつか、どこかで、私がお前を憎むようになった真の理由を聞いた覚えがあるんだ。だけど、それがなんだったのかが思い出せない。その前にある、お前のせいですらない、もっと根源的な理由が、あったはずなんだ……」
――それはそこまで気にすることなのだろうか? 人の感情なんて、理屈じゃないからこそ、無理に理由を付けようとする方が難しいことになるのに。
「あとは……こんな私でも、少しは憧憬に浸れるようになったからこそ、行っておくべきかなって……」
あぁ、それぐらいならわかる。俺は憧憬に浸りたいなんて思わないけど、鹿乃からすれば、その後の境遇を加味すれば、郷愁に浸るに値するものなのだろう。
そして、正直なことを言うならば。
「鹿乃は、俺なんかと一緒には行きたくないだろ。大誠だっているじゃないか、どうして俺に」
そう、俺なんかより適任がいる。こいつから見て、俺の優先度合いは最低なはずだ。何故声をかけられたかもわからない。
「確かにあんたなんかと一緒には行きたくないね」
ほら、やっぱりそう言うじゃないか――。
「でも、あんたがいなかったら、私は誰にあの時の想いを吐露すればいいの? あんたがいることで傷の舐め合いになるかもしれないけれど、一人はもっと嫌。真の意味でわかってくれる人がいないと嫌。だったら、あんたしかいないじゃない……」
「それは……」
それは、鹿乃の精一杯の努力だったのだろう。それを、俺は否定しちゃいけないと思った。確かに、その気持ち自体は俺も一緒だったから。
同じ内容のことを仮に俺から誘ったとしたら、鹿乃に声をかけただろうか? いや、そうはせず、一人きりか、京楓と二人で行っただろう。そして鹿乃にふざけんなとキレられる未来が視える。
ともすれば、現地へ行って、笑い飛ばしてやりたいのかもしれない。あんなとこはクソッタレだったと、こんなとこ離れられて正解だったと。そうだとするならば、当時を知る者と一緒に、二人して笑い飛ばしてやるってのが確かに筋だ。
だからこのことに関しては、恐らく俺より鹿乃の方が大人だ。悔しいが、これは認めざるを得ない。
「確かにあそこは地獄の煮凝りのような場所だった。だけど、お前という仲間がいたんだ。お前は確かに仲間で、そして私のことを理解してくれる唯一の相手だったんだ」
あぁ、そうだろうな。そしてそれは生憎今でもそのままだ。
「二番目に嫌なことは誰からも恨まれることだ。一番嫌なのは誰からもいないものとして扱われることだ。あの学園では、お前がいたから、正気すらない淀みの中で、狂わないという正気を得られていたんだ……」
鹿乃が正気でいられたのは俺がいたからで、正気でいられなくなったのは俺が消えたからで、狂ってしまったのは俺が幸せにその後を過ごしたと知ったからで。気持ちを考えればわからなくもないのは否定できない。
気まずい沈黙が流れる。何もしてないはずなのに息が詰まりそうで、どこか苦しさを覚える。やっぱり、まだこいつのことは苦手だ。
そして一旦二人して押し黙ってしまったのを見かけたのだろう、注文を聞きに来た体でみさきが近づいてくる。
「私も一緒に行こうか?」
「みさきだけは嫌。絶対に嫌」
「そんな拒絶しないでよぉ……」
「まぁ、みさきには悪いけど、鹿乃からすれば、諸々の経験を加味して実際一番連れて行きたくないだろうなとは俺も思う」
「暁くんも……ひどいよぉ……」
しゅんとみさきがしょげるが、他人を連れて行ったとしても、確かに鹿乃からすればみさきだけはないだろう。いつかの双六盤面の事を考えれば、みさきを含めた三人で行ったら鹿乃が針の筵だ。
「あ、そうそう、暁くん、そういえば――」
そんな中、空気を読まずに、俺を目掛けて来店する客が一人。
「あ、噂をすれば」
「あれ、京楓?」
「お邪魔しまーす……って、やっぱり暁ここに……と、縁ちゃん?」
急にやってきた京楓が、ずんずんと俺のところにやってくる。その勢いのままぐい、と携帯の画面を俺に見せつけてくる。
「暁! 大学から帰る時連絡してって言ったよね! だから鬼無水に聞いちゃったよ、暁そっちにいる? って」
「あぁ悪い、連絡は素で忘れてた! でも今は見ての状況でさ」
「まぁそうっぽいね……縁ちゃん、暁と何話してたの」
「……京楓には関係ない」
「そんなことはないでしょ」
「関係ない!」
「ストップ!」
放っておくと剣呑な雰囲気になりそうだったので思わず止める。これは熱くなる鹿乃だ。放っておくとあらぬ被害が出かねない。
「俺から言うなら……そうだな、京楓に関係が一切ないかと言われれば、そういうわけではないというとこだ」
「だったら――」
「でも、当事者はあくまで俺と鹿乃の二人の話で、このことは二人共あまり話をしたくないんだ。京楓なら、わかってくれるか……?」
「……とりあえず、わかった。よーく、わかったよ。だったら、その上で、一ついいかな」
そう口にして、京楓が俺や鹿乃から90度の位置に座る。俺から見て左側に、鹿乃から見て右側に座る京楓は、それとなく圧があった。
「確かに、それは私が安易に口出しをしていい話じゃないかもしれない。だけど、これはあくまで想像なんだけど、暁と縁ちゃんの二人だけじゃ、素直に見たいと願っているものも、見ることが出来ないんじゃない?」
「あんたには何もわかんないよ」
「おい鹿乃、ちょっと今は待て」
今の鹿乃は俺相手だから冷静になれていたんだ。だけど、京楓の乱入で鹿乃も落ち着きを失っている。
「悪い京楓、続けて」
「あぁごめん。とにかく、そのことについての第三者がいないと、きっと独りよがりなものになっちゃう。それは、きっと二人にとってもいいことではないよ」
ふと、俺の左手が何か温かいものに包まれる。これは京楓の右手だ。握っていると安心出来る、京楓の手。
「だったら、私も行く。暁と縁ちゃんと一緒に、そこへ」
あぁ、それが京楓の強みだ。みさきとは別ベクトルで、物事を強引に進め、そしてそれがさも当然であるかのように振る舞う。正直鬱陶しいこともあるけど、今はそれがとても助かる。
「それに、私が知りたいから。暁と縁ちゃんがいた場所のことを」
それは、京楓の本心だろう。どんな境遇であろうとも、まずは親身になるという彼女なりの流儀だ。
「いつ行くというようなのは、暁と縁ちゃんの都合のいい日で構わない。私はそれについていくだけだから。だけど、私も大丈夫な日で。暁と縁ちゃんだけじゃないようにしたい」
「そうだな。俺も賛成だ」
「……あんたは京楓といたいだけじゃないの」
「それもあるな」
「否定しろよ!」
「あぁ違う、そうだけどそうじゃないんだ」
この話は、今なら鹿乃にも理解出来るだろう。視線を京楓から鹿乃に向け直して、その猜疑心を向ける瞳に向けて口を開く。
「何も辛く苦しい事があった時に、誰かを頼らず一人でどうにかしろって言われてるわけじゃないだろ? 正直、俺一人でどうにか感情を処理できるとは思わない。だったら、一番弱みを見せられる相手がいてもらえば、色々と中和できるだろってことだ」
これは、一人で抱えなくてはいけないものではない。そして、それがわかる相手とだけと傷を舐め合う必要もない。何より、この縁こそが、あの双六で手に入れた最大のものだったから。鹿乃はそれをありがたく享受すべきだ。
「だから、大誠もお前から誘えよ。そうでないと、場合によっては一人で苦しむことになるぞ」
「わかったよ……」
「ね、ね、私は?」
「みさきはやめとけ」
「仲間外れひどい……」
いやまぁ、仲間外れにしたいわけではないんだけど。でも、こればかりは俺も鹿乃もわいわい行くものではないと思ってるし、その上で俺とみさきと鹿乃が揃うのは流石に避けた方がいい。
何はともあれ、俺も鹿乃も、これまでは意識的に避けていた話題だ。鹿乃がどうしてこうも急に思い立ったのかは釈然としないが、こういう話になったら、否が応でも俺も対峙しなくてはならない。
脱走した時も、双六盤面の数多の状況でもそうだったけど、選択肢というものは急に現れて、そして俺が選ばなければ誰かが勝手に決めてしまう。だから、自分で掴めるとするならば、俺は意識的に選んでいこう。そうしなければ幸運なんて掴めないのだから。
まぁ、今回俺にとって想定外だったことと言えば。
「でも、京楓がそこまで飛び込んでくるとはな」
そう何気なく口にすると、京楓はじっと俺の顔を見て、視線を全く逸らさずにこう告げるのだった。
「だって、過去に囚われずに前に進むべきって、最初に教えてくれたのは、暁だったから」
全てが進行方向に背ずりが並ぶ座席の内の一つを反対側に押し倒し、座席をボックス状にする。進行方向の窓側に鹿乃、通路側に大誠が、逆側の窓側に京楓、通路側に俺が座った。観光客でごった返しているが、これはみんな途中で降りるだろう。乗り込んだ快速は本来はその最寄りを通過するが、この列車に限って臨時停車するらしい。
結局今日は、大誠も一緒に来ることになった。決まった時、京楓はダブルデートだなとか言ってたけど、恐らくそんな生易しいようなことにはならないだろう。
「縁ちゃんは、そこからここに来た時、この電車に乗ってきたの?」
「……さぁ。覚えてない、そんなこと」
ぶっきらぼうに答える鹿乃は、単純に思い出したくないだけなのだろう。その上で、本当に覚えていないのだろう。もうだいぶ前だし、覚えてなくても無理はない。
実際、そんなことを覚えているのは俺ぐらいだと思う。俺は、完全に脱走だった。走って走って、倒れた先がたまたま西院だっただけだ。
別に、誰かに指し示されたとか、そんなことはない。俺自身の意思で脱走して、その上でたまたま辿り着いた先だった。強いて言うなら、常に何か視線に晒されている心地を覚えていたぐらいか。でもこれは双六から還ってくるまでずっとだったから、脱走についてはあまり関係ない。
「暁は……西院まで走ってきたんだっけ?」
「そうそう。それで倒れたところに京楓が手を伸ばしてくれた」
「西院までって……そこから数十kmあるぞ……よくやれたな……」
「文字通り必死だったから、かな……道中は正直何も覚えてないや……」
まぁ、仔細に目を向ければ俺も鹿乃と似たようなものだ。ただただ逃げることだけしか考えてなくて、学園から離れよう、あんな地獄以下のところにいるわけにはいかないという一心であそこまで走ってきたのだから。
動き出した列車は、途中で列車同士の交換をしながらも快調に飛ばす。西院に来る列車は、阪急はそんなに飛ばさない区間だし、嵐電はそういう列車じゃないのも相まって、『お出かけする時の速度』という感がある。
俺たちの生活圏が、いつも市内で完結していたから、市外に出るのは余程のことがなければ殆どない。だから、大阪に行くこととかと比べたらそこまで遠くないはずなのに、窓の外を流れる風景はどこか新鮮に映る。
「こっちの方までは中々来ないよね」
「大学はこれより手前だもんな。というか川渡れば大学か」
目的地はあくまで同じ府内だ。だけど、列車は京都市を通り越し、南へと向かう。大勢の観光客は既に臨時停車した駅で殆どが降りた。今観光客の身なりで乗車している人は、恐らく終点まで乗って鹿なり寺なり大仏なりを見て回るのだろう。
俺たちが降りるのは、そんな観光客とは無縁の、小さい町の中心駅だ。マイナーな歴史的遺構はあるようだけど、それを目当てに降りる人は、終点が目的地の人と比べれば一握りにも満たないだろう。
「今日もクレアさんは卒論で頭悩ませてるのかな」
「そうじゃないか? シフト外の時はいつも大学だーって言ってたし」
そして、俺は細部を詰めれば卒論自体はもう完成と呼べる状態にまで持って来れていた。結果的に、就活から逃げた結果であるというのがどうにも問題ではあるのだけれど。
就活らしいことを殆どせずにこんなことしていていいのか、という思いもある。教授の誘いか、黎が立ち上げたという会社か、全く別の俺が掴んだ会社か、結局未だに決まっていない。本気で俺自身が会社を探すなら、こんなことをしている暇もないはずなのに。
そんな気持ちも露知らずか、それとも敢えてなのかはわからないが、車中一番盛り上がっていたのは京楓と大誠だった。
「それでそれで? 縁ちゃんとは最近はどうなの?」
「またそれか……というか本当に大体話した通りだぞ。それ以上もそれ以下もない」
「えー、じゃぁ大誠突っついても面白くないじゃーん。女の子に恋バナ聞かせてよー」
「いやそこで鹿乃は突っつくなよ? というか、なら暁との諸々僕が聞いてもいいんだな?」
「別にいいよ? というか何か参考にしたいことがあるならアレなことでも聞いてよ」
「いやそれはまた別問題だろ!? というか幼馴染の恋愛模様聞かされるのは寧ろ気まずいぞ!」
「おい京楓、そこで俺まで巻き込むな」
「ぶー、ケチー」
「ケチじゃねぇよ!」
そうして京楓と大誠と、時々俺がやいのやいの言い合ってて。
「いいなぁ大誠くんは……そうやってみんなと一緒にいられたなんて……」
その呟きは、多分俺にだけ聞こえていて、そして俺はそれを聞かなかったことにした。
最寄りの駅で快速を乗り捨てる。案の定、俺たち以外には観光客然とした人は同時には降りなかった。他にも降りた人はいるが、雰囲気的にも恐らく地元の人だろう。すぐに迎えの車が来て、それに乗って行ってしまった。
目的地までは大体駅から1km程徒歩だ。なんだかんだ、京都市内の交通渋滞を避けようと思うと歩くことも多いから、その程度の徒歩は苦ではない。町内に一切のバスがないということは驚いたが、元からそうであったかどうかは定かではない。あったとしても覚えているわけもない。
「少しだけ、空気が懐かしいな……」
それ自体は率直な感想だった。いつか感じたことのある空気感というのは、それとなく体が覚えているものだ。
ただ、それは寂寥感ではない。俺にとっての寂寥感は、学園にいた時よりさらに先の物事についてだ。だから、俺がこの感覚に一つだけ名前を付けるとしたら壁となる。寂寥感を阻む、見えない壁。
ちらりと鹿乃へと目をやる。今のところは大誠と何かしら話をしていた。俺は京楓と並んで歩いているけど、何を話せばいいのかもわからなくて、無言を貫いている。京楓は、そんな俺を察してか、無理に話しかけようとはここまでしてこない。
だけど、一番素直になれないのはどうにも俺らしい。ぶらぶらとさせていた片手が、いつしか京楓の手を求めていて、それがこつりと当たって初めて、京楓が口火を切った。
「縁ちゃんが気になる?」
「……そういうんじゃなくて」
「気にならないんだったら、意識してる?」
「まぁ……そうかもしれないけど」
確かに、この京楓の問いかけを、共にそうじゃないと言えば嘘になる。
「まぁ、今はまだ鹿乃に意識を向けられる余裕があるって、そういうことにしておいてくれないか」
「りょーかい。いざとなったら私が抱きしめてあげるから」
その提案に、俺は無言を貫き通した。それに関しては、どうにも気恥ずかしさが今は勝る。これは、単に大誠と鹿乃を前にして余裕ぶりたいとどこかで思っているだけだろう。だけど、それだけじゃない。
いちゃつきたいとか、そういうのではないのだけど。この町に着いてから、どうにも何かが心に穴を開けたかのような、そんな空洞感がある。
この空洞は、恐らくこれまでの人生で明確に何も成しえなかった二年間のそれだろう。俺は、無理やり蓋をして埋めた気でいたけど、やっぱり残っていたんだ。現地に近づいて初めて、その事実に気付いた。
川が近い。俺たちは川岸から二本程離れた道を歩いているけど、川風が冷気と残暑を共に持った空気を運んできて、要は生ぬるくて却って心地よくない。そして俺の心の空洞の中を通り抜けていく。
残暑を持った太陽光が俺たちを照らす。道はまっすぐに南下していて、そして昼下がりであるが故に逃げ場がない。
いくらか持参した水分は、早くも底をつきかけていた。大誠と鹿乃はわからないが、俺たちの分は、俺と京楓とで回し飲みをしていれば尽きるのもあっという間だ。自販機でいいから後で買い足す必要があるだろう。
そんなことを考えていると、不意に、前を歩く鹿乃と大誠が足を止めた。そして手に持った地図を表示した携帯と風景とを見比べている。
「――え? いやでも、うん、やっぱり……?」
俺も携帯を開いて確認をする。
「えっと……ここ?」
「うん……ここ……で間違いないんだけど……」
今日はネットで風景を確認した上で来た。その上で、想定された風景とは全くの別物がそこにはあった。
「何も……ないね」
建物はなくなっていた。茫漠とした空き地が広がるだけで、ネットで見た三ヶ月前の風景とは似ても似つかない。その空き地には柵が設けられているものの、何かを開発するというような立て看板も見当たらない。
一見して、痕跡すらも窺えない。画像では、ともすれば解体前の立ち入り禁止の規制線があったのかもわからないが、少なくともあったとしてそれには気付いていなかった。そこにあるものだとばかし俺たちは思っていた。
俺も鹿乃も声を出せないでいる。そして、京楓も大誠も、そんな俺たちを見あぐねてはいるけれど、何をするのが最適解かわからず何も出来ないでいる。
そして、そんな静寂を破ったのは、鹿乃の溜めに溜めた大きい嘆息だった。
「はぁーっ、別にいいでしょ。寧ろない方が清々するよ」
鹿乃のそのコメントももっともだ。思い出に浸りに来たわけではない。そんなものに浸っていたら、俺も鹿乃も辛くなるだけだ。
「はっ、綺麗さっぱり消えちゃって。誰かいたら何か恨み辛みの一言でも言ってやろうかと思ったけど、なーんにもないなら、お前ら全員死んだってことにしておくわ。失せてくれて何よりだよ」
そこまで一息で鹿乃が口にすると、左手の中指を空き地に向けて突き立てる。それは多分、鹿乃がやると決めていた儀式なのだろう。後ろからそれを眺めた図は、少しばかり絵になっていた。
「お前は何もしなくていいのか」
「そう、だな……正直考えてなかった」
「じゃぁいいけどさ」
それっきり、俺も鹿乃も押し黙ってしまう。喋ることが想像以上になかったということ以上に、考えたいことがありすぎた。
果たして、この結果は俺にとって幸せだったんだろうか。どうせ過去と向き合わされるのならばあった方がよかったのではないか。何もないから宙ぶらりんになっているのではないか。
そんな、あまり言葉を発しない俺へ向けて、大誠が口を開く。
「これで、よかったのかい?」
「――よくは、ねぇな」
いや、いいことだろう。忌々しいと思っていた施設がなくなっていたんだ。それが故に、目にした上で辛いという気持ちは軽減された。それとは別に寄る辺ない複雑な気持ちが生まれたのも事実ではあるけれど。
「一応は、お世話になった人がいたんだ。ただ自失としている俺に、仕事とはいえちゃんと世話をしてくれた。俺は結局、その人たちに後ろ足で砂をかけて消えたんだ。学園がここに残っていたとして、その人たちがいたかどうかはわからないけど、もしもいれば、お世話になったと挨拶ぐらいはしたかったよ。『こんな身分でも世話をしてくれてありがとうございました』って」
どうしてここに入ることになったのかは覚えていない。そして、京楓に拾われて戸籍やらなんやらをどのように処理したのかも覚えていない。
でも、絶対どこかで引き取るのに心理的抵抗があったはずなんだ。これは、意地悪な職員が散々口にして、否が応にも聞かされてきたことで。
「だって、篠月学園は――」
「――言うなぁっ!」
あることを察した鹿乃の絶叫が響き渡る。その時になって初めて、俺は明確な失言をしたことに気付いた。
――今、俺は何を言おうとしていた? それは、少なくともわざわざ俺から言うことではないはずだ。
今のはなんだったのだろう。まるで、誰かにそれを言おうとしたことを強制されたかのような――。
「言わなくていいでしょ、今更そんなこと……。私もお前も得しない、誰も幸せにならないのに、どうしてわざわざそれを言う必要があるの……?」
「そうだな。悪かった」
そうだ。今となっては、そんなことはもう関係がない。俺も鹿乃も、ある意味生まれ変わったようなものだ。だったら、そういったことをかなぐり捨てるためにも、そんなことは忘れてしまった方がいい。
だけど、それでも、あの頃の俺たちはそういう存在で。ふと振り返ればきっとそれはそうであり続けるのだろう。
ここは、そうやって集められた――誰によって集められたんだったか……?
「――暁。縁ちゃん」
嫌な沈黙が広がってしまったところを見かねてか、ここまで押し黙っていた京楓が口を開く。
「少なくとも、私はそんなことで軽蔑なんてしないし、嫌いになることはないから。きっとみんなもそうだと思う。そうだと思ってほしい。正直、それで軽蔑するなら私はその人を軽蔑するかな。大誠もそうでしょ?」
「そうだね。人は生まれながらにして平等であるとは僕も思うからね、故にそんな差別は僕もしない。少なくとも、今更何か知ったからと言ってそれをするのも人としてどうかと思うしね」
それは、ずっと俺と一緒に生きてきてくれた二人の口から出るからこそ信用できる、二人にとっての信念だった。
「少なくとも、私は暁を暁だから好きになった。それに出自なんて関係ない。そんなことなんて、私には知ったこっちゃない。暁は暁だ。他の誰でもない」
「同じく、鹿乃も鹿乃だ。僕も京楓もそう考えてる。だけど最終的には、それを決定するのは鹿乃と暁だ。真に自己の問題は自分自身でしかどうにかできないからね」
「それにさ、縁ちゃんは、今はそれを気にせずに暮らせてるんでしょ? だったら、却って何か改めて言っちゃいけないよ。少なくとも私からは」
京楓の、溜めた息を吐きだす音が聞こえる。言いたいことは終わりのようだ。
「おいおい。俺は気にしなくていいのかよ」
「だって暁は私が愛してやってんだもーん」
「すごい自信だな……まぁ否定はしないけどさ」
「お? 何々、やっぱり私が暁より立場が上ってやっと理解できた?」
「そんなわけあるか! ただ――京楓にはほんと感謝してるって、それだけだから……」
「あーうん、まぁそうだよね、あれとかこれとか、私がいなけりゃ成しえなかったわけだし」
「いやそういうんじゃなくてだな……でも嘘はついてないから」
「あー、うん、――ありがと」
多分、京楓は自分で何を言ってるのかわかってない。そして俺も何言ってるのか自分でわかってない。多分今だけは、阿吽の呼吸に見せかけたお互いがお互いをわかっているというふりだ。
だけど、その空気がありがたい。今だけは、俺は京楓にも理解できないだろう孤独な精神状態で、それは京楓との呼吸を理解できるような状況ではなかったから。
そして、そんな絡みを見た鹿乃と大誠は。
「……うざ」
「無視していいからな、鹿乃」
――まぁ、そういう反応にもなるよな。こればかりは申し訳ない。
でも、これでいいだろ? 下手にしみったれた空気なんかになるより、こっちの方が余程俺たちらしいだろ?
――あれはいつだったか。『それ』を隠すために、俺の父さんは婿入りした、と聞いた覚えがある。だから東雲姓は、元々母さんの名字だった。
実は、父さんの元の姓は今も知らない。奈良県にいた母さんと結婚して、京都市より南の方に住んでいた。それは、今日ここに来るまでに通ったとこだ。
二人共、結婚に際して実家と縁を切る程の状況になっていたらしい。だから、ともすれば、家族が死んだ段階で俺は引き取り先があったのかもわからない。
今となってはもう何もわからないけど。でも、俺は確かにこうして生きている。それは身寄りだとか血縁だとかに縛られない、俺の肉体に血が流れているという確かな証だ。
正直、鹿乃のことまでは知らない。でも恐らく似た感じだろう。そして俺は、そのことを鹿乃に詮索するつもりはない。
「それで……鹿乃は、これで本当によかったのか?」
「別にどうとでも、かな。きっと、あったらあったで文句ばかり言ってたと思うし、ないならないで今みたいに不満ぶちまけてたから、どうやっても満足することはなかったと思う」
そうだな、俺もきっとそうだったろうな。やはり、学園に関することだけは鹿乃と見解が一致する。
そんな、らしくないことを考えていると。
「おい」
突然鹿乃からガン飛ばされたと思えば。
「――ありがとうね」
――は? 俺、鹿乃に感謝された、の……?
「お前、頭狂っちまったか?」
「普通に感謝されておきながらほんと失礼だなぁおい」
そうは言っても。まさかお前に感謝される日が来るなんて思わないだろ……?
「……最初に大誠くんを誘えって言ったのはお前だったから」
――あぁ。そんなこと覚えてたのか。それを聞いて、やっと塞がらなかった口を閉じれたよ。
「寧ろ当然だと俺は思ってたからな……」
「なんだよ、感謝して損した」
そういうと、自ずから笑みがこぼれた。鹿乃も笑っていた。
――あぁ、そうか。こんな光景が訪れるなんて、一時期は絶対ないだろうと思っていたけれど。時が経つのは悪い事ばかりではないらしい。
鹿乃と笑い合える日が来るなんて思っちゃいなかったけど。そっか、これが見られただけでも、俺にとっても鹿乃にとっても、ともすれば一番の収穫だったのかもしれない。
「まぁひとまずはありがたく受け取っておく。でも強いて言うなら、真に感謝すべきはそれこそ大誠にだと思うぞ?」
「それはこれから」
成程、後で俺たちには見せられないような感じに大誠に甘えるんだろうな。正直まだそれはあまり想像したくないけれど。
「お前も、京楓に感謝しとけよ」
「ふん、残念だったな、俺は今ここではしない主義なんだ。もうしてるとも言うけど、本番はこれから」
「さっきまであぁもいちゃついてたくせによく言うよ……」
言っとけ。俺たちはこれが通常営業だ。人の通常営業にとやかく言われる筋合いはない。
気付けば、心の空洞は、また蓋がされていた。恐らく、これが真の意味で埋まることはないのだろうけど、これからも蓋が開かないようにしていけばいいだけだ。
「さて、二人共、結局目的は達成できたのかい?」
「そうだな、強いて言うなら」
俺は提案されなければ来る気はなかったけど、京楓がいたからこそこうして落ち着いて振り返ることが出来た。それだけで収穫は大きかった。
そして、鹿乃のように、全力であの頃の自分や周りに精神的に中指を突き立てるのが目的だとしたならば。
「どっちも幸せそうにしてるって見せてあげるだけで、復讐には十分だろ」
鹿乃と大誠と別れて、俺と京楓はそのまま買い出しに出かけた。
最近買い物に来れてなかったから、今日も一週間近い食料をまとめ買いだ。暑さも落ち着いてきたから、生ものを多めに仕入れても、腐らせることはないだろう。
買うものも多いから、カートの上下段に買い物かごを入れて押す。右手には、押している間ずっと京楓が左手を添えていた。
先程まで静かな場所にいたからか、スーパーの賑わいがやけに姦しく聞こえる。繰り返し魚が安いと繰り返す自動の放送装置。ソーセージの試食を勧める店員さん。不意に出会って井戸端会議を始める小学生と思しき子供を持つお母さんお二人。
そんな中でも、京楓の声だけは凛とした響きを以て耳に届く。近くにいるだとか、京楓の声は気にしてしまうというカクテルパーティー効果があるからとか、それを抜きにしてもだろう。
「暁はさ。縁ちゃんのこと、今はどう思ってるの?」
それは、恐らく京楓がずっと前から思っていたことであろう。話をしないわけではないが、だけどお互いに積極的には話にはいかない相手というのは、京楓からすればあまり感覚が掴みづらいところがあるかもしれない。
「やっぱり、まだ嫌い?」
「別に……嫌ってるとか、そういうんじゃ……」
なんだろう、こればかりは即答出来ない自分がいる。面と向かって嫌いと言っていたような頃からすれば、だいぶましにはなった。だけど、あいつがいい奴かと言われれば、それは未だに返答に窮する。
少なくとも好きではない。かといって、嫌いと切り捨てるのもどこか違う。あいつは、真にどうでもいいと言って無関心を貫き通せるような存在ではなくなってしまっている。
双六で散々あいつに殺されたからという話じゃない。あいつは俺に似すぎているんだ。だから、あいつを見ていると、嫌でも昔のことを思い出してしまう。
結局は同族嫌悪なのだ。そしてそれは、恐らく消えることがない。
とはいえ、鹿乃との関係に絞って言えば、最近は意外なもので嫌悪感が薄れていた。
「双六の時の夢を毎日のように見せられてるとさ。別に今の鹿乃を嫌うこともないんじゃないかって、思うことはあるんだ」
どうしてだったかがどうしてもでないのだけど、そこだけ割り切ってしまえば。俺も鹿乃も、そういうやりきれないことを笑ってやり過ごせるようになるのならば。
「俺だって、すき好んで嫌ってるわけではないし、一応はあいつと共に一時期を生き抜いたということはあるからな……」
「じゃぁ、そのままその勢いで仲良く……」
「でもあいつに何回も殺された思い出が蘇るから結局は嫌だ」
「まぁ、そういう記憶が消えることはないかー……」
それこそそっちの方がよっぽどトラウマだ。あいつに会うたびにフラッシュバックしてということがないだけでもありがたいと思え、とあいつにどつきたくもなってくる。
それと、個人的にあいつのいけ好かない所を上げるとするならば。
「というか、あいつ好き嫌い多すぎだろっての。しかもその内の幾つかはただの食わず嫌いだったし」
「まぁ、そこは否定しないかなぁ。何回か暁のご飯食べて、あれが嫌いこれが嫌いっていうの言ってたしねぇ」
「本音を言えば、あぁも我儘なとこがっていうのはあったんじゃないかって思う。そりゃ、味が嫌いでなくてもトラウマになってる食材があるのは仕方ないけどさ」
ネグレクトを受けて、体にカビが生えたことがあるとかなんとかで、カビからの菌類繋がりでキノコ類一式が駄目、というのはもう仕方ないと思う。そういう感覚は、如何においしいものを作ったところで払拭しようがない。これだけは完全に精神科医としての大誠の領分だ。
袋詰めにされているピーマンが安くなっている。でも同額でパプリカもある。悩んで俺はピーマンの方を取った。そういや鹿乃はパプリカは食してもピーマンは口に入れようとはしなかったよな。結局は食わず嫌いだったけど。
「暁っていつもパプリカよりピーマンだよね、パプリカ買うことって明らかにピーマンより安くなってなければないんじゃない?」
「シャキっとしてる方が好きなんだよ、パプリカはそういうのはないから、個人的にはピーマンを選びたい」
パプリカは、どう頑張って調理しても、ピーマンみたいなシャキっとした歯ごたえにはなってくれない。それに、明確に苦みのある方が肉とも合う。だから俺は基本的にピーマンを使っている。鹿乃は苦み全般が好きでないようだから、俺からすればまだまだ子供舌だなと笑ってやりたいとこだ。
うん、牛肉が安くなってる。油は家にあるし、今日は青椒肉絲だな。これの時は琥珀もかなり飯を消費するから、ご飯は多めに炊いておこう。
「今日ぐらいは私がご飯作るよ?」
「いや寧ろ俺にさせてくれ。料理で気を紛らわせたいというのは正直ある」
「でも最近危なっかしい事あったし、それに今日のだと……横で手伝うのでもいい?」
「じゃぁそれで。簡単なことだけでいいから、そういうことやってくれると助かる」
「わかった」
となると、少しばかり手間を増やしてもいいかもしれない。そうすれば、俺一人だと手間やタイミング的に難しいことも出来るようになる。
今は、京楓に料理をこうも手伝ってもらえる、ともすれば京楓一人でも問題なくこなせるようになったのは大きな進歩だ。だから、時には任せてしまうことも増えたし、その間に別の家事をこなして、結果的に自由な時間を増やせて、二人でいられることも増えたのは本当にありがたい。
これは、本当に京楓が努力してくれたからだ。俺は、手取り足取り教えただけ。勿論教えるということにも労力は必要だけど。
「俺って、京楓と比べるとまるで成長してないよな……」
「まぁ暁は、その気になればなんでも出来ちゃうから。私から見てる分には、ただありもしない幻影に追われて、気に病みすぎなだけだと思うんだけどな」
「とはいえ、俺も色々と足りてないとこはあるからなぁ……俺一人じゃ殆どのことは成し遂げられないよ」
そう口にするが早いか、徐に、ぎゅっと京楓に握られた手の握りが強くなる。
「暁は頑張ってるよ。これ以上ないくらいに」
強く握られた手は意地でも離そうとしないという意志を感じて、それが故に夙に本気であるということを伺わせる。
「だから、私に甘えたくなったらいつでも甘えていいんだからね」
「何がだからだよそれ」
「いやぁそうなんだけどね。というか私に感謝してくれるの、本番はこれからなんでしょ?」
「聞いてたのか……」
成程、今から感謝しろと――なわけはない。こういう時の京楓は真に空気を読むし、そして今それを望んでいるわけじゃないことは、俺がよく知っている。
「でさ、別に今更暁に対してお姉さんぶろうとしたいとかいうのは全くないけどさ。でも、対等でいてくれているからこそ、暁が辛いって思うことが辛いってなるし、だから、少しでも理解してあげたいって思うから。そして、理解するためには、まずは暁が話してくれなければ始まらない。別に上辺だけの同情をしたいんじゃなくて、真に暁に寄り添ってあげたいって思うから。だから、かな」
なんというか、言葉が出なかった。不意を突かれたというのが正しいだろうか。俺が薄々そうかもしれないと思っていたことに、的確に楔を打ち込んでくる。それも京楓のためじゃなくて、俺のためにそれをしてくれている。
京楓とは対等だと俺は思っているつもりだけど、でも心のどこかで、俺が京楓を引っ張る必要があると感じていたのは事実だ。だから、恐らく京楓が俺に何かを相談するより、俺が京楓に何かを相談出来ていることの方が少ないだろう。
俺が京楓に対して男らしくあろうとしすぎているのだろうか。それとも俺が京楓に相談しなさすぎなのだろうか。多分俺が京楓に気に病まないでいてほしいと、どこかで思いすぎているのだろう。
「それに、私が甘えさせてもらってた分、ちゃんと還元しないとなって」
「……じゃぁ、後で」
そして、素直にそう返してしまう俺も、今日は随分と弱っているらしい。
「寝る時にさ。なんにも纏わないでさ。気怠い疲れの中、冷えないようにシーツ一枚だけかけて、それでエアコンは入れて、ぎゅって抱きしめて眠ろうよ。もう暑くもなくなるし、今夏最後の気分的な贅沢をして、いっぱい暁を甘やかしてあげたいな」
――そうだな、魅力的だ。すっごく魅力的だ。
「でも、まずは今でもいいんだよ?」
「……ちょっとだけ」
そのまま、少しだけ京楓にもたれかかる。半袖から伸びた腕が、俺の腕と吸引性を以てピタリとくっついて、そして少しばかり湿り気を帯びる。スーパーの中、冷房は効いていても、こうすると少し汗が出るくらいにはやはり気温湿度は高いらしい。
今だけは、周囲の音が全てただの雑音へと切り替わり、京楓の息遣いだけが、天啓か神託を受けたかのようにそれだけが聞こえる。
「あっ、ごめん、ちょっとそれだけは……いやっ」
いや、という声で現実に引き戻された。雑音が、再び意味を持って俺の耳に届き始め、周囲の情報量が瞬時に増大する。いけない、だいぶ我を忘れかけていた。
そんな中、少しばかり焦った俺の内心など露知らず、急に京楓が小声で、そして俺の耳元まで顔を近づける。
「暁……ちょっと、ここ、つまんでみてくれない?」
そしてそのまま、俺の右手が掴まれて、京楓の身体にそれが伸びる。
もってこられた先は、京楓の脇腹。そこをつまむということは、つまり。
「えっと……ここで?」
「うん……ちょっと買い物内容の相談というかさ……」
まぁ、なんとなく言わんとすることはわかった。ただそれを、俺が確認するまでは口にするのは酷だろう。
くすぐったくないように、まずはそっと脇腹に手を添えて、そしてゆっくりとつまみ上げる。
「ひゅっ――」
色っぽい声が漏れそうになった京楓が、慌てて声を抑える。それを耳にして、今更ながらに我に返った。
そうだよ、ここ外だよ。今買い物かご入れたカート持ってるのはなんだってんだよ。わかってたのに瞬間忘れてたよ。
「えっと」
そうそう、感想だったな。事実だけならわかりきっているけど、第三者から見てどうかというただの確認作業。
「確かに少しつまめるような感触はありましたが」
「――だよね」
あ、明らかに落ち込んでる。まぁ確かにあまりこれまでそういう感触が少なかったってのはあるけど、だからこそこうもなるものか。
「えっと、要は自身は欲してないものが身体についてしまったと」
そうこっそりと口にすると、つまみ食いがバレた子供のように、少しばかりしょげながら首を縦に振った。
京楓も女子だ。だからそういったことを人並みに気にするのかもしれないけれど。
「でも、この程度ならダイエットはやめた方がいい」
「なっ、ダイエットって――!」
「でも考えていた内容としては図星でしょ?」
「あうぅ……」
その反応でビンゴだと言っているようなもんだ。そうでなくても京楓が考えてることなんてこの程度お見通しだけどさ。それこそクレアより。
京楓も、俺に対してそうであった嬉しいとか思うし、隠し事をしようとしても物理的にも精神的にも出来ない関係って、俺が京楓に対して臨む一番の理想形だよな――というのは置いとくとして。
「で、だ。年齢的に成長期はもうほぼ終わりだから、大丈夫かもしれないけど、でも今後のことを考えて。ともあれ成長期に無理なダイエットをすると、それが終わってから太る率が高いんだ。成長期に身体が覚えた習慣は一生続くけど、これはその中でも新陳代謝に関わってくる」
それを考えると、学園で殆どものを食べなかった俺はよく太らなかったと思うものだ。中背中肉――というには少なすぎる肉を見る限り、恐らく体質なのだろう。比較対象が大誠だからというのもあるかもしれないけど。
「特に京楓は、ずっと運動してて、その上でよく食べてくれるから、かなり新陳代謝がいいんだよな。つまり身体が覚えているエネルギー効率がかなりいいってわけだ。そんな状態でダイエット、特に食事制限的なことをすると、急に新陳代謝の質が落ちる。それまでがよかった分、急に摂取する栄養の量が低減すると、身体が栄養をため込もうとするってことだ。要はリバウンドだな。それまでの質が良かった分、反動もでかい。そしてその状態で、特に体力が必要な出産とかを経験して、子供に母乳を与えようという際に、身体が栄養をため込むべきと覚え込んでしまっているなら……後は分かるな?」
そこまで話すと、それとなく想像がついたのか、真剣な顔で京楓が首を縦に振っていた。その顔は、少しばかりの恐怖が浮かんでいる。少しの肉であれだったのだから、それ以上を想像すればこうなるのも無理はないだろう。
「まぁ、だから、下手をすると後々ぶくぶく太りかねないというか……京楓だからこそ余計にな。なので無理して、というより京楓だからこそダイエットは推奨しない」
それが俺なりの結論だった。いつもの面子の女性陣は、鹿乃はもっと食べるべきとも思うけど、他は今のままでいいだろうとは思う。けど新陳代謝まで加味すれば、京楓は一番ダイエットをしてはいけない人種と言えた。
寧ろ、今つまんだ程度の肉付きは健康な証だ。加齢と共に肉は付くものだし、女性はそもそも体脂肪率が20~25%に収まるべきなのだから、今の京楓は寧ろそれが少ない方ともいえる。かといって多すぎるのも考え物だし、結局、無理はしないべきという一言に尽きる。
「まぁ、少しぐらい肉付きいい方が、俺とすれば抱き心地がいいってのもある」
「馬鹿」
そうやって初めて、京楓の顔の緊張が解けた。ガチガチに緊張で筋肉が固まりすぎるのも、表情筋に対していいわけがない。何事も自然体が一番だけど、じゃぁ何なら自然かと言うのは、知った上で考えないといけない。
まぁ後は、俺の個人的な要望を言うならば。
「やっぱり、俺たちの間に子供が出来てからも、京楓には綺麗でいて欲しいからさ」
「馬鹿ぁ……それは反則だぁ……」
振り返りたくもない過去を今日は振り返った。だから俺も、どこかセンチになるところはやっぱりあったんだと思う。その過去があるからこそ今があって、そしてこれから先へと一列に続いている。
だからこそ。順調にいけば見ることの出来るだろう未来を夢想したっていいだろう。未来なんて不確定なことぐらい嫌という程俺は知っているけど。それでも、これだけはと思う一つの形を、確定している体で、最愛の人と語り合うことぐらい。
まぁ、だから、それくらい許されるよな?