──浮遊感が全身を襲った。
中学生の頃に一度だけ乗ったジェットコースターのそれが一瞬頭をよぎるが、それとは比べ物にならない不快感だ。安全が保障されていないだけでこんなにも違うのかと、眼前に迫る地面を見ながら俺は呑気に考える。フィクションなどで聞く走馬灯のようなものは見ることはなかった。まぁ、見たところでそれはろくでもないものであったから見ない方がありがたかったが。せめて、死ぬ時くらいは楽しいとは言わないまでも余計な苦しみを味わいたくはなかった。
やっぱり痛いのだろうか。
もうどうしようもない状態になって浮かんできたのは、そんな陳腐な疑問だった。
問うまでもない。痛いに決まっている。高度十五メートルからの落下に痛みが伴なわない筈がない。いや、痛みを感じることもなく逝けるのだろうか。こういった事は経験したことがないからわからない。それでも、あまり痛くなければいいなとただ思う。
そんなくだらない自問自答を繰り返していた、その時だった。痛みなど感じる前、身体が地面に叩きつけられる前に俺は意識を失った。
そして、意識が覚醒する。
何故、という疑問で脳が埋め尽くされる。それは覚醒するはずのない意識が未だにあったからだ。
死に損なったのか。十五メートルの高さから頭を下にして落下したにも関わらず死なないとは、自分は運が良いのか悪いのか。
しかしそこで俺は違和感を覚える。
──身体が全く痛くないのだ。死にかけているにしては、自分の身体はあまりにも普段通り過ぎる。本当に万が一、自分が飛び降りた後に誰かがそれを見つけ、病院に搬送したとしても骨の十数本は折れているはずなのに、その痛みすらない。ギプスが嵌められているといったこともない。
拭いきれない違和感を抱えたまま、俺は目を開ける。
──知らない天井が広がっていた。
否、知らない天井どころではない。完全に自分の知らない場所に俺はいた。
どこかの客間であろうか。小市民の俺が普通に暮らしていたのなら一生縁のないだろう巨大なベッド。ベッドの名前などには疎いため、この大きさのベッドが何と呼ばれているかなど知る由もないが、俺が五人並んで寝ても余裕があるほどに広さがある。
天井にはテレビの中でしか見たことがないような絢爛豪華なシャンデリア。だがそれは俺が知っているシャンデリアとは微妙に異なっており、半透明の水晶を光源としているようだ。今は明るいため、その役割を果たしていないが。部屋を見渡してもスイッチのような物もない。どのようにON・OFFを切り替えるのだろう?
部屋の広さも二十畳を確実に超えており、ここが病院でないことは明白だ。こんなファンタジー趣味の上流階級が住んでそうな病室があってたまるか。
「本当にどこだ? ここ……」
掛け布団を捲り、よっこいせと大きなベッドから降りて自分の身体をチェック。着ているのは学校の制服ではなく、白いバスローブだった。その下には下着を除いて何も身に着けていない。そして外傷及び傷跡はなし。
窓にかかっていたカーテンを開ける。そこに広がっていたのは広大な緑の自然だった。どこまで広がっているのか予想もつかない森林の奥に、この建物は建てられているようだ。
あと駐車場や、馴染みのあるビル群もここには影も形も見えない。一層、ここが何処なのか、何故自分がこんなところにいるのだろうかという謎が深まる。どこかのアホが付くくらいの田舎かそれとも──、
「……は?」
思考を続けようとしたところで、俺の視界の先でいるはずのないものが空を飛んでいた。
見覚えはある。しかしそれはあくまでも、アニメやゲームを代表するフィクションの中であって、日本には──いや、世界中のどこにもいないはずの生物だった。赤い鱗を持ち、翼を広げてこの大空を走破せんとする巨大な怪物。炎の息を吐き、その膂力を以て立ちはだかるもの全てを蹂躙する神話の頂点に座す暴力の象徴。
ドラゴン──その中でも
「いやいやいやいや……」
なんだあれは?
目の前の光景が信じられず、思わず頬をつねるがしっかりと痛みはある。どうやら夢ではないらしい。……夢だと信じたかったのか、現実であってほしいと思ったのかはさておいて。
──あのシャンデリアを見たときから薄々そうなのではないかと推測していた。それでも証拠が足りなかったために受け入れることはできなかったが。そうやら思考の隅にあった、一番あり得ないだろうと思っていたものこそが、現実のものとなっていた。
「異世界転生……ってやつなのか?」
あまりにも信じるには馬鹿らしく、妄想と現実の区別もつかなくなったのかと万人から誹りを受けても仕方がないが、それでも目の前の現実を否定することは不可能だ。あの自分の知識に類似する鉱石が一切見つからないものを光源としているシャンデリアに、先ほど俺の視界の先を飛んで行った翼竜。それに今感じているものすべてが、これは現実であるとやかましいほどに伝えてきている。
某小説サイトでひとつのジャンルを築き上げた、異世界転生。または異世界転移。俺の場合はどちらかはわからないが、それでも自分が地球とは異なる世界にやってきたことはほぼほぼ間違いないだろう。あとはこの屋敷の主人が自分に対して友好的とまでは言わないまでも、敵対的な態度を示さない事を祈るばかりである。
自分には(自分の認識できる限りではという枕詞が付くが)、そういうものにありがちな反則級の強さを誇る特殊能力など備わっていない。仮に備わっていたところでそれの使い方は一切不明であるため、為す術なく殺されるだろう。……いや、そうなれば生きた時間が少し長くなっただけということになるだけであるから、さしたる問題はないか。
それにしてもつい先ほどまで死ぬことばかり考えていたのに、もう生きることに執着しているとは。自分の事ながらほとほと呆れる。
この場所に居続けることも考えたが、人が来ると決まったわけでもない。放置され続ける……というのはないだろうが人が来るまでの数時間、テレビも本もない空間で時間を過ごすというのは……まぁ、悪くはないが、それでも時間を無駄にするというのは俺の精神衛生上よろしくない。『時は金なり』という言葉もある。無為に時間を過ごすよりは現状把握に努めた方が良いだろう。
これまた美麗な装飾が施された扉を開ける。
その先に待っていたのは、これまた豪勢な廊下だ。家や学校のそれとは比較にならない広さと美しさを誇っている。窓の一つとってもそこにかけられている値段が違うと、素人目に見てもわかった。
そして──、
「……あら、目を覚まされたのですね」
廊下の先にいたのはクラシックなメイド服を纏った侍女だった。黄金をそのまま溶かしたような美しい髪に翠玉の瞳を持ち、彼女の肉体は男性が百人いたら百人が振り返る程に魅力的で、彼女から放たれる言葉は俺の心に、自然と染み入っていく。そして彼女の美貌に釣られ、一番気付かなければいけないことに俺は今更気づく。
彼女の頭には羊の頭にあるような巻角があった。しかもそれはコスプレのような作り物めいた気配はなく、それが彼女から生えた角なのだと一目見ただけで分かった。
「角……なんで」
「え? ……あぁ、そうでした。あなたは《
「《客人》……?」
「《客人》……《迷い人》などとも言いますが、あなたのようなこの世界とは異なる世界からの来訪者を、この世界では《客人》と呼称するのです」
「異世界召喚者……《客人》はそこまでこの世界にやってくるものなのでしょうか?」
「えぇ。なんの突拍子もなくこの世界に迷い込むこともあれば、《客人》召喚の儀に巻き込まれる方もいらっしゃいます。この世界にも《客人》の影響が多々残っていますよ。あなた様は……」
そこで金髪のメイドの口が詰まる。それを見て、俺はようやく気がついた。そういえばまだ名乗っていなかった、と。
「えっと、
「ユウキ様ですね。私はアンナと申します。種族は悪魔族の《夢魔》。この屋敷にてメイドを勤めさせていただいております。……さて、立ち話もほどほどに、ユウキ様が目を覚まされたとなれば、主にご挨拶と行きたいところですが……体調は万全ですか? 身体に違和感などは……」
「身体は、はい。問題ありません」
「良かった。それでは参りましょうか。こちらです」
そう言って金髪のメイド──アンナさんは俺を先導し、屋敷を歩いていく。階段を降り、外に出て、庭園を通り過ぎ……と、広大な屋敷を一切迷うことなく進んでいく。
「本当に広いですね……」
「そうですね。ここの主──レヴィア様は魔王軍幹部の中でも随一の実力者ですので。それ相応の特権が許されておいでです。この広大な屋敷も、その一部ですね」
「魔王軍幹部……?」
聞き流せない言葉が急に出てきたのだが。
魔王。それはファンタジーならお約束の主人公の敵対者。……いや、最近は主人公がそれになる事も多くないのだったか。ともかく前述したお約束の中に、『作中最強』級の実力を持っていることが挙げられるだろう。そんな魔王の幹部……?
「ということはそのレヴィア様という方も相当強いのでは?」
「それは勿論。《
折角ですから、あの方の部屋に着くまでの間に少し説明しましょうかとアンナさんは言って、雑談を交えながらの講義が始まった。
「《夢魔》」は戦えないんですか?」
「戦えない、ということはございません。しかし我々の得意とすることは相手に夢を見せたり、欲情させたりといった所謂搦め手でして。殴る蹴るといった直接戦闘は数ある魔族の種の中でも最弱と言って良いですし、魔力量、魔術の行使は平均の域を出ません。優れているのは先ほど説明した搦め手と、容姿くらいの物ですね」
「しかしレヴィア様は例外だ、と」
「その通りです。まず彼女は普通の《夢魔》ではなく《
「埒外の力というと……具体的には?」
「まず《夢魔》の強みは搦め手と容姿と先程説明致しましたが、それらが私達、普通の《夢魔》とは比べ物にならず、魔力は尽きることなく、魔術も全魔族の中でも随一の力を誇ります。これがひとつ。そして何よりも埒外の力は……あの方の異名となっている権能《万魔の御母》です。その力とは……」
彼女が一息ついた。
「魔力を使用し、竜や悪魔、その他の魔獣を産み落とし、それらを統率する力です」
「それは……」
竜や悪魔といった存在は、俺も知っているしその強大さはフィクションなどを通じて理解している。魔獣──魔物などと呼ばれるそれは、正直ピンキリだろうけれど彼女の説明を聞いただけで、その力がどれだけ強力かは理解できようというものだ。
何故なら──、
「魔力が残っている限り、ノーリスクで戦力を増強することが出来るってことですよね? そしてその魔力は尽きることがない、と」
その戦力は実質無限だ。しかもその魔獣達を構成しているのが彼女の魔力だというのなら、彼女がいる限り兵役を課す必要もなく人的被害も抑えられ、相手はその限りではない。
いくら彼女が産み出した魔獣を倒そうが、彼女は痛くも痒くもなく再び産み落とせばいいだけ。だというのにこちらはそういうわけには行かず被害だけが増えていく……。
「もう反則では?」
「はい。反則級の強さです。それを象徴するような戦いがありまして……五年ほど前でしたかね、とある国の軍──およそ10万がレヴィア様の領土に侵攻してきまして、あの方は単騎でそれを壊滅にまで追い込みました」
「……ちなみにその国は?」
「そのままレヴィア様に落とされ、滅亡。現在は魔族領として併合されております。それもあってか人間にはその美貌と為した事から《傾城傾国》と呼ばれているそうですよ」
傾城傾国(物理)。
単騎で国を落とすとか、漫画の主人公でもそうそういないが? 一体どのような人なのか……いや、悪魔だったか。
などと話している間に、彼女の歩みが止まった。
そこにあるのは、自分が寝かされていた部屋よりも一層豪華な両開きの扉だった。
レイラさんは、こんこんと扉をノックする。
返事はすぐにあった。
「──何かしら?」
その声を聞いた瞬間どくん、と心臓が跳ねた。
まるでずっと恋をしていた人にこれから会うかのような、そんな恋情が心の底から込み上げてくる。
心臓は早鐘を打ち、体温は自覚できるくらいに上がっていく。
早く彼女に会いたいと、そんなわけのわからない衝動が心の奥から込み上げてくる。何故だ、という疑問もそんな恋慕に塗り潰される。
「……ユウキ様?」
「あ、いえ……大丈夫です」
アンナさんが心配するようにこちらを覗き込んでいた。
それに俺は頭を振る。ノックしたにも関わらず扉先の女性──レヴィア様を待たせるわけには行かないし、アンナさんは通常の仕事を一旦置いておいて、ここまで案内してくれているのだ。これ以上時間を割いてもらうわけにはいかない。
「そうですか。……レヴィア様、アンナです。《客人》の方が目を覚まされましたので、ご案内させていただきました」
「わかったわ。入ってきて」
「失礼致します」
彼女はそう言って扉を開けた。