また、夢を、見るようになった。
――お前の……お前の戒を渡すんだぁ……東雲暁……。
それは、ただの悪夢だった。愛しい人なんて誰も出てこない、ただただ俺を何かに引きずり込もうとするかのような夢。
それは双六の走馬灯ですらなかった。強いて言うならば、双六で永沈した時の心地を覚えながら、それでいて尚純然たる悪意が常にぶつけられる状態。
あと、金縛りが増えたように思う。脳が物理的に固められたと思えば、そのまま全身が動かなくなる心地がして、そしてそのまま夢の世界へと引きずり込まれる。
そこから意識を取り戻すと、身体が固いのだ。恐らく寝返りを一切していない。背中は汗でびしゃびしゃに近く、酸素を求める肺が荒い息をけしかける。きっと、息を止めて何かに耐えていたのだろう。もっと空気を、と肺が叫んで、酸素を全身に回そうと心臓が痛いぐらいに脈打つ。
夏が終わったのだけは幸いだった。また前みたいに暑さ当たりして倒れる心配は少なくなる。それでも、そもそもの体力が減りに減って、何かを食べる体力すら殆ど残っていない。一番早い回復方法は寝ることだけど、寝ればまたあの悪夢が俺に襲ってくる。正直、前に倒れた時よりも状況は悪化している。
そして、これは自分の希望を通してこうなったからこそ、誰にも相談できない。京楓も琥珀も俺の状況に気付いているようだけど、声を掛けられなくて歯がゆい思いをしているというのがわかってしまうし、そして面と向かって俺から声をかけるわけにもいかない。
勿論、それを続ければ前の二の舞だ。だけど、これは俺の問題であり、俺が処理しなければいけない問題だ。そして、これは迂闊に相談すると、相談した相手を巻き込んでしまうという直感がある。
外は雨が降っている。決して強い降りではないけれど、秋の長雨は確実に降り続いている。日差しも差さなければ、外は人通りも少ないだろう。
かつての鴨川は氾濫しやすかった。同時に佐比川も氾濫をしていたはずだ。増水し、氾濫した佐比川によって、時には『佐比の河原』から京の右獄に放置された処刑遺体が下流まで流されたことであろう。
この話を、尋ねられたから喜々として語ったことがあったな……。京楓には話した記憶があるし……あとはみさきだったか……。
「アキラ……」
頭が覚醒していない中、琥珀の声で意識が唐突に戻る。琥珀の声がなければ、また夢に易々と落ちていたことであろう。今は考え事をして無理やりにでも起こしていたようなものだったから、なんとかそれが維持できた。
「あ、起こしちゃった……? ごめん……ゆっくりしてほしかったのに……」
なんで琥珀が悪気を感じる必要があるんだよ……今のは寧ろ助かったよ……。
さっきまで……そうだ、朝食だ。殆ど入らなかったけれど……でもなんとか少しは食べて……そのままテーブルに突っ伏して……。そうか、そのまま引っ張られるように……。
「ボクのせいだ……ボクが連れて行ったから……」
「琥珀のせいじゃねぇよ……」
それだけは、強く言わなければと思った。提案したのは琥珀だけど、乗ったのは俺だし、それにそもそも琥珀は俺のためを思って提案してくれたんだ。それを悪く言うことなんて出来ない。
それでも、強く言えない。強く言うのに引け目があるんじゃなくて、強く言えるだけの体力がない。
「アキラも、無理しないでよ……そんなに、無理して動こうとしなくたって……」
「……悪い。でも、こっちの方がまだましだとは思うんだ……」
「だから……いや……そうかもしれないけど……」
琥珀の心配は尤もだろう。覇気がない自覚はある。そして、そんな状態で活動したって、碌な成果なんて出せやしない。
真っ先に、そして直接的に影響が出たのは就活だ。ただでさえこれまでも社会的な取り柄が多くないから落とされてたのに、その上で覇気すらないとなると面接での第一印象は最悪だ。
夜も眠れず、精神的にも疲弊し、起きていたところで休めるわけでもないとなると、まず疲れが顔に出て、それがそのまま剥がれない。客観的に見て、そんな最初から覇気もなく疲れているような人材など取りたいなど思わないだろう。
寝ると却って体力を削られて、だから昼間はなんとかして予定を入れて。片っ端から面接の予定と、埋まらなければエントリーシートの執筆をして、ありもしない志望動機を書き入れる。
そして、そんな状況で面接に向かえば、当然だが穴だらけの会話をすることになる。
――そんな、面接の日に元気がなさそうなのは、ちょっとね。
――で、この履歴書に書いてあることを、どうして自分の口から説明出来ないんだい?
――さて、その上で、改めて採用することにより得られる付加価値をご説明いただけませんか。いただけないのでしたらこれにて終わりとさせていただきますが。
求職者は後々の最高の顧客であり、また大事にすべき一見さんだ。だから落とすと決めた人事の人の口調だけは優しい。だけど、その内訳は、端的に言えば君は弊社に要らないということに集約されるのだ。
言い分もわかる。限られた採用のパイの中で、それを越す応募者があれば、ふるいに掛けなければいけないだけのこと。そして今の俺のような奴は、真っ先に勝手に穴から零れ落ちていく。
だけど、募集に枠があって、応募者が俺以外に殆ど見当たらなかったのに。それでも落とされて、尚も採用募集をかけ続けるのを目の当たりにしてしまったのは相当に堪えた。確かに今の俺は本当に使い物にならないだろうけど、それでも矜持はあった。それなのに。
結局、得られたものは、他人によって握り潰された自己肯定感だった。身体も精神も全てが疲弊して、残ったのは電話もない数本の不採用通知だけ。
それでも、これだけコテンパンな結果でも、精神的には下手に眠るよりはましなのだ。肉体的な疲労の蓄積はあるけれど、精神的には選考で落とされることでさえマシとなってしまうぐらいには、夢に落とされるのには堪えるものがある。
結局、これは俺の問題でしかないのだ。誰かに頼りたくても頼れない問題だし、そして頼ったところでその相手を否応がなしに巻き込んでしまう。巻き込んでしまった琥珀みたいな表情をさせるわけにはいかないのだ。
今だけは、卒論に逃げることすら許されないのが恨めしい。ある人から見れば辛いというものが、俺には楽しくて、それは『逃げ』に出来ていた。それすらも、ない。逃げ場が、ない。
だから、本当に、就活以外では家から出るのも億劫になってしまった。だから、殆どがこの自宅と、京楓と、琥珀だけ。今の俺の世界は、本当にそれだけだった。
「ボクがやったことは、無駄だったのかな……」
「だから……」
あぁ、琥珀ですら自罰的になってしまっているのをどうしたらいいのだろう。こんなに近いのに、そんなことすらまともに伝えてあげられない。
誰も悪くないんだよって伝えてあげたい。俺のせいでも琥珀のせいでもないって、ありのままに伝えたい。少なくとも、琥珀が悪気を感じる必要なんて――。
だけど、どうしてだかそれが喉元でつかえてしまうんだ。自分でない何かに遮られるかのように。言おうとすると、誰かに首を絞められるかのように。
「アキラ……息、止まって……?」
「――あ、あぁ、うん、大丈夫だ……」
気付けば、俺はまた荒い呼吸になっていた。否定の言葉を発するのを諦めた瞬間に、これだ。肩で息をして、なんとかして呼吸を整える。
どうして伝えたい言葉すら伝えられないんだ。言葉が届かない経験なんて、もうしたくないのに。そんなことで、後悔したくないのに。
「えっと、ボク、部屋にいるから……何かあったら……」
そして俺は、触れるに触れられない存在と成り果てる。まるでいじめられっ子だ。
それでも、頭の片隅で、そうなる必然を理解していた。こんな、様々な意味で扱い辛いような相手になんて、応対していたくないと思うのが筋だろう。こんな経験は二度目で、それが故に一周回って懐かしさすら感じる。
俺は守るべき存在を守れなかった存在だ。だから、これはきっと罰なんだ。それを違うと叫びたいのに、日増しに思考がそういった方向へ塗り潰されていく感触を覚えている。
――どうして俺は生きているのだろう。霞すら守れず、そして穀潰しのような毎日を送って。誰の、なんの役にも立ててなくて――。
「あ、暁……」
不意に、名前が呼ばれた。俺は――俺は東雲暁。そうだ。俺のことだ。呼んだ相手は野々宮京楓。俺の――。
「――なんだ」
あぁ、くそ、もっとまともな言い方があるってもんだろ。ほら、京楓が怯えてるじゃないか。
「こ、琥珀ちゃんが、暁の様子を見てあげてって、それで……」
「……ありがと」
よかった。なんとかそれだけはひねり出せた。京楓も少しばかりほっとしたような表情をしている。
どんな言葉なら口に出来て、どれを喋ろうとすると詰まる感じがするのだろう。寧ろ、意識しないと怨念の言葉が飛び出てしまいそうな感覚があるからにして、恐らく俺を憎ませたいのだろう。
いや、それとも関心をなくすようにして、縁を薄くしようとしているのか。憎むことは憎いという縁が結ばれることだと前に聞いたのは――聞いたのは……?
「今日も、殆ど食べられなかったね……」
「寧ろ、これが普通になっちゃってる……」
「でも、汁物飲んでお米一口で完食だなんて……」
「――お腹が、空かないんだ」
実際に、空かない。けれど、それ以上に、食べる体力が残っていないというのが正しかった。
口を開くのも。顎を使うのも。飲み込むのも。胃が消化するのも。全てが『消化するためのエネルギー』を必要としている。一つ一つの動作をこなすためのエネルギーが備わってなくて、だから余計に疲弊していく。まだ、飲むという行為だけなら、それらが組み合わさるよりはましだから、ここ数日は専らゼリー飲料が栄養補給の主だ。もっと言えば点滴だけでいい。でもそこまで落ちぶれたら恐らく再起が不可能になる。
だから、本当は喋ることも億劫だ。考えることは、頭を回転させなければ、動作を伴うものでないから多少はマシだ。
傍から見れば、ずっとぼーっとしているように見えるだろう。さながら痴呆だ。だけど、それしか出来ないんだ。考えることですら、ゆっくりやらないと駄目なんだ。
夢に引きずり込まれないように。それだけで体力の大部分を使い果たすし、栄養を取るのもままならないとなると、こんな状態でいるのが精一杯になる。正直、本当は迷惑なだけだろう。
「休めてる……?」
「……そんなわけないだろ」
「食べることも出来ないの……?」
「食べる気力も、全然ないんだ……」
「食べやすくした方がいい……?」
「それも……いらない……」
「でも、食べなきゃ……寝ても休めないなら、少しでも……」
「じゃぁ……どうしろっていうんだよ……腹も減らなくて食べたいとも思わないのに……」
違う……違う、そんな……こんなことを言いたいんじゃない……! もうちょっと言い方ってのがあるだろ……!
衝動的に詰るような言葉ばかりが口から零れるのが、余りにも口惜しい。言いたい内容と、実際に口をついて出る言葉の乖離が激しくて、その落差に気持ち悪ささえ覚える。
そっと、後ろから抱きしめられた。耳元で、温かい吐息と共に、うわ言に近い声が聞こえる。
「わかってる……わかってるから……他の誰もが暁を信じられなくなっても、私だけは最後まで信じるから……」
――申し訳ない、という気持ちしか起こらなかった。その気持ちが湧くだけでも、まだ幸せだった。
あぁ、温かいな。だけど少しだけ、ほんの少しだけいつもより京楓の体温が低い気がする。それだけで、俺は誰か別の人に抱かれてるんじゃないかという錯覚を起こしてしまう。ましてや、自分の意識さえ曖昧になりつつあるような状況では。
こうやって過ごす内に、東雲暁という人間は、誰か別の人なんじゃないかっていう気さえしてきているんだ。自分の体温なんて、ずっと上がりっぱなしで、だから余計に、相対的に京楓の体温が低く感じてしまう。
ふっと、頭が上下に揺れる心地を覚えた。瞬間的に睡魔が襲ってきて、今の状況的に、それに抗う必要は本来ならないはずなのに、睡魔というもの自体が恐ろしく感じるようになってしまっているからか、絶対に負けてはいけないものというような錯覚まで覚えてしまう。
「また、少しだけでも寝るべきだよ……」
言われなくてもそのつもりなのだけれど。また、そろそろなんとかして少しだけでも休めるようにしないといけない。それとも、この睡魔にそのまま身を委ねた方が楽なのだろうか。それでも、そのまま身を任せれば夢が襲ってくる。
もうすぐ夕刻だ。今の内に少しでも休んでおかないと、また夜半苦しむことになる。寝に落ちれば賽の河原、寝れないでいれば金縛り。どっちを選んでも肉体的にも精神的にも地獄だ。
そして、その思考は無意識にこれまでの人生に向けられることになる。俺に突き刺さっていた視線の源。鬼が『俺のためを想って』口にした言葉の数々。
主観的ではなく、俯瞰的に。俺が今強いられていることは、これまでの人生と、全ての人間関係をそうやって見させられることだった。もう十分だと叫んでもやめてはくれない。
結局、俺はずっと鬼の掌の上だった。人生の半分を鬼に支配されて、そして今俺は再び踊らされ始めた。マリオネットの操り糸のように、自分の身体が全て誰かに操られている心地を覚える。
解放されたはずなのに。自由を掴み取ったはずなのに。これは俺の人生なはずなのに。また、俺は誰のことも、自分さえも救えないというのか。
「えっと、私は部屋にいるから、寝るなら上がってきなよ……」
それすらも、うまく返事が出来なかった。そのまま、京楓が階段を上がって、戻って行ってしまう。
声もうまく出せなくて、だからきっと届かないけど。せめてその、去り行く背中に向かって。
「――好きだよ」
あぁ、これはなんとかいうことが出来た。声が小さすぎて届かなかったろうけど、言えただけで満足だ。
刹那の間を置かず、急に視界が暗転して、意識が肉体から引き剥がされる感覚を覚える。あぁ、まただ。また、この突き落とされるような心地を覚えてしまうのか。
そして、再び俺は夢へと引きずり込まれる。どんなに耳を塞いでも、また鬼の声が届いてしまう。骨の髄まで、深く、深く。
外は今も雨が降っている。その雫は、空が持ち切れずに零した――。
眠りというものは『落ちる』ものだ。意識だけが肉体から乖離するけれど、そこからそれが沈んでいくもの。
よく、霊魂は肉体から上昇するものだとはいうけれど。あれは成仏とかで神仏の元へ行ける、又は自身がそれに成す際になるものであって、基本的には罪などを持って地の下に降りる。それはどの宗教でも変わりはしない。
賽の河原は佐比川の河原。地獄は更にその下。カトリックだって、煉獄があって、地獄がある。現世は抱えた罪と死の世界の上に成り立っていて、それは端的に言えば『踏みつけられるもの』だ。シヴァ神が、炎の輪廻の中、死者を踏みつけて踊るように。
そして今日も、俺は夢に落とされる。罪を数えよと。思い出せと。過去に拘泥せよと。
迷い込んでいる、という実感がある。いや、迷い込んでいるのはどっちにだろうか。よくよく考えれば、こっちにいる時の方が普通なのかもわからない。
ここは賽の河原だ。今となっては、俺の第三の故郷かもわからない。もう見慣れてしまったように思うし、双六をやっていた時と併せれば、既に学園にいた時よりも体感時間は長くなっているかもわからない。
黒い太陽が足元で照っている。なんの光だろう。賽の河原や地獄で光を発するものなんてないはずなのに。あるとするなら誰かの後光……か。
後光……そうか、誰か仏様がいるのか。誰だろう。俺をどうにかして救ってくれるのだろうか。
でも、俺は一度は生きると決めてたはずなんだけどな。どうして未だに賽の河原に招かれることが多いんだろう。いや、どうして『生きると決めた』んだっけ……?
どうして……あぁそうか、霞が呼んでるからか。あれ、霞はどうして賽の河原に……成仏したから……あれ、そうすると霞は死んで……?
あぁ、もう何もかもがわからない。俺は何を覚えていて何を忘れたのかの記憶さえあやふやだ。大切な記憶はずっと抱えていたい。いらない記憶は削ぎ落としたい。誰だってそうだろうけど、大切な記憶が埋没しないようにしたいんだ。
その時、『仏様』が、こっちを向いたように見えたんだ。
――後悔をしているのか。
その仏様は足元に潜んでいた。そこには鬼がいたような気がするけど、後光を発してるなら、きっと仏様だろう。
――会いたい奴がいるのか。
それは、意識の奥底に響くような声だった。骨の髄まで『刺さる』ような声ではなく、『染みる』ような感覚。
鬼と同じような語り口なのだけれど、どこか懐かしさがある口調で、それが故に一言一言が、どこか親が幼子をあやすような落ち着きがある。
――お前には、会うことを願ってやまない相手がいるのか……。
はい、います。誰よりも大切な、俺が唯一血を分けた妹です。
――それは、既に現世にいないのだな。
はい……いえ、そうなのでしょうか……意識が混ざって、何が正しいのかわからないのです……。
――お前が会いたい奴なら……そこにいるぞ……。
そして、その御方は、そう言ったんだ。霞に会えると。従えば、俺の望みが果たされると。
どこへ行けば、会えるのでしょう……?
――賽の河原だ……。その上流……道祖神がいる場所だ……。
お地蔵様ですか……だとすると、あそこですか……。
――そうだ……賽の河原だ……そこへ行け……。
そこに行けば……いるのですか……?
――あぁ、いるさ……。
でも、あの小さな祠にいるのですか……?
――だから言っただろう、賽の河原の上流とな……。
畏まりました。ですが、どうやって……?
――一旦は目覚めるんだ……そして向かえ……。誰にも見つからないようにな……。
誰にも見つからないようにというのは可能なのでしょうか……。
――全くは不可能だ……だが可能な限りは出来るだろう……。
どのようにすれば宜しいでしょうか……。
――賽の河原に、縁のある場所をなぞるようにな……。さすらば、道祖神は道を開けてくれるだろう……。
そんな、縁の場所をなぞるようになんて……俺はただ、霞にさえ会えればいいのに……。
――そうでもしないと、会いたくても会えないぞ……。道祖神は、逢魔が時にしか道を開けてはくれぬからな……。
あぁ、何もかも考えるのが鬱陶しい。もうみんなそんなことを言わなくたっていいじゃないか。だったら、一つの事だけを考えていたい。
――大切な相手のことのみを考えていたいのだな……。
はい、俺はもう、霞のこと以外を考えたくないです……。
――一人の事しか考えたくないなら、そうしてやろう……。
何も、目に見えるような動きはなかった。だけど、やんわりと、脳の中身がマッサージでもされるかのようにいじくりまわされて、そしてどこか変質していく心地を感じる。
これが麻薬なんだろうなと思った。全身の変異を伴うようなものなのに、快楽が津波のように押し寄せて、そして引く気配がない。
きっと、誰かに委ねるからこその快楽なのだろう。何もしなくていい。何も考えなくていい。それは、ただ流されるには最高の薬だった。
気付けば、俺は霞以外の誰をも認知しなくなっていた。人の名前というものが浮かばない。俺は東雲暁。妹の名は東雲霞。それ以外は――そんなことはどうでもいい。
物事だとか、ありとあらゆる学んだことは覚えている。だけど、記憶として辿ろうとすると、ぷつりと、すぐ直前までの記憶が途切れていた。覚えているのは、名前さえ抜けてしまった両親と、霞と過ごした時の記憶だけ。
あぁ、足元がなくなるというのは、こういう感じなのかと思った。あったはずの精神的な土台が消え、だけど他方でとても強固になったような感覚。
でも、いいんだ。俺は霞を守るための存在だ。霞との記憶さえ残っているのならば、それをよすがに生きていられる。
霞さえいれば、俺には何もいらない。だって、そう誓ったじゃないか。その『うけい』がいつのことだかは忘れたけど、それは確かに俺の中にずっと根付いていたものだから。
寧ろ、霞のために、他のすべてを忘れてしまえたのは僥倖だ。事故があってから記憶をずっとなくしていたけれど。今こそ、この記憶を道標に出来るのなら。
――さぁ、来るんだ……お前は『樗』だ……。
『おうち』……センダンの木だろうか。だとするならば、俺には罪人の首が括り付けられているのだろうか……。それとも、俺の首がセンダンの木に括り付けられているのだろうか……。
そうだよな……俺は守るべき人を守れなかった存在だ……。だったら、俺の首も、センダンの木に括りつけられるのがお似合いかもしれない……。
俺の梟首は――そっか……晒し首にされるほどの重罪か……でも、親殺しであり、妹殺しをしたようなものだから、当然だよな……。
――すぐに来るんだ……さもなくば、お前が望む相手には永劫出会えないぞ……。
だったら、行くしかないよな。俺が生きてきて、『唯一』の道標たる、彼女の元へ……。
漆のように黒く光る後光が遠ざかっていく。全てを成し遂げられたなら、きっと俺はやがてはそこへ――。
ゆっくりと、意識が奥底から浮上してくる。不思議と、気持ち悪さはなかった。
しとしとと、雨が降っている。なんとなく、そうなんとなくだけど、外の天気は、俺の心と同化している心地を覚えた。
――ここはどこだろう。どうしてだか、『俺がいるべき場所じゃない』と感じる。ここは――誰と誰の部屋だろう。二段ベッドがあるから、誰か二人が暮らす部屋なのはわかるけど、でもその中に俺は含まれていない。
誰のだろう……匂いを嗅ぎ覚えがあるというのに、『誰の匂いだかわからない』。わからないということは、自分はこの場所にとって本来は部外者であるということだ。
途端に、居心地の悪さを覚える。当たり前だ、『他人の家に気付かず紛れ込んでいた』ら、場違いな存在なのは自分自身だ。
俺がいるべき場所ってどこだっけ。俺はいつからここにいたのだろう。俺がすべきことは――。
そうだ、霞がいる場所だ。俺は霞をまた守るために――『また』ってなんだっけ?
それよりも、霞がいない。どこにもいない。いつからいなかったのだろう。迷子になったというのなら、俺が探しに行かなくちゃ駄目じゃないか。いるという場所は……あぁ、さっき指し示してくれたんだったな……。
だから、俺が行かなきゃいけないのは――霞がいる場所だ。だったら……するべきことはただ一つじゃないか――。
それから、ふらふらと。何も考えられない頭で歩き出す。台所に寄って、一つだけ必要なもの拝借して。わかっている。霞がいる場所は、さっき仏様が指し示してくれたから――。
あの時、辿り着けなかった先へ。十二年前、縁を強く結ぶために、その手前へ留め置かれた時から、さらにもう一歩。
糸に引かれるかのように、まるで、何かに急かされるようにして。
「暁が……暁がどこにもいないの!」
その京ちゃんからの電話で、私は自宅を飛び出た。本当に、着の身着のままで、携帯と財布だけをひったくって出たようなものだ。小雨が降ってはいるが、傘を持って探すどころじゃない。
靴は家の中に残っていて、携帯は家の中に放置されていて、だけど家の中のどこにもいなくて。殆ど単語の羅列状態になっていた京ちゃんの説明を要約すると、そういうことだった。裸足のまま、着の身着のままで忽然と姿を消していたと。
実際どうなのかはわからない。だけど、京ちゃんがあそこまで憔悴してるとするならば、限りなくクロだ。今は暁くんが忽然と姿を消したという事実だけが重要で、そしてそれは私をも慌てさせるには十分だった。
せめて、まずは京ちゃんと合流しなければいけない。いや、それも考えずに探し回った方がいいだろうか。
たまたま今日は私がシフト的に非番だったから、その電話を受け取れた。琥珀ちゃんはシフト直前だったように記憶しているけど、どうやら探してくれているらしい。
クレアさんはずっとシフトがあって、大誠くんは生憎市外へと研修があるとのことで来れない。クレアさんはともかく、こういう時に限って大誠くんがいないのは味が悪い。そういう話を聞いていたから、全てが終わってから伝えることにした。焦燥にかられた京ちゃんが伝えてなければいいんだけど。
「えっと……あぁもう! こんな、何からすればいいかすらも……っ!」
そして当の私は、本当に自宅を飛び出しただけで、何から始めればいいのかもわからなかった。だけど手掛かりがなければ動くことも出来ないし、闇雲に探しても、余程運がよくなければ無駄足になるだけだ。そして、そうこうしている間にも暁くんはどこかへと『行ってしまう』。
その時だった。前から妙齢の叔母さま方が三名程歩いてくるのが見えたのは。そして、何か変なものを見たような目で、口々に何かを話し込んでいるのが聞こえる。
――ふらふらと歩いてて、幽霊なんじゃないかって思ったわよ。
――誰か保護してあげないのかねぇ。
――靴も履いてなかったもんねぇ。
「靴を履かない生気が抜けた男性……それって……!」
間違いない、と第六感が告げている。聞いてしまったなら、尋ねないという選択肢は、私には残されていなかった。
背に腹は代えられない。いや、これは天命だ。何より、これは人一人の命がかかっているのだから。
「あのっ! すみません! その人って、いつ頃、どの辺りにいましたか!」
「お願いします……! 暁くんを、暁くんがどうか無事に帰れますように……!」
私が、ここまでこの小さい社に真剣に祈ったことはあっただろうか。
還来神社。春日神社の中にある、旅行安全を祀った社。先日暁くんもお参りしたみたいだったけど、結果は無事じゃなかった。ご加護がなかったとは思わない。だけど、もう一度、せめてもう一度だけでも、暁くんじゃない別の人が祈ることによって、そのご加護が欲しかった。
焦りはある。だけど、心を静める方がきっと先決だ。だから、二人が来る前に、手を合わせることでどうにかして心を落ち着かせようとした。
「鬼無水! 暁はどこだって!?」
春日神社は、いつも静かだから、少しの声も境内にすぐに響き渡る。集合場所として、一番近くて、目的地に向かいやすかったのがここだったから、私がここを指定した。そして私はなんとかして毅然な顔をすることが出来た。
息を切らした京ちゃんと琥珀ちゃんと合流する。二人共休まずに――うん、行けそうだ。だったら、私が先導役として、二人を導かなければならない。
「こっち! 春日通りをまっすぐ北に向かったって!」
すぐに、春日神社の表門を抜けて、勢いのままに左へと曲がる。後ろから京ちゃんと琥珀ちゃんが付いてきているのがわかるから、わざわざ後ろを振り向くこともない。寧ろ、その内二人の方が前に出るだろう。
ともあれ、あとは一目散だった。北へ、北へ。ある時からずっと一緒にいた彼を失わないように。
いつも病気で、全力疾走なんてしようなら一週間は床に臥せるような体だった。今は、本気で走る京ちゃんに追いつこうと思えばできないことはない。
だから、恐らく、今までで一番速く走っただろう。自分の足でも風景が流せるというのが本当なのだと、今になって知った。それなのに、時間の流れはあまりにも遅くて、それが故に焦燥感だけが募っていく。
具体的に今どこにいるのかまではわからない。ともすれば裏道にいるかもわからない。だから、バスや鉄道などを使おうにも使えなくて、だから私たちは走るしかない。
それでも、向かう場所の検討だけは付いた。先日、暁くんは賽の河原で鬼と対峙していた。そしてその結果があの状況だ。ならば、向かう先は賽の河原か、鬼が関係ありそうな場所と考えるのが自然だ。
そして、先程の叔母さま方は暁くんが春日通りをまっすぐ北に向かったと話してくれた。見かけた場所は、三条通りよりも北だったという。それだけで、ある程度の場所の絞り込みは出来る。
間違いない、向かった先は西院の北、円町だ。かつての呼び名を圓町――京の右獄、処刑場があった場所。
まもなく逢魔が時になる。これまでの生の時間から死の時間へと移り行く頃合い。そして、今の暁くんが、そのまま死の時間、そして死の世界へと呑み込まれてしまえば。
「暁くんが、ずっと帰ってこなくなっちゃう……っ」
それも、永遠に。永沈した先で、鬼に喰われるだけの運命が待っている。琥珀ちゃんが後にまとめてくれた話を総合すれば、つまりはそういうことだろうから。
「行く場所の当てはあるの、みさき……っ!」
「それくらいは……っ!」
双六から還ってきてから、暁くんに尋ねたことがある。賽の河原と、それにまつわる史実を教えてと。
私だって、現実にああいったことに巻き込まれてしまえば、そりゃ実際に何かあったとするならば、それにまつわる歴史は気になる。そして、暁くんは、懇切丁寧に、それでいて理解具合によって進行度を変えるようにして、わかりやすく教えてくれたんだ。
曰く、賽の河原は本来この辺りだということ。曰く、賽の河原の伝承の元となった天神川は昭和時代に付け替えられたから、今西院付近はその面影を殆ど残してないということ。曰く、付け替えられる前の天神川は天井川で、鴨川に勝るとも劣らない暴れ川だったということ。曰く、本来の賽の河原の伝承のメインは京の右獄の辺りだから、西院というより円町の方だということ。
それらを、文献なども交えて、わかりやすく教えてくれたんだ。暁くんは、大学の講義の一環になるとは言ってたけど、あれは、前準備を怠らないで、相手のことを考えて話さないと、あぁもうまくは喋れない。
だから、全てを話し終えてから私は尋ねたんだ。どうしてそんなわかりやすい教え方が出来るのって。
――教え方は、みさきのを真似してみたんだけどな。
あぁそっかって、この時はそれだけしか思わなかった、思えなかったけど、今ならわかるよ。教えて、私が理解してくれることが楽しかったんだって。
全部、暁くんが教えてくれたことだ。全て、地元の地理と歴史を調べ尽くした暁くんが楽しそうに語ってくれたことだ。楽しく教えるということは、その時暁くんが私に教えてくれた一番のことだ。
そして、彼が行くべき場所は自ずから絞られてくる。もしも琥珀ちゃんの懸念通りなら。もしも賽の河原へと呼ばれているとするのなら。もしも鬼が暁くんを永沈させようとしているのなら。
春日通りと太子道にある壺井地蔵――いない。一番近くにいるならここかと思ったのだけれど、もっと先に行っているのだろう。
そのまま太子道を東へ曲がる。円町駅近くまでくれば春日通りの辺りが目的にはならない。太子道――旧二条通りは、丹波へ連なる主要街道へと通じる道だったから、かつては人通りも多かった。この付近の天神川は北東から南西へと走っているから、どちらかといえばこの辺りは太子道に沿っている格好になる。
そしてその脇は、西大路通りに沿って、かつて豊臣秀吉が築いた御土居の跡がある。洛中と洛外の境にして、京の右獄があった場所――それが円町だ。
全力で西大路太子道の信号を無視する。片側二車線の西大路通りを赤信号の中突っ切るのは危険なのはわかっているけど、危険と隣り合わせだからこそ却って車の動きがスローモーションに感じた。
極限まで空気が震えて、音の洪水が起きる。私たちに降り注ぐクラクションの大合唱は、今私たちの生を実感させてなんとも皮肉だ。そして、その脇にある西土手刑場跡には――いない。
となれば、考えられる場所はあと数ヶ所。あともう少しだけ北上して、そのまま私たちは、洛外から洛中へと飛び込む。洛外ではなく洛中にいれば何かしらから守られるのではないか。そんな淡い期待はあるけれど、相手は鬼だ、洛中と洛外の境が曖昧になった今、そんなことは微塵も期待できない。
こんな全力疾走を続けたのは勿論初めてだ。だから、現時点で身体が限界だと訴えかけている。
既に別のどなたかに保護されているだろうか。それとも、気付かぬ内に追い越してしまっただろうか。追い越しはないと信じたいけど、一本道ではないからこそ、その可能性もある。
そして、京ちゃんと琥珀ちゃんなら、私抜きでも探してくれるだろう。そして、きっと探し出してくれるだろう。
だけど、それは私が嫌だ。例え後で私が倒れるようなことになろうとも。
「こんなんじゃ、縁ちゃんに格好がつかないじゃない……!」
逃げるな、立ち向かえ。私は鬼縁を持ちし者。それを自分にこそ使わなくてどうするというのだ。
だから、二人に知られずとも、私は限界を超える。そこは見せかけの限界だ。それすら越えなくてどうして人に逃げるなと強制できよう。
不撓不屈の如き修羅。戒なんて今は持ち合わせてないけれど、あくまで自分に使ったような気で。私はもう二度とやれないだろうスパートをかける。
――そして。
「いた!」
人影が見えた。それは幾ら呆然として、生気すら抜けていたとしても、私達には見間違えようもない。
そこは、吉川大明神だった。道端に鳥居と祠とお地蔵さんがあるだけの小さな神社。そして今に至ってはほぼ来歴不明。強いて言うなら、紙屋川――天神川の脇にある。
北から流れてきた川は、ここで段々と進路を西に変え始める。だけど、元々はここから南へと川が流れていた。そして、ここから天井川となっていたから、大雨の時は頭上の川から水が溢れ出るようにして、氾濫が発生することが多かったはずだ。
だけど、その氾濫はすぐ下流にある放置された処刑遺体を洗い流すためにも必要だったこと。そして、それが終われば、氾濫は却って困るものとなる。
だからそれを鎮めるために建てられたのがここなのだろう。鳥居の手前にお地蔵さんがあるのがその証だ。ここから先が賽の河原であると。現世で許されなかった罪人が死して放置されていると。この先は生と死の狭間の世界であると。
そこへ向けた無意味な人身御供として。確実に暁くんの息の根を止めるために。賽の河原に縛り付けて、そして離さないように。今暁くんが柵の外側に立っているのは、恐らくそういうことで。
秋の長雨で、いつもは底が見える程度の川が、呑まれれば優に流される程度には増水している。だから、つまり、そういうことだった。きっと、ここのお地蔵さんは塞の神。下流にある処刑場という、怨念ひしめく生死の境の地から、無辜の民が暮らす側へ霊が流入してこないよう建立された『岐の神』。
もう、声すらも出せそうにないぐらい息が荒いけど。
今だけは、彼の名前を叫ばないと。
そうしないと、塞がれた彼の地へ、連れてかれてしまうから。
この声が、まだどうにかして届く内に。
「――暁くん!」
「暁!」
「アキラ!」
朧な眼光が、うっすらと浮かんだ。だけど、こちらをまだ見てはくれない。
その時、ちらりと、胸元が鈍く光ったように見えた。それは、わざわざそれを持ってきていなければ、そんなものがあるのはあり得ないと断言できるもので。
あぁ、そうか、今暁くんは胸元に手を入れているじゃないか。そしてそれを取り出そうとしていたんだ。
だから、それは、確実に暁くんの『息の根を止める』ためのものだ。鬼が誑かして。確実に暁くんを捕らえるために。
「包丁――!」
京ちゃんが、走った勢いそのままに抱きかかえるようにして暁くんを捕らえて、そして離さない。包丁は、その場で琥珀ちゃんがもぎ取って、そして暁くんから離すように石碑の台の上に置かれた。
「ねぇ!」
京ちゃんがひたすらに叫ぶ。暁くんに耳が痛くなるほど呼びかけるようにして。後ろから抱きかかえながら、琥珀ちゃんと私とで足を持って、暁くんを柵の内側へと運び入れる。
「霞ちゃんは、そこにはいないよ! そこから降りても、堕ちても、どこにも!」
初めて、暁くんの顔が上がる。頬が痩せこけたかのような表情は、正に数ヶ月続く夢によって削られた気力の跡だった。
どこか、無気力の中に困惑した表情が見える。暁くんは口を開かないけど、彼は今私も琥珀ちゃんも、京ちゃんでさえ忘れてしまっているのではないかと、直感的に思った。
――そうだよ。そうじゃなければ、どんなに疲れてても、暁くん、京ちゃんの声には反応するもん。こんな顔をするわけないもん。
「きっと、鬼が暁をここまで呼び寄せたのかもしれない! けど、それは暁のためじゃない! 鬼が、鬼のために呼び寄せた罠だよ! だから、暁は乗せられちゃ駄目! ここからはどこにも行けない! 行けないんだよ!」
後ろから、琥珀ちゃんがそっと暁くんと京ちゃんのために傘をさす。自分用の傘のことしか考えてなかったから、暁くんのための傘、という認識が抜けていたことに気付いて、少しばかり落胆する。
「ここは暁が還る場所じゃないんだよ! お願い、帰ってきてよ! 暁ぁ……!」
「アキラ……お願い……! ここじゃない……アキラがいるべき場所はここじゃない……!」
ずっと、暁くんは困惑していた。女子三人に急にやろうとしていたことを止められて、そして涙ながらに訴えられている。だけど、それを訴える相手は誰ともつかない、正に他人からというようなものに等しくて。
だから、誰でもよかった。私達でなくても、誰でも暁くんを止められた。誰にも、暁くんは止められなかった。だから、強引でも、暁くんを止められるような人じゃ駄目だったんだ。結局、私たちにしか無理だった。
なんでもいい。暁くんさえ止められれば。暁くんが、私たちの元へ帰ってきてくれるなら。
でも、そんなことを気にする前に、まずは一つだけ確認をしたかった。身柄を確保して、ひとまずの危険から引き離した今の内に。
「ねぇ暁くん……どこへ向けて歩こうとしていたの……?」
暁くんが、目の前を指差す。それは川だった。吉川大明神ではなく、その脇を流れる天神川を指差していた。
ここは、いつしか暁くんはここを、双六にて『地図上で』指差した場所だった。そして指差しながら、あの時暁くんはそこを――。
「賽の河原――!」
そう、言ったんだった。
「どうして、どうして暁が――」
「わからない……けど、推測は……想像通りなら……」
わかりたくない。知りたいとも思えない。だけど、放っておけば、暁くんはまた繰り返させられるかもしれない。そうなってほしくないけれど、もしかすると。
だけど、その前に。今いる暁くんの限界がすぐそこにあった。
「辿り……着け……な……かす……」
「暁っ!?」
ぱたりと。力を使い果たしたらしい暁くんが京ちゃんに倒れ掛かるようにして寄り掛かる。
そして、規則正しい寝息が、聞こえ始めるのであった。
「暁くんは……?」
「今は寝てる……」
用だけ足させてもらって、回収した包丁を、あった場所に戻した上で、京ちゃんと暁くんの部屋に戻ると、じっと京ちゃんが暁を見ていた。
あの後、倒れた暁くんを抱えてタクシーでこの家まで運んでもらった。私たちも暁くんを介抱しながら歩いて戻れるほどの体力を残していなかったし、何より暁くんがそれどころじゃなかった。
走っていた時は、これ以上なく速く走れていると思っていた道のりを、それの半分以下の時間で走破した。体感時間が遅かったというのは、強ち嘘でもなかったらしい。
シフトの時間を少しばかり過ぎていた琥珀ちゃんは、そのままあかりへ向かった。だから部屋には今は私と京ちゃんしかいない。
部屋に重い空気が流れる。ぱたりと倒れた暁くんは、今に至るまで一度も目を覚ましていない。外は逢魔が時を超え、既に夜の帳が降りていた。
雨はずっと降り続いている。身体が重だるいと感じるのは、先程までの疲れもだし、そもそも気圧が低いということもありそうだ。
それでも、やっと落ち着いて先程までのことを考えられるようになった。どうして暁くんはあんな行動に『走らされたのか』。琥珀ちゃんから説明を受けたこと以外は、何も詳しいことはわかっていない。だけど、暁くんが対峙しなければいけない相手は、あまりにも強大である、ということだけは理解していた。
何より、京ちゃんが叫んだ霞ちゃんという知らない人の名。私だけが知らない様子だった。その人こそが、すごく大きなカギを握っているということはわかるのだけれど、これまでで耳にもした覚えがない名前だったからこそ、全く以てそういう関係か皆目見当もつかない。
そして、その疑問は、思い詰めた顔をした京ちゃんによって解消されることになる。
「――これは、私も先日初めて暁から聞いたんだけどさ」
そして、京ちゃんが暁くんの過去を語る。当時八歳の少年が経験するには重すぎた、家族を亡くした記憶。二年間ずっと虚ろのみを友とした経験。そして暁くんが悩んでいたという夢の内容。
「それは……辛すぎるよ……」
だから暁くんはあそこまで必死になっていたんだ。夢程度で、と少し思う節もあったし、何よりあそこまで真剣になる理由はどうしてと思っていたけど、それはなっても仕方がない。
そして、少し前に縁ちゃんと共にかつて過ごした養護施設に、私を連れて行かなかった理由も理解した。縁ちゃんもだけど、それは確かにわいわいと行くものではない。
「これを私の口から話してよかったとは思わない。だけど、先日チャネリングの際にあの場にいて、そして今この状況に居合わせた鬼無水には、知っておいてもらう必要があったんだ。どうして暁があぁも必死になるのか。暁が何を求めているのか」
そりゃ、求めてしまう。たとえそれが幻影だとわかっていても、大切だった人が夢に出て、それを無碍にするという選択が出来る人は、この世にはいないだろうから。
「後で、暁に謝らなくちゃ……」
それだけ口にして、京ちゃんが二段ベッドの桟に寄り掛かる。肉体というより、精神的な疲労が色濃く顔に出ていて、それだけで京ちゃんの苦しみがわかる。
「――どうして暁だけが苦しまなきゃいけないんだろう」
そして、それは、京ちゃんがひたすらに暁くんに寄り添おうとすることに起因していて、自身への不甲斐なさとどうにも出来ないやりきれなさが際立っていた。
「私が、暁の苦しみの、その半分だけでも担えたらいいのに……」
私はどこまでそれをしてあげられたのだろう。仮に暁くんの彼女になれていたとして、ここまでしてあげられたかと尋ねられると、正直出来たようには思えない。
世界で私だけが辛かったなどと思うつもりはない。だけど、暁くんは、見方によっては私より辛い思いをしていたんだということを、十年以上過ごしていて初めて理解した。
それは、やりきれないよ。ともすれば、自分自身より大切な人の苦しみを理解してあげられてなかったってことだもん。私だったら――。
「あれ……て、ん……」
その時、ベッドから声がした。静かだったから、その声は小さくてもよく聞こえた。
「暁!」
「暁くん!」
「きょ……あぁ……そっか……」
――よかった。記憶が戻っている。それがあるとないとじゃ大違いだから、まずは京ちゃんが、私が絶望しなくて済んだ。
「いいよ……無理……しなくていいから……」
その言葉を無視して、暁くんは起き上がろうとしている。だけど、肉体の疲労が全く取れてないのか、支えようとした肘ですら力が入っていない。
「だから無理しないでってば……!」
それは、もう涙声だった。京ちゃんが、こうも懇願するような声を出すのを、私ですら初めて聞いた。
「なんとか思い出してきたよ……あぁそっか……俺は何を……」
「覚えてるの!? 暁が、何をしてたかって……」
「俺が何してたかだけはわかったよ……心配かけたな……」
そういって、おもむろに暁くんは京ちゃんを抱きしめた。
「心配……かけるな……」
「ごめんな……」
嗚咽と、鼻をすする音が響く。暫くはそれだけが室内に響いていた。
暁くんも、青筋が浮かぶぐらいに、今できる精一杯の力で京ちゃんを抱きしめている。――青筋が浮かぶぐらいに力をいれないと、あぁ出来ないということの証左だった。
「みさきも……心配かけた。みさきが案内してくれたんだろ? 俺がいるだろうと推測した場所へ、二人を……」
京ちゃんが落ち着いてからのその問いかけに、こくりと頷くに留める。結果的にはそうだったのは間違いないけれど、あくまで私達三人で探した結果だ。それを私一人の手柄のようにはしたくなかった。
急に、暁くんが京ちゃんの背中に回していた腕をほどいて、それを自身の胸と口に当てた。
「気持ち悪いのか?」
「そう……だな、悪意なんて、晒されるもんじゃねぇな……うっぷ」
慌てて京ちゃんがゴミ箱を暁くんの口に当てる。間を置かずして、ゲーゲーいう音が聞こえるけど、それ以外に音がしないから、胃液以外は何も吐いてないらしい。
そうだよね。殆どものも食べられてないって言うもんね。水だけでも飲ませてあげないと。食道が胃液で傷んだままになってしまうから。
「――なぁ」
それは、ぽつりと、暁くんが漏らした一言だった。
「俺は、『おうち』なのか……?」
おうち……? おうち……樗……。
「そんなことない!」
思わず立ち上がって叫んでいた。どうして。どうしてそんなことを言うのか。
「き、鬼無水……? どういうことだ……?」
「『樗』っていうのは、センダンの木のこと。そうだよね、さっきまで右獄の近くにいたんだから。センダンの木は、近くの処刑場で斬首された首を括りつける木だったもんね」
「――そうだな。でもあれはそうじゃなくて――」
「わかってる、わかってるから……」
樗という漢字には、樗材といった使い方として、もう一つ意味がある。
「――役に立たないもの」
それを口にすると、視界の端で京ちゃんがぎょっとした。
「鬼に……なのかな、なんでそんなことを言われたのかは、状況がわからないけど……」
寧ろ鬼にとって暁くんが何か役に立ったことがあったのだろうか。生憎、鬼については私も記憶が抜けているから推理のしようがない。
けれど、恐らく、そういうことなのだろう。鬼にとって、暁くんは不要なもの扱いされた。もしくは、勝手に期待だけしておいて、勝手に失望したか。
「だけど、誰であっても、そんなことを言われる筋合いはない! 暁くんは、そんな……」
それ以上は、言葉にならなかった。暁くんに、そんなことを言わせるなんて。そんな、世界で一番ラッキーな男子だって言う暁くんに。
ただ、悔しかった。様々な感情を抜きにして、大切だと思える人が、どうしてそんなことを言われなければいけないんだろう。どうして、操られて自死にまで追いやられようとしていたのだろう。
暁くんが苦しんで、そして救われないのが世の理だとして。
それすらも運命だと誰かが言うのなら。
私は、私を救ってくれたこの世界を恨み続けます。
「――落ち着いた?」
気付けば、京ちゃんの手が背中に添えられていた。顔を上げれば、暁くんでさえ私を心配そうに見つめていた。
今の暁くんにすら心配かけていたことを申し訳なく思いつつ、私は暁くんに尋ねられていなかったことを改めて確認する。
「暁くん……川面を見てた時……私たちのことが、わからなかったよね……?」
それを聞くが早いか、暁くんはぎょっとしたような顔になって、そして気まずそうに視線を逸らした。
「……そうだな。本当に、みさきのことも、京楓のことも何も浮かんでこなかった。もう一人あの時いたけど――琥珀か、そうだったような気がする」
つまり、案の定ほぼ記憶喪失に等しかったということだ。
「ほんとに、霞のことしか浮かばなくて……あっ」
「――霞ちゃんのことは、京ちゃんから聞いたよ。断片的だけど……」
「……そうか」
それっきり、暁くんは押し黙ってしまう。その表情からは、どんな感情も読み取れなかった。
やっぱり、聞いてはいけなかったのではないだろうか。暁くんにとって、誰であっても話したくない事だったであろうことだ。
でも、少なくとも京ちゃんはそれを知っていた。他にも知っている人がどれだけいるかはわからないけど、様子を見る限り、この状況下、やむなく暁くんが一部の人に話しているということのようだ。
京ちゃんは恐らく関係性的に真っ先に話すことになったのであろう。そして、今まで私は知らなかった。タイミングもあったのかもしれないけれど、それが、全てを物語っていた。
「――勿論、京楓が大切で、みさきも大切で、みんなが大切で。今の生活自体は全く不満はないし、大事にしたいものだと思ってる。だけど、俺と唯一血を分けた妹は、霞の記憶だけは、誰にも汚されたくないんだ。汚されたくなかったんだ。京楓にも。みさきにも。誰であっても」
時効を迎えた罪を語るように。おもむろに口を開いた暁くんの表情は、正に自罰的なそれだった。
「そして、俺は夢の中で霞にまつわる記憶『以外の一切』を忘却させられた。そうしたのは後光がさした仏様だと思っていたけど……鬼だったんだな、やっぱり。そうだよな、黒光りする後光なんて、仏様が持つわけないもんな……」
思い起こすのは、双六盤面に於けるカラスさんの記憶喪失。記憶喪失一つで、一人の男が双六を渇望し、そして盤を荒らして回ったこと。カラスさんは、自身の記憶を思い起こすためだけに双六へと潜った。それだけ記憶が、思い出せない自身の生い立ちを追い求めたかったんだ。
暁くんも、同じような状況に立たされていた。人一人を操って、そして自死に追いやろうとするぐらいには、言葉巧みに操って。カラスさんが記憶を失った上で放っておかれていたとするなら、暁くんへは明確に殺意があった。明らかに地獄へと突き落とそうとしていた。
「鬼って……なんなの……?」
それは、得体のしれないものに対する根源的な恐怖だった。あるいは人ならざる者。あるいはいてはいけない存在。あるいは憎むべき存在。
一体、暁くんは何と対峙させられているのだろう。暁くんだけが、どうして独りでそんなことに。
瞬間、バタリ、と階下の玄関が勢いよく開いた音がした。それに体が浮くぐらい驚く。
だけど、瞬間慌てた声が聞こえてきた。あぁ、大丈夫だ。どうやってかはわからないけど、『彼』が一方を聞いて駆けつけてきたんだ。
「――暁!」
「た、大誠!?」
京ちゃんが驚くのを無視してずかずかと部屋に入ってきた大誠くんは、暁くんを確認すると、勢いよく向かって行って。
そのまま、思いっきり暁くんの頬をひっぱたいた。
「なんで、なんで死ぬようなことを――」
「ま、待って大誠! 順を追って説明するから! 暁は何も悪くないから!」
慌てて大誠くんを暁くんから引き離した京ちゃんが、宥めて床に座らせる。こうもいきり立つ大誠くんは、双六盤面で縁ちゃんと対峙した時以来だろうか。大誠くんが誰かをひっぱたくのも初めて見たし、ここまで感情を露にするのも双六盤面で縁ちゃんと対峙した時以来だ。
そして、京ちゃんと、時折の補足を私が入れた説明を聞いた大誠くんは、その姿勢のまま暁くんに謝っていた。正座だったから結果的に土下座状態だ。
「――すまない。僕の早とちりだったようだ。暁、すまない」
「まぁ、俺が自殺しそうになってたのは事実だからな……」
「それでも、そこに暁の意志は介在していなかったわけだろ? それは自殺未遂じゃない、殺人未遂だ。だけど、よもやそこまでのことになるなんてな……」
大誠くんがしゅんとしたような様子を見せると、寧ろ暁くんが慌て始めた。大誠くんのせいではないと言いたいのだろう。余計に責任を感じる必要はないと。
「確かに、最近僕のところに来ないと思っていても、行動せずにかまけていたのは僕だ。連絡すらもせずに、いざとなれば京楓や琥珀がいるから大丈夫だろうと思い込んでいたのは事実だ。すまない。僕がもっと暁のために動いていれば……」
「いや……俺もそういう思考にはなれてなかったから……」
「そういう時は頼れよな……頼れない精神状態だったのはわかるけどな……まぁでも、なんとか無事でよかったよ」
無事、だったのだろうか。でも、確かに今この状況だけを取れば無事だったともいえるか。
「っと、ならばせめてあれはやっておかないとな」
そのまま、大誠くんが手を前に突き出して、そのまま暁くんの胸に触れる。
「病縁」
ぼんやりと、光が上がって、そしてそれが落ち着くに従って、暁くんの顔に赤みが戻っていく。
「ありがとうな。二人にも、してあげてくれないか? 本当に迷惑かけたから」
「わかった」
まずは京ちゃんにそれがいって、続いて私に病縁が発動される。
すごく懐かしい感覚だった。郷愁とは違うし、機会がないならない方がありがたいものだけど、それでも、これは私を救ってくれた縁で、そしてこれは大誠くんが相手のためを思ってやってくれるとわかっているものだから。
「んー、ありがと大誠! 暁も少しは元気になったみたいだし、これで何かしら出来る!」
「そういえば大誠くん、今日は研修だったって――」
「あぁ、とんぼ返りしてきた。まぁ外部研修自体は終わらせた上でだけど、やること残してほぼ直帰。だからその代わり長くはいられないかな。やらなきゃいけないことは残ってるから」
「え、まさか俺のために……?」
「当たり前だろう。暁が自殺しかけたって報告受けたらそりゃそうするよ」
「えっと、ちなみに報告は誰から?」
「琥珀だけど」
「琥珀ちゃん……多分狙ったよね……」
「あぁ……嘘とは言い切れず、その上で大誠を的確に呼び出すにはぴったりの文言だな……」
「僕は食べ物にたかるハエか」
やっと冗談が飛ばせるような空気になってきた。これなら、もう重苦しい空気になることはないだろう。
「――そういえば、この四人だけで揃うのって、久しぶりだね」
「こんな形で揃いたくはなかったけどね」
「まぁそう言わずに……誰かが罪を犯したとか、そういうんじゃないんだから」
でも、言われてみれば、本当に久しぶりだった。双六以後は、そもそも『みんな』という形で、誰かがいたから、きっかりこの四人というのは、本当にそれ以来かもしれない。
だから、そういう意味でも懐かしかった。今の暁くんの状況が私で、そっくりそのまま入れ替えれば、四年以上前にいつもあった構図そのままだった。ここは暁くんと京ちゃんの部屋だから、どちらかというと京ちゃんの誕生日前の会を考える雰囲気にも近いだろうか。
いつか、暁くんは、ずっとこのままがいい、ということを言っていた。変わらないものなどないことを知っていながら、それでも尚変化しなくていいものは変化しなくていいと。
私はその時、関係性が変化しなくていい、というようなことだと思った。それを聞いて、少しだけショックで、少しだけ安心したのを覚えている。そして今のみんなとの関係性は変わらず、だけど変わるところは変わって、今に至っている。
だけど、今ならわかる。真に変化を望んでいなかったのはきっと私で、そして私は今尚――。
「なぁ……京楓」
それは、ぽつりと、暁くんが漏らした一言だった。
「――悪い、お腹、空いた」
「――っ! うん……うん……!」
きっとそれは、暁くんが久しぶりに見せた生への渇望だったのだろう。京ちゃんがその一言だけで涙ぐむのがその証拠だ。
「え、京楓が作るのか?」
「そうだな……基本的にはお願いしてもいいか?」
「『あの』京楓が作るのか?」
「失礼ね! 私だって暁にちゃんと手ほどきしてもらったもん!」
「いやまぁ、色々知ってるというか、話には聞いてるとね……」
確かに、京ちゃんの料理というのは、基本的には暁くんの口伝でしか聞いていない。少し前までは割と散々な評価をしていたから、どうしてもその印象が強いのだろう。
京ちゃんの料理は、一回だけ生で見たことはあったけど、お世辞にも上手いとは言えなかった。丁度暁くんが京楓が料理を覚えようとしてくれないと嘆いていた頃だ。
「でも、暁くん曰く今はおいしいらしいんだよね。暁くんの贔屓目というのは否定できないけれど……」
「いやほんとだから。一時期の惨状全部知ってるから言うけど、本当に旨いんだって」
「とのことだけど。私も京ちゃんのご飯は食べたことないから何も言えないんだけど……」
「うーん、心配だなぁ……」
それこそ余程の塩分過多とか言わない限り死ぬことはないだろうとはいえ。でも、前科があるという話を聞いてしまっていると、どうしても不安にはなる。
で、これを京ちゃんのすぐ脇で話してたから、当の本人には全部筒抜けだったわけで。
「暁……二人がひどいよぉ……」
「わかった、じゃぁ俺が脇にいるから。俺が監視してる体ならいいだろ?」
「まぁ、それなら……でも暁は大丈夫なのかい? その身体で」
「まぁ、動かさないとなまるしな……正直不安はないではないが、多少はやらんとな……。でも、さっき大誠が病縁やってくれたから、かなりましにはなったんだ」
それ自体は嘘ではないらしい。見た目にも、顔は赤みが戻っているし、現に私も疲れが割と取れた。そっか、病縁ってこんなに効いたっけ。
「まぁ、折角だから、京楓と一緒に準備したいなって……出来ればだけど」
「でも、暁は休んでた方が……」
「たまにはさせてくれよ。そうでもしないと勘とかなんだとか、ほんとに鈍っちまう。それこそ最初に京楓に野菜の皮むきだけでもやらせてたみたいなとこだけでもいいから」
「うーん、わかった。でも無理してそうだったらすぐ止めるからね! あと座って作業してね! いい!?」
出た出た、暁くんの京ちゃんに対しては異様な頑固なとこ。これだけは本当に昔から変わらないよね。でも、私も二人への色んなことが変わらないからお互い様か。
階下へ降りる暁くんと京ちゃんの背中を見送る。後には私と大誠くんだけが残された。
「仲がいいよな、ほんと」
「――そうだね」
それは、事あるごとに私と大誠くんとで言い合っていた言葉だった。今でこそ言う機会もなかったのだけれど、今だからこそ言える言葉でもあった。
親友としての二人。幼馴染としての二人。家族としての二人。そして今は――。
「みさきは、僕のところへ来なくていいのかい?」
それは、この場で出るには不自然で、ともすればプロポーズにも聞こえそうな言葉だった。
「大誠くんには縁ちゃんがいるでしょ?」
「違う。暁と同じように医者にかかるという意味での僕のところ、だ」
成程、そっちか。医者にかかるというのは、悲しいかな、慣れていたことだけど、友人を訪ねるのなら、また違った感覚になるのかもしれない。
「あれ、でも、暁くんと同じようにって?」
「あぁ……そういえば話してなかったっけ。暁、夢の事で相談ということで、一回心療内科の医者見習いとしての僕を訪ねに来たことがあるんだ。確か、暁が熱中症もどきで倒れてすぐじゃなかったかな」
とすると、やっぱり、大誠くんは暁くんの夢のことを知っていたかぁ。まぁ大誠くんはそうだよね、真っ先に相談していてもおかしくないし。
「最初だけはお金取らないよ」
「うーん、でも私は相談することは今のところないかな。とりあえずは毎日を楽しく過ごせてるつもりだしね」
「みさきがそういうのなら別にいいが……本当にそうか、と思うようにも見えてな」
「大誠くんにはそんなに何か悩んでるように見えたの?」
「そんな気がしただけだ、深い意味はないさ」
ならいいのだけど。単に軽く友人を誘うだけというつもりなら――。
「でも、みさきはいざという時抱え込んじゃうタイプだからね……僕のところでなくてもいいけどさ」
それに、私は返事をすることが出来なかった。頭にリンゴを載せ、父親であるウィリアム・テルに矢を向けられた状態のテルの息子のような気持ちだった。
これだから幼馴染というものは怖い。付き合いが長いからこそ、隠しておきたいことがそれとなく察せられてしまうことがあるのが一番怖い。
やっぱり隠せてないのかな、と思う私を、大誠くんはじっと見つめていた。今は、今だけは居心地が悪い。
「下に行こうか。今どんなことになってるか、まずそうだったら止めないといけないし」
「そうだね。私も京ちゃんの料理興味あるしね」
そして下りた階下は、えも言えぬ匂いが漂っていた。これだけでお腹が早く食べさせろと訴えかけてくる。
「ほい、疲れただろうから今日は味が濃いのを。回鍋肉と餃子がメインだからとりあえず運んでくれると助かる」
「全く、お腹を空かせるような匂いを充満させて……それで、どれが暁でどれが京楓の?」
「餃子を包んだのが俺であとは大体京楓」
「えっ!? これは、じゃぁ、ほんとに殆ど全部京ちゃんの……!?」
わざわざこんなことで嘘ついてもしょうがないだろうし。だから、暁くんが言っていたことは、どれもが本当だったのだろう。
「私だってやれば出来るんだぞ!」
うん、そうだよね、ごめんね疑って。でも一時期の事を一応知ってはいたから、疑問に思ってたこと自体は許されるよね。
「ま、それじゃ、やらなくても出来るようになってた京楓の料理を二人に食べてもらうということで」
「いやそこは暁の無事祝ってだから」
「そうだね、今日はそれ以外ないだろう」
「だよねー、主役は座して待つべきだったかもね」
「いや、なんかそう言われると……でも心配かけたもんな」
思うところはあるし、それに悔しい思いをするところもあるし、その内深い悲しみを背負うことになるとは思うけれど。
それでも今だけは四人で、かつての関係のように話に花が咲かせよう。かつてのように。これからも出来るようにと願いを込めて。
「――使い物にならなかった」
琥珀がしょんぼりとした様子で帰ってきたのは、夕飯を食べてから帰宅した大誠と入れ違いになるようにしてだった。みさきはまだ残っている。
「動作が緩慢でミスも多くてまずは休めだって……」
「いいんだよ琥珀ちゃん、今日は立派なことをしたんだから……」
京楓が琥珀を慰めるのは中々珍しい。割と逆パターンは見るのはみさきには内緒だ。琥珀がなんでもかんでもそつなくこなすのがいけない。
「アキラは?」
「――よぅ」
なんというか、気まずい。目が覚めてから琥珀に会うのは初めてだったから、どんな表情を見せるか気が気でなかった。
だけど琥珀は、少しだけ顔を綻ばせて。
「回復したようなら、良かった……」
ほっとした表情だけで済ませてくれたのは、寧ろありがたかった。京楓やみさきや大誠や、みんな感情が荒ぶってしまうのは仕方ないことだと思う。とはいえ、応対に困ってしまうのも事実だ。目覚めた瞬間に居合わせなかったとはいえ、色々なことが終わってから、落ち着いた状態で対応できるのは、正直気分的にも楽だった。
「暁くんね、さっき料理出来るぐらいには回復してたの。大誠くんがさっきまでいて、それで病縁使ってもらったらこの通りで」
「そっか。それなら大丈夫だね。ボクにも病縁使ってもらえばよかったな……」
「ごめん、だったら大誠に無理言って待ってもらえばよかったよね」
「ううん、予定より早く帰ってきたのはボクの方だから」
確かに、予定ではあと二時間ぐらいはあったはずだ。今はクレアが一人で応対しているのだろうか。この時間になればそれでも回るとは思うけれど。
あぁそうだ、琥珀にはまだ言えてない事、言わなきゃ。
「ありがとな、琥珀。心配と迷惑かけた。どうせまたうなされるんだろうけど、とりあえず今はこの通りだ」
「――好きな人には当然のことだから」
「え、好きな人?」
「ちょ、ちょっと琥珀さん!?」
「……冗談だよ」
いや冗談ではないだろ。少なくともあれを聞いてる俺だけにわかるようなコメントは、今この場では場を荒らすだけだから勘弁してほしい。
ともあれ、琥珀が帰ってきたなら、尋ねたいことがあった。出来れば、今の内に聞いておきたい。
幸い、今の俺は病縁を使われた直後だから、ここ最近ではだいぶ元気な方だ。また体力を今後消耗するなら、今を逃すと確実に機を逸してしまう。
今なら『何かあってもまだ耐えられる可能性が高い』から。機を逸せず、今の内に。
「――なぁ、琥珀」
だから俺は、『それ』を唐突に切り出した。
「琥珀が知っている、鬼のことを、全て教えてくれないか」
瞬間、琥珀の表情が固まる。少なくとも、今このことを尋ねられると思っていなかった顔をしていた。
「……本気で言ってるの?」
「あれだけのことを経験してきて、この期に及んで冗談を言うと思うか?」
「言わないとは思う。だけど、覚悟が――あるよね、そうだよね、アキラは強いもんね……」
明らかに逡巡している。これまで、俺が琥珀にお願いをしたどんなことよりも、琥珀は深く考え込んでいる。
「俺が今必要なことは、敵を知ることだ。そして同時に己も知らなくちゃいけない。そして己の事を知るのに、俺は記憶がきっと失われすぎている」
「そうかもしれないけど、でも……」
「少し考えてみたんだ。チャネリングを仮に習得できるのなら誰であってもいいはずだし、それこそ他に誰か助力を求めてもよかったんじゃないのかもしれないって。カラス以外の、俺たちの誰かと。霊能力者だったか。誰か素質があるならしてもいいのではと。だけど琥珀はそれをしなかった。『探そうともしなかった』んだ。確認するまでわからないはずなのにな」
勿論、琥珀以外にチャネリングが出来ないという話ならそれまでだけど。そもそもその可能性自体は高いわけだけど。でも、そうだと思ったから深くは追及しなかったんだ。でも問題はそこじゃなくて。
「俺以外に、鬼と『再び縁を結んでしまう』可能性があった――つまり、琥珀は鬼と縁がなかったから必要最小限にした、そうだろ?」
琥珀が息を呑む。どうやら推測通りだったらしい。
「あぁ、別に責めてるわけじゃないさ。俺だって、誰であってもここまでのことに巻き込めないってなるからな。まぁついでに付け加えるなら、多分鬼は俺以外に関心は持たなかっただろうというのはあるけど」
「うん、ボクもそう思う。それでも、可能な限り巻き込む人を増やしたくはなかったから。だから、アキラをここまで苦しめる結果になっちゃった」
「いやいいんだって。巻き込まないのは俺も本望だ。それこそ琥珀を巻き込んじゃってるっていう罪悪感もあるんだけどな」
とと、これ以上は堂々巡りになりそうだ。本題を続けよう。
「話を戻す。俺が鬼に狙われてるとして、じゃぁ狙う理由があると思うけど、その理由を俺が把握できてない事には、それこそ対処もしようがないんだ。みんなじゃ駄目なのか。俺である必要があるのか。俺の、何を狙っているのか」
鬼は、あの時間違いなく俺の名前を呼んでいた。他の誰でもなく、俺の名前だった。俺を賽の河原に呼び寄せて、その上で俺を捕らえたとするならば、他の誰でもなく、俺である理由があるはずなんだ。
「何も知らないでそのままの状況を続けるんだったら、今知らないことを知って、そして何か光明を掴むように動いた方がずっといい。例えそれによって何か危険性が上がったとしても、俺から可能性を潰すことは避けたいんだ」
ともすれば時期尚早なのかもしれない。けれど、事態はそれどころじゃなくなってきてしまっている。
「そのままにしておいて、何も変わらないのならまだいい。だけど、放っておけば俺だけのことじゃなくなりそうだからさ」
意識せずに包丁を持ち出していたのがその証だ。もし、それを自分ではなく誰かに向けろと命令されていたら。もし、何でもいいから他人に危害を加えろと言われていたら。もし、お前の恨みを晴らせと言われていたら。
「そうだな……それこそ、何かを知ったことで、俺が誰かを手に掛けようとでもしていたら、容赦なく俺のことを殺してほしい。だけど、そういうことにはならないだろうという確信がある。寧ろ、何かあってから、鬼が俺に勝ってしまってからでは遅いんだ。今なら、まだ対処の仕様も絶対にある。だから、頼む」
そこまで話すと、琥珀は目を閉じて、そして何かに思いを巡らすかのようにして口を開いた。
「――これを、誰かに、アキラに話す日が来るとは思わなかった。ボクの中で、これは誰にも話さないって決めていたことだったから。だからアキラに何回か尋ねられても、ボクは答えようとしなかったんだ。不安定な状態でその名を告げることで、アキラがどうなっちゃうかわからなかったから」
それは、琥珀の決心で、一周回って矜持だったのかもしれない。
「だけど、こうなったら、確かにアキラは知っておくべきだと思った。それを知ることで、少なくとも原因は掴めると思う。だけど、きっと危険性も上がってしまう。そして、教えないことで後々危険性があがらないかもわからない。それでも、いい? ボクは、可能なら正直今でも伝えない方がいいと思ってるけど、もうそういう次元じゃなくなっちゃってるようだから」
「――頼む。もう放置しても状況は悪くなるだけだし、何より、放置すると、物理的にも俺だけの問題じゃなくなるような気がしているんだ」
「そうだね。きっと、そのままだとアキラから災いを引きこんで、そして周りの人にも危害が加わるようなことになっちゃうとは、ボクも思う」
俺自身が厄災となってしまうのなら、俺は誰の犠牲も出さないように自分から消えよう。だけど、それでみんなが、京楓が悲しむというのなら、それは犠牲が出る前の最終手段だ。俺が救われて、そして犠牲もなくせるなら、それに越したことはない。
「――こうなる前に、ボクがもっと早く決心していれば、きっとアキラをこんなに苦しめずに済んだのに……」
瞑想するように目を閉じた琥珀は、きっと後悔を抱えていた。そんなことはないと言ってあげたかったけど、俺の言葉でどうにかなるものではないということも、また理解してしまった。
「これは、キョウカもみさきも、いつかは覚えていたことなんだ。でも二人は、直接はもう関係ないからきっと伝えられたことによる影響はないと思う。だけど、アキラは、何かあるかもしれないから……覚悟してて」
俺も琥珀も、一回だけ深呼吸をする。少なくとも俺は、覚悟は出来た――つもりだ。
「思い出してアキラ。誰に育てられた? どうやってキョウカと出会った? ――誰か、いつもそこにいなかった?」
育ては――野々宮の家だ。その前は学園。その前は東雲家。育てはそうだけど――じゃぁ学園以降はどうしてそのようになったんだったか……?
京楓と出会ったのは公園だ。その頃からまとわりつくようになったもの。京楓も知らない、みんなも気付いてない、それ。
「――視線」
そう、視線だ。周囲に全く誰も人がいなくても、俺から離れることのない視線。
「どうやって学園に入ったの? どうしてみんなだったの? どうしてキョウカだったの?」
あぁ、そうだ。学園に入るのも、俺は何もしてなくて、そして何か話があったわけでもなかったのに、全てが勝手に決まっていたじゃないか。少し前は、それは運命だったと述懐していたような気がするけれど、全然そんなことはなかった。なかったんだよ。
学園から脱走する時も、視線からだけは逃げられなかったじゃないか。思い返せば、視線はあの頃からずっと続いていて、双六を終えてぷっつりと途切れるまで、ずっとあったというのに。
やっぱり、あの視線は『人ならざるもの』によるものだったんじゃないか。時にはその視線に操られるように。
「アキラにだけ、真にアキラにだけ、誰かが何かを語ってくれたことは、ない?」
――あぁ、それは、いっぱいあったな……。
――運命は、よそからやってくるものではなく、自分の心のなかで成長するものである。
あの時、ヘッセの言葉を引用したのは。
――夢を手放してはならない。もし夢を失えば、人生は翼の折れた、飛べない小鳥になってしまう。
ヒューズの言葉を引用していたのは。
――人間、志を立てるのに遅すぎることはない。
ボールドウィンの言葉のように、あなたが立てた志は。それは、何に向けてだったのですか――。
「アキラ……大丈夫……?」
「続けてくれ……」
今はそれしか言えなかった。今しかチャンスはなかったから。別の機会にしたとして、さらに苦しむだけだ。
男。そう男だ。それは、本当に人間だったのかもわからない。ただ現世に於いて悪事を働くために、人間に擬態した鬼だったのかもわからない。
ならば俺は。ずっと紀長谷雄であることを強いられてきたのか。勝てるかどうかもわからないまま、鬼の用意した盤面で、時には賽の目にも依らない出来レースをさせられていたのか。
そして、対価として差し出されたのが京楓――いやそれは……それだけは違う! みんなは、京楓だけはそんな鬼が差し出したものなんかじゃない! たまたま『鬼に見初められた』だけかもしれないけれど、でも――それだけは最後まで否定する!
「それは、ともすれば関わった人全てを不幸にするかもしれない。そして、下手に巻き込まれれば容易く命を散らしてくる存在――アキラは、そんな相手に見初められていたんだよ、ずっと」
頭の中の靄が晴れていくかのようだった。そしてそのまま強い熱を持つ。頭から脳を取り出して、茹だった頭の水を捨て、真水で洗った上で、それをそのまま強く握って押し潰されるかのような。
そして琥珀は、その名前を今再び告げる。
「男の名前は――物部総司」
パチリと、一つだけ欠けていたパズルのピースが嵌まり込むかのような心地がした。
「アキラをずっと監視して、アキラの人生を操ってきた、鬼、だったよ」
俺の奥底で、縁が、決定的に結ばれたような心地を覚える。不眠不休で、俺を永沈させようとしてきた時以上の、確固たる縁が。
――人は一人では生きられない。あの時、頭に流れ込んできたフレーズが、今再び結合する。それを合図に、俺の人生と、その男との関係と、それによってもたらされた縁が再構築されていく。
そうだ。これは俺の『半生』だ。それらが全て、質量を持って俺に逆流してきた。
いつも感じていた誰かの視線のこと。京楓との出会いのこと。いつか賽の河原へ行ったこと。今ここにいること。
全てがその鬼の掌の上で、そしてどこからか男の高笑いと共に、鬼が復活の兆しを示したかのような耳鳴りがする。
「暁……大丈夫?」
京楓の問いかけも、今だけは逆効果だった。脳細胞が物理的にねじられ、そしてフォーマットと再書き込みが繰り返される脳内は、誰の声であってもただのノイズとしかならない。
鬼が俺の記憶を、麻薬を注入しながら失わせたのとは逆の、まるで麻酔なしで頭の手術を行うかのような、もっと直接的な痛み。頭痛と耳鳴りとが頭を支配し、地獄の底から響く歓喜の声が鬼の復活を暗に示している。
そしてこれらは同時に、それはうまく捨てられた、俺という人格そのものの再構築を伴うもので。
だから、俺の半生が、今この瞬間に全て書き換えられるようなもので――。
「あっ――」
その処理は、意識を保っていられるようなものではなかった。
「暁!?」
「暁くん!?」
それだけが耳に届いて、俺の意識は闇に落ちる。
意識が途絶える瞬間、鬼がどこかでせせら笑う声が聞こえた気がした。