名前というものは、個々の命を区別するためのものだ。名前が付けられて初めて、命は心を持ち、自我が生まれる。
学園でだってそうだった。俺も鹿乃も、名前を持たないようなものだったからこそ、心を失っていた。京楓と出会ったことで、俺は久しぶりに自我を持てたようなものだ。名が無ければ、誰であっても個を確立することすらできやしない。
そして、名前を知ったからこそ、俺の中で、夢は具現化した。
「他人の力で得た幸せは本当に幸せか?」
それは、正に教師が、自身が受け持つ生徒に向けて語り掛けるようなものだった。
「お前なんぞがその力を持っていたというのが本当に嘆かわしいよ……私に渡せばそれを有効利用してくれるというのにな……」
だけど、それは出来の悪い生徒をあやすのではなく、ただただ不条理を嘆くという、聞かされる当人からすれば迷惑千万な語り口だった。
「言っただろう……お前は『樗』であると……。所詮お前はただの入れ物……お前の中身自体はさしてなくても構わんのだよ……」
それはただのお前の八つ当たりだ。俺は、お前の道具なんかじゃない。だけど、内心でこいつはずっと俺のことをそのつもりで扱ってきていたんだ。
「それとも……お前は俺の右腕として動いてくれるか……? それならば俺はお前を歓迎しよう……まぁどの道お前と言う自我は消えざるを得ないのだがな……」
結局は、鬼の外面が消え、だけど地獄の奥底で鬼の意識が覚醒した今、俺が取り得る手段に選択肢は残されていない。この鬼と正面から向き合って、そして。
「だから私は、お前を『手に入れる』ことにするよ――覚悟して待っておれ……」
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
秋が深まり、朝晩は段々と冷えてくる日が増えてきた。だけど俺は毎日のように汗だくで目を覚ます。
悪夢ということだけは変わらない。だけど、一周回って、身に纏わりつく得体のしれない不快感は消え去った。だから、寧ろ賽の河原に毎晩連れ込まれて、そして何かと混ざり合うかのような心地は消えたのは、寧ろ僥倖かもしれない。そういう意味では夢見心地はましになった。
代わりに、俺を永沈させたいという悪意が、直接的にぶつけられるようになっていた。我欲のままに、俺にとっては理不尽なまでにぶつけられる悪意は、方向性は違うものの、やはり精神を疲弊させるには十分だ。
間違いない。鬼が、もうすぐ実体化をしようとしている。理屈では説明できないけど、鬼が夢の中で具現化してきている状況的にも、それで全く不思議じゃない。
方法まではわからない。だけど、今鬼は現世に憑依できる肉体がないからこそ、恐らく俺の体を乗っ取るか何かして実体化を図ろうとするのだろう。
「暁……今日も大丈夫……?」
「――あぁ。今日も会ってきたよ」
寝起きざまでも、京楓に、こうやって返せるようになっただけ、本当に以前よりはましだ。
琥珀が俺に名を教えたからじゃない。どうしてか、その頃から前後するように、あいつの存在が実体を伴うようになってきている。
「京楓は……全く思い出せないんだよな?」
「うん……暁だけ覚えてるのも申し訳ないと思うんだけど……」
「まぁ、俺以外はみんな思い出せないんだから気にするなって。俺は例外みたいなもんだし、少なくとも京楓が気に病むことじゃない」
「うん……」
琥珀からその名を聞いて。俺の中でどういうものが鬼なのかということを理解できるようになって。――意識的に鬼と邂逅して。そうして、俺の中で鬼という存在が明確に形作られていっている。
今、鬼は俺の意識の中で生きているかのように蠢いている。名を得て、いつか俺と深い縁を結んでいた鬼は、確実に俺の中に寄生している。
縁がなかった琥珀だけが覚えている分にはまだよかった。だけど、俺が思い出してしまったから、鬼がそれをよすがに息を吹き返そうとしている。
そして、俺は俺で、記憶を取り戻しつつあるからこそ、わかることもあって。
「――あの鬼に救われてきたことがあるのは、間違いなく事実なんだ」
「そんな、鬼なんでしょ!? 鬼に救われるって――」
「あいつは教師だった。そして、情に篤かった。思い返すと、少なくとも学院の中では、確かに誰からも慕われていたよ。取り繕っていても、いや取り繕っていたからこそ、鬼は確かに教師足りえて、そして時には物理的にも精神的にも救われたことがあったんだ」
「いや、だけど、そんなことって――」
「幾ら本心がどうであろうが、人は放たれた言葉を受け取って自身の糧とする。それが、俺自身を成長させてくれるようなものなら猶更だ。だから、『俺の体の何割かは鬼が発した言葉で形作られている』よ。京楓もだろうけど、鬼に見初められた俺は、人の何倍も」
その一言に、京楓が絶句する。俺だって、鬼の甘言で自分が作られたなんて思いたくもない。だけどそれは事実で、そして教師としての鬼を思い出していく度に、当時俺がどれだけそれに身を寄せていたかも、また思い出していくんだ。
いつも俺を付け狙って、そして俺を取って食おうとする鬼としての姿こそ、本来の姿なんだろうことはわかる。そしてその姿として俺と京楓に牙を剥いた姿が、あいつが俺に向けた最後の記憶だ。だけど、教師としての、分け隔てなく生徒に優しい視線を向けていた姿も、全てが全て嘘でしかなかったんだとは、俺には到底思えないんだ。
人権教育者の肩書を持って。対外的には誰にでも優しく、差別も絶対にしなくて。だから誰からも慕われるような先生で、その上で人権教育者として、俺には特に気をかけてくれて。
内心ではずっと見下していたとか、そういうのもあったのだろう。それでも、『先生』として俺を気にかけていた姿を否定することは、京楓やみさき、大誠に依らない俺の個としての一面自体を否定してしまうことになるんだ。
わからない。本当にわからないんだ。俺に向けられた言葉が本心だったのか、それとも自分の事しか考えない屑の発言だったのか。どう頑張っても、俺には判別がつかない。
「暁は……暁だよ。なんであろうとも」
「まぁ、だからと言って俺と言う存在が何か変わるわけでもないさ。だからこればかりはもう『そういうもの』だと思ってるさ――さて」
そう口にしてから、身支度をする。どうせこれ以上眠れないなら、やれることをやっておこう。
「暁、どこか出かけるの?」
「そうだね、動ける時に動いておくべきだとは思うし」
そして、あそこならいざという時に助力も得られやすい。
「やっぱり、伝承が元だろうからね。それが調べられるとこ」
「暁があかりに来る用事って、何かあったっけ?」
席に座ると同時にクレアが俺の元までやってきた。そういや会うのは一週間ぶりぐらいか。
「ここの本で調べたいことがあってね。どれかにはあるんじゃないかって気がしてさ」
「卒論も終わったのに? とりあえずわかった。注文だけ聞いていい?」
「エスプレッソ。とびきり濃くして」
「うわ、マジな奴だ……とりあえずわかった」
あまりカフェインには頼りたくないけど、背に腹は代えられない。そもそも、なぁなぁでやってたからあぁいうことになったんだし。
今は店員はクレアだけだけど、丁度今裏にいるという琥珀と交代するらしい。店内は今は俺だけだから、店自体は問題なく回るだろう。
「ふー、今日もよく働きましたっと。はいそれと注文の品」
そんなことを考えていると、注文したエスプレッソを持って、俺の向かいの席にクレアが座った。制服――という程でもない和メイドの格好から私服に着替えられている。そのまま上がる算段のようだ。
「お疲れさん。って、PCどかんと置いてどうしたんだ?」
「私だってやることぐらいあるもの」
それだけ口にすると、勢いよくキーボードを叩く音が響き始める。これは完全に集中している状態だから、無理に声をかけるのはやめよう。あれ、でもじゃぁどうしてわざわざ俺の前に居座ったんだ?
とりあえずエスプレッソを一息で飲み干す。喉を通ってから、鼻腔から濃いコーヒーの香りが抜けてきて、それで気分を落ち着けた。
パソコンに向かうクレアは、ずっと画面を凝視して、一心不乱に何かを打ち込み続けている。覗き込むつもりはないけど、それはそれとして何をしているのだろうと言う感覚にもなるが、この状況で声をかけようもない。
俺も、関係ありそうな蔵書を三冊ほど手にして着座する。鬼の伝承や歴史を中心に、何かしら紐解けそうな本ばかし。そして俺もその記述内容に没頭していく。
そうやって、どれくらいが経った頃だろうか。不意に、周囲の音が全て止まったような心地を覚えた。気付けばやかましかったはずのキーボードの音も止まっている。
「――暁さぁ」
そして視線を上げると、クレアがジト目で睨んでいた。
「やっぱり、彼女にするなら趣味が共通する方がいいよ」
「――突然どうしたんだ?」
「翻意を狙ってみた」
「そりゃまた直球なことで」
隠そうともしていなかった。だけど本当に突然だ。
「で、どうなのよ」
「答えは変わらないぞ。前にも伝えただろ」
「だよねー。ならそれでいいんだけど」
「いやそれいいのか? 一周回って逆に引き止めたくなるぞ? あ、寧ろそれを狙ってるのか」
「狙ってはないよ。でもちょっと思うところがあってね。よく見れば暁ってそこまでかっこよくはないなーとか」
「今度はまた随分と失礼だな」
「まぁ、私が一回は好きになったのは、容姿がいいからとかじゃないもんね。間違いなく好きだったよ。今もかもしれないけれど」
いまいちクレアの真意が掴めない。いつもなら、クレアが考えてることは相縁があるかのように割とわかっていたというのに、今はさっぱりだ。
「前にさ、みさきと暁が鴨川一緒に行った時に、私をその時に紹介してもらえればって話、したじゃん?」
「したな、そういや。それこそ鴨川での時か」
そしてその時は、その後六道の辻で想いを聞かされたんだ。
「本当にその時紹介されてたら、どうなってたと思う?」
「――付き合ってたと思うよ、クレアと」
クレアの目が大きく見開かれる。それは、当時の俺の心情的に、本当にあり得ただろう、自分のことを客観的に見た際の事実。
「京楓とは家族として宜しくやっていきたい、だけどどこかで新たな人間関係を求めていた時期だった。だから双六より前の段階で、結果を問わずして。九分九厘、クレアを好きになる道筋があっただろうな」
「えっ、でも、京楓と、いやみさきか、あれ、えっ」
「巡り合わせ、かな。それもひっくるめて縁ってもんだと思うよ、俺は」
袖振り合うも他生の縁とは言うけれど。袖を振り合わせるタイミングまで全てが絡んで現世の行く末が決まっていく。
結果的に、その程度だった、と言うつもりはないけれども。でも、このことだけは、あくまで結果だ。
「まぁ、だから、あのタイミングでそういうことがあったなら、双六を抜きにしてきっと一番好きになっていた。それが、俺の正直な気持ち、もとい感覚」
「――はぁー、私自身ではどうにもならないこととはいえ、でも、いや、うん……」
クレアが机に突っ伏す。それは自分一人でどうにもならないことに対する不満と、やるせなさに満ち溢れていた。
「私さ、暁と過ごした大学生活、間違いなく楽しかったって思うよ。私はサークルにも入っててそっちの活動もしてたけど、大学で一番一緒にいた相手はやっぱり暁だった。暁は京楓とだったかもしれないけどさ」
「いや、大学関係の話に限定するなら、同じ学科のよしみもあるから京楓よりクレアといた方が長かったぞ」
「え、ほんとに?」
「寧ろ俺がクレアを何らかの形で縛っちゃってなかったか心配なんだけどな」
「いや、それは大丈夫。私がそうしたかったっていうのも大きかったし」
まぁ、そうなんだろうな。いくら同じ学院から進学したといっても、ああやって一度はぶつけられたような好意がなければ、べったりにも近いくらいに一緒にはいなかったはずだ。
「だけど、直球でものを言えば、クレアと付き合うとするならば、あのタイミングでみさきに紹介される以外に可能性はなかったって断言してもいい。双六を経て、京楓に対してずっと抱えていたものに気付いちまった。だから、何かあるとするならばその前しかなかったんだ」
「うん……うん。そうだよね。私もそう思うよ」
暫く無言になった。俺とクレアの間は、会話が途切れてもそんなに苦じゃなかったのに、今はどうしてかどこか重苦しい。
だから俺は、必死に話すためのネタを探していた。でも、今になって、意味のないことを軽率に出来る間柄ではないという事実に気付いてしまう。クレアは京楓じゃない。時間帯によっては京楓より一緒にいる時間が長いかもしれないけれど、彼女は俺の恋人じゃない。だから、俺のエゴを意味なく押し通してはいけない。
えっと、話題、話題……あ、そもそも。
「でも、なんでまた改めて」
「……後悔しないためかな。暁がじゃなくて、私がね。暁が後悔する分には大歓迎なんだけど」
そうクレアが口にするのが早いか、店の扉が開いたことを示すカウベルが鳴った。
「お、噂をすれば」
「お邪魔するよ。待たせちゃったかな」
誰かと思えば黎だった。というか京都にいたのか、いること自体を知らなかった。
「クレアに呼ばれたんだ。そしたら、待ち合わせ場所としてここを指定されてね」
成程、そういうことか。だけど、さっきのクレアの問いかけの後にこれは……いや、まさか、なぁ?
「ところで暁、大変だったんだって? 僕も伝聞でしか聞いてないから、状況は全然わかってないんだけど」
「あ、そうそう、私も後から聞いて何があったのってなったんだけど、聞いちゃって大丈夫?」
「あー、まぁ、要点を掻い摘んでなら」
改めてあの日あったことを話す。と言っても、事実は俺が死にかけたことと、鬼が完全に復活したことぐらいだ。
「それ、暁、ほんとに死にかけたってこと? よく無事に……」
「――成程。僕もあまり覚えがないけど、でもそういえばたまに伝聞で聞いた名だ。そういう繋がりがあってもおかしくはないね」
「私はその名前を思い出せないのよね……」
クレアは思い出せないと言った。これで四人目だ。そしてそれは全員英彩学院で同じクラスだった面子ばかりだ。
「それでクレア、僕を呼んだ理由のことについては、始めなくていいのかい?」
「あぁ、じゃぁぼちぼち。でももうそろそろ完全に終わりそうなの」
そう口にして、クレアがPCに猛然とアタックをしていく。少しだけ悩む素振りを見せながらも、キーボードを叩く音は殆ど絶えない。
そして、数分が経ち、キーボードを叩く音が止み、それと同時にクレアが色っぽい吐息を零しながらうんと伸びをした。
「完、成……ッ!」
「お、終わったのか。おめでとう」
とりあえず何かが終わったならおめでとうだな。でも何もわからずに言うのは無責任か。
「で、何が出来たんだ?」
「そ・つ・ろ・ん!」
「え、出来たの!? まだ提出には早いし、俺の助けなくても問題なかっただろそれ」
「あー、それなんだけどね」
急にクレアが頭を掻きむしり始める。どことなくばつの悪そうな、だけどそれよりも終わったことへの開放感が先に出るかのようなすっきりとした顔だった。
「結局、話を聞きつけた黎がずっと付きっきりで手伝ってくれてさ。だから実は想定よりかなり早く終わったんだ。暁とだったら今から二週間後ぐらいに完成というスケジュールのつもりでいたんだけど、黎がずっといたからね」
「だから、最近僕は京都にいっぱなしさ。まぁ、僕の会社も別に東京である必要もないし、最終的にはこっちでやることにはなると思うんだけどね。登記簿だけ移す必要があって、結果的にその準備をクレアに手伝わせちゃった格好になっちゃったかな」
「あれ、そうすると黎もこっちに移住するってこと?」
「うーん、移すならそうなるだろうけど、まだ本決まりでないというのは正直なとこかな」
なんというか、いつの間にか俺の周りの世界は変わり始めていた。それは俺が関わるようなものでなくて、それが当たり前なのだけれど。瞬間、どうしてかどこか疎外感を覚えた。そして、それだけだった。
「しっかしそんなことになってたとは……例えば卒論絡みではどこ回ったんだ?」
「えっと……そうだね、出町柳の鴨川デルタに始まって、北は大原だったかな。南は醍醐寺で東は比叡山、西は嵐山とか松尾大社の範囲でぐるぐる必要なとこを、かな。どこもクレアと二人でね」
「――殆ど京都中じゃないか」
というか、それ傍から見れば殆どデートに見えるんだが。
「誰かさんが手伝うって自分から立候補した癖に殆ど何もしてくれなかったからね」
「当てつけだぁ……」
「いやまぁ、暁も大変だったのはわかってるし、今もそうなのは知ってるから、責めるようなことはしないけどさ」
「僕は楽しかったよ。一人だと中々楽しみ方が見つけられないけど、クレアがいたから、楽しみ方も教えてくれたしね」
「あれ、『暁がいればもっと楽しかっただろうに』とか言うと思ったんだけど」
「いや暁からそれ言うんかい」
「うーん、そうだね。否定はしないでおくけど、でも多分だけど、暁がいたら出来なかった楽しみ方が出来たんじゃないかなと思ってね。だからわざわざ言わなかったんだ」
「――へぇ」
素直に意外だった。黎が俺がいないことを是とするような発言は今まで聞いたことがない。これは、もしかして、やっぱり。
「となると、俺はお邪魔虫かな」
「いやいや! 暁はいてほしいよ正直。時折会話がなくなることもあるんだけど、その時の気まずい空気はどうにもし難くて、そんな時に暁がいればっていつも思うんだ」
「いやそれで問題ないんじゃないか? それは時間が解決するだろ」
「そんなものかな……?」
「そんなもんだろ」
黎のためを思って言ってるんだけどな。多分、クレアのさっきの発言もこれに繋がってくるんだろうし。
というか黎、気付いてないよな、なんというか。俺が言えた義理じゃないけどさ。
「で、だ。結局、卒論の内容はどんな感じにまとめたの」
結局、手伝いらしいことは何一つ出来なかった俺は、本当にクレアの卒論の内容を何一つ知らない。それだけここ最近が大変だったと言うべきか、あまりにも俺が他の人がやってることに無関心すぎたのか。
「端的に言うと、洛中と洛外では何が違うのかってことかな。単純な生活の違いもあるけど、それ以上に宗教的にも何が変わってくるのかとかね」
「宗教というか――あれか、都の外は都を守護する各種ご加護を受けられるか、というようなものか」
「そうそう、流石暁、説明しなくてもわかってくれる」
それくらいは単語を拾い上げて何を言いたいかの要約は、個人的専門領域であるからこそ心得ているつもりだ――おいこっそりやっぱり暁は無理にでも手伝わせればよかったとか漏らすな、相応の対価を要求するぞ。
「西京――この辺りだと、天正9年、1591年に豊臣秀吉が御土居を築いたのが所々に残ってるから、北野天満宮とか含めてそれでだいぶ回ったかな。特に北野天満宮は、秋も深まると夜間紅葉のライトアップで入場料1000円取られちゃうから、それまでに足繫く通っておいたよね。あそこが一番姿かたちを残してるわけだし」
確かに、北野天満宮が御土居の姿を一番残している。紙屋川――天神川、かつての佐比川の上流が下を流れていて、実質的に御土居は堤防のようになっている。そして御土居の外側は京の都から外れた場所で、それは都が受けていたご加護を受けられない場所であるということだ。
「あとは、道祖神のこと。私なりに京都でお地蔵さんがある場所とか色々調べてみたんだけど……やっぱり、御土居に沿うようにとでも言えばいいかな、それこそ洛中と洛外の境目に建ってるものも多いんだよね。それこそお地蔵さんが多く建つことによって、それで京の都を守護しているかのように。そして建っている場所は大概何かしらの分岐点。まぁ庚申塚だよね、単純な道の分岐の案内であると同時、風水的には、世界というか、空間が変わる場所としてのその道標なわけで、そこから外れたら道祖神のご加護を受けられなくなるという目印」
ご加護が受けられないというのは、つまり『道祖神が塞の神として何かを塞いでいる場所である』ということでもある。つまり、賽の河原であり、鬼か怨念ひしめく何かがいる場所であるということだ。鳥辺野の麓か、西院か、あるいはまた別の場所か。
「ともあれ、私は『霞ちゃんは何かの分岐点にいる』んじゃないかとは、改めて思った。暁、円町の吉川大明神に連れていかれたんでしょ? 確かにあぁいう場所にこそいるのかもしれないけどね。でもそこにはいなかったというならねぇ……」
確かに、それらはほぼ全て、俺が鬼に案内された、吉川大明神に至る賽の河原の縁がある場所だ。その結果は、みんなが知っていることだ。
「――ところで、逆に、鬼が『行きそうな場所』に、心当たりはないかい? 僕はそっちから考えてみるべきだとは思うんだけど」
「鬼が行きそうな場所なぁ……」
といっても、記憶を取り戻したところで、鬼の生態を詳しく知っていたわけではない。ずっと俺のことをどこからか見ていたのだから、鬼は俺のことを知っていただろうが、あくまでそれは一方通行だ。
「じゃぁ、鬼がしそうなことを考えてみようよ。暁は鬼がしそうなこと、浮かぶんじゃないのかな。例えば、暁を狙うんだとするならば、暁が考えそうな行動を敷衍するとか」
俺がしそうなこと、参拝してご利益を得ようとすること――いや、そうだけどそうじゃない。俺が占いにのめりこんだからこそ、寺社仏閣にひたすら参拝してご利益を得ようとしていたのは間違いじゃない。でも、参拝による『なんとなくの信仰心』は、俺だからじゃなくて、誰しもが持っているものだ。
参拝自体は人として普通にすることだ。そして、鬼は人だった。人はどこかで願掛けをする。鬼だって、それが人に擬態していれば、人と同様にするだろう。少なくとも、俺を知っていてと言うのなら、俺が鬼ならそうする。
「鬼が心願成就していたとするならば……心願成就……?」
それはひらめきだった。そうだ。それは、あそこだったら、明確に叶えてくれるかもしれない。鬼なら、縁を操って、そのご利益を無理やりにでも呼び寄せようとするだろう。あそこは、『そういう場所』だ。
「クレア、黎、悪い!」
そして脱兎のごとく店の外に飛び出す。そういえばコーヒー代を払ってない。まぁ常連だし、ツケておかせてもらってることにしてもらおう。それよりすぐに確認したいことが出来てしまった。
走って、走って。ここからだと大体1kmくらいか。バス停二つ分プラスアルファの距離は案外遠い。四条通りを西進して、四条中学を過ぎて左折して、暫く南下して。
そして辿り着いた先は、木々に覆われた、そこだけが静謐な空間だった。
「いつ来ても、本当に静かだな……」
西四条斎宮――またの名を西院野々宮神社。近くて遠い、全てから隔離されたような空間。敷地内の樹木の存在が、一つの結界を作り上げて、それが故に誰も気付かないようなことになっているんじゃないかとさえ思える。近所にあって、だけど結界が張られているかのようにここだけがいつも静かだ。
ここは、いや西院は各地の『野々宮の発祥の地』だ。だから、ここは西院にこそあるべき場所で、そしてここを外して西院は語れない。嵐山の野宮神社だって、ここが由来元なはずだ。
確かに、ここはお祭りの時以外は本殿には入れない。そして、ここの一番のご利益は女人守護だ。だけど、それと併せてもう一つ。
「心願成就……」
心の中で大切にしていること、一つだけを叶えるご利益。
確かに、それは誰しもが最低でも一つは欲しい物だろう。それを鬼は、ここで自身の持つ縁と掛け合わせて願っていたのだろうか。
「そうか、暁は、気付いていたわけじゃなかったんだね」
気付けば、黎がそこにいた。本当にこいつは、俺のことをよく知っている。クレアとは似た者同士だし、だからこそ――。
「暁なら、その可能性を考えているものだと思っていた。だけど、重要な場所でないと思い込まされていたというのなら、それは、鬼にとってここが不都合だったからなんじゃないかな。もしくは、暁が重要でないと思っていると知っていたから、それを利用したか」
「――黎とクレアは、クレアの卒論をやってて、これに行き着いたのか?」
「いや、僕もわかってたわけではないさ。確かにサイキックのチャットで、ここの話題が出たことはなかったけどさ。でも『のの』じゃない、『東雲暁』と出会って、縁を知って初めて思ったよ。ここは、暁にとって他よりも大事にすべき場所なんじゃないかってね」
あぁ、そうだろう。形式上、ここはあくまで春日神社の御旅処だ。だけど、ここがなければ、言うなれば『野々宮京楓が野々宮京楓で足りえなかった』場所だった。
「でも、暁が忘れていたとは正直思えない。だから、きっとそれは『鬼の縁が結ばれて初めて思い出すようなこと』だったんじゃないかな。つまり、鬼との思い出がここに何かあったか、鬼がここを精神的な根城にしていたってことだ」
前者は、鬼との縁が結ばれても、明確に何かがあったというようなことは思い出せない。だとするならば後者だろう。
「折角だ、公園も行こうか。暁は、それで京楓と出会ったんだろう? ちゃんと行ったことがないから、見てみたいんだ」
西院野々宮神社から、南西へ更に1km弱。その公園は、テニスコートと、そうじゃない場所とにわけられている。南側は、滑り台とブランコ、そして砂場がある一般的な公園だ。
「――京楓はテニスしにテニスコートに来てて、だから本来ならこっち側に来ることはないんだ」
西院公園はテニスコートがあるということ以外は、本当に普通の公園だ。その時から体を動かすのが好きだった京楓は、その日も、テニスをしに京楓はここを訪れていた。
「そして、ここに俺が倒れていたところを、京楓に見つけてもらった」
俺が迷い込むようにしてここにやってきたこと自体に意味はなかったはずだ。ないはずだけど、今となっては、あの時は明確にここが目的地だったようにしか思えない。
そしてその時、京楓は少しだけ汗臭かったんだ。生意気にも、家まで運んでもらって、言うに事欠いて臭いと口走ってしまったんだ。
その臭い、もとい匂いによってその時は意識を保っていた節もあったのに。ともすれば、自分の中での原初の匂いですらあるのに。
そして、それがきっかけで、制汗スプレーをするようになったと、後から京楓から聞かされた。当然だろうな。出会ったばかりの男子に汗臭いなんて言われれば、傷つくに決まっている。
「さて、状況を整理しようか」
そんなことを思い出していたから、黎が発した言葉をすぐには理解できなかった。数秒経って初めて、何をしようとするかが頭の中で舞って、そしてこびりつく。
「西院野々宮神社は、恐らくだけど暁が言う鬼がよくお参りをしていた。そしてそれが暁の言う悪夢にも繋がっているのだとするならば、その足跡は追うべきだろうね。そして、この辺り一帯は様々な由緒ある神社が近く、そして賽の河原も含めた伝承には事欠かない。鬼はそれをどれも回っていた……と僕は考えるよ」
「確かに揃ってはいるな。西院も隣の山ノ内も、それに基づいた地名だ。そして、西院は野々宮があって初めて西院になる」
「これは僕の世迷言だけど、もしかしたら、鬼は京楓が『野々宮京楓であることを知っていた』のかもしれないね。野々宮の血筋を引く者として、縁的にあそことの繋がりが深いからこそ、鬼は暁と深い縁を結ばせる相手として京楓を選んだ――というのは僕の想像でしかないけどね」
「――京楓は京楓だ。少なくともそれは誰にも否定させない」
「勿論だよ。何も暁と京楓の縁自体は何も否定しない。ただ、暁を生かすための媒介として選ばれた理由が、そういうものだったのかもしれないと思っただけ。――僕は、そんな理由だったら悲しいと思うけどね」
あぁ、そりゃ悲しいさ。運命的であることに明確なドラマ性はいらないけれど、それでも出会ったきっかけが、もしも京楓自身が望んでなかった理由だとするならば、覆せない嫌な記憶があるということだから。
「――それでも、俺と京楓があの時出会って、今の関係に至れていることは、嘘なんかじゃないから」
「うん、それでこそ暁だ」
そうだ。少なくとも俺は京楓に救われた。京楓は俺を拾ってくれた。賽の河原で京楓も言ってくれていたじゃないか。だから、それでいい、いいんだ。
「さて、僕としては、『有識者』に尋ねてみるべきだとは思うけど? あいつに尋ねるのは癪ではあるけど、それが一番近道だろうからね」
有識者。それを聞いて思い浮かぶ相手は一人しかいなかった。恐らく想像している通りだろう。
事態はゆっくりと進行している。何より、時間がないという感覚があった。一日二日で変わるものではないだろうけど、リミットはゆっくりと、だけど確実に近づいてきていて、それに触れた時、俺は再び且つ二度と戻ることの出来ない永沈に落とされるだろうという感触がしている。
俺のことも、みんなも、無事でいなくてはならない。そして、記憶の中の霞のことも、守ってくれるのならば。
だったら、また尋ねるしかない。俺と同じような被害者へと。
なら、やるべきことは、すぐに予約を取ることだ。可能な限り早く。
携帯を取り出して、番号を打ち込む。先日同じ番号にかけているんだ、番号は覚えていた。
「すみません、面会を予約したいのですが――」
「――なんや、またわいを訪ねに来るとは、えらい物好きでんなぁ」
それ自体は否定しなかった。知れば知るほど、こいつはやっぱり人殺しをしようとした加害者で、そして動機と併せて、そのこと自体が許されるべきではないという思いが強まっていく。
だけど、それはそれとして、今後も世に明かされない事件の被害者であることも事実だった。それがなければ、人を殺しかけることもなくて、だからこそ、根っからの悪人であると思わないようにすべきではないかと思うのだ。
そしてそれは、俺が鬼の名前を知ったからこそ理解できるようになったことであった。こいつも、あいつの被害者だ。気持ち的に許すことが出来なくても、それだけは忘れないようにしたいと思う。
「はーん、しかし、こんな形で『この四人』が一堂に会するとはのぉ。わいだけ隔離されてて悲しいわ」
狙ったつもりはない。だけど結果的にそうなるのなら、それを兼ねてもいいと思っただけだ。
今ここにいるのは、紫炎・のの・Pixie・ラッキー7の四人。つまり、期せずしてサイキックのオフ会と化していた。
「悲しいのぉ。わいもそっち側にいれればよかったんやが」
「それはカラスが刑期を終えてからだね。真面目にやってるようだし、多少は軽くなるんじゃないかな」
「別にそれが目的でしとるわけやない。ただ、早く出たところで何があるわけでもない。それくらいしか楽しみを考えられんのや」
「まぁ楽しみだと思ってくれることぐらいはいい……のかな?」
別に俺たちはカラスに死んでほしいとまで思っているわけではないから、希望として持ってもらう分には構わない。仕切りもなく、ざっくばらんに話したいかと問われれば、それはまた別の話だが。
「ということでや。黎、わいをここから出せるように仕向けてくれんかの」
「それを僕に言ったところでどうにもならないけどね、それが僕にとって得になるようなこととも思えないし」
「はん、言ってろ」
そうカラスが口にしながら、ゆっくりと俺たち三人の顔を舐め回すように見つめている。それは真意を測ると言うより、久しぶりに会った旧友の面影を探すかのような。
「――宜しくやっているようやのぉ」
「そうだな。お前抜きで助けたり助けられたりして宜しくやってるよ」
「そんならそれでええ」
「あれー? カラス、何か寂しそうにするのも珍しいわねー?」
「達観しただけや。今なら死ねばそのまま解脱も出来そうや」
「どうかな。僕としてはもう何回か人生をやり直した方がいいと思うけどね。いや、解脱してくれた方が、なんというかありがたいかな」
「黎、お前の首、もういっぺん絞めた方がええか?」
「そしたら今度こそカラスが地獄に落ちるだけだと思うよ」
「――ちぃ」
こんなことを言ってるけど。カラスは本気で悔しがってない。そして黎も、そこまで本気では言ってない。あくまで話しているのは冗談だと感じ取っていた。クレアも同じように受け取っているだろう。
会話内容はこんなんだけど。それでも以前に感じた刺々しさはない。だから、これはやっぱりサイキックのオフ会。そういう空気が、出せるようになってきたのは、素直に喜ばしかった。
「――さて」
だけど、暖機運転はもう十分だろう。俺は、俺には明確な目的があってここに来たのだから。
「カラス」
そして俺は、単刀直入に尋ねる。
「『クナドについて』、教えて欲しい」
「……ほぉ」
明らかにカラスの目つきが変わった。やはりビンゴだったらしい。
「わざわざわいにそういうふうに尋ねるっちゅーことは、『あの』クナドだけの話ではないな?」
「そうだな。強いて言うなら、クナドのことというより、カラス自身のこと、という方が近いかもしれない」
「ま、せやろな。基本的に道祖神は同じ場所に二つもいらぬからな」
あぁ、やっぱりこの男がカラスを名乗ってたのは。つまりは、そういうことだったんだろう。それが例え民間信仰に基づいて混同されるようなものであったとしても。
「でも、もう暁は大まかな答えに辿り着いてるんやないか?」
「そうだな、だからこれは答え合わせみたいなもんだ。勿論間違ってるかもしれないが」
「顔つき、変わったな。自信持って言えるだけ、双六の時とは違うとわかるわ」
多分、この自信が虚構であることは、カラス自身も見抜いているだろう。だけど、俺は虚勢を張ることも出来てなかったようなものだ。そういう意味では、確かに成長したかもしれない。
とりあえずはそれでいい。だって、今相対する男は謂わば『存在からして虚構』みたいなものなのだから。
「――お前がカラスを名乗ったのは。そのカラスのお面があるからじゃなくて、猿田彦であろうとしたからだろう?」
庚申信仰。山ノ内信仰――西院の先にある、猿田彦神社がその発祥。それは、多少曲解すれば、日本全国にあるお地蔵さんが奉られている切っ掛けであるともいえる。
「烏天狗は赤鼻の天狗、猿田彦とよぅ混同されるからのぅ。そして猿田彦は道祖神と同一視されるわけやからな」
やはりな。そこでその相槌は、想像していた通りなのだろう。
「だから、お前はクナドが邪魔だったんだろ? 『お前が道祖神そのものとなりたかった』からこそ」
「せやな。双六の間、ずっと邪魔やった。わい自身がクナドと化せば、いつでも鬼には会えるっちゅー寸法やったからの。それでいて盤面には睨みを利かせられる。全てがわいの掌の上になるっちゅー算段やな。そこまでして、初めて鬼と『肩を並べられる』ようになるわけや」
つまりそれは、そうでもしないと、鬼と対峙するのはあまりにも危険であるといういうことの裏返しでもある。
「で、『あの』クナドは、暁の、なんらかの関係者なんやろ? そうでもなければ前回来た際、そして今回の質問と、わざわざそう尋ねることもない」
そして俺は、その質問に対して無言を貫いた。生憎、亡くなった妹のことを喋れる程カラスとは関係が出来てない。
「――ま、答えたくなければそれでええ。ともあれ、今になって思えば、わいのやったことは殆どが無駄だったわけで、それを考えると悲しゅぅてのぉ」
「理解はするわ。でも同情はしない。確かに鬼に見初められていたかもしれないけど、結局カラスがやったことは、裸のままの、カラス自身の本性だったってことになるから」
「せやな。ま、それでも双六に入り込んだこと自体は無駄ではなかったとは思っているがな」
「抜かせ」
自分でも無意識にかなりドスの利いた声になった。鬼だって人の命を弄ぼうとしたけど、カラスだってそれに近いんだ。笑わせる。
何より、カラスがしようとしたことは、突き詰めれば鬼と同様霞をないがしろにしようとしたということだ。結果的にカラスがそうせざるを得なかったともいえるかもしれないが、それはそれとしてだからと言ってそう易々と割り切れるものでもない。
「して、今更になって尋ねるというのは、どういう心積もりや? 何かあったんか?」
きっと、カラスからすれば、だから言わんこっちゃないと一蹴するだろう。それでも、あった出来事を、要点だけ抜かして、的確に。
「――ほぉ。一時記憶喪失にさせられたと。そらまたぁえらい大変目にあったのぉ。しかし奴はまだそれは使えたんやな。なら、他にも何かあるかもわからんわな」
流石に、あの時縁を忘却した際に、他の縁も全てなくされてたわけだから、それ以上は大丈夫だと思うけど。それでも、俺と再び結ばれた縁だけに一極集中しているのだとするならば、そっちの方が怖いともいえる。
「せやから言ったやろ。逢魔が時には気ぃつけいと」
「そのことについては、返す言葉もない」
カラスは、警告した内容の一番の被害者だった。当人の経験則による警告は一番気を付けるべきことだったわけで、幾ら取り繕おうとこればかりは何も言えない。
「だけど、結局は俺がどうにかするしかないっていうのもわかった。どうせ鬼に飲み込まれうるとするならば、最後まで俺は抗うよ。結果的に達成できなかったとしても、それまでは大切な人を守ろうとするために」
「――心意気だけならそれでええ」
それだけ言うと、カラスがふぅっとため息をつく。あぁ、恐らくこれは俺への説得を諦めたというため息だ。
「まぁ、丁度、あんさんらのとこには各種信仰の発祥が揃っとるわけやろ? それを調べればわかりそうなもんやけどな」
「それを、丁度私が調べてたってわけ」
「なら、問題はなさそうやな」
「暁は死なせないよ。僕たちはまだ暁に何も出来てないからね」
「かぁーっ、果報者よのぉ。羨ましくて仕方ないわ」
カラスがぱちん、と頭を叩く。
「ま、せやから、ワイもええ加減カラスなどと呼ばれるのにも飽き飽きしてたとこや」
「でも、僕たちからすればカラスなんだよね、残念なことに。ラッキー7ではあるだろうけどね」
「――ま、あんさん方らからすればそれもそうやろな」
いつか、こいつを改めて本名で呼ぶ日が来るのだろうか。その時が来たとしても、きっとラッキー7としか呼ばないようには思うけど。そして、改めて邂逅することでさえ。
「さて、わいが『カラスであった理由』やが、あんさんらの想像通りや。そしてクナドについても、わいから語れることはもう残っておらん。痕跡のありかぐらいやろ、何か探すとしても」
そんなことを考えていたからか、カラスが投げかけた一つの単語に、すぐに反応できなかった。
「まぁ強いて言うなら、『賽の河原の中央』にこそ、何かあるかもわからんかもな」
「中央? あの私たちがいった賽の河原に、真ん中と呼べるようなものってあったっけ?」
クレアの疑問は尤もだ。確かに俺たちは賽の河原を知っている。だけど恐らくそれじゃない。賽の河原は佐比川の河原であって、源流から下流に至るまでのその真ん中ということか……?
いや違う……中央というのはそういう意味じゃなくて、もっと具体的なもの同士が『結ばれている』ような――。
「――っ!」
瞬間、全てが繋がったような気がした。あぁ、それは確かにそうかもしれない。岐の神ということばかりに気を取られて、『そこ』にいる可能性に気付けなかった。
「――流石に、答えに辿り着くのも早いな」
その一言は、恐らく『サイキックの住人として』漏れた呟きだったのだろう。あぁそうだ。俺は今この瞬間に、つまりそういうことなんじゃないかと気づいたんだ。
「カラス、悪い!」
「おーおーおー、別にわいのことは気になさらんなって」
だけど、この答えはサイキックの面子みんなが編み出してくれたようなものだ。その中には確かにカラスもいた。やっぱりカラスだってあのチャットにいた一人なんだ。
「――せいぜい、鬼には呑まれんようにな」
「ありがとな!」
カラスに、感謝の言葉を伝える日が来るとは思わなかった。だけど、手掛かりは確かにくれたんだ。
「後処理は僕たちでいいかい?」
「頼んだ!」
それだけを言い残して、足が現場へと急く。寧ろ早く行かねばという気持ちに足が追い付いてない。
はやる気持ちを抑えて地下鉄に飛び乗った。急いで行きたい場所まで確実に向かってくれるその電車は、気分的にはゆっくりと、でも確実に俺を運んでいく。
終着の一つ手前、西大路御池の駅に着けば、あとはもう一目散だ。目的地最寄りの四番出入口の階段を駆け上がる。地上に出るにはかなり深いし、エレベーターは併設されているけれど、本当に急ぎたい時はまだるっこしくてエレベーターなんて使っていられない。
御池通りを西に駆け出す。『目的地を一旦通り越して』から、そのまま西小路通りを南へと進路をとる。
今でこそ佐比川――今の天神川は付け替えられた後の姿で、全く以て西院の町中は通らない。だけど、昭和時代に天神川は付け替えられて、本来は西院を経ていた川は、葛野大路の西側にて、今の御室川と合流する今の流路になった。
そのかつての流路として今も残る旧天神川は、西院付近は今の西小路通りの脇をまっすぐに南下していて、それこそ西院野々宮神社の脇も、四条中を挟んですぐのところに流れていたんだ。そしてそれはこの付近では真南に真っすぐ流れている。
西院の地名の由縁を思い出してみろ。佐比川があったからこその西院だ。円町より南側、京の右獄があった、その下流。
だから、小野篁が閻魔大王の裁判の補佐をしていたとするならば。霞が留まっていたとするならば。
「賽の河原……」
その、『中央』。西ノ京桑原町。きっとここにいるだろうという目星がついたんだ。
だけど、俺が真に目指したかったポイントは、大企業の本社の敷地内だった。俺がここに来てからじゃなくて、それよりずっと昔からここに居を構えていて、色々な意味でそれが当然であるという風格を帯びている。ポイント的にもそこは通用門で、許された人しか通ってはいけないという、正に岐の神然としてその門は構えている。
正門まで回って、社員を尋ねに来たわけでもなく、死者に会いたいんです、なんて言ったところで、門前払いが関の山だろう。不法侵入なんて以ての外だ。さりとて、琥珀を呼び寄せて、チャネリングで潜ったところで、直に鬼に会ってしまえばそれどころではなくなってしまう。
だから、俺は、そこから一番近いこの場所で、その名前を呼ぶことしか出来ないんだ。
「――霞!」
わかっている。霞は俺たちのことを『見送って』くれたんだ。そこから吹いた一陣の風にこそ霞は流れている。
今、ここでその名前を呼ぼうとも、霞が現れるわけじゃない。ただ、声が反響して、そしてしじまに消えるだけだ。
「あれ?」
だけど、その声は、意外な形で返事が返ってきた。
聞き覚えのある声がした。正直、想定外すぎて瞬間固まってしまった。
勿論霞じゃない。さりとて、面識のない相手でもない。京楓の次か更にその次くらいに、俺と深く縁を結んでいる相手。
「――暁くん?」
「みさき……?」
どうして――というのは失礼だろう。この辺りは、多少距離はあるが、西院から来るには地元と呼んでまだ差し支えない範囲だ。すぐ脇にスーパーもあって、企業私有地の外周に当たることからも、この西小路通りは決して人通りが少ないわけじゃない。
そして、俺が敷地の先の、その中の一点を見つめているのに気付いて、みさきがぎょっとした顔になる。
「まさか、暁くん、また……っ!」
「違うそうじゃない! 川に飛び込もうとするだとか、それだけはもうしないから!」
そうだよな、そこに何があるか、知ってるもんな。それを結び付けて、俺が何を考えているのかを推測するのも、聡明なみさきなら容易かったろう。
「ならいいけど……ここでどうしたの?」
「俺が逆に聞きたいけど……まぁいいや」
みさきがいる理由は後からでも尋ねられる。それよりも、今は質問への回答が先だ。
「小野篁は死の六道――東山の六道の辻、六道珍皇寺だな、そこから冥界に入り込み、賽の河原で閻魔大王が執り行う裁判の補佐をしていたという言い伝えは、各種古典に数多く書き残されてるのは、みさきにもよく話したよな」
先日は、琥珀と京楓とも話していたけど、ともあれ俺がここのところすき好んでする話題だ。双六で『子子子子子子子子子子』が読めなかったことが悔しかったから、帰ってきてから特に力を入れて学んだ箇所というのもある。
「そして出る時は、生の六道という、今はなき嵯峨の福生寺の跡にあった井戸から現世へと戻ってきていたんだ。その井戸は埋められて、今それを説話通りにやろうとしたとしても、帰っては来れないんだけどな」
生の六道がない、という話は、それこそ先日琥珀と話したぐらいだったかもしれない。とにかく今となっては、井戸を使ったやり方はただの賽の河原への一方通行だ。つまり黄泉還りをすることは叶わない。
「入り口と出口は決まっていたけど、賽の河原の場所も決まっている。賽の河原は西院付近の佐比川――つまりこの辺り一帯だ。だから、俺たちは今賽の河原の真上に立っている、というのはわかると思うけど、裁判をやっていたのは一ヶ所しかないはずなんだ。なら、それは『何かの真ん中』になるはずだと思う」
裁判をする場所は、極論だが『地獄への分岐点』だ。もしかしたらそれは精神的なものだけかもしれないけれど、裁判をする場所というのは、確かに行く先が決まる場所であって、それは岐の神がいるような場所であるはずだ。
だけど、天神川の真ん中というのは測りようがない。でも、何かの真ん中を見出すとしたら、もう一つ。そしてそれは計測してみて、確かにそれは『ぴったり旧天神川の真上』だったんだ。
「その上で、死の六道と生の六道、その二ヶ所を、直線距離で結べば――」
クナドがいるのは、ここじゃないのか? 六道珍皇寺と福生寺を直線距離で結んだ際の、その丁度真ん中。企業敷地内を流れる、旧天神川の、その直下。つまり今、通用門から見える企業敷地内の、手を伸ばせば届きそうに思える程の視線の先。あそここそが、賽の河原の中央だと。
ここから潜れば、きっと霞はいる。賽の河原で、俺のことを待っているはずだ。
いや、だけど賽の河原にはいなかった。何度も夢で賽の河原に連れ込まれて、直接霞と出会えたことなんてなかった。
「あれ? でも――」
そんな疑問が頭に浮かぶが早いか、みさきがある疑問を口にする。
「死の六道の隣に黄泉がえりの井戸があって、小野篁はそこから帰ってきたという一説を話してくれたのって、暁くんじゃなかったっけ?」
そういえば、そうだ。九年程前に六道珍皇寺脇の民有地から発見された黄泉がえりの井戸。井戸の中には輪廻転生と刻まれた蹲踞がある。そして福生寺の生の六道はあくまで俗説であるとも言われるようになった。それを大騒ぎして京楓とみさき、大誠に話してたのは俺だ。俺が、占いに興味を示すようになった一番のきっかけだ。
あぁ、烏天狗と混用されやすい――それが故にカラスはクナドが邪魔だった――サルタヒコを祀る猿田彦神社が最初にあったのは太秦安井松本町で、ここよりもう少し先だ。ともすれば、そっちに霞がいるかもわからない。
あれ、それじゃぁ、霞はどこにいるんだ? 賽の河原でもなく、吉川大明神でもなく、どこにも見当たらなくて、霞は――。
「ねぇ、暁くん」
それは、不自然すぎるほど優しい声だった。
「――無理しなくていいんだよ?」
「無理、って……」
そんなつもりはない。俺は、霞がいそうな場所の目星をつけた上でここに来たんだ。
だって、霞は、ずっといたじゃないか。双六で、賽の河原にいて、そして第三の道――龍脈を塞いでいて。ずっと中立でいたけど、本当は俺に肩入れをしたくて。
あぁそうだ、そして最後に一陣の風となって成仏したんだった。確かに俺はそれを見送ったはずだ。見送って、その上で現実に還ってきたんだった。
いや、本当に成仏したのか? じゃぁ、どうして夢に出てきて、霞と会話をしているという『実感』があったんだ? それすらも、鬼による錯覚だったというのか?
「霞は……霞は『いる』んだよ……そう、どこかに……」
俺が今一番大事な相手は京楓だけど。でも、霞は、俺と血を分けた唯一の兄弟で。それは、幾ら俺が京楓に溺れていたとしても代替できるものではなくて。
「あれ、でもおかしいな……だったら、どうして俺はここに……いや、でも、いるとしたらきっとここにしかいなくて……」
「暁くん……暁くん……! 違う、違うよ……!」
だって、仕方ないじゃないか。どんなに手を伸ばしても霞はどこにもいなくて、夢で出会えば苦しくて。夢以外で出会うこともないのに、心に傷ばかり残していって。
「どこへも行かなくていい……行けないんだよ……そうどこにも……」
「でも……だったら……俺は、どこに行けばいいのか……じゃぁ、俺は……」
ずっと、それだけを追っていたというのに。たった一つの目的が達せられなくて、そしてそれは叶うことのないものだとは信じたくなくて。
「俺は何も……まだあいつに……そう何も……出来て……」
また、繰り返すのか。また霞は、俺の手をすり抜けて離れて行ってしまうのか。
何も出来ずに。兄としての務めも何も果たせないまま。幻影ですらも、俺の前から消えようとしていて。
「嫌だ……そんなのは嫌だぁ……」
涙は流れなかった。だけど、ある種の孤独感に心が押し潰されそうになる。もう、何も失いたくはないのに。『また』失ってしまうのか。
俺の元へ還ってきてくれたのかとも思っていた。だけど、それすらも鬼の掌の上で、そして俺の前に何も残してはくれない。
子供のように、頭を抱えてその場に蹲って、あの時の霞の目線に合わせても、もう同じものは見えない。期待は取り上げられて、そして一縷の望みから変貌した虚無だけが置いていかれる。
だから、下を見て、俯くしかなかったんだ。何も手に入れられやしない、希望を抱くだけ無駄なのだと。それを思い知らされて、そしてどこへも行けなくて。
俺はまた立ち止まってしまう。かつて下ばかりを見ていたあの頃のように。
頭を抱える暁くんを前に、真っ先に私に沸き上がったのは庇護欲だった。
京ちゃんはこんな暁くんを知っているのだろうか。だけど、私にとってはこんな暁くんは初めてだった。
いつも特別強がっている素振りを見せていたわけではないことはよく知っている。だけど、それはあくまで過去に蓋をして、見ないようにしていたからというものから来ていて。
それは私と一緒だった。双六に於いて、私は病弱な私という存在を見ないようにしていた。暁くんはそれより前から、私と初めて出会った時点で、それが自然なものだっていう状態になっていたんだ。
そんな弱っている暁くんを前にして、しゃがんで、まずは暁くんと目線を合わせようとする。
「大丈夫だよ。大丈夫だから……」
あぁ、なんて私は浅ましいのだろう。暁くんのためを思っているように見せかけて、暁くんのことなんて何一つ考えてやしない。全部が全部、私がそうしたいという欲からだ。そこに暁くんの意志は一切介在させていない。
京ちゃんがいるからって、ずっとこの気持ちをセーブしてきた。双六からあがった時も、京ちゃんとくっつくのが当然だし、また自然だと思った。
一丁前に、好きという言葉を暁くんに言わせちゃえなんてアドバイスまでしておいて。そして指を咥えて二人が結ばれるのを眺めていたんだ。京ちゃんが一番暁くんのことを理解してあげられるからと。それが暁くんが一番幸せになれる方法だからと。
でも、もう、無理だよ。この気持ちを我慢することなんて、到底出来ない。
霞ちゃんのことを知ったのはつい最近で、それは暁くんが無意識に感じる序列によるものかもわからないけど。でも、そんなことはもう関係ない。
私は暁くんが好きだ。今でも好きだ。今まで出会った男性の中で、暁くんが一番好きだ。
守ってあげたい。暁くんがなんと言おうと、私が、暁くんのことを、全ての苦しみから。
「暁くん。顔、上げてよ」
だから、私は、万感の想いを込めて、徐に顔を上げた暁くんの。
「み……さき……?」
――その額に、キスをしたんだ。
「あ、暁、お帰りー……と、鬼無水?」
京ちゃんの不思議そうな声に出迎えられる。お邪魔するなんて一言も言ってなかったし、まぁ当然だろう。
暁くんは無言を貫いたまま、階段を上がっていく。完全に意気消沈していて、声を絞り出す元気もないようだけど、だけど無理に構わない方がいいだろう。
「あれ暁……え、大丈夫……?」
「京ちゃんごめん、暁くんを、今は一人にさせてあげて」
「一人って、そんな……」
「大丈夫だよ。今は暁くん、ゆっくり考えたいだけみたいだから。眠気に襲われてってことも今のところないようだからね」
「それなら、いいけど……」
それだけは、観察していて確かなことだった。何かあれば暁くんの方からアクションを起こすだろう。少なくとも、黙ってどこかへ消えていきそうになるということはこの状況ならない。
そして京ちゃんと二人きりになる。私にとってはとても都合がよかった。だけど、まずは京ちゃんが抱いているだろう疑問を解消しなければいけない。
「暁くんね、霞ちゃんのことを必死に探してたの。この現実で、賽の河原を探して、そしてそこに霞ちゃんがいるんじゃないかって……」
端的に事実のみを伝えるならばそうなる。それはあくまで私がさっき暁くんを観察して、そして辿り着いた結論だ。
「錯乱してるわけではないみたいなの。ただ、鬼が目覚めて、それもあって気持ちの整理が出来てないみたいで……」
「――いや、最初から、霞ちゃんのことを暁は求めてたんだ。暁が夢を見るようになってから、最初はそれこそあぁいう感じだった。だから、最初に戻った、と言えるのかな……」
「そう……。京ちゃんはずっと見てたんだよね……」
そして私は見ていなかった。前から京ちゃんの方が距離が近くて、そしてそれが決定的だったのだと思う。
「とにかく、京ちゃんが暁くんのことをちゃんと見守っててあげてほしい。今もだけど、きっと今以上に、なのかな。それは『本当は』京ちゃんにこそ頼むべきことだから」
あぁ、わざわざこんな予防線を張る必要なんてないのに。未だに私は恐れているのだろう。ただ振られることよりも恐ろしいこと。
「私は暁の傍から離れない。それは誰かから頼まれるものではなくて、私がそれだけは絶対にそうするってずっと決めてる。だから、鬼無水が心配することではない……かな、それくらいのつもりでいるよ」
「そうだね、それでいいと思う。――でもごめん、ここからが私にとっての本題」
急な話題転換に、京ちゃんが戸惑うのがわかる。そうだろう、ここから先へと普通なら話は進まないはずだ。
裏切り、と言えばそれまでなのだろう。その上で、私が信頼足りえる存在なのかは私にもわからない。
「その役目、一旦私が預かってもいいかな?」
声には出されなかった。でも明らかに、京ちゃんの顔がどうしてと語っていた。京ちゃんからすれば、梯子を突然外されたようなものだ。
「別に京ちゃんを信頼してないわけじゃないよ。これはただの私のエゴ。暁くんに確認したわけでもなく、ただ私がそうしたいだけ」
「私が駄目っていうんじゃなくて、鬼無水がそうしたいから……?」
「私が病弱だった時に、暁くんはいつも看てくれてたし、それにお笑いとかの話にも嫌な顔一つせずに付き合ってくれてたし、だったら今度は私が看てあげなきゃって……」
いや、もうそんな回りくどい言い方はしなくてもいいはずだ。私は、私の我を押し通すって決めたんだ。相手が京ちゃんでもじゃない、京ちゃんだからこそ。
「ねぇ……鬼無水は、突然どうして、そんな……」
「どうしてって? そりゃぁ、決まってるよ」
だって、私は、まだこの想いを吐露できてない。クレアさんも琥珀ちゃんもやれたことを、私だけが、まだ。
さぁ、踏ん切りをつけろ、私。私は悪い子だ。
「ねぇ、京ちゃん。私、今でも、暁くんのことが好き」
遂に言った、という感慨は、案外湧いては来なかった。きっと、想い自体は隠しているつもりでも多分みんなにバレていると思ってはいる。匂わせたことのある京ちゃんには尚のことだ。
だから、驚かれるとするならば、今になって私が行動を起こすということについて。私は和を保つために、時には自分を殺してでもみんなを守る。双六の時もそうだったし、基本的にはそのスタンスは今も変わってない。
ううん、でもね、本当の私はこんなに悪い子なの。今になって、絶対に成し遂げるというベクトルがずれちゃったんだ。だから、ともすれば、京ちゃんから暁くんを奪い去ってしまいたい。
「四年前、結果的に、みんな暁くんが好きで、そして暁くんは『その時は』京ちゃんを選んだ。わかるよ。暁くんにとって京ちゃんは色々な意味で誰にも代えがたい存在なのはずっと昔から知っていたから。それは京ちゃんもだけど、暁くんを見ててもそうだってわかるくらいのものだったから。そして、それを知った上で、私は当時の京ちゃんの相談に乗った。あの段階で、暁くんの気持ちが京ちゃんに向いていることを理解していたから、私の気持ちは押し殺して、京ちゃんと結ばれるようにアドバイスしたんだ。よく覚えているよ。そして後はみんなが知る通りだね」
私は最初から『勝ち目がない』とばかり思っていた。それ故にあの相談にはそれを見越した上で乗ったんだ。それ自体は後悔してないし、自分がやらなかったことで結果が変わったものでもなかったとは思っている。
「あの時、京ちゃんにもいいのかって尋ねられて、私はいいって答えたことも覚えている。そしてその結果として、暁くんは四年間、それまで以上に笑顔だったよ。だから、私が言うことじゃないのかもしれないけれど、京ちゃんには本当に感謝してる。暁くんが笑顔でいられてありがとうって、それは素直に思ってる。それが出来たからこそ、四人でいられたと思うから」
そして私がしようとしていることは、その関係性の解体にも等しい。
「四年間、二人のことは陰ながら見続けていたよ。でも、学院を卒業して、私は京ちゃんと暁くんと接する機会が前より減ってしまった。ともすれば、みんなとは一番縁遠くなってしまったかもしれない。何かにつけて顔を合わせることはあっても、毎日顔を合わせることが日常だったのがそうでなくなるというのは大きかったんだ。そしたら改めて気付いちゃったんだ。私は暁くんをこんなにも好きだったんだって」
「――えっと、鬼無水は、いつから……」
「ずっと前から、かな。ごめん。もう限界が近いみたいなんだ」
私は私のために動く。京ちゃんも、暁くんでさえもその意思を無視して、勝手に事を運ぶ。
「だから、お願い。一日だけ、暁くんを貸して」
京ちゃんがパクパクと口を魚のように動かしている。それを見届けた上で、私は続けた。
「そして可能なら、そのまま盗ませてください」