曼荼羅の華
ママはわたしの目の前で食べられながら、魂だけは守りなさいと言いました。
陽が溶け、月が砕かれ、虚無が大地とともに自転する、底なき闇、光なき天、地平なき彼方、我のみの此方が、質なき、色なき、記憶のなき、乾の泥たる業と坤の雷たる縁が描く螺旋の重力、泥土と雷電の乾坤にすら限りなく、二重伝承統一の理のみが敷かれた母なる大地ステラでは、遺伝子と模倣子をたばねる魂魄、螺旋の子らだけに、思想があるのです。
魂を守ること。血を守ること。それは自分が自分であり続け、血が血である証明に他なりません。
食べられてしまえばすべてお終い。何も残りません。この手、この足、この身体。乾坤の泥雷も結局は大地ステラの一部だから、無限なのです。ステラに記憶はありません。記述はありません。無限の業縁はそれ自身、きれはしを認識することなく集合に埋没しながら排泄を繰りかえし、いわんや彼女を記す炎の言葉は、次の瞬間には、別の意味を持ちましょう。彼女の子さえも、いずれ生み親の肌のぬくもりを忘れましょう。彼女の親さえも、いずれ我が子を産んだ痛みを色褪せさせましょう。我が泥の肉に宿る雷の魂だけが、我が名を記す記録たりえるのです。
魂と火は、星の数にも等しき雷の子によってかたち作られています。ゆえにそれらの構造は本質的におなじですから、肉体を失えば、骨と肉より、血潮より、吐息よりも軽いほむらの魂は焔天に導かれ、祖がおられる蓮華へと還っていき、そこで因果を湯浴みしたのち再び卵となりて母の手により泥の肉をまとうのです。
食べることは、そのすべてを拒みます。肉体は滅び尽くされず、精神は燃え果てず、胎のうちで渦巻く螺旋に血を砕かれ、たちまち虚無に魂を溶かされます。糧ですらなく、ただ暴虐の主がままに、生命の工程をさかのぼり、其が重さ、魂の質量、業縁が血の重力、価値の根源、すなわち、魂原器を握りつぶされます。
だからママはわたしの目の前で食べられて、刹那永劫、あらゆる砂漠においても、思想においても、虚無においても、甦ることはなくなったのです。
仰げば無限に広がる暗黒、見下ろせば肉が堆積せし赤く果てなき肥沃な大地。
互いにおなじ向きにそろったふたつの丘陵はそれぞれ太い環状血管のふちをもつ。楕円のそれらがよっつの極で交わり、その構造は天獄から見ればあたかも両の手を重ねあわせたかのようらしい。上にも下にも、あまつちの果てにはここに行き着き、丘の頂点は上にいるものからすれば山であり、下にいるものからすれば谷だ。ここが地獄なら、闇の彼方、天頂には煉獄がある。逆もまた然り。
その一極、深く掘られた質量の底、申し分程度に龍の骨で組まれた円形広場。繰り広げられるは、蜘蛛と蝶の、まぐわいの前触れにも似ている。
脂の灯火に煌めくいばらのごとき逆立った繊維の網をくぐり、翅のない蝶はただひたすらに出口を求めて儚げに飛び、跳ね、舞い、粘膜の地面に鋭利な足跡を穿つ。踏みしめられた細胞は甘い芳香を立ち上らせて腐り、酸い悪臭とともに新しい肉を産み再生する。
ひとたび蜘蛛の糸に触れたなら誰の目にも明らかに、蝶の白き柔肌はたちまち紅いまだらに彩られよう。豊満な乳房はひき肉となろう。この地獄の一切を構成する、無意味な肉片のひとつ、乾の泥子となろう。ゆえにひとつ、またひとつと死の迷路を抜けるごとに野次馬の歓声が地獄を満たし、網を震わせる。
網の上を這い、絶え間なく糸を吐き出しながら蝶を追う蜘蛛は、逸る。
蜘蛛は、どれほど差を詰めても捕まらず網の合間を縫って涼しげな顔で踊りつづける蝶に、底知れないおぞましさを覚えていた。いったいあの身体のどこにそんな体力が蓄えられているのか。手足がないくせに――あんなに重そうな手足をしているくせに。
地獄の底に逃げ場はない。どちらかが食い尽くされるまで、この宴は終わらない。蝶に蜘蛛を撃ち落とす牙はなく、傍目からすれば、いずれ力尽きた蝶は網にかかり、果たして蜘蛛の餌となるだろう。
事実、蝶の身のこなしは華麗でありながらも危なげだった。あわやというところで棘の網をかわし、みな、やきもきさせられている。蜘蛛の毒牙にかかり、蝶が美しくも無残に散るのはもうまもなく、今にも観客が何より待ち望む見世物が始まるはずだった。
お互いがお互いに触れあわぬままに焦らしあい、挑発しあい、高めあう、宛然交尾の前戯の、それよりもさらに前に交わされる駆け引き、ある種の求愛行動だった。もどかしさにくわえ、植え付けられた飢えのあまりに、蜘蛛は自分の臓物をかきむしりたい衝動に駆られていた。
……かするだけでいいのに。ほんのすこし、引っかき傷がつくだけでいい。たったそれだけで棘が孕む毒によって穴という穴は緩み、糞尿を垂れ流し、蝶は地に墜ちるのに――。
だが十も二十もそんな思いをさせられていては、蜘蛛としてはいぶかしむのが道理だ。
危なげなのも宴を盛りあげる余興、演出の一部かのように、そう、こころのうちすら見透かされ、手をとって誘われているかのごとく、蝶は網にかからない。自分は本当に蝶を追い詰めているのだろうか? 追わされているのではないのか? 蝶に踊らされているのでは?
首筋を滑る冷たい汗のあとがひりつく。主は見ている。主は気づいている。主は怒っている。坤の雷子が織りなす精神行列を通じて、生み親の瞋恚が、蜘蛛の魂を焼き焦がした。
よしんばここで蝶をくびり殺せたとしても、主は自分を罰するだろう。脚をもぎとられるかもしれない。乳房を切り落とされるかもしれない。目玉を抉られるかもしれない。食われるかも、しれない。
焦燥は、蜘蛛の本能が確かに嗅ぎとっていたはずの危機を、黙殺させた。
蜘蛛は糸を紡ぐ。それは目を凝らしても見えぬほどの、触れれば指を落とすほどの、細く鋭く編まれた首狩り糸。張り巡らされた棘の糸に絡みつき、地獄に不可視ながらに恐嚇なる断頭台が顕現する。
蝶は跳ぶ。罠に気づくそぶりもなくいばらの森をかいくぐって宙返り、その先に待ち受ける首狩り糸になだらかな腹をさらし、飛びこむ。
重力が翅のない蝶を首狩り糸にたぐりよせていく。蝶の胴が糸に両断される、その瞬間、その一瞬だけを欲していた蜘蛛の瞳はおおきく見開かれ――そして薄く浮かべられた蝶の笑みを映した。
蝶が空中で身をよじり、さらに一転、偶然でもなんでもなくそれに触れるのをずっと待ち構え、触れるべくして触れたかのごとく、見えぬはずの首狩り糸を人差し指で引っ掛け、弾いた。
首狩り糸がいばらに張力を伝え、不穏なきしみを響かせる。蜘蛛はすぐさま察する。己が領域としていた毒の網そのものが、からくりに爆ぜる予兆を。
網に蓄えられていた蜘蛛自身の殺意が、唸りをあげて四方八方から押し寄せてくる。蜘蛛は短い体毛に覆われた八つの脚をたわめ、前に飛ぶしかなかった。次々と切なげに、糸が糸に断ち切れ、巧妙に練らされた糸仕掛けの牙が臀部をかすめてすんでのところで噛みあわさる。
そして安堵するのも束の間、蜘蛛の瞳は最期に見た。
無防備となった蜘蛛の懐に潜りこんでくる蝶の、その顎。鋼の一対の腕の、鉄の十本の指の、清冽なる歯並びを。
わたしに覗き見趣味はありません。行為が始まるやいなや、わたしはねえさんとのサイコマトリックスを切ってひとつため息をつき、アデッドから連絡される回廊の剥きだしになったひだがひくひく蠢いている肉壁に背を預け、足元の窪みに溜まった黄色や白の濃い粘液を避けて、腰を下ろします。おしりに敷いた血管がぼこぼこと規則正しくわたしの体重を押し返して、全身を這いまわるかすかな、そして背中を刺す熱い痺れがわたしに自分の肉体の感覚を取り戻させました。
今までサイマトで幻覚していたアデッドのなかに張りつめた空気、渦巻いて耳を聾する喧騒、けぶるぐらい過剰に湿った熱に思いを馳せます。
見たくないといえば嘘になります。飢えがやってきていないわたしには、まだその経験がありませんから。ねえさんのアデッドを観に来るたび、今繋ぎなおせば、という誘惑に駆られたことは何度もあります。ねえさんは笑っていました。食べる寸前でさえあの高揚、わずかに垣間見えた仄暗い欲望、それを潤すやわらかい桃色の肢肉。サイマトを介せば、行為がどのような感覚をねえさんに与えるのか、どのような感情を、どれほどのよろこびをねえさんに抱かせるのかがわかりましょう。食用ではない、魂の宿った人形の皮膚の歯ごたえや肉の味わい、血液の喉越し、魂が胎内で粉みじんに粉砕される調べも知りえましょう。でもそれはねえさんだけのものです。彼女はいまやねえさんだけのもの。これからねえさんになるもの。ねえさんの一部分、一部分のねえさん。ねえさんも、見られているとわかればわたしに遠慮してしまいます。
それにたぶん怖かったのだと思います。行為が変えてしまったねえさんの一部や様子を知らないままでいたかったのだと思います。見ていない限り、知らない限りは、変わらないことと同じですので。
頭から羽織った外套の端を握り締めて、座りこんだまましばらく待っていると、喝采も冷めやまぬうちにねえさんが姿を現しました。ねえさんの生身のまろやかな曲線を断つ、肘から先の鋼鉄の四肢がどこか艶かしく灯火に照らされ、ぽたぽたとしずくを落としています。薄紅色の虹彩がわたしを見つけ、ねえさんがふっと優しい顔をしました。
わたしはねえさんに駆け寄って、ねぎらいの言葉をかけます。「おつかれさま、エフィねえさん!」
「……ありがとう、ベリィ。ねえさん、ベリィがサイマトで誘導してくれなかったら、やられてたかも。今回はベリィのおかげで、命拾いした」
「ううん、いいのッ。エフィねえさんが無事で、よかったァ……」
その柔らかな存在を実感したくてねえさんの火照った身体を抱きしめると、べっとり濡れた前掛けがわたしの頬に張りつきました。
「もう、汚れるよ」
「……いいの」そのまま、まだ少し乱れた息に隆起する、たっぷりした峰に頭を預けます。しっとりと汗ばみ、つよい鉄錆のなかでほのかな甘さを香らせるねえさんの肌。サイマトでの繋がりよりも確かな感触が、わたしに強い安堵を与えました。
「ベリィ、あの細い糸、よく読めたね。間も完璧だった」
「だって、あのひとのおしりがもぞもぞ動いてたし、とげとげの網の配置に隙間を作ってたもん。何か置きたがってるって、すぐわかったよ。だから、逆に利用したの」
「……さすが、母さんの子ね」ねえさんが凛々しいかんばせをおっとりと崩します。アデッドのあとでなければ頭を撫でてくれるところなのでしょうが、あいにくとねえさんの鋼の手は油でべたつき、関節には肉のきれはしが挟まっているありさまでした。
「じゃ、帰ろうか、ベリィ。ねえさん、お腹空いちゃった」
「たった今、人形ひとり、まるまる平らげたところじゃない」
「母さんの料理は別腹なの。ほら、行くよ」
「あ、ちょっと待って」背伸びをして、軽いくちづけ。甘辛く濃密でとろける余熱を感じながら、ねえさんの口の端を飾っていた名も知らぬ、もうどこにも存在しえぬ誰かの血化粧をぺろりと舌先でぬぐいます。
そして唇を離そうとするや、「……ごめん、ベリィ。まだ昂ぶってる間にそういうことされると、ねえさん、抑えが効かないから」
「え……? んんっ――!?」
おもむろにひんやり汚れた鋼の腕がわたしの腰をぐいと抱き寄せて、深い接吻が降り注ぎました。熱い、熱すぎる舌がわたしの口腔に、わたし以外の、ねえさん以外の、ママ以外の体液の味と、匂いをもたらします。
それははじめての接吻と似ていて、けれどもとても情熱的で貪欲で、わたしが腰砕けになるまで続き、わたしに大気の痛みを忘れさせるのです。
大気の痛みに、わたしは目覚めました。
これは、そう、わたしが大気の痛みに目覚めた話です。
人形は、魂によって起こされるそうです。わたしの魂原器がいかなるものか、それはママもよくわかってないそうですが、覚醒したその瞬間をわたしははっきりと覚えており、わたしの魂はたぶん、その痛みにゆえんするものなのでしょう。
「あらあらー、まだ調律が終わってないのに起きちゃいましたかー」
「……ほんとだ」
この世に生を受けたわたしの網膜が最初に映したのは、丸っこくてつやつやしたママの愛らしい顔でした。次いで、鋭く整ったねえさんの美貌が覗きこんできました。
「おはようございます、ベリィちゃん。ママですよー」
「おはよう、ベリィ。ねえさんだよ」
革張りのお部屋でした。わたしは骨で組んだ寝台に寝かされていました。その肌触りから、寝台はわたしより軽いのだという認識が頭の片隅にありました。
「――きゅ。く――」
わたしの名を呼ぶふたりに何と応えようとしたのかは記憶にありませんがともかく、喉の奥をふさぐ重苦しい圧迫感に、わたしはたちまち恐慌に陥り全身を引きつらせました。
ねえさんは眉根を寄せました。「母さん大変。この子、息してない」
「あらあらー? こっちには何も異常ないんですけど」
「――っ!? っ! っ! っ!」
がくがくと手足が跳ねました。呼吸ができなかったからではありません。ぱっくり開かれていた胸郭から、ママに素手で内臓を揉みほぐされたせいです。わたしが覚醒したのはちょうど調律の真っ最中だったのです。
ママは次に、わたし自身の粘液が絡まった指をわたしの口のなかに突っこんできました。苦味を帯びたちっちゃな指でわたしの舌をつまんで引っ張りだしながら、「脳の配線間違ったんですかねー、自分で筋肉が動かせないみたいです。エフィちゃん、人工呼吸してあげてくださいな」
「いいの? はじめてだけど」
「家族なんだから変わりはないですよー。さ、ぶちゅーってやっちゃってください、ぶちゅーって」
「……人工呼吸だよね?」
ねえさんの骨細工の指がわたしの鼻をつまみ、唇が重ねられました。そして甘いような苦いような息吹が、わたしの肺腑を膨らませました。生きながらえた喜びに、わたしは涙を流しはじめました。ですがほっとできたのも刹那のこと。すぐに耳の穴を塞ぐや、鼓膜を食い破ってくるそれに意識が向けられました。
「――っ!?」
生温かでしなやかなそれは意思を持っているかのごとく、のたうちながらわたしの頭のなかにもぐりこみ、頭蓋の中身を掻きまわしていくではありませんか。反射なのでしょう、わたしの両の眼球はひとりでにぎょろぎょろとあちらこちらへさまよい、口のなかでは唾液が溢れ、またもや手足を痙攣させてしまいました。
「んわっ、ぉっ、おっ、ぉうっ、んおっ、んおぉっ、お゙っ、あ゙っ、あっ、あっ」
脳みそがくちゅくちゅ攪拌される音が頭蓋骨の内側で反響し、いつしか解放されていた口から息が溢れ、びりびりとした痺れが全身を駆け巡っては末梢神経をわたしに自覚させ、
「あー、ありました、これですねー。えいっ」
ぷちゅ、と脳髄の中央で何かが吐き出される感覚が、不意に白熱した奔流を呼び寄せ、すべてを洗い流しました。
「ぉ――、うぇ――」
そのままわたしは白目を剥いて脱力、失禁しつつ、意識を失ったそうです。わたしが覚えてない以上は、消し去りようにも消しえない恥ずかしい出来事のひとつとなりました。
痛みにまつわる話はもうひとつあります。
わたしが乳離れする前のことです。
「はい、もういいですよー」開けっぱなしにさせられた顎がだんだん疲れてきたころ、ママはそう言ってわたしの食道からするりとそれを抜き、歯とぶつかってかちんと金属質な音を立てました。
さっきまでわたしの身体を調べていたそれ――いくつか穴の開いた鉄球を先端に被せた、細長い尻尾を手拭いで拭きながらママは首を傾げました。「うーん、おかしいですねー。どこにも異常は見当たらないんですが――やっぱりもう一度脳を見たほうがいいかもしれません」
「ま、またあれやるの、ママ……?」硬い寝台に寝かされていたわたしはあの名状しがたいおぞましさを思い出し、耳を押さえました。
「あれ、きもちよくなかったですか?」
「そういう問題じゃ……」
「うーん、でもその種の痛み、幻肢痛っていうんですけど、その原因といえば筋肉か末梢神経か視神経周りですからねー」
痛み。大気の痛み。それはわたしの肌をくまなくくるみ、背を断ち割って、目覚めてから間断なくわたしを苛む感覚。もう幾度となくさまざまな手段でママに診察してもらったにも関わらず、病理は不明のままでした。
「まだ魂が定着してないんじゃない?」傍らで見守ってくれていたねえさんが、骨細工の手をわたしの額に添えました。「ねえさんも起きたばっかりのころは、よく義手や義足が痛んだよ」
「あー、そういえばそうでしたねー」ママが思い起こすように遠い目をしました。
ねえさんは生まれつき肘や膝から先の手足がなかったそうです。ありとあらゆる質と量を含む、無色の血肉であるステラの肉、乾の泥子をどれだけ継ぎ足しても欠陥は埋められず腐り落ちてしまい、代わりに骨や鋼鉄はしっくりくるそうで、それはつまり人形としての身体が壊れていたわけではなく、魂のかたちに肉の手足が適合していないことを意味します。
そういうことはしばしばあります。結局のところ、魂原器に封じこめられた魂の本質を誰も知らなければその集約たる大地ステラのサイマトでも知りえることはなく、そして生み親自身も同様に我が子を完璧に調律し、齟齬を修正することは困難を極めます。
「本当は魂のほうを馴染ませるのは最後にやったほうがいいんですけど、仕方ありませんねー。一度やってみますかー」ママはそう言って小柄な身を乗り出して、わたしの頬に優しくくちづけました。
「母さん、ベリィははじめてなんだから、あんまりやりすぎないように」ねえさんがわたしから離れながら釘を刺し、「じゃ、ねえさんは用事があるから」とどこかへ出かけてしまいました。
その一言に薄ら寒いものを感じたわたしはこわごわと訊ねました。「な、なにするの……?」
「んふふ、なかよくするだけですよー」ママは不敵な笑みを浮かべたかと思うと、口吻を奪ってきました。
温かく弾力のある感触に、わたしの動悸が激しくなり、自然と身体も強張ってしまいました。
「そんなに緊張しないでください」耳朶をくすぐる囁き。「ママに全部任せて、こころを開いてくれるだけでいいんです」
「こころ……?」
おうむ返しに問うわたしの胸、心臓の上の辺りに、ママが尻尾の先をあてがいました。「そう、ベリィちゃんの、ここにあるものです。そして――」尾の鉄球が、ねえさんよりひとまわりほど小さいわたしのおっぱいをくだり、おへそを通って下腹部に到着しました。「ここにも、あるものです」
ほんのり温かい鉄球が撫でるとお腹の芯はきゅっと縮み、わたしに熱っぽいため息を吐かせました。「そこには、魂があるんじゃないの……?」
「そうですよ。こころとは、魂のことです」
ママがわたしの上に馬乗りになりました。ママはわたしよりも頭ひとつ以上に背が低く、その体重は羽毛のような軽さで、鋼鉄の四肢を身に着けたねえさんのちょうど半分の体重であることを、大気の痛みがわたしに知らせていました。ママは服を脱ぎ捨て、下腹部のみみず腫れを晒しました。そしてそのまま覆いかぶさってきて、ちっちゃな舌をわたしの舌に絡めながら、サイマトの波を合わせました。わたしを愛おしく、大切に思ってくれるぽかぽかしたママのきもちがわたしに流れ込んできて、魂同士で触れあいました。
――ママ、魂って、なんなの?
――ベリィちゃん自身のことですよ。ベリィちゃんの手や足を動かして、きもちを働かせて、命を与えているものです。
ママのたなそこがわたしの丸みのある部分を数えるように、まさぐっていきました。
――魂がなくなれば、人形はどうなるの?
――心臓が止まって、身体が動かなくなっちゃいます。何も感じなくなっちゃいます。何も考えられなくなっちゃいます。ひとりになっちゃいます。その状態のことを死というんです。でも、だいじょうぶですよ。たとえ死んじゃっても、ベリィちゃんはベリィちゃんですから。魂そのものが消えてなくなることはありませんから。
ママの指先がわたしの皮膚の薄い部分をあやすように、くすぐっていきました。
――死んじゃったら、魂はどうなるの? ひとりで、寂しくないの?
――怖がることはありませんよ。眠っちゃうだけです。また人形に生まれかわるまで、魂の源泉に還って、眠るんです。死ぬそのたびに、永久に。ベリィちゃんは覚えてないかもしれませんけど、ママがベリィちゃんを産む前は、ベリィちゃんは死んでいて、今と違った姿で生きていたんですよ。それを何度も何度も繰り返して、ママのところへやってきたんです。でも、ひとつだけ、眠ることも、起きることもできないまま、消えてなくなっちゃうことがあるんです。それは誰かに魂を食べられることです。
わたしがもっともくすぐったく反応してしまうところをママが重点的に弄りはじめると、大気の痛みと同調するみたいに、柔らかな痺れが身体の隅々まで支配していきました。わたしは呼吸を荒ませて朦朧としながら、ママの甘ったるい唇をむさぼりました。
――食べられると、どうなるの?
――魂は食べられちゃうと、そのひとに取り込まれちゃうんです。そのひとの一部になって、そのひとだけのものにされちゃうんです。これまで生きてきた証も全部、そのひとのものになっちゃうんです。そのひとだけのために生きてきたことにされちゃうんです。だから絶対に何に代えても、死んじゃったとしても、魂だけは守らなくちゃいけませんよ。
途端に激しくなった刺激に息苦しくなり、わたしは唇を離しました。「あっ、ぅひぁっ、だめっ! ママっ、そこぉっ、しびれちゃっ!」
ママが股の間に押しつけた尻尾を、細かく震わせてきたのです。お腹の奥、魂があると教えられたところがどんどん熱く、切なくもどかしく、我慢ならないほど恥ずかしくなって、「ママっ、なんかっ、へんっ! ふわふわっ、してぇっ、おちっ、おちちゃうっ!」その恥ずかしさはやがて心細い浮遊感となり、未知の体験に戸惑ったわたしはママに抱きつきました。
「んふふ、心配しなくていいですよ。しっかりいかせてあげますからねー」
「あっ! うそぉっ! こわっ、こわいのぉっ! ママっ、たすけ――ぅあっ!?」そして突然、白くておおきなものに突きあげられ、それが快感なのだと自覚せぬままに、仰け反りながらわたしはほんの少しの間、意識を手放しました。「ぁ……、う……」
しばらく放心していると、ママがわたしの顔を覗き込んできて悪戯っぽく微笑み、「ちゃんといけたみたいですねー。ほら、ママの尻尾、こんなになっちゃってますよー」ぬとぬとになった鉄球をわたしの目の前でこれ見よがしにくねくねと踊らせました。
「いやぁ……」わたしはたぶん耳まで真っ赤になっていたでしょう。羞恥のあまりに目をそらし身をよじって逃げ出そうとすると、「ふえっ!? あっ、あんっ! ママっ!? 今だめっ!」
ママがまた尻尾でぐりぐりとわたしの股間を圧迫してきたのです。「んふふ、一度いくとたまんなくなりますよねー。いけばいくほどすごいんで、がっつりいっちゃってくださいね」
「そっ、そんなっ、もっ、もうっ、いいよぉっ!」
「だめですよー、ちゃんと気を失うまでやらないと、魂を一番無防備にしちゃわないと、馴染んでくれませんからねー」
「んあっ、んあぁっ! ひぎゅっ!? むりっ、もうむりっ、むりだからぁっ!」
「だいじょうぶですよ、そのうち病みつきになっちゃいますからねー」
――と、本当に涙を枯らし失神するまでママにいじめられたわたしでしたが、結局大気の痛みが和らぐことはありませんでした。ですが、痛みが故障でも欠陥でもないことが発覚するのは、それからすぐのことでした。
アデッドからの帰り道、ねえさんの鋼鉄の手に引かれ、市場に立ち寄りました。出かけ際に、ママに食材のおつかいを頼まれていたからです。しぶきをあげて流れる大地ステラの広大な動脈の側に立ち並んだ、脳漿でなめした皮幕のなか、おのおのがアデッドで勝ち得たものの食べきれなかったか、あえて食べずにいた戦利品、苗床に産ませた食用人形を、歯牙と骨片の玉砂利の上に広げています。
塩漬け肉や腸詰めを扱うミノタウロスの店を通りすぎ、キマイラが売る酒精に浸されたラミアに目を奪われ、石臼で延々となにかの脊髄を挽きつづけるスキュラの隣の、鋭い鉤爪で器用に人形を解体していたハルピュイアの前で立ち止まりました。
「なんか欲しいならさっさと言ってくんな」わたしたちの気配に気づいたハルピュイアは物憂げにこちらを一瞥し、「……あんた、もしかして鉄の貴婦人かい」ねえさんの手足を見るや、手を止めてまじまじと観察してきました。
「そう呼ぶ人もいるかも」ねえさんは曖昧に返して陳列された臓器を物色しはじめました。
「アデッドはもう終わったろう、あんたがここにいるってことは、あんた、また食ったのかい」
「うちは狭いし、蜘蛛を飼う趣味はないから」
「ったく、今度こそはと思ってあたしゃオフィチナルムに張ってたってのに、あんたにゃとんだ大損させられちまったよ」
「ご期待に添えなくて残念。……これで買えるだけ、それを」差し出されたハルピュイアの羽に、ねえさんは今回のアデッドの報酬である空の宝珠をいくつか落とし、脂肪肝を指さしました。
ハルピュイアは鼻から荒々しく息を吐き、肥えた臓器を皮袋へひとつふたつと放り込みました。その粗雑な手つきや態度よりも、とあることに気づいてわたしは声をかけます。「あの、今入れたのじゃなくて、そっちのにしてください」
ハルピュイアはますます不機嫌そうに舌打ちしながらも、肝を詰めなおしてくれました。
袋を受け取って歩きだすと、「さっきのやつはだめだった?」ねえさんが心配そうにたずねました。
「だめっていうか、腐ってるとかじゃないんだけど、一番軽いのを入れられたから、一番重いのにしてもらったの」
「……さすが、母さんの子ね。もうおつかいは全部ベリィに頼もうかな」
ねえさんが微笑むのにつられて、外套の下でわたしも笑みを零します。
わたしが知りえるのは、重さだけではありません。長さであるとか、広さや傾き、ほかにも温かさ、力の加減、速さなど、そういったおおきさは、たいてい区別できます。気づいたのは最初にママとここへ買い物に来たおりにおなじような出来事があって、ママを驚かせたからです。ママは言いました。「たぶん乾の泥子が、そのおおきさを教えてくれるベリィちゃんの魂の器官を、満足に表現できてないんですねー」
「魂の器官……?」
「その魂だけが持ちうるかたちとか、臓器とかのことですよー。ママで言うならこの尻尾ですねー」鉄球を被せた尻尾を躍らせ、「痛いのは、その感覚の食い違いなんでしょう。それは珍しいことではないんですよー」
「ママ、わたしの魂って、なんなの?」
「ベリィちゃんにはすこーし複雑な事情があるので、実はママもよくわかってないんです。ごめんなさいね」
本当に、こころの底から申し訳なさそうに言うママに、わたしはそれ以上の追求をできませんでした。でもそういうことがあって以来、わたしは大気の痛みを忌むべきものとは思えなくなりました。
痛みはわたしにサイマトへの強い感応をも与え、実際に、ねえさんの手助けにもなりましたし。……もっとも、ねえさんは謙遜していましたが、わたしの手を借りなくとも絶対に勝っていたはずです。
ねえさんの器官、あるはずだった手足も乾の泥子によって表現できないものでした。石や骨、金属といった魂のよりしろとなるべき物質にこそ、ねえさんの器官の本質があったのです。魂のよりしろである宝珠――鋼鉄は、生み親の胎内にてすべて溶かされきるものです。ほかのどんな人形も、普通はその身体によりしろを残すことはありません。だからねえさんの器官は、ママのお腹のなかで溶けてしまったのだとママは言います。
ゆえに欠陥、故障、あるいは未完成。ねえさんはよくそう軽んじられていたそうです。それでもねえさんは地獄のアデッドで圧倒的な強さを誇っていて、次第にねえさんを悪く言うひとはいなくなりました。人形のかたちは関係ありません。なんびとも魂の強さに従うべし。伝統にもあるように、人形の重さを決めるのは人形の魂の重さ。それだけなのです。
わたしもねえさんとおなじ目立った器官のない標準形の人形です。腕力も強くなく、足が速いわけでもありません。だからわたしがアデッドに出るなら、わたしは痛みの許す限り、痛みの重さによって誰かの魂を食らうのです。
地獄のなかでもとりわけ寂れた酒場の脈動する肉壁に設えられたサイマト端末人形が、口の端からよだれを滴らせながら今一番あたしが耳にしたくない報道を読みあげていく。
『今回のアデッドの目玉はなんと言ってもエフィの一戦、いやァ、相変わらず圧倒的でしたね、さすがは鉄の貴婦人と言ったところでしょうか。素晴らしい食いっぷりでした』
『まァ、エフィの作者はかの黄金卿メルチの傑作、プロム・エルドラドですから、卿の直系とあらば、地獄の銘なしじゃ相手にならんでしょう。誰がどう見ても一線を画してますからな』
くそくそくそくそあの女あの女あの女。
またやられた。また食われた。衆人環視のなかで、もう何体目になるであろう、いまいましい鋼鉄の四肢で肉と内臓を掻きわけ、捌き、あのけだものの女はまたしてもあたしの人形を食った。しかもよりにもよって、くだらない曲芸ごっこをさせられ、弄ばれた。あたしの顔に泥を塗って虚仮にするだけに飽きたらず、道化に仕立てあげやがった。
まさしくあばずれの発想。あの芋虫女の身体に流れる色情魔の血が、そうさせたのだ。色情魔の子は色情魔にすぎない。親子ともども蒼き血にたかる、蛆虫だ。出来損ないの、汚らわしい生殖廃棄物が。欠陥品が。くそ。くそが。
『しかし懲りませんねェ、ラフラも。彼女もまた没薬卿キャスの逸品だというのに、人形作家としての才が開眼する様子は今のところ皆無ですね。身体能力は高いものの標準形のエフィに、場の支配力のあるアラクネをぶつけるという着眼点はよかったのですが、いかんせん錬度が低かったように思えました』
『挑戦したわりに詰めが甘かったですなァ。彼女自身、蒼ざめた血族に名を連ねたばかりのころは、煉獄のアデッドに花咲かせる存在だったんですがな。地獄などでくすぶらずに、また煉獄で食い散らかしてほしいもんです』
血の通わぬ虫けらどもが。このあたしが銘なしと同等だと? 好き放題言いやがって。
怒りに任せ、でこぼこした骨の台を殴りつける。頭蓋のさかずきが倒れた。水っぽい安物のぶどう酒がこぶしを濡らし、それを鬱陶しく思わせないほどひどく酩酊していることを、あたしに気づかせた。
「荒れてるわね」
だが聞き慣れた妖艶な嗄声に、あたしは一気に醒める。
むせ返りそうなほどの甘苦い香り。あたしの隣に、頭からすっぽり闇色の外套をまとい、石膏の仮面をつけた女が腰を下ろした。「没や――」
細長い指があたしの口元に押し当てられ、続く敬称をさえぎった。仮面の女はあたしの手をとり外套の裾でぬぐいながら、「その様子じゃしこたま飲んでるわね。あなたを酒に強く作った覚えはないのだけれど」
「……どうしてここに――母上」
あたしは舌打ちしそうになるのをかろうじて抑えた。今は接続が切られているが、サイマトであたしの居場所を探ったのだろう。酔っていたからわからなかったのだ。ステラのどこにいようが、血の繋がりからは、あたしの生み親であるキャス・オフィチナルムからは逃れられない。
「落ちこんでるかと思ってね。なんせもう十体目じゃない」仮面があたしの神経を逆撫でするように告げる。
「……不良品の魂原器ばかり掴まされてるからよ。次は必ず――」
「あなた、まだあの子にその辺の胤つけて産ませてるのね」
「……」
「何を遠慮してるのかしら? わたしはね、別にどちらが産んでくれても構わないけれど、何度も言ってるように、あなたたちふたりの子じゃないと絶対にエフィは食べられないわよ。わかってるでしょう、我が子のことなんだから」
「……なんであたしが、あいつなんかと」
没薬卿があたしよりもひとまわりおおきい手を重ねてくる。あたしを地獄に産み落とした手。何百もの魂を砕いてきたあたしより、何倍も多くの魂を溶かしてきた手。その手のひらは不気味なほど滑らかで瑞々しく、あたしの甲に張りつくようだった。
「いいこと教えてあげる。枢密院は今回のアデッドで、鉄の貴婦人を血族に招く準備を進めたわ。あと二、三匹も食えば晴れて煉獄入りね」
「――ッ!?」
あの芋虫女が二重伝承統一の理に基づき、御血を――大地ステラと繋がり、魂を複製する血を得る。そうなればもう、こちらから手出しはできない。血族は本人が飢えに負けぬ限り、アデッドに出なくてもいい。そんなことは重々承知している。
「わかっているのかしら? あなたが無駄に人形を食べさせたからこうなったのよ。情けをかけてるつもりなの、ラフラ? あの汚らわしい裏切りの血に」
「……」
「もうあとはないの。いくら三卿のわたしでもね、伝統は曲げられない。ひょっとすればあなたを廃棄処理する、なんて考えも浮かんじゃうかもね」低くしわがれた声音に、全身に悪寒が走った。
仮面の奥の真紅の瞳は、腹を痛めて産んだあたしが魂魄を抜きとられ色をなさない泥に還るさまを、今と変わらぬ冷め切った眼差しで見つめつづけるだろう。そういう女だ、この没薬卿は。
「わたしは今まで親としてあなたにも、あの子にもすっごくよくしてきてあげた。そうは思わないかしら? だからね、最後の機会をあげるわ」キャスが外套から乾燥させた上質な胃袋を取りだしてあたしの手に握らせた。
小さいながらも、質量感のある硬さ。酔いか恐れか、震える指で紐を解いてなかをあらためると、胃袋のなかの宝珠が、酒場の灯火を白金の輝きとして跳ねかえした。
魂原器。それも鉄に封じこめたまがいものの写魂ではない。
「プラチナ・アルシーヴ――」
天獄に厳重に管理され、大地ステラのサイマトで監視されているはずの、原魂。
「没や――母上、こんなもの、どうやって……」
いかな三卿といえど持ち出すこと、まして孵すことなど許されるわけがない。プラチナ・アルシーヴは思想の祖。この魂魄が砕かれようものならば、これから写された魂の系譜たちも帰すべきところを失い、死ねばそのまま、虚無に砕け散る。ゆえにこの思想の源泉に近づけるのはステラを統べる、二公のみ――。
「それで産みなさい、ラフラ。あなたと、あの子の人形を。そしてきっと飲み干し、断ってやるのよ、あの穢れた血と魂の系譜を」没薬卿が立ち上がり、去っていく。「親はあんまり悲しませるもんじゃないのよ」
……くそ。くそったれ。くそ。厄介そうなものを押しつけやがって。
しかしそれだけ、キャスは差し迫っているのだ。もちろん、あたしも。
おうちでママお手製の脂肪肝の包み焼きを頂いていると、ねえさんが急に弾かれたようにびくりと顔を上げました。
ママが怪訝そうな表情をします。「エフィちゃん? なにかまずかったですか?」
「……ううん、そんなことない。料理は完璧。――でもごめん、ママ、ベリィ。ねえさん、ちょっと用事思い出した」ねえさんには似つかわしくないほど包み焼きを急いで口に詰め込むと、「いってきます」と、取るものもとりあえずといったていで骨細工の義手のまま飛び出していきました。
わたしはママと顔を見合わせます。「エフィねえさん、どうしちゃったんだろう」
ねえさんはしばしば急用を思い出しては姿を消すことがあります。どこで何をしているのか、ねえさんは教えてくれませんが、今度のは特に急ぎの雰囲気でした。
「さァー? うーん、でも困っちゃいましたね」ママが眉をひそめます。「ママもこのあとひとと会う約束があったので、おるすばんをお願いしたかったんですけど……」
「ママ、おるすばんぐらい、わたしひとりでもできるよ」
「そうですか? ……いえ。やっぱりベリィちゃんも連れて行きます。いい機会ですから、ちゃんと紹介しようと思います」
「誰なの?」
ママはほっこりと笑います。「ママのママ、ベリィちゃんとエフィちゃんのグランマですよ」
そうしてママとふたりで骨の舟に揺られながらステラの静脈をのぼり、地獄をあとにしました。いくつもの支流が交わって血管が深く、太くなり、舟の速さが、わたしが全力で走るそれよりずっと速くなったころ、頬を叩く生温かいしぶきを感じながら身を乗り出し、かがり火を掲げて舳先より向こうを照らしました。
互いにもたれかかりあい、もつれあう筋繊維の柱。分泌腺から苔色の組織液を滲ませ、器官を再構築している腔腸。原になった繊毛の液だまりで、白煙を上げて消化されつつあるなにかのむくろ。生まれてこのかた地獄を出たことがなかったわたしは、地獄とそう大差のない肉と粘膜で形成された煉獄の景色に落胆してしまいました。
「地獄も煉獄も、結局は大地ステラのなかですからねー。天獄に近づけば、多少おもしろいものは増えるんですけど」舵を取っていたママが、わたしのきもちを汲み取ったように言いました。
「ママ、天獄ってどこにあるの?」
「地獄のずーっと下のほうと、煉獄のずーっと上のほうですよー」
「天獄ってふたつあるの?」
「いーえー、天獄は、地獄と煉獄を囲っているんです。遠い近いはありますけどステラは無限螺旋の輪ですから、上に行っても下に行っても、いずれは天獄にたどり着きますよ」
「天獄にはなにがあるの?」
「なんでもありますよ、ここにはないものが、すべてあるんです」
「たとえば?」
「そうですねー、草木が生えた森だとか、鉱石のほかにも緑柱石や乳蛋白石、琥珀とかの宝石が採れる砂漠に、あとはおおきくてまっしろで、綺麗な花も咲いていますよ。そこから新しい魂が、たえず生まれてくるんです。と言っても、ママも実際に見たわけじゃないんですけどねー」
瘴気の向こう、おぼろげに煉獄のアデッドで焚かれた厖大な火柱がうかがえるあたりまで来ると、ママは舟を近くの桟橋に寄せました。おそらく煉獄の中腹でしょう。眼下には無数の灯火のまたたきがあり、地獄が深淵をたたえています。
そこからいくらも歩かないうちに、人形が五十は入れそうな木の箱がわたしたちの目の前に現れました。「お酒屋さんですよ。ポールサイドってみんな呼んでます」とママに教えられ、ママの尻尾を追って酒場に入るなり、わたしははしたなくあんぐりと口をあけて棒立ちになってしまいました。
脈打つことを知らない床は一面に大理石が敷かれており、壁の木材には漆喰が、そして各卓に飾られた彩り鮮やかな花。どれもこれも天獄でしか産出されない貴重な資源です。酒場に漂う甘い香りは心地よく、和やかな気分にさせられます。聞けば、花の香りなのだそうです。
席についても外套の下から周囲をきょろきょろと見渡すわたしに、ママがおかしそうに、「ベリィちゃん、そんなにそわそわしなくても、とって食われたりしませんよー」と言いますが、ちらほら見受けられる、混ぜ物でない果実酒を傾けるほかの客はみな身なりがよくて腕っぷしが強そうな人形ばかりでした。
ママが薄い胸を張ります。「もしベリィちゃんを食べちゃうような不届きものが現れたら、ママがこてんぱんにしてあげますから」
そこへ、「へェ……それが、あらゆる色の魂を食らい尽くし飲み干したとされる、かの黄金卿メルチでも?」澄んでいながらも、はきはきとしていて明瞭な声。
振りかえると、絹の頭巾で頭を覆った、長身の美しい人形がこちらに妖しい笑みを向けていました。わたしはたったそれだけで総毛立ち、息を詰まらせました。そこに立っているだけで締め上げられたような心地にさせる、そんな圧迫感を放っているのは、そのひとが並々ならぬ強さを持っている証拠でしょう。
ですが、「それならなおさらですよー。なにせ黄金卿は、我が子がここの酒蔵を空っぽにしても支払いを全部持ってくれるほど、情け深くやさしいおひとですから」
「えっ、ちょっ、本気で言ってんの!? たっ、足りるかなァ……」
ママがそう応えるや重苦しい気迫は霧散し、頭巾のひとは慌てふためいて房のついた尾を右へ左へさせながら財布の中身を確認しはじめました。
その姿にママは吹きだし、「もう、冗談ですよー。早く座ってくださいな、お母さま」
「はー、ほんとに焦ったじゃん……あんた、ありえないぐらい底なしになっちゃったからさァ……」心底ほっとしたように肩を落とし、そのひとは獅子の刺繍が入ったその頭巾を脱いで、赤銅色をした毛並みのよい長髪と、丸みを帯びた外耳をさらします。「で、この子が例の新作? なかなか美味しそうじゃん」そしてぺろりと舌なめずりをしてから鋭くとがった犬歯をみせ、グランマはわたしに再び鳥肌を立たせました。
「もうアデッドには出られるの?」はちみつを垂らした乳酒を舐めつつ、黄金卿がわたしに投げかけました。
わたしはかぶりを振ります。「まだ、飢えは来てないです」
「ようやく乳離れしてくれたとこなんですよー。困った甘えん坊さんです」言葉とは裏腹にどこか嬉しそうな調子でそう話しながら、ママは三杯目のぶどう酒に手を伸ばしました。
三卿といえば大地ステラでもっとも強靭なみっつの魂で、煉獄の山頂に築かれた枢密院の施設に住まい、ちからをもってして伝統の秩序を守ってくれている存在です。ですから普段はとても多忙で煉獄の血族でもめったにお目にかかれず、今回はおしのびでやってきたそうですが――触れるものを焼き尽くすような、業火のごとき赤銅の体毛にこがね色の虹彩、きらびやかな美貌は目を引かれざるをえません。黄金卿に気づいたほかの客がちらちらと盗み見るも、とうの本人は頓着してない様子です。
黄金卿は気さくというか、あまり建前を気にしないかたでした。黄金卿であると紹介され恐縮していたわたしですが、いくつか言葉を交わすうちに今ではすっかり厳格な印象を打ち破られていました。それどころか、少々気安すぎる気もしますけれども。たとえば、
「乳といえば……にゅふふふ、プロムったらやっぱりおっぱい好きね」黄金卿は蔓苔桃の砂糖漬けを口に放り込み、わたしの胸元を見てからにやにやと目を細め、「エフィほどじゃないけど、あたしぐらいはあるかな。やーらかそーだし、なかなかそそるわねェ……ちょっと揉ませてくんない?」
とまァ、こんな具合に。
「お、お断りします……」なんとも形容しがたい怖気を感じ、温めたりんごの果汁をすすっていたわたしは外套を深く被りました。
「お母さまがプロムのおっぱいをぺったんこにしたからですよー。かわいい子どもたちに惨めな思いはさせたくなかったんです。プロムのお乳の出はすごく悪かったんですから」ママが拗ねたように水晶の杯を呷りました。
「あらァ、ほんと? あたしのおっぱいが忘れられないだけじゃなくて?」
「めっそうもない。単なる教訓です」
「あたしだって、よかれと思ってつるつるにしたんだよ? だって実際、アデッドじゃ重いし鬱陶しーし邪魔だしね」
「何をおっしゃるんです。いちばんに冷やかしていたのはお母さまじゃありませんか」
「そりゃかわいい娘だもの。かわいがって当然じゃない?」黄金卿のしたり顔に、ママはむっつり顔。
「もう、お母さま。こんなこと話すために呼んだんですかー?」
「まさか。いい話を小耳に挟んだから、教えたげよーと思ってね――でも、本人は不在みたいね?」
「エフィちゃんですか? なんでも用があるとかで、おうちを飛び出して行っちゃいましたけど」
「ふゥん。ま、いてもいなくても変わらないからいーんだけどね」黄金卿は声を潜め、「どうやら枢密院がさ、エフィをやっとこさ血族に加える気になったっぽいのよ」
「……ほんとですか?」ママが目をまんまるにしました。
「まァね、今回のアデッド、あたしもサイマト中継で見たけどさー、ちからの差が歴然だったもん。たった一撃で、ばしってやっちゃったしね。さすがにもう顧問官たちの抑えが効かなくなったんだろうねェ、没薬卿でも。でもま、これで、エフィは一安心だね」
蒼ざめた血族。それは魂の強さと価値が非凡であると認められた証です。ステラの御血を入れれば飢餓はいくらか軽減され、愛する誰かと契りを結んで、枢密院から発行されている写しの魂原器を胎で孵し、人形に新たな魂を宿すことができます。また、効率よく魂を研鑽するために血族は血族にしかアデッドを挑めませんが、地獄とは違って挑まれても拒絶できるのです。
「で、もひとついい話があってさ、こっちはあんた絡み。エフィが血族入りするのにあわせて、プロム、あんたを顧問官に召し上げようって動きもあるみたいなのよ。これはわりと極秘なんだけど」
「顧問官候補ではなく、ですか?」
「そう。破格よねェ、たぶん前例はないんじゃないかな。さすがあたしの子だわね」
「お母さまは顧問官すらすっ飛ばして黄金を拝命したじゃありませんか……」
「それはあたしがあんまり煉獄を食い散らかしたもんだから、あたしに枢密院を食いつぶされないよー強引に任じられただけだけどね。ま、あんたもゆくゆくは三卿になって、やれ炉心卿プロムだの、プロム・ウェスタだの呼ばわるこそばゆさを体感するがいいわ」
枢密院は三卿のもとで、地獄と煉獄を束ねる集まりです。すべてのアデッドにおいて取りまとめ役を担い、二重伝承統一の理に基づいて正しく魂同士が食らいあうよう監視しているのです。
「……いやいやー、事実なら栄誉あることですけど、さすがにそれは没薬卿がお許しにならないんじゃないんですか?」
「ところがどっこい、そーでもないのよね、これが。かなーりキャスの息がかかってた顧問官の、なかでもひどく心酔してた腰ぎんちゃくから、あの子の愚痴と一緒に聞いた話なの」
「お母さまが脅したわけじゃないんですよね」
「ないない。枢密院なんて今も興味ないし、あたしが裏で動いてなんかするとか絶対無理。今まで食べる以外しなかったから、とっくにキャスに乗っ取られてちゃってたわけだし。ま、それが原因で、キャスに圧力かけられてエフィの血族入りが遅れちゃってたのは悪いかなとは思ってるけどさ」
「それでどうしてまた、プロムたちを?」
「キャスへのあてつけじゃない? 枢密院も、もうめんどくさくなってきたんじゃないかなァ、あの子のわがままに付き合うの。プロムが顧問官になったら、キャスは相当嫌がるだろうからね。顧問官の腹黒い連中にとっては、さっさと乳香卿の穴を自分で埋めたいってのもあるだろうけどさ。虎視眈々と三卿の席を狙ってんのはひとりじゃないはず。近いうちに院内でひと悶着起きるわねェ……ってこれは他言無用よ、ベリィ」
「……あの、わたし、席外しましょうか」次第に物騒な流れになってきたのでわたしは腰を上げかけます。
「いーのいーの、聞かなかったことにしてくれれば」黄金卿は顔の前でひらひらと手を振り、「今から話すことは特に……聞き耳立ててるやつがいたら、一匹残らず食ってやるし」わたしに片目をつむってみせました。
その一言で周りにいた客が、我先にと店の外へと逃げ出していきます。それを横目で見ていたママがげんなりしました。「まだあるんですか……」
「これがあんたたちに一番耳に入れておいてほしい内容でさ、たぶん今んところ知ってんのは二公とあたしと、犯人だけ」
「犯人? お母さま、もしかして悪い話ですか?」
「極めて、悪い話よ――実はね、プラチナ・アルシーヴがひとつ、なくなっちゃったの」
聞いたとたん、ママが身体を硬直させました。自然と空気が険しくなったような気がします。
「……まさか」
「そう、まさかよ。あたしも二公から直接聞かされなきゃ、信じなかったでしょーね」
「そんなこと、ありえるんですか?」
「ま、普通はありえないよね。枢密院も、あたしたち三卿でさえ近づくことは許されないし、仮に持ち出したとしても、プラチナ・アルシーヴはどれもステラのサイマトに直結してるから一発で在り処がばれちゃうもん」黄金卿が肩をすくめました。「でも、見つかんない。どこにもない。まったく魂の反応がないの」
「勝手に砕けたか、孵化したか、ってことですか」
「そういうことになるわね。それこそありえないんだけど。だから、犯人がいると睨んでる」
「それをプロムたちに聞かせたかったということは――」
「あァ、その心配はないわ。あたしもあんたたちも持ってない魂だもん。だから砕けただけなら、率直に言って、あたしたちには無関係なの。でもねー、なーんか臭うのよね」
「……ひと悶着あるって、そういうことだったんですか」
「ほとんど勘だけどさ、どーも怪しいのよ。色んな事態が急に動きすぎてる気がするの。単なるあたしの思い込みならいーんだけど、たぶん、これはまだまだ序の口って感じ。だから警戒しといてね。言うまでもなく、キャスの子どもたちには」
「ちなみに、なくなった魂ってなんだったんですか?」
「蛇よ。それもただの蛇じゃない。永遠に子種なき月の子、バジリスクの魂なのよ。奇しくも誰かさんの魂は、――月。これって都合よすぎるじゃん?」
胡蝶の華へ