私は元々内向的な子だった、と思う。正確には、何をやりたいのか、ある意味では幼いながらに『理解してないことを理解していた』とも言えるし、それは自分だけがどうにか出来るものではないということも、また把握していたからであった。
どうしてそんなことになったかって、母さんが、どうしてだか、私が女の子であれということに固執していたことに尽きる。女の子らしくあれ、と言われるがまま、というわけではなかったのだけれど、幼稚園では、他の女の子がしているように、お絵描きだとか、あやとりだとか、そんなことばかりしていた。
だけど私はそれにすぐに飽きてしまって、だからあまり仲良くできた女の子というのは、正直全然いない。だけど、男の子に付いていったところで、母さんの言う女の子らしさとは対極の位置にあるものだったから、結局、何をしたいのか見つからないまま日々だけが過ぎていった。
結局私は、別に男勝りになるわけでもなく、かといって女の子っぽい感じにもなれないまま、幼少期を過ごした。今で言ったらキョロ充とでも言うんだっけ、そんな感じだったから、私は幼稚園で特別仲がいい子なんて出来ずに、小学校入学目前まで来てしまって。そんな状態で、鬼無水と大誠と出会ったんだ。
私が身体を動かす楽しさを知ったのはあの時だった。鬼無水が最初思っていた程は身体が強くなくて、だけど身体を動かすことが楽しいということを知った私は、一人何をすればいいかという欲求不満な状態になってしまった。一人で走るだけでもよかったのかもしれない。だけど、どうせなら母さんが言うような、女の子らしいこともちゃんと遂行できるようにはしたいと思っていて、そんな二律背反に悩むこととなってしまって。
近所の西院公園のテニスコートが目についたのはその頃だった。中で、女性だけでテニスを楽しんでいる。それは、近所のおば様グループによる同好会みたいなものだった。キビキビと動いて、そしてラケットを振り抜くのがとても様になっている。
その女性たちは、一言で言えばかっこよかった。だから、私は一人で、解散するまで、それをずっと眺めていたんだ。
そしてそれを数日続けていると、その中の一人が声をかけてくれた。興味があるなら一緒にやってみない? って。そしてそのご厚意に甘えて、私はその十数分後には、初めてラケットを持ってボールを追いかけていたんだ。
やってみた結果は、最初は散々だったけれど、でもとても楽しかった。勢いよく手元に飛び込んでくるボールを、スパーンと思い切り振り抜くのが癖になりそうだ。
そんな感じで楽しんでいたら、たまたま母さんが通りがかって、そして私を見つけて驚いて駆け寄ってきたよね。ご迷惑かけちゃいけないでしょ! って。だけどすぐに反論したんだ。
「私やりたい! テニスやってみたい!」
それは、私が初めて母さんに向けた反抗心だったのかもしれない。ずっと、身体を動かしたいと思っていた。ちゃんと楽しんでいる。何より、自分でやりたいと思ったことを、そう簡単にやめさせられたくない。
結局、その場での説得と、何よりとても親身になってくれたおば様方の援護もあって、早速やらせてもらえることとなった。こんな小さい子が興味を持って楽しんでくれるなら、私たちも大歓迎ですよって言ってくれて。
代表の方が母さんとその場で連絡先を交換してくれたというのもあって、とんとん拍子に話は進んだ。いつも決まった時間にここを借りて、そして活動しているとのことだったから、それに混じらせてもらうことになった。しかも、最初の内はすぐに飽きてもいけないしってことで、ラケットとかも余分に持ってきてくださって、だから私は手ぶらで参加してよくて。
「楽しい! 私、ずっとテニスしてる!」
結局、すぐに自分用のラケットを買って、そしてそのグループ内でやらせてくれるようになったし、この時の選択は間違いじゃなかったと思う。母さんからは、あの時初めて京楓が何かをやりたいと言ってくれたって言ってたし。
活動がある日はおば様方とテニスを。それがない日は鬼無水と大誠と遊んで。小学生の初めから中盤すぎぐらいまでは、そんな感じで日々を過ごしていた。そしてそれは、それはそれで、とても充実したものだったんだ。
鬼無水と出会って、鬼無水に最初は手を引かれたことが、私の原点だ。大誠はおまけ……というと失礼だけれども。でも、あの時の出逢いが、私の今後を決定づけた。
そして、西院公園でずっとテニスをしていたから。それがなければ、暁と出会うことも、きっとなかったのだろう。
誰か男の子が泣いている、と誰かから言われた時は、どうにかして助けなくちゃと思った。そして実際は、泣いているのではなく、泣く気力もなくした男の子が倒れていた。おば様方は全員帰られていたから、私しか彼を救えなかった。
それを言ってくれた人が誰だったのかは、全く思い出せない。暁は思い出さない方がいいって、つい先日言っていたけど。ともあれ、そうやって暁と私が出会ったということを思い返したのは双六の時だ。運命的に、本当にその後ずっと離れることもなく過ごすことになるとは、そのつもりでいたようでいて、全く予期していなかったことかもしれない。
問題は、暁を連れて家に帰った時だ。知らない男の子を見た母さんはひどくびっくりしていた。まぁ当たり前だろう。そんな誰の子供ともわからない子供を、娘が突然連れてきて、挙句住まわせろだなんて、ペットと人間の区別もつかないのかと言われそうなものだ。
そして、私がその時取った行動は。
「ごめんね……やっと落ち着けるって思ったのにね……」
暁を連れて家出することだった。
「いや……きょ、うか……さんが気に病むことじゃないから……」
「名前」
「え?」
「京楓でいいよ。というかそうしてほしいな。だって歳同じなんでしょ?」
「うん、わかった……京楓」
さっき、拾った公園から自宅までの道のりでの会話で、同い年だということはわかっていた。それと、家族のような頼れる人がいないということと、友達は他にはいないということと。
そしてその公園に再び私たちは舞い戻ってきている。辺り一面はとうに暗くなっていて、見渡しても私たちのような子供はどこにもいない。
公園は、一週間前に開花宣言をしていた桜が満開で、それがぼんやりと辺りを妖しく彩っていて、そして街灯の明かりを遮って影を落とす。午前は雨が降っていて、それがやんでも曇っていたから、街灯以外は本当に明かりが少なかった。
「――これからどうしよっか」
「どうしようか……」
「あ、暁は考えなくていいよ。私がどうにかするから!」
自信満々に胸を張る。それ自体が虚勢だとしても、まず私が不安になってしまえば、暁にもそれが伝播してしまうということをわかっていたから、何が何でもそれだけは守り通した。
今にして思えば、自分でも不思議に思うくらい、暁のことをここまで信用して、そして助けてあげなきゃと思ったのかとなる。でもそれはあくまで、火事場の馬鹿力みたいなもので、そして私がどうにかしなくてはいけないという使命感に囚われていたからなんだ。
母さんには拒否されて、だからおば様方に連絡もつけられなくて、他の人を頼る選択肢はその時点で消えた。鬼無水や大誠に相談することも出来ず、ただ独りで、世界を相手に暁を守るっていう、幼心の使命感。
でも、一人の子供に出来ることなんて高が知れていて、それをまだ幼い私は知らない。大人になれば世界は自分一人の手の中に納まるものだと思い込んでいて、そしてそれでいて世界が無限であるとも信じ込んでいる。そしてそれが矛盾しないと思い込んでいる状態を人は子供と呼ぶ。
「おや? 君たちどうしたんだい?」
急に声をかけられた。びくっとしながら振り返ると、街灯を遮るように影が私たちへと落ちている。
それは、恰幅のいい、一人の壮年の男性だった。お世辞にも中肉というには些かふくよかすぎる人。大誠よりは痩せていたかもしれない。
「こんな時間に外にいるのは、何かあったんだろうね、どうしたんだい?」
街灯に照らし出された、失礼ながらも少し薄い頭が反射して、少しばかりさらに明るさが増している。こっちは大誠の方が明らかにふさふさだ。
「えっと、今少し困ってて……まずは寝られる場所を探しているんです。二人分」
暁のことを考えれば、まずは落ち着いて休める場所を確保するのが最優先だった。そういう場所を確保できれば、その後の事をそこで考えることが出来る。
そして、この人に助けるのを求めるのが最適解であると、この時は思ったんだ。保護さえしてもらえれば、ひとまず一晩はどうにかなる。その後の事は後から考えればいい。
だったら、善は急げだ。早速、協力してもらおう。そうすれば、暁もすぐに落ち着くことが出来る。
「――駄目だよ」
だけど、それは暁の静かな、それでいてどことなく重い声によって遮られた。
「おじさん、僕たちは『二人で』どうにかやっていけます。だからおじさんの助けは借りなくても大丈夫です」
「あ、暁、それって……」
「――いいから」
暁に手で制される。今は暁に任せるべきなのだろうか。いやでも、助けは求めなくては。だけど、暁の目は真剣なそれだった。
「ですからごめんなさい、お引き取り願いませんか」
「ははっ、そうかい、それなら無理は言えないねぇ」
それを聞いたおじさんは、そうしてふっと薄ら笑いを浮かべた。
「じゃぁ、無理やりにでも連れてってあげないとねぇ」
「――っ!」
瞬間、頭が冷える心地がした。違う、蛇に睨まれたかのように、体が動かないんだ。
この時になって初めて、私は世界が自分の手には収まらないことを思い知った。今は目の前の大きな存在の思考を理解することを拒み、だけどこの人の言うことを聞かないと何をされるかわからないという恐怖心でいっぱいになる。
「走るよ!」
急に、片腕が強く引っ張られた。同時にもう片方の腕に、目の前のおじさんの腕がかすった心地がする。
「――ちっ」
強く引っ張られた腕を掴む手は存外に小さく柔らかくて、その内ポッキリ折れてしまいそうだ。だけど、今はその手の心地が何物にも代えがたく強いものだと思える。
あのおじさんは、最初から私たちに『何か』をするつもりで声掛けをしてきたんだ。そんな思惑など露知らず、私はあの人に助けを求めようとしていた。
そして、暁は最初から気付いていた。私の弱々しい警戒心とは裏腹に、頼ってはいけない人だということをどこかの段階で見抜いていた。
暁が特に敏感だったからなのだろうか。それとも、暁が私の甘さを見抜いて代わりに警戒していたからなのだろうか。何れにしても、私の警戒心の甘さが引き起こした事態であることだけは確かだった。
がむしゃらに走って、大通りまで出た。ここはどこだっけ。そっか、五条通りだ。結果的に南へとずっと走っていたようだけど、ここまで来てしまうと、西院というより、もう西京極になってしまう。
だけど、大通りだから、人目はある。だから、何かがあっても、通る人全員が敵みたいな状況でない限り、誰かが見ていてくれるだろう。
そう思うが早いか、力が抜けた。疲れたというより、ひとまずの危機は脱したということによる気の抜けだ。
「京楓、大丈夫?」
「いや、私は大丈夫だから。私なんかより――」
――そうだ。暁は、ここがどのような場所なのか全然わかってなかったのに、それでいてこうもずっと走っていたんだ。それも、少し前までずっと走り続けていて、その上でこれだというのに。
暁が頑張ってくれたんだ、私が踏ん張らないでどうする。私が道案内をしなければ、暁はまたどこへ帰るかもわからなくなってしまうだろう。
「――大丈夫だよ」
そんな私の考えていることを見透かすように、暁が声をかけた。
「多分……多分だけど、さっきの人はもう既に見失ってると思う。もしくはそもそも追っかけを出来てないか。そして、こういう広い場所へ出てきてしまえば、こっちも気付きやすいし……だから、大丈夫」
暁の視線は真っすぐに私を向いていて、それだけで勇敢だと思えてしまう。それでも、私は暁の細かい震えに気付かない程鈍感でもなかった。
あぁ、暁にも無理をさせてしまっている。なのに、どうして私が暁に励まされているのだろう。私は、彼を守ると誓ったんだ。誓ったのに、どうしてこんな体たらくになっているのだろう。
だけど、暁の次の一言で、私も再び背筋が伸びる心地を覚えた。
「――視線が追ってくる」
思わず辺りを見回す。まさか、やっぱりあの人がずっと追ってきていたのだろうか。
どこだ? 誰かが物陰から私たちを見ているのか? いや、私のわかる範囲では誰もいない。それとも、どこか影に隠れているのだろうか。視力はいいつもりだけど、どこか暗闇に潜んでいるとするならばわからないこともある。
「あぁ、別にさっきの人じゃないと思う。なんというか、誰かに見られていると言っても、そんな近くから見られてる感じじゃないんだ。どこか、すごく遠くから、俺の事だけを見ているかのような、そんな感覚。その視線がどこから来ているのかわからないんだけど……とにかく、ずっと誰かに見られている感覚が抜けないんだ。『さっきのおじさんに会う前から』」
「それって……」
何か呪いか、そういうものなんじゃないのか、とは言えなかった。暁が呪われているのか、それとも抜け出してきたというところから、誰かが暁を追ってきたのか。
前者ならそんなものを信じるなんてと笑い飛ばしてやれば、不興は買うかもしれないがそれで一旦は終わりになるだろう。後者だと厄介だ。守ると決めた暁を守れぬまま終わってしまう可能性が高くなる。
だけど次の瞬間、何かに弾かれたかのように、ふっと暁が顔を上げた。
「あっ、消えた……」
「消えたって、何が?」
「その……視線が」
「それじゃぁ、もう大丈夫ってこと?」
「わからない……けど、試しに動いてみてもいいと思う……ずっとこのままだと追い込まれたら逃げ場がないし」
今は、大通りの人目の多い場所にいた。だけど、一本道を入れば、住宅街の明かりがここより減る場所になる。それでも、そういった道を通っていかなければ、家に辿り着くことも、他の場所へ行くことも出来ない。
思い切って、今来たのとは別の道から、ひとまずさっきの公園まで行ってみる。今度は私が先頭で、私が暁の手を引いて、その道を指し示す。そうでもしなければ暁一人じゃさっきの公園に辿り着けない。正直私が先頭に立つのは怖いけど、それでも一歩ずつ。
そして公園まで戻ってくる。結果は果たして、あの人の気配は全く以て消えていた。先程まで座っていたベンチの温もりは、当たり前だけどとうに消えている。
「はぁ……つっかれたぁ……」
思わずそんな声が漏れるくらいには、座ったことで疲労感が出てきてしまった。とてもじゃないけど、あんなことは初めてで、それ故に長く感じられた時間は案外経過をしていない。
「えっと、大丈夫?」
「うん、私は大丈夫。さっきは怖かったけど、もう平気。さっきの人がいないなら、なんとかなると思うから」
「……そっか」
不思議と、怖くなかった。ともすれば、背後に誰か潜んでいるのかもわからないけれど、また何かあったら暁に助けてもらえるのかもしれない、ともすれば暁といるなら怖いものも耐えられるかもしれないという妙な感覚に陥っている。勿論そんなことはないはずだけど、少しだけ冷静になった私の頭魔の片隅が、熱暴走した思考に当てられて誤作動を起こしている。
そうか、あれが非日常なんだ。私は初めてその一端に触れた。きっとそれは時には危険で、時には刺激的で、時には求めてやまないのだろう。
だけど、本当は。今私の隣にいる男の子こそが非日常に他ならない。落ち着いて考えれば、男の子を拾うという経験をするなんて、京都中の同じくらいの子に聞いても、誰もいないだろう。
さっきの人は、不幸にも私にとっての非日常として暗がりから手を伸ばしてきた鬼みたいなものだ。そっちも非日常なのは間違いないけれど。それでも、恐らく男の子を拾うという経験の方が稀なはずだ。
そう考えると、私は他の誰しもが体験しえないことを今しているんだと気付いた。それも、現在進行形で。
「私って、社会を何も知らないなぁ……」
でも、それは当の暁からすればどうなのだろう。まだ詳しくは話を聞けてはいないけれど。親がいない。友達もいない。ずっと独りぼっちだった彼は、私から見たら非日常以外の何物でもないような日々ばかりを過ごしていたんじゃないだろうか。
もし、そうだとしたら、私には、何が出来るのだろう。私にとっても明らかに異質な存在である暁を、どのようにしてあげられるのか。
だけど、それは後から考えるべきことだ。だって、私はさっき母さんに家を出ると言って、非日常に飛び出して来たばかりなのだから。
ひとまず、今私が暁に言うべきことは、たった一つしかない。当座の危機を救ってくれた彼に。何も怖いものなどないと思っていた私をひっぱたいてくれたような彼の行動に。
「えっと、ありがとうね。助けてもらっちゃったな」
「なら、よかっ――」
ばたり、と隣にいた暁が倒れた音で我に返った。
「……暁?」
反応が、ない。顔が、白い。――意識が、ない。
「暁? 暁!? アキラぁっ!」
息はしている。だけど、完全に失神していて、そして目覚める気配もない。
――どうしよう、私のせいだ。私が、暁をこんな目に遭わせてしまったんだ。
私が保護してもらえるだろうと簡単な気持ちで連れて行ったから。私が母さんを説得できなかったから。私が自分一人でもどうにかなるだろうと簡単に考えていたから!
「私が……何も出来ないから……っ」
じゃぁ、今私が出来ることはなんだ。下手な見えを張らず、砕かれたちっぽけなプライドなんて放り投げて、暁を安全な場所まで運ぶことじゃないか。
なら、安全な場所はどこだ。決まっている。そんなの一ヶ所しかない。他のところもないわけではないけれど、その場所よりは遠いし、何より一番話を聞いてもらいやすい。
でも、本当に話を聞いてもらえるだろうか。今そこに行くのは、私にとっては気まずいだけだ。大口叩いて、なのに外は危ないから戻ってきましただなんて。
「でも……私が暁を守るって決めたから……っ」
背に腹は代えられないけれど。気まずいなんて言っていられる状況じゃない。実際に怖い想いをしたのが私だけならまだよかった。だけど今私は一人じゃないんだ。守りたいと思った人が、こうして倒れてしまったんだ。ならば、やることは一つしかない。
なんとかして暁を背負う。私と身長も然程変わらないのに、明らかに私より軽いその身体は、正に満身創痍と呼ぶにふさわしかった。
あとは無我夢中だ。目指すところは一つだけで、それ以外の情報は殆ど視界にも入らない。視野が極端に狭くなり、ただ一点のみを視界に入れ、曲がるポイントだけを頭に入れて夜に駆ける。
途中ノンストップで走りきれたことも大きかった。途中で足を止めてしまったら、きっとそこで暫く立ち止まってしまっただろう。交差点を通り過ぎる時も、車が横から飛び出してこなくてよかった。そんなものを気にする余裕なんて全くなかった。
そして私は私の日常の起点へと舞い戻る。再び、この家にとっての今は非日常を連れてきて、そして躊躇もなしにドアを開ける。
何か、どこかへ連絡をしようとしていたらしい母さんがぎょっとした顔で私を出迎える。だけどそんなことを気にも留めず、涙ながらに窮状を訴える事しか、この時の私には出来なかったんだ。
「――母さん!」
その時、素直になれたことが、きっともう一つの始まり。
「お願い! 暁を助けて!」
「――あれ、ここは……」
「あっ、目が覚めた? よかった……」
やっと、落ち着いて暁の顔を眺められた。結構かわいいなって思った。成長したらまた変わるのだろうか。
「ここはね、私の部屋。それと、暁の部屋……にもなったらいいなって、私は思ってる」
いつもフローリングの床に敷かれた布団のその隣にもう一式。それが、暁が今まで、そしてこれから夜眠る場所。その隣は勿論私だ。
既に日は高い。ともすればもう午後にでも差し掛かろうかという時間で、それが故に窓を開ければ隣の家のキッチンでお昼ご飯を作る音が聞こえてくる。今日は4月1日で、だから近くの野々宮神社のお祭りの笛の音が、湿った空気に乗って閉じた部屋の中まで届いている。
「あれ、学校は……」
「学校はね、まだ春休みなんだ! それに、今学校があったとしても、そんなことより暁心配する方が大事なんだもん!」
「そっか……」
「まぁ授業休むことになったとしても、勉強はね、また鬼無水にでも見せてもらう! あっ鬼無水っていうのは私の友達なんだけど――」
寝起きで頭が回ってないということを考慮もせず、ひたすらに私のことを話す。
そして、一通り話したところで、大事な、暁にとって一番大事なことを伝えていないことに気付いた。
「――暁さ、ここに住んで大丈夫だって。だから、一緒にいてよ、私と」
その結論だけを先に伝えると、暁が目をぱちくりとさせる。
「帰らなくて、いいの……?」
「帰るんだったら私も一緒に行く! って、母さんに思いっきり言ったの。それでなんとか認めてもらったんだ!」
「そこまで無理しなくていいよ!」
「あ、えっと……ごめん、そうじゃなくてさ」
咄嗟の嘘、というつもりはなかったのだけれど。でも、それがきっかけで決まったことではないのは確かだ。私の懇願がどれだけ功を奏したのだろう。
「――本当は、誰か大人の人、あ、例のおじさんじゃなくて別の人ね、その人が夜に訪ねてきて、母さんと話してるのが聞こえたんだけど、その人にも頼まれたんだって。その人は事情があって育てられないらしくて、暁のことを考えるとうちにいてくれるのがいいんだってさ。暁をこれ以上独りきりにもできないし、何より母さんには私の脅し? が効いたのかな!」
あぁ、どうにも私がどうにかした、ということにしたい自分がいるらしい。今は、暁がこの家にいていいことが決まったということだけでいいじゃないか。
そこまで思って、そこから暁を見て初めて、暁の顔がポカンとしたものになっていることに気付いた。
「――誰?」
「暁も知らない人なの……?」
「誰だろう……あの子の保護者なのかな……いやでも、『学園』の誰か……? ごめん、僕に対して、というのはわからないんだ。それっぽい人にはいたと思うから、その人だと思うんだけど……」
「とりあえず、ちらっと聞こえた範囲では、暁が『学園』を抜け出したのを知って、だけど学園での状況を知っていたから、暁のために、うちにいるのがいいだろう、ということっぽかったよ。だから、暁は何も気にしなくていい。それを暁だけに背負わせるのは、きっと辛いことだからって」
「そうなんだ……まぁでも、気にしなくていいのかな。それとも後で尋ねておくべきなのかな……」
「母さんはきっと、暁にそんなことは気にしてほしくないと思うよ。別に母さんも、暁のことを心配してないわけじゃないんだって。ただ、うちでそのまま引き取っていいかどうかわからない内から勝手にやっていいかどうかわからなかったからだって」
私たちは、まだ大人であるとは言えない。子供だからこそ、出来ることと出来ないこととあって、そして出来ないことの方が余りにも多い。昨晩、私はそれを思い知った。そして、こういったことはそれこそ出来ないことの筆頭だ。だから、小難しい話こそ、今は大人にぶん投げる。
「それよりさ! この後来るだろう楽しいことを考えようよ! ねぇ、何がしたいかな!」
そして私は、子供として今出来ることを、暁に提案してみる。
それはただの思考放棄だったのかもしれない。だけど、暁に暗い顔は見せたくない。見せられない。そして、当面の暁の不安に思うことは、私が出来る範囲なら、一緒に考えて、解消してあげたい。何より、もう暁の曇った顔を見たくない。
だから、例の不審者情報の話までする必要はないだろう。母さんには話をした。怒られた。そして母さんから学校に連絡がいった。どうなるかはわからないけれど、町全体で不審者の情報を気にはかけてくれるだろう。
もしかすると、それが一番のきっかけだったのかな。そうだとすると、やっぱり後で改めて母さんには謝らなきゃいけないだろう。
「――楽しんでるんだね」
「そうだね。それに、今の暁、私も似たような経験があって、あ、勿論暁みたいなひどい状況じゃなかったけどさ、それでも、独りぼっちと感じたことがあったから、やっぱり放っておけなかったかなって」
「そっか……『同じ』だったんだね」
「同じ? いやいやそんな! それは暁に失礼すぎるよ! 暁の経験したそれは、他の人とは比べ物にならないくらい辛いことだよ。それを、私が勝手にやってたこととなんて、とてもじゃないけど比べられない。とにかく私は、そんな辛い思いをした暁と、一緒に色々なことを楽しめるようになりたいなって思ってる。それが、私が暁に手を指し伸ばした時からの使命だと思うから」
暁に手を差し伸べた時から、私にとっての運命は定まっていた。一度回り始めた運命は、何があっても止まらない。それとも、私が絶対の意志を持ってと決めたことを、運命とごまかしていただけだったのだろうか。何れにしても、この時点で様々な未来が定まったことだけは確かだ。
それにしても、こうして見ると、この時ばかりは、暁よりも私の方が、よっぽど能天気だったように思う。それでも、この時はそれでよかったんだ。この時の暁に必要だったのは、不必要に物事を考えすぎない能天気さだった。
私が鬼無水に声をかけてもらった時、不必要に一人でいいってなっていたから。無理やりにでも手を取ってくれる強引さが、私には嬉しかった。
暁がどう思っているかまではわからない。だけどこのまま放っておけば、暁はきっとまた独りぼっちだ。そして、私はそうさせたくない。何より、一度は差し伸ばして、掴んでくれた手を私が離したくない。
「それでさ、暁も、元気になったら一緒に同じ学校行こうよ! まずは私がいるから! そして、色々なことをしよっ! 暁にとって、楽しいと思えることばかりを!」
同い年だというのならば、きっと同じことを学べるはずだ。クラスも一緒なら、私から色々なことをしてあげられるだろう。
大誠が、ある時袖振り合うも他生の縁と言っていたのを思い出す。暁と出会ったのはそれこそたまたまだ。だけど、出会ってしまって、そして私は暁と友達に、家族になりたいと願った。
ともすれば、お姉さんぶって、あぁしろこうしろというようなことを言えたのかもしれない。折角友達に、家族にしてやるんだから、何か私のためになることをしろ、などって。
だけど、それは私がしたくなかった。こんな、辛いことがあった暁に対して寄り添っていてあげたいと私が願った。だったら、私がやるべきことは一つだ。何があっても暁に寄り添ってあげる事。そして、何があっても暁の味方でいてあげる事。
だって、それは鬼無水が教えてくれたことだったから。独りでに落ち込む私に手を差し伸べてくれた鬼無水が、最初に私にかくあるべきと示してくれたことだったから。
「友達か……」
暁が、それだけを呟く。ぼんやりと暁が見ていた窓の先は、桜が風に靡いて散っていた。どんよりとした空は、そろそろまた雨が降り始めそうだ。
その呟きには、どれだけの意味が込められていたのだろう。きっと、家族がいた頃は、通っていた学校で友達もいたのだとは思う。その子らにはもう会えないのかもわからない。何れにしても、今の暁はまだ独りぼっちだ。そしてその辛さは、私も知っている。暁のそれと比べてしまっていいのかはわからないけれども。
「でも、まずは京楓が、友達になってくれないかな……?」
「え? 何言ってるの?」
今度は私がポカンとする番だった。
「私たちは既に友達で、家族だと、私は思ってたんだけどな。暁は違うの?」
「いや、えっと……友達は、違わないんだけど……」
頬をぽりぽりと掻く暁は、どこか恥ずかしいことを言うかのような面持ちで、そしてそれはどこか可愛らしかった。
「本当に、家族で、いいのかなって……」
「いいに決まってるよ!」
それこそ、今更過ぎる。そりゃぁ、手を差し伸べた時に同じことを言ったけれど、でもそれが本心だと思われてなかったとするのならば悲しいし、昨晩のことで見切りをつけられていたというのならばあまりにも不甲斐ない。
「寧ろ、さっきまであんな状況で、暁の方からお断りだって言われないか、私の方が怖かった。というか今でも怖い。結局、無理やりにでも私が連れて来ちゃった格好だったから……」
だから、私が取れる方策は、無理やりにでも暁をここに居させることだった。それでいて、暁の意志を最優先にさせたい私は、暁に拒絶されることにいの一番に怯えている。
「――素敵な場所だな」
だけど、暁がその次に発した言葉は、それらとは全く別の、場所を褒めるものだった。
「俺がずっと住んでいたところは、町と町の間の少し寂れたところでさ。そこはそもそも人自体が少なかった。触れ合う人自体が少なかったから、実際『友達になれる子』たちがそもそも全然いなかったよ。だから、家族こそが大切だったんだ。それで、学園では、逆にみんなが他人になってしまった。それは子供たちがどうとかというのは関係ない。俺にとって、心を開ける相手がいなかっただけのこと。だけど、手を伸ばしてきて、無理やり髪や手を掴んで別の場所まで引っ張っていこうとするのはいつものことだったよ。昨晩も、同じ匂いを感じたんだけどさ」
あぁ、だから暁はあぁも警戒を解いていなかったのか。
「そして、この町まで走ってきた。京楓に出会った。あぁやって、他人が、本当の意味で俺に手を差し伸べてくれるなんて、初めてだったんだ。そしてこんな可愛い子が家族になってくれるとまで言っている。やっと、全てが報われたような気持になったよ。勿論、戻ってこないものも多いし、それが割り切れるわけじゃない。それでも、やっと、新たな人生のスタートラインを切れるって、そう思えたんだ。それは、京楓が手を伸ばしてくれたからこそ。そして、そんな素敵な人がいるなら、きっとこの町も素敵な場所なんだって」
それは、暁の思い込みかもしれなくて、でもそれを否定してはいけないと思った。紛いなりにも、私だってずっと育ってきた町なのだ。褒められるのは、恥ずかしさはあれど、悪い気はしない。その理由が、私がいる町だからというならば尚更だ。
「京楓は、この町が、好きか?」
「――正直、わからないかな」
「そっか」
嘘は付けなかった。私が他の町を知らないというのはあって、だから比較が出来ないというのはあったのだけれど、町自体にいい思い出も嫌な思い出も、まだ特別あるわけじゃなかったから。きっとそれは、これから作っていくのだろう。
「名前は、好き?」
「うん。この名前は、大好き」
「よかった」
そっちは、自信を持って言えたことだ。この町に生まれて、その町を彩るものの名前。それは青く茂る季節もあれば、やがては紅く染まり、目にも鮮やかに存在を主張する。京都という町で、その存在にも負けないでいて欲しいと願って付けられたと聞いた、そんな名前。
あぁ、そっか。この名前が好きで、そしてその理屈通りだとするのならば。
「――やっぱり、この町、好きだと思う」
この町に居られることが、きっと私にとっての幸せなのかもしれない。
答えなんて、既に出ていた。それを暁が教えてくれたんだ。身近だからこそ、中々気付くことの出来ないその答えは、一歩引いたところにいればわかることは確かにある。暁は、そのことに初めて接したからこそ、先入観のない視点で、その答えをすぐに見つけ出してくれたんだ。
あぁ、やっぱり私にとっても運命だ。今正に、運命は回り始めた。暁の運命と一緒に、何かが始まる予感がした。
「よかったぁ。暁に友達と認めてもらえて。家族だと言ってもらえて」
「当たり前だろ! 寧ろこっちがいいのかって言いたいよ!」
「でしょ? 私もそう思ってたんだ。今の今まで。結局、一歩踏み出すのが怖かっただけなんだよね、お互いに」
そうだ。暁を迎え入れるということは、強制的に今までの日常が日常ではなくなるということだ。それによって起こる変化はきっと急激なもので、勘弁してほしいと思うことも出てくるだろう。だけど、それを受け入れて、私は、いや私たちは成長していく。そうしたいって、私も、きっと暁も思ったんだ。だから。
「だから、お互い様だよ」
「――そうだな」
こちんと、額同士をくっつける。その時、何かが繋がったような感触を覚えて、それがどこか可笑しくて、二人してお腹の底から笑みがこみあげてくる。
「楽しいね!」
「そうだな!」
やっと、暁と笑い合えた。心から。そして、それはとても心地が良かった。
あぁ、きっと暁とならうまくやっていけるだろう。喧嘩とかだってするかもわからないけれど、こうやって一緒に、同じ目線でいられれば、ずっと同じ道を歩いていけるはずだ。
「ねぇ、これからどうしたい?」
だから、私はまず、暁がどんな道を歩きたいか、それを尋ねる。
「どうって……」
そして、それを尋ねられた暁は暫く考え込む。
「正直なことを言うと……何をすればいいか、何をしていいのか、まだ何も全然わかってないんだ。だけど、今のままだと同い年の子らとは同じことが出来てない、今後もずっと出来ないということはわかっている。だから、まずはみんなと同じことをしたい、出来るようになりたい。そしてそのみんなの『普通』を教えてほしいんだ」
「わかった、喜んで! いっぱい教えるよ! 暁が知らなくて暁が知りたいと思う事、全部!」
勿論、出来ることと出来ないこととあるけれど。それでも、暁が知りたいと思うことはほんの僅かの事で。そしてそれはどれもが『私たちと同じラインに立つため』のものだった。だったら、それ以上のことを提供できるようになればいい。
「でもさ、私が教えるだけだと、きっとちょっとズレた感じになっちゃうと思うんだ。ずっと独りでいたというのなら、暁は誰かと触れ合わなくちゃいけないと思う。そうしないと、暁が後からでも進みたいと思った道に、進めなくなっちゃう。そして私から離れることはしないけれど、暁には自由でいて欲しいし、可能性を閉ざしてほしくない」
それ自体は本心だ。だけど、その内、私から暁が離れていくのが怖くなるだろうという予感がある。それでも、これだけは守らなければいけない。暁の人生を豊かにするスパイスになれど、私の存在が押しつけになることだけは、防がなくてはいけない。
「だから、今度友達、そのさっき鬼無水っていった子とかを紹介させてよ。そうしたら、暁は、もっと幸せになれると思うから。というより、暁を私だけのものにするのも悪いしね」
「いいの……?」
「いいに決まってるじゃん! というか暁は欲しくないの? 友達!」
「欲しいよ! だけど、これまでずっと独りきりだったのに、急に京楓が手を差し伸べてくれて、そしてそこまでしてくれるだなんて、全然思ってなくて……」
「急になんかじゃないよ」
これだけは、この時点で、強く言えることだった。
「それは、暁が変わりたい、逃げたいと思ったからじゃないかな。暁から聞く限りでは、確かにそこは暁にとってよくない場所だったんだと思う。そして、そこから消えたい、いなくなってしまいたいと思った。暁からすれば死んでもいいぐらいのつもりだったんだと思うんだけど、それでもそこから抜け出すことを考えただけでも、変わりたいって感じたことを行動に起こせた、それだけなんだと思う。そして、私はそれを人に教えてもらって見つけたんだ。だから、暁が動いていなければ何も変わらなかった。動いたから状況が変わった。急なんかじゃない、ちゃんと、結果に現れただけなんだよ。私は、そう思ってる」
きっかけは逃避だったのかもしれないけれど。それでも、暁はちゃんと結果を掴み取った。それは紛うことなき暁の成果だ。
「寧ろ、私の方が変わらなくちゃいけないのかな」
いや、変わらなくちゃいけないんだ。そうするって決めたのは私だ。
「いや、京楓にはそのままでいてほしいな」
だけど、暁がそれを止めようとする。
「今のままの京楓なら、十分素敵だから」
「だったら、もっと素敵になるために変わるの! その努力はきっと必要なもの!」
「無理しそうに見えるから言ってるの! あと後先考えないとこあるでしょ! そこに関してはきっと直した方がいい!」
「そこを直すの! だったら変わらせてよ! もっと素敵になる!」
「じゃぁなってよ! もっと可愛くなって!」
「かわっ……!?」
顔から火が噴くかと思った。今の流れでそれは反則だろう。なんだこの女たらし。現時点で女たらしならどうにかして抑え込まなくてはならない。無自覚でこれなら後が怖い。
「暁……なんでそうナチュラルに褒め殺すの……?」
「えっ? いや全然そんなつもりないんだけど……」
あ、これはあれだ。きっと将来滅茶苦茶ヤキモキする奴だ。主に私が暁に。
いや、どうなるかは全くわからないけれど、でもきっと、私は彼に恋をするのだと、いつかどこかで理解をしていた。まだ、暁じゃないと駄目だというものじゃなくて、女の子が恋に恋するかのような、ただ仲がいいから好きなんだと思うような、それだけのこと。
それを私は、大誠に求めなかった。これまでいたクラスメート等の他の男子にも求めなかった。暁じゃないと駄目なんだろうと、この時点で理解していたんだ。
そしてそれは、私が求めていた変化だったのかもしれない。満足はしていても、どこかで何かが満たされないと思う、幼心に欲しかった変化だったのだろう。そういう意味では、暁は全てを持っていた。私が欲した全てを両手に抱えて、どこからともなく私の前に現れたんだ。
だからこそ、私の願望を押し付けてはいけない。少しでも欲を見せれば、すぐにでも私が望むような姿にさせてしまいそうで、そしてそれは私が望む暁の姿にはならない。
それだけはしないように。暁が自分で望む姿に、自分からなれるように。そして、どこかで私を置いて去ってしまったとしても。それが、私が望む暁の姿だから。
体を動かしたいと思うことから始まって。そして巡り巡って拾うことになった男の子にも何か私からしてあげられるようになりたいと願って。いつか、それを叶えられる日は来るのであろうか。
そんな私の心情を気にもかけず、暁が、徐に口を開く。
「俺は、京楓がやりたいと思うことをなぞっていければ、今はそれでいいから」
その一言に、少しだけ喜びを覚えて、そして寂しさを覚えた。私と同じことをやって、そしてそれを好きになってくれるというのならば、それは私にとってはとても嬉しいことだ。私にとっての仲間が増える。
だけど、本当はそんなことを言わせたくない。暁は暁で、やりたいことをどんどん見つけてほしい。そして私に関係なく、暁の人生を謳歌してほしい。私の、『対等』と願う原点は、きっとここにある。
だから私は、暁のためになることをしてあげよう。そして、暁が独り立ちするまで、私は傍で支えて上げられればいい。
それまでは私が手を繋いでいよう。そしていつかその手が離れる時まで。
こうして私は、男の子を拾った。まだ、私が暁のために生きたいと思うようになる前の、そんな素朴な感情が記された原初の一ページ。
確かに私は、暁のために生きたいと思うようになった。そしてこの時の経験は、強烈なきっかけとなって、今も私の中に根付いている。
きっと、この時だったんだ。暁のために出来ることをしたいと思って、その理念ばかりが先に先に行くようになったのは。それでも、この時だけはまだ素直になれていて、純粋に子供でいられたんだと思う。
対等であることは絶対の是である。それはいつしか私の強迫観念となって、私を『すくう』ことになる。それは巣食いであり、掬いであり、救いだった。
だから、これがきっかけ。この時から、私と暁の成長がゆっくりと、歩調を揃えて始まったんだ。
後はまぁ、これは暁は覚えてないだろうし、私から言うこともないんだけど。
最初に、暁を家に連れてきた際に。
「えっと……」
妙に暁が口籠っていたのが気になって、つい尋ねてしまったんだ。
「正直に言ってよ」
「――ちょっと、汗臭い」
「えっ――」
それは、思いもがけぬ方向から飛んできた危険球で、そして容赦なくそれは私のプライドを粉々にした。
確かに、テニスをした直後だったから仕方がなかったのかもしれないけれど。それでも、暁の何気ない一言は、私の乙女的な部分を刺激させるのには十分だった。
寧ろ、そんな不満を言ってくれるだけでありがたかったのかもしれないけれど。だってそれは、暁がそれくらいは気に出来る状態にはなっていたってことだから。
それでも、単純にショックだった。私だって女の子だ。暁も、出会ってすぐに可愛い女の子と言ってくれた。デリカシーがないと言ってしまえば簡単だけど、それで切り捨てたくもなくて。
まぁ、結局は複雑な乙女心だったんだ。思い返せば、そのことを理解したのも、この時だったのかもしれない。
ともあれ私は、後日人生三度目のおねだりをすることになる。一回目はテニスをやりたいということ。二回目は暁を保護してほしいということ。三回目は制汗剤。
香るなら、すっきりとしたものがいいと言ってたから。だから、使い始めた制汗剤は、毎回同じものだ。
でも折角だから、暁に今度何か別のものがいいかどうか尋ねてみよう。どうせなら暁が好きだと思うものを選びたいから。
とりあえず、同い年の他の子と比べてまず困ったことは、暁の体力だった。
何があったのかはまだ詳しく聞けていない。だけど、とにかく暁には体力がないように感じる。寧ろ、よく不眠不休であの公園まで辿り着いたなと思えるくらいだ。話を聞く限り、とにかく遠いところ――本当はそこまで遠くないかもしれないけれど、大人と子供の距離感覚なんて天と地程の差がある――から来たようだけど、そこでは運動らしいことは何一つしていなかったらしい。そんな状況では、体力が付かないのも当たり前だ。
このままでは、暁が何をするでもなく倒れてしまう。今の状態は、正直鬼無水より悪い。家出騒動の際の馬鹿力だって、暁にとっての最後の力を振り絞って出たものだったことは明らかだ。なんならあの時、暁の寿命を幾分か削ってしまっていたかもしれない。
だから、まずは暁の体力をつけようということになった。これは、私の得意な分野だ。勉強をというのはこれからではあるけれど、まずは普通に動くということから始めないと話が始まらない。
とはいえ、頼れるのは家族だけだ。早い段階で大誠や鬼無水を紹介して、四人で遊ぶことでもよかったのかもしれないのだけれど、鬼無水の状況的に常に外遊び出来るとも限らなかったから、結局は私が付きっきりになるしかなかったんだ。
だから、大誠と鬼無水と遊ぶのも、この時だけは我慢するしかなかった。なかったのだけれど。
「最近の京楓はどうにも付き合いが悪いね」
「ごめん! ほんとーにごめん! でもここずっとやらなきゃいけないことがあるの!」
「ふーん。でも京楓ってテニス以外で何か特別なことをしてたことあったっけ」
「え、えっと……」
「そういえば、最近京楓が誰か男の子と一緒にいるという目撃情報が」
「うっ!?」
「京ちゃんが、その男の子とつかず離れずの位置に常にいるとか」
「えっ!?」
「さて、どういうことなのかな」
「ふ、二人が想像しているようなことは何もないぞ!? 本当にないぞ!?」
「成程、男の子がいるということに関しての否定はしないんだね」
「今度説明する、というより二人にも会わせるから! でもごめん、あとちょっと待って!」
「すごい勢いで行っちゃったね」
「まぁ、京楓が自分から何かをするっていうのは珍しかったから、今は見守ってあげるべきじゃないかな。説明はしてくれるみたいだしね」
「そうだねー。楽しみだなぁ」
どうしてだかわからないけれど。この段階で暁を二人に紹介すると、二人に暁を取られてしまうというような勝手な思い込みがあった。暁に最終的に二人を紹介すると決めておきながら、これだ。
全然そんなことはないのに。帰ってくるのは最終的にはうちなのだから、取られるというようなことはまずないはずなのに。
妙な独占欲があったように思う。学校にもまだ通ってない、同い年の男の子が親しいのは私だけ。そんな、普通ならあり得ない状況が、どこか私の感覚をも狂わせる。
多分、これは多分だけど、自分で考える以上に、『自分で手を差し伸べて救った』という自意識が強いのかもしれない。それも仕方ないよねと自己弁護もするけれど、それが暁のためになるかと言われれば、そういうわけではない。
とにかく、何が大事かということを考えて、行動する。まずは、暁が普通の生活を送れるように、だ。
「うーん、いい天気だね! 絶好の運動日和!」
だから、まずは、簡単な体力テスト。兎にも角にも、日常生活をする上で体力がなければそれすらも満足に送れない。だから、何が足りてないのかを、ざっとでもいいから調べたい。
「うん……足が特別遅いとかそういうわけではなさそうだね」
うちがある一角を、まずはジョギングで、次に全力で走ってどれくらいかかるか測ってみた。結果は、私とそう変わらないくらい。というか私が女子の中でもかなり速いと言われてるし、男子に当てはめても全然遅くない。少なくとも大誠よりかは速く走れている。
「次は全身を動かして!」
ラジオ体操の第一と第二。毎日身体を動かすことが目的のそれは、暁にやらせるには丁度良かった。加えて、少しの腹筋とか腕立て伏せとかを20秒程度。結果は、こっちもいう程問題なしだと思う。
そんなことをしている間にも、私自身の始業式をも終えて、暁をどのようにして学校に入れるか、未だに決まってはいなかった。私からすれば、すぐに行けるものだと思っていたのだけれど、どうにも色々と難しい話があるらしい。
母さんに聞くところ、暁は私がいない間はよく寝ているんだそうだ。やることがない、と言ってしまえばそれまでかもだけど、それはそれとして睡眠リズムがどうにも整っていないらしい。
――まぁそうだよね。横で寝ていると、夜中急に目が覚めている様子だもん。劣悪な環境にこれまでいたというのなら、それを夢で見ちゃうよね。
「えっと、私が昔使ってた教科書を出してほしい? どうしてまたそんな……」
それはそれとして、暁が気にかけていたのは勉強だった。
「今は、体力作らなきゃ駄目じゃない?」
「それでも、今しておかないと、わけわかんなくなりそうだから」
「そっかー……。とりあえず確認するよ」
勉強をするにしても、私がずっと昔に使ってた教科書をだなんて。まぁ、小学校入学時からの教科書は、捨てずに取っておいてたはずだから、問題はない。
「ねぇ暁。勉強は……好き?」
「嫌いじゃないけど、好きでもない」
「そっか。私は好きじゃない」
それを聞いた暁が押し黙ってしまう。暁がやる気を出してるのに、今言うべき冗談ではなかっただろうか。
自分で作った空気に耐えられなくなって、教科書を探しに出る。記憶の通りなら納戸の奥の方に……あ、あったあった。
そして全部を持って自室に戻ってくると。
「なんで正座?」
「いや、ほら、持ってきてもらうのに、だらんとしててもあれかなって……」
「何それ。ほら、これ。一応全部持ってきたよ」
「ありがとう。すごく助かる」
そんな感じで笑ってはいるけれど、足が痺れたのだろう、どこかプルプルと震えている。何故だかおかしくなって、少しだけ笑ってしまう。いけないいけない。
そして、教科書を受け取った暁は、猛然とページをめくり始めた。
「書き込みって、しちゃっても大丈夫かな」
「ん? 別にもう使わないものだし、いいよー」
「ありがとう」
そのまま、その時手に持っていた算数の教科書の、公式があるページに書き込みを始める。
なんというか、目つきがかなり真剣だ。一つの事に打ち込む暁の姿を見るのはこれが初めてで、少し胸がトクンと高鳴る。
だけど、それは私が声掛けをするには邪魔ということで、そうすると自室とはいえ私という存在自体が今は迷惑かなと思って。
「お邪魔になっちゃうかな……」
そう思って、一旦私は自分の部屋から退散をした。部屋の中では、ちゃぶ台に面と向かって、暁がごりごりと手を動かす音が断続的に響いている。少しジョギングでもしてこようか。
そして、私が部屋から出て一時間程度が経過した頃。
「今日は、もう大丈夫だよ」
「あれ、終わり? もっと長くしているものかと思ったけど」
「大丈夫。とりあえず一年生の範囲は、ちゃんと学校に行っていた時のを覚えてたから、問題なかった」
「一年生って……」
それこそ、最初からではないか。
「二年生のとこへはやらないの? 体力がやっぱり厳しい?」
「うん……みっちりやってたから、疲れちゃって……」
「わかった。どうする?」
「昼寝ってしてても大丈夫……?」
「わかった。じゃぁ暁の布団敷くね」
「助かる」
脇にどけていた布団を引っ張り出して、そのまま敷く。うん、ちゃんとこっちが暁のだったな。
「ごめんね、勝手に寝させてとか言って」
「いいんだって。だってここは暁の自宅。自宅ならちょっとくらい迷惑とか気にせずぐーたれて問題ない。違う?」
「そう言ってくれると、随分と気が楽になるな……」
そう口にしながら横になった暁は、そのままストンと眠りに落ちてしまった。そしてすぐに落ち着いた、すやすやとした寝息が聞こえてくる。
さて、私はどうしよう。ジョギングはしてきたし、汗をかいた分のシャワーも浴びてしまった。さりとて他の事をする気にもなれない。
とりあえず教科書でも眺めてみようか。暁の勉強が、どこまで身に付いてるのか、私が把握しておくのはきっと大事だ。
「おぉ、本当にちゃんとやってるな……まずは公式が決まってる算数とか理科とかやってる……」
ぱらぱらと、暁が勉強をしていた教科書の内の一冊を手に取って、それとなく眺めてみた。暁のすやすやとした寝息がバックミュージックなのは、人が変われば学校でもあまり変わらないかもしれない。
書き込みもだけれど、それが間に合ってないものは、ページに折り目を付けていた。国語や社会はそういうページが多い。それこそ、文章を読んで理解するようなものは後からでもどうにかなるのと、公式の積み重ねが少ない又はないようなものはざっと把握できていればいいだろうから、確かに理には適っている。
「流石にこれくらいなら、私もちゃんとわかってはいるかな……」
言ってしまっては何だけど、それこそどれも本当に初歩的な内容だ。だけど、これすら理解できてないとするならば、確かにそれ以降の内容を理解できるようになるのは難しいだろう。だから、とにかく最初から、粗を一つずつ潰していく姿勢には感嘆すら覚える。
「昔の私ぃ、感謝するんだぞ……」
私の教科書は、落書きもなければ、書き込みもなかった。だから本当に綺麗なままで、だからこそ暁に供出出来たというのはある。逆に言えば、勉強面に関しては、だいぶ不真面目でもあった。この時から、鬼無水や大誠に、何かあったら見せてもらえばいいとなっていたのは、思い返せばよくないことであったのだろう。
と、それぞれを見ていて、一つだけ違和感に気付いた。
「あれ、漢字ドリルだけは本当に手付かずだな……」
ドリル形式のものは流石に何かしらの書き込みをしていて、だけど暁はどれもご多分に漏れずに何かしらの書き込みをどこかでしていたのだけれど、漢字ドリルだけはその形跡がなかった。
もしかしたら、漢字は苦手だったのか、それとも時間がかかるから手を付けてなかったのか。他の教科書は何かしら手を付けた様子が窺えるのに、これだけはまっさらなままだった。
「やっぱり、勉強、好きとはいえないなぁ……」
こんな昔に学んで、どれも当たり前だと思えることですらこうなるなんて。いや、寧ろ全部わかりきっているからこそ飽きるような心地を覚えるのか。きっとそっちだろう。
それに、バックミュージックがこれだから。こんなもの、私もつられるに決まっている。
「私も、勉強はちゃんとしなくちゃな……」
後ろに背中を倒すと、丁度暁の胸の辺りに自分の頭が来た。布団が、今の私には丁度いい枕になって、それだけで瞼が落ちるには十分だ。
ストンと意識が落ちる前に感じたのは、部屋の電気を消してなかったという事。きっと、起きたら母さんに怒られちゃうかなって、それだけを思って。
暁が教科書で勉強をするのは、どうしてだかずっと一時間ぴったりで、あとは運動をするという日が続いた。
見たところ、案外基礎体力自体はあるのかもしれない。だったら、無理はさせず、みんなが体育の授業でやる一時間弱の運動を継続して続けていれば問題なさそうだ。
「どう? 勉強は進んでる?」
「そうだね、二年生の途中まではどういう問題出ても満点取れるようにはなったと思う。勿論凡ミスはあるけどさ」
「そっか」
「でも、国語と社会は書くというより読んでるかな。そうすれば他より『疲れない』から」
「読む方が考えないで済む?」
「そうだね、特に社会は身の回りのことに特に関わってくるから、それと照らし合わせて考えると楽しいかな。考えるというより、なんだろ、答え合わせみたいな?」
「……考え方が違うなぁ」
勉強は勉強としてしか中々考えられないとこはあるから、暁がそう考えられるのは正直羨ましかった。勉強を楽しいと思えたことは正直まだない。でも暁は楽しんでいるところがある。私は楽しむと言えば遊びかテニスかだ。
ええい、それはそれとしてやっぱり私は暁と遊びもしたい。とりあえず早く暁と楽しめることがしたいんだ。
「息抜きにゲームでもする?」
「ゲーム……?」
「テレビゲームだよー。実はさ、丁度二人でやると楽しいのがあって、暁とやりたかったんだ! まぁ暁はまずやってみたいことにはだと思うけど……」
ゲームは、鬼無水の体調が悪い際の、大誠も含めて三人で遊ぶ時の定番だった。小学校入学の折に、よく遊ぶようになった鬼無水の体調を案じて買ってくれたものだ。結果的に私が鬼無水と大誠と入学前に知り合うきっかけになった、ゲームの会話が出来ないという問題の解消にも一役買うことになった。
うちは、なんだかんだ母さんが許してくれて、遊びに来てもらうことが多かった。だけど、基本的には鬼無水の体調も考えて、外で遊べる時はそうする時が多かったから、なんだかんだ死蔵状態になるのが多かったのも事実だ。
暁と一緒にいて、隙間時間とかでも少しずつ遊べるのならば。きっと、もっと遊びに対するきっかけや枠が広がることになるだろう。同級生との会話の糸口も広がるかもしれない。
「とりあえず、レースゲームなら覚えやすいんじゃないかな」
そういって、著名キャラもののレースゲームを手に取る。操作自体はそんなに難しくないし、これなら暁も覚えやすいだろう。
「発進がこれ、ブレーキがこれ、バックがこれ、アイテム使うのがこれ――」
路面にバナナを置くだとか、亀の甲羅を投げてスピンさせるだとか。そういうただ運転技術だけを求められるものじゃないからこそ、親しみやすいものだと思っている。使い方を間違えると喧嘩になりそうでもあるけれど。
「それじゃ、まずはチュートリアル的にさ」
「えーっと、こんな感じ?」
「そうそうそう! 上手いじゃん!」
勉強もだけど、いざという時の暁の集中度は中々のものだ。まずはフリーで動かし方を確かめて、その上でレースに臨んでいる。あ、早速勝利を収めた。
いや、もしかしたら、私は教える才能があるのかもしれない。今のはちゃんとやり方を教えられたと思うし、その上でちゃんと理解をしてくれている。
さて、そろそろ私の本気を見せつけて、楽に勝てるものはないのだと、暁に教えてあげよう。これはそういうゲームだ。勿論最初は喧嘩にならない程度に。段々意地悪くなるように。
と、余裕ぶっこいていられたのは最初の十数分程度で。
「――勝っちゃったんだけど」
「そ、そんなはずでは……!?」
いや、流石にこんなすぐに負けるのはおかしい。何回か繰り返せば、暁も私の強さにひれ伏すだろう。
「三回! 三回勝負!」
「わかった」
三回というか、丁度三つコースをやれば一周するカップレースがあったから、CPU付きでそれをやってみて。
「いや……ボロボロすぎない……?」
「――カップで五回勝負! ここから逆転すれば!」
「いや、今は変わらないと思うんだ……」
「なんで甲羅とかキノコとかバナナとかそんな的確に使えるの!? みんな巻き込まれたんだけど!?」
「いや……京楓って動きがワンパターンだからすぐに読めるなって」
「私が下手だって言いたいのかぁ!」
そりゃ、確かに可能な限りショートカットとかした方がって思っちゃいるけれど。だけど、あんなにピンポイントでアイテムを使われては、どう足掻いても勝てるものではないだろう。
それでも、まさか覚えて数十分しか経ってない暁にすらボコボコにされるとは思ってなかった。ハンデを付けた覚えもないけど、どうにも暁のアイテム運がよかったようには思ったけど。それを抜きにして、ビギナーズラックとは言えないぐらいの勝ち方をされてしまっては。
だけど、暁が突然興味をなくしたかのようにコントローラーを置いた。
「ごめん、別に興が醒めたってわけじゃないんだけどさ。少し疲れちゃったから、昼寝してもいい?」
「あぁ、うん……わかった」
ふぅ、とため息一つついて、暁が腰を上げる。余程私が対戦相手として骨がなかっただろうか。そうだとするならば、私の準備不足だ。
だけど、それを察したのか、暁が徐に口を開く。
「面白かったよ。またやろうね。今は本当に疲れちゃっただけだから」
「うん……」
そしてそのまま暁が自室に戻っていって、私一人がリビングに残される。
本当に、暁はよく寝る。基本的に自室で寝ているのは、母さんに迷惑をかけないようにだろうか。お陰で、暁の布団は万年床になろうとしている。
それにしても。体力は他の女子よりあるというのは自負していて、だけど考えることはどれもこれも直球勝負なことが多い。確かにテニスでもそういわれてたことがある気がする。野々宮さんの動きは予測が付きやすいって。
だから、テニスでもこれでも同じことが言えるのかもしれない。なんなら今度、おば様方にその辺りを尋ねてみよう。いい改善方法が見つかるかもしれない。
でも、今は何より、覚えたてのゲームですぐにコテンパンにしてやられてしまったのが、流石にあまりにも悔しくて。
「――特訓じゃー!」
やっぱり何事においても、基本的に私は負けず嫌いなのだろう。
「折角だからちょっと私に付き合ってよ」
「付き合うって、何を?」
そして更に数日が経った頃、私は暁に絶対負けない勝負を思いついた。
「そりゃぁ勿論、テニスをだよ!」
勿論それは暁の体力作りに役立つものだし、勝負自体は暁が慣れてきてからだ。勝負の前に暁にテニスを嫌いになられても困る。
公園のテニスコートを、一人で借りようとするのは初めてだった。撤収の際に私一人で鍵とかを返すことはあったけれど、いつもはおば様方がそういった手続きを全てやってくれていたから、そういうことをやるのも練習だ。
母さんに頼んで、連絡方法を教えてもらって、予約を一人でして。慣れてなくて手こずりもしたけれど、今やっておけば、後々楽になるだろうと思いながら。
そしてやってきた西院公園は、段々と気温が上昇する中、気持ちのいい薫風が吹いていた。遊具では、私たちより小さい子供たちがきゃーきゃー声を立てながら遊んでいる。
なのに、公園に着いてからというものの、私は冷や汗が止まらなかった。今はおば様方がいない。今は暁がいる。どちらかといえば暁を拾ったその時の方が状況が近くて、辺りは暗くないのに、今『暁と二人きり』だからこそ、暖かさを帳消しにするぐらいの身震いがする。
だって、ここは例のあの人がいたところで。だから辺り一面暗くなれば、またあの人がぬらりと顔を出してきそうで。
「京楓、大丈夫?」
「う、うん、大丈夫っ……」
大丈夫、大丈夫だ。あの後そういう報告は学校にはちゃんとしたし、その後捕まったという話も聞いている。だからあの人が現れるということはまずない。
そう、現れることはない。その一点に気持ちを集中させて、なんとかして心を落ち着かせた。うん、その心配はしなくていいんだ、大丈夫だ。不審者情報は地域全体に回ってるし、類似犯がいたところですぐに誰かがしょっぴいてくれる。危ないことがあった時は、再び暁の馬鹿力に期待するしかないけれど、あの時よりは体力が限界には近くないだろうから、どうにかなると思いたい。
「とりあえずは、これ持ってよ」
「このラケット?」
「そうそう、それで、こうやって構えてさ」
準備体操を終えて、まずは姿勢からだ。姿勢を維持することが、いいボールの打ち返しにつながる、と思ってる。
その上で、まずは見本を見せてあげないと。気持ちよくやっていることを見せるのは、やる気を促すには最大の糧だ。
「このラケットでさ、飛んでくるボールを、こう、スパーンって打ち返すの!」
サーブではなく、その場にボールを放ってそれを打つ。ボールは勢いよくネットを超え、反対側のコートへと重力を持って吸い込まれていく。
「まずはさ、打てるようになってみようよ」
その言葉と同時に、用意していたボールを暁に向けて放る。
「えっと……こう?」
そしてそのボールは、手元がぶれたラケットによって、軌道が逸れて、変なところへとすっ飛んで行ってしまった。コート同士を区切るネットに当たって、そこから90°曲がって転がっていく。
まぁ、初心者だったら誰だってこうなるだろう。正直、それ自体は何もおかしいことではない。実際私だって最初はあぁだったわけだし。
「いいよーいいよー次行ってみよー!」
でも、どうせなら、暁と一緒に楽しめるぐらいにはなりたい。一緒に、コートを駆けられるようになりたい。今は付き合わせてしまっているだけだけど、いつかはきっと。
「ラケットを両手でぎゅっと持って! 軸がぶれないように!」
だから、今の内に暁の弱点、もとい不安なところを見つけ出して、それを徹底的に直す。テニス抜きにして、何が弱いかを見つければ、日常生活でももっと体力が付けられるようになるだろう。
「軸がまだぶれてる! 打つ時に変な反動が付いてるよ!」
だけど、それを繰り返す内に。
「暁……大丈夫……?」
本当に弱っているところはどこなのか、段々とわかってきた自分がいた。
それは、弱っているというより、そもそも今の暁には備わっていない。正直、当初想定をしていなかった部分で、そしてそれは一番面倒なところだった。
「大丈夫だよ。まだまだ動ける。ほらこうやって」
ジャンプをする。少し駆け回ってみる。暁がする行動は、確かに傍から見ても体力的に問題があるようには見えない。この時間みっちり動き回ってこれだけの余力があるのなら、体力面での不安は段々なくなってきていると言ってもいいだろう。ここ暫くで劇的な改善だ。それともそれ自体は元々問題なかったのか。
「うーん、確かにそれは大丈夫だと思う。でも気にしてるのはそっちじゃなくてさ」
そう、基礎体力や足回りはもう大丈夫だろう。そっちに関しては。
「暁、正直に答えてほしいんだけど……ラケット、持ててる?」
「持ってるよ? 何か持ち方変だった?」
「ごめん、そうじゃないんだ。聞き方を変えるね」
じっと、暁の一部分を見る。そこは、本来そこではかかないはずの汗が多分に流れていた。
「そのラケット、『いつまで持ってられる』?」
「あ……」
暁の、その声が漏れるが早いか、カランと、ラケットが自重で暁の手から離れた。暁の手、もとい腕が、ぷるぷると震えていた。
「やっぱり……」
よく箸より重いものは持てないという冗談があるけれど。暁のそれは、強ち冗談でもなさそうだった。
腕の筋肉なんて、確かに常に地面に腕をついて四足歩行しているわけではないけれど、それでも何かを持つということをしていれば、最低限の筋肉はつくはずだ。ここ数日の食事の時、箸を持つのは問題なかったようには思う。だけど、食べること自体は手早く済ませていた。ゲームをするのも……いや、それこそ……長くなかった。
子供というのは、基本的に一日を何かを握って過ごすことが多い。箸もだけど、それより私たちが常に持つものは――鉛筆。
「暁……まさか、教科書での勉強が毎日一時間で終わらせてたのって……腕が……」
「――うん」
「漢字ドリルだけ殆ど手付かずだったのって、わかるわからないというより、やってると時間が特にそれに取られて、そればっかりになっちゃうから……」
「うん……」
その暁の返答は、暁ごと後ろの夕暮れの茜色に溶けていきそうな弱々しいもので、この時になって初めて、暁が抱えていると自認していた『普通じゃないこと』が何かを理解させられたんだ。
「『学園』でも、勉強自体はしていた。だけど、みんな勉強なんて好きじゃなくてね……。一応、テストはあって、それの点数は悪くはなかった。それ以外は、自習を……一日一時間程度だったかな。あとの時間は、みんな好き放題さ。そして俺は……」
「いい! 言わなくていいから……」
思わず、暁の華奢な身体を抱き締める。暁は、そんな私を抱き返してはくれなかった。抱き返せる程の力が残っていないのだから当然だ。
見下ろした暁の腕は真っ赤になっている。その腕の筋肉の弱り方が、どんな生活を過ごしてきたかということを物語っていた。
「それとこれとは話が別だよ……辛いことは思い出さなくていいから……」
「いや……辛くはなかったんだ。だけど……それは京楓とかから見たら、確かに辛いことだったのかもしれないね」
「そう、そうだよ……そうなんだよ……」
今になって、私が暁に何を強いているのかがわかった。これは、あまりにも辛すぎる。
だけど、どこかでやるしかないことであったのも事実だ。放っておけば余計悪化して、そしてその時には誰も助けてはくれない。体力も、勉強も、満足に人並みに教えてくれなかった少年が、どうにか足掻こうとしていて、これだ。
暁が学校へ入るのも遅れていたのはどうしてだろうとずっと思っていて。そっちに関しては、それまで行っていた学校がなかったから、入学までに必要な調整に手間取っていたからだった。だけどそれは暁が悪いわけじゃないし、仕方ない節はある。
でも、暁が危機感を覚える程には、勉強がないがしろにされていたのだと、これでわかった。だから、勉強をするという時に、私が『使っていた』教科書のことを尋ねたんだ。どれだけ進んでいるのかもわからない、ともすれば満足に勉強も出来ないかもしれない。だから、最初から確認をしていたんだ。
だから、母さんは最初あそこまで戸惑ったんだ。そりゃそうだろう、私と同い年なのに、学校すら全く行けてなかった子を迎え入れられるかなんて、咄嗟じゃわかるわけもない。そして、学校になんて行けてなかったと、最初に母さんに言ったのは私だった。
「そういえば、学力が足りてない場合、同い年でも下の学年に編入されることがあるって……」
下の学年に、そういえばそんな子がいた覚えがある。海外にずっといて、半年遅れで学んでいたから、結局学年を落として授業を受けているって。
それを、暁は、最初から理解していたんだ。必死にやらなければ、私と同じ学年にいられないんだと。それをしなければ、また独りぼっちになってしまうと。
今更になって、それにすら気付けていなかった自分を恥じた。まずは私が一緒に傍にいてあげるべきだったのに。何がわからないかということを、私が一緒に確認して上げられればよかったのに。
どれだけの時間が経っただろうか。空は茜から蒼と呼べるような時間へと移り変わっている。だけど、夕暮れが茜色を保つ時間は案外短いからこそ、実はそこまで長い時間じゃなかったのかもしれないけれど、それでもとても長い時間に感じられた。
「――勉強はどうにかしないといけないよね……今家でやってるのは……」
「なんとか頑張ってるよ。一つ一つ、何がわかってて、何がわからないかを全部確認していってる。そうすれば、一緒の学校に行けるようになるまでに、それまでの範囲は全部わかっていられるようになるさ。問題は、授業を学校の時間分、耐えられるかどうか、かな……」
学校の授業を理解できるというのは、私にとってはすごく安心できることだった。とはいえ、やはり今後もそれを一緒に出来ることを出来るようにならないと話が始まらない。
腕の筋肉が弱いということは、すなわち体幹の筋肉も弱いということだ。だから、勉強をするという時も、まず体勢を整えられない。
長時間同じ姿勢が保てないというのは、それこそ学校に入ってからの授業をちゃんと受けられるかにも直結する。それが出来ないのは、真っ先に他の人の『普通』から外れることを意味していて、そしてそれは暁が一番望んでいなかったことだ。
でも幸い、何から確認すればいいかということは、段々わかってきた気がする。そしてそれは、内容的に誰しもが避けて通れない道だった。
結局は基礎練だ。それは私としては一番面白くないもので、だけどそれがあるとないとでは様々な物事の進め方に多大に影響が出てしまう。正直私はやりたいとはならないけれど、でもどうせだから、最初の最初から、一緒に基礎を再確認してもいいかもしれない。
何より暁と一緒に学校に通うためだ。それは何よりも優先されるべきで、そしてそのためなら他を差し置いてもやりきるって、心に決めたんだ。勉強も、運動も、遊びでさえも、全て暁と楽しむために。
「……どうしよっか」
「俺は、同じことをするだけかな。体力は付けないとだけど……」
「あぁ、そうじゃないの。私がどうすべきかなって話」
「京楓は……いいよ、俺が頑張ればいいだけだから」
「そうじゃないの。暁のために、私が何かしなければ気が済まないの。それに、体幹を鍛えるのとかは、二人でやった方が効率がいいよ。私だって、鍛えておけば、それこそテニスとかでも持久力が付くしね」
「……わかった」
でもこれで、何をすればいいかという方向性が見えた。まずは体幹を鍛える。それを何を優先してでも行わなければいけなかった。
そして、勉強だ。幸い、暁は自発的に追いつこうとしてくれている。だから、継続的にそれをやってくれればいい。うかうかしていると、私の方が置いて行かれるかもしれない。
やることは山積している。暁はそれをわかっていた。何も理解していなかったのは私の方だ。
「暫く、鬼無水や大誠とは遊べないなぁ……」
「どうしたの?」
「ううん、なんでも」
単に優先順序の問題なのだけれど。やっぱり遊びたいけれど。それより大事なことなんだよなと改めて思う。今やっておけば、後々楽になる。暁は今やらないと、色々なものが近い内に閉ざされてしまうかもしれない。
仕方ない、とことん付き合おう。これくらいで音を上げてどうする、私。暁のためだぞ、私。
だけど、翌日の暁の質問は、中々に堪えるものがあった。
「ところで、京楓の当時のテストってある?」
「あるけど……見せなきゃ……駄目?」
「どういう問題があったか知りたいから」
「うー……笑わないでね……」
渋々と、当時のテストを持ち出して、そしてそれを恥ずかしがりながら暁に見せる。
そして暁は、果たして、無言でそれを戻して教科書を開いていた。
「何か言ってよ!」
「いや……現時点では俺からは何とも……」
「せめて何か言えー!」
まぁ、見せるのが恥ずかしいという一幕はあったのだけれど。でもそれは、言い換えれば私が恥ずかしいと思う点数を取っているからで、それは勉強さえすれば、恥ずかしい思いをすることはなくなるということだった。
やっぱり、楽しいとか楽しくないとか、そういうことで色々なことを決められる頃合いではなくなってきているのだろう。子供だから許されるというものではないだろうとは思っていたけれど、ずっとどこか甘えてしまっていたと思うのは事実だ。
学年も丁度上がる頃合いだし、きっと私にとってもいい機会だろう。小学生でいる期間も折り返しに入った。それでいて、鬼無水も大誠も、いつも私より先を行っていて、そして暁もそれに合わせようかという動きをしている。
暁がこれだけ頑張っているんだ。一周回って、私が置いてかれる状況になってしまうのは、あまりにも恥ずかしすぎる。
「よーし、頑張るぞー!」
「なんで京楓の方がそんなに威勢いいの?」
「ちょっと……ね」
だって、これまでの私は鬼無水や大誠におんぶにだっこだったから。そのままじゃいけないって、私が暁と出会って強く思ったことだったから。
だから後日、敢えて鬼無水にも大誠にも詳細は話さなかった。強いて言うなら、学校でこんな会話をしたぐらい。
「ごめん! ほんとーにごめん! だから、暫く遊べない!」
「んー、まぁ京ちゃんがそこまで言うのも珍しかったからねぇ」
「それにしても、京楓がそれだけ勉強をしなきゃってなるのは、中々に事情が深そうだね」
「えーっと、それは、事情がありまして……」
「そっか、もしかして、『彼』のことかい」
「っ!?」
「図星だね」
「まぁ、京楓がそれだけご執心なのだから、僕たちが邪魔をしてもいけないね」
「ごしゅーしんってなんだ?」
「……成程、京楓の勉強の機運を削いじゃいけないね」
二人には、生暖かい目で見られたけれど。結局は自分が思い立ってというものではないというのはその通りではあるのだけれど。
よく難しい言葉を使う大誠の言葉を全部理解しようとまでは思わない。だけど、今まで私は追いつけないのは当然だと考えていたんだ。
そんなんじゃ、とてもじゃないけど鬼無水にも大誠にも失礼だ。何より暁に合わせる顔がない。だから、必死子いて私も勉強に身を打ったんだ。テニスと、暁の体幹トレーニングと、暁との息抜きのゲーム以外のほとんどを、それに費やして。
そして、実際に、その後テストの点数が上向き始めたのは本当だ。鬼無水にはどんなおまじないを使ったのって尋ねられたっけ。
それはおまじないなんかじゃない。ただの他人の努力に私が会わせようと思っただけだ。まぁ、その努力に一番近くで触れられるという意味では、おまじないというのも間違いではないのかもしれない。
私は暁のために頑張っていた。そしてそれは間違いなく、様々な物事をいい方向に持って行ってくれたんだ。
そして、それを一ヶ月ぐらい続けた頃。
「えっ、これどうしたの!?」
ある日、学校から帰ってきた自室は、激変していた。物の配置変更は最低限でありつつも、今後の生活が激変すること請け合いの家具が運び込まれている。
「二段ベッドに……勉強机も!? どうしたのこれ!」
少なくとも、私には一切の相談はなかった。そして先にこの状況を知っていた暁も、どこか頭をぽりぽりとかきながら、私を見つめている。
「というか、これまさか、暁が望んで……?」
「いや、別に俺が望んだとか、何か言ったわけじゃないよ。俺にも京楓にもサプライズだってさ。搬入は俺も手伝ったけど」
「へ、へぇー、それにしても、いやはや……」
ずっと過ごしているはずなのに、急な変化に戸惑いを隠せない。部屋の中央にあったはずのちゃぶ台は消え、代わりに『私たち二人』が過ごすための空間と化した物の配置は、まるで客を迎え入れているようだと感じた。だけど、二段ベッドには既にいつも使っていた布団が敷かれていて、それでやっぱりここは自室なのだと認識する。
「というか、暁、よく持てたね……?」
「あぁ、いや、小物しか運んでないし、そもそも机もベッドも業者の人がやってくれた。流石にこんな大きいものをいくつも運ぶことなんて、慣れてないと大の大人でも出来ないしな。二段ベッドは上下段に分けて運び入れたし」
確かに、勉強机も二段ベッドも、二人がかりで運ぶとしてもかなり大変なもので、下手に私たちみたいな子に運ばせるのは危ないだろう。椅子でぎりぎりだ。
「俺も、ちゃんとこれだけのものをどれも運べるようにならないとな……」
「それは、私もかな」
「まぁ……京楓も、その時は、宜しく」
「うん」
そんな機会がいつあるかはわからないけれど。でも、二人して、共同作業でそういうことを出来る日が来るとするならば、それはとてもいいことなんじゃないかって、この時は思ったんだ。
というか、勉強机は二つ。そして二段ベッド。すなわちそれは、暁がこの家にいていいということを、正式に認められたように気がして。
「よかったね……暁……」
「どうしたの、京楓?」
「――なんでもない」
つい、私の方が涙ぐみかけてしまった。別に母さんとかに弟か妹かをせびったことはなかったけれど。でも、とても歪な形とはいえ、家族が増えるってこういうことなんだと、幼心ながらに思った。
いけないいけない、涙ぐんでいる暇はない。取り急ぎ、決めることを決めなくてはいけない。
「勉強机はどうしようか。箪笥の位置がここで、ベッドがここだと……あちゃぁ、机を横並びにすることは出来ないんだね」
「でも机を横並びにすると、確かに悩んだ時はすぐに聞けるかもだけど、聞くを通り越して覗かれそうな気もするから、それでいいかなぁ」
「思考読まないでよ!」
「ほんとにする気だったのかよ!」
しまった、墓穴掘った。今から言い繕ってもそうはしてくれないだろう。どの道一人じゃ出来ないし。
「まぁ、どの道机はもう配置されてるし、動かさない方がいいよな。どっちを使う?」
「それじゃぁ私ベッド側。それでもいい?」
「わかった。俺も拘りないからいいよ」
ということでどっちの机を使うかは決定。問題は、二段ベッドの位置。
「ベッド! 私上がいい! でも暁も上がいいよね!?」
「――俺は、こっちかな」
「下をわざわざ選ぶんだ? 珍しいね?」
二段ベッドなんていったら、使ってると聞いてる子たちは、みんな上段の取り合いだという。少なくとも、一組の大蜥蜴兄弟はそうだという話をしていた。
そりゃぁ、私も上段がよかったから、それならそれでいいんだけど。
「でも、どうしてわざわざ下段を?」
「だって、こっちの方が少し暗いじゃん。だからなんだか落ち着くんだ。ずっと明るくないところにいたから」
そして、それを聞いた私は。
「――何それ」
思わず、そう零していた。
「暗いところの方がいいの? でも暁、そういうところにいて、そこから抜け出したいって願ってたんじゃなかったの?」
「きょ、京楓……?」
「いいよ、だったら暁が上に来なよ! というか来てよ! そういうところから変わってこうよ!」
「そ、そうじゃなくて! 俺はこっちがいいの! 本当に! 『学園』のことは関係ない!」
「本当にぃ……?」
「そんなジト目で見られても……」
そうは言ったって。どうにも暁が嫌な思い出に囚われているようで、私としてはあまり気分のいいものではなかった。
「男子ってさ、どこか狭いか暗いかするところが好きなんだよ。よく秘密基地とかを作って遊ぶのなんかそういう流れ。勿論秘密の場所って言うのもあるけれど、そこまでのものは作るつもりはない。それでも、少しだけ薄暗い場所として、ここがいいなって思ったのは本当だから」
「じゃぁ……今はそれ信じる……」
「ずっと信じてくれて問題ないんだけどな……」
このままだと堂々巡りだ。だから私は、これ以上の追及をやめる。それに、暁が言うこともきっと嘘ではないんだろう。なんなら今度大誠にでも聞いてみよう……といってもあまり参考にはならなさそうだけど。
とはいえ、もしかしたら暁もその内上段がいいと言い始めるかもしれない。そしたら、現時点で上段がいいと言っている私と衝突することになってしまう。とするならば。
「多分さ。その内、自然とどっちの方がいいってのが決まってくると思うんだ。だったら、それまでは時折順序を変えるというのでもいいと思うんだ。そうだなぁ、勉強で暁が勝った時は、ベッドの場所を譲る。それでどう?」
「いいよ。それならそれで行こう。別にそれで手を抜くことはしないし、それぐらいの方が気分転換にもなるだろうから」
「決まりだね」
実際、それくらいが丁度いいのだろう。二人ではこんな狭い部屋だけど、時折、寝る場所だけでも、視界を変えた方が、何か見えるものもあるはずだ。
――あ、いいこと、思いついた。
「でも、今日は最初だから、暁、上来てよ」
そう声をかけて、私は一旦下へと降りる。
「えっと……それじゃぁ……お言葉に甘えて……」
恐る恐る暁が梯子を上って、暁がベッド上段に腰を下ろす。そして、そのまま暁が横になったのを確認すると。すぐに梯子をよじ登って。
「どーん!」
「わわっ!?」
そのまま暁の隣に滑り込んだ。
「どう? 驚いた?」
「滅茶苦茶びっくりするわっ! 突然どうしたっ!」
「やっぱりねー、こっち譲りたくないなーって思ったから」
そのまま背中に抱き着くようにして暁をひっ捕らえる。初めて抱き着いた背中は、まだ私とそう変わらない大きさで、父さんのそれとは大違いだった。
「――まぁ、多分、暁は遠慮してくれてるんだと思うんだけどさ。本当に、気にしなくていいんだからね。少なくとも私は、大家の娘だからと言って、大きい顔を暁にしたいとは思わないから」
「そういうことではないよ。それは本当。まぁ確かに薄暗い方が落ち着く、というのは本当とも嘘ともいえるんだけど……」
そのまま、少しだけ暁が言いあぐねている。本当とも嘘とも、というのが気にはなったが、そこは追及をしないことにした。さっきは突然の背中への衝撃にびっくりしていた暁の心臓も、段々と落ち着きが見られるようになってきている。
「でも、あれくらいの空間が落ち着くのは本当。それに、天井の事まで考えると、上より下の方が広いだろ? そうすると、段々身長が伸びてきた時に、下の方が頭を打たなくて済むかなって」
「私が暁より大きくなったらどうするの?」
「それは……その時はその時じゃない? そっちの可能性は考えてなかった」
成長がどうなるかなんてわからないし、結局暁より私の方が身長が高くなる可能性は勿論ある。というより、女子の方が先に成長が始まるようだから、きっと一時的、数年間はどちらにせよ私の方が身長は高くなっているはずだ。
まぁ、それは今考える事ではない。まだ、暁が落ち着くまでは、遠い将来より近い未来が大事だ。
「――今日は、一緒に寝ようよ、ここで」
少し、うつらうつらとし始めていた暁が、こくりと頷いたのがわかって、了承の意を得たと理解する。少し後ろを振り返ると、床から見上げるのではなくて、二段ベッドの上段から初めて見下ろした部屋は、存外に小さく見えた。
「ねぇ暁……この町には、慣れた……?」
「どうにか、かな……みんな京楓がいたからどうにかなったようなものだよ……」
私が出来ていることなんて、そんなにない。確かに鬼無水や大誠と遊ぶ時間は明らかに減っているけれど、それでもそれ以外は結局自分がやりたいことをやっているようなものだ。
それに、鬼無水や大誠とは学校でちゃんと話せているし、それ以外の同級生とも、まぁそこまで仲は悪くない、つもりでいる。友達は多いに越したことはないが、何より仲が悪い人が少ないことの方が大事だと思う。
それでも、鬼無水と大誠に暁を紹介するまでは。ちゃんと学校に行く日が決まるまでは。学校の話をするべきではないと思った。変に期待だけ抱かせても仕方ないし、それに話せばきっと私の『ボロ』が出てきてしまう。
「頑張ってるよ……私なんかより、何倍も、暁は……」
それは、私から不意に漏れた母性だったのかもしれない。口にしてから、それはとても小さい子をあやすような、それこそ母さんのもののようだと感じた。
「暁……?」
すやすやと。気付けば暁は既に寝落ちていて、どんなに私が声掛けをしても、望む答えはすぐには帰ってこないだろうとわかった。
「かわいいな……」
それとも、いつかかっこよくなるのだろうか。かっこよくなってくれたら……そりゃ、嬉しい。
だけど、そうしたら他の人が放っておかないかもしれない。周りの女子が。何より鬼無水が。
「――でも、どうなろうと、暁の人生だもん、暁が望む道を進ませてあげなくちゃね……」
まだ、誰かに取られたとしても。家族として、私の一番近くにいるならばそれでもいいと、私は本気で信じていて。誰かに靡けば、暁にとっての一番は私でなくなるということからは目を背けて。ただ家族でいられるならと。この時、私はそれだけを願っていたんだ。
結局、暁は私を選んでくれたけれど。この時は嫉妬も何もなく、暁の幸せを最優先だと考えて、それと私にとっての幸せが別だと思い込んでいた。それが一緒のものだと気付くのは、まだだいぶ先だ。
そんなこと、この時点では流石に考えられるわけもなく。何より、私も睡魔に襲われつつあったから、そんなことまで考えていられなかった。
「おやすみ……」
それでも、暁の眠りが穏やかなことに安心して、つられて私も暁の鼓動に落ち着いて――。
この時の眠りは、これまでで一番穏やかだったように思う。
それからの暁と私は、必死のそれだった。ずっと私と二人三脚で、数ヶ月の間。
「体幹を鍛えるのに二時間! 勉強で二時間! それ以外の運動で二時間!」
「そんな無理することないって! 運動それだけしてるとバテるから!」
「だったら、どこをどう変えればいいと思う? 京楓の時間も取っちゃうんだし」
「体幹が出来たら、その分勉強に回してもいいんじゃないかな。不安なところはやっぱりあるんでしょ?」
「そうだな……とにかく、鉛筆を持てる時間はどんどん増やせるようにしたい。だからまずは体幹だ。その次に勉強」
「そうだね、それがきっと一番いいと思う。体感以外の運動は、何かしらで身体を動かしていれば自然とついてくると思うから」
「じゃぁそれで行くか! まずはそれこそ溜まっちゃった漢字ドリルからかな……」
「じゃぁ私はその間にゲーム特訓してる!」
「あっそれはずりーぞ!」
結局のところ、やっぱり勉強量があまりにも足りてなかったことも判明した。そうだろう、施設でずっと自我が抜けていたならば、勉強すらも満足に出来ていなかったはずだ。
「あれ、ここって……あぁ……うわあああああぁぁぁ……」
「ど、どうしたの暁!? 何かあったの!?」
「――ここ、『事故』の直前までやってたところ、だったから……」
「……よしよし、辛かったよね」
「うん……」
実際、暁の一年落として学校生活を送らせることも検討された。だけど、それには私が反対だった。何より。
「俺は、絶対に京楓についていく! 何が何でも歩調を合わせる!」
暁がこういって聞かなかったのだ。
「はーい、それじゃぁ、足上げてー」
「うっ……逆立ちはやっぱりまだ腕も足もきつ……」
「これが一番きついだろうからねぇ。私もずっとは中々厳しいよぉ」
「というか……足、京楓の手が、くすぐった……」
「うわっ、暁っ、そんなじたばたし、うわわっ!?」
「っつー……、ごめん、京楓、上に倒れこんじゃったけど、怪我ないか……?」
「それは大丈夫……。でも、これまでで一番長かったよ! 腕の力も付いてきたって!」
「それならいいけど……でも、それより、この格好……」
「――それは見るなぁっ!」
それは、暁の矜持だったのだろう。何より、何事ももう置いていかれたくないという、何かに急かされるような、強迫観念にも近い何かが暁を突き動かしていた。
「えっ!? なんで京楓がお風呂に……えっ!?」
「わ、私も母さんに言ったんだけどさ……二人で入ってきなさいって、なんでか知らないけど……」
「そ、それで京楓はいいの!? 流石に今から男女一緒にっていうのは無理がない!?」
「よくない恥ずかしい! でもどうせ入っちゃったんだから暁の身体洗う!」
「いやいやいやいいからそこまで! それくらい自分で出来るから!」
「どの道入っちゃったからもう一緒―っ!」
「危ない危ない危ない頭打つから暴れるなー!」
「暁が素直に話聞いてくれればいいんだー!」
「じゃ、じゃぁ背中流して……俺も京楓の背中流すから……」
「う、うん……宜しくお願いします……」
「……そんな三つ指付かなくても」
「だってぇ……勢いがないと……うぅっ……」
「とりあえず……お願いします……」
「えっと、それじゃぁ……やるぞ……」
「うん……痛い痛い痛い! それは強すぎ!」
「あっ、ごめん……じゃぁこれくらいか……?」
「うんこれくらい……ありがと、それじゃぁ交代」
「え、えぇっ!? 私はいいよ!」
「そう言ってさっき拒否しようとしたのに押し通したのは京楓でしょ!」
「じゃ、じゃぁお願いします……」
「――こんな感じ……?」
「あ、うん、丁度いいかな……」
「よかった……じゃぁ俺はこれくらいで……」
「湯舟浸かってないでしょ! 入る入る!」
「湯舟まで一緒に!?」
「はい暁はここ! 私は後ろ向いてるから!」
「……本当に入っちゃったよ……」
「うう……何やってんだろ私……」
「い、勢いが大事だよな、うん!」
「そ、そうだな! あ、でも……」
「どうした……?」
「ごめん答えたくなかったらでいいんだけど……」
「うん……」
「妹さんとは、お風呂、入ってたの……?」
「本当に小さい時にな……。本当に、ずっと小さい時に、両親のどっちかと三人で、だ……」
「――そっか……ごめんね……」
「いや……そんな気にしなくていい……」
「そっか……」
「まぁ……やっぱり、京楓も女の子だよなとは、思ったかな……」
「あ、暁も、すごく男の子だって、思った……」
「そっか……」
「うん……」
「えっと……」
「あー……」
「……のぼせる……」
「私、も……」
実際、暁一人を別の学年に一人放り出すのは忍びなかった。これから紹介する鬼無水と大誠と、そして私がいて初めて、暁は満足の行く生活を送ることが出来る。まず暁からそんな雰囲気が見え隠れしていたし、何より私がそう思い込みたかった。
「それじゃぁ、学校で会ったら、その時はその時で」
「うん。テスト頑張ってね」
学校へは、編入という形になりそうだったから、テストを受けることになって。
「それで……テストはどうだった……?」
「うん、多分大丈夫だと思う。これまでやってた問題より簡単に見えたぐらい」
「よかったぁ~! これで暁も一緒に同じ授業受けられるね!」
「ちなみにテストはこんな問題だった」
「これ……私がわからないんだけど……」
そして、そんな暁が頑張る姿に、気付けば私が救われていたんだと思う。
「明日……緊張するなぁ……」
「俺がじゃなくて、京楓が……?」
「だってぇ……ずっと二人と遊ぶこともしてなくて、見捨てられてないか不安になっちゃったんだもん……」
「でも、元々京楓に対しては、二人の方から来てくれたんだろ? だったら、そんな薄情なことはないだろ」
「そうだといいな。学校は、楽しみ?」
「正直わからないかな……久しぶりだから、きっと感覚取り戻すまでに時間かかるや……」
「無理はしないで、私に伝えてね。多分だけど、明日紹介する二人も支えてくれると思うから……」
「そっか……それなら気にしすぎる事もないのかな……」
「他に……特に心の準備とかない? 大丈夫?」
「流石に今更だなぁ。だって、そんな時にずっと困らないように、京楓が色々してくれてたんだろ?」
「まぁそうだけどさ……それでも、暁としては何か不安なことないかなって……」
「まさか! 体力も勉強も、京楓がいなければここまで追いつけることなんてなかった! なのにそれは謙遜しすぎだって! 明日も明後日からの学校も、ばっちこいだ!」
「そ、それならいいんだけど……」
「――本当に、ありがとうな」
「い、今更何を……」
「本当に命の恩人だから、かな……」
「う、うん……」
「――あーおしまい! 感謝は本当だけど全部が全部伝えるのはそれはそれで恥ずかしいっ! 火を噴くっ!」
「ええー、そんなにジタバタすること……?」
「することだっ! またの機会に絶対伝えるからっ、覚悟しとけっ!」
「覚悟いるの!? そんなに!?」
「やっぱり、京楓と巡り合わせてくれたことだけで、日本で一番ラッキーな存在なのかもしれないな……」
「ん? 何か言ったか?」
「――いや、なんでもない」
そして、やっと鬼無水と大誠に暁を紹介出来る日。
「俺は日本でいちばんラッキーな男子、東雲暁だ!」
その一言だけで、とても私は救われたような気持ちがしたんだ。
「本当にさ、あの時の俺は、日本で一番ラッキーな存在だったんだよ。それだけは、胸を張って言える」
それが、俺がみさきと大誠に出会うまでの話。それは、正味三ヶ月程度のお話で、だけどともすれば今までの人生で一番濃度が高かった時だったのかもわからない。
傾向は違えど、確かにこの時は京楓とずっと過ごしていて、そしてこの間だけは、真の意味で二人きりの世界だった。
「――私だって、暁と出会わなければどうなってたかもわからないって思うんだ」
そして、俺と育たなかった京楓という図を考えられないのは、自惚れなのだろうか。家族として、俺が京楓の一番の存在であり続けられたと断言できるからこそ。
「暁を拾っていなければ。変なおじさんに邂逅することはなかったと思う。さりとて、テニスにここまで本腰を入れられる機会もなかった。そして、暁と一緒に頑張れるという目標が立てられなかったから、私一人だけ英彩学院には落とされていたような気もしている。そうしたら、鬼無水とも大誠ともいられなくて、結局私は独りぼっちだったんだ。暁を拾って、全てが回り始めたんだ」
正直、俺がいなかったとしても、京楓は京楓で宜しくやれたんじゃないかとは思うこともある。だけど、その図を、俺が考えたくなかった。そしたら、きっと俺以外の誰か男に見初められていただろう。その可能性を考えるだけで寒気がする。
「だから、私の方が暁に感謝しなくちゃいけないと思うの。そうしなきゃ私の気が済まない」
「いやいや俺の方が……いや、今はやめよう、後からでもそれは言える。まぁ、それを踏まえても……」
だから、あの時京楓に巡り合わせてくれた運命こそが、俺にとっての一番の幸運で。
「京楓二十歳の誕生日に、俺がラッキーと言い始めた理由の話したじゃんか。あれ、俺からすれば、本当にそうとしか言えなかったんだ。京楓は、全てに於いて付き合ってくれた。嫌な顔一つせず、ずっと傍にいてくれた。それだけで――」
そしてそれは、日本で一番ラッキーだと自認してもし足りないぐらいには本当の幸せだったのだと理解するのに、時間はかからなかった。
「思い返してみればさ、俺が一番ラッキーだったって言いたくなったのもわかるだろ?」
「わからないよ……そこまでのつもりはなかったわけだし……」
「まぁ、わからなくても、俺はずっと言い続けるけどな」
「何それ……ちょっと恥ずかしいな……」
そう口にする京楓は、だけどどこか嬉しそうに身を悶えていた。
「京楓、可愛い」
「今それを言うなぁ……」
「可愛いよ」
「やめてぇ……」
あぁ、可愛いなぁ。そして本当に綺麗になった。それまで伝えたらパンクしちゃうだろうから、それぐらいにするけれど。
「暁は……かっこよくなったよ……すごく……」
「お世辞は大丈夫だぞ」
「なんでそうなるの!?」
いやだって、そんななれた自覚なんてないし。ずっと、誰かにおんぶにだっこで、自分一人じゃ何かを成し遂げられたことなんて殆どない人生だ。
「暁は……もうちょっと素直に受け取ってよ……可愛い彼女がそう言ってるんだぞ……」
「うっ……悪い……」
あぁ、こういう形でカウンターを返されるとは。最近、こうやって京楓から不意打ちで赤面必須の言を投げつけられることが増えた気がする。
今だけは、こうやって喜んでいて、そして懐かしくなっていてほしい。この時の俺たちは、家族になるための足跡をただ辿るだけで、そして究極的に二人きりの時間だったんだ。
「暁は色がない世界からやってきたんだよね」
「そうだな、『学園』は、色がなかった。俺の目が曇っていただけではあるはずなんだけど、全てが色褪せて見えて、だからこそ、京楓は俺が久々に見た鮮烈な『色』だったんだ。色なき風に乗ってきたはずなのに、辿り着いた先は綺麗に彩られた世界だった」
「私にとっても、そうだったんだ。だからこそ、彩られた世界こそが幸せであると知ってしまったんだよね、私は。色褪せた世界も知らなかったのに」
それは率直に幸せだった。幸せであると知ってしまった。一度幸せを知ってしまえば、何かあった時の記憶が、『あの時と比べて幸せか否か』という思考に染まってしまう。そして俺は、かつてより幸せになれた俺という感覚を身に付けてしまった。
そして、そこから先は。
「ここから先も、まだずっと話すのか?」
ただ、幸せだけが待っていたわけではないと、二人して知っている。
「――話すよ。だって、今日の私は、かつて私が何を考えていたか、全部話すって決めたんだもん」
「でも、そこからは……」
「わかってる。というより、それこそ暁にこそ辛い思いをさせちゃうかもしれない。だから、暁が嫌だというのなら、私はここで止めるけど」
「いや……京楓が続けたいと思うなら、続けてくれ。俺は大丈夫だから」
「わかった」
きっと、ここで回想が終われば、それは間違いなくハッピーエンドになるのだろう。拾った女の子も、拾われた男の子も、すくすく成長して今を迎えますとだけ言えれば、どれだけいいことか。
だけど、まだ、話はここで終わりじゃない。ここからは、自他ともに認める辛い話になる。
それを京楓がどう思っていたかは俺だって初めて知るんだ。だって、一時期の京楓は、俺が、俺こそが手を差し伸べるしかなかったんだから。
「続けようか。ここからは――私が暁に、暁にこそ救われ続けた話だよ」