生命製法売ります A code4
「――もう隠しても仕方ないようだな」
揺らめくろうそくの炎が、暗黒に閉ざされていた
お部屋から戻ってきた師匠は、おそらく目が充血しているだろうわたしと見るも無残なコンロとお鍋の状況から、わたしが盗み聞きしてしまったことに勘付いたようでした。
「……あの――」
何から訊ねるべきなのか整理がつかなくて、わたしは言い淀みます。
「……まぁ、とりあえず座れ。長くなる。エルマなら、泣き疲れて寝た」
細巻きに火を灯し、換気扇の紐を引きながら、テーブルに着いた師匠はわたしに顎で椅子を勧めました。
「さて、何から話すか。――
「……はい」
「ひとたび
「はい。わたしの父も母も、それで亡くなりました」
その正体は極々小さい微粒子から発せられる特殊な毒性の光であり、
以後、その爆弾が運用された記録はありませんが、今でも
そしてスモッグが吹き飛ばされ月が見えるほどの強い風がその微粒子を運んでくることから、月から降ってくる毒の光、月毒と別称されています。
「……? イリエルズは確か、人口減少が深刻化して解体されたんだったな?」
「……いえ?
「そう、か……どおりで優秀なおまえが、うちに配属されたわけだ。おかしいとは思っていたんだが――おまえは、ルナチャイルドだったんだな」
「ルナ……?」
「ルナチャイルド。月から来た子。月に毒された子。月に狂わされた子だ。……
「えと……
しかし
資源は限られ、人類は切羽詰まっています。人類は
「
「――そんな」
「そして
「……」
「……その、じゃあ、エルマさんは
問うてみますが、エルマさんに
師匠はどちらとも取れないようなうめき声を出してから、語りはじめました。
「――昔の話だ。当時、あたしは万能融解液を製造するごく一般的な、いっぱしの
マッチを擦って細巻きの火口を光らせて、
「それは魂を四つの因子に砕くものだ。もし――もし、その砕かれた四つの因子を、再びひとつに結びなおしたら、どうなるのか、と。
それはあまりに、荒唐無稽な話でした。
にわかには信じがたいというより、わたしのちっぽけな脳みそでは、到底理解の及ばない内容でした。
師匠のおっしゃることが真実ならば……それはとてつもない狂気と、ただ一途な愛だけがなせる所業です。
「……
「エルマの欠けた因子を補ったか、か? それはあたしの因子を注ぎ足した。あたしの血肉のいくつか――乳房や腎臓、子宮を溶かして得た少量の
「……っ」
「だが、文字通り骨身を削っても、あたしの技術は不完全だったらしい。エルマは四つの因子を備えているが、その
言われてみれば、確かにエルマさんにはそういう節がありませんでした。わたし自身、初潮がまだなので意識したことはなかったのですけれども――。
「
「……
「そう、螺旋を、
「エルマさんの
「そう仮定できる。実際そうだった。エルマはひとが近づく度に、
師匠は新しい細巻きに火をつけます。
「ついでだ、もうひとつ話してやろう。エルマの
「……甘い、バニラのような、焼き菓子のような匂いです」
「それはおまえにとって好ましい匂いか」
「はい。とっても落ち着いて、ふわふわします」
「そうか。それが、おまえの
出会ったときと何ひとつ変わらない、突き放すような口調でした。
それが、今では拒絶と厚情の同居したものであると察せられました。師匠はあまりに――優しすぎました。
「……行きません」
「何故だ。これはあたしの、エルマのためだけの研究だ。おまえには関係なかろう。おまえのためにもならん」
「わたしは、わたしも、エルマさんを助けたい……エルマさんの力になりたいんです」
「自惚れるな。こどもひとりがいたぐらいで何も変わらん」
「でも、わたし、エルマさんが好きなんです! エルマさんの側にいて、エルマさんを支えてあげたいんです!」
師匠は何かをこらえるような表情をして、
「……なぁ? あんまり、あたしを困らせるな? 困らせて、くれるな。おまえがエルマを思っているのはわかる。だが、きもちだけでは……どうにもならん。……感情論じゃないんだ、この問題は。死なせたくない――そのきもちでエルマを救えているなら……、あたしがもう……、――ひゃっぺんは救っている」
眼鏡の奥の目じりに、うっすらと水滴を浮かべ、
「……おまえのために、忠告してるんだ。わかるだろう……、もう、エルマが長くないことを。残された時間が少ないことを。……おまえでは、きっと耐えられん。救いたいと思うきもちが、何の遠慮もなく、条理もなく、これっぽっちの抵抗にもならず、目の前で、無為になることに。救おうとした努力の一切が無駄になる瞬間に。初めから身を捧げなければよかったと、愛さなければよかったと痛感させられる最期に」
悔しさを絞り出すように、ぽつぽつとかすれた声で、
「あたしだって、立ちあいたくない。あたしだって、逃げられるものなら逃げ出したい。あたしだって、耐えられない。あたしだって……、――死なせたくない。死なせて、たまるか。あたしの、娘だぞ。たったひとりの、かわいい、娘なんだぞ。でも、こんなきもちはすべて、神は受け入れてくれない。どれだけ救いたいと願おうが、意味はないんだ……。なぁ、頼む。あたしを、困らせないでくれ。頼む。あたしをあんまり、みじめな思いにさせないでくれ。あたしに、現実をつきつけないでくれ。あたしだって、助けたかったんだ……そのために、なんでもやった。でも……、――あたしじゃ無理だった。なぁ、教えてくれ。あたしは、どうすればよかったんだ……?」
初めてわたしに、心情を吐露しました。
「……無駄になるとか、無理とかじゃ、ないんです」
関節が白くなるまで握りしめられ、涙に濡れた師匠の拳の上に、手を重ねます。
「エルマさんは、わたしのおねえちゃんだから、助けなくちゃいけないんです。意味があるとかないとかじゃなくて、そうしなくちゃ。師匠が、エルマさんにそうしたみたいに。わたし、エルマさんのためなら、なんだってします。逆の立場なら、エルマさんだってわたしを助けようとしてくれたはずです。たとえエルマさんを救えなくても、わたしは、エルマさんを救わなくちゃいけないんです。すべてを投げ打って、悪魔に魂を売ってでも。師匠が何と言おうと、わたしは、ここにいます」
「……そのきもちさえ、無駄になるとわかっていても、か」
「エルマさんを、おねえちゃんを好きというきもちは、無駄にはなりません。師匠、どうか、わたしがおねえちゃんを好きでいるきもちを、無駄にさせないでください。ずっと、おねえちゃんを好きでいさせてください。自分のきもちに嘘はつけません。そう、おねえちゃんが教えてくれたから」
「……好きでいるために、離れなくてはならなくても、か」
「好きだと言えれば、それでいいんです。ここで
「……ひとの道を踏み外し、神に見放され、狂っても、か」
「耐えられなくてもいいんです。狂ってもいいんです。わたしはルナチャイルドです。もう月に狂わされています。おねえちゃんに狂わされるなら、それは本望です」
「……ばかものが。勝手にしろ」
それだけ言い捨てて、師匠は自室にひっこみました。
わたしの瞳が映したその背はひどく、疲れ切っていました。
師匠から真実を伝えられた以上、エルマさんと同じ部屋で過ごしていいものかとお部屋の入り口で苦慮していると、ひとりでに扉が開き、エプロンワンピースがわたしの視野を満たしました。
「エルシー? どうしたんですか、こんなところで」
「おねえちゃんっ!? 起きだしてだいじょうぶなんですか?」
「すみません、心配かけちゃって。もう平気です。そんなことより、ご飯を用意しないと――」
「あ、あの、師匠はたぶん、それどころじゃないです。わたしもお昼にいっぱい食べすぎちゃいましたから、お腹空いてないですし」
「そう? 実はエルマも、食欲なかったんですよ」
「ですからゆっくり休養してください。家事とかは明日やっちゃいましょう」
エルマさんをベッドに押し戻し、シーツをかけてあげます。
「今日は本当にすみませんでした。せっかくのエルシーの誕生日なのに、だいなしにしちゃって。結局プレゼントも買えなかったですし……」
「気にしなくてください。わたし、おねえちゃんとデートできて、すっごくすっごく楽しかったですから」
エルマさんの手を取って、嘘偽りないきもちを述懐します。
エルマさんの手はいつもよりひんやりしていて、その冷たさがわたしの胸をえぐりました。
「また行きましょうね、今度はちゃんと、埋め合わせをさせてください」
「はい、ぜひっ!」
また、行けるのでしょうか。エルマさんは、本当にそう思っているのでしょうか。エルマさんの笑顔はいつもより儚げでいて、その危うさがわたしのこころを穿ちました。
こうしてふたりで共有している時間でさえ、エルマさんにとっては死に至る毒となります。わたしの螺旋の重力、たった四分の三オンスの質量をもった霊魂が、エルマさんを引き裂くのです。
「わたし、下でちょっと勉強してきますね。おねえちゃんはゆっくり寝ていて――」
離れようとしていたわたしの腕が掴まれたかと思うと、強い力でベッドに引きずり込まれました。
きつく、すがりつくような抱擁が、わたしを逃しません。とくとくと確かな鼓動がわたしの薄い胸を打ち、エルマさんの甘い、わたしだけにしか感じられない、魂の匂いが肺に滑り込んできます。エルマさんの魂が蒸発し、揮発していく匂い。わたしを惑わす、永久不滅を冠するはずのバニラ。その香り。同時に師匠にとっては、アジサイの。冷淡な香り。
「お、おねえちゃん……?」
「……いてください」
「で、でも――」
「移る病気じゃないから、だいじょうぶです」
「それでも、いけませ――」
「いいの」
「んむっ……んふ」
そして、柔らかでいて、愛おしむような口づけが、わたしをいっぱいにします。もうすぐ消えてなくなる、そんな事実を感じさせない、絶えざる光を放つお日さまみたいな温もりが。
あと何度、エルマさんと言葉を交わすことができるのでしょうか。あと何度、エルマさんと抱きしめあえるのでしょうか。あと何度、エルマさんにキスをすることができるのでしょうか。あと何度、愛を確かめ、好きだと言えることを、主は許してくれるのでしょうか。
「……エルシー」
「……おねえちゃん」
「大好きです」
「愛してます」
聖母のような、わたしが愛してやまないエルマさんが、その深みのあるブラウンの瞳にわたしの顔を焼きつけるように見据えてきます。自分が跡形もなくこの世から霧散することを自覚しているかのごとく。
月に狂わされた子。月に魅入られた子。月に奪われた子。ルナチャイルド、
月は、残酷です。無慈悲な、夜の女王です。月はわたしの両親、故郷のみならず、おねえちゃんまで取りあげるつもりなのです。
かの国に月がエルマさんを連れていくまで、いくらの猶予があるのでしょうか。螺旋のないエルマさんは、輪廻の螺旋から外れたエルマさんは、その命燃え尽きしとき、どこへ行くのでしょうか。もう二度と、生まれ変わることもないのでしょうか。
そんなのは、悲しすぎます。あっていいことなのでしょうか。こんなにも必死に生きて、ただ生きたいがためだけに、生きてきたのに。
月に負けないで。生きて。
母は、言いました。ですが、月はそれを許しません。エルマさんの存在すべてを地上から、あえかなる毒の輝きで拭い去ろうとしています。母がこの世に、生きた証を残せなかったように。
ポケットに収めていたからくりナイフを指先で探り当て、エルマさんの手に押し付けます。そしてワンピースドレスをたくしあげて、下着を脱ぎ棄てました。窓から差し込む月光が、わたしの下腹部を白く輝かせます。
「……エルシー?」
「刻んでください。わたしに、刻みつけてください。おねえちゃんの名前を、わたしに」
「そっ、そんな――」
「お願いします。おねえちゃんが、この世にいた証拠を、わたしに残してください。わたしがおねえちゃんの妹で、おねえちゃんのものだったことを、教えてください」
「……お師匠さまに、聞いちゃったんですね」
悲痛な面持ちで、エルマさんが呟きました。
「……エルシーの身体に傷をつけるなんてこと、エルマにはできません」
「お願いします。わたし、耐えられないんです。おねえちゃんが本当にこの世界にいたことを、その存在を証明してください。わたしに、おねえちゃんを刻みつけてください」
「……エルシー、お願いです、許してください。エルマには、とても無理です……」
「おねえちゃんじゃないと、いやです。おねえちゃんがしてくれないなら、自分でやります。そうなればわたしきっと、痛くって手元が狂って、血がいっぱい出て、死んでしまうと思います」
覚悟を込めた真剣な申し出に、エルマさんの瞳が揺れ動きます。
「……エルマの名前は、長いんですよ」
「それだけおねえちゃんが、わたしの中に長くいてくれるということです」
「……エルマにも、エルシーの名前、刻んでくださいね」
「当然です。おねえちゃんは、わたしのものですから」
ぱちん、と小さな銀の刃が展開されて、その表面に月の光をたたえます。
震える刃先が凍み凍る冷気を漂わせ、肌との距離を狭めていきます。
やがてへその下に触れるか否かのところで、わたしはきたるべき痛覚にぎゅっと瞼を結び――、
「……痛っ……!」
「えっ!? まだ何も――」
発信源は、お腹の中でした。渦を巻くような、鈍重な痛みです。その激痛はシーツに赤黒い染みを作り、その赤黒い染みはわたしの股の間から垂れ流されるものでした。
「えっ、あ、あれ? 来ちゃいました?」
わたしは茫然自失として紅い体液に釘づけになってしまいました。
エルマさんにはないもの。師匠も、手放したもの。わたしが螺旋である、何よりの発露。
ぱちん、と小さな銀の刃が閉じられて、わたしは背中をさすられました。
「……やっぱり、だめです。まったくもう、エルシーのせいで、エルマは危うくとんでもないことをしでかすところでした」
「……お、ねえ……ちゃ……」
「もっと自分の身体を大切にしてください。エルシーの身体は、エルマのものでも、エルシーだけのものでもないんです。エルマの生きている証が、お師匠さまであるように、エルシーのおかあさまとおとうさま、そして、未来のエルシーのあかちゃんに胸を張れるように、生きてください」
魂を砕かれ、輪廻からも外され、こどもすらなせなくても、聖母は健気に、すすり泣くわたしに笑ってみせました。
「師匠――いえ、お師匠さま」
「なんだ、かしこまって」
紫煙を立ちのぼらせてかび臭そうな本を読みかじっていた師匠が、思い出したように空になったカップを突き出しておかわりを催促してきました。
わたしはカモミールのお茶を注いで続けます。
「わたしを
「たわけが。いつかそんなばかげたことを抜かすと思ってたよ。結論から言って、無駄だ。おまえとエルマの
「ですよね……」
わたしの誕生日の明くる日、家事や手伝いをしたいとごねるエルマさんをなんとか師匠とふたりで説き伏せて寝かしつけ、わたしたちはエルマさんを救うための研究を再開していました。
と言ってもエルマさんを救う手掛かりは今のところ皆無です。師匠のような優れた
焦慮して闇雲に調合していても仕方がないですし、
生理によいとエルマさんに勧められた紅いクランベリージュースを飲み干して、わたしは大息して嘆きます。
「はぁ……おねえちゃんのあかちゃん、産みたいなぁ……」
ずずずとお茶をすすっていた師匠が突然むせはじめます。
「ぐふぇっ!? ぇほっ、……がほっ! ばかも、の……気管、に入っ、たでは、ないか」
「え? わたし、何かおかしいこと言いました?」
「飛躍、しすぎだ。何故そんな、話になる」
「せっかく生理を迎えたんですから、好きなひとのあかちゃんを産みたいと思うのは、至極当然の帰結ではないのでしょうか」
「……真顔で言うな、なんだかあたしが飲み込みの悪い阿呆みたいだろう」
「滅相もないです! 師匠はすごいひとです!」
「ふん。そんなこと、あたしが一番知っている」
「それで、えと、あの、そのすごい師匠に折り入ってお願いが――」
「無理だ」
「え、あの、まだ何も言ってないですけど」
「どうせエルマの赤ん坊を産ませろ、だろう」
「ど、どうしてわかったんですか」
「見え透いている。言っただろう、エルマには螺旋がないと。たとえ疑似的にエルマの精液を作ることができても、おまえが受精することはないだろう」
「お、おねえちゃんの、せぃ……師匠、卑猥です! やめてください!」
ぼっと顔が一瞬にして火照ります。おそらく耳まで赤くなっていることでしょう。
「なんだ、おまえが言いだしたことだろう。ついでに予告しておいてやるが、その逆も無理だぞ」
「つまり、おねえちゃんを……にんし……ぅ、それはそれで、すっごく、――ありですね……わたし、なんだか、何かに目覚めてしまいそうです……師匠、もうちょっと真面目に検討してみませんかっ!?」
「くどい。だから無理だと言っとろうに」
「師匠はおねえちゃんを孕ませたいと思わないんですかっ!」
「孕ませ――おまえ本当に貴族だったのか?」
師匠はこれ見よがしにげんなりしてみせました。
「しかしいよいよ似てきたな、おまえたちは。エルマも、おまえに首輪を嵌めて部屋に閉じ込め徹底的に躾けたいだのと戯言をほざいていたよ。ともかくだ、エルマは、今のおまえと同じように、あたしが腹を痛めて産んだ娘だぞ。そんな願望を抱くわけがなかろう」
エルマさん、なんて業の深いことを……でもエルマさんがそうしたいなら、わたしはいつでも――。
むくむくと膨らむ妄想を止められずにいると、眉根を寄せた師匠がおもむろに、
「――いや、そうか……ありだな」
「ですよねっ!?」
「そうじゃない、うつけが。いや、しかし、着眼点は悪くない……試してみる価値は、ありだ。今までそんな発想に至りもしなかった――そこまで立ち帰ればよかったのか」
ぼそぼそとひとりごちはじめました。
「……あの、師匠?」
「産むんだよ。そう、産み直せばいい。エルマ自身で、エルマ自身を、エルマ自身の中に宿せばいい。エルマ自身に、螺旋を作り直させ、
「どういうことでしょうか……」
師匠は眼鏡を外し、闇の中で思考を整理するように、両手で顔を覆いました。
「――今まではどうにかして
「それとこれと、どういう関係があるのでしょうか」
「エルマは生きている。四つのひとの因子を携え、ひとに近しい状態で、自己発展できていないだけで、エルマでありながら、エルマ以外になりうる、あらゆる可能性を持っている。それはすなわち――卵子なんだよ。生命の始まりとは、受精するということだ。エルマはいわば受精する前の、卵細胞だ。その対となり生命を発生させる、子種に値するものをエルマに与えてやれば、エルマはおのずと螺旋を形成する……かもしれん」
「でも、先ほどは螺旋がないから、じゅ……受精しない、と」
「そうではない。エルマの胎内にある卵細胞を受精させるのではなく、エルマ自身を受精卵のような状態にさせるのだ。さっきの話は、螺旋を持つものが作る配偶子か、配偶子から配偶子を作るかの違いのことだ。これは大きく意味合いが異なってくる。配偶子はそれ自体にも螺旋は含まれるが、これらは双対な系で、一方ずつだけでは自己発展、成長しない、いわば時間を止められた螺旋だ。配偶子はふたつが結合することではじめて細胞分裂し、生命としての機能を発揮する……そう、まるで人形と
「よくわかりませんけれども……それでおねえちゃんは助かるんですか!?」
「かもしれん。確実とは言えん。試してみないことにはわからん」
「じゃあ早速――」
「急かすな。思いついたからといって今すぐできるわけじゃない。いくつか障害がある。まず、子種となるものを作らねばならん。これは――魂魄再編成液を応用すればいいだろうが、そのレシピが、ここにはない」
「……今は、どこにあるのでしょうか」
「
憤懣やるかたないといった様子で、師匠がテーブルに拳を叩きつけます。
「もう一度書きなおすことは、できないのでしょうか」
「不可能ではないが、一朝一夕では済まんな。書きなおそうと思えばまた
「は、はいっ」
突然師匠にどやされて、わたしは階段を駆け上ります。
一縷の希望と、確たる決意を胸に。
師匠は夕食後一番に入浴すると、そのまま自室から出てくることはありません。エルマさんも一日では回復しきれなかったようで、ベッドに横になるなりすぐに寝静まってしまいました。
だからその日の深夜、わたしが誰にも気づかれることなく道具を準備し、
じくじくと鈍く疼く腰に目を瞑り、ベルトから小物をじゃらじゃら提げた作業用エプロンワンピースを着こなし、ぱんぱんに張った背嚢を背負ったわたしの前にそびえたつのは、石造りの、
グレイトキッチンの体内で生みだされた運動量や、水道、ガスなどを各施設に送り届ける地下に張り巡らされた伝達管――管といっても汽車が通過する連絡通路よりふたまわりぐらい細いだけの地下空間です――は、
そして伝達管内は排熱で温かいため、アウトローさんたちが住みつかないよう堅牢な鉄扉によって、その入り口は守られています。
か細い月光の下、わたしはその鉄扉の鍵穴に、緊張の眼差しを注いでいます。
これからやることは、清く正しく歩んできた今までのわたしの人生を、裏切る行為です。この業を積めば、わたしの螺旋はきっと歪むことでしょう。ですがすべてはエルマさんのため。ここまで来て逃げ出すほどの愚かさは、あいにく持ち合わせていないのです。
何よりわたしは、ルナチャイルド。恐れるものはありません。エルマさんのためなら、なんだってやってやるのです。
わたしの手のひらに握られているのは、師匠に頂いた、LCという彫刻が入ったからくりナイフ。
その秘められし道具のひとつである、先端が鉤になった金属棒をばね仕掛けでぱちんと飛びださせ、ポケットに入れていたねじまわしとともに鍵穴に差しこみます。
幾分も経たないうちに、かちりという頼もしい手ごたえの後に、ごとん、と鉄扉の中で何かが落ちる音が続きます。からくりを得手とする上にしっかり予習してきたわたしにとって、解錠はおちゃのこさいさいだったようで、なんだか物悲しくなってしまいました。
重い扉を押しあけて、伝達管に滑り込みます。湿った暗闇の中、手探りでマッチを擦って、腰のベルトに下げていたカンテラに点火し、伝達管に沿って地下へ地下へと降りて行きます。
あらかじめゲートと
真夜中の
「――っ!」
保管庫の空気を吸った瞬間、わたしは吐き気をこらえるのに相当の努力をしなければなりませんでした。淀んでいる――濁っている――腐っている。そのどれとも違い、どれでもあり、肉体に害はなくとも大気そのものが
これが
今すぐ逃げ出してたくてたまらない欲望を押し殺し、わたしは棚に収められた
血塗られた古文書、異国の文字で記された紙束、触れただけで指先が痺れる金属板、錆ついた鏡、文字は読めているはずなのに何故だか意味だけが頭に入ってこず理解できない日記帳――ひとの顔の皮で装丁された本までありました。
たぶん生理の影響もあるのでしょう、脂汗を流し、嫣然杭を打ち込まれたかのごとくこめかみがずきずき痛みはじめるころ、わたしは、性能評価タブレット大の布包みの検閲に取り掛かっていました。持ち上げようにも包みは異様な重量で、所望しているレシピではないだろうと思いつつも、くくりつけられた名札を確かめてみると、
『Hermes』
その綴りが目に飛び込んで来て、わたしは頭痛と腹痛が吹き飛んだような気がしました。まごうことなき師匠の名前――これこそわたしが求めていたレシピに違いありません。
棚からずりずりと引っ張り出し、ぺろりと布をめくると、わたしの瞳と同じ翠のベリル材――エメラルドが輝きを覗かせました。その表面にはただ一文、
『下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし』
との刻印があります。
……これが本当にレシピなのでしょうか。わたしは失望を隠しきれませんでしたが、しかし、師匠は読み解く読み解けない云々をおっしゃられていましたから、きっと何かの暗号なのでしょう。他に目ぼしいものもなかったので、わたしはエメラルド板を拝借することにします。
そして――事が起きたのは、どうにかしてエメラルド版を収納した背嚢をよっこらしょと担いだときでした。
「誰かいるのか!?」
鋭く誰何する重厚な金属の声が、保管庫の外から響きます。
あぁ、わたしのなんと、おおばかものなことか。保管庫の扉を閉めずに――南京錠だったので内側から鍵をかけられず、遅からず発覚していたでしょうけれども――捜索していたのです。
今晩の当直の方は勇猛果敢な方らしく、ランタンを片手に警戒しながら保管庫に乗り込んできました。わたしごと保管庫を封鎖して応援を呼びに行っていただけた方が壁をぶち破るなどいくらでもやりようがあったのですが、準備もできずに鉢合わせしてしまえばおしまいです。
わたしは臍を固めてベルトに挟んでいた試験管に手を伸ばします。
狙い違わず試験官はガラス片と薬液を撒き散らし、
「待てこの――っ!?」
慌ててわたしを追いかけようとした
「石鹸とお酢で落ちます!」
どこも故障されていないことを祈りつつおざなりに忠告しておいて、わたしは元来た道を戻り、ゲートの目と鼻の先までやってきたところで、今度は回廊の向こうを巡回していた
「おい、貴様……?」
すんでのところで顔だけは伏せられましたが、もはや泥沼です。わたしはゲートに飛び込んで内側から錠をします。
ゲートの向こう側からの怒声を背に、わたしは侵入経路を逆走しかけましたが、すぐに思いとどまります。伝達管に逃げ込んだところは目視されているので最寄りのゲートには人員が配置されるでしょう。踵を返してグレイトキッチンのさらなる奥へと潜り込みます。
頭の中で地図を描きながらまた激しく痛みだしたお腹を抱え、いくつか角を折れると、遠くの方で鉄扉が開門された音がありました。無数のパイプとベルト、ワイヤーの空隙からは不届き者の情報をやりとりしながらその矮躯を探す、たくさんのカンテラが浮かんでいます。
それはあたかも、ざわめきながら機械のはらわたを迫りくる、光の群れのよう。
まるであの――悪夢の再現。
フラッシュバック。月のしもべたち。イリエルズ。月光に焼かれた――母。
ぞぞぞと肌が粟立ちます。いつのまにかわたしの足は止まり、脳内の地図は白紙に戻ってしまいました。カンテラが手を滑り落ち、けたたましく鋼鉄の床を転がります。
「いたぞ!」
はっとしてわたしは身を翻し、すぐそばの通路を曲がります。
動揺と激しい運動から、だんだん息が続かなくなってきました。背にのしかかるエメラルド板も、その重さを再認識させてくれはじめます。
配管をくぐり物陰に身体を押しこんで、できるだけ小さく縮こまります。
甲冑ががちゃがちゃと金属音を立てながら、白いローブを翻してわたしの目の前を通り過ぎます。どうやら
もし逮捕されれば、穏やかではありません。ゲートに
それにわたしだけではありません。身元が判明すれば、師匠やエルマさんまで迫害されるでしょう。わたしの身がどうなろうと知ったことではありませんが、それだけは回避せねばなりません。
そして、このエメラルド板を、師匠に届けなければ。エルマさんを救うために。
下腹部がちくちくひりつき、どろりと生温かいものが太ももを伝います。本当なら、おねえちゃんの名が刻まれるはずだった場所。おねえちゃんがいてくれるはずだった、痛み。
孤独と脅威と苦痛に、すすり泣きそうになるのを辛抱します。
ぐずぐずしている猶予はないのです。そしてこのまま逃げまどい潜伏していても、だめなのです。
グレイトキッチンの体内は初めてでも、なあなあでわかるところがあります。地形的にもわたしに分がありますが、
これが夢の再現なら――立ち向かうしかありません。彼らと、戦うのです。
夢の中で
エルマさんは言いました。頑張らなくちゃいけないときは、頑張らなくちゃいけないときにしか来ないのだと。今このときこの瞬間こそ、頑張るときでした。
月に負けないで。生きて。
母の今際の言葉が、鮮明に脳裏によみがえります。わたしは今になって気づきます。母は――知っていたのでしょう。わたしが、一度月に狂わされた子であることを。ルナチャイルドであることを。
ならば月にはもう二度と――家族を奪わせるわけにはいきません。
おんなは、度胸と根性です。
わたしは鉛のように重く怯えていた四肢を叱咤し、ままよと通路へと躍り出ました。
奥底へと下ります。
「見つけたぞ! こっちだ!」
すかさず
「っ!? えふぇっ! げふっ! ぼほぉっ!」
滂沱と涙を流しながら激しく咳き込みはじめました。
「牛乳を飲んでください!」
こちらも口元を押さえていたので聞こえているかどうかはわかりませんが、明日の牛乳の売れ行きが伸びることを期待するしかないでしょう。
奥底へと下ります。
「挟み込め!」
「待ちやがれこのガキ――!」
前方の階下からと、背後の扉一枚を挟んで、わたしに誘導されるように
扉の裏に隠れるが早いか、後ろからやってきていたドミニカスさんたちが勢い余ってお酢とよく滑る粉石鹸を踏みつけ、華麗な宙返りを披露したのちに階段をどんがらがっしゃんと派手に滑り下りて行き、その運動エネルギーと甲冑の質量をもってして階段を登って来ていた方たちを蹴散らしました。
甲冑を装備しているため大けがはしてないと思いますが、みなさん伸びてらっしゃいます。打ち身用の軟膏を側に置いておき、空港で初めて師匠に出会ったときの異臭を思い起こし、
「臭うので患部を包帯で覆ってください!」
彼らの首の骨に神のご加護があったことを信じます。
地上を目指します。
十字路に出ました。周囲に何も重要な管や動力機構、施設がないことを暗闇に慣れた目とからくり好きとしての直感で見極め、
そして十字路に戻り、一番
緊急事態を嗅ぎつけた神の犬さんたちは、爆発だ、テロリストが、
きちんと火薬の量を調整して起爆用の特定薬液を垂らすのに使った時計仕掛け以外は木端微塵になっていないはず――そうでなければわたしも困ります――なので、長くは時間稼ぎにならないはずです。ひとけがなくなったと決めつけるやわたしはゲートへと急ぎました。
地上を目指します。
そして、ゲートまであと一歩というところで。
ひとりでにゲートが口を開け、まばゆい月光が通路を暴きだしました。月光を背にがちゃがちゃと鎧を揺らして走る耳慣れた足音が、近づいてきます。
ですがもう接着剤も催涙煙幕もありません。遮蔽物もなしです。
わたしは手のひらのからくりナイフを、その刃の存在を確かめるように握り締めます。これだけはやりたくありませんでしたが――背水の陣です。
ぱちん、と小さな銀の刃が展開されて、その表面に月の光をたたえます。
「な、こんなとこに――」
左手で腰の革袋から抜き出した布きれを、甲冑の上にびたん。湿布は一瞬にして金属を腐食させ、離し遅れたわたしの手のひらを反応熱で焼き焦がし、白煙を上げて鎧に風穴を開けてしまいました。
同時に突き込んでいた銀の刀身は、その鎧の穴に吸い込まれるようにして仮借なく飛び込んで行き――。
「がっ――!?」
がしゃんと
びくびくと手足を引きつらせる
わたしは刃を濡らすしずくをエプロンの裾で拭い、白目を剥いて泡を吹き倒れ伏す
そして――血の珠が浮かぶ小さなひっかき傷に、傷薬を塗り塗り。
「ごめんなさい……半時間で動けるようになるはずです」
いざというときのために、ナイフに痺れ薬を塗りつけておいて正解でした。
刃物でひとを傷つけてしまったことを、おねえちゃんはひどく悲しむでしょう。業がわたしの
ですが、今何より優先すべきは大切なひとの命。
わたしはゲートを後にします。
地上に出たわたしを、スモッグの合間からこちらを垣間見ていた月が迎えます。わたしが仰ぎ返すやいなや、歯がゆさを隠すように、流れるスモッグにひっこんでしまいました。
今度は勝ちました、おかあさん。
あなたの生き証である、わたしが。
わたしは
ぎいいと
突然、そして初めての顔面をはたかれた衝撃に、わたしは呆然となってしばらく言葉も出ませんでした。そしてぽかんと突っ立っていたわたしを、師匠は力強く抱き寄せ、
「ばかものが……気を揉ませおって……阿呆が……おまえまで失うと……おおうつけが……」
耳元で、低く、乾いた声色で、わたしを罵りました。
「ししょ……煙草くさ――」
「なんだと」
わたしに噛みつかんばかりの視線を寄こしながら、師匠が唸りました。
師匠はわたしのぼさぼさの金髪や、汚水と経血で黒と赤の斑紋の滲み擦り切れたワンピース、ぼろぼろになった背嚢を凝視して、わたしの汗とグリースまみれの顔をぎろりと睨みつけました。
「
「はい」
「エメラルドタブレットを取りにか」
「はい」
「持って帰って来たのか」
「はい」
「見つかったのか」
「はい」
「ちゃんと撒いたのか」
「ばっちりです」
「怪我は」
「手のひらを少し火傷したぐらいです」
「どこか痛むところは」
「強いて言うなら、生理痛と、今師匠にぶたれたほっぺたです……」
「……はぁ、まったく、なんと悪運の強いやつだ。阿呆だ阿呆だとは思っていたが、おまえは正真正銘の阿呆だ。おおばかものが。たわけが」
師匠はわたしを椅子に引っ張っていって、突き飛ばすように座らせ、目の前にクランベリージュースが満たされたコップを叩きつけました。そしてわたしの前に膝をついて、乱暴に火傷の手当てをしてくれました。
大冒険をしてくる前は空だったはずのテーブルの灰皿には、吸殻がこんもりと山を作っていました。
「一階でどたばた乱痴気騒ぎを始めおったから、寝ていたあたしがわざわざ何事かと飛び起きて降りてみれば、薬が無くなっているわ換気扇は分解されているわ、その上おまえはいないときた。あたしはすぐに、昼間、おまえにエメラルドタブレットの話をした自分を魔法で呪い殺したくなったよ。このときばかりは自分が神秘主義の魔術師だの辛気臭い悪霊だのじゃないことを恨んだぞ」
「心配かけてすみません。でも、我慢できなかったんです」
「だろうな。……おまえ、殺されるところだったんだぞ。わかってるのか」
「承知の上です。でも、おねえちゃんを守らなきゃいけなかったんです」
「そのエルマだって、こんなこと知ったら、おまえ、ただじゃ済まされんぞ」
「わかっています。でも、おねえちゃんに恨まれても、おねえちゃんが悲しい思いをしても、わたしがどうなっても、おねえちゃんには生きていてほしかったんです」
「ばかが。おまえだけじゃない、あたしだってエルマに殺される。だが――」
師匠は、ふっと力の抜けた笑みを浮かべて、
「でかしたぞ、エルシー」
わたしを褒めてくださりました。
「A code4:Aleister's helixir
アレイスターズヘリクシル」