優曇華
鋼鉄の冷たさに、わたしは目覚めた。
舌と頬の内側にこびりつくざらつき――甘苦く冷たい、月の香。窄んだ視界が真紅の眸子で満たされる。目と鼻の先。冷笑。白い人形――ラフラ? ニース?
だんだんはっきりしてくる。床も壁も大地ステラの肉が露出された狭い一室。真ん中には小さく硬そうな寝台。わたしは革細工の帯で、サイマト端末人形よろしく壁に磔にされていた。
内臓に異物感。白い人形がわたしの陰部から尾を引き抜いて舐めた。ニース。
「あえ、え……」喋ろうとして、歯を食われたことが思い出された。下顎が破壊されていることも。唾液が唇の端から滑り落ちる。
――おはよう、よく眠れたかしら?
サイマトが繋げられる――血縁の証拠。懇願するように念じた。
――さっさと、食べて……。
――浅ましい子。おまえにお願いされなくても、エフィ、おまえの身体は返してもらうつもりよ。目的が達成されたらね。
――目的?
――黄金の血統を根絶やしにして、あたしたちをすべて取り戻す……血の一滴すら残さず。
ニースのどす黒い憎悪が伝わってくる。暗黒。暗黒が広がる。大いなる祝福の暗黒。ニースの記憶がわたしの脳に染み渡っていく。幻惑される。飲み込まれる。雑音、暗黒、温かな暗黒、濡れた暗黒、上下左右のなき、ねばつく暗黒、ひどく安らぐ、最初の暗黒。工程をさかのぼる。手順が追憶される。蛇と蝶。蛇と没薬。蛇と炉心。月と花。花と蝶、月と没薬――プラチナ・アルシーヴ。ああ。穢れなき蓮華がひらける。かつて知りえない暗黒。胎動し歪んだときじくが生る、虹色の森を覗く。見える。見える。見える。赤い芙蓉、黄金水蓮、白い寺花、そして――。やめて。これ以上見せないで。それ以上見ないで。蛇の魂の裏側がなだれこんでくる。白金のはらわたが大挙する。魂に絡みつき、わたしの質量を軋ませていく。わたしの情念が無理矢理引きずり出されていく。わたしたちに優しくしてくれたメルチさんのことが浮かぶ。連鎖的に、丸焼けにされた母さんのことが。ラフラに脳を平らげられたベリィのことが。大気の痛みに目覚めた、ベリィのことが。悟ってしまっていた。悟らされた。悟られた。何もかも手遅れだったこと――手遅れになったこと――もうアルルさんがラフラともども、この大地ステラのどこにも存在しないこと――産んだ蜘蛛を蝶にむさぼられ――むさぼり、慰め――姉に犯させ――妹に胤を蒔き――母親の胎を食い破り――暗黒――ああ――あたしたちはあたしたち自身をいやはての極へと――蓮華へと返し――二重伝承統一の理になぞられた思想のとおりに産みなおし――わたしを産み――ベリィを産み――わたしのせいで――母さんをこの手で吹き飛ばす情景――月の砂――雷の束――わたしの歯――あたしの娘の歯――ひとつ残らず――冷たい鉄の味――空の宝珠を入れ――鋼鉄の冷たさに、わたしは目覚めた――正しき手順で生まれた、怪蛇。
唯一無二。二重自己伝承統一。
真なる魂。プラチナ・アルシーヴ。
最上の価値。重くもなく軽くもなく、二十とひとつの冷たさ。
わたしは泣いていた。ニースがくすくすと笑った。
――やっぱり隠し子がいたのね。名前は……ベリィ? あてつけのつもり? 魂も違えば、親も違うでしょうに。容姿だって、似ても似つかないじゃない。
涙を溢れさせながら念じ返す。
――……そう、ベリィ。おまえが食べた、わたしの、双子の妹。わたしと母さんとアルルさんで産みなおした、おまえの、娘。
――エフィ、まだそんな戯言を信じているの? まァ、いいわ。それで、どうやってその第二のベリィは産まれたのかしら……へェ、なるほど、ベリィを宿したプロムの子宮を、おまえに移植していたのね。どおりで乳が出ると思った。まったく本当に、つくづくおまえたちはどうかしてるわね。
ニースが尾をもたげ、わたしの陰部を撫でさすった。
――そんなに親の子を産みたきゃ、産ませてあげるわよ。
わたしは身をよじった。
――やめて……血族じゃないのに、産めるわけ、ない……それぐらい、わかってるはず。
――魂を宿した人形は、ね。おまえが産むのは、屑肉で十分だわ。
ニースの顔が近寄る。噛み付くようなくちづけ。細長い舌が神経の剥き出しになった歯茎をくすぐり、甘苦い蜜を擦りこんでいった。
ああ。懐かしい味。もうここにしかない味。花の蜜。アルルさんの匂いが蘇る。涙が止まらなかった。自分から喉を鳴らして、ニースの体液を嚥下してしまう。どうしようもなく狂おしかった。悔しかった。出来ることなら自分を殺したくてたまらなかった。今までずっと、アルルさんの子どもを食らって飢えを凌いでいたなんて――愛するひとの子を捌いて喉を潤し、悦に入っていたなんて。
「んっ……んぐぅっ、ぅっ、ぐっ、んんっ」喉の奥を丹念にねぶられた。今まで感じえなかった粘膜の悦びにむせぶ。蜜が胃に滴り落ちるたびに、身体中の筋肉がとろけそうだった。とめどなく膣が粘液を分泌してうごめき、わたしの粘膜はすでに仕込まれていた宝珠を胎内で転がした。
ニースが指でわたしの陰唇を左右に開いた。二股の尾がするりと潜り込み、他より弾力のある子宮の入り口を鱗の凹凸で引っかいた。
「んぁああっ、あぁおっ……、おっぅ、んんっ、んんっ、んぇうっ」喉奥と子宮口を交互に小突かれ、はしたなく腰を振り、尻を肉の壁に押し付けてしまう。
度重なる蜜の摂取でぼってり腫れた肉襞が尾を勝手にしゃぶるのに合わせて、ニースの舌を吸った。
――ぶちこんだ途端によがりはじめるなんて、本当に浅ましい子ね。ここも、こんなにだらしなく開けているし。
「ぉごぉおっ――!? おっ、はぁおっ、んおぉっ!」尾の先端が子宮に侵入し、無遠慮に掻き混ぜていく。
――プロムの子宮だから緩いのかしら? それとも生み親の……自分が孵された子宮だから、余計に興奮していたり?
嘲笑うようなニースの指摘に鼓動が早まる。切なさと情けなさがこみ上げる。母さんの子宮を使って盛り上がっている事実と子宮を愛撫される初めての快楽が、わたしを苛みながらたやすく絶頂に押し上げ、母さんやアルルさんと交わるよりもさらに昂ぶらせた。
ニースがわたしの喉から舌を引き抜き、乳首を軽く噛んだ。
「あぁあうっ! いうっ、んうっ、おっ、おあぁあっ!」
細長い舌が噴き出る母乳を舐め取りながら、乳腺を抉った。ほとんど痛みに近かったが、わたしの脳は快感としてしか受け取らなかった。わたしのなかを攪拌する粘着質な音が大きくなり、室内に月の香りと甘ったるい臭気が立ち込めた。
もはやわたしの瞳は何も映してはいなかった。子宮を中心として臓器のあらゆるが悦んでいた。身体のどこで達しているのかもわからず、ただひたすらに被虐的で根源的な欲望を享受し、意識を飛ばした。
「ぉ――、あー……、――っ」
サイマトで結ばれているニースは、当然のごとくわたしの痴態を見抜いていた。
――救いようのない子。いったいどれだけ倒錯すれば気が済むのかしら? そんなに生み親の子宮を使いたきゃ、使わせてあげるわよ。
ニースの尾から、熱い飛沫が迸った。全身がひときわ大きな絶頂に引きつる。わたしは尾を振りほどこうともせず、注がれるニースの胤を母さんの子宮で受け止め続け、血に悖る多幸感の暗黒を見ていた。
サイマト端末人形のアデッド報道を読むひずんだ声だけが、居間に響きます。
『いや……ァ、ニースは今回も苛烈で……したね。まるでプロ……ムの再来……を思わせま……す』
『いやいや、それ以……上でしょう。ニースは初戦……から鉄の貴婦人を打ち倒……すほどの実力を持っていながらにして、そのうえ毎……回確実にちからを増して技量も積んできてい……る。かつてのラフ……ラの作品は何だったんでしょ……うなァ。ニースはあたかも別人が……手がけたかのような完成度と言って……も、多言ではないでしょう』
『むし……ろ逆に、ニースがラフラ本……人なので……はないかという噂もあ……るほどですね。枢密院……は、ニースは蒼ざめた血族で……はないからラフラではありえ……ないと否定し……ていますが』
料理の手を止めて俯いたママとは違って、黄金卿は今にもサイマト端末人形を殴り壊さん雰囲気でした。
『血族と言え……ば、ニースは次の一戦に勝利す……れば御血……を戴くようです……な。まァ、ニースが鉄の貴婦人エフィを打……ち負かしてからというもの、地獄は大荒れ。銘のある血族……が手がけた期待の新作はす……べて食い潰されてしまいまし……たし、枢密院の対応というか、措置が遅すぎたぐ……らいですな』
『これまでにない血族入りの早さです……が、ニースなら歴戦の……血族たちにも後れを取らな……いでしょうね。煉……獄でのさらなる活躍が……期待されます。さて、続いての一戦は――』
気まずく、重苦しい沈黙。ねえさんがアデッドでニースに連れ去られて以来、我が家が明るくなったことはありません。ママが完治した際にも、誰もが暗く沈んでいました。
端末人形の下に立てかけた鋼鉄の義手に、自然と目が行ってしまいます。ねえさんの皮膚が焦げ付いた義手は、普段よりくすんで見えました。
ねえさんは、食べられたわけではないそうです。負けた人形は血肉の一片まで勝った人形のものになる――それがアデッドでの取り決めです。必ずしも打ち負かした人形を食べる必要はなく、食用人形を産ませる苗床にするか、愛玩人形にするか、あるいは奴隷にするかは勝者に委ねられます。勝敗が決した先は枢密院の関知するところではないために、黄金卿ですら手出しは出来ません。
ねえさんがニースの下でどのような扱いを受けているのか、想像するのも恐ろしいですがともかく、ママによればねえさんはまだ生きているそうです。サイマトが繋がる気配もないのにどうしてわかるの、とたずねると、渇きが来ていないからです、とママは答えました。産んだ子が命を落とせば、生み親には渇きというものを通してその事実が伝わるそうです。
「……ご飯にしましょうか」ママが卓の上に三人分の腿肉の乳煮込みを並べました。その肌は元の白さを取り戻しています。
重い空気のなか、みんな黙々と食べはじめます。ママには申し訳ありませんが、ねえさんが気がかりでこれっぽっちも味はわかりませんでした。
ママの身体が癒えるまで、なにもしなかったわけではありません。黄金卿にお願いされたわたしは、大気の痛みによってざらつきの出所を調査していました。結果的にニースの寝床らしき場所は簡単に突き止められ、かろうじて感ぜられたかすかなサイマトの感応からも、ねえさんの存在を確認できました。ですが、それが精一杯でした。
ニースは、地獄では敵なしだったはずのねえさんを下したのです。わたしが相手になるわけがなく、ねえさんのすぐ側まで近づきながら一目見ることさえかなわず、わたしはすごすごと引き下がるしかありませんでした。それに、ニースの寝床には、没薬卿もいるかもしれません。
没薬卿がおうちを訪れたのは、ママが襲われた間際の、あの一度きり。失せもの探しや顧問官の話をふたたび持ちかけてくることはありませんでした。黄金卿もママも、没薬卿はニース――引いてはプラチナ・アルシーヴの一件にも噛んでいる、と睨んでいる模様です。
「……お母さま」食事のあと、ママが消え入るような声音で切り出しました。
黄金卿が身支度を整えながら応じます。「なに、プロム?」
ママの修理を終えた黄金卿は、一度枢密院に戻ってみるのだそうです。ニースの異常な血族入りの早さの背景には、没薬卿の働きかけがあると踏み、付け入る隙を探るためです。また、枢密院から大地ステラのサイマトに連結すれば、存命の血族を知ることも可能だそうで、ニースが本当にラフラさんを食べたのか、見極める目的もあります。
「あのひとが血族入りを果たしたら、プロムはアデッドを挑むつもりです」
「……それで?」
「負ける気はありませんけれど、勝てる保証も……ありません。だから――アデッドの最中に、エフィちゃんを取り戻してもらえませんか?」ママらしからぬ、不穏な申し出。
それは事と次第によっては、三卿としての立場どころか黄金卿の生命さえ危ぶまれるかもしれないお願いです。わたしは驚きのあまりに、洗っていた食器を取り落としそうになりました。
「それが、あっちの目論見だとしても?」
「……」
「たぶん、あんたが挑まなくともあっちからは来るだろうね。エフィは、あんたにアデッドを拒ませないための人質だろうし」
「だから……なんです」目尻に涙を溜めながら、ぽつりと。「プロムが負ければ、エフィちゃんがどうなるか、わかりません。今でさえ、何をされているか……プロムは、耐えられないんです。どんな状態だったとしてもプロムは、エフィちゃんを少しでも早く助けたい……ごめんなさい、お母さま……お母さまの危険は、承知の上です。たとえ取り戻せなくても、仕方のないことかもしれません。でも今、お母さまにうんと言ってもらえなければ、プロムは、ちゃんと戦えません……」
黄金卿はしばらく押し黙っていましたが、やがてふっと優しく、そして悲しそうな顔をするとママに歩み寄り、「……わかった」ぎゅっとママを抱き締めました。「いーよ。あたしが、エフィを取り返す。ずっと敬遠してきたけど、あっちとはいずれ決着をつけなきゃいけなかったしね」
「お母さま――」
「それに、エフィはだいじょうぶだって。あっちにはアルルがいるんでしょ? きっとよくしてくれてるはずだから」
「んぐ……ぅ……おぉ……」
アデッドを終えて穴ぐらに帰ってきたあたしの頭のなかに、サイマトを媒介として飢餓の想念が疎通された。あたしはほくそ笑んで、ステラの肉壁に癒着させたエフィの前に立った。その下腹部は大きく膨らみ、両の乳房からは絶えず白い体液が垂れ流されていた。
「待たせちゃったかしら? 今食べさせてあげるわ」二股の尾をエフィの陰唇に挿入し、胎盤ごとエフィが孕んだ肉塊を引きずりだした。
「あぎゅっ! お゙ぅ゙ぅ゙っ、んぐぇえ゙……」羊水が床に水溜りを作る。
エフィが宿していた肉塊の頭部らしき部分を噛み千切り、液状になって甘みが出てくるまで噛み砕く。そして唾液とともに、エフィに飲ませた。エフィは貪欲に、己が産んだばかりの肉をすすった。さぞ嬉しそうに――眼球を失くしてぽっかり穴の開いた笑顔で。
薄紅色のエフィの右眼は、左眼に見せ付けながら焼いて食べた。左眼はあたしが咀嚼してやってから、口移しでエフィに食わせた。
脳を蜜漬けにされ光を失ってから、完全に狂うまでは早いものだった。サイマトが教えてくれるエフィの思念も、もう言葉として意味を成さなくなり、腹が減っただの胎が疼くだのと単純な感情だけになっている。
このごろは空洞になった眼孔を舌で犯されながら、身篭った肉塊をひり出すのがとびきりお好みのようだった。泡を吹いて失禁しつつ、何度も何度も面白いぐらいに達するのだ。
あれほど憎んでいたのにこうなってしまうとかわいいもので、あたしはあたしで、今更ながらエフィのことを無性に愛おしく思うようになっていた。ラフラだったあたしの子だったからか、アルルだったあたしの愛人だったからか――。
「ふぅう……、ぁあ……、ぁあんっ、はっ、はっ、はっ」肉汁を飲み干したエフィが呼吸を荒げ、肉付きのいい体躯をくねらせはじめた。白い肌はしっとりと汗ばんでいる。
魂がないとはいえ、子どもは子ども。子を喪った渇きに見舞われたのだ。子を産んでは飢え、子を食っては渇き――あたしの愛玩人形になったエフィはずっとそれを繰り返し、今や子宮が空いているほうが珍しいほどだった。
幾重もの出産で襞のひとつひとつが陰核のごとく腫れた膣内に、次の子を仕込もうと尾を忍ばせる。
「はぁぁあぁ……」満ち足りたような熱っぽい吐息。だらしなく開いた口から涎が零れ落ち、糸を引く。
こなれた生殖器は腐りかけた肉のようによく熟れ、胤をねだって蠢いていた。尾をゆっくりと動かし、膣内のエフィが好きな箇所を圧迫し、撫でさすった。エフィは獣じみた悲鳴を上げては、身体の至るところから体液を噴出させながら深い絶頂に陶酔していた。交尾した回数は枚挙に暇がなく、どこをどう刺激してやればエフィが悦楽するのか、あたしは完全に知り尽くしていた。
そのままエフィをなぶっていると、まもなくして没薬卿が穴ぐらに現れた。
「あんまり交わってばかりいると、情が移るわよ」エフィの甲高い嬌声のなかでもよく聞き分けられる、仮面の下の低いしゃがれ声。「ほどほどにしておくことね。その子も最後には食べて、統べなければならないのだから」
「……わかってる。それはもう聞き飽きた」せっかく興が乗ってきたところへ水を差され、あたしはいらいらと力任せに尾を抜いた。エフィも不満げに唸る。
「枢密院への申請を済ませてきたわ。直にあちらへも通達が行くでしょうね。手筈はすべて整った。あとはちゃんと、アデッドが――」
「わかってる!」無意識に声を張り上げてしまう。「メルチもプロムも……所詮は写しの魂から孵った人形。紛いものにすぎない。いかずちとほむらの質量を掌握したあたしには絶対に勝てないし、エフィはこのざま。ふたりめのベリィに至っては、何の魂かは知らないけど、たいした器官も持っちゃいない標準形の人形。心配することなんて、何もないわ。あいつらはもう終わってるのよ」吐き捨てるように言った。
終わる――終える。血の因縁を洗い流し、魂を統べて返還する。もうまもなく。
白い粉、白い霧――鼻先をくすぐる、漏れ出た月の砂。毒と、雷と、火の具現。砂の鋼鉄、魂を統べてかたどる雷の束。魂と血の重力糸。
地獄のそれと比較すると幾分か広く、豪奢な煉獄のアデッド。その中心に挑むものと挑まれたもの。相対したニースが冷ややかな笑みを向けてくる。糸状に紡いだ月の砂を、指で弄びながら。触れてもいないのに月の砂を自在に運ぶ、不可解なちから。酒場で待ち伏せされた際よりも明らかなその技術の向上。
お母さまの見解どおり、ニースはアデッドを申し込んできた。血族入りの、最後の一戦として。御血を戴く前の人形が蒼ざめた血族にアデッドを挑んではいけないという掟はなし――その前例もほとんどなし。
負傷の回復はどうにか間に合ったものの、欲を言えばもう少し猶予がほしかった。お母さまが枢密院に戻り、没薬卿側の動きを読む猶予が。ラフラに何が起こったのかを知る猶予が。常に後手にまわり、追い込まれているのではというわずかな焦燥。抑えつける。追い払う。気を強く持つ。娘を救い出すため。
無数の視線を感じる。多種多様、雑然とした色。耳鳴りさえ覚える数の、囃す声。娘の試合でさえまともに観戦できなかった自分にとっては、郷愁と緊張を誘うアデッド特有の張りつめた空気。観客席は満員御礼。エルドラド対オフィチナルム。三卿の系譜同士。煉獄でも不変の人気。
色のなかに、ただひとつだけ確かに見極められる温かい色。観客席のどこかで、頭から外套を被ってこちらを見守っているはずの娘。サイマトの腕を伸ばして繋ぐ。こちらを危惧するひたむきなきもちがうかがえる。
――ママ……。
勇気付けるように念じる。
――だいじょうぶですよ、ベリィちゃん。
煉獄に連れてきた娘。お母さまはニースの住居に侵入してもらうために不在。娘を守るものはなし。没薬卿は、我が家の位置は知っていても娘の存在までは知らない――お母さまと没薬卿の入れ違いをも考慮して、煉獄にいたほうがむしろ安全だという判断。
――ママ、どうして……どうして人形は食べあうの?
銅鑼が打ち鳴らされる。尾の鉄球を外す。火を熾す。炉針に熱を通す。ニースが月の砂を放射状に展開した。ざらざら。冷たく。
ベリィに割り出させた、ざらつきとやらの流出源と思しき穴を覗き込む。薄暗く、入り口には申し訳程度に革の垂れ幕がかかっているだけで、誰かが住んでいる気はしないけど――肌がぴりぴりした。得体の知れない気配に、こがねの毛並みが逆立つ。穴から漂う空気が、どこか冷たく感じられる甘苦い芳香を含んでいた。これがプロムの言っていた月の香ってやつね、とあたしは認識する。ここがニースのねぐらで間違いない。高鳴る心臓を深呼吸で鎮め、穴に踏み込もうとした寸前。
「最近枢密院に顔を見せないと思ったら、三卿ともあろう人形が、盗人の真似事かしら」聞き慣れた低い声。石膏の仮面、続いて闇色の外套が穴の奥からぬっと出現した。
「キャス……」やっぱり待ち構えていたか。あたしは小さく舌打ちする。
「ここに何をしに来たのかしら?」
「……プラチナ・アルシーヴを探しに、よ」
「ステラのサイマトでさえ捕捉できないのに、こんな地獄の片隅にあるわけがないでしょう」
「んじゃ、あんたはなんでここにいるわけ?」
外套が肩をすくめてみせた。「ここは娘の住処だもの。わたしがここにいても、何もおかしくはないわ」
「何の用で来たのかって聞いてんのよ」
「あなたには関係ないでしょう、メルチ。そんなことより、早く枢密院に戻ったらどうかしら? 仕事が溜まっているわよ」
キャスの仰るとおり。あたしは何も言い返せなかった。一度出直す? 冗談。プロムは頑張って、戦ってるんだ。やるっきゃない、今、ここで。足の一本でもへし折ってやって押し入り、もしラフラがいたらぶん殴ってやって、アルルには謝って、エフィを拾って逃げ帰る。たったそれだけ。覚悟を決めろ、あたし。
と、腰を低くしかけたあたしに、「わたしやあなた、バルタがまだ三卿でもなかった頃より――」唐突にキャスが語りはじめた。「今の人形は、ずいぶん強くなった。そうは思わないかしら」
「……何の話?」
「昔は小指の先ほどの毒針をたった一本でも器官として備えているだけで、顧問官にさえのし上がれた、という話よ」
「……そりゃ、あれからアデッドは何千回も何万回も繰り広げられてきたもん。たくさん勝ち残って、たくさん食べて、たくさん魂を縒り集めた人形の子は、もっと強いに決まってるじゃん。アデッドで流れたたくさんの血がステラに還元されて、天獄では今もより強い新たな魂が創造されてる。ステラ全体の魂が練り上げられてる。今の人形が強いのは、必然じゃん。そのための二公が作った伝統だし、その伝統をより効率化するために、あたしたち三卿と枢密院は契りや御血、アデッドを管理してんでしょ」
キャスがこの穴にいたのは、ここにエフィがいる第二の確証でもある。つまりキャスは、あたしのエフィ奪還を警戒していたとも言え、ならばこの脈絡のない話題はあたしを足止めしようと企んでのこと。乗るべきではない、なのに――。
「そう、伝統。二重伝承統一。わたしたちが守るべき、この大地ステラに敷かれた唯一無二で疑いようのない理。でも、ほんとうかしら? 伝統には食い違いがある。自己撞着している。そう考えたことはない?」
「な、何言ってんの、あんた――」二公に歯向かうような発言にぎょっとする。「生命の平衡化を防ぐためには、伝統……飢渇で魂を研ぎ澄ませて共進化を促すしかない。なんにも間違っちゃいないでしょ」
キャスは静かに問いかけた。「ならどうして――親はふたり必要なのかしら?」
撃ち放たれた月の砂の流束が、頬を掠める。ざらつきが皮膚を削ぎ落とし、毒が血管と神経を噛む。回避しきれなかった月の糸は、炉針で灰に。凝縮させて月の砂自体での殺傷力を高めているものの、大気に充満させていないために爆発する恐れはなし。
――人形が食べあうのは、みんなが、みんなの魂を強くするためです。みんなの魂が強くないと大地ステラの魂まで衰えてしまって、いやはての極みに、すべての乾坤の泥雷が腐ってしまうんです。だから人形はみんな、飢えて、渇いて、子を産んで、血を次へと継いでいくんです。
火を熾した尾を振るう。鉄をも溶かす高熱が肉の床を走る。ニースが目を見張るような瞬発力で跳ぶ。一瞬遅れたその影を火柱が焦がす。
――ママ……、血ってな……んなの?
ざらついたサイマトのなか、すがりつくような、まだ繋がっていることを確かめるような問いかけ。
ニースが鱗をまとって駆け抜けてくる。周囲には空気が混ぜられた月の砂。大気を温め、膨らます。月の砂を一掃する。
――血は、こうしてママとベリィちゃんのこころを通わせてくれているように、親と子どもを繋いでくれるものなんです。血の繋がりは、こころの繋がりなんですよ。サイマトが、その証明です。
鱗の拳と炉針がぶつかる。火花が散る。二股に分かれた尾が左右から喉元を狙ってくる。六本の月の糸が足元から胴目掛けて跳ねる。八紘の殺意。
――……ママ、わたしの、親って……。
「それは……人形に、より複雑な多様性を持たせて、魂を強めるため、でしょ。まさかあんたが、二公の教えを忘れたなんて言っちゃうわけ?」
「ほんとうに、あなたはそう思ってるの、メルチ?」
またそれね。まったく趣旨の嗅ぎ取れない問答。焦りだけがじりじりと募る。かと言って、キャスに飛び掛れるような機も訪れてはいない。さすがは毒針一本で顧問官、さらには三卿にまでのし上がってきた人形か。隙のなさは一流。
「人形は親の何を受け継いでいるのかしら? 人形の強さは、煎じ詰めれば魂の器官の強さでしかない。器官は魂ですべて決定するでしょう? 容姿や身体能力は、親の調律の腕次第なのだし」
「……血を、継いでるじゃん。親の魂の欠片が溶けた血を。サイマトを――こころを結び付けてる」
「こころ、ね。それで? こころを結んで? 多様性が生まれている?」キャスがゆっくりと詰め寄ってくる。「よく考えてごらんなさい。あなたやわたし、バルタの血の間で何が起こったのか。血が生んだのは、情愛による憎悪だけよ。多様性なんて、建前に過ぎないわ」
乾いた笑いが漏れる。「まさか、あんたからあのことを掘り返してくるとはね」
黄金、没薬、そして欠けた乳香――決して覆せないあたしの過ちと堕落。
「じゃァ、なに? 二公は伝統を敷くことで、あたしたちに憎しみ合わせようとしてるってわけ?」
「憎しみ合わせて、食い合わせようとしている」キャスの訂正。「あなたは魂に飢えて死にそうになったことがあるかしら? 当然、ないでしょうね。あなたは強い。今までに三卿を冠した、どの人形よりもね。そんなあなたに、飢えなんて関係ないでしょう。では他の人形はどうかしら? わたしが見てきた限りでは、とても稀有な事例ね。飢えて死ぬなんておそらく、多くて千体に一体」
「それは、残りの人形は飢え死にする前に戦って、自分の腹を満たすか、逆に相手の腹を満たすかしてるからでしょ」
「いいえ、違うわ。市場で買っているのよ、アデッドの戦利品や、苗床に産ませた人形をね」
「その取引に使う宝珠はどうしてんの? アデッドで勝たないと、その報酬である宝珠は手に入らないじゃん」
「そんなことはないわ。あなたには想像がつかないだろうけれど、身体を売っている人形はたくさんいるのよ」
「身体を、売る……? どうやって?」
「取引相手と交わって渇きを潤わせたり、子宮を貸して出産を代行したりね。これは子を喪った際の渇きという危険性を排除できるから、需要があるの。あとは、運良く自分の血肉が美味だった、もしくは手先が器用な人形なんかは、自分の臓器を死なない程度に切り出して品物にして、自分で修理しているわね。血族のなかにも、そういう手合いはいくらでもいるのよ。最近の人形に対して脅えている手合いなんかは、特にそう。痛みで少しでも手元が狂えば、結局死にそうなものなのに。まったくもって愚かな子たちだけど、魂の弱さは、人形たちにそうまでさせるのよ。弱いものは弱さから逃げるために、強さに屈服し、己の魂を無意味な死に飲み込ませることすら厭わないの。そういった判断が出来ないから、弱いのだけれど」
「……!」理解が及ばないわけではなかった。優れた器官を持たない、あるいはアデッドで勝つ自信のないものは、そうすることでしか生きながらえないのだろう。二体の人形がアデッドで対面すれば、普通はどちらかが食い尽くされる以外の決着はない。生半可な覚悟ではアデッドには望めない。
「そして二公がとりわけ懸念しているのが、血縁でもなく契りを結んですらいないのに他者と徒党を組んで、アデッドからの途上で負傷した勝者を襲っている連中よ。正当に伝統をなぞって魂を強めているはずの人形を、薄弱で卑劣な意思の食いものにしている。自己の魂を強めることを放棄し、弱いもの同士で魂を勝手に砕いて分け合ってる連中。民衆だとか名乗って、互いに仲間、だとか呼び合ってるのだったかしらね。そういう連中は、絶対に強くはなれないわ。ただいたずらに魂を食い潰し、生命の平衡化を助長しているだけ。ほんとうに反吐が出そうな哀れな子たち。だけど、その民衆とやらの勢力は徐々に看過できない数へと肥大しつつあるわ。民衆は枢密院に成り代わろうとしている、なんて噂もあるほど」
「……嘘でしょ」
キャスが言及した輩が実在するなら、それは二重伝承統一を真っ向から否定することに他ならない。そして飢えが、何の役割も果たしていない証左でもある。いや、飢えこそが魂の脆弱化を加速させてさえいる――。
「嘘じゃないわ。飢えなんて、意味はないの。最初の動機を与えているだけに過ぎないのよ。飢えに魂を食べさせられているようでは、魂はちからを付けない。……あなたはどういう理由でほかの人形を食べてきたのかしら?」
「あたしは――」
直前に飛んできた娘の警告のおかげで致命傷だけは避けた。全身に裂傷。毒で視野がかすむ。再度、月の砂が散布される。サイマトがざらつきに引き裂かれる。手放すまいと必死に娘を想う。
――ベリィちゃんの生み親は、ママですよ。
炉針のなかに火を閉じ込める。中心へ向かって渦巻かせる。娘の指示――火で雷の束を捻じ曲げて、ママ。サイマトの歪曲を感じる。こちらを封じるはずだった月の砂が逸れていく。ニースが目を見開く。自身が熾した熱に耐えきれず、皮膚が焼け爛れ、肉の大地が融解する。鱗を持つニースは無傷。
――胤……親は、誰……なの?
収束させた火を尾の先から解き放つ。糸状に。火の糸がニースの右腕を蒸発させる。よろめくニースの相貌には薄笑い。ニースの尾が青白く輝く。二股に分かれた先端とは逆方向に、白い塵と青い火が迸る。
――ベリィちゃんの胤は、月と、花ですよ。
不可視の何かが撃ち出される。衝撃すら知覚できず、腹が深く裂かれていた。腹圧で零れ落ちそうになる腸を押さえる。再度編み上げた火の糸を放つ。余波で腹部の傷口が炭化する。
――わた……しの胤親は、ふたりい……るの?
ニースの左腕が塵に。白と青の閃光が、火の糸を弾いてほどく。大気が圧力を分散し損ねて炸裂する。全身を切り刻まれながら吹き飛ばされる。脳髄を揺さぶられ、手足が痺れて覚束ない。立ち上がろうとして何度も転倒する。
――そうです。ほんとうはいけないことなんですけど……ごめんなさい、ママが過ちを犯してしまったせいで……そのせいで、ママもベリィちゃんの魂の正体を、知らないんです。
ニースに痙攣していた足を踏み砕かれる。炉針の尾に二股の尾が巻きつき、引き千切られる。切り開かれて焦げた腹から、淡い桃色の臓腑を掻きだされる。ニースの哄笑。
言葉にならない悲痛な思念が鼓膜の奥で響く。なだめるように、ゆっくりと語りかける。
――それでも、ベリィちゃんはママの大切な子どもです。だから、よく聞いてください。
音もなく蓮華が開く。ちらつくのは虹色の森、不妊の砂漠を旅し、燈芯草の原野を抜けて、その奥に座すは――暗黒。虚無が根源の思想。
――ベリィちゃん、魂だけは守りなさい。
――メルチはやんちゃさんだけど、ほんとうは臆病だもんね。
寝床での、バルタの甘い囁きが頭のなかで反響する。
――ほかの何もかもが怖かったから、何もかもを食べてきたんだね。
あたしをあやす、優しくて、母親みたいな声。
キャスの講釈は続く。「感情の発露としての食事――共食いにこそ意味があるのよ。あなた自身がそれを強さで実証してきた。だから、その側面から言えば、わたしたちの間に起きた不和は伝統が望んだことなの。二公が求めていたことなの。伝統も飢渇も血も、瞋恚と悲哀を産み出すための理。わたしたちは、正しく間違えさせられたのよ」
「つまり……ふたりの人形が契りを結んで子どもを作るのは――」
断言。「共食いを惹起するためよ。だって、おかしいでしょう? 血の契りを結ばなければ血縁以外の人形とサイマトを繋げられないのに、子どもは誰とでも作れるなんて。その裏打ちとして、蒼ざめた血族が挙げられるわ。大地ステラの御血を身体に入れた人形は、飢えが軽減され、魂を孵すことができる……それはちからを認められた人形の生命を永らえさせ、血を普及させるためではない。共食いのきっかけになる、激情を発生させるためなのよ」
なら、今こうしてあたしとキャスが対峙しているのも、娘たちが争いあっているのも、全部大地ステラの意向だとでも――?
首を振って疑問を打ち消した。「……あほらし」唾棄するように。「そこまで壮大な話になっちゃ、さすがのあたしでも気づくわ。不敬な思想と禁忌で気を引いて、わけわかんないこと並べ立てて煙に巻こうって魂胆に、ね。もうお互い、知らない振りはやめましょ。悪いけど、押し通るわよ」
「入りたければ、どうぞ? わたしは止めはしないわ。ただ、見ないほうがいいと思うのだけれど」キャスはあっさりと脇に退いた。
また罠? 最初は追い払おうとしていたことから、誰かにあたしを陥れる準備させていたのではないかという疑念が浮かぶ。誘いに乗るなと本能があたしを諌める。足がすくむ。エフィを取り返すというプロムとの約束を、こころのなかで唱えた。自分を奮い立たせて穴に飛び込む。ざらついた冷気が頬をこする。
壁には革さえ張られていない質素な住居。最低限の家具はあるようだったけど、人形の姿は見えない。ラフラはともかく、アルルはいるはずだと思い込んでいたのに肩透かしを食らう。
と、「んぅううぐ……、えぇええう……ぉおお……」不意に、壁の方向からえずくような呻き。
部屋の暗さで、最初は故障したサイマト端末人形なのだと誤解したけど――。
「……エフィ?」ステラの肉壁に埋没する白い裸体に恐る恐る声をかける。
輪郭に頭髪、大きく張った胸は確かに見知ったものだったけど、下腹部は不気味に膨らんでいた。
すぐ側からサイマトを飛ばしてみる。共有される想いは――。
「――ッ!?」息を呑む。こころの接続を振り払って、込み上げる吐き気を噛み殺す。あまりに濃厚な飢渇と狂気の思念に、平衡感覚を失いかける。
「言ったでしょう。見ないほうがいいと」あたしの後を追ってきたキャス。
「あんた……なんてことを……」
睥睨するあたしに、キャスはすげなく言った。「わたしがやったことではないわ。怨むなら、わたしの子どもたちを怨むことね」
エフィの身体を検分する。すればするほど、怒気が沸き起こり、やるせなさにちからが抜けていくようだった。まだ血族でもないのにエフィは肉を孕まされ、無惨にも眼球を刳り抜かれていた。皮膚は肉壁と同化し、ひょっとすれば臓器や血管ごとステラに植えられているかもしれず、強引に引き剥がそうものならエフィの命に関わる。キャスは、あたしがエフィを壁から丁寧に切り外して連れ去るのを悠長に見過ごしてはくれないだろうし、何よりいくらあたしでも――砕かれたこころまでは、修理できなかった。
「さァ、もう枢密院に戻ってくれないかしら? ここにはプラチナ・アルシーヴはない。あるのは、わたしの子どもたちの持ちものだけよ。さっきも言ったでしょう、今枢密院は民衆への対策で手一杯なの。あなたにこんなところで油を売られては困るのよ」
「何を……何を言ってんの、あんた……民衆? そんな雑魚ども、どうだっていい! あんたいったい、何が目的なの? あたしに何をさせたいの!?」
「……あなたは強い。だけどあなたは、何もできはしないわ。ただ、昔のよしみで教えて教えてあげただけよ」憂うように、キャスが呟いた。「もう、手遅れなのよ」
そして、それが到来した。胎の奥底、久しく存在を忘れていた臓器が出し抜けに発熱した。
「あッ、つ……」膝を突きそうになるほどの、疼き――渇き。「そん、な……」燃え上がるような下半身とは対照的に、頭からは血の気が引いた。
「どうやらアデッドが終わったようね」抑揚のない、見透かしたみたいなキャスの口調。「後始末をしなくてはね……早く戻ったら?」
煉獄にいるはずの我が子にサイマトを飛ばす。空を切る感覚。今度こそくずおれてしまう。聞きたくもなかったプロムのもうひとつのお願いが、まざまざと呼び覚まされる。
――お母さま、もしプロムが負けたら……ベリィちゃんを守ってあげてください。
穴ぐらを飛び出した。後始末――何を? キャスはベリィのことを知らないはず――ほんとうに?
尾で体重の平衡を取りながら、地獄への坂を疾走する。全力ではない。獲物にすぐに追いついてしまうからだ。
ひどく昂揚していた。爽快だった。壊された両腕の痛みも気にならなかった。死にゆくあいつの血潮が、あれほど甘かっただなんて。お遊びで舐めあっていた血より、何倍も何倍も甘みを増していた。柔らかな脂肪は濃厚、肝臓はついばんでみれば瑞々しく、筋繊維の歯応えといったら。契りなど結ばずに、さっさと食べておけばよかった。
こいつの右腕も、あいつと同じ味がした。同じ血が流れているからか。枯れかけた黄金の血――痛めつければ痛めつけるほど甘辛く、あたしを満たして潤す血。エフィも美味いのだろう。黄金卿はもっと美味いのだろう。早く飲み干してしまいたい。黄金のはらわたに鼻面をこすりつけ、頬ずりし、ゆっくりと味わいたい。だが、まだだ。もっとこいつをいたぶって、どこまで甘くなるのか知っておかないと。一番美味な状態で食ってやらなければ、栄えある黄金に悪いというものだ。
獲物を発見するのは、容易だった。プロムを食ったあと、アデッドで泣き崩れている人形がいたからサイマトの波を合わせてみれば、果たして接続され、まさしくプロムの隠し子だったというわけだ。あたしもプロムも同じ乳香の胤をわかちあっているのだ、どんな人形も、血の繋がりからは逃れられない。
その場で右腕だけを切り落とし、あえて逃がさせ、追い立てた。背に何度も月の砂で編んだ糸を投げかけ、白い塵と青い火を噴きつけた。おびただしい量の血液を撒きつつ外套をはためかせて逃げ惑う獲物は、足が遅いくせにあたしの攻撃のことごとくを面白いぐらいに避けてみせる。優れた感覚器を持っているのだろう。ただ、それまでだ。反撃するそぶりは微塵も見せない。逃げるしか能のない、弱い人形。
そろそろまた旨味が出た頃合いだろうと、一息に飛びかかった。横に転がって免れようとする獲物の足に尾を引っ掛ける。獲物は無様に顔面から倒れた。華奢な左の二の腕にかぶりつく。口腔が鉄の味――魂の味でいっぱいになる。
あたしはすぐに顔をしかめた。獲物が泣き叫び始めたからではない。走らせたためか肉は柔らかくなったものの、味は変わっていなかったからだ。これ以上は美味くならないだろうと、あたしはげんなりしながら左腕を尾で完全に切り離し、逃げられないよう両脚も切断しておいた。獲物をひっくり返して外套を剥ぎ取る。
まばゆいこがねの髪が露わになる。垂れ目がちな黄色がかった明るい赤の瞳は虚ろ。相貌はサイマトで暴いたエフィの記憶のものとも一致しており、どこか黄金卿を思わせるところがある。
ベリィ――ふたりめの。姉の胤をつけ、プロムの子宮でエフィが孵した人形。三卿すべての血を継いだ人形。エフィと同じように。四肢も失って。
たまらなくおかしくなってくる。「これでおまえの姉とそっくりになったわね」
もうわめくこともできず、虫の息のベリィにサイマトを繋ごうとして――弾かれる。すでに他の人形と接続している? あたしの穴ぐらには月の砂を振り撒いておいたから、エフィにはサイマトが届かない。プロムは死んだ。母上はベリィの波を知らないはず。なら、ひとりしかいない。
彼方から、剥き出しになった獰猛な威圧感。既体験感。咄嗟にベリィから離れた。あたしの鼻先を研ぎ澄まされた爪がかすめ、なびいた銀髪を裁断していく。赤銅色のたてがみが視界に広がる。二度目の邂逅。さらに後退して、こがねの人形の後ろ蹴りからも逃れる。長身の人形は、そのままあたしに目もくれず胴体だけになったベリィを拾い上げ、走り去っていった。見る見るうちに小さくなっていく後姿。手負いのあたしではかなわない足の速さ。
サイマトで母上を探ってみる。反応はある。母上は死んだわけではない――ならば何故サイマトで連絡してこなかったのか。くそ、あの女、再三黄金を狩れと言っておいて――。
まァいいか、とあたしは放り出していたベリィの手足を尾に突き刺し、回収していく。どうせ、黄金卿にはすぐに会う。
牡丹一華へ