生命製法売ります G code1
飛空挺のタラップを降り、鋼鉄の大地を踏んだ瞬間、ブーツの底から無機質な冷気が一気に駆けのぼってきたみたいに強い悪寒を感じて、わたしはぶるるっと身を振るわせました。グレイトキッチンはお国でいちばん大きな規模の
白い息を吐いて胸の前でストールを寄せあわせ、重い旅行鞄をえっちらおっちらしながら係りの
遠くにうかがえる
遠い故郷イリエルズとなにひとつ変わらない空気に、わたしはちょっぴりほっとして、
「おい、そこの金髪のきみ」
背後から低いおんなのひとの声が上がりました。わたしはまわりをきょろきょろと見まわして、どうやら自分以外に金髪の方がいないことを確かめると、振り返って言いました。
「あの、わたしのことでしょうか――?」
ゲートの鉄柵に背を預け細巻きをくゆらせた、やたらと肌の白い美しい
知らず知らずのうちに無礼を働いてしまったのでしょうか。それならば一刻も早く謝らなければなりません。でも、鋭い眼光に射抜かれてわたしは縮こまってしまいました。
「きみ、名前は」
まるで詰問するような口調です。
「……ク、クラウラ、です。エリスタ・クラウラ」
「ヘッドコードは」
「Hです」
ぶしつけにそれだけ訊くと、おんなのひとはずかずかと詰め寄ってきて、鼻と鼻がくっつきそうな距離でまじまじとわたしの顔を観察しはじめました。はっとするほどの青白い美貌が視界いっぱいを占めてどきりとするのもつかの間、おんなのひとに染みついていた薬品の刺激臭と煙草の煙が喉に絡みついて、わたしはげほげほむせるのを止められませんでした。
「クラウラ。金髪。十歳の
なんと、初対面のひとに鼻で笑われてしまいました。でもどうやらわたしが何か失敗したわけでも――失礼にならないよう身につけてきたおよそいきのワンピースドレスはお気に召されなかったようですが――、おんなのひとにひっぱたかれも噛みつかれもされないとわかって、胸を撫で下ろします。
「あの、ハーミズ先生の使いの方でしょうか?」
「なんだと」
「ひっ」
細められていた切れ長の瞳がぎろりとさらに険しくなります。明らかに不服そうな雰囲気がひしひし伝わってきました。わたしはまた恐怖にとらわれます。
「あたしがハーミズ本人だ。きみはあたしについて、これから主人になる相手について何も聞いとらんのか」
「……め、眼鏡をお召しになっているとだけ……それに先生自らがお越しくださるなどとは、思いもよらなくて……」
あぁ、わたしのばか。今度こそやってしまったようです。
「きみは阿呆か。四六時中かけてるわけないだろう。……まぁ、今は修理中で仕事にならんから、あたしが直々に出向いてやっただけだが――まぁいい。ついてこい。
ハーミズ先生は大きなため息をひとつお零しになり、吐き捨てるようにおっしゃってから、汽車乗り場へとさっさと歩いて行ってしまいました。ついてこいとおっしゃられながらも、それはまるでわたしを突き放すかのような勢いでした。完全に嫌われてしまったようです。
いきなり暗礁に乗り上げてしまいました。今日から始まるグレイトキッチンでの生活は、どうにも前途多難そうな塩梅です。
「性能評価タブレットを見せろ」
がたごとと
わたしが差し出した評価タブレットをじっくり検分すると、タブレットに打たれた鋲をかりかりと爪でひっかきながら、先生は怪訝そうな表情をなさいました。
「ほう、なかなか成績優秀じゃないか。辞令には田舎の
「ぜんまいとか時計仕掛けなら、一通り扱えます。蒸気機関もわかります。からくりには強いほうだと思います」
「
「は、はぁ……」
突っ返されたホルダーを片づけながら、わたしは首をひねります。わたしに伝わっていた業務内容は、主としてお薬を作るということだけでしたので、すっかり製造工程に携わるものだと思い込んでいたのです。
「……あの。具体的には何をすればいいのでしょうか?」
「あたしがやれと言ったことだけやればいい。やれと言わなかったことは何もするな。
それきり先生は、もう何も聞かんぞ、といったていでマッチを擦って細巻きに火をつけ、車窓の外へと目を移されました。わたしもつられてグレイトキッチンの街並みを眺めます。
汽車はちょうど谷を渡す高架に差し掛かったところで、鋼の絶壁にびっしりとこびりついた
そしてその奥、立ち込めた霧からおぼろげに覗く、生まれ育ったふるさととは比較にならないスケールの水門と力強く回転する水車は、それはもう筆舌に尽くしがたい荘厳さをまとっていて、わたしは寒さも忘れて無意識に身を乗り出し、嘆息を漏らしてしまいました。
「そんなに珍しいものか? きみがいた
「あんなにおっきいのは初めてです……わ、連絡橋や風車もあんなにたくさん」
対岸に入港した――グレイトキッチンの谷は大きいので、川まで乗りいれることができるようでした――
コンパートメントが薄暗く染まり、通路にむきだしになった物々しい歯車や滑車、はずみ車、スピンドル、シリンダー、そして蒸気機関が発生させた膨大な排熱がわたしたちを包みました。チェーンとワイヤ、ベルトが
無機質でありながら、グレイトキッチンの命の脈動を意識せざるを得ません。イリエルズの
汽車はわたしたちを乗せて、地上に再び戻り、
やがて、活気あふれる
ここまで来ると機械の鼓動よりも玉突き場や賭場にたむろすおとなたちの、お上品とは言い難い声の方が聴覚を占めます。ここ
はしたない子だとは思われたくなかったので顔を車内へ戻すと、先生がおもむろに立ちあがっておっしゃいました。
「降りるぞ」
「こ、ここでですか……?」
「ほう、きみのような世間知らずでも、ここがどういうところかご存じらしい」
先生は有無を言わせず客室を後にして――また鼻で笑われてしまいました――、プラットホームに出てしまわれました。わたしも鞄を引きずり、慌てて追いかけます。どれだけ揶揄されようが、わたしにはついていくほかなかったのです。
酒場やいかがわしい雑貨屋が立ち並ぶ
最初はうつむき加減で、はぐれないよう先生の安全靴だけ目にとどめて歩みを進めていたわたしですが、まぁなんと言いますか、気になるものは気になります。
それに、駅から仕事場への道のりは覚えておかなくてはいけません。グレイトキッチンの発展とともに拡張されてきた区画なのでしょう、どうやらこの辺りは迷宮のように複雑怪奇に入り組んでいるようです。
わたしは一種の使命感を原動力に、上目遣いでこわごわと辺りの様子を盗み見ます。
するとどうでしょう――。路地裏や店先などのいたるところで女性の
そして中には、相方の女性の下着に手を忍ばせ、ねとねとぐっちょりといった感じであられもない声を上げさせていたり、あわわ、なんとスカートに頭を突っ込んでいる方まで――。
何をなされているのか気になって仕方がありませんが、なんだかとっても見てはいけないものを見ているような気分になってどきどきします。あぁ、恐ろしい……まさしく未知の、おとなの領域です。
しばらく重い荷物を抱えて移動していたのと、
でも毎日ここを通勤しなければならないことを考えると先が思いやられます。今となってはもはや、はやく
頭を振って雑念を追い出し、気を取り直して正面を向きます。そしてわたしは愕然として、あんぐり口を開けたまま立ち止まってしまいました。
ずっとぴったりくっついていたはずの先生が、忽然と姿を消されているではありませんか。先生ともあろうお方が、迷子さんになってしまったのでしょうか。いえいえ、そんなわけがありません。誰がどう見ても、冷や汗をだらだら流して挙動不審に周囲を激しく見渡しているいかにも余所者なわたしこそが、迷える子羊と言えましょう。
大慌てで地図を鞄から引っ張り出して照らし合わせてみるも、現在位置すらわからないので何が何やらさっぱりです。近くに先生のおっしゃっていた
前方にはぼろきれのような衣服や油脂のこびりついた紙くず、割れたガラス片が散らかり、赤黒くて生臭そうな物体に群がるネズミの姿に、焚火を囲む
あろうことか
助けを求めようにもみなさん――その……、お取り込み中もしくは旅立っておられるので、道を尋ねようにもなかなか踏ん切りがつきません。わたしの胸中を取り巻いていた焦燥が、不安、そして絶望へと転じていきます。
もしこのまま先生と出会えなければ、グレイトキッチンにやってきて間もないというのに、わたしは一日と経たずに凍死してしまうでしょう。わたしに残された財産の大半は路銀へと変わり、この軽いお財布ではグレイトキッチンのお高い物価には到底太刀打ちできそうにありません。きちんとした宿を見つけるのにも困難を極めるでしょう。物乞いなどはもってのほか。クラウラ家の矜持が許しません。
気づけば、込み上げてくるものがありました。今のひとりぼっちのわたしにはそれを我慢する術がなく、ただただ両の眼から溢れさせるままに、涙を流してしまいます。このまま見知らぬ土地で朽ち果てていく身となるのでしょうか。このまま
「だいじょうぶですか?」
そうして立ち往生していると、ふと優しげでおっとりした声音がわたしの頭に降り注ぎました。顔を上げると目の前には、大きな二つの丘に持ち上げられた、グリースやペンキで汚れた作業用エプロンワンピースが広がっていました。エプロンから上へ上へと目でたどっていくとそこには、そう――、聖母がおられました。
「お怪我は――ありませんね。迷子になっちゃいました?」
お日さまのような柔和な微笑みをたたえ、垂れ目がちな深みのあるブラウンの瞳でわたしをうかがいながら、その若い
「かわいいお顔が、だいなしですよ」
女性は持っていた木箱を小脇に抱え、いかめしい革手袋を外して雪色をしたきめ細かい肌の手でハンカチを取り出し、親切にも涙を拭いてくださりました。
「お名前は?」
「あの……、クラウラです……。エリスタ・クラウラ」
「いつもなんて呼ばれてますか?」
「エルシー……、です」
「そう、エルシー。あたしはお師匠さまに、エルマって呼ばれてます。エルシーとエルマ。なんだか似てますね」
エルマさんはくすりと童女のように笑って、腕を伸ばされました。すべすべして、
まさしく、聖母。それがわたしの、エルマさんの第一印象でした。
「この通りは長居するにはよくないところですから、とりあえず場所を変えましょうか、エルシー」
わたしがこくりと頷くのを見てエルマさんは鷹揚に頬を緩めました。そうして手を引かれるままに路地をゆく間、わたしはエルマさんの清楚な横顔に見惚れていました。
服装やお師匠さまという発言からして、どこかのマイスターのお弟子さんだと推し測ることができます。
「あたしのお師匠さまに許可をもらってきますから、ほんの少しだけ、ここで待っててくださいね」
いくつか角を曲がり、五十ヤードも歩いた頃です。エルマさんはそうおっしゃい、すぐ脇にある二階建てでこじんまりとしていて、いかにも寂れた薬宿の、バイン材の戸をぎいいと開けました。
「お師匠さまー。お使い行ってきましたよー。はい、どうぞ」
「お、おお、エルマか。ちょうどよかった、おまえとこれがなかったせいで厄介なことになってな――」
「すみません、お師匠さま。今それどころじゃないんです。またちょっと出てきますね」
「なんだと、主人のあたしを差し置いてどこに行こうっていうんだ」
「どうせまたその辺をほっつき歩いて、失せ物をこしらえただけでしょう。だから一歩も動かないでと申し上げましたのに。あとで探してあげますから、今度こそ大人しく留守番しててくださいね」
「いや、おい、頼むエルマ、聞いてくれ、失せ物は失せ物だが、事は急を要する」
「そんな高価な物はうちにはございません。エルマは迷子の道案内で忙しいんです。では、行ってきますねー」
「……待て、エルマ。その阿呆の迷子をしょっぴいて、あたしに面を見せろ」
エルマさんを押しのけ古ぼけた薬宿から亡霊のようにぬっと現れたのは、銀縁の眼鏡をかけて作業着に身を包んだ黒髪の美女――。
「エルマ、やはりおまえはできたやつだ、あたしの失せ物は、まさにこのうつけ者だ」
ハーミズ先生そのひと、だったのです。
先生は冷え切ったまなざしで忌々しげにわたしを見やると、無言で薬宿にひっこんでしまいました。
エルマさんは困ったような表情で先生が去った戸口と、事態について行けず呆然とするわたしとを見比べてから、薬宿を手のひらで指し示し、
「なんだかよくわかりませんけど……
すべてを受け入れ、許してくれるような聖母の微笑で、わたしを歓迎してくれました。
「まったくもう、本当にお師匠さまったら甲斐性なしですこと! 新しい子が来るなら来ると、もっと早くエルマにおっしゃってくださればよかったのに」
清潔なエプロンに着替えたエルマさんが、つんけんしながらニンジンをいちょう切りにしていきます。華麗な包丁さばきの中にどこか鬼気迫るものが秘められ、わたしは初めてエルマさんに対して少なからずの畏怖を覚えました。
「おまえを朝一番に眼鏡の修理に使わしたあと、特にやることもなかったから部屋の整理をしていたら、辞令を発掘したんだ、仕方がなかろう。むしろ肝心なときに掘り当てたあたしを褒めてほしいものだ」
憮然として椅子に腰かけた先生が細巻きを吸い点けます。壁に備えつけられた時計仕掛けの換気扇の紐を引っ張って歯止めの金具を外し、まわしはじめました。
「だから、忘れる前に、
「それはいかん。あの
「たまにはエルマの労働力以外で取引なされたらどうなんですか? お師匠さまがあっちこっちで面倒事を起こすせいで、エルマは苦労が絶えません」
「面倒事の方があたしを好いて舞い込んでくるんだ、どうしようもなかろう。……第一だ、こいつがはぐれたりなどしなければ、話は簡単だったんだ。あたしは何も悪くないぞ」
「す、すみません……」
「こら、お師匠さま! いいおとながこどもに張り合ってどうするんですか! 気にしなくていいですからね、エルシー」
てきぱき手際良くお夕飯の支度を進めながら、ぴしゃりとエルマさんが先生をしかりつけました。先生はばつが悪そうな顔をなさって、ふてくされたみたいに分厚い革表紙の本をひもときだんまりを決め込まれました。
なんとなく気まずくなって、エルマさんに問いかけます。
「あの、エルマさん。何かわたしにお手伝いできることはありませんか?」
「そんな、滅相もない。長旅で疲れてるでしょうし、気遣いは無用ですよ。お気持ちだけで十分です。エルシーは今日はお客さまなんですから、ゆっくりくつろいでいてくださいな」
わたしはテーブルにつかされたまま、薬宿の――
一階にはお手洗いとお風呂の他には大部屋しかなく、ここ大部屋には床一面タイルが敷かれていて、調理場と、フラスコやアルコールランプ、蒸留器、拡大鏡が並ぶ作業場が併設されています。中でもひときわ目を惹くのは天井に届くほどの壁を埋め尽くす薬棚。けばけばしい名状しがたい色の薬液やお目にかかったことのない草花、ホルマリン漬けにされた爬虫類や両生類、昆虫などなどが所狭しと収められていました。
極めつけには、大部屋の隅に鎮座している、わたしひとりがすっぽり隠れてしまいそうな大釜です。これではまるで聞き伝えにある魔術師(メイガス)さんの隠れ家じみているではありませんか。先生のご職業について、大きな工場と最新の設備で万能融解液を量産するイメージを持っていたわたしは、認識を改めさせられます。
しかしとにかく、危険な違法薬物を取り扱っているわけではなさそう――そもそもエルマさんがお許しにならないでしょう――なので、安心してよさそうでした。
「お鍋が参りますよー。みなさん、お片してくださーい」
エルマさんが湯気を立ちのぼらせる鉄製のお鍋を、テーブルの鍋敷きにどっかと乗せました。野菜と鶏肉のシチューです。食欲を誘う香りがわたしの空腹に直撃し、自然と口の中につばが湧いてきました。
バゲットを添えたお皿が配られていきました。お祈りをしてからみんなで、頂きます。
「わぁ……とってもおいしいです!」
「たくさん作りましたから、いっぱいおかわりしてくださいね」
コクのあるスープを一口飲み込むごとに、熱い命の息吹となって身体の芯まで染み込んでいくような感覚があります。これまで食べたどんなシチューよりも美味でいて、そして、母の味付けに少しだけ、似ているような気がしました。
「エルシー、どうかしましたか? もしかしてニンジンは苦手でした?」
「あ……、いえ……。その、あんまりおいしくって、どうやったらここまでおいしくできるんだろうって、考えてました。エルマさん、本当に料理がお上手なんですね」
エルマさんはスプーンの動きを止めたわたしを見かねてくださったのでしょう。心配をおかけしたくなかったからとは言え、嘘をついて――ニンジンが苦手という意味でも――しまいました。エルマさん、ごめんなさい。
「きみは炊事はできんのか」
読書を続けながらシチューを口に運んでいた先生が、わたしに訊ねます。
「できません……でも、お裁縫とか編み物なら――」
「そんなことは聞いとらん。料理はこの仕事に通ずるところがある。心得があれば、直感的に理解する助けにもなる。ゆえに学べ。明日からエルマに手を貸し、教えを乞え」
「ちょっとお師匠さま、突然何言い出すんです。自分はちっとも家事なんてしないくせに。エルシーはまだ来たばっかりなんですよ」
「……あの、エルマさん。いいんです、わたし、手伝いたいです。もちろんエルマさんほどうまくできないと思いますし、力不足で足手まといでしょうけど……わたし、頑張って料理を覚えます。手伝わせてください」
「そ、そう……? あたしは全然構わないといいますか、大助かりですけど――」
「エルマ、あんまり甘やかすな。こいつはもううちの従業員だ。賃金を払ってるのはあたしだ。職務を果たすのに必要な技能を要求するのは、雇い主として当然のことだ」
「どうせそのお給料も結局はアルマを使うんでしょう。わかってるんですからねっ」
「まぁ、というわけで諸君、早速明日の朝餉から頑張ってくれたまえ」
「あ、朝からですか? あの、でも、
「登録などもう終わっとる。今日きみを迎えに行く前、きみに貸与された部屋を売り飛ばすついでに、ロッジに寄ってあたしがやっておいた。至れり尽くせりだろう。ひどい人ごみでそれはもう苦労させられたもんだが、感謝などいらんぞ。情け深いあたしを崇め敬い奉るがいい」
「……」
先生はジャガイモをもぐもぐ咀嚼しながら、こともなげに言い放たれました。
開いた口がふさがらないとは、こういうときのために用意された言いまわしなのでしょう。わたしはあたかも何の前触れもなく氷河期真っ最中の
「な――ッ! お師匠さま! あなたっていうひとは、いったいなんてことをしでかしてくれたんです!」
「こいつが言った通りだろう。
「本当にそういうことばかりは手が早くてらっしゃるんだから……あぁ、もう! 今日という今日は堪忍なりません! エルマたちのみならず、よりにもよって行く当てもない小さなおんなのこのお家まで売り飛ばすなんて!」
「住処ならここがあるだろう。現にあたしたちも住みついているじゃないか。違法性もないしな」
「エルマたちが住んでるからお部屋がもうないんですったら!」
「おまえの部屋に置けばいい。どうせ閑散としてるんだ、こどもがひとり増えたところでどうということはない。むしろちょうどいいぐらいだ」
「エルシーは犬猫じゃないんですよ! それにエルシーだって嫌に決まって――」
「あ、あの……エルマさん」
ようやく我に帰ったわたしは、すごい見幕で先生と反発するエルマさんを呼び止めます。
「わたし、別に嫌じゃないです。その、エルマさんさえよければ、ですけど……」
エルマさんはとっても面食らったみたいにブラウンの瞳をぱちくりさせたかと思うと、いからせていた肩からふっと力を抜いて、
「……なんだかごめんなさいね、横暴なひとで。あたしはもちろん、大歓迎ですよ。これからよろしくお願いしますね、エルシー」
聖母のような笑みを浮かべました。
「こちらこそ、ふつつか者ですが、お世話になります……エルマさん」
正直に申しますと。わたしはこの瞬間だけ、先生に感謝していた気がします。
そして、わたしとエルマさんの間に、やおら先生が空になったお皿を突きだしました。エルマさんの表情がみるみるうちに再び憤怒を宿らせていくのが手を取るようにわかります。
たっぷり五秒もお皿は宙に浮いていたでしょうか、じきにじれたように先生が腕を上下に振りはじめました。
「おい、エルマ、おかわりだ。何をやっている」
「――そういえばお師匠さま」
「なんだ」
「エルシーの住居を売り払ったお金はどうなさったんですか?」
「愚問だな。今日のあたしの人件費だ、当たり前のことを聞くな」
その後、わたしがお風呂を頂くまで、聖母はお隠れになってしまいました。
「狭っ苦しいところでごめんなさいね」
「いえ、そんなことないです。……お邪魔します」
あのあとみっちりお灸をすえられた先生は、エルマさんのお部屋を閑散だとおっしゃいましたが、わたしはそうは思いませんでした。
わたしの期待通り、隅々まで手入れの行き届いた落ち着きのある調度品に、たくさんのご本。化粧台にあるお化粧品はわたしの目には宝石のように飾られているようにも映り、おとなの現れと言えましょう。そして何より、エルマさんと同じ、ふんわりとした甘い焼き菓子のような、バニラのような芳香が、わたしをときめかせました。
「今日からここで寝泊まりするんですから、そんな硬くならないでいいんですよ。今日のところは、そうですね、すみませんけど、あたしのベッドを使ってください。明日ちゃんと、エルシーのベッドを見繕っておきます」
「えと、エルマさんはどこでお休みになられるんですか?」
「あたしはどこでも寝られますから、気にしなくていいですよ」
「そんな! 何から何まで、悪いです。一日ぐらいへっちゃらです。わたしが床をお借りします」
「いーえ、なりません。かわいいおんなのこにそんなことさせられません。あたしが床で寝るんです」
きっぱりと断言するエルマさん。譲る気持ちはさらさらなさそうなご様子です。かと言いましても、わたしも何から何までエルマさんのお世話になりたくはありませんでした。
そこで、わたしはおずおずと提案します。
「あの……、じゃあ、その……一緒に、寝ませんか……?」
「ええっ! で、でも……、たぶんこのベッドじゃ窮屈だと思いますよ……お師匠さまにもよく言われますけど……あたし――、太っちょですから」
恥ずかしそうに消え入るような声で呟くエルマさんに、わたしはびっくりしてかぶりを振りました。
「そんなことないです! エルマさん、とっても、素敵でした!」
嘘偽りない、本心からの言葉です。先ほどふたりで入浴したときに、エルマさんのお身体がダイナマイトでありながら余分なお肉が一切ついていないことを、わたしは確認していたのです。
「ぁ、う……、そ、そう……? その、あ、ありがとうございます……?」
耳まで赤くしながら、エルマさんがはにかみました。
わたしはなんだかたまらなくおかしくなって、吹きだします。一瞬きょとんとしていたエルマさんも、わたしのおかしさが感染したみたいに、くすくすと屈託なく笑いだしました。
ひとしきりふたりしてお腹を抱えたあと、エルマさんが切り出しました。
「そろそろ……、休みましょうか」
どちらともなくベッドについて、エルマさんがランタンの灯を消しました。
真っ暗闇に落ちた部屋の中で、鼻先で横たわるエルマさんのシルエットがぼんやりと浮かびあがります。
「おやすみなさい、エルマさん」
「おやすみなさい、エルシー」
そっとひそやかに、囁きあって。
自覚はまったくありませんでしたが、いろいろあった長い一日だったため、わたしは疲れていたのでしょう。
甘い匂いに守られて、その日、粘つくような深い睡魔に飲み込まれるのは、あっという間のことでした。
「G code1:Great kitchin's madonna
グレイトキッチンの聖母」