※この作品はR-18です。

アーティフィシャル・キャットファイト   作:伊土 讃阿

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幻翅極光華

 

 

 

 幻翅極光華

 

 

 

 ――魂だけは守りなさい。

 溶けない月に、砕けき太陽。

 祝詞の奔流。最期の寝床の囁き。

 病。時間。水。砂漠。風。太陽。月。車輪。紙。文字。国。天秤。剣。

 天にあるもの。地にないもの。刻まれ刻むもの。

 お母さまが教えてくれたもの。星が教えてくれないもの。

 天が焼かねばならぬもの――阿密哩多に封ぜられ、乳海にしずめられたもの。

 網膜にこびりつく景色。

 質量。魂。生命。血。鋼鉄。肉。思想。蓮華。泥と、雷。

 どこにでもあるもの。無限にしかないもの。きずつかないもの。

 無間那由他の果てにもあまねく芽吹く――際限のない腐食、細胞、二重伝承統一理論。

 今際のはじまりに頭のなかを駆け抜けたのは、当て馬たち。伝統を守らされたひとたち。一天二公三卿四極の天網に囚われた抑制均衡。それは潤われぬ喉の獅子たる黄金。あるいは毒の循環に病んだ乳香。いなずまの瞋恚に裂けた没薬の木。創られた思想の損耗。

 もつれたその娘たちも、ともに。曼荼羅の華。しのび寄る蒼ざめた夜の刻に、不妊の砂、月の業によって受精された怪蛇。すべての太陽の灼熱の炎を保ちつづける鴉――永遠に不毛な存在のなかから萌え出し、いまや、生命のあずかり知らぬ混沌たる形をとるにいたる、存在を記述することは何人の手にも不可能な、虚無そのもののように筆舌に尽し難い思想。狂おしく愛おしい煉獄のきらめき。

 そして罪のない羊たちが。わかたれた月を砕くべく築かれたきざはしの幻翅と、いかずちをたずさえた二重螺旋のにがよもぎ。勝利の塔に佇む――ああ、かわいい我が子。

 かつて知りえない暗黒が見せるは、最後の幻。灰塵の尾と電離の尾が炉心の風にあおられて蝶の翅をかたどり、彗星には牙を与えた。潮の満ち引きがかのいやはての極みに、衛星と衛星は、生きているだけで焼き尽くす色のある炎を吐き、死ねば虹色の森となり、心臓と子宮のごとく双対なる牡丹一華と福寿草を咲かせている。狐の手袋とくちなしの庭の片隅には、赤い芙蓉、黄金水蓮、白い寺花――、悪の華。その終なる蓮華、黄金の御座にまします白金の曼珠沙華に留まるは、やはり一枚の胡蝶か。

 花鳥風月の揺り籠が、蓮華への扉を開け放った。

 ここは――こここそが、四十とふたつの黄泉比良。

 ふたつの魂の重さになるように、極が刻まれていく。

 ――望むらくは、燈芯草の原野が暖かであらんことを。

 どうかあの子たちが寒さに凍えることだけはないように。

 

 

 

 

 

 

 何度も躓きながらふらふらと歩いた。歩いている感覚はなかった。どこをどう歩いたかも定かではなかった。明瞭にちらつく未知の記憶――かつて知りえぬ黄金の想念を通して初めて見る姉の生み親、妹の胤親の顔。記憶と現実の境界があやふやになってくる。温かに甘く、あたしに疼痛を与えた、それ。

 気づけばねぐらに足を運んでいた。苦しげな唸り声を漏らすエフィの横を過ぎ、寝室に。待ち受けていたのは、闇色の外套と石膏の仮面。我が母上。

「ついに黄金を砕いてきたようね」しわがれ声。

 落ち着き払った口ぶりに静かな苛立ちが募る。「……あたしは、何のために黄金卿やプロムと戦っていたの」

「バルタの復讐でしょう。そして黄金の子どもたちを食べたのは、黄金に砕かれ取り込まれたバルタの因子を奪い返して統べるため、でしょう」

「……黄金卿に、食われて……黄金卿のなかで……記憶を、見た。黄金卿は、あいつは乳香卿を殺しちゃいなかった」殴りかかりたくなるのを抑えた。「母上はずっとあたしに、あいつこそが仇だと説いていたけど、いったいどういう根拠があったの? ほんとうは知っていたんじゃないの? 乳香卿を食べたのは、いったい誰だったの?」

 外套が身を屈め、あたしが断ち切ったアルルの首輪を白い指でつまんだ。「今しがた、あなたが体験してきたことでしょう」

「……なに?」

「あなたは、人形のどこに魂が宿ると思っているのかしら?」まったく脈絡のない問い。

 虚仮にされているようで、かっと視野が赤くなった気がした。今度こそ掴みかかっていた。「あたしが聞いてるのは――」一瞬だった。まったくそんな素振りも気取らせず、軽く手を払われたのかと思えば、二の腕にそれが突き立っていた。小指の先ほどの、目を凝らさなければ見つけられない細さの毒針。

 受身も取れずに仰向けに倒れる。全身の筋肉を引っこ抜かれたみたいに指一本動かせなかった。

 頭の横でしゃがみ込んだ没薬卿があたしの手を取り、首輪の鋭利な断面を人差し指に押し当て、一息に切り落とした。痛みはなかった。「たとえばこの指には魂は宿っているのかしら? 宿っていたのかしら? 否ね。そんなことは誰にでもわかる」指をその場に落とし、「じゃあどこにあるのかしら。心臓? 肺? 子宮? 脳? 器官? そのどれでもないわね。それらは人形の身体を動かすためだけの、ただの臓器に過ぎない。それらを失い、変質されても生きている人形はいるし、それらに手を付けなくとも魂を摂取することはできる。では、血かしら? 仮に血だとすれば――」没薬卿の指があたしの額に触れ、鼻梁、唇、顎をなぞっていく。「ここで完全に真っ二つにしたならば、まったく同じ重さ、同じ量でふたつにわけたならば、魂はどちらに宿るのかしら? ……それが民衆の行っていること。個の魂の価値を真に砕き、意味づけするということ。バルタはそれを承知していた。バルタが目指していたのは、その先にあるものだったから。だから月なる魂を孵し、あなたに自分の身体を食べさせたの」

「な……に……?」舌を動かすのがやっとだった。喉はからからに渇いていた。

「わたしはあなたの生み親ではないの。ほんとうの生み親は、バルタ。あなたはバルタの胎を食い破って生まれたのよ。今のあなたがメルチと、そして前のあなたであるラフラの胎を食い破って生まれたように。魂の根源を打ち負かし、価値の祖に成り代わってね」

 頭を殴りつけられたかのような衝撃。「そん……な」

「バルタの魂の一部があったからこそ、あなたは黄金を砕けたのよ。そして正しき手順で魂の重力を遡ることができた。それこそバルタの思想――あなたは、生み親であるバルタを食うために作られたの」

「なんの、ために……そんな……」

「黄金の子たちの祖たる魂、焔天を砕くため。そのためにわたしがあなたの仕業に見せかけて最初のベリィを食い、アルルに魂原器を渡してプロムを誘惑させたんだもの」

 言葉が出なかった。毒か、もしくは別の要因か、頭のなかがぐるぐるまわっていた。ねばつく囁き――すぐに思い出す――あたしがあたしに囁く。ねっとりと。「アルル、の……なか、に、そんな、記憶は……なかった……」

「そうね、あなたは見えなかったでしょうね。バルタが阿密哩多に封じていたもの」

「乳、香卿……は、死んだ、はず……じゃ」

「いいえ、完全に死んでいたわけじゃないわ。身体と魂の一部をあなたに食わせはしたものの、魂はこれに移して生き延びていた。アルルに取り付いて」母上が指で首輪をもてあそぶ。内側にアルルの皮がこびりついた――錆びた鉄の――魂に焼けた鋼鉄。ぐるぐるまわる――攪拌――引きずり出されるみたいに。

 囁き。「あんたが……、あんたが、全部、仕組んだの」ねっとりとした脳の奥に、硬い白金。

「仕組んだのはわたし。でも企んだのは、バルタよ」

「な、ぜ……乳香、卿が……」ぐるぐる転がり、頭蓋骨の裏側にかちかち当たる。囁く――誰が?

「すべては民衆のため。すべての人形を陽獅子から守るため。民衆という模倣子をステラにばら撒き、剣を持たせたのはバルタだったから」額に首輪が近づけられる。

 引き寄せられるように脳の奥から白金が眉間の裏を叩く。熱く突き上げ、せり出し――。

 激痛に吼える。額が割れていた。熱いものが溢れ出し、視界を赤くふさいで瞳を鼻を唇を焦がしていく。顔面がただれる。輝きのなかで盲いる。血だった。血が沸き立っていたのだ。全身を内側から焼かれていた。鱗を肌を肉を焼く高熱――鋼鉄。毒すら清めて。

 もがく。腕を振りまわした。爪の先が硬い材質を捉えた。急に視界が鮮明にひらける。双眸は焼けたまま。それはせり出した白金の啓示。囁く――囁き。

 部屋中があたしの血で燃えていた。あたし自身も、そして闇色の外套も。没薬卿が後ずさった。石膏の仮面が割れていた。顔が露わになっていた。皺だらけで、醜く乾いた相貌が。漆黒だったはずの頭髪はほつれた白に、輪郭や目鼻立ちは面影があるが、まるで別人。どのあたしの記憶にもないもの。

 ここを中心として、開かれていくのがわかった。星の雷、星の火、星の知――精神行列が渦巻き、今、陽獅子の炎を介して乳海を望んでいた。没薬卿が真に欲していたのはこれだったのだろう。星の知に埋もれていた白金がせり出す。阿密哩多がせり出す。

 陽炎をまとった腕を伸ばす。炎に飲み込まれる。何もかも。赤い奔流。囁き――炎の向こう側から。「さァ、天を目指しなさい。あなたの先に立つものの、思想に従って」

 第三の鋼鉄が告げる、いかずちとほむらの導き。

 

 

 

 

 

 

 大気の痛みに、わたしは目覚めました。

 眠っていると、わたしの頭のなかではかちこちと音がします。それは脈拍よりも規則正しく常におなじ間隔で、かちこちと音がするのです。

 歩きすぎたせいか、気づかぬうちにうとうとしていたようです。ちくちくした大気の肌触りに身震いし、外套をたぐりよせて口元をぬぐいます。かすんだ目の前には頭蓋のさかずきに満ちる、水っぽい安物のぶどう酒。ママがよく飲んでいた地獄のお酒。鋼鉄の義手でさかずきを傾け、喉を潤します。

 地獄のなかでもとりわけ寂れた酒場の脈動する肉壁に設えられたサイマト端末人形が、口の端からよだれを滴らせながら今一番わたしが耳にしたくない報道を読みあげていきました。

『すべ……ての人形たちよ……! 真紅の旗を掲……げよ! 剣……を取れ! 天を砕……け! 魂は……みなのも……のだ!』枢密院を乗っ取った、民衆の声です。『いまだ抵抗を……続ける血族に告……ぐ! 枢密……院は完全に陥落し……た! 三卿もみな……死んだ。顧問官……も、もういない。ア……デッドは終わった……のだ! 伝統は潰えた! 我ら……が第六は焔天をも、……まもなく墜とすだろ……う。真紅の……旗を掲げ……よ! 魂を数えよ! そ……の銘を棄てよ! 魂を……取り……戻せ! 今こそ持……たざるもの……だけを選んで焼き殺……す、邪悪な太陽を砕……くのだ!』

 大地ステラは混乱のさなかにありました。メルチさんとニースとのアデッドが行われている最中に、なんと民衆が大挙して枢密院を襲撃したのです。メルチさんが負け、次いで没薬卿までも亡くなっていたことが公になり、統率するもののいなくなった煉獄からは秩序のあらゆるが失われてしまいました。

 それは地獄でもおなじこと――いえ、煉獄に比べれば、地獄はいくらか和やかだと言えましょう。民衆が生まれ、温床となっていたのはもともと地獄であり、賛同する人形も少なくはなかったのです。いまや市場や往来は真紅の衣服を着込んだ人形ばかり。この酒場も例に漏れず、壁には赤い旗が揚げられ、民衆には無料でお酒が振舞われているようです。

 対して煉獄では、民衆による血族狩りが繰り広げられていました。民衆に歯向かって伝統を守ろうとする、ちからを持つ誇り高い血族が幾本の剣に下される光景をわたしは何度も目にしています。それは陰惨なものでした。凄惨なものでした。あらゆるところで民衆たちが目を光らせ、通りがかる人形の血統を誰何し、銘のある血族にかかずらっているとわかれば問答無用で袋叩きにしてその血肉と魂を引き裂いてしまうのです。大気の痛みが伝えてくれる、魂が等しくわかたれる感触――銘も知らぬ人形だとしても、とてもとても、耐え難い痛みでありました。わたしはただその魂が果つ大気の痛みから逃げ惑い、そして痛みを頼りに民衆を避けながら行く当てもなく彷徨い続け、血族や顧問官たちが狩りつくされた段になってようやく様変わりした地獄へ戻ってくることができたのです。

 煉獄のアデッドへと赴くメルチさんの後姿が瞼に浮かびます。メルチさんはニースの挑戦を受ける前に、私財のほとんどを投げ打って没薬卿と民衆の危機が及ばないようにと煉獄の枢密院とも地獄とも離れたところにわたしの新たな住処を用意してくれました。メルチさんはわたしに軽くなった財布を渡して、ほとぼりが冷めるまでここから出ないようにと言いつけました。メルチさんが予期していたのはおそらく自分の死ではなく、民衆の暴動だったのでしょう。枢密院が必ず、そしてもっとも手薄となる機――それはメルチさんのアデッド以外にありえなかったからです。

 メルチさんは言いました。ニースは斃さなくちゃいけない。それでおしまい。それで決着。このくだらないキャスの企みも終わりにできる。だから、待ってて、と。

 こちらの位置が発覚してしまうのでニースとサイマトを繋ぐことはできませんが、民衆の報道によればニースは天獄を目指しているそうです。大地ステラを支配する二公の座を簒奪し、伝統を破壊する――その民衆とニースの企みがステラの何を変えるのか、見当もつきませんが、メルチさんは三卿として、ニースを食い止めたかったはずです。

 ぼやけていた視界がはっきりしてきました。ちりちりちくちくした肌の痛みが義手のなかを巡り、背中を刺し貫きます。一度は収まった痛みですが、メルチさんが食べられてしまって以来強まるばかり、わたしの神経を苛み続けています。ですがその一方で、痛みはわたしにある託宣をもたらしました。ずっとサイマトが不通だったエフィねえさんの波を、拾うことが出来たのです。

 お代を払ったわたしは酒場を出て、民衆の目をかいくぐりながらふたたび地獄を歩きます。疲れが抜けていないのか、鋼鉄の手足が少し痺れています。

 メルチさんは言いました。ニースを斃し、すべてに決着がつけば、エフィを助けに行こう、と。今となってはかなわぬ約束ですが、だからこそわたしはメルチさんの言いつけを破り、危険を承知で地獄を目指しました。

 ねえさんを救い出せるものは、もうわたししかいません。わたしにも、身寄りと呼べる人形はもうねえさんしかいません。断ち切られた血脈――黄金の係累、三卿の血。わたしとねえさんと、ニース。取り残され、因縁だけが受け継がれてきた決着。傾ききった賭け率は、わたしでは元に戻しようがありません。ならばせめて、ねえさんだけでも――。

 メルチさんは言いませんでした。負ければわたしがどうなるのか。ねえさんがどうなるのか。メルチさんはわかっていたのでしょう。負ければそれはすなわち、すべておしまいということを。それで決着だということを。

 ニースの穴ぐらの前に辿りつきます。濃くなった月の香が、義手に擦れて冷たくきしみます。付近に民衆はいませんでした。大気の痛みに耳を傾けてみれば、近づけば近づくほどに弱々しく儚い手応えのねえさんの波だけが感ぜられ、穴ぐらのなかにもねえさん以外の人形の気配はありません。民衆たちはみな、天を目指しています。わたしはおそるおそる穴を下っていきます。焦げた肉壁を踏みしめて、穴を下っていきます。生温く甘ったるい、花の香りにも似た腐臭が鼻につきます。息苦しい、粘つく空気です。咳き込みました。義手がぎとぎとします。焼けた月の砂の匂いだと気づくのはすぐでした。どこで嗅いだのかまでは、思い出せなかったのですけれども。

 暗い部屋です。たぶん居間だったのでしょう。ほとんど灰になった家具があります。部屋は脈動していませんでした。剥き出しになった大地ステラの肉は動いていません。壊死しているのです。穴ぐらはじきに崩落するでしょう。再構成されるでしょう。

「ねえ、さん……?」ひりひりする喉に唾を流し込んで、呼びかけます。返ってくる痛みはありません。サイマトを繋ぎます。途端に押し寄せた昏いうねりに打ちのめされます。足からちからが抜けそうになります。痛みが抜けそうになります。振り返りました。焼け焦げ、ひび割れた肉壁の前に立ちました。断続的な痛みがうねっています。飢えと渇き――目を凝らしてようやく、ひび割れのなかに輪郭を見出せます。サイマトを繋ぎます。義手がひとりでに震えました。かちゃかちゃと粘ついています。

 ――ねえさん。

 返ってくる痛みはありません。痛みが断続的にうねっています。痛みが告げます。ねえさんが張り付いた、おおきな脈動を感じます。まばゆいばかりの全き暗黒をうかがえます。わたしは察しました。これが大地ステラのサイマトなのだと。

 メルチさんは言いました。エフィはまともな状態じゃない、と。わたしは察しました。大地ステラに癒着していたからこそ、その身を焼かれてもなおかろうじて生き残っていたのだと。ねえさんが告げます。ステラが告げます。穴ぐらが記憶していたのです。甘い腐臭の痛みが、覚えていたのです――この一個の子宮の胎動を。それは暗黒でしょう。子宮から剥がれ落ちた胎盤なのです。今は、急速に沈みゆこうとしています。

 痛みが遡ります。かぐわしいばかりの痛みです。痛みは、臍帯の役割を果たしていました。ねえさんが囁きかけます。鋼鉄の義手が緩やかに逆立ってゆきます。涙がぽろぽろと零れました。念じかけます。

 ――ねえさん。

 返ってくる痛みはありません。ねえさんはもう何も言えないのです。何も見えず、何も聞こえず、もはや何者にも表現できぬのです。ねえさんはただ囁くことしかできません。ねえさんが囁きかけます。輪郭が脈動したようにも見えます。これから還ってゆくのでしょうか。蓮華で眠るのでしょうか。ママに聞いたことがあるような気がします。でも、視界が滲んでいたせいで、脈動したように見えただけかもしれません。

 ねえさんが囁きかけます。メルチさんが、わたしにお願いしたみたいに。ねえさんがお願いします。頭からかぶっていた外套を下ろしました。唇を寄せました。舌でなぞります。確認します。歯を突き立てます。ゆっくり突き立てます。あまり痛まなければいいのにと思いながら、歯を突き立てます。

 苦い表面の下から、甘辛い液体がさらさらと溢れました。焼け焦げたひび割れからは想像もできないぐらい、溢れました。ねえさんが囁きます。ねえさんは謝りました。守れなくてごめん、と――後から生まれたせいで――代わりに生き残ってごめん、と。二度も守れなかった、と。外套に血が染み込みます。重くなっていきます。血がどんどん溢れてきて、止まらないのです。ねえさんがわたしの胃のなかで温度を持ちます。喉がひりひりします。焼けているようです。ちくちくした義手を温かく洗います。義手は、すっかり温もっていました。ねえさんがすっかり冷たくなってしまう頃には。

 メルチさんは言いました。時間が癒してくれるかもしれない、と。時間は、ねえさんを癒してくれるのでしょうか。わたしは穴ぐらをあとにしました。ねえさんが囁くのです。ねえさんの痛みを追いかけます。ひどく温かな吐息と羽ばたきが、わたしをいざなうのです。それはたぶん、陽に溶けた月でしょう。月に砕けた陽でしょう。わずらわしい大気の痛みは、もうありません。ねえさんが囁きます。ねえさんに問いかけます。

 ――魂って、何なの?

 ただ、かちこちと音がするのです。

 

 

 

 

 

 

 ずいぶん歩きました。無間のようにも感ぜられ、ずっとうつらうつらしていたようにも思えます。

 おおきな石造りの箱でした。煉獄の酒場ポールサイドのように、建物というのだとママに教えられたものです。ただ、あの酒場とは比べものにならないぐらいおおきな建物です。見上げるほどに背の高い建物です。わたしは思い出します。これは枢密院です。誰かに教えられました。誰かが囁きます。どうやらわたしは、地獄の底から煉獄の頂点まで歩き通したようです。不思議と疲れはありませんでした。

 枢密院の周りには、赤い外套の人形が剣をたずさえてたむろしています。ざわついています。せわしなく出入りしています。噂しています。囁いています。痛みが嗅ぎ取ります。火に強いものを集めろ。なにをやっている。門を通れない。天はどうなっている。第六が帰ってこない。石を集めろ。橋を渡せ。わたしには見向きもしません。ねえさんの血を吸って重く、真っ赤に染まった外套を引きずりながら、わたしは民衆たちの横を通り抜けます。脈動しない石床を外套の裾が掃いてゆきます。

 民衆に乗っ取られる以前の枢密院をわたしは知りませんが、今は灰色の壁や床のそこかしこに血とはらわたが彩りを添え、熱気がこもり、甘い腐臭が立ちこめ、角ばった冷たい外観からはかけ離れた命の息遣いを覚えました。

 枢密院の奥に、人だかりができています。血溜りができています。剣を掲げた民衆がいます。全身から血を流し、縛り上げられた顧問官らしき人形がいます。そこはとりわけ芳醇な香りが充満し、温められていました。厖大なきらめきを放ち赤く青く色を変える炎が、黒っぽい石の門の下で燃え盛っています。炉のようにも見えます。向こう側は見えません。

 民衆が血糊にまみれた剣で炎を指して、尋問しています。「貴様で最後だ。いい加減、諦めたらどうなんだ。もう三卿はいない。血族は死に絶えてる。今更何を守るものがあるというんだ? さっさと吐いて、楽になってしまえ」

 顧問官が折れた歯を吐き出しながら懇願します。「知らない……ほんとうに知らないんだ! この炎の門は、二公しか開けない……頼む、わたしもおまえたちに下る、だから――」

 民衆が顧問官の首根っこを掴みます。一瞬の出来事でした。目を反らす暇さえありませんでした。民衆は、顧問官をそのまま炎の門に放り込みました。炎にくべられた顧問官は、煙か幻のように消えてしまいました。灰さえ残すこともなく、です。

 民衆が散り散りになります。ざわつきはじめます。囁きはじめます。火に強いものを集めろ。石を集めろ。橋を渡せ。血溜りが門の熱で乾きました。わたしは門の前に立ちました。

 座り込んでいた民衆のひとりが顔を上げます。「あんたも見てたんだろ、あんまり近づきすぎるんじゃないよ。この火は鉄すら溶かしちまうんだから」

 わたしは腕を伸ばします。鋼鉄の義手がきらめきを受けて七色に照り輝きます。「だいじょうぶです。ねえさんが教えてくれますから」

「……あんた、もしかして鉄の貴婦人かい」わたしの手足を見るや、民衆は腰を浮かしてまじまじと観察してきました。真紅の外套がずり落ちて、ハルピュイアの翼が現れました。「オフィチナルムに負けたはずじゃァ――」

 炎が蠢きます。雷の束がほどけてゆきます。ねえさんが囁きかけます。誰かが語りかけます。ひどく温かな匂いがしました。花の香りにも似ています。全き陽光でしょう。誰かの声が聞こえます。わたしは直感しました。これが大地ステラのサイマト――そのプラチナ・アルシーヴなのだと。これこそある一個の心臓なのだと。食われぬままに命を落とした血族たちの血の痛みが歌いはじめます。

 魂と火は、星の数にも等しき雷の子によってかたち作られています。ゆえにそれらの構造は本質的におなじですから、鋼鉄に感応を持つ大気の痛みは、鋼鉄に感応を持つ魂にもまた、おなじ痛みを招くのです。わたしはそれを体験していました。

 伸ばした義手に、ほむらの糸が絡みつきました。外套の裾が焦げ、溶けてゆきます。ですが、わたしの肌もねえさんも火傷することはありません。別たれた雷の子らはさながら絹の布のように滑らかにわたしたちをひんやりと撫で包むのです。

 ゆっくりと踏み出します。目の前が光に満ちます。頬をほむらの毛先がくすぐりました。瞼を閉じて、魂のさえずりのなかを歩きます。

 

 

 

 

 

 

 まばゆい光が射しました。ステラのサイマトとはまた違った種類のまぶしさです。やわらかく、ぽかぽかとする光です。ゆっくりと瞼を開けます。一面の草花がずっと先まで生い茂っています。丘があります。透き通った川があります。ママが教えてくれた森もあります。頭の上には底のない嚠喨たる青い穴が広がっており、花のようなほむらが灯されています。そこからはあらたかなる、そう、あらたかなる陽の香が観測されます。それはわたしをどこか懐かしい気持ちにさせます。わたしは無意識に義手を撫でていました。ねえさんに呼びかけていました。冷たい空気が穏やかに運ばれ、髪を梳いていきます。ここが天獄なのでしょうか。

「やっと来たのね」声をかけられます。

 視線を巡らせると、石造りで小ぢんまりとした甲板と柱だけの、壁のない建物がありました。そしてその下にはおなじく石造りの卓と椅子があり、ちいさな人形が座っています。ニースではありません。わたしはその人形に近寄りました。

 艶やかな黒髪が目を引く華奢な人形です。顔立ちは、どこかニースに似ています。「座ったら?」椅子を勧められます。人形には特別な器官が備わっていないようです。わたしは言われたとおり腰を下ろしました。人形が銀の容器から杯に赤い液体を注いで、わたしの前に置きました。湯気が立ち上っています。深い香りが漂ってきます。

 わたしは人形に訊ねました。「あの……ここは天獄なんですか?」

「天獄――魂の囚わるところという意味を考えれば、ここだけじゃなく、上の砂漠だって天獄とも言えるし、下の地獄、ステラでさえ天獄でもあるわね。でも、天の本質は確かと定まり在ること。もっとも重いひとつであること。ここがもっとも重く、ここ以外に天がないと証明できるまで、ここは天獄とは言えないわ」

「あなたは――?」

「悪妖公だとか、二公だとか、二荒だとか、最大公悪数だとか、他にも色々と呼び名はあるけど、いつも言うの、ルチアでいいってね。呼ばれたためしはないけれど」

「二公……あなたがステラを作った、人形ですか」

「いいえ、あたしは人間よ」

「人間?」

「ええ。人形も人間も、大差はないのだけどね。あるとすれば勝ち続けるか、負け続けるか、それぐらいかしら」二公は杯に口をつけました。「――人間の歴史は敗走の歴史だったわ。血に負け、狼に負け、月に負け、己が生み出した遺伝子に負け、負け続け、逃げ続け、やがて雷の海、火の宙の果て、終の脳に辿りついた。そこは無限だった。害成すもの以外のすべてがあった。人間は文明の根を張った。そして、無限を腐らせた。無色の肉は無限だったけど、魂――遺伝子や模倣子に触れるとたちまち腐ってしまった。魂は方向性を持つからよ。遺伝子と模倣子が持つ重力に、設計指向のない均一な無色の自重は耐え切れなかったの。人間の魂それ自体が終の脳に対する抑制均衡であり、生命平衡――生命の熱的死を呼んでしまう……熱的死は終の脳の一面でもあるから、ある意味必然ではあったのだけれど。だからあたしは、終の脳に適合する魂の組み合わせ、質量への正しきを重力を模索するために、共進化的な太陽の果実を設計した。それが恒星公、ステラ。あたしの人形。最初の人形」

「抑制均衡?」

「二十とひとつたる魂の重さを決める天秤の、反対側。祖にして其を砕くもの。系の極を常に四十とふたつ足らせるもの。太陽なら月、毒なら薬、心臓なら羽根、人間なら終の脳、光なら闇のように。光はいかずちとほむら――あたしたち人間が電子と呼ぶものでかたち作られているの。光は人間に時間と文明という魂の器官をもたらし、非知なるところに知を与えた。光とは人間の先に立つもの。逆に終の脳あるいは無間が祖とするものは電子を食らうあらゆる闇が先に立つ、知によって非知なるもの。人間の先を砕くもの。光もまた闇を打ち砕き、ゆえに互いに相反する存在になるの」

「終の脳って何ですか?」

「あとづけされた先天的な思想の器官といったところかしらね。文明が発生、発達するためには火と文字、車輪が必要なの。水中では車輪を着想しえないために文明は起こりえないといわれていた。でも水中の微生物は先天的に、その身体に車輪を持つものがいくつもいる」

「車輪?」

「輪っかよ。円のことね。車輪は構造上、連続性を保てないあとづけの器官にならざるを得ないのに、その微生物は電離された水を駆使して車輪を動かし、生活しているの。生命は螺旋であり連続性であり、その魂の構造は分離されないものなのに。ここには、明らかに高度な知性の介在が認められながら、作ろうと思って作れるものではない、知性ゆえの非知性的構造がある。その車輪は誰に与えられたのかしら? 誰の車輪だったの? 適応の結果だとすれば、適応する器官とは? 先天性を担う因子とは? 車輪の概念、その思想の祖は螺旋にあるの? それとも水中に? 知性を保存し、伝達する媒体のありかとは? 魂の先に立っているものとは? そういった思想から、形態形成場仮説を遡行方向に発展した認識が、この脳の海の、その終を発見させた。円であるがゆえに、黄金長方形の螺旋がごとく球の内側にのみ螺旋を描き、その濃度飽和で膨張する真なる開集合。無限の円。その中心、終着点が、ここ」

「形態形成場仮説?」

「天の縮図――魂に編み込まれた遺伝子と模倣子が持つちから、あるいは、遺伝子と模倣子そのものの魂、と言い換えてもいいかしら。進化や適応は構造や原理を呼び寄せるの。螺旋全体の自己共時性――それを形而下に具現したのが、ステラの御血であり、サイコマトリックス。無形文明の極、そして透明な文脈依存性の集合。元帝王たちの都を監視する、猿の解釈。模倣子の地図といったところね。ステラの内部における魂はすべて、ステラに適合させるためのもの。ゆえにステラの御血を含まなければ、ステラの一片たる乾坤の泥雷にも適合しない。血族でなくとも、すべての人形は御血をほんの少しは持っているの。臍帯を通して生み親から受け継いで、ね。そして飢渇とは、活動によって人形の体内の御血が薄まること。だから人形は他の人形を食べ、魂の馴染んだ御血を摂取しなければならないの」

「魂って何ですか?」

「難しい質問ね。でも答えは単純。魂とは鋼鉄に眠るいかずちであり、ほむらであり、血を繋ぎ、こころを繋ぎ、そして身体のなかで大気を運ぶ鋼鉄それ自身でもある。すなわちエア。ゆえに天。それは、乾の泥たる業の遺伝子と、坤の雷たる縁の模倣子を束ねる螺旋のこと。それは、みなが吸い込み、みなが吐き出し、みなを生かし、みなを腐らせ、みなを伝え、みなを保存し、記述し、みな自身であること。ほむらを絶やさぬもの。いかずちを運ぶもの。思想のなかにのみ生まるる、ただひとつの思想。ステラで言えば、アデッドね。人工犬は人工犬を食うという魂。ステラの魂の器官たる焔天が魂を汲み上げ、次なる魂を生成し、みなをみな足らせている」

「焔天って――?」

「魂はいかずちであり、ほむらであり、骨と肉より、血潮より、吐息よりも軽いために、質量の価値、質量の魂の器官たる重力を遡るの。焔天とはそうして吸い寄せられ、蓄積された魂の開集合であり、原初のほむら。ほむらそのものの思想。あらゆる進化論思想の心臓であり、知的設計論思想の子宮。心臓の螺旋にして、螺旋全体の炉心。あなたが追ってきた人形は今、その炉心を目指して旅をしている」

「わたしが追ってきた人形……ニースですか?」

「あれはもう、ラフラでもニースでもバルタでさえもなくなった。太陽の果実ステラに対する抑制均衡――自己漸近循環する、母の母、太陽の母。それこそがニースの後に立つものであり、バルタが目指したもの」

「乳香卿が?」

「そう。バルタは、あたしがステラの次にこの手で生み出した人形だった。模倣子を守護し、あたしとアデッドに対する抑制均衡として。バルタはあたしや枢密院、アデッドを壊す思想を魂に刻み付けられてるの。だからバルタは、王に対する抑制均衡になる模倣子をばらまいた。市場や、民衆や、剣といった模倣子をね。バルタは、民衆の長となり弱い人形をまとめあげ、自衛手段として剣を持たせた。あたしはバルタと民衆に負荷を与えるためにその抑制均衡として、遺伝子を駆り立て守護する役目の人形、太陽の果実ステラの縮図――メルチを作って地獄へ送り出した。バルタは、メルチがあたしの手先であり民衆を狩る存在だと見抜いていた。ゆえにバルタは民衆を守るためにも、メルチを手篭めにして篭絡を試みた。ところが結果的に、バルタのほうがメルチに惹かれすぎてしまった。メルチが飲み込んだあらゆる色の魂こそ、バルタの先に立つもの――乳海が欲するものだったから。それでもバルタはアデッドの破壊を諦めず、メルチに対する抑制均衡を模倣子だけで編み上げる計画を考案した。その第一段階が、プロムとラフラを作ること。そしてラフラに自分を食わせて器官の一部を与えることだった。ラフラに食われながらも、アルルに取り付いて生きながらえていたバルタは、次にキャスに協力させ、ふたたびニースに食われて己が魂を自己循環させ深めながら、己の支流、欠片をニースに集めさせた。ステラや焔天のように、模倣子の本質――非知による環境の観測結果を常に参照し続け知へ昇華させる動的な系を、再現しようとした。バルタは、第二のステラになろうとしたのね。バルタの目的は初めからそこにあった。そうしてあれは、バルタを食い、アルルを食い、ラフラを食い、プロムを食ったことで、かのものの母であり、妻であり、きょうだいであり、娘になった。それがムトなるもの。最後にあらゆる色の生み出でる黄金流体たる獅子宮から、バルタと同様に自己循環再現し、あれはイオンなるものとして完成した。時間の帰結なる永劫、彼岸よりの光、完全平衡を保つ太陽の母たる月の天。万物にとって最大の没薬である時間の模倣子を克服した、血肉の魂原器。焔天に拮抗しうる最後の抑制均衡。あれを自己伝承再現することこそ、バルタの目的」

「ニースは何をしようとしているんですか?」

「あれはバルタの思想を先天性として、この果実ステラにおける魂の在り方を変えようとしている。あまつちを結ぶ八つの綱を束ね、天に成り代わり、すべての魂が食い合わないような在り方に。あたしにその思想を既知たらしめたのは、あたしの端末であるキャスにバルタが打ち明けたからよ。バルタも、そしてキャス自身も気づくことはなかったけれど、キャスは二重伝承統一理論を守護し、バルタに対する抑制均衡として作り出したあたしの分身、あたしが用意したバルタのつがい、有と無を別なく毒する時間の模倣子そのものだった。あたしは果実ステラのサイマトにこの新たな手順を学ばせ、さらなる多様性の向上、魂に次の段階を踏ませるためにバルタの計画に乗ることにした。そのためにあなたの魂を設計し、キャスに最初のあなたを食わせて魂原器をプロムに渡させた。そうしてプラチナ・アルシーヴをキャスに盗ませたのがきっかけで目覚めたのが、第二のあなた」

「……わたしの魂は、何なんですか?」

「非記述を記述する記述のないもの。非知によって知を見つめるもの。無限円を旅し、星を見つめるもの。ニースの観測者。星に対する抑制均衡。知に対する先天性。衛星と呼ばわるもの。それが、あたしが設計し、目覚めたばかりのあなただった」

「今は違うんですか?」

「失われた最初のあなたと双対であり、今のあなたの母でもあったエフィを取り込むことで、あなたはあなたを取り戻した。星を砕く極光を経て、勝利のきざはしの下に佇み、天の先、魂の先を見届けるものとなった。あなたもまた、自己循環する三重の存在となった。だからあなたはあたしの声を聞いて、ここに来られたの。あなたの母の魂は、太陽よりの使者だった。あなたは、母が大地に伝えた思想を太陽へ還し、地平線を作らなければならない。それで最後の乳海攪拌。車輪の水棲生物は遍く砕け、終の脳に光が射すの。文明という人間の魂の器官が勝ち残り、人間の魂は新たな段階へと進む。ステラはあなたたちから正しき重力を学習する」

「すべてあなたの仕業だったんですね」

「あたしの先に立つものの、ね。さァ、見届けてきなさい。ニースとステラの天の先を。エフィの魂を知見したなら、やりかたはわかるわよね。ニースはもはや遺伝子と模倣子の自重に耐えられなくなっている。炉心の風を前にして、自壊は避けられないでしょう。あなたは前へ進みなさい。ただ前へ。でも決して振り返ってはならない。塩の柱になりたくなければね」

 わたしは涙を拭いました。頷きました。二公は丘の向こうを指差しました。わたしは立ち上がりました。そうして歩きだそうとしたところへ、「あァ、そうだ」二公が思い出したように言いました。「あれがあなたの母の先に立つもの――太陽よ」まぶしそうに頭上を仰ぎました。花のようなほむらが灯されています。

 わたしは無意識に義手を撫でていました。ねえさんに呼びかけていました。冷たい空気が穏やかに運ばれ、髪を梳いていきます。わたしは旅路に就きました。振り返る必要はありませんでした。おそらく二公にはもう二度と会えないでしょうから。

 

 

 

 

 

 

 太陽に近づきます。歩を進めるにつれ、草花の数は減っていきました。川も細く浅くなりつつあります。代わりに鉄くずや緑柱石、乳蛋白石に琥珀などが姿を見せはじめました。砂漠なのでしょう。鋼鉄の義足には歩きづらく、何度も足を取られ転んでしまいそうになります。

 ママは言っていました。天獄にはおおきくてまっしろで、綺麗な花が咲いていて、そこから新しい魂がたえず生まれてくるのだと。二公は言っていました。大地ステラの魂の器官たる焔天が魂を汲み上げ、次なる魂を生成するのだと。

 わたしは直感していました。その花とはきっと太陽のことだったのです。そしてまた、わたしが今踏みつけているこの鉄や宝石たちのすべて、そのひとつひとつがプラチナ・アルシーヴに値するものだとも。まさしくママに教えられたとおりなのでしょう。二公に教えられたとおりなのでしょう。わたしは大気の痛みによって、それを確かめています。

 太陽に近づきます。太陽は頭上の穴を埋め尽くしてしまうぐらいおおきく広がっています。高熱に大気が揺らいでいます。全身から汗が噴き出し、意識が朦朧とします。

 ぽつぽつと太陽から降り注ぐものがありました。きらきら輝いています。白金です。この辺りまで来ると、砂漠には白金の魂原器しか堆積していないようです。重力による魂の質量の選別が進んだ結果です。太陽による魂の価値の鍛造が終わった結果です。見渡す限り、白金の草花、白金の川、白金の丘、白金の森、白金の穴には白金の太陽が――あらたかなる白金の香り。

 この先にあるのは、もう抑制均衡ただそれのみでしょう。この先に辿り着くには、質量とは双対なる価値を持たねばなりません。ゆえに案の定、その人形はそこで佇んでいました。

 向こうもわたしの存在に気づきました。「この先には何もない――あと一歩のところまで距離を詰めたかと思うと、太陽はあの丘の下にもぐりこんでしまう。辺りは闇に閉ざされて何も見えなくなる。そしてあたしが引き返せば、太陽もまた引き返してあたしの前に立ちはだかって、ずっとこちらを見ている。ここが境界なんでしょうね、不妊の砂漠と、かの原野の。……おまえと会うのは、二度目かしら」

「いえ、これで三度目です」

 純白だった鱗の肌は炭化し、ひび割れ、桃色の肉が覗いています。目は焼け爛れて盲い、髪も煤けて頭から灰をかぶったかのようで、その人形は、ひどく疲れているように見えました。

「そう――エフィを食ってきたんだったわね」額から突き出た白金がちかちかと光ります。かのなかの阿密哩多を開けたのでしょう。それをわたしに既知たらしめたのは、ねえさんがその場に居合わせていたからです。ですからその人形と同様に、ねえさんも、わたしも――。「おまえにはどうせ食えやしないと思ってたけど、これで同じ重さになったのね」

 抑制均衡であるわたしは頷きます。「ねえさんが教えてくれたおかげです。鋼鉄と――魂に感応を持つねえさんでなければ、わたしはわたしを取り戻せませんでした」

 わたしの抑制均衡も頷きます。「あたしは単に慰みものにしていたつもりだったけど、エフィはあたしのなかから少しずつおまえを掘り起こしてた、というわけね」

 抑制均衡を見つめます。「わたしは――わたしたちは、あなたを許すことができません」

 抑制均衡が見つめます。「あたしたちも、おまえを許せない。たとえおまえがあたしたちの娘で、娘の娘で、きょうだいで、母親だろうと」

「わたしたちは、あなたをママに会わせられません」

「あたしたちも、おまえをひとりで還すわけにはいかない。あたしたちは絶対にプロムには追いつけない。辿り着けない。だから太陽に還るおまえを利用させてもらうわ」

 太陽から降り注ぐものがありました。きらきら輝いています。白金です。わたしと抑制均衡のちょうど真ん中に落ちました。衛星と衛星の、ちょうど真ん中に。

 抑制均衡が三股の尾を起こしました。火を熾しました。火はまっすぐ宙へと練り上げられていき、太陽と月の間に厖大な熱のきざはしを築きます。

 大気の痛みがわななきます。鋼鉄の義手を巡り、肌を包む痛みは背中を貫きます。

 抑制均衡のほむらにあおられ、いかずちが別たれて悲鳴を上げました。果実ステラのサイマトでさえかつて知りえぬ白金たちは共鳴し、爆ぜ、誰にもその銘を明らかにされぬままに血しぶきを散らします。

 白金に閉じ込められていた、あえかなるいかずちとほむらの魂が大気中に充填されていくのがわかります。わたしは義手を突き出しました。大気を握り締めます。義手が赫耀たる光を帯び、その鋼鉄の指先は黄金にも薔薇色にも照り映えてみせます。大気もまた、義手の色が移ったかのように色づきはじめています。やがて極光はわたしを取り巻き、空気の流れを作り――風を作り――翅がごとく、わたしの背中から静かに広がりました。

 大気を舐めてさえずる雷の束に捕らわれた火の荷が、香ばしい音を立てます。煌めきの鱗粉が魂の大地を焦がし、プラチナ・アルシーヴを砕きます。幻の痛みは翅を伝え、幻の翅は痛みをわたしに伝えます。わたしはその雷火の翅を、痛みによって掌握していました。

 抑制均衡がきざはしを打ち下ろしました。ですが、羽ばたきには至りません。きざはしはわたしに傷ひとつつけることすらあたわず、白金を抉るのみです。わたしは翅できざはしを払いのけました。そして翅を羽ばたかせ、衣のように極光が流れ、たちまち抑制均衡を包みます。極光がたずさえたいかずちとほむらによって抑制均衡の白金が割れる音を、わたしの耳は明瞭に捉えました。

 抑制均衡が膝をつきます。わたしはかがよう灰に変わりつつある抑制均衡の側に寄りました。

「食べ……なさ……い、それで……、終わる」

 わたしはかぶりを振ります。「あなたたちを連れてはいけません。メルチさんもママも、ここに留まることを望んでいます」

 抑制均衡は、灰になりました。わたしは、丘を越えます。

 ずっとずっと遠くで、緑色の原野が波打っています。それはわたしをおいでおいでと招いているような動きです。燈芯草です。

 太陽はすでに、天を覆いつくしています。あまり猶予はありません。わたしは歩きはじめました。ねえさんとともに、火を灯さなければなりませんから。

 

 

 

 了

 

 

 

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