西大路御池の駅から地下鉄に乗って、山科区は椥辻まで来た。地元民ならここは山科区役所とかハローワークとかあるから機会も多いだろうが、目ぼしい観光地も減るので、正直、東山を越した山科区の方までは、余程の用事がなければ来ることは滅多にない。
「……こっちは初めてだな」
「へぇー、東山を越すとこんなもっと狭い盆地になってるんだねー」
「琥珀はともかく、クレアも……もしかして初めて?」
「そうだねー。そっかぁ、これが東山の裏側で、そして東側に聳えるのが逢坂山ね。遠くないのはわかってたけど、こんな近くだったんだー」
そして、その中でも、クレアは本当に初めてのようだった。山科区の南側は、醍醐寺等の観光スポットはあるが、それこそある種観光地そのものに住んでいるような俺らからすれば、ここが特別何かがあるというわけではなく、そうすると顔を出す機会も特にないため、結局却って来る機会がない。
「東京行く時とかに新幹線で意識するような場所じゃないからなぁ」
「ともあれ、滋賀県方面に行く用があればと言われてもないもんね。北陸行く時ぐらい?」
確かに、山科区は洛中からは外れるし、東山や西院と違って都の端の更に外側で、その上東山を挟むから、同じ京都市という感覚が正直薄い。更にその東側は、逢坂山の峠を越す前に滋賀県境が先に来るような場所だ。西院に住む俺たちからすれば、嵐山の先、保津峡を超えて亀岡市とかに行くようなもんだろう。
「でも、そういやこの辺りって『東京都』なんでしょ?」
「いや東京都って……どういうことだよ」
「でもほら、これ」
「――あー……」
クレアが携帯で表示したのは、二駅程離れたところにあるカーディーラーの店。写真では、確かに山科三条店という店名の隣で東京都の文字が躍っていた。
「『ひがしきょうと』な。別にここは関東平野のど真ん中じゃないしなんなら滅茶苦茶狭い盆地だ」
「なんでこんな名前にしたんだろうね?」
「さぁ……」
いや流石にそれを俺に尋ねられても。何も間違ったことは言ってないが、だけど相当紛らわしい名称に何故したのかは、そりゃぁ企業自体に尋ねなければわかりようがない。
「ところで、今日の目的が仮に達成されるとしたら、結局私の卒論の手伝いって意味なかったってことになるの?」
「まぁ、有体に言えばそうなる」
「ちょっとー!? もう暁に色々お願いする算段で予定組んじゃってるよー!?」
「算段ってなんだよ! 殆ど俺がやりそうな流れに聞こえる予感がするのは気のせいですかね!」
「まぁ、有体に言えばそうなるね」
「今すぐ辞退させて頂きます」
「お願いー! 私が暁の手伝うからーっ! って、もうだいぶ進んだんだっけ?」
「んーと、一昨日教授に見せて合格もらってあとは提出可能期間待つだけ」
「嘘はっや!? いやペース早いのは知ってたけど合格もらえるレベルって何!?」
「いや、最近ほんと眠れてないから、どうせ寝れないならってことで夜も割と根拠の確認とか添削とかしてたから。一日数千字添削できれば楽なもんだ」
「楽って何!? 簡単な卒論なんてそんなもの世の中に存在しないわよ!?」
「字数満たせばいいなら簡単だろ……就活なんかに比べたらよっぽど楽」
「住んでる世界が違う……」
「ということで卒論手伝うなら京楓メインになるかな」
「契約不履行の上にとんずら!?」
「翻意を期待するなら、俺みたいな人材が欲しいという『ホワイト企業』の求人持ってくるんだ」
「それは……私も無理……というか私に紹介して……」
ともあれ、そんな会話をしながら歩けば、700m弱なんてあっという間だ。着いた先は、随分と空が広かった。
京都刑務所――通称京刑。ここに目的の人物がいる。
面会自体は、琥珀が話を通してくれていた。刑務所で面会出来る相手は限られているものの、本人じゃないとわからないことを伺う、ということで俺と琥珀とクレアの面会が許された。
この面子で来たのは、尋ねたいことがあったから。琥珀がその目的。俺とクレアは数少ない双六以前からの交流のあった人物として。加えて俺が当事者として。
身内を全員亡くし、交流があった人物とも絶縁乃至死別とのことで、その人物相手に面会をするのは俺たちが初めてとのことだった。だから、刑務官もまさか面会希望がいるとはと驚いていたとは琥珀の談。
「よぉ」
そして姿を現したのは、天狗顔の飄々した表情を崩さない、刀儀燎平――カラス。
「久しぶりでんなぁ、お三方とも」
「――久しぶりだね」
「まぁ四年ぶりというとこか。わいに面会に訪れる顔見知りもそういないからの、寂しゅうて寂しゅうて仕方ないわ」
「顔見知りかもしれないが、だけどお前がやってたことの全てを許したわけじゃないぞ」
「ほー、随分と嫌われたもんやなぁ。まぁそれも当然か。こんな人殺しをしようとした者が好かれると思う方が間違っとるわな」
早速剣呑な空気が流れる。久方ぶりの出会いは、やはり一筋縄ではいかない。俺としてはある程度落ち着いて話がしたいところだが、どうしても感情が先走ってしまう。
カラスの収容分類はLA。執行刑期十年以上の初犯。精神障害ではないと判定されたため、Mは付かなかった。
日本刀による撫で斬りは、流石に傷害罪なんてもんじゃ済まない。だけど、逮捕されてからは反省の色が濃いとのことでだいぶ減免をしてもらえたらしい。ともあれ、殺人未遂の罪人として、懲役十二年の判決を受けたカラスは、これまで四年間、娑婆の誰とも会うことなく刑期を務めていた。
刑務官の人に聞く限りは、模範囚で通っているらしい。双六に潜った目的が目的ならば、ひとまずの解決を見た現状は悪さをする理由もないのだろう。
――カラスの記憶喪失が直ったという話は人伝に聞いた。明確な原因があったらしいが、じゃあその原因は何だったんだ?
「カラス。ボクたち知りたいことがあるの」
「まぁお待ちや。本題自体は、今はそう急ぐものでもあるまい。少し雑談でもしようや」
「そんな悠長な暇は――」
「だからや。過程をすっ飛ばして結果ばかりを求めとる。そんなんでは何も得られんわ。急がば回れという諺ぐらい誰だって知っとるやろ」
「そんな、俺はそこまで――」
「焦っとるがな。何に急かされてるかは知らんけどな。あんさんらは認めたくないやろうが、こちとらそちらよりかは割柏長く生きてるもんでな。何か起こす時は十中八九焦りがそこにあるということを身を以て知っとるのや。自分らのためと思ってくれてええ。そして看守の目もあるからの、何かしでかそうという気もない。ゆっくり、たわいもない話ぐらいはしようや」
「それじゃぁ、どうして双六に行こうとしたか、今から思い返してみると、どう?」
即座に琥珀が質問をする。あくまで雑談でありつつも、賽の河原への情報収集は欠かさないという姿勢を即座に見せるという本気度を、カラスに示す。
「まぁ、結果的には無謀やったな。わいが言えた義理では全くないが、それしかなかったとはいえ、わいの場合は唯一の光明だったもんでのぉ」
確かにそうだろう。自身の過去の記憶を全てなくして、手掛かりも掴めないからこそ双六に縋るしかなかった、という話は聞いた。
俺も状況は近いんだけどな。当時のカラス程ではないのかもわからないけど、そういう意味では、この状況に陥ってからは、理解は出来るようになったつもりだ。
「ひとまずな。記憶喪失ってのは、なるもんじゃないで。されるもんや」
「されるって、事故とか、外部要因でってこと?」
「それは大枠やな。わいが言いたいのはもっと直接的なことや。そこには、明確な悪意がある。事故とかで記憶喪失になるのは偶発的事象や。だがな、気付けば意識共々吸われとるんや。一分前まで覚えていた記憶が、何もしてない、奴と会話をしているだけなのに急に失われるんや。わいが経験した明確な悪意は、そういうもんやった。それは、悪意の形をしてない、寧ろ善意の形をしているんや」
「抽象的でよくわからないけど……でも、悪意にすら晒されてることすら気付かないってのは、怖いわね」
「ま、これは流石に関係ないやろうとは思うからな。あくまでわいの経験則ってだけや。そんな奇特な体験をするのはわいだけでええ。――さて、と」
徐に、カラスが居住まいを正す。俺からも、本題を切り出すタイミングが来たようだ。
「わざわざわいを尋ねに来たということは、何か目的があってやろうな。そんで、なんの魂胆や?」
「それには、カラスの力がきっと必要で、少なくともボクたちはカラスに頼るしかないんだ」
「はぁん。わいにはなんの得にもならなさそうな話でんなぁ。別にわいが断ったってええんやろ?」
「カラス! ほんとあなたって人は――」
「まぁ待って、クレア。それでも、カラスにしかこれはお願い出来ない事だから。ボクたちだけじゃ、わからないことが多すぎて」
「なぁに、そこまで無碍にするつもりもねぇ。まずは話を聞こうか」
「ありがとう。アキラ、話して」
「――これはここ一・二ヶ月ぐらいの話なんだが」
一通りのことをカラスにも話す。クレアや琥珀には……話してたな。となるとこれで京楓と大誠も入れて五人目か。クナドが夢に出る、という話はしたが、霞が俺の実妹であるということまでは話さなかった。なんとなく、カラスに伝えたいとは思えない。
「ほーん、双六の時のことが、夢に出るとはのぉ」
そして、一通り話を聞いたカラスは、案の定いつもの様子を崩さないながらも、それとなく意外そうな顔をしていた。
「で、わいにそんなことを尋ねるいうことは、何か目的があるんやろ?」
「うん、ボクにチャネリングの方法を教えてほしくて」
「そんなこったろうと思ったわ。だがあれは素人にはとてもじゃないが出来ない技やぞ……」
「だよね。だから、ボクがやりかたを覚えて、アキラを導こうかと思って」
「けったいなこと考えるのぉ。まぁ、それが一番手っ取り早いやり方か」
「チャネリングって、別に一人でなくちゃいけないわけじゃないでしょ。恐らくだけど、入り口をこじ開ける役がいれば、二人までぐらいは連れてけるものなんじゃないかなって、カラスの様子を見る限りだと思うんだ。二人以上でチャネリングという話が出なかったのは、単に賽の河原へ行こうとする人がいなかっただけで」
「せやな。ほぼその通りや。ま、琥珀がおるならどうにかなるんやないか。琥珀を触媒にすれば、盤には至れないが、それを俯瞰出来る次元まで行くことは出来る。そもそも、盤は閉じておるから、どの道そこまでしか行けへん」
「うん、それで十分だと思うよ。それ以上は危険だろうからね」
「さて、暁。見る夢に関して他に何か共通項はあるか」
「そうだな、強いて言うなら――」
引きずり込まれる感覚。それが全ての夢に共通することだった。あとは霞がどこかで俺に視線を向けている感覚。その二つだけは例外がない。
そして、話を聞き終えたカラスは、ふぅとため息を一つついて、そして居住まいを正した。
「暁。わいは、暁が求める原因を生み出している存在を知っているがな。そしてわいも奴に対しては思うところがある。だから、協力自体は吝かではない」
思わず前傾姿勢になる。まさかカラスがこうも易々と色のいい返事をしてくれるとは思ってなかった。
「だが、やめとき。ここから先を深堀りするのは、危険なんてもんやないぞ。これは忠告や。生半可な気持ちでやれば、その身が、地獄へと堕ちる」
「その話はボクもした。だけど、アキラは強い意志を持ってこのことに取り組んでる。だからこれは、誰が何を言っても暁はやめることはないよ」
「はー、けったいなことで。危険を知らないとそうもなるわなぁ」
「カラス。念のため確認したいんだけど――」
「名前か? いや、今言うのはやめとき」
「なら、今携帯に打ち込むよ」
ぽちぽちと、琥珀が誰かの名前を打ち込んで、そしてそれをアクリル板越しにカラスへと見せる。俺とクレアからは、角度的に見えないし、生憎アクリル板にも反射していない。
「これ、だよね?」
「――正解や。それが『元凶』や」
わざわざ俺には見せないということは、恐らく霞が原因というわけではないのだろう。だけど、少なくとも今となっては人ならざるものが原因であるのだけは確からしい。
「まぁ、わいもあやつにはだいぶ誑かされたし、丁度ええか……」
それにしても、先程から、妙に不穏な単語が行き交っている。それが妙に不安を煽り立てるのだけど、すなわちそれがどういうことなのかが皆目見当がつかない。横を見れば、クレアも同じような表情をしていた。
「琥珀は、危険はわかってるんやろ、流石に」
「どうなるかわからない、というところかな。縁は切れてるし大丈夫だとは思うけど……」
「せやろな。それでも、何があるかわからないから覚悟はした方がええ」
「ありがとう。それは素直に受け取っておくよ」
「わいとて、今から思い返せば、どうしてそういうことになったのか今でも理解しきれてない節はあるんや。用心に越したことはない」
「未だに全部わかってないの?」
「せやな……これは言葉では説明しづらいんや。かと言って体験してみろと言えるようなものでもあらへん。こうとしか言えんのや」
「ふーん……、カラスでも理解出来てないことがあるんだ……」
クレアの呟きに、カラスがしかめっ面をする。カラスには悪いが、記憶を取り戻したカラスなら全部のことがわかるだろうという気がしていたのは確かだ。だから、口には出さないが、俺も似たような感想になっていたのは事実だ。
「まぁ、先に一つだけ言うとくわ。逢魔が時には気ぃつけや」
つまり、夕暮れから日没直後にかけて。空の青が、紅を経て、そして闇に染まるまでの僅かな間。
「恐らく、その時に潜れば、原因には一番近づける。だが、一番迫ってくるのも確かや。やるならその時かもしれんが、引きずり込まれるのも覚悟しぃ」
「逢魔が時にこそ人でない者が現れるということか?」
「まぁ、ひとまずはその認識でいい。どの道、物の怪の類が一番活動的な時間や。それと歩調を合わせてると思えばええやろ。あとは経験則やな」
確かに、カラスが黎を撫で斬りにしたのは、俺と京楓が倒れてから少ししてからの時間だった。恐らくそれを知って――どうやって?
「ただ、そこまででも十分に危険なんや。盤がないということは、そこから踏み外せば一発で永沈する。わいとて、みさきという盤があったからこそあの時潜ったようなものだ。今の状態でわいとて潜りたいとは思わん。そして、当たり前だがわいは責任は負わんで」
双六でも、霊がうろついていた時間帯は逢魔が時か、又は丑三つ時が多かった。逢魔が時は生と死の境目であることが多いからにして、片方の入り口であり、また出口だ。それが故に死者が正者を引きずり込もうとすることは、古今東西話に欠かない。
「覚えておき……あいつは『鬼』や」
それは、先ほどまで行き交っていた不穏な単語を一つにまとめる言葉だった。
「あいつのことを覚えているのは、この中ではわいと琥珀ぐらいやな。そして忘れていても、好き好んで思い出すべき相手ではない。それでも、やるんやな」
カラスは本気で警鐘を鳴らしているのだろう、ということはわかる。気付かぬ内に記憶を失って、双六盤面に潜ることで活路を見出そうとするしかなかったことからも、それが危ないことだというのはそれとなく察しがついた。
だけど賽の河原へ突っ込むことが危ないことだとして、既に前門には虎がいる現状、後門に狼が控えていたところで大して変わりはないのも事実だ。今の事をずっと続けていたとして、身が持つわけはないし、精神もゴリゴリ削られていっている。
だから俺は、カラスの問いかけに力強く頷く。何があっても後悔しないように。
「――ま、わいはもう止めんわ。話を聞く限り、どの道必要に迫られるかもわからんようやしな、早いか遅いかだけかもわからんのぉ」
「当日は、黎をここに呼ぶよ。黎なら、被害者という立場上面会も許されるだろうしね。それで、何かあったら誰かの携帯から黎に連絡が行く。そしたら、カラスが受け答えて」
「はーん、随分と身勝手やのぉ、とは言いたいが、まぁ余程でなければ一回は許したるわ。あくまで最終手段や、それ以外は何もせんぞ」
「ありがとう。それだけでも心強いよ」
カラスは最終手段。確かにそれは一番妥当な落としどころであるように思えた。
正直に言えば、何かがあったとして、余程じゃなければカラスに助けられるなんてという思いはないわけではない。そもそも、カラスが本当に助けてくれると思えないというのもある。それが発生するとするならば、本当にヤバい時ぐらいだ。
確かに、カラスが発する『鬼』という単語が引っ掛かる節はある。双六で色々あって、疑問は残しながらもそれまで抱えていた問題をもひっくるめて解決はした。なのに、俺はまだ何かヤバいものと関わりが残っているのだろうか。それとも、それとは別で何かあったのだろうか。
ともあれ、踏み出さなければ始まらないのも事実だ。後はもう八卦。やらずに後悔するなら、やって後悔したい。
「さて、時間やな……もう質問はええか?」
「まぁ、ラッキー7としてのあなたとの話はしたいこともあるけど……またの機会にするわ」
「ほー、また来ることの宣言ですかい。確変やのぉ。二人はどうや?」
「ボクはないかな」
「俺も、今のところは」
カラスには尋ねたいことは多いし、思うところもまだまだある。なんなら、このアクリル板をぶち破って殴り込みをかけたいとなるのも事実だ。
だけど、するべきことはそれじゃない。本当は、腰を据えて、カラスに寄り添うことが、本当は一番すべきことなのだと、心のどこかでは理解をしている。
だから、その機会は、また作ろう。ここに来れば、落ち着いて話が出来るのだから。
「琥珀」
そして、席を立とうとする中で、最後にカラスが呼び止める。
「あんた……元々人ではなかったやろ?」
「――よくわかったね。うん、猫だったよ」
「そもそもが風の噂で、な。ま、人間になってからだいぶ経つだろうし、色々思うところはあるだろうけどな」
そのまま、カラスにしては珍しく、言いあぐねるようなそぶりを見せて、その上で口が開く。
「あんたは今、幸せか?」
それは、正直に言えば、カラスが尋ねるにしては雰囲気にそぐわない質問だった。
そして琥珀は、カラスにも似た飄々な口調で答える。
「ボクは、アキラやみんなが悩み事に苦しんでいなければ、毎日が幸せだから」
そしてそれを聞いたカラスは。
「――ほんなら、それでええわ」
そう、似つかわしくもない寂しげな表情を見せるのだった。
二人してパジャマを着こんで、だけど並んで横になっているのは久々な気がする。大概ことをする時は全裸だから、この状況は却って珍しい。
正直、したいといえばしたいが、今日は京楓が生理だ。だから無理はさせられないし、背中とかをさするだけに留める。
それでも、京楓の温もりを感じたくて、一緒に横になっていた。寝てしまえばまた夢は見るかもしれないけれど、それでも京楓が横にいると意識するだけで少しは気持ち的に楽になれるから。
「なんだかさ、こうやってると、昔を思い出すね」
「昔って……どんな?」
「喧嘩とかした日はさ、仲直りの印として、よくこうしてたじゃん」
「――そんなこともあったな」
子供は些細なことですぐに喧嘩をする。簡単なことで激高して、ちょっとのきっかけですぐに収まってしまう。それは相手と仲良くなるには必要な儀礼で、それを繰り返すことで俺と京楓は家族以上の中を手に入れた、というつもりでいる。
とにかく、何事にも熱しやすく冷めやすかった。今は、京楓と落ち着いた関係を築けていると思うからこそ、そうやって昔のことを気軽に思い起こすことが出来る。
勿論、先日の学園跡地への訪問も大きかった。あれのお陰で、昔のことを考えられる幅がぐっと広がったし、学園の時の記憶がやっと名実共に『過去のこと』だと言えるようになったと思う。
こうして見ると、本当に俺は、周りの人によって生かされてるなとつくづく思う。京楓に拾ってもらえなければそのまま行き倒れていただろうし、みさきや大誠によって勉強も見てもらえたし、それ以外にもみんなの助力があってここまで生きてこられた。そして明日は琥珀の手を取って導いてもらうことになる。
不意に、ぎゅっと、片腕に京楓が抱き着いてきた。胸の間に腕が収まって、やわらかいものに包まれた二の腕がそれとなく気持ちいい。
「暁が寝れないなら、私も起きてた方がいい?」
「そんな無理することはねぇよ。俺だって好きで目覚めてるわけでもないんだぞ。それに殆ど毎晩になっちまう」
「まぁそれもそうだよね。ほんとにどうしてなんだろうね……。少しはましになったようにも見えてるんだけど」
「まぁ、今も回復はしてないけどな……調整してなんとかなるようにしただけだし」
結局、夢を見ないようにする方法は、短時間に寝ることを繰り返すことだった。人の眠るタームは大体九十分とかだから、どんなに長くても四時間半で起きて、それとは別に三時間とか一時間半とか寝る時間をこまめに設けるというやり方だ。
まぁ、実際問題、四時間半も寝れることは稀で、結局それが三時間と一時間半との各々のタームに分かれることの方が多い。
おかげで血圧が上がりっぱなしだ。冗談抜きで寿命が縮んでいるという感覚がある。だから、このところ大誠の元に通って病縁を使ってもらうということを定期的にしていた。原因が原因だから、これにはお金は取られていない。
「どうすれば、暁は悪夢を見ないで済むのかな」
「京楓とシてそのまま寝落ちしてても駄目なんだから、どうしようもないだろ……。恐らく、対処か何かをしないと、ずっとこのままなんだろうという実感がある」
「少しは私に分けられればいいのに……」
「分けられたっていいものじゃないけどな。時には鹿乃とかに殺されるような夢は普段でも夢見心地は悪いだろ」
ともあれ、肉体もだが、それ以上に精神が休まっていない。三大欲求の内の一つが封じられている状態だから、必要以上に体力が落ちてるし、ちょっとしたことですぐ疲弊してしまう。それこそ、また京楓に料理をお願いしてもいいかもしれない。
「そういえば、霞ちゃんの夢の話を最近してないけど、見てないの?」
「そういやそうだな……」
言われてみれば、確かに最近は霞のことを夢で見ていない。正確には、クナドがいつも出ているから、ある種皆勤賞ではあるのだけど、生前の姿という形で霞を見ることはとんとなくなっていた。
「確かに、今は双六の時の夢ばっかだ。それこそ走馬灯というか、色んな場面を無作為に見てるような感じだな。たまに双六の中の幻日での記憶も見るけどな」
「幻日っていうと……どんな?」
「具体的には盤面上がった時のことが多いな。それ自体は仮初の平和な日常だし、誰かと蜜月の関係の時は二人きりで何かしらというか」
「……私以外の誰かと関係持ってたの?」
「――あ」
やばい。明らかに地雷踏んだ。地雷というか、言わなくていいことまで口にしてしまった。
京楓と大誠の目の前でみさきとくっついたことがあるから、恋仲経験がある、ということは把握されているから問題はない。だけど、今のは『肉体的にも関係を持っていた』と完全に察せられた。
「――まぁ、あの時の私は暁のこと敵視してたし、仕方ないとこはあるけどさ……」
「あれ……えっと、いいんでしょうか京楓さん……?」
「だって『そういうもの』にされてたんだし……あれ、結局どうしてだっけ……?」
まただ。双六の時の話をする時に、根本の理由の何かが抜けている。それが人に依るものかものに依るのかの察しさえつかなくて、結局は曖昧なまま話が終わってしまう。
カラスは鬼と口にしていたけど。チャネリングで賽の河原へと潜ればそれもわかるのだろうか。実は、俺が考えているよりよっぽどまずい事態になっているのだろうか。
「まぁ、明日以降はよくなる、はずだから。ひとまずそれを期待してる」
「そうだね。早く暁が夜ゆっくり眠れるようになればいいね――」
本当にそうだ。何より、ここまで京楓を心配させてしまっていることが申し訳ない。
不安がないと言えば、嘘になる。だけど、原因を探り当てられれば、恐らく状況はよくなるだろうという見込みがあったから、そういう意味での心配は少なかった。
カラスは危険と言うけれど。今のところの実害は明晰夢を見るというぐらいで、何がどのように危険なのかという感覚が正直掴めてない。
そして、結局京楓には危険というカラスの談を話してない。余計な心配をさせたくないというのが大きいし、だったら私に出来ることを、言い始めると思うから。
これは俺の問題だ。琥珀には協力してもらうけれど、迷惑をかけるのは最小限にしたい。
だから、まずは俺が何事があっても動じないようにと心に決めて。原因が取り除けそうなら的確に対処をして。
――チャネリング決行当日の、その前夜だった。
「みんな暁くんが心配なんだよー。ずっと暁くん苦しそうにしてるのは京ちゃんから聞いて知ってるから、みんな」
「いやでも見世物じゃねぇんだぞ」
思わずそんなぼやきが漏れる。そこに、刑務所へカラスに会いに向かった黎以外の、いつもの面子全員が揃っていた。
決行場所はあかりで、というのは既定路線だった。何かあった時に誰かを呼びやすいというのがその理由だ。とはいえ呼ぶにしてもカラスを、ということだろうが、それはあくまで最終手段だ。そもそもそれは電話でだし、大誠もいるから、結局理由自体は建前だった。単にみんな集まれる時に集まっとこうという、ただの同窓会。
「ところで、暁が苦しそうにしてるのを見てるのは私と琥珀ちゃんと大誠と、あと誰かいる?」
「あ、私も」
「あぁ……そういやクレアもだったな」
クレアの卒論手伝いをするようになってからのこと。大学でクレアが席を外している間に居眠りをした俺は、その少しの間で夢に落ちていた。いつもの、霞が遠くにいるような夢だった。あれも、丁度今みたいな、逢魔が時だったか。あれは特に悪い感じではあったが。
「あの時はびっくりしたよー。暁、急に飛び起きたと思ったら、肩で荒い息してるんだもの」
「俺としては、それが毎日のように続いてるから、ある意味で慣れちまったとこもあるんだけどな」
「そっか……そりゃぁ、京楓がああも心配するのも無理はないよね」
夢の中身自体は、ここにいる面子では京楓と琥珀、それと大誠とクレアしか知らない。鹿乃はともすれば大誠が伝えてるかもしれないけど。みさきは――恐らく敢えて聞こうとしていないのだろう。
直接伝えてない相手には、ざっくりとした理解しかしてもらってないはずなのに、妙に仰々しいから、何かのっぴきならない事情があるんだろうという理解はしてもらっているけど。変に心配をかけるのも、それはそれで申し訳ない感はある。
「それで、琥珀の方は準備は問題ない?」
「ボクはいつでもいいよ。アキラがいいって状況待ってるから。でも、逢魔が時の時間ギリギリを狙いたいんだよね?」
その逢魔が時が始まるまで、あと十分程度ある。さっき外で空の様子を確認したら大体それくらいになりそうだった。黎の面会時間もあるから、あまり引き延ばせはしないということを踏まえれば、それくらいだろう。
「それにしても、琥珀ちゃん、ほんとにチャネリング習得しちゃうんだもんねぇ。びっくりだよ」
「別に。猫であった時に双六に入り込んだ時の感覚でやったらすんなりできた」
「それが私達にはわからないよ……わからなくて当然だけど。言葉にするとどんな感じ?」
「迷い込む、というのが正しいのかな。あの時は、気付いたら紛れ込んでいたから。その感覚でやってみたら、だったから、厳密には多分カラスが指南したものとも違うと思う。でも、カラスはそれでいいって言ってくれた」
「成程……成程ね? わかるようなわからないよな……」
「アキラは、ボクの手を離さないようにしてくれれば、行けると思うから」
とりあえずは、そういうことらしい。俺としては琥珀が導いてくれることを信じるだけだ。あとは、現実で繋いだ手を離さないようにすればいいだろう。
「ところで、琥珀ちゃんのチャネリングで暁を導くっていうテストはしたの?」
「ううん、してないよ?」
「それ大丈夫なの!?」
「うーん、無闇矢鱈にアキラを連れてけないからなぁ。一回やるならそれで、ともなっちゃうし」
だから、そもそも俺が賽の河原に辿り着けない可能性もある。そしたら、また対処法を考え直さなくてはならない。
可能ならそれは避けたいところだ。とはいえ、確かに俺が適性がないという可能性はそれはそれとしてある。
勿論、賽の河原、というかチャネリングに適性がないならそれでいいのかもしれないのだけど。もっと言えば、賽の河原自体に縁がない方が望ましいのだけど。生憎、四年前に既に縁があるし、今の原因の大元も賽の河原らしいから、やるしか方法はない。
「ま、何かあったら僕の病縁でどうにかするから」
「私とみさきは裏にいるから。何かあったら呼んでねー」
そういって、みさきとクレアがバックに下がると、急に不安が押し寄せてきた。
大丈夫、だとは思う。京楓が横にいる。琥珀がちゃんと案内してくれる。気持ち的な不足は何もない。
何より、春日神社の中にある、旅行安全の神と崇められる還来神社にはしっかりと手を合わせてきた。あそこのご加護があるなら大丈夫だろう。
勿論、そればかりに頼ってもいられない。原因を見つけて、すぐにそれを消せるように。
「それじゃぁ……いい?」
左手で、琥珀の手を握り締め、そしてぎゅっと瞬間的に強く握る。それが合図だった。
「行ってらっしゃい」
その京楓の声を背に、俺たちは眠りへと堕ちる。
――これが悪夢の本番の導入だなんて、まだ誰も露程にも思っていなかった。
琥珀に手を引かれて、暗い世界を抜ける。歩いて行った先には、白い世界が広がっていた。
「もう手を離していいよ」
その言葉に手を離す『感覚を覚える』。今、言うなれば俺たちは幽体離脱をしているようなものだから、現実では手を離しているわけではない。手を握っている感触もあるのに、それでも手を離したように感じるのは、視覚的な錯覚が大きいのだろうか。
ひとまずは、成功と言ってよさそうだ。肉体から意識が乖離し、夢の中そのものに飛び込んだ感覚。
既視感――を通り越して、馴染みの場所、という感覚があった。俺がいつも夢で見るのはここだった。そうか、夢で見ていた場所が賽の河原そのものだったのか。毎晩来ていれば、馴染の場所になって当たり前だ。
今ここに盤はない。だから、賽の河原だった場所は、ただの白い平原で、いつか俺たちがいた時のような面影を残してはいない。俺たちは現実からチャネリングでやってきたけど、少なくともぱっと見では現実世界に続く道も、極楽浄土へ至る道も見当たらない。
先日、琥珀と嵐山へ向けて歩いた時は、丑三つ時の三条通りでは、音が殆どないと思っていたのだけれど。
「――本当に無音だな」
足音は一切立たず、また何か動くものが他にはないから、本当に音がない。俺か、琥珀が喋らなければ、何かが動くという気配が一切ない。
正確には音が『骨身に染みる』というのが近いのだけれど。だから鼓膜が震えるという感覚が全くなくて、それが故にいつもは意識しない身体の一部位の存在を殊更に強く感じている。
盤がなくとも、賽の河原がどのようになっているかはなんとなく頭に入っていた。永沈の穴の位置などは、番があってもなくても変わらないらしい。
そして歩いてきた先は、盤にすれば少しで終わってしまうような場所だった。見渡す限り白が広がっているけど、見えない壁があるかのように、何か『狭く』感じる。
そこに、穴があった。穴は、少し遠巻きに見てもそこだけが明らかに凹んでいて、ちらりと覗く闇がその深さを窺わせる。そして白一色の世界にそれはとても目立っていた。
覚えている。これは永沈の穴だ。ここに落ちれば、そこは地獄。二度と這い上がってくることは出来ない。
これも、学園同様、いつか憧憬になる日が来るのだろうか。それこそ、今それをそうできるように動いてるとも言えるわけだけど。
「――ん?」
ふと、何か唸り声が聞こえた。一言で言うなら、惨めな声だ。
不意に、琥珀が俺の耳を慌てて塞ぐ。その時の琥珀の表情はどこか驚いたようでいて、それでいて何かまずいものを見たようなものだった。
「アキラ、これは聞いちゃダメ、絶対に」
聞かないように。確かに聞いてて耳障りのいいものではない。聞かずにいられるならそうしたい。
「耳を塞いでも意味がないけれど。だけど、この音を『存在しないもの』だって思って」
とはいえ、割と勝手に響いてきてしまうのも事実だ。もっと奥の、何か自分の内側から聞こえてくるかのような。
言われた通りにしようとする。だけど、他に音という音がないから、結果的にその音には何かしらの意識を引っ張られてしまう。だから俺はこの唸り声を否が応にも聞かざるを得なくて。
そして。
――シノノメアキラァ……。
それが聞こえてきた瞬間、体の動きが完全に止まってしまった。
「――アキラ?」
琥珀が俺を呼ぶ。だけど、一旦止まってしまった体は、金縛りにあったかのように意識とは乖離されて動かそうにも動かない。
穴の中の声はなんだ? どうして俺を知っている? 俺を呼んでいるのか? ――穴の下へ、俺が、来いと?
そこに理解が至った瞬間、間断の間を置かず頭の動きを止められた。頭の中が、糸か鎖かで急に雁字搦めにされたような心地がして、思考が強制的に一つのことにだけ持って行かされる。
「アキラ――アキラ!?」
思考が一つに固められている。他のことを考えようにも、墨で塗り潰すかの如くそれが別の事に染められて、言葉がただの文字の羅列となり、勝手に配列が組み替えられて一つの文字列の意味しか理解を許されない。
呼ばれている。行かなきゃいけない。駄目だ行ってはいけない。あそこの下は物の怪か何かが手を伸ばしていて俺を食べようとしていて俺は食べられるべきなんだ。俺を呼んでいるならそれに従わなきゃいけなくていやここにあいつはいない誰もいない。
不意に、頭の中に幾つかの景色がフラッシュバックした。京楓と出会った日の事。みんなと楽しく過ごしていた時の事。ずっと感じていた視線。浮かび上がる一人の男。そして口癖のように語っていた、俺が感銘を受けた言葉。
『人は一人では生きられない』
そして気付けば、自分の身体から、一本の糸らしきものが穴へ向かって伸びていた。そして、身体がゆっくりと、手繰り寄せられるかのように穴へと引き込まれていく感覚を覚える。
あぁ、間違いない。これは『縁』だ。何もかもを縛られ、そして回せない頭で、それだけを漫然と理解した。
――逃さぬぞぉ……お前だけはぁ……。
「ダメ、ダメだよ、アキラ!」
何かが、俺のことを呼び続けている。あれのことを憎むべきということなのはわかるのだけど、憎めば憎むだけ、縁が強くなって、穴へと引っ張られる力が強くなってしまう。
それはさながら『ほだし』。俺が全くもって望まずとも、永劫に俺を縛り続ける。その悪意に、一度は断ち切ったはずの縁が、また結びつけられたんだ。
「いけない……! ダメ……ボクにはどうにも……! すぐに助けに来るから……持ちこたえて……どうにか……!」
その声を最後に、琥珀が消え、俺一人が残される。きっと俺を助けに来てくれるつもりなのだろう。だけど、今のままでは何も出来ないから、一旦戻るしかなかったと。
ならば俺は、どれだけ待てばいいのだろう。『彼女』だってずっと待ち続けていたけど。それだけ待つ間に、きっと、俺は。
「さぁ……お前は……お前だけでも俺へと還れェ……」
――そうして俺は。
「こっちへ来るんだァ……シノノメアキラァ……」
ずっと俺を蝕んできた『鬼』と、望まぬ再会を果たさせられた。
暁と琥珀ちゃんが意識を失った瞬間、まずはうまくいったんだな、と思った。だけど、寸分の間をおかないで、琥珀ちゃんがすぐに目覚める。
「カラスを呼んでッ」
それは、これまで琥珀ちゃんが、双六でも、それ以降にも、先日の暁の介抱の時でも見せたことのない焦りの表情だった。
「アキラが危ない、早く!」
「――暁っ!?」
「暁くんっ!?」
「動かさないでっ!」
琥珀ちゃんの鋭い声が飛んで、瞬間体が凍り付く。琥珀ちゃんの声がなければ、鬼無水と二人で暁の身体を揺さぶっていただろう。
「クレアは黎に電話してっ、カラスが待機してるから、早くっ!」
「わ、わかった!」
後ろで控えていたクレアさんが意表を突かれながらも慌てて携帯を取り出す。
「タイセイっ」
「わかった、駄目元でもいいなら」
そして大誠は駆け寄って、暁の身体に手を押し当てる。強く、強く。
「病縁っ」
淡い光がふわりと広がるのはいつもの通りで。なのに、それに反比例するかのように、大誠の顔が青ざめていく。
「病縁が……効かない……!?」
「えっ!? どうしてっ!」
「わからないっ! だけど、病縁が『今ここにいる暁に対して効いてない』ということだけはわかるんだ!」
「アキラ――アキラ……ッ! 耐えて……っ!」
暁と繋がれた手を強く握って、握って――それしか出来ない。この状況で何をすればいいのかも、何ならしてあげられるのかの検討すらも付かない。
「今やれることは何かないの、琥珀ちゃん!」
「今のアキラの意識はここにはない、病縁ですら効かないとするなら、これ以上下手に手を出したら戻れるものも戻ってこれなくなっちゃうっ」
「じゃぁ、どうしようもないのかい!」
「――そうだね、チャネリングと、意識の介在が出来ないボクらには、何も」
それが、琥珀ちゃんが下す現実。一緒に潜った琥珀ちゃんが何も出来なかったのだ。暁がどうなるかもわからないまま、座して待つことしか出来ない不甲斐なさが一面に立ち込める。
このことをやると決めたのは暁だ。暁も、私たちも危険があるということはちらっと聞いていた。それでも、そこまで大ごとにはならないだろうと高を括っていたのも事実で。
だけど、それでも。こんなのってない。あんな苦しい暁なんて見たくないのに、どうして暁ばかり。
「琥珀ちゃん! 黎に通じた!」
クレアさんの声に、琥珀ちゃんがばっと振り返り、そしてクレアさんが持つ携帯をひったくるようにして受け取る。既にスピーカーモードにしていてくれていたから、店内に久々の声が響き渡る。
『大騒ぎになっとるようでなぁ。こりゃ琥珀の手には余るろうしなぁ』
「待ってたよ、カラス、早く!」
『まぁそう慌てなさんな。いや慌てるか……確かに当事者ならわいも冷静じゃぁいられんやろうしなぁ……まぁちょっと落ち着かせぇ』
久々に聞くカラスの声は、双六の時の飄々とした内心を読めない様子でありながらも、どこか頼もしく聞こえた。
深い息を一つついている音が聞こえる。恐らく深呼吸か何かをしているのだろうけど、それが、カラスなりの精神統一の仕方なのだということは、すぐにわかった。
『準備出来たで。ほな行くで、琥珀はんや』
「――うんっ」
少しだけ琥珀ちゃんが笑顔になる。
「アキラ、待ってて……ッ!」
再び、琥珀ちゃんの身体が前傾する。チャネリングをこなして、賽の河原へと飛びぬけた証だ。
そして、刹那の間を置かずして、琥珀ちゃんはすぐに起き上がった。先程飛び起きたのと同じように。
だけど、琥珀ちゃんの表情は、明らかに疲労の色が色濃くて、していたことが如何に大変だったのかを思い知らされる。
『はぁっ……はぁっ……全く……世話の焼ける御仁や、わいは地蔵菩薩やないんやで……』
そして、スピーカー越しに聞こえるカラスの声も、琥珀ちゃん同様か、それ以上にぐったりしている様子だった。
「暁は……っ? 目覚めないんだけど……っ?」
『暁は今は眠っている状態や。直に目覚めるやろ。もう動かしても問題はないだろうが、念のため大誠の病縁は使っといてもええかもな。大して効果はないやろうが』
その言葉を聞いて、大誠が無言で暁の背中に手を当てる。瞬間的な光に意味があったのかどうか、それは当人らですらわからない。
『ほな、わいは去るわ。暁には……宜しく言わなくてええわ。暁もあんさんらも、会いたくもないやろ、何もなければ、わいとなんて』
『それを日本刀で撫で斬りにした僕の前で言うのは中々度胸があるね』
『お前は……まぁいい。もうええやろ、切るで』
「あ、待って――」
どうしよう。恨み辛みもあるけれど、それでも、今の出来事に関してを言うならば。
「――ありがとね」
『――ま、こんな御仁にはならんようにな』
それだけ言い残して、今日の救世主との通話は切れた。向こうは、用を終えた黎が適当に宜しくやってくれることだろう。
だから、まずは、見たこともない程ふらふらになっている琥珀ちゃんを介抱するのが先だった。
「琥珀ちゃん……大丈夫……?」
「……大丈夫じゃない、かも……」
いつもなら、琥珀ちゃんは自分に出来ることと出来ない事を的確に把握して、出来ない事はそもそも手を出さないような子だ。だから琥珀ちゃんが疲れ切るということは、双六盤面以降一回も見たことがない。
その琥珀ちゃんが、ここまでのことになっている。それだけで、とんでもないことが起こっていたと知るには十分だった。
「ごめん、疲れちゃった……眠ってもいい……?」
暁はどうなったのとか、そもそも何があったのとか、尋ねたいことはいっぱいある。だけど、琥珀ちゃんまで倒れそうになる状況は、ひとまずの危険が去ったのなら最優先だ。
「横にした方がいい?」
「ここでいいや……動く元気がない……」
それだけを口にすると、琥珀ちゃんは深い眠りに落ちてしまった。
ちょっとした同窓会のつもりだった。暁が無事に問題を解決して、それであとはみんなで騒げればいいやっていう程度のつもりでいて。だから、本当に生死にかかわるような話になるなんて思ってもなくて。
「――一体何があったって言うの……?」
クレアさんの思わずという呟きは尤もだった。チャネリングで潜り込んで、琥珀ちゃんがこれ以上なく憔悴して、大誠の病縁が効かなくて、そして琥珀ちゃんと電話先のカラスですら疲労困憊している。
とてもじゃないが、数分の間に起こりうる状況じゃない。だから、この場にいる誰もが、まだ実感という実感を持てずにいる。
瞬間、がたりと、暁の身体が震えた。刹那の間を置かず、うつぶせに突っ伏す暁の口から大きい息が漏れる。
「――暁っ!」
右手を暁の背中に添える。呼吸すら殆どしていなかったことにすら、私は気付けていなかった。みんなもだろうけど、何より先に私が気付かなければいけないのに。
「京楓……?」
「そうだよ、京楓だよ! 私がわかる!?」
「あぁ、なんとか……この背中の手の大きさは京楓のだ……」
――よかった、記憶とか、そういうものまで飛んだわけではないようだ。まずはその事実に安心する。
「なぁ……何日……経った……?」
「何日も経ってない! 六分! たったの六分! それだけ!」
「嘘だろ……あれが、現実じゃ六分止まりだったっていうのかよ……」
六分止まりって。どういうことなの。今ここでの騒動は、時計の短針が殆ど動いていない。
そして暁は、思いもよらない衝撃の一言を発した。
「ずっと鬼の悪意に晒されてたんだ……不眠不休で……五日間……」
「五日間!? どうし――」
て、という言葉が続かなかった。それよりも、覇気が消えた、顔を上げた暁が、いつかの絶望を湛えていた。
その目は、虚空を見ていた。何も映してはいない。みんなのことも、傍にいる私でさえも。
「なぁ京楓……俺、思い出したよ……」
その口は、まるで陸に打ち上げられた魚のようだった。浅い呼吸しか出来なくて、生きようとして、今は薄すぎる酸素を求めている。そしてそれと同時に、口から吐かなければ全身に回って死んでしまう毒が喉元でつかえていた。
いや、言わないで。それは、今までの暁を否定してしまうから。『また』、そんな暁を見たくないよ――。
「俺……誰よりも……不幸だったんだな……」
六分。たった六分で。
私の最愛の人は、かつての絶望を一心に背負ってしまった。