※この作品はR-18です。

アーティフィシャル・キャットファイト   作:伊土 讃阿

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胡蝶の華

 

 

 胡蝶の華

 

 

 

 月に囚われた花は渇いている。蝶に蜘蛛を食われたからだ。

 我が子を喪うと、手足を失うのにも似た喪失感を覚える。そのぽっかりと口を開けた喪失感は虚無であり、魂の飢えとはまた違った、たとえようのない何かを引き込まんとする根源的な欲望へと変わる。

 獅子は子をなすために子を殺し、雌を発情させるという。花のめしべを煩わせるこの昏い疼きは、それに他ならない。

「……アルルさん」花の呼びかけは突然だったにも関わらず、取り決められた場所へ誘い込まれた蝶が、一羽。蝶に生身の四肢はなく、骨細工の義手を備えているところから察するに、無我夢中で駆けつけたのだろう。

 一輪の花が咲いているのは、本来植物が自生しないはずの地獄、その片隅。花と蝶の逢引は決まってひとけのないここだったが、花がアデッドの直後に蝶を呼び出したことは一度もなかった。

 花の緑の肌に新たな痣がないか探しているのだろう、蝶は目を配らせる。「なにか、あった? ラフラは――」肩で息をしながらこちらを気遣うような蝶を、花の蔓が引き寄せた。「んんっ――」

 唇を重ね、そのやわらかさを堪能するのもおざなりに、花は甘苦い濃厚な蜜を含んだ舌を差し入れた。口蓋や歯茎の裏まで蜜を塗りつけるごとく念入りにねぶり、我が子の魂の残滓を味わわんばかりに蜘蛛を噛み砕いた歯を舐め、唾液をすすった。

「ふぁ……ん、ふ」蝶は凛とした容貌を運動とは別の要因によって朱に染め、薄紅色の瞳を情欲に潤ませていた。

 蝶の全身の筋肉が弛緩し、その場に崩れ落ちそうになるのを蔓で抱きとめ、花の下半身に茂ったおおきな花弁に寝かせる。身をかがめてついばむようにくちづけを繰り返していると、蝶が息を漏らして首筋にすがりついてきた。骨の義手が、花を言葉の発せぬ人形にさせている首枷とこすれ、喉に硬い感触を生み出したが、花は気にも留めず無数の蔓を服に忍ばせ蝶の肉づきのいい体躯を翻弄していった。

「あっ、ぅっ、アルルさ、んっ、はぁんっ……」蝶が小さな喘ぎ声の合間に、花の名を呼ぶ。その声は陶然としていて、服の下で蔓に締めつけられた乳房同様、淫靡にゆがんでいた。

 花は応じるように蝶に甘ったるい吐息を吹きかけ、馥郁なる花の香りは蝶をさらに狂わせた。

「あぁっ、あっ、お、あはっ……、あっ、くぅんっ……、はっ、はっ、はっ」焦点の定まらなくなった蝶は、ただただ花の毒に溺れ、もだえていた。もはやその頭のなかには蜜毒がもたらす快楽しかなく、正常な思考もままならぬだろう。普段より熱烈な花の求愛を怪しむ余地もない。

 アデッドで花の産んだ人形が食われた直後は、決まって妹に振るわれる一方的な暴力が、熱を鎮めてくれるはずだった。だがアデッドを終えてもどういうわけか、妹は帰ってこなかった。熱が欲するままに、後ろめたい感情を蝶にぶつけるしかなかった。蝶を劣情の捌け口にしてしまっている己を忌み嫌いつつも、花弁の奥で溶けた魂は花に自制を許さなかった。

 子を喪った寂しさに泣く筒状のめしべを、蝶のいやしく充血した陰核に被せる。蜜を塗りつけながらめしべのなかの繊毛でしごきあげ、吸いつく。

「んあぁっ! あっ、いうっ、くぁっ、アルルっ、さんっ、それっ! だめっ! とけるっ、からぁっ!」蝶は普段の落ち着いた姿からは想像もできないようなあられもない声で泣き叫び骨細工の四肢を振りまわして暴れるが、蔓の拘束から逃れるにはいたらない。

「あっ、あっ、あっ、っく、いっ、くっ、アルルさんっ、まってっ、いくっ、いっひゃ――!」

 ひきつけを起こしたのかと思わせるほど蝶の腰が跳ね、股の間からは透明な体液が大量に迸る。そんな状態になろうとも花のめしべは蝶の陰核に食らいついて離さない。

「んぁーっ! いやっ、とめっ、てっ! とめてっ、いくっ、こんなっ、まだいってるのにぃっ! くるしっ、のにっ、またいくっ!」蝶がどれだけ訴えても、花の愛撫はとどまるところをしらない。毒を飲まされ最も敏感な突起を吸引されつづけ、いまや両の乳首から白い体液を滴らせながら、蝶はなすすべもなく高みに上りつづけるしかなかった。

 ――あの子は知らないだろう。蝶の生み親は、我が子が花と逢瀬を重ねていることを。あの子はとうに花を諦めていた。子どもたちを守るために、あの子は恋焦がれた花との仲を引き裂かれても反発したりしなかった。それは正しい別離の方法だった。

 ――蝶は知らないだろう。さきほど食らってきた蜘蛛やこれまで食らってきた人形たちは花の妹である月の子ではなく、花の子であることを。知らぬまま、蝶は妹から花を救いだそうと花の子を狩りつづけている。そして花を衝き動かしている欲求の正体とそれを誰が引き起こしたのかもまた蝶は知る由もなく、花の欲求を受け止めつづける。その危うさが、花を果てどなく駆り立てていく。

 今、蝶と精神行列で繋がればそれらはあっさり露見するだろう。蝶が花を慕い、花と蝶の生み親を再び結びつけたいがために命を賭しているまっすぐな気持ちと、花の浅ましい劣情とをやりとりすることになるだろう。

 花は静かに泣きながら、蝶を、かつて愛した炉心の子をむさぼった。

 

 

 

 

 

 

 ――憎い。あたしからなにもかもを奪い去っていくあの血が憎い。

 煉獄にいたみぎりから、いや、あたしが目覚めた瞬間からそうだった。あの血はことごとく、あたしのすべてを見下し、踏みにじり、蹂躙していく。忌々しい黄金は血の契りを破ってあたしの胤親から胤を奪い、用が済めば寝込みを襲って食らった。胤をわかちあった黄金の子はあたしと契りを結びあたしの胤を受けて子を成したかと思えば、その傍らで隠れてこそこそと姉を篭絡していた。胎を掻っ捌いて子宮を焼いたあと地獄へ放り出し、ことなきを得たが、あたしの胤の子は子でことごとく大枚はたいて買った高価な魂を食らいつづけ、いまやあたしまで地獄に身を落とすはめとなった。貪欲で荒淫なあの血は結局、ちからが欲しかっただけだ。その我欲を満たすためだけに、あたしたちを騙し、裏切り、食いものにし、しっちゃかめっちゃかに掻きまわしていった。

 獅子の血。異様な食欲。異常な淫欲。なにが黄金、なにが炉心だ。その銘はあたしたち没薬と乳香の血を燃料に燃え盛る下劣な恥知らずの代名詞にすぎない。許せない。許してはならない。あの血だけは。

 因果に決着をつけるためには、自分たちで始末をつけなければならなかった。伝統と枢密院の目がある以上、没薬卿が関与するわけにはいかない。そしてあたしたちもまた御血を受けている以上、直接手を下したりはできない。正しく魂は食わねばならない。だから姉に産ませて、その子に食わせるしかなかった。あたしたちの血の末で。黄金の支流の混ざらぬ高潔で。

 住処にしている地獄の穴ぐらに戻る道中、酒に混濁し足取りも覚束なかったが、胃袋にくるまれた白金の宝珠だけは握り潰さんばかりに手放さなかった。

 没薬卿に押しつけられたこのちっぽけな魂が、あたしに残された最後の可能性だった。プラチナ・アルシーヴ。蓮華への扉。原初の魂。純潔なる思想の源泉。この白金がいかなる祖を秘めているのか、没薬卿は告げずに消えたが、確認するまでもなく、わかる。触れているだけで白金は、魂の重さによってあたしの精神を重く軋ませている。莫大な質量、途方もない深淵、その使者が、この手のひらの宝珠に座している。

 これを孵すのか。これを、あたしと姉で。そう考えるたびに鼓動が早まった。これならやれるという確信があった。あたしがどれだけの魂を食らおうとも重ねようとも絶対にかなわぬ、あの炉心すら葬れる。この魂原器は畏怖とともに、あたしをそんなきもちにさせてくれた。月が炉心を決して砕けぬように、この魂は炉心をあっさりと飲み込むだろう。この魂なら穢れた血筋を断ち切れる。確実に。

 だが――なぜ今になって没薬卿はこんなものをよこしたのか。三卿があたしに加担して、血族でもない人形を謀るとなれば、いや、プラチナ・アルシーヴを持ち出したことが発覚すれば、あたしよりも没薬卿のほうこそただではすまないだろう。

 それに、だ。このプラチナ・アルシーヴ、あたしが今回負けたから用意したわけではないだろう。もっと以前から、没薬卿はプラチナ・アルシーヴをなにかに使う腹づもりだったはずだ。忌むべき我が胤の子、エフィが血族入りを決めたからやむをえず、などといって簡単に盗みだせる代物ではない。没薬卿のことだから、枢密院がらみなのは火を見るより明らかだ。

 もし――当然、あたしは常にそのつもりだったが――今回、あたしが勝っていれば。姉の人形がエフィを食っていれば。このプラチナ・アルシーヴはどうなっていたのだろうか。

 それ以上は踏み入るな、とあたしの本能が告げていた。没薬卿の、あたしの生み親の深い影が目の前に広がっているのを実感していた。白金の魂原器を受け取ったからにはもうあたしも当事者だが、無用な詮索をすれば最後のよりどころさえ失いかねない――。

 床にも壁にも革すら張れず、ステラの肉が剥きだしになっている穴ぐらに戻ると、一体のマンドレイク――姉が食事を用意して待っていた。あたしが帰ってきたのを察するや伏せていた顔を上げ、また殴られると思ったのだろう、おびえるようにすぐに花弁に視線を落とした。

 姉に悪気はないが、たったそれだけのしぐさであたしは猛烈な怒りと肩に重くのしかかる疲労感を覚えていた。あたしは姉と食卓の横を素通りし、薄暗い寝室に向かい、硬い寝台に腰を下ろして脇に魂原器を放り出した。

 頭のなかでさまざまな思いが渦を巻いていた。怒り、恐れ、やるせなさ。魂原器を孵すきもちはすっかりしおれていた。なぜ、と思った。なぜあたしと姉なのかと。昔はこんな関係ではなかった。きちんと姉を好きでいられた。触れ合うことに抵抗もない、ごく普通の姉妹だった。

 姉とはサイマトを結ばなくなって久しい。ふたりでいても言葉を交わすことすら、皆無と言っていい。炉心に裏切られて以来、姉のきもちを確かめたことはない。ないが、姉はあたしを快く思ってはいないはずだった。ことあるごとに殴りつけ、どこの馬の骨とも知れない人形に胤をつけさせ――無論その後、種馬は食ったが――苗床人形同然に扱い、子どもたちをさんざん使い捨ててきた。

 姉のこころを知るのが恐ろしかった。あたしが嫌われるのはまだいい。しかしこころのどこかで、姉はまだあの血に未練があるのではないかと疑う自分がいた。姉が頑として炉心と戦おうとしないのも、あたしの疑念を助長させていた。血の呪縛。契りの呪い。囚われた魂。坤の雷子のように目に見えず、どこにでもあり、ここにしかなく、逃れることはかなわない。あたしと姉。あたしと没薬卿。あたしと乳香卿。そしてあたしと炉心、姉と炉心。その因縁が怖くて仕方なくて、自暴自棄になっていた。

 もうあとはない。廃棄処理。最後の機会。没薬卿の言葉が鼓膜の裏側でよみがえり、最後にしてようやくあたしを冷静にさせた。姉をあの血から守るため。姉のため。それはひとつの動機に過ぎないが、ないがしろにしていい理由にもならないはずだった。

「……あ、の……ラフ、ラ」首枷につぶされた喉から発せられる、低くざらついた声。「ごは、ん……食べ、ない、の……?」

 おそるおそるといった様子で寝室の入り口からこちらをうかがう姉がいた。その顔は喉の痛みをこらえているようでもあり、あたしのかんしゃくが爆発しないかおびえているようでもある。

 なにを――なにを恐れているのか。あたしよりずっと強いはずなのに。どうしてあたしに殴られるがままに、いいなりになっているのか。頼みもしていないのに帰りを待って、料理なんか用意して。

 ――そんなものは重々承知している。没薬卿に黄金の血を狩れと命じられ、ひとりめを産むと申し出たのは、姉のほうだった。だから、つけこまれた。悔しくて、たまらなかった。

「……いらない」

「そ、う……」

「……待って、アルル」肩を落として去る姉を呼びとめ、「こっちに来て」

 しずしずと姉があたしの前にやってくる。うつむき加減で目を伏せ、ぴっちり唇を結び、たぶん殴られた際に舌を噛まないように歯は噛み合わせているだろう。あたしはそのこわばった頬にそっと触れた。びくりと姉の肩が震えた。無理もない。あたしがそうさせているのだ。

「そっ……そんなに、こわがらないでよ……ぶったり、しないわよ……」

 姉がうっすらと瞼を上げる。長いまつげに縁取られた黄色の瞳が覗いた。闇のなかで、姉の瞳ばかりがいやにまぶしかった。

 思わず目を背けそうになる自分を抑えつけ、「……その……ごめん」つぶやくように謝った。許しを請うたわけではない。姉に対してどう接していいか、もうわからなくなっていただけだ。

 それは姉も同様で、はじめは解釈に困っていたようだったが、やがておっかなびっくりあたしの手を握った。その手を驚かせぬようのろのろとたぐりよせ、甲に軽く口づける。なめらかで甘く香りたつ緑の肌が、あたしのなかに郷愁を呼んだ。

 姉が身体の緊張を解いた。室内にふわりと花の香が広がった。

 

 

 

 

 

 

 

「もー、だめですよー、アデッドのあとに調律もせずに、激しい運動しちゃ」尻尾で触診しながらの母さんのたしなめ。

「……ごめんなさい」義手と義足を外し、服も脱ぎすて寝台に横になり、母さんの顔をまともに見られなくて泳ぐ視線。

 アルルさんに解放されてから戻ってきた我が家はとうに寝静まっていたけれど、わたしは母さんをやむなく起こした。わたしは器用なほうではないし、生まれつき生身の手足を持ちあわせていない。きっと我が子を調律するのもままならないだろう。自分の不調さえ満足に癒せないのだから。

 不調。胎のうちに熾き火を飼っている気分だった。全身がけだるく汗が吹き出し、腰の芯、もっともやわらかい器官がどうしようもなく切なくひくついていた。アルルさんの寵愛を受けてから、それはずっと続いている。

 毒が抜けてないのだろうか。普段以上に濃厚な蜜だったように思う。未だに喉の奥に粘液が絡みついているような、いがらっぽさもあった。

 ――密会が、母さんにばれてないだろうか。

 それだけが気がかりだった。

「ここですかねー?」母さんがへその下に当たりをつけて、尻尾の鉄球を外した。

 灯篭に照らされた、鈍い煌めき。漆黒の硬質的な針。

 わたしが首肯したのを見て、「じゃァ、脱ぎ脱ぎしちゃいましょうねー。ちょっとちくっとしますよー」針が一息に直線を引き、わたしの下腹部に鋭い熱とともに赤く短い筋が浮かぶ。母さんが人差し指と中指で筋を断ち割って、わたしの体内を覗きこんだ。「あららー、ぐずぐずになってますねー……ちゃんと治せてなかったんですかねー」

「……そ……そう、かも」臓腑を刺す羞恥のせいか、うしろめたさのせいか、若干うわずったわたしの声。

「それに――」母さんがわたしの胸に手を伸ばし、「なんだかおっぱいも張っちゃってるみたいですし、まだ身体が勘違いしてるみたいですねー」

「んくっ……」甘い痺れ。身をよじり、熱い吐息を漏らさないよう懸命に息を飲み込む。

「……ふがいないママで、ごめんなさいね」唐突にぽつりと呟くように、母さんがこぼした。

「……母さんは、なにも悪くない」

「エフィちゃんには、たくさん無理させちゃってますから……」

 わたしはかぶりを振って言った。「そんなこと、ない。母さんには、感謝してる」

 嘘偽りのない、本心からの言葉。

 母さんはわたしの魂を孵してくれた。醜い肉塊だったわたしの皮をはぎ、脂をとかし、肉をそぎ肉を詰め、歯を抜き、あばら骨をけずって、わたしという人形をつくってくれた。数え切れないほどたくさんの喜びを教えてくれた。あらゆるものを与えてくれた。

 このひとのためにすべてをなげうち、魂を砕くと決めていた。

 母さんが桶に汲んだ大地ステラの肉片、乾の泥子をすくって切開した患部にすりこみ、肉のかたちを整えながら、「エフィちゃんが出かけているあいだ、ベリィちゃんとお母さまに会ってきたんですよ」

「メルチさんに……?」

「そうです。それでお母さまに聞いたんですけど、ベリィちゃん、もうすぐ血族入りなんですって」

 すっと熱が引いていく感覚。「じゃァ――」

 柔和な微笑。「もう、無茶しなくていいんですよ」すっかり安心しきったたぐいの。

 胸を刺す疼痛。血族入り――それは純粋に嬉しい。わたしを作った母さんの腕が確かである証明なのだから。子ももうけられる。執拗にわたしの魂をつけねらう胤親、ラフラ・オフィチナルムの魔の手からも逃れられる。けれどわたしは御血をいただいても、きっとラフラの子たち、胤をわけた人形たちを食らい続けるだろう。

 わたしがやらなくてはならない。誰でもないラフラの血を持つわたしが、ラフラを砕かなくては。アルルさんを取り戻さなくては――母さんのもとへ。

 それはけじめだった。これは復讐だった。わたしだったから、わたしでなければならない。誰の魂も汚さずに、わたしの鋼鉄で、わたしの牙で、わたしの体内ですりつぶし、ラフラをステラから消し去る。

 くつろげていたわたしの腹を閉じ、尾に鉄球を被せて母さんが言った。「はい、終わりましたよー」

「ん……ありがとう、かあさ――ッ!?」上体を起こそうとしたわたしの上に、母さんが飛び乗った。「か、母さん? 終わったんじゃないの……?」

「終わったから、試運転するんですよー。またおかしくなったら困りますし、それに、このところエフィちゃんとはなかよくできてなかったですから」意地の悪そうな笑み。

 唇が寄せられる。小さな舌が挿し込まれる。舌を絡めながら、張った乳房を搾るように揉みほぐされた。先端に熱い痺れが集まってくる。「んっ……、ふっ……」

 唇を離した母さんが、今度はわたしの乳首を口に含んで吸った。集まった痺れが解き放たれる強い快感と、喉を鳴らしてわたしの乳を飲む母さんの姿に、羞恥と愛おしさが募る。

 母さんが尻尾を口元に押し付けてきた。わたしは何も言わず、尾に舌を這わせて唾液で濡らした。鉄球の形状を確認するように、丹念に舐めていく。無数の人形を泣かせ、魂を砕いてきた金属の味が、味蕾を刺した。

 鉄球に体温が通い始めると、母さんは口腔から尾を引き抜き、わたしの股の間にあてがった。ぐりぐりと硬い鉄に圧迫され、秘部が温かくほころび、体液を分泌しはじめる。

「んふふ、エフィちゃんのここは、触られるとすぐ緩んじゃいますねー」

「ふぅっ……、くふっ……、そんなっ……、ことっ……ない……」

 円を描くように尾が入り口を押し広げられる。義手と義足を外したわたしは、寝台の上で母さんのなすがままに身悶えするしかなかった。

 わたしの体液をまとわりつかせた鉄球が、ぬるりと入り口をくぐって最奥をつついた。酩酊と充足に意識が混濁しつつも、わたしの膣は無意識に尾を締め上げていた。

「……エフィちゃん」子宮の入り口を小突きながら、母さんが耳元で囁いた。

「はぁっ、んんんっ……、な、に……? うっ、くっ……」

「血族になったら……今度はほんとうに、ママの子を、産んでくださいね?」哀願する声。

「――ッ!」喉が詰まる。熱が胸にこみ上げた。全身がわなないた。母さんを抱きしめる腕を持たないのが、つらかった。「産む……産むよ……ぜったい」

 ゆっくりと、母さんが尾を動かしはじめた。わたしが悦びに泣き喚いて許しを請い、気を失うまで。ひたすら、やさしく。

 母さんは最後まで、サイマトを繋げてくることはなかった。

 

 

 

 

 

 

 わたしに覗き見趣味はありません。そのはずでした。

 長く船に揺られて疲れていたのでしょう、わたしはおうちに帰って横になるなり、あっというまに眠りに就きました。ですがまもなくして、わたしは目が覚めました。痛みのせいではありません。ただ寝る前に、お小水に行くのを失念していただけです。

 寝ぼけ眼でふらふらと厠へ向かい、用を済ませたあと、ふとねえさんの部屋からママとねえさんの話し声がすることに気がつきました。わたしが眠っている間に帰ってきていたのでしょう。おかえりなさいを言おうと部屋に近づいたわたしは、しかし立ち止まってしまいました。大気の痛みが、ふたりの近すぎる距離を伝えていたのです。

 調律中なのでしょうか。だとすれば邪魔をするのはよくありません。そう思って自室に戻ろうと踵を返したわたしの足は、

「血族になったら……今度はほんとうに、ママの子を、産んでくださいね?」

 ママのすがりつくような声音に、ふたたび止まってしまいました。

「産む……産むよ……ぜったい」続いて聞こえてきたのは、涙ぐんだみたいな、嗚咽混じりのねえさんのいらえ。

 ……ママの子を産む? 今度は? ほんとうに?

 ねえさんは以前に、ママの子を産もうとした、ということでしょうか。でも血族でなければ、魂を孵すことは不可能で、ふたりはそれをよく承知しているはずです。

 そういう出来事があったというお話は、耳にしたことがありません。ママとねえさんだけの秘密――わたしが踏み込んではならないような。

「はあっ! やっ……、ぁふっ! あっ、ぁあっ!」

 普段の平静なねえさんの姿からは到底連想できそうにない、聞いているほうがどきどきしてくるような切羽詰った嬌声が次第に声量を増していきます。

 わたしは足早に部屋に戻り、長い間悶々として寝付けませんでした。

 

 

 

 

 

 

 誰かと触れあうのは久しぶりだからだろうか。それとも、相手が姉だからだろうか。あるいはプラチナ・アルシーヴを孵すための、交配だから?

 口吻だけで激しく脈打つ自分の心臓に揺さぶられて、気絶してしまいそうだった。腰から下はほとんど感覚がなく、姉の首に腕をまわしてかじりついて立っているのがやっとだった。

 姉は姉で、そんなあたしの状態を知ってか知らずか、一心不乱にあたしの唇をむさぼっては甘苦い蜜を喉に流しこんできた。蜜が食道を焼きながら胃にすべりこみ、吸収され、臓器全体が発情した性器のごとく貪欲に蹂躙を求めてうごめき、とろけているのが、はっきりとわかった。

 姉の蜜は、これほどにも甘く濃いものだっただろうか。おなじ没薬と乳香の血を継いでいる以上、いくらかの耐性は持っているはずなのに。

 ――おなじ血。おなじ親。おなじ胤。おのれの元素に酔い痴れる行為。獅子のように。没薬と乳香を深める行為。獅子を断つために。

 サイマトは、繋げられなかった。姉から繋げてくることも、なかった。

 蜜に浸され、火照った舌をやさしくあやされながら吸いだされる。骨髄ごと飲み込まれるような錯覚に陥って、何度目かの小さな頂きに達し、姉にしなだれかかった。

 あたしを抱きとめながら姉が内腿を、腫れ物でも扱うみたいに蔓で撫でていく。肩甲骨を触れるか触れないかの距離感でひっかかれ、鎖骨を唇でなぞられる。丁寧でいて容赦のない、相手の身体を強引に熟させる支配的な姉の献身。これが姉のやり方だったと思い出しながら、あたしは何度も小刻みに絶頂に追いやられる。

 前後不覚になりながら、手探りで寝台のプラチナ・アルシーヴを握った。汗ばんだ肌にとっては火傷しそうなほどにひりつく冷たい金属を、姉の弛緩し潤んだめしべに押し付けた。

 姉は一瞬驚いたような顔をするや、真顔で頷き、あたしの指ごと魂原器をめしべで咥えこんだ。粘膜に酷似した内壁の質感があたしの指を包み、繊毛がざわめいて吸いつく。

 指を抜くと、姉はめしべをあたしの陰部にすりよせ、黄金の瞳で顔色をうかがってきた。ほんとうにいいのか、とたずねるみたいに。

 かすれた声で応えた。「……いい、から……いれて……」

 ――それで洗われるなら。

 プラチナ・アルシーヴを飲んだめしべが肉の襞を引っ張りながら、あたしの臓器を掻きわけた。情欲と蜜毒で開ききった子宮口にめしべを押し込まれ、繊毛が伸びて子宮に根を張り、蜜を塗りたくった。ともすれば激痛とさえ感じる恍惚。胎内から焼かれ、魂原器を受け入れる用意をさせられていく。

「ぉおぉ……ぅっく……、ひ、ぎ」腹のなかのもっとも繊細な領域を蝕まれ、声にならないうめきを上げて仰け反り、もがいた。

 それでも、身体のなかで進行する変質を止める手立てにはなりもしない。

 やがてその瞬間が訪れた。胤のついた魂原器が粘稠度の高い体液とともに、子宮に吐き出される。

「ふぅ――っ、ぅ、ぅ、ぅ――」

 魂原器を迎えて、あたしの意思とは無関係に全身が愉悦に打ち震える。神経という神経が騒ぎ立てた。ある到来を祝福するがごとく。

 ――ある到達に歓喜するがごとく。

 姉が痙攣するあたしを胸にかき抱いた。

 ――雑音、暗黒、温かな暗黒、濡れた暗黒、上下左右のなき、ねばつく暗黒、ひどく安らぐ、最初の暗黒。

 鼻腔を花の香が満たし、心地よい体温がまどろみを深くする。

 ――あらゆる感覚が、暗黒の向こう側から押し寄せる。

 強烈な絶頂が収まっても、子宮の熱は冷めるどころかむしろ高まるばかりだった。それを異様に感じたのは、余韻が過ぎ去り始めたころだった。

「あ……つ、熱――ッ!? う、そ……」

 不自然に脈動を繰り返す質量の存在感が、際限なく増大していく。

 ――あたしを包む暗黒が、あたしを押しつぶすように徐々に狭まってくる。

 急速に胎内でなにかが成長しているのを直感で理解できた。息苦しささえ伴う、外へ向かおうとする圧力。

 ――息苦しく、暑苦しく、ただただ不快で、もがいた。

 姉も苦痛に顔をゆがめ、うろたえていた。あたしから離れようとしていたが、かなわないようだった。胎のなかで癒着してしまったかのように。

 こんなに早く孵化するはずがないのに――そんな疑問は刹那の間に吹き飛ばされた。あたしは腹を抱えてのたうちまわった。

 ――あたしを閉じ込めている暗黒を、殴りつけ、何度も蹴った。

 圧迫感が鋭い痛みに変わり、実際に子宮の壁を突き上げるものがあった。

 ――柔らかく弾力があり、暗黒は手ごたえが少なかった。爪を立て、突き破るつもりで力を込めた。

 あたしの下腹部がそれと見てわかるほどに膨張し、隆起していく。

「あ――ッ! ぎ――ッ!」

 裂けた。あたしの血をまきちらし、あたしの臓物を絡みつかせて、それが生まれた。

 ――暗黒から解き放たれる。冷たい空気が肌を撫で、脂の灯火の輝きが眼球を刺した。

 その人形は、完成されていた。醜い肉塊の姿ではなく、親の手も借りず生まれながらにして、人形のかたちをしていた。蝋を摺りこんだような青っ白い肌、細い体つきにべったりと張り付いた銀色の頭髪、真紅の瞳――あたしとまったくおなじ容姿。唯一異なっているのは、細く長く、二股にわかれた細かな白い鱗の尾。

 ――目をしばたいて喘ぎ、肺を膨らませ、匂いを嗅いだ。甘い匂いがした。腹腔に沁みるような匂いが。その匂いで、自分がひどく飢えて渇いていることに気づいた。その欲求はあたしに記憶を追いつかせた。魂を思い出した。瞋恚を思い出した。交尾を思い出した。妹とあたし、姉とあたし、我が娘と我が娘の――おお。我が母。我が暗黒。我が種子、我が根源。

 腹を断ち割られた痛みも忘れて、あたしは呆然とその人形を見つめた。人形は寝室を見回し、冷ややかな笑みを浮かべ、尾を閃かせた。甲高い音がした。あたしと同様に呆気に取られていた姉の首輪が両断され、頭部が後ろに落ちた。一瞬遅れてあたしの視界が急転し、あたしの首もまた、切り離されたことに最期に気づいた。

 ――大いなる祝福の味。胎から腹へ。魂の正しき還元。あたしはあたしたちを食らい、あたしたちはあたしをずいぶんと潤してくれた。

 

 

 

 

 

 

 突然の来訪者――できることなら二度と会いたくなかった相手。

 緊張か不安か、気づけばベリィが隠れている居間の奥に目を走らせてしまう。招かれざる客は、ベリィの存在を知らない。というより、廃棄処分したと思い込んでいる。視認されて試しにサイマトの波を合わせられでもすれば、一発で明らかになる。まだベリィが生きていることを、知られてはならなかった。わたしの胤親を産んだ母親――没薬卿キャスにだけは。

「すみません、何も出せなくて」母さんが申し訳なさそうに安物のぶどう酒を注ぐ。

「かまわないわ。お茶をしにきたわけじゃないもの」仮面の下から、低くしわがれた声。闇色の外套も石膏の仮面も、取る気配なし。連れもなし。過去の軋轢も、なかったかのような振る舞い。

「今日はまた、どういったご用件で地獄くんだりまでいらしたんですか?」

「いくつか伝えておきたい話があるのよ。今、枢密院ではプロム、あなたを迎え入れる準備を進めているの。顧問官として、ね」

 ずっと押し黙って居間の隅に座っていたわたしは思わず腰を上げかけたが、母さんは顔色ひとつ変えなかった。「どうやらそうみたいですね」

「あら、知っていたのね。どちらさまからうかがったのか、察しはつくけれど」こちらも素っ気なく。仮面に覆われ、表情も目線もはかれず。「それで、あなたを顧問官に任ずるにあたって、あなたのちからを試したいの」

 嫌な予感。母さんもそのきな臭さを嗅ぎ取ったのか、眉根をわずかにひくつかせた。「ちから試し……アデッドですか?」

 没薬卿は肩をすくめた。「いえ、血なまぐさくて危なっかしいものではないわ。枢密院の仕事を、ひとつ頼みたいの。実は今、枢密院は失せものを探すのにごたついているのよ。失せものは枢密院にとって、とっても大事なものなのだけれど、どうしても人手が足りなくて。そのお手伝いをしてもらいたいの」

「……」母さんはじっくりと考えこむそぶりを見せた。

「あァ、付け加えておくと、あなたが見つけられなかったからといって、顧問官にしない、なんて意地悪はしないわよ。そうね、これは枢密院に少しでも馴染んでもらうための練習と思ってもらってかまわないわ」なだめる口ぶり。やたらと枢密院を強調してくる没薬卿。つまり遠まわしの脅迫――拒否は許さないぞ、と。

「……ちなみに、その失せものとは、なんですか? どういったいきさつで紛失したんです?」母さんが慎重に、言葉を選ぶようにたずねた。

「そのあたりは枢密院に顔を出してもらってから、追々ね。まだあなたの返事を聞いてないから」そう嘯く仮面は、母さんがうんと言うまで帰らないつもりらしかった。

「……」ふたたび母さんの熟考。誰かとサイマトを結んでいる様子もない。

 見え透いた陥穽。没薬卿キャスは母さんの腹を裂き、わたしたちを追い出してから今まで一度たりとも接触してこなかった。わたしが知っている母さんなら、危ない橋を渡ろうとはしない。わたしたちを守ることを最善に考える。どうにか身を引けないか、すぐに打診するはずだ。母さんにはなにやら思う節があるらしい。

 母さんの確認事項への推察――枢密院の失せもの探しを、母さんは既知? 失せものに心当たりがある? 母さんは自分が顧問官に召し上げられることを知っていた。なら、失せものの件も含めて、メルチさんに何か吹き込まれていた? 

 加えて、わたしには一言も漏らさなかった。わたしに知られたくなかった? それほどに危険な失せもの? それほどに深い因縁? さらなる推察――まさか三卿か、ラフラやアルルさん絡み?

「これはひとり言だけれど」ほとんど聞き取れないぐらい声を低くして。「失せものが見つかるとわたしも助かるの。見つけたひとには報酬を与えたくなるでしょうね。たとえば――壊れた子宮を治す薬とか」

 頭に血が上るのがわかった。わたしは奥歯を噛み締めた。何を今更……いけしゃあしゃあと。

 母さんはお腹を撫でていた。服の下の、醜く引きつった縫合跡をなぞっているのだろう。「……わかりました」かあさんの首肯。「受けさせていただきます」重々しく。

 没薬卿は席を立ち、「そう言ってくれると信じてくれたわ、あなたならね」早々に退去した。ぶどう酒には、指一本触れなかった。

 居間にベリィを呼ぶ前に、机の上を片付け始めた母さんに声をかけた。「……どうしてわたしに教えてくれなかったの?」

 没薬卿が残したぶどう酒を一口飲み、「顧問官の話ですか?」

「それもだけど……」

「今はまだエフィちゃんには、目の前のことに集中してほしかったんですよー。これは、ママひとりの問題ですから」

「でも、いいの? メルチさんに相談したほうがよかったんじゃない?」

 母さんはかぶりを振った。「お母さまは、お忙しいひとですからねー。……それにたぶん、だからこそ没薬卿が直々にいらっしゃったんですよ」

 獅子のいぬ間に、ということか。

「心配はいりませんよ。煉獄ならそれだけお母さまに近いですし、第一、ママは誰にも負けませんから」

 気丈に胸を張る母さんに、わたしは頷かざるを得なかった。

 底知れないなにかの予感――わたしは間違いなく、母さんを止めなくてはならなかったのに。

 

 

 

 

 

 

 ひりひり。ぞわぞわ。ちくちく。ざらざら。

 煉獄の酒場、ポールサイドが近づくにつれ、その感覚は強くなる。肌を焼く――肌を舐める――肌を刺す。魂の軋みが告げる、恐れに似たもの。莫大な質量。

 生唾を飲み込む。娘たちを連れてこなくてよかったと思いながら。没薬卿と失せもの探しの件を相談するために、ポールサイドで待ち合わせているはずのお母さまに、サイマトで呼びかけてみる。返答はない。繋がっている実感も。深淵にでも語りかけているよう。掴みどころがなく、魂が掻き乱され、引っ張られる感覚。ひりひり。

 ポールサイドの前に立つ。木戸の隙間からは明かりが漏れているものの、物音も話し声も聞こえず。異質な静寂。大地ステラの脈動がやけにおおきく聞こえる。尻尾の鉄球を外して、炉針を剥き出しに。戸を引く。店に踏み入る。ぞわぞわ。

 視界に鮮やかな赤が飛び込んでくる。むっとする熱気と酒気、鉄錆の匂い。いくつもの穴をうがたれた大理石の床、粉砕された卓と椅子と水晶の杯、肉片、骨片、切り飛ばされた人形の手足、食い散らかされた臓器、おびただしい量の血溜まり。虐殺の名残。暴虐の残滓。ちくちく。

 目を見張る。店の中央に、ただひとりだけ、生きて立つもの。おそろしく白いのは、肢体と、二股に分かれた長い尾。銀を縒ったような長髪、娘たちに似た赤い瞳孔――ラフラ? 似ているようでどこか違う、甘苦い花の、澄んだ冷たい香り。ざらざら。

 白い人形がこちらに気づく。屈託のない微笑。尾をくねらせ、口を開く。「久しぶり、プロム」

「ラフラ……ですか?」くらくらする。酒と血と花の香に。

「そうよ? 他に誰がいるっていうの?」心なしか艶っぽく、無邪気に。

「……どうして、ラフラがここにいるんですか?」間合いを測って警戒しながら。

 とびっきりの冗談を聞いたみたいに、さぞおかしそうに笑う。「もう、何言ってるの、プロム? あなたが呼び出したんでしょ」

 過ちに対する、怒りや恨みの気配はなし。記憶に異常? かつての口ぶり、かつての親しさ――ふたりっきりで、あるいはラフラとアルルの三人でここによく飲みに来ていた頃の思い出が、脳裏に鮮明に蘇る。胸に疼痛。すぐに追い払う。

「この惨状は、ラフラがやったことなんですか?」

「ん? あァ、これね。小腹が空いたから、プロムを待ってる間にちょっとかじってたの」紐かと見紛う細さの赤い舌をちろりと見せる。錯乱しているどころか、完全に正気を失っている。何かが欠如している。ずれきっている。無意識に後ずさる。

 咄嗟に閃く。驚愕のあまりに抜け落ちていた、ここに訪れた原因に思い至る。消えたプラチナ・アルシーヴ。お母さまの言及――永遠に子種なき月の子の魂。ラフラはやはり犯人か、そうでなくとも何らかのかたちで関係している。

「……失くした魂原器は、どうしたんですか?」

「魂原器? 失くした? なんのこと?」きょとんとして。

 ラフラは器用ではない。嘘をつくより逆上するたち。プラチナ・アルシーヴについては本当に無知な雰囲気。それでもまともな状態ではないことに変わりはない。

「覚えてないなら、いいです。きっと些細なことだったんでしょうし」逃げる隙をうかがう。今すぐお母さまに会わなければ。「用事はそれだけです。では、プロムはこれで失礼しますね」

「ちょっと、久しぶりに会ったっていうのに、それだけ? そっちから誘っておいたのに?」詰め寄られる。脂汗が吹き出る。冷たい匂いが濃くなる。

「こ、このあと、ひとと会う約束があるので――むぐっ!?」唇を奪われる。二度と感じられないと思っていた懐かしい感触。かつて愛したものの体温。意識が唇に集中する。足腰の力が抜け、一瞬気が緩む。その不意を突かれる。「――ッ!?」脇腹を貫く高熱。食道を血が駆け上がる。ラフラを突き飛ばす。よろめきながら離れる。

 冷ややかな微笑み。真っ赤に染まった尾を口元に寄せ、ぺろりと舐める。「おなじ味ね。今も、昔も」

「ラフ、ラ……?」口腔に次から次へと血液が溢れる。

「そのあたしなら、食ったわ」あざ笑うように。「ニース――それが今のあたし」尾を覆う鱗が羽ばたくように開閉する。白い粉が霧状に、酒場に充満する。ざらざら。

 眼に沁み、噎せ返るほどの濃密な冷たい臭気。ざらざら。手足が痺れ、異様に重くなる。毒。ざらざらの。きっと体内にも排出されている。不利な環境――尾を前に突き出す。粉を焼き払おうと炉針を発揮させる。急速に黒い針が加熱され、白熱し始める寸前、尾の向こうにラフラ――ニースの含み笑いと、無機質に変質していく肌が見える。

 罠。轟音、衝撃、吹きすさぶ炎。酒場の外に放り出される。肉の大地を転がる。立ち上がることもあたわず、全身が炭化――粉塵爆発。粉は燃える毒。二段構えのだまし討ち。

「面白いぐらい引っかかってくれるのね」全壊した酒場のなかから、ニースが姿を見せる。歩くたびに零れ落ちる、体表を保護していた硬質的な鱗。まるで岩石。万全の守り。

 以前の瞬発力と腕っ節を持ち味としたラフラからは想像もできない手口、体質――本当に別人なのだという実感、確実に引導を渡しに来ているという確信、絶対に勝てないという畏怖。

 ニースが目の前にやってきて見下す。「さようなら、プロム」尾が閃く。

 首が切断される直前、鈍い音とともにニースが吹き飛ぶ。引っ張りあげられるような強い浮遊感。やわらかな温もり。腕のなかに抱きかかえられていることに気がつく――ああ。

 赤銅色の髪。「ごめんね、ごめんね――」涙を流しながら、走るお母さま。

 意識が暗黒に落ちていく。鼻腔に残った冷たい香り――月の香りの夢を見ながら。

 

 

 

 

 

 

「食い損ねたわね、ニース」酒場ポールサイドの跡地に、闇色の外套が現れた。

 あたしは背を向けたまま、身体に張り付いた鱗を払い落としていた。「邪魔が入ったせいよ。アデッドならこうはいかないし、ちから関係ははっきりした。もうプロムには負けない。機会もいくらでもあるわ」

「……ならいいのだけれど」没薬卿は念を押してくる。「それでも、気を抜いてはならないわ。向こうも策を練ってくるかもしれない」

「策があろうとなかろうと、プロムもエフィも、もう敵じゃないわ。黄金卿は、母上が抑えてくれるんでしょ?」

「そうね。でも、最後の一匹はどうなるかわからない」

「最後の一匹?」思わず振り返った。「どういうこと?」

「プロムにはエフィ以外にまだひとり、子どもがいるのよ」

 あたしは唖然とした。「そん、な……あいつは、あいつの子宮は、焼いたはずじゃ――」

 芋虫女はまだ血族ではない。ゆえにそもそも魂を孵すことなどできない。黄金卿が人形を身篭っていたなら、枢密院や没薬卿に露見しないわけがない。

「どうしてかはわからないけれど、プロムのところへ行った折に気づいたわ。あなたが食べるべき魂は、もうひとつある」

 血が沸き立つ。性懲りもなく……根絶やしにしようとすればするほど増えやがる、汚らわしい血が。――だが。

「関係ない」鼻で笑う。「何人いようとおなじこと。必ずあの血統を食い改めて、統べてやるわ。そしてあたしたちに返してもらうわ……血肉の一片から、その一片に宿るいかずちとほむらの一粒まで」

「期待しているわよ、ニース」

 

 

 

 

 

 

 月ってなんなの? そうママにたずねたことがあります。あれはママに連れられて黄金卿と顔合わせをした酒場からの、途上でした。

 月の砂。黒焦げになって黄金卿に担ぎこまれてきたママは、うわ言のようにそう繰り返していました。

 そわそわと居間でママの治療を待つわたしの肩に、ねえさんが骨細工の手を置きました。「メルチさんを信じて、ベリィ。あのひとの腕は、本物。ねえさんの義手も、メルチさんが作ってくれたんだよ」とわたしを慰めてくれるねえさんの声も、わずかに震えています。きっとねえさんも不安でたまらないのでしょう。

 少し前におうちを訪れたお客様と関わっているのでしょうか。ママは、お母さまに会ってきますのでおるすばんをお願いしますね、と言い残し、思いつめた面持ちで酒場に出かけて行きました。帰ってきたのは、程なくして――変わり果てた姿で。

 ねえさんは人形を治せないそうですし、わたしはまだ治し方を知りません。ですから、黄金卿だけが頼みの綱です。

 ママの寝室から、憔悴した様子の黄金卿が出てきました。

「あッ、あのッ、ママは――」

 黄金卿は後ろで縛っていた赤銅色の髪を解いて、獅子の耳を掻きました。「ひとまずは安定したかな。元通りに治せない故障じゃないし。今は寝かせてあるけど、さっきは意識もはっきりしてた」

「よかったァ……」わたしはほっと胸を撫で下ろします。

「でも完治にはほど遠いわね。治しきるまで、あたしがちゃんと面倒は見るけどさ。それまでしばらくここで厄介になるわよ」

「メルチさんが母さんを診てくれるのは心強いけど、枢密院のほうは? 忙しいんじゃないの?」

「いーわよ、あんなやつら。あとでうるさく言われるだろうけど、娘のほうが大事だわ。それに……プロムがこんな目にあっちゃったのは、あたしのせいだし」気まずそうに黄金卿がうなだれました。

「……ママに、何があったんですか?」

「最近……、キャスがここに来たんでしょ。そのことで話し合いたいってプロムがサイマト寄越してきたからさ、ポールサイドで会う予定だったのよ。でも枢密院を抜け出したところで、ほら、以前話したでしょ、キャスの腰ぎんちゃくの顧問官。没薬卿について報告したいことがあるとかで、その子に捉まっちゃってさ。でも、いざ話を聞いてみれば全然要領得なくて、なんか待ってる感じで。さすがのあたしも気づいた。謀られた、こいつはまだキャスの手先だ、足止めされてるんだ、ってね。で、プロムのほうは、キャスの娘の、ラフラ――だったやつ? にポールサイドで、待ち伏せされてたんだって。それで、すんでのところであたしが駆けつけた、ってわけ」

「手段を選ばなくなってきている……アデッドの外で仕掛けてくるなんて。メルチさん、枢密院でなんとか――」

「無理ね。枢密院で管理しているのはアデッドと御血、契りだけだからさ、実質、他のことには権限や拘束力はこれっぽっちもないわけ。闇討ちしようが寝込みを襲おうが、現場に居合わせないかぎり、枢密院は我関せずって感じ。二公ならあるいは、だけど、こっちから行って会ってくれるわけないし」

「そう……」ねえさんが肩を落としました。

「悪いけど、あたし個人も、たぶん何もできない。あっちから挑んでくるなら話は別だけど、伝統に反するから、三卿がアデッドでただの血族を指名するなんて認められないし。たとえあいつの寝床を襲ったとしても、キャスが一緒にいるなら、正直勝てないと思う」黄金卿が居間のなかをせわしなく歩きまわり始めました。房のついた尻尾が力強く揺れます。「問題はラフラよ。プロムが、ラフラはもうラフラじゃないとかよくわかんないこと言ってるし、あたしもちらりとは見たけど、確かに今まではなかった尾を備えてた。そもそも、相性を考えればプロムがラフラに負けるはずなんかないのに――ラフラに何があったのか、詳しく調べないと。プラチナ・アルシーヴの事件もあるし」

 ねえさんが首を傾げます。「プラチナ・アルシーヴ? なんのこと?」

「あれ、プロムから聞いてないの? はァ、まったくあの子ってば、ほんッと秘密主義なんだから……」大仰にため息を吐いてみせ、「実はね、プラチナ・アルシーヴが一個消えちゃったのよ。忽然とね。その魂原器はバジリスクの魂だから、ラフラに警戒しといてねって、この前プロムに忠告したばっかりだったの」

「没薬卿が言っていた、枢密院の失せものって、プラチナ・アルシーヴのことだったんだ……」愕然とするねえさん。

「……それでプロムはあたしに確認しようとして、見事に釣りだされちゃった、ってわけか。プラチナ・アルシーヴが消えたのは、まだ二公とあたしとキャス、あとは犯人しか知らない、って教えてたし」自嘲気味に黄金卿が渇いた笑みをこぼしました。「プロムに事件のこと話したあたしもあたし、ね」

「……アルルさんなら、何か知っているかもしれない」ぽつりとねえさんが呟きました。

「アルル、ね。まだ会ってたんだ?」

「うん……きっと怒るか心配するだろうと思って、母さんには内緒だったけど。アルルさんを母さんの下に連れてくることが、わたしの戦う理由だったから」

「そ、っか……あたしはあれ以来会ってないし、あの子もあたしには会いたくないだろうから、そっちはあんたに任せたよ、エフィ」

「あの――」ずっと疑問だったことを、おずおずと切り出します。「どうして没薬卿やラフラさんとは対立してるんですか……? 過去になにか、あったんですか?」

「それは……」黄金卿が言い淀み、こがねの虹彩を足元に向けます。

 ねえさんも苦々しそうな顔で押し黙ってしまいました。部屋に重苦しい空気がたちこめます。大気の痛みが増すぐらいに。よほど掘り返したくない出来事なのでしょうか。しかし大切なママの命が脅かされた以上、この衝突の背景を、わたしは聞かざるを得ませんでした。

 黄金卿が唇を湿らせました。「それを知ったら、あんたはあたしやあんたのママのことを嫌いになるかもしれない。憎むかもしれない……それでも、聞いてくれる?」こっくりと頷いたわたしを見て、黄金卿が語り始めました。「あれはまだプロムもアルルも生まれてない、あたしが三卿に召し上げられたばかりの頃――」

 ですがそれは、『も……し、もし……もし、こち……ら枢密院……アデッド管理……部』居間の壁に設置されていたサイマト端末人形の声に出鼻をくじかれるかたちで遮られました。『プロム・エルドラドの……娘、エフィはいる……か?』ひずんだ、不鮮明な発音。

 なんとなく胸騒ぎがするわたしをよそに、ねえさんが端末に駆け寄ります。「はい、ここにおります」

『ん……? なん……だ、また……端末の調……子が悪い……な。まァ、い……い。エフィ、おまえにアデッ……ドの申請があった。準備が出来次……第、出頭する……ように』

「相手は、誰ですか?」

『……ラ……フラ・オフィチ……ナルムの娘、ニースだ』

 

 

 

 

 

 

 月っていうのは、乳海のなかで太陽と二本の塔で結ばれた、もうひとつの星ですよ。

 つまり、エフィ、ベリィ、おまえたちはあたしとプロムを繋ぐ魂たちなのよ。

 遠い記憶、失われた安穏――煉獄に残してきた想念。わたしとベリィがこの世に生を受け、まだ四人が憎しみあうことを知らなかった頃。どこで何を間違ったのか、その疑問だけが反復する。

 アルルさんはサイマトに応じなかった。それどころか、サイマトの接続自体、上手くいかなくなっていた。何度試してみても空を切るような感覚で、メルチさんによればポールサイドで待ち伏せされた際にも同様の不具合があったらしい。

 枢密院からの連絡もおかしかった。単なる端末人形の故障と言い切るには、懸念が多すぎた。大地ステラそのもののサイマトが何らかの異常をきたしているのかも、とメルチさんは推測した。

 それだけだろうか。悪寒がした。どうにも名状しがたい、わたしを取り囲むような悪寒が。おそらくメルチさんも何かを感じ取っている。ただ口にしないだけ――ひとたび言葉にしてしまえば、本当にそうなってしまいそうで。

 龍の骨で組まれた入場門をくぐる。歓声が上がった。アデッドは観客でいっぱいだった。エルドラド対オフィチナルム。三卿の系譜同士。母さんとわたしが地獄に落とされてから、その対面は毎度注目されていた。賭博でひと儲けした人形もいるだろう。ただし賭け率は、当初からずっと傾き続けている。鉄の貴婦人対ラフラの新作は、常に同じ結果に終わるからだ。

 ――ねえさん、呑み屋のひとが話してるのを聞いたんだけど、今回のオフィチナルムの賭け率は十対一なんだって。

 サイマトを介したベリィの報告。ベリィとはどういうわけか、正常にサイマトの波を合わせられ、明瞭に思念をやり取りできた。わたしが鋼鉄の四肢を意のままに扱えるのと同じで、もとから大気の痛みで他人の感覚を共有できるほどサイマトに対する感応が高かったためかもしれない。その事実はいくらかわたしの不安をやわらげてくれた。

 自分を奮い立たせた。わたしの胸の奥底に横たわる恐怖を、ベリィに気取られないように。

 歓声が大きくなる。そしてどよめき。挑戦者側の入場門に、白い人形が現れていた。まばゆいばかりの白い肢体、脂の灯火を照り返す銀髪。ベリィのそれよりくすんだ少し色合いで、わたしのそれより濃い、真紅の瞳。わたしは驚きのあまりに、しばらく呼吸することも忘れていた。

 ――ラフラ。他人の空似で済まされる度合いではない。二股の尾を除けば、相対しているのはわたしの胤親たるラフラそのものだった。

 観客も訝しんでいるようだった。あれは新作ではなくオフィチナルム本人ではないのか、掟に反するのでは、と。だが地獄でのアデッド出場を枢密院に認められている以上、あの人形は血族ではない。尾もそう。器官も、器官への感応も、あとづけできる代物ではない。魂のかたちに合致しなければ、腐り落ちる。わたしの手足のように。

 母さんは、ラフラはラフラではなく、ラフラに食われたと言った。だが母さんの主張だとしても、わたしにはにわかに信じられなかった。親を喪えば、子にはそれが自ずと察せられるはずだからだ。

 思い浮かぶのは、消えたプラチナ・アルシーヴ。人形が生まれるには、いくらなんでも早すぎる。この人形は、バジリスクのプラチナ・アルシーヴだったのだろうか。あるいはラフラは、本当に魂を孵したのだろうか。他の何かに使用したのではなく?

 人形と目が合った。白い人形――ニースは薄い笑みを浮かべた。悪寒が走る。

 試合開始を告げる銅鑼が鳴り響いた。

 全身のばねを使って飛び出す。鋼鉄の腕を突き出す。肉を引き裂き骨を削ぎ落とすはずのわたしの拳を、ニースはその場から一歩も動くことなく片手で受け止めた。顔面を殴りつける。硬い手応え。今度は頬で――顔を覆う鱗で防ぎきられる。そのまま連打、連撃、立て続けに打擲。防御する気もないらしいニースは微動だにせず。傷ひとつなし。鱗は硬く、きめ細かく、衝撃を殺しきっていた。砂袋でも相手している気分。

 顔を殴りながら、意表を突いて腹に拳を叩き込む。鱗。効いているようには見えない。眼球を狙う。空を切った。首だけでかわされる。

 ――ねえさん、尻尾が来る!

 体制を崩し、無防備になったわたしの脇腹を尾が薙ぎ払った。まともに直撃。受身を取りながら肉の大地を滑った。はらわたが悲鳴を上げる。ただそれだけ。手加減されている。舐められている。ニースは嗤っていた。

 ――ねえさん、あの人形、体温の高いところがあるよ。耳の裏からうなじにかけてと、脇と、あとは尻尾の付け根の裏……ひょっとしたら皮膚が薄いかも。

 ベリィの助言。仰せのままに。二度目の突撃。腕を振りかぶると見せかけて足を払う。ぐらり。ニースが揺れた。まっすぐに揃えた鉄の指を喉に突き入れる。尾に絡め取られる。逆に捕まえて振りまわし、ニースを壁に叩きつけた。倒れ伏したところへ駆け寄り、うなじを穿った。鋼鉄から生身に伝わる柔らかい感触。血潮が溢れた。

 指先が頚骨に触れるか触れないかのところで蹴りが飛んでくる。踵を掴んで捻りあげた。小気味よい音。足があらぬ方向に向いていた。尾がしなる。上体を反らして避ける。尾の後を、白い霧状の冷たい芳香が通っていく。ざらついた空気の肌触り。気管に針を飲み下したような鋭痛。毒。慌てて離れた。

 ニースが起き上がった。白霧のなかでゆがんだ形相。苦痛、憎悪、煮えたぎった憤怒。もはや余裕なし。次は本気で来る。

 ――ね……えさん! ……痛み……が、おかしいの、そっちが見えな……い……なんだ……か、ざら……ざ……らして……気を付け――。

 はっとした。月の砂――母さんの言葉。サイマトの異常は、この毒のせいだったのでは? サイマトは雷の子らによってかたち作られ、感情を運ぶと言う。この毒は、肉体のみならず雷の子の働きも妨げるものなのでは――。

 だがニースの足は奪った。接近されなければ、月の砂が帯びる毒性も意味は成さないはず。そのわたしの予想は、呆気なく裏切られた。

 ニースが手をかざした。霧が固まりのまま、流れた。空気の流れもないというのに、明らかに意思を持った動きで、わたしに向かって一直線に。全力で走って霧から逃げる。気づけば足を引きずったニースにまわりこまれていた。正面からも霧が殺到する。考え直す――大きく息を吸って、そのまま突っ込む。ニースのおおきく見開かれた赤い瞳が眼前に迫る。母さんは、月の砂が燃えると言っていたらしい。ここに火はない。毒がまわりきる前に仕留めれば問題はない。

 折った足をすくった。ニースが倒れる。その背に圧し掛かり、尾を踏みつけた。鋼鉄の腕をたわめた。振り下ろす。ニースの首筋に赤い線が描かれた。義手にまとわりついた銀髪が束になって抜けた。傷口に指を突っ込み、鱗を裏側から引き剥がす。生皮の下から鮮やかな薄紅色の繊維が現れ、ひどく食欲を誘う。股の下から苦悶の呻きが上がった。耳に心地よい響き。わたしを高める、死に瀕した人形の息遣い。おお。――ああ。これだ。わたしは月の砂に包まれたまま、陶然となって息を吐いた。

 四肢が熱く疼いた。ニースの筋肉の弾力や、血脂の潤いとねばつきが義手で知覚できるようだった。鉄でできた指の一本一本まで、さながらわたしの血が通っているがごとく感ぜられた。人形を食べる前には必ず研ぎ澄まされる鋼鉄への感応、予兆めいた高揚、昏い飢渇。やれると思った。こいつは食えると。所詮、生まれたばかりの人形なのだ、とも。

 きっとどこかで見物しているだろうわたしの胤親に向かって、こころのなかで挑発した。隠れてないで出て来い、ラフラ。子どもをけしかけるなんてまどろっこしいことはやめて、直接わたしと戦え、臆病者。こいつとおなじように食べてやる。

 そしてそれが来た。ニースの血管と神経を掻きむしる、鋭敏になった鋼鉄の四肢の内側で、虫がはいずりまわる掻痒感。違和を覚えるよりも早く、激痛に置き換わった。

 仰け反り、肉の地面を転がった。どれだけもがいても痛みからは逃れられなかった。鋼鉄の四肢が、痛覚を発していた。鋼鉄と生身との接合部を焼け爛れさせる高熱とともに。わたしの肌を焦がす香ばしい匂いがざらついた月の香に混じり、わたしの肺を貫いた。意識が濁る。

「母上が……言っていたとおりね」ニースがいつの間にか身体を起こしていた。「月の砂を運ぶ雷の束は、鉄が含む雷の子らを渦巻かせて燃やす――最初はさっぱりだったけど、おまえのお陰でこつがわかってきたわ、エフィ」ニースの鱗に守られた手が、わたしから鋼鉄の四肢を引き剥がして放り投げた。ニースがわたしに馬乗りになり、頬を掴んできた。押しのけようと抵抗するも、手足を捨てられたわたしにはなすすべはない。ニースはそのままちからを込めていき、わたしの下顎はあっさりと砕けた。

「――ッ!」度重なる異種の痛みに、全身が痙攣する。

「あら、ずっとかわいい顔になったわ」機能を失ってだらしなく口を開け放たれた口内を、冷たい指でまさぐられる。ニースの親指と人差し指が上の奥歯を捉え、引きちぎった。もうどこがどう痛いのかもわからなかった。

「こお……ひへ……」息も絶え絶えに、わたしはそれだけを搾り出した。

「なァに? 殺して?」ニースはわたしの歯を自分の口に放り込んで噛み砕いてから、おかしそうに言った。「おまえにはまだ利用価値があるのよ。しばらくは生きておいてもらわないと、あたしたちが困るの。だからひとまずここでは自害できないように、歯だけ返してもらうわ」

 わたしの意識は、二十とひとつ目の歯を食べられるまでもたなかった。

 

 

 

 優曇華へ

 

 

 

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