自分にとってレヴィア・ルクノラクスという女性は命の恩人である。それが例え人間をやめるようなものであり、尚且つ自分に了承もなく事後報告であったとしても(そも自分はその時には死んでいたのだから、許可の取りようなどないのだけれど)その事実は決して揺るがない。むしろ、自分を異世界に召喚してくれた時点で感謝の念しかない。
故に彼女の願いならばどんな事でもやってやる、という気概に嘘偽りはなかった。痛みを伴うようなものであっても、肉体を酷使するような重労働であったとしても、である。
だというのに実際はどうだ。予想外のところからぶっ刺された。
……待て、落ち着くんだ兵道悠貴。深呼吸をして呼吸を整えろ。自分の聞き間違いだという可能性も、まだ捨てきれないのではないか。
「……申し訳ありません。よく聞き取れなかったので、もう一度言ってもらっても構いませんか? 俺に何になれ、と?」
「私の
──よし、現実を受け止めろ。俺の聞き間違いではなかった。
番。それは二つの物を組み合わせて一対となるもの。特に雄と雌を指す言葉だ。
「それって具体的に何をするんですか……?」
「そうね……その大方は肉体的接触かしらね。手を繋いだり、抱き締めたり、私と一緒に寝たり、あとは……その先とか?」
彼女の赤い瞳が蠱惑的な光を放ったと錯覚した。しかし、自分を見つめるその視線はある種の熱を帯びたことは間違いなく、その瞳は──獲物を見つけた肉食獣のそれだった。
それに俺は寒気と同時に、確かな胸の高鳴りを覚えた。
「なんてね。流石に初日からそこまでは飛ばさないわ。それに君が聞きたいのは、どうしてそんなことをする必要があるのか、でしょう?」
「えぇ。まぁ……」
「じゃあひとつに聞きたいんだけど、君の持つ《
「えっと……」
《夢魔》のイメージ……か。
俺は彼女に「実際にどうかはわかりませんけど」と前置きしたうえで続ける。
「男性の場合はインキュバスと呼称される悪魔の一種で、人にその……淫夢を見せて相手の精力を吸収したりするくらいですかね。あと、ここに来る前にこの世界の《夢魔》は《
「そうね。満点よ、ユウキくん。それで、ここからが話の肝なんだけど……私、というよりは《大淫婦》にも弱点があってね」
「弱点……ですか?」
全く想像できない。
話を聞き、そして彼女の力を味わった俺からすれば、彼女に不可能などないと思わせられる。
「そう。それはね……活動に必要な精が普通の《夢魔》よりも圧倒的に多いの。数千人の精を空にしても足りないくらいにね。その上、番以外の人間・魔族から精力を吸い取る……《
戦うことを一切考慮せずに、ただ過ごすだけなら大した問題ではないんだけどねと彼女は続けた。
──よくよく考えてみれば当然の話だった。彼女の魔力を材料にして無限に魔獣の軍勢を作り出す力に、擬似的な死者蘇生という世界の理に叛逆する力。それを加味せずとも《大淫婦》は普通の《夢魔》と比較して、隔絶した力を持っているというのはアンナさんの弁だ。
ならば両者が互いの最大限の力を発揮するために必要な精力の量が同量であるはずがない。埒外の
これはかなり重い制約だ。
しかし……
「それって俺が番になったところで根本的な問題は解決しないのでは?」
「いいえ。《大淫婦》の番になった者の精力は常人の数万倍くらいにまで跳ね上がるわ。だからその面は問題ないの。あと番になってくれた時のメリットと言えば……魔力量、身体能力全般が飛躍的に上昇するわね。尤も付け加えたものは私の《魔》になった君だけに当てはまる話だけど」
「なるほど……」
俺はしばし黙り込む。
その沈黙を彼女はどう受け取ったのか苦笑して、
「なんて説明したけど、私は無理に君に戦ってほしいわけじゃないわ。君は私と一緒にいて、精力を吸わせてくれるだけでいいの。そうしてくれるなら衣食住の保証とある程度の自由、そして大金……っていうのは無理だけど、お金だって支給する。だからこの屋敷で美味しいご飯を食べて、ほんのちょっとの運動をしたりとか、本を読んだりして、のんびり過ごしてくれれば私は嬉しいわ」
「……わかりました。俺で良ければ番になります。けど……」
「けど……何かしら?」
「──俺も、戦わせてくれませんか?」
言うまでもない事だろうが、彼女の提案は非常に魅力的だ。
ただ肉体的な接触をするだけで、衣食住の保証に、ある程度の自由を認めてくれて、尚且つ金銭まで支給してくれるというのだから。しかもレヴィア様のような美女との肉体的接触など、こちらが金を払うべき──いや、金を払ったところで絶対に叶うまい。
だが……本当にそれでいいのか?
命を救って頂いた上に、前述のような事までしてくれる人への恩の返し方が本当にそれで良いのか?
「でも、君は……」
「戦えません。自分は武術は……昔にほんの少しかじった程度で、この世界の戦闘職の方と比べれば赤子みたいな物でしょうし、魔術とか魔法についてはさっぱりです。それでも……必ず強くなってみせます。必ずあなたの力になってみせます」
「…………」
「俺の我儘だってことはわかってるんです。でも……命を救って頂いた人への恩義の返し方が、ごく潰しになることだなんて俺が納得できないんです。だから……」
戦わせてくれ、と俺は頭を下げる。
……余計な事を言っただろうか。彼女が求めてきていることを、ただこなせばよかったのだろうか。
そんな今更込みあげてくるけれど、もう言ってしまった。出してしまった言葉は、もう引っ込められない。
「はぁ……顔を上げて、ユウキくん」
吐き出された溜息、それを聞いた瞬間に恐怖が冷や汗になって背筋を伝ったが、俺は負けずに顔を上げた。
「君は真面目な子ね。自分から戦いたい、なんて普通言わないものよ?」
「……申し訳ございません」
「謝らないの。責めてるわけじゃないんだから。……君の思いはわかった。私としてもそれは嬉しいわ。けど、ひとつ約束」
「約束……?」
「『絶対に無理はしない事』。頑張りすぎて身体とか心とかを壊したり、危なくなったらすぐに逃げる。それは訓練も一緒。つらいと思ったら、ちゃんと休むこと。約束できる?」
「……はい。わかりました」
「良い子ね」
そう言ってレヴィア様は俺の頭を撫でてくれる。
随分と子供っぽい扱いだが、優しい彼女の手からは自分を本当に案じてくれている事が伝わってくる。それがどうしてか嬉しくて……俺は心のうちから込み上げてくる何かを抑えるのに必死になった。
──そんなやり取りもほどほどに、俺の頭から手が離される。それに名残惜しさを感じ、思わず女々しい声が漏れそうになったのは墓まで持っていこうと思う。
「さて、と。君も了承してくれた事だし、番になりましょうか」
「あ……なってなかったんですね……」
「流石に『はい、なりましょう』でなれるものではないからね。じゃあユウキくん、目を閉じてくれる?」
言われるがままに目を閉じる。
そのときだ。
俺の唇に極上の柔らかさと温もりがやってきた。
「ん、んん!!?」
「んふ……んちゅ……」
彼女の言葉に逆らい、感触を感じた瞬間に目を開ければ、少し屈んだレヴィア様の顔が視界を埋め尽くしていた。最高級ミルクのような至上の匂いが鼻腔を通り抜け、彼女の蠱惑的な美しさの瞳と目が合う。
──きっと俺の顔は、彼女の瞳の色に負けないくらい真っ赤になっているに違いない。それを見て彼女は小さく笑うと、そのまま俺の頭に両手を添えて更にキスを深める。
そんな羞恥と疑問と、それを上から塗りつぶす歓喜の念に心が埋め尽くされようとしていたとき、ふと感じたものがあった。
それに類似したものを俺は味わったことがなかった。というよりもそれは実体のあるものではなかったのだ。しかし『それ』は水飴のような甘さを持ち、身体に浸透していく。
そして『それ』は俺の胸部、丁度心臓がある辺りで固まった。
それを彼女も理解したのだろう、「ぷはぁ……」と艶のある吐息を漏らし、妖艶に笑ってみせる。
「んふふ、可愛い。キスは初めてかしら?」
「……はい。初めてです。でした……」
「そう。ふふ、それじゃあ君の初めて、私がひとつ奪っちゃったわね」
その言葉に胸が高鳴ったのは、当たり前のことだろう。
彼女のそんな言葉に、全くの反応を示さないということができる人間はこの世にひとりもいないだろう。加えて性交渉の経験が一切ない──有り体に言ってしまえば童貞である自分に、これは刺激が強すぎる。
「これで……番になれたんですか?」
「そう。《大淫婦》の番になる条件は、『番となる男が自分の意思で番になることを受け入れた上で、《大淫婦》とキスすること』だから。私から何か注ぎ込まれたでしょう? 胸の辺りを見てみて」
言葉に従って、自分の胸に視線をやるとそこには赤黒いハート型の紋様のような物が刻まれていた。それは俺が視線を向けてからすぐに消えてしまい、そこにあるのは何の変哲もない痩せ細った頼りない胸板があるだけである。
「あの紋様が私の番である証。これがある限り、私以外からかけられる《魅了》には絶対に抵抗できるし、他の《夢魔》が見れば君は《大淫婦》の番だって伝わる。他にも色んな効果はあるんだけど、まぁマーキングのようなものだと思ってくれれば良いわ」
あと私からの魔力供給を受けられるようになるんだけど、それは私の《魔》になったときから出来ていたしねと笑うレヴィア様。
こんこん、と扉が叩かれ、そして開かれる。
そこには複数のメイド服を着た女性が数名いた。ひとりはファミレスなどで見るサービスワゴン──当然の事ながらファミレスのそれとは一線を画すほどに豪奢なデザインである──と、食事を行うためだろうテーブル、そして男性用の衣服をそれぞれ持っていた。
「それでは私はユウキ様のお手伝いをしますから、あなた達は食事の準備を」
「「かしこまりました」」