※この作品はR-18です。

生命製法売ります   作:伊土 讃阿

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A code4

 

 

 

 生命製法売ります A code4

 

 

 

「――もう隠しても仕方ないようだな」

 

 揺らめくろうそくの炎が、暗黒に閉ざされていた工房(アトリエ)に師匠の顔を浮かび上がらせます。

 

 お部屋から戻ってきた師匠は、おそらく目が充血しているだろうわたしと見るも無残なコンロとお鍋の状況から、わたしが盗み聞きしてしまったことに勘付いたようでした。

 

「……あの――」

 

 何から訊ねるべきなのか整理がつかなくて、わたしは言い淀みます。

 

「……まぁ、とりあえず座れ。長くなる。エルマなら、泣き疲れて寝た」

 

 細巻きに火を灯し、換気扇の紐を引きながら、テーブルに着いた師匠はわたしに顎で椅子を勧めました。

 

「さて、何から話すか。――月毒(ラジエイション)は知っているな」

「……はい」

「ひとたび月毒(ラジエイション)の症状が出れば、転生(リボーンド)できないことも」

「はい。わたしの父も母も、それで亡くなりました」

 

 地球寒冷化(コールドラッシュ)とともに地球全土に訪れた、月毒(ラジエイション)。

 

 その正体は極々小さい微粒子から発せられる特殊な毒性の光であり、地球寒冷化(コールドラッシュ)の主因となった第二次世界大戦で、各国が大量に撃ちあった戦略爆弾に含まれていたものです。

 

 以後、その爆弾が運用された記録はありませんが、今でも月毒(ラジエイション)の毒の粒子は地球の各地を汚染しています。男性がしばしば収穫先で月毒(ラジエイション)に罹って亡くなったり、産業集合自治特区(アイアンバレイ)から一歩も出なかったとしても、まれに発症したりします。

 

 そしてスモッグが吹き飛ばされ月が見えるほどの強い風がその微粒子を運んでくることから、月から降ってくる毒の光、月毒と別称されています。

 

「……? イリエルズは確か、人口減少が深刻化して解体されたんだったな?」

「……いえ? 月毒(ラジエイション)の蔓延で、滅びました」

「そう、か……どおりで優秀なおまえが、うちに配属されたわけだ。おかしいとは思っていたんだが――おまえは、ルナチャイルドだったんだな」

「ルナ……?」

「ルナチャイルド。月から来た子。月に毒された子。月に狂わされた子だ。……月毒(ラジエイション)に犯されると、何故転生(リボーンド)できなくなるか、理解しているか」

「えと……魂魄(ジーン)と、その中の精(エリクシル)が破壊されるから、です」

 

 ヒューマン(自然人)は普通、老衰したり事故に巻き込まれたり、死の間際や一定の創造、生産能力を失うと転生(リボーンド)を選択し、四つの因子に分かたれて、産業集合自治特区(アイアンバレイ)を運営する歯車となり、社会に尽くすようになります。

 

 しかし月毒(ラジエイション)の毒の光は、魂魄(ジーン)を構成している因子をも対象に含めます。万能融解液が螺旋を砕くように、月毒(ラジエイション)は因子すら砕くのです。螺旋や因子はいくらかの自己修復機能を持ちますが、局所的に深く破壊された場合はその限りではありません。そして月毒(ラジエイション)に精(エリクシル)を傷つけられると、転生後の人形が正常に動かなくなってしまうのです。

 

 資源は限られ、人類は切羽詰まっています。人類は月毒(ラジエイション)患者の転生(リボーンド)を禁止しました。それは、当たり前の、合理的で理性的な判断です。ですから治療方法が未だに確立されてない現代でも、月毒(ラジエイション)で死ぬことは転生(リボーンド)できないことに等しいのです。

 

「月毒(ラジエイション)はな、症状が出たら始まりじゃない。月毒(ラジエイション)は確率的な病気だ。ゆえに月毒(ラジエイション)に触れたかもしれない、それだけで、たとえ症状が出なくとも転生(リボーンド)できない確率が跳ね上がる。無論、その逆もある。だが、組合(ユニオン)は危ない橋を渡ったりはせん。万能融解液も、人形の身体も高価だからな。きゃつらは、月毒(ラジエイション)汚染の可能性がある人間を、症状がなくとも、転生(リボーンド)させる気はない」

「――そんな」

「そして転生(リボーンド)できぬと知ってしまえば、ひとは怠惰に堕ちる。どんな優れた人間でもな。製造ラインは人形でもまわせるが、社会をまわしているのは今なお血の通った人間だ。そしてこの生産と相互奉仕で成り立った社会以上に、価値のあるものはない。生産性を確保し、規律と秩序を守るために、組合(ユニオン)としても、教区(カテドラル)としても、奉仕社会の崩壊は避けたい。だから普通、この事実は伏せられている。組合(ユニオン)は、転生(リボーンド)する必要のないおまえを、うちで使い潰す気だったんだ。そしてエルマも、ある意味では――月の子だ」

「……」

 

 転生(リボーンド)できない――第二の人生を送れない。その事実はわたしに重くのしかかってきましたが、今はエルマさんのことが先決です。

 

「……その、じゃあ、エルマさんは月毒(ラジエイション)に――?」

 

 問うてみますが、エルマさんに月毒(ラジエイション)の症状をきたしてないのは明らかです。月毒(ラジエイション)を受けると著しい脱毛や皮膚に紅斑が現れ、嘔吐が止まらなくなったりするからです。母がそうだったため、わたしはよく知っています。

 

 師匠はどちらとも取れないようなうめき声を出してから、語りはじめました。

 

「――昔の話だ。当時、あたしは万能融解液を製造するごく一般的な、いっぱしの錬金術師(アルケミスト)だった。小さいながらも、まともな工房(アトリエ)を抱えていた。エルマは愛弟子のひとりだった。ある日、エルマは月毒(ラジエイション)に罹った。当然、転生(リボーンド)はできない。あたしは考えた。万能融解液――」

 

 マッチを擦って細巻きの火口を光らせて、

 

「それは魂を四つの因子に砕くものだ。もし――もし、その砕かれた四つの因子を、再びひとつに結びなおしたら、どうなるのか、と。月毒(ラジエイション)に破壊された箇所の因子を分散させてやれば、症状を和らげることができるのではないか、と。発想は単純だったが、おまえもわかるだろう、そう易々となし得るわざではない。しかしあたしはその妄執に取り憑かれた。どうしてもエルマだけは死なせたくはなかった。あたしは万能融解液の製造をほっぽり出し、研究に明け暮れた。研究のためなら本当になんでもやった。どれだけ教義に悖り、倫理的に踏み外れたことでも、あたしはなりふり構わなかった。買収、恐喝、盗み、色々な。おかげで教区(カテドラル)に厳重に管理されていた禁書や、太古の魔導書(グリモワール)にも手を出せた。あたしはさぞかし狂ってみえただろうな。エルマの魂魄(ジーン)を救うためだけに、あたしは悪魔に魂魄(ジーン)を売っていたんだ。弟子はみんな離れていった。あたしはひとりになっても研究を続けた。そして試行錯誤の末、万能融解液の逆、四分の魂魄(ジーン)を編み直す薬、魂魄再編成液を創りあげた。そしてあたしは一度……神の領域に踏み込んだ。魔導書(グリモワール)を元に、生身の機械仕掛けの身体――死んでない人間の設計図を創った。そう、AやCたちの身体と同じ、正真正銘の、人間の機能を持つ、人間のひとがただ。非効率かつ神を犯す行為として、組合(ユニオン)からも教区(カテドラル)からも、地球寒冷化(コールドラッシュ)発生当時から、その考案自体が禁止されていたものだ。あたしは、完成するなり決行した。その頃、エルマがいよいよ重篤となっていたからだ。エルマを魂魄再編成液に浸け、その魂魄(ジーン)をいったん四分し、設計図通りに魂魄(ジーン)を編み直した。今のエルマは、ヒューマン(自然人)ではない。あたしが錬金術(アルケミー)で人間からひとがたに転生(リボーンド)させた存在――人工人(ホムンクルス)。そのヘッドコードは、H」

 

 それはあまりに、荒唐無稽な話でした。

 

 にわかには信じがたいというより、わたしのちっぽけな脳みそでは、到底理解の及ばない内容でした。

 

 師匠のおっしゃることが真実ならば……それはとてつもない狂気と、ただ一途な愛だけがなせる所業です。

 

「……月毒(ラジエイション)は――因子そのものを引き裂く病気です。その、どうやって――」

「エルマの欠けた因子を補ったか、か? それはあたしの因子を注ぎ足した。あたしの血肉のいくつか――乳房や腎臓、子宮を溶かして得た少量の精(エリクシル)を魂魄再編成液とともに、エルマに溶かした。あたしの精(エリクシル)なら、エルマの精(エリクシル)と親和性があると思ったからな。あたしは――エルマの生みの親だから」

「……っ」

「だが、文字通り骨身を削っても、あたしの技術は不完全だったらしい。エルマは四つの因子を備えているが、その魂魄(ジーン)は螺旋を成せなかった。あたしの目論見通り局所破壊された因子が分散されて月毒(ラジエイション)の症状自体は収まったが、エルマには螺旋がないのだ。あいつは、A、C、G、Tの四つの精(エリクシル)がただ入り混じっただけの、ひとがただ。あいつに生理がないのを知っているだろう。ひとがたとは螺旋の容れ物だ。自動人形(オートマタ)にAを容れることで、合成人形(クリーチャ)にCを容れることで満足に機能するように、ひとがたには螺旋を容れなければその機能のすべてが発揮されない。エルマが錬金術(アルケミー)のような創造行為をできないのも、そういう理由だ。エルマは自己発展しない。あいつは、人工人(ホムンクルス)になった直後から、何年経っても、その姿を変えていない」

 

 言われてみれば、確かにエルマさんにはそういう節がありませんでした。わたし自身、初潮がまだなので意識したことはなかったのですけれども――。

 

「精(エリクシル)に対しても同じことが言える。容れ物があってないために、エルマの精(エリクシル)は定着せずに絶えず漏れ出しているのだ。前に東洋の思想の話をしたな。輪廻転生のことだ。魂魄(ジーン)が、螺旋が、生と死、時間と空間を超えると。螺旋が生と死の間を移動するとき、螺旋の中に保持される情報がある。それを業という。業とは、螺旋が生きている間に取った行動、行為を意味し、形而上の存在だ。ゆえに螺旋そのものに作用し、螺旋、魂魄(ジーン)のかたちを左右するものでもある。生前に螺旋によって積まされた業によって、螺旋それ自体のかたちが決まり、次の生命のあり方が決まるのだ。今のこの転生(リボーンド)社会のようにだ。そして、業とは縁でもあるという。縁とはものとものを繋げている何かだそうだ。事象の因果関係を結び、何かと何かの間を取りなす、業そのもののことだ。生と死、時間と空間、螺旋と螺旋、ひととひと、あたしとおまえ、あたしとエルマ、おまえとエルマ。この間にはすべて縁が、そして業がある。東洋でいう螺旋はこの、業と縁によって支配されているもののことだ。運命を引き合いに出せばわかりやすいだろう。運命とは巡り合わせ、業と縁という螺旋によって構成される、それ自体が螺旋であるものだ。螺旋は縁を持つ。縁とは、引力のことだ。互いが互いを、螺旋が螺旋を引きよせあう力のことだ。重力のようなものだな。その引力は螺旋のかたちによって決まっている。さてここでいったん話を変える。こどもはどうして親に姿かたちが似るか、答えろ」

「……魂魄(ジーン)のかたちが似ているから、です」

「そう、螺旋を、精(エリクシル)の配列を受け継いでいるからだ。それすなわち、個性や欠陥が似ていることになる。では多様性のことを思い出せ。多様性がなければ種は外的要因に抗えないと前に教えたな。生物学的に近親相姦がよくないのはそういうことだ。似ている螺旋同士を掛け合わせても多様性は生まれないからな。多様性を増やし、外敵に対して免疫を持つにはどうすればいいか。それは自分にない免疫や自分の欠陥を埋めるような個性、因子を持つ相手と、子をなすことだ。ひととひとが本能的に好きだの嫌いだのと引かれあうメカニズムはここにある。相手と効率よく多様性を拡大できるか、それを個人の要素全体で螺旋が判断するのだ。個性とは螺旋が形而下に現れたものだからな。つまり、螺旋が螺旋を選びあう。互いの螺旋のかたちによって、だ。これはつまり、引力のこと、縁だ。魂魄(ジーン)――螺旋はその精(エリクシル)の配列形状によって発生させている重力で、引かれあっているのだ。これらを踏まえて、エルマの因子が螺旋を持たぬ事実を考慮すると、導出されるものは、なにか」

「エルマさんの精(エリクシル)は、引っ張られているだけ……」

「そう仮定できる。実際そうだった。エルマはひとが近づく度に、人工人(ホムンクルス)としての命をほんの少しずつ、削られていた。大量の人間と接すれば、それに見合った分の大量の精(エリクシル)を消耗していた。あたしたちは居住区を出ることを余儀なくされたよ。そしてそのことに気づいたとき、初めて、その東洋の思想を鵜呑みにした。何故そうなるのかは、わからん。四つの因子のそれぞれの性質や、精(エリクシル)の配列、螺旋の構造に起因しているんだろうが、解析し、根本的な治療を施すには、現代の技術が追いついていない。正直に言おう。今まではあたしの血を精(エリクシル)にしてエルマに与えていたが、もう、その流出は賄いきれないところまできている。あたしが今進めている研究は、エルマの精(エリクシル)の流出を抑え、螺旋を形取らせることだ。そういえば、あたしはおまえに嘘をついたな。あたしは、本当は命を生みだす研究なぞしていない。これはエルマを、あたしの娘を救うためだけの研究でしかない」

 

 師匠は新しい細巻きに火をつけます。

 

「ついでだ、もうひとつ話してやろう。エルマの精(エリクシル)は螺旋を成していない。ただ四つの精(エリクシル)が入り乱れ、方向性も規則性もない精(エリクシル)のカオス、因子のシチューが魂魄(ジーン)として形成されているだけだ。螺旋とは不完全性の象徴だ。なら、不完全性を持ち合わせていないエルマは完全なのか? そうではない。だがそれゆえに、エルマの魂魄(ジーン)の中には、無限数の多様性の可能性が眠っている。エルマにはすべての多様性、すべての個性、すべての欠陥が等しい確率で内包されている。おまえにはエルマの体臭がどう感じられている」

「……甘い、バニラのような、焼き菓子のような匂いです」

「それはおまえにとって好ましい匂いか」

「はい。とっても落ち着いて、ふわふわします」

「そうか。それが、おまえの魂魄(ジーン)に足らない因子の構造だ。その甘い匂いを結果的に発している身体機能や免疫力こそ、おまえの螺旋が欲している多様性だ。あたしはエルマからそんな匂いを感じたことはない。あたしには、アジサイのような水っぽい香りに思える。このようにエルマは人間のかたちをした、人間ではない、人間を完全に受け入れ、補完するなにかだ。それがあたしの生み出した人工人(ホムンクルス)だ。組合(ユニオン)の一部はこれを知っている。あたしが情報を売ったからな。案の定、組合(ユニオン)は飛び付いたよ。組合(ユニオン)と教区(カテドラル)は政治的に独立し、転生(リボーンド)制度と奉仕の教義を貸し合い、その融合たる奉仕社会の間で睨み合って常に牽制し合っている。エルマは組合(ユニオン)にとって教義を掻い潜りながら、より扱いやすい新たな資源となりうる、産業集合自治特区(アイアンバレイ)で主権を握る切り札だ。上手くいけば月毒(ラジエイション)の治療方法にもなりうる。だから組合(ユニオン)はあたしたちから評価を奪わず、なかば匿っていてくれている。一度月に毒された以上、エルマを転生(リボーンド)させる気はないと釘を刺されはしたがな。あたしはエルマを生かしたいがために、エルマを政略にまで利用した。まぁ致し方ないことだが、皮肉なもんだ。……さて、これで全部だ。おまえに隠していることは、もうない。共犯者になれとは言わん。推薦書を持ってくれば、好きなようにしたためてやる。組合(ユニオン)に新たな住居も用意させよう。そのぐらいの注文なら、ひと睨みすればなんとか聞いてくれるはずだ。どことでも好きなところへ行くがいい」

 

 出会ったときと何ひとつ変わらない、突き放すような口調でした。

 

 それが、今では拒絶と厚情の同居したものであると察せられました。師匠はあまりに――優しすぎました。

 

「……行きません」

「何故だ。これはあたしの、エルマのためだけの研究だ。おまえには関係なかろう。おまえのためにもならん」

「わたしは、わたしも、エルマさんを助けたい……エルマさんの力になりたいんです」

「自惚れるな。こどもひとりがいたぐらいで何も変わらん」

「でも、わたし、エルマさんが好きなんです! エルマさんの側にいて、エルマさんを支えてあげたいんです!」

 

 師匠は何かをこらえるような表情をして、

 

「……なぁ? あんまり、あたしを困らせるな? 困らせて、くれるな。おまえがエルマを思っているのはわかる。だが、きもちだけでは……どうにもならん。……感情論じゃないんだ、この問題は。死なせたくない――そのきもちでエルマを救えているなら……、あたしがもう……、――ひゃっぺんは救っている」

 

 眼鏡の奥の目じりに、うっすらと水滴を浮かべ、

 

「……おまえのために、忠告してるんだ。わかるだろう……、もう、エルマが長くないことを。残された時間が少ないことを。……おまえでは、きっと耐えられん。救いたいと思うきもちが、何の遠慮もなく、条理もなく、これっぽっちの抵抗にもならず、目の前で、無為になることに。救おうとした努力の一切が無駄になる瞬間に。初めから身を捧げなければよかったと、愛さなければよかったと痛感させられる最期に」

 

 悔しさを絞り出すように、ぽつぽつとかすれた声で、

 

「あたしだって、立ちあいたくない。あたしだって、逃げられるものなら逃げ出したい。あたしだって、耐えられない。あたしだって……、――死なせたくない。死なせて、たまるか。あたしの、娘だぞ。たったひとりの、かわいい、娘なんだぞ。でも、こんなきもちはすべて、神は受け入れてくれない。どれだけ救いたいと願おうが、意味はないんだ……。なぁ、頼む。あたしを、困らせないでくれ。頼む。あたしをあんまり、みじめな思いにさせないでくれ。あたしに、現実をつきつけないでくれ。あたしだって、助けたかったんだ……そのために、なんでもやった。でも……、――あたしじゃ無理だった。なぁ、教えてくれ。あたしは、どうすればよかったんだ……?」

 

 初めてわたしに、心情を吐露しました。

 

「……無駄になるとか、無理とかじゃ、ないんです」

 

 関節が白くなるまで握りしめられ、涙に濡れた師匠の拳の上に、手を重ねます。

 

「エルマさんは、わたしのおねえちゃんだから、助けなくちゃいけないんです。意味があるとかないとかじゃなくて、そうしなくちゃ。師匠が、エルマさんにそうしたみたいに。わたし、エルマさんのためなら、なんだってします。逆の立場なら、エルマさんだってわたしを助けようとしてくれたはずです。たとえエルマさんを救えなくても、わたしは、エルマさんを救わなくちゃいけないんです。すべてを投げ打って、悪魔に魂を売ってでも。師匠が何と言おうと、わたしは、ここにいます」

「……そのきもちさえ、無駄になるとわかっていても、か」

「エルマさんを、おねえちゃんを好きというきもちは、無駄にはなりません。師匠、どうか、わたしがおねえちゃんを好きでいるきもちを、無駄にさせないでください。ずっと、おねえちゃんを好きでいさせてください。自分のきもちに嘘はつけません。そう、おねえちゃんが教えてくれたから」

「……好きでいるために、離れなくてはならなくても、か」

「好きだと言えれば、それでいいんです。ここで工房(アトリエ)を去れば、わたしは胸を張っておねえちゃんを好きだとは言えません」

「……ひとの道を踏み外し、神に見放され、狂っても、か」

「耐えられなくてもいいんです。狂ってもいいんです。わたしはルナチャイルドです。もう月に狂わされています。おねえちゃんに狂わされるなら、それは本望です」

「……ばかものが。勝手にしろ」

 

 それだけ言い捨てて、師匠は自室にひっこみました。

 

 わたしの瞳が映したその背はひどく、疲れ切っていました。

 

 

 

 

 

 

 師匠から真実を伝えられた以上、エルマさんと同じ部屋で過ごしていいものかとお部屋の入り口で苦慮していると、ひとりでに扉が開き、エプロンワンピースがわたしの視野を満たしました。

 

「エルシー? どうしたんですか、こんなところで」

「おねえちゃんっ!? 起きだしてだいじょうぶなんですか?」

 

 中央商業区(セントラルパーク)で倒れたときよりも幾分顔色はよくなっていましたが、元気だったころと比べるとだいぶやつれて見え、わたしのこころをざわつかせます。

 

「すみません、心配かけちゃって。もう平気です。そんなことより、ご飯を用意しないと――」

「あ、あの、師匠はたぶん、それどころじゃないです。わたしもお昼にいっぱい食べすぎちゃいましたから、お腹空いてないですし」

「そう? 実はエルマも、食欲なかったんですよ」

「ですからゆっくり休養してください。家事とかは明日やっちゃいましょう」

 

 エルマさんをベッドに押し戻し、シーツをかけてあげます。

 

「今日は本当にすみませんでした。せっかくのエルシーの誕生日なのに、だいなしにしちゃって。結局プレゼントも買えなかったですし……」

「気にしなくてください。わたし、おねえちゃんとデートできて、すっごくすっごく楽しかったですから」

 

 エルマさんの手を取って、嘘偽りないきもちを述懐します。

 

 エルマさんの手はいつもよりひんやりしていて、その冷たさがわたしの胸をえぐりました。

 

「また行きましょうね、今度はちゃんと、埋め合わせをさせてください」

「はい、ぜひっ!」

 

 また、行けるのでしょうか。エルマさんは、本当にそう思っているのでしょうか。エルマさんの笑顔はいつもより儚げでいて、その危うさがわたしのこころを穿ちました。

 

 こうしてふたりで共有している時間でさえ、エルマさんにとっては死に至る毒となります。わたしの螺旋の重力、たった四分の三オンスの質量をもった霊魂が、エルマさんを引き裂くのです。

 

「わたし、下でちょっと勉強してきますね。おねえちゃんはゆっくり寝ていて――」

 

 離れようとしていたわたしの腕が掴まれたかと思うと、強い力でベッドに引きずり込まれました。

 

 きつく、すがりつくような抱擁が、わたしを逃しません。とくとくと確かな鼓動がわたしの薄い胸を打ち、エルマさんの甘い、わたしだけにしか感じられない、魂の匂いが肺に滑り込んできます。エルマさんの魂が蒸発し、揮発していく匂い。わたしを惑わす、永久不滅を冠するはずのバニラ。その香り。同時に師匠にとっては、アジサイの。冷淡な香り。

 

「お、おねえちゃん……?」

「……いてください」

「で、でも――」

「移る病気じゃないから、だいじょうぶです」

「それでも、いけませ――」

「いいの」

「んむっ……んふ」

 

 そして、柔らかでいて、愛おしむような口づけが、わたしをいっぱいにします。もうすぐ消えてなくなる、そんな事実を感じさせない、絶えざる光を放つお日さまみたいな温もりが。

 

 あと何度、エルマさんと言葉を交わすことができるのでしょうか。あと何度、エルマさんと抱きしめあえるのでしょうか。あと何度、エルマさんにキスをすることができるのでしょうか。あと何度、愛を確かめ、好きだと言えることを、主は許してくれるのでしょうか。

 

「……エルシー」

「……おねえちゃん」

「大好きです」

「愛してます」

 

 聖母のような、わたしが愛してやまないエルマさんが、その深みのあるブラウンの瞳にわたしの顔を焼きつけるように見据えてきます。自分が跡形もなくこの世から霧散することを自覚しているかのごとく。

 

 月に狂わされた子。月に魅入られた子。月に奪われた子。ルナチャイルド、人工人(ホムンクルス)。

 

 月は、残酷です。無慈悲な、夜の女王です。月はわたしの両親、故郷のみならず、おねえちゃんまで取りあげるつもりなのです。

 

 かの国に月がエルマさんを連れていくまで、いくらの猶予があるのでしょうか。螺旋のないエルマさんは、輪廻の螺旋から外れたエルマさんは、その命燃え尽きしとき、どこへ行くのでしょうか。もう二度と、生まれ変わることもないのでしょうか。転生(リボーンド)もできぬまま、この世にその生きた証を何も残さぬまま、ただただ露と消えてしまうのみなのでしょうか。これが、運命なのでしょうか。業なのでしょうか。縁なのでしょうか。

 

 そんなのは、悲しすぎます。あっていいことなのでしょうか。こんなにも必死に生きて、ただ生きたいがためだけに、生きてきたのに。

 

 月に負けないで。生きて。

 

 母は、言いました。ですが、月はそれを許しません。エルマさんの存在すべてを地上から、あえかなる毒の輝きで拭い去ろうとしています。母がこの世に、生きた証を残せなかったように。

 

 ポケットに収めていたからくりナイフを指先で探り当て、エルマさんの手に押し付けます。そしてワンピースドレスをたくしあげて、下着を脱ぎ棄てました。窓から差し込む月光が、わたしの下腹部を白く輝かせます。

 

「……エルシー?」

「刻んでください。わたしに、刻みつけてください。おねえちゃんの名前を、わたしに」

「そっ、そんな――」

「お願いします。おねえちゃんが、この世にいた証拠を、わたしに残してください。わたしがおねえちゃんの妹で、おねえちゃんのものだったことを、教えてください」

「……お師匠さまに、聞いちゃったんですね」

 

 悲痛な面持ちで、エルマさんが呟きました。

 

「……エルシーの身体に傷をつけるなんてこと、エルマにはできません」

「お願いします。わたし、耐えられないんです。おねえちゃんが本当にこの世界にいたことを、その存在を証明してください。わたしに、おねえちゃんを刻みつけてください」

「……エルシー、お願いです、許してください。エルマには、とても無理です……」

「おねえちゃんじゃないと、いやです。おねえちゃんがしてくれないなら、自分でやります。そうなればわたしきっと、痛くって手元が狂って、血がいっぱい出て、死んでしまうと思います」

 

 覚悟を込めた真剣な申し出に、エルマさんの瞳が揺れ動きます。

 

「……エルマの名前は、長いんですよ」

「それだけおねえちゃんが、わたしの中に長くいてくれるということです」

「……エルマにも、エルシーの名前、刻んでくださいね」

「当然です。おねえちゃんは、わたしのものですから」

 

 ぱちん、と小さな銀の刃が展開されて、その表面に月の光をたたえます。

 

 震える刃先が凍み凍る冷気を漂わせ、肌との距離を狭めていきます。

 

 やがてへその下に触れるか否かのところで、わたしはきたるべき痛覚にぎゅっと瞼を結び――、

 

「……痛っ……!」

「えっ!? まだ何も――」

 

 発信源は、お腹の中でした。渦を巻くような、鈍重な痛みです。その激痛はシーツに赤黒い染みを作り、その赤黒い染みはわたしの股の間から垂れ流されるものでした。

 

「えっ、あ、あれ? 来ちゃいました?」

 

 わたしは茫然自失として紅い体液に釘づけになってしまいました。

 

 エルマさんにはないもの。師匠も、手放したもの。わたしが螺旋である、何よりの発露。

 

 ぱちん、と小さな銀の刃が閉じられて、わたしは背中をさすられました。

 

「……やっぱり、だめです。まったくもう、エルシーのせいで、エルマは危うくとんでもないことをしでかすところでした」

「……お、ねえ……ちゃ……」

「もっと自分の身体を大切にしてください。エルシーの身体は、エルマのものでも、エルシーだけのものでもないんです。エルマの生きている証が、お師匠さまであるように、エルシーのおかあさまとおとうさま、そして、未来のエルシーのあかちゃんに胸を張れるように、生きてください」

 

 魂を砕かれ、輪廻からも外され、こどもすらなせなくても、聖母は健気に、すすり泣くわたしに笑ってみせました。

 

 

 

 

 

 

「師匠――いえ、お師匠さま」

「なんだ、かしこまって」

 

 紫煙を立ちのぼらせてかび臭そうな本を読みかじっていた師匠が、思い出したように空になったカップを突き出しておかわりを催促してきました。

 

 わたしはカモミールのお茶を注いで続けます。

 

「わたしを精(エリクシル)に溶かして、おねえちゃんの足しに――」

「たわけが。いつかそんなばかげたことを抜かすと思ってたよ。結論から言って、無駄だ。おまえとエルマの精(エリクシル)は別物だ。あたしの精(エリクシル)はエルマと似ていて、それがたまたま上手くいっているからいいものの、おまえのではどうなるか保証できん。第一、エルマがそれを望まんことぐらい、おまえにもわかるだろう」

「ですよね……」

 

 わたしの誕生日の明くる日、家事や手伝いをしたいとごねるエルマさんをなんとか師匠とふたりで説き伏せて寝かしつけ、わたしたちはエルマさんを救うための研究を再開していました。

 

 と言ってもエルマさんを救う手掛かりは今のところ皆無です。師匠のような優れた錬金術師(アルケミスト)さんが何年も模索しているのに成果を上げられていないのですから、わたしごときが出る幕はありません。

 

 焦慮して闇雲に調合していても仕方がないですし、工房(アトリエ)には費用もないので、じれったいですが今はただ多くの書物や文献を読み解き、アイデアが沸くのを待つしかありません。

 

 生理によいとエルマさんに勧められた紅いクランベリージュースを飲み干して、わたしは大息して嘆きます。

 

「はぁ……おねえちゃんのあかちゃん、産みたいなぁ……」

 

 ずずずとお茶をすすっていた師匠が突然むせはじめます。

 

「ぐふぇっ!? ぇほっ、……がほっ! ばかも、の……気管、に入っ、たでは、ないか」

「え? わたし、何かおかしいこと言いました?」

「飛躍、しすぎだ。何故そんな、話になる」

「せっかく生理を迎えたんですから、好きなひとのあかちゃんを産みたいと思うのは、至極当然の帰結ではないのでしょうか」

「……真顔で言うな、なんだかあたしが飲み込みの悪い阿呆みたいだろう」

「滅相もないです! 師匠はすごいひとです!」

「ふん。そんなこと、あたしが一番知っている」

「それで、えと、あの、そのすごい師匠に折り入ってお願いが――」

「無理だ」

「え、あの、まだ何も言ってないですけど」

「どうせエルマの赤ん坊を産ませろ、だろう」

「ど、どうしてわかったんですか」

「見え透いている。言っただろう、エルマには螺旋がないと。たとえ疑似的にエルマの精液を作ることができても、おまえが受精することはないだろう」

「お、おねえちゃんの、せぃ……師匠、卑猥です! やめてください!」

 

 ぼっと顔が一瞬にして火照ります。おそらく耳まで赤くなっていることでしょう。

 

「なんだ、おまえが言いだしたことだろう。ついでに予告しておいてやるが、その逆も無理だぞ」

「つまり、おねえちゃんを……にんし……ぅ、それはそれで、すっごく、――ありですね……わたし、なんだか、何かに目覚めてしまいそうです……師匠、もうちょっと真面目に検討してみませんかっ!?」

「くどい。だから無理だと言っとろうに」

「師匠はおねえちゃんを孕ませたいと思わないんですかっ!」

「孕ませ――おまえ本当に貴族だったのか?」

 

 師匠はこれ見よがしにげんなりしてみせました。

 

「しかしいよいよ似てきたな、おまえたちは。エルマも、おまえに首輪を嵌めて部屋に閉じ込め徹底的に躾けたいだのと戯言をほざいていたよ。ともかくだ、エルマは、今のおまえと同じように、あたしが腹を痛めて産んだ娘だぞ。そんな願望を抱くわけがなかろう」

 

 エルマさん、なんて業の深いことを……でもエルマさんがそうしたいなら、わたしはいつでも――。

 

 むくむくと膨らむ妄想を止められずにいると、眉根を寄せた師匠がおもむろに、

 

「――いや、そうか……ありだな」

「ですよねっ!?」

「そうじゃない、うつけが。いや、しかし、着眼点は悪くない……試してみる価値は、ありだ。今までそんな発想に至りもしなかった――そこまで立ち帰ればよかったのか」

 

 ぼそぼそとひとりごちはじめました。

 

「……あの、師匠?」

「産むんだよ。そう、産み直せばいい。エルマ自身で、エルマ自身を、エルマ自身の中に宿せばいい。エルマ自身に、螺旋を作り直させ、転生(リボーンド)させればいい。あたしが神になる必要なんかなかった……エルマを神にすればよかったんだ。まわりくどいが、これなら勝算がある」

「どういうことでしょうか……」

 

 師匠は眼鏡を外し、闇の中で思考を整理するように、両手で顔を覆いました。

 

「――今まではどうにかして精(エリクシル)の漏洩を止めるか、ばらばらになった精(エリクシル)を螺旋のかたちに整えようと躍起になっていた……そうすれば生命を延長できると思っていたからだ。だがそれは的外れだった。螺旋の発生、生命の原初、命の撃鉄――そんなもの、錬金術(アルケミー)に頼らなくても、あたしたちはすでに知っていた。先駆者はもう何万年も前にいたんだ。そう――、生物そのもの、あたしたちそのものが、そもそもの螺旋の根源ではないか。あたしは、今まで何をやってたんだ……」

「それとこれと、どういう関係があるのでしょうか」

「エルマは生きている。四つのひとの因子を携え、ひとに近しい状態で、自己発展できていないだけで、エルマでありながら、エルマ以外になりうる、あらゆる可能性を持っている。それはすなわち――卵子なんだよ。生命の始まりとは、受精するということだ。エルマはいわば受精する前の、卵細胞だ。その対となり生命を発生させる、子種に値するものをエルマに与えてやれば、エルマはおのずと螺旋を形成する……かもしれん」

「でも、先ほどは螺旋がないから、じゅ……受精しない、と」

「そうではない。エルマの胎内にある卵細胞を受精させるのではなく、エルマ自身を受精卵のような状態にさせるのだ。さっきの話は、螺旋を持つものが作る配偶子か、配偶子から配偶子を作るかの違いのことだ。これは大きく意味合いが異なってくる。配偶子はそれ自体にも螺旋は含まれるが、これらは双対な系で、一方ずつだけでは自己発展、成長しない、いわば時間を止められた螺旋だ。配偶子はふたつが結合することではじめて細胞分裂し、生命としての機能を発揮する……そう、まるで人形と精(エリクシル)のように。あたしの螺旋の設計図がうまく動いていないのもそういう理由だったのかもしれん。エルマは螺旋がないのではなく、螺旋になる前に停止した存在――仮に、ここで人工人(ホムンクルス)に対応する双対な系で刺激してやれば、螺旋が発生し、ともすれば螺旋に近しいものになる……かもしれん」

「よくわかりませんけれども……それでおねえちゃんは助かるんですか!?」

「かもしれん。確実とは言えん。試してみないことにはわからん」

「じゃあ早速――」

「急かすな。思いついたからといって今すぐできるわけじゃない。いくつか障害がある。まず、子種となるものを作らねばならん。これは――魂魄再編成液を応用すればいいだろうが、そのレシピが、ここにはない」

「……今は、どこにあるのでしょうか」

「組合(ユニオン)に匿ってもらう際に、教区(カテドラル)に示しをつけるため、組合(ユニオン)があたしに教区(カテドラル)に差しださせたんだ。そのレシピは人体の設計図をも兼ねていたからな。教区(カテドラル)のお咎めの対象だった。実際ただの失敗作だったし、当時のあたしにとっての課題、エルマの精(エリクシル)を堰き止めるのにも、螺旋のみを再構成するのにも不要だと思って眼中になかったからな、まんまとくれてやったよ。今頃は教区(カテドラル)の図書館(ライブラリ)でほこりをかぶっているこったろう。きゃつらがあれを読み解けるとは思えし、使い道もないだろうからな……くそっ、つくづく阿呆だ、あたしは」

 

 憤懣やるかたないといった様子で、師匠がテーブルに拳を叩きつけます。

 

「もう一度書きなおすことは、できないのでしょうか」

「不可能ではないが、一朝一夕では済まんな。書きなおそうと思えばまた魔導書(グリモワール)もいるだろうが没収されてしまったし、何より魂魄再編成液に対応して設計せねばならんから、どちらにせよ、レシピと細部まで照らし合わせる必要がある。……悔やんでも仕方ないな。思い出せる限りでやってみるか。――おい、何をぼさっとしている。あたしの部屋からありったけの本と紙をもってこい。ただちにだ」

「は、はいっ」

 

 突然師匠にどやされて、わたしは階段を駆け上ります。

 

 一縷の希望と、確たる決意を胸に。

 

 

 

 

 

 

 師匠は夕食後一番に入浴すると、そのまま自室から出てくることはありません。エルマさんも一日では回復しきれなかったようで、ベッドに横になるなりすぐに寝静まってしまいました。

 

 だからその日の深夜、わたしが誰にも気づかれることなく道具を準備し、工房(アトリエ)を抜けだすのは苦もないことでした。

 

 じくじくと鈍く疼く腰に目を瞑り、ベルトから小物をじゃらじゃら提げた作業用エプロンワンピースを着こなし、ぱんぱんに張った背嚢を背負ったわたしの前にそびえたつのは、石造りの、教区(カテドラル)付属図書館(ライブラリ)――へと続く、伝達管ゲートです。

 

 グレイトキッチンの体内で生みだされた運動量や、水道、ガスなどを各施設に送り届ける地下に張り巡らされた伝達管――管といっても汽車が通過する連絡通路よりふたまわりぐらい細いだけの地下空間です――は、管理区(コントロールセンター)や心臓部の蒸気機関とも連結しており、言うなればグレイトキッチンの動脈です。この伝達管が異常をきたして途絶えることは都市機能低下に直結するため、各所にメンテナンス用のゲートが点在しているのです。

 

 そして伝達管内は排熱で温かいため、アウトローさんたちが住みつかないよう堅牢な鉄扉によって、その入り口は守られています。

 

 か細い月光の下、わたしはその鉄扉の鍵穴に、緊張の眼差しを注いでいます。

 

 これからやることは、清く正しく歩んできた今までのわたしの人生を、裏切る行為です。この業を積めば、わたしの螺旋はきっと歪むことでしょう。ですがすべてはエルマさんのため。ここまで来て逃げ出すほどの愚かさは、あいにく持ち合わせていないのです。

 

 何よりわたしは、ルナチャイルド。恐れるものはありません。エルマさんのためなら、なんだってやってやるのです。

 

 わたしの手のひらに握られているのは、師匠に頂いた、LCという彫刻が入ったからくりナイフ。

 

 その秘められし道具のひとつである、先端が鉤になった金属棒をばね仕掛けでぱちんと飛びださせ、ポケットに入れていたねじまわしとともに鍵穴に差しこみます。

 

 幾分も経たないうちに、かちりという頼もしい手ごたえの後に、ごとん、と鉄扉の中で何かが落ちる音が続きます。からくりを得手とする上にしっかり予習してきたわたしにとって、解錠はおちゃのこさいさいだったようで、なんだか物悲しくなってしまいました。

 

 重い扉を押しあけて、伝達管に滑り込みます。湿った暗闇の中、手探りでマッチを擦って、腰のベルトに下げていたカンテラに点火し、伝達管に沿って地下へ地下へと降りて行きます。

 

 あらかじめゲートと図書館(ライブラリ)の位置関係は確認しておいたのでさして迷いもせず、わたしは図書館(ライブラリ)の直下に到着しました。そして図書館(ライブラリ)側のゲートを抜け、不法侵入します。

 

 真夜中の図書館(ライブラリ)は閑散としたものでした。学術書を借りるためにグレイトキッチンの図書館(ライブラリ)は何度か利用しましたが、陽が登っているときは隣接している学区(ユニバーシティ)の学者さんたちでひしめきあい、回廊やラウンジの至るところで議論をぶつけあう姿が見られます。

 

 青銅人(タロス)の警備員さんに発見されないよう抜き足差し足で禁書保管庫へ。ゲートと同様にからくりナイフで何重、何種類もの南京錠を破り――これにはほとほと手を焼かされましたが、結局解けてしまったことを鑑みると本当に鍵破りの才能があるのかもしれません……――、司書さんや司祭さま、組合(ユニオン)の高官さんしか入室を許されない保管庫に踏み入ります。

 

「――っ!」

 

 保管庫の空気を吸った瞬間、わたしは吐き気をこらえるのに相当の努力をしなければなりませんでした。淀んでいる――濁っている――腐っている。そのどれとも違い、どれでもあり、肉体に害はなくとも大気そのものが魂魄(ジーン)にとって毒であるほどの、抗いがたい本能的な不快感と忌避感が突きあげてきます。

 

 これが魔導書(グリモワール)の放つ魔性……毒性なのでしょうか。あまり長居はできなさそうです。

 

 今すぐ逃げ出してたくてたまらない欲望を押し殺し、わたしは棚に収められた魔導書(グリモワール)の原本や写本、石碑をひとつひとつ検めていきます。

 

 血塗られた古文書、異国の文字で記された紙束、触れただけで指先が痺れる金属板、錆ついた鏡、文字は読めているはずなのに何故だか意味だけが頭に入ってこず理解できない日記帳――ひとの顔の皮で装丁された本までありました。

 

 たぶん生理の影響もあるのでしょう、脂汗を流し、嫣然杭を打ち込まれたかのごとくこめかみがずきずき痛みはじめるころ、わたしは、性能評価タブレット大の布包みの検閲に取り掛かっていました。持ち上げようにも包みは異様な重量で、所望しているレシピではないだろうと思いつつも、くくりつけられた名札を確かめてみると、

 

『Hermes』

 

 その綴りが目に飛び込んで来て、わたしは頭痛と腹痛が吹き飛んだような気がしました。まごうことなき師匠の名前――これこそわたしが求めていたレシピに違いありません。

 

 棚からずりずりと引っ張り出し、ぺろりと布をめくると、わたしの瞳と同じ翠のベリル材――エメラルドが輝きを覗かせました。その表面にはただ一文、

 

『下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし』

 

 との刻印があります。

 

 ……これが本当にレシピなのでしょうか。わたしは失望を隠しきれませんでしたが、しかし、師匠は読み解く読み解けない云々をおっしゃられていましたから、きっと何かの暗号なのでしょう。他に目ぼしいものもなかったので、わたしはエメラルド板を拝借することにします。

 

 そして――事が起きたのは、どうにかしてエメラルド版を収納した背嚢をよっこらしょと担いだときでした。

 

「誰かいるのか!?」

 

 鋭く誰何する重厚な金属の声が、保管庫の外から響きます。

 

 あぁ、わたしのなんと、おおばかものなことか。保管庫の扉を閉めずに――南京錠だったので内側から鍵をかけられず、遅からず発覚していたでしょうけれども――捜索していたのです。

 

 今晩の当直の方は勇猛果敢な方らしく、ランタンを片手に警戒しながら保管庫に乗り込んできました。わたしごと保管庫を封鎖して応援を呼びに行っていただけた方が壁をぶち破るなどいくらでもやりようがあったのですが、準備もできずに鉢合わせしてしまえばおしまいです。

 

 わたしは臍を固めてベルトに挟んでいた試験管に手を伸ばします。

 

 青銅人(タロス)の警備員さんが、わたしが身をひそめる棚の列に来合わせたところで、試験管を足元目がけて投げつけました。

 

 狙い違わず試験官はガラス片と薬液を撒き散らし、青銅人(タロス)さんの青銅の足を濡らします。同時に駆けだしていたわたしは上体を屈めながらその横をすり抜けます。

 

「待てこの――っ!?」

 

 慌ててわたしを追いかけようとした青銅人(タロス)さんが、ずんと耳を聾する轟音を立てて仰向けに転倒します。いかな金剛力を誇る青銅人(タロス)さんでも、酸素に触れると急速に固まる師匠印の強力接着剤を力ずくで引き剥がすことはかないません。

 

「石鹸とお酢で落ちます!」

 

 どこも故障されていないことを祈りつつおざなりに忠告しておいて、わたしは元来た道を戻り、ゲートの目と鼻の先までやってきたところで、今度は回廊の向こうを巡回していた自動人(オートマタ)さんに見咎められます。

 

「おい、貴様……?」

 

 すんでのところで顔だけは伏せられましたが、もはや泥沼です。わたしはゲートに飛び込んで内側から錠をします。

 

 ゲートの向こう側からの怒声を背に、わたしは侵入経路を逆走しかけましたが、すぐに思いとどまります。伝達管に逃げ込んだところは目視されているので最寄りのゲートには人員が配置されるでしょう。踵を返してグレイトキッチンのさらなる奥へと潜り込みます。

 

 頭の中で地図を描きながらまた激しく痛みだしたお腹を抱え、いくつか角を折れると、遠くの方で鉄扉が開門された音がありました。無数のパイプとベルト、ワイヤーの空隙からは不届き者の情報をやりとりしながらその矮躯を探す、たくさんのカンテラが浮かんでいます。

 

 それはあたかも、ざわめきながら機械のはらわたを迫りくる、光の群れのよう。

 

 まるであの――悪夢の再現。

 

 フラッシュバック。月のしもべたち。イリエルズ。月光に焼かれた――母。

 

 ぞぞぞと肌が粟立ちます。いつのまにかわたしの足は止まり、脳内の地図は白紙に戻ってしまいました。カンテラが手を滑り落ち、けたたましく鋼鉄の床を転がります。

 

「いたぞ!」

 

 はっとしてわたしは身を翻し、すぐそばの通路を曲がります。

 

 動揺と激しい運動から、だんだん息が続かなくなってきました。背にのしかかるエメラルド板も、その重さを再認識させてくれはじめます。

 

 配管をくぐり物陰に身体を押しこんで、できるだけ小さく縮こまります。

 

 甲冑ががちゃがちゃと金属音を立てながら、白いローブを翻してわたしの目の前を通り過ぎます。どうやら異端審問官(ドミニカニス)さんまでお出ましのようです。

 

 もし逮捕されれば、穏やかではありません。ゲートに図書館(ライブラリ)への侵入、禁書の持ち出し、さらに青銅人(タロス)さんへの暴行です。とてもではありませんが、評価剥奪どころでは済まされません。火炙り――は非効率的なのでとうに廃止されましたが、絞首台に立たされ、ファームの肥料にされるのは避けられないでしょう。

 

 それにわたしだけではありません。身元が判明すれば、師匠やエルマさんまで迫害されるでしょう。わたしの身がどうなろうと知ったことではありませんが、それだけは回避せねばなりません。

 

 そして、このエメラルド板を、師匠に届けなければ。エルマさんを救うために。

 

 下腹部がちくちくひりつき、どろりと生温かいものが太ももを伝います。本当なら、おねえちゃんの名が刻まれるはずだった場所。おねえちゃんがいてくれるはずだった、痛み。

 

 孤独と脅威と苦痛に、すすり泣きそうになるのを辛抱します。

 

 ぐずぐずしている猶予はないのです。そしてこのまま逃げまどい潜伏していても、だめなのです。

 

 グレイトキッチンの体内は初めてでも、なあなあでわかるところがあります。地形的にもわたしに分がありますが、異端審問官(ドミニカニス)さん勢力の方が数も多ければひとりひとりの体力も段違いです。外に出れば追いつかれてしまいます。

 

 これが夢の再現なら――立ち向かうしかありません。彼らと、戦うのです。

 

 夢の中で月毒(ラジエイション)に立ちはだかり、わたしを守った母のように。

 

 エルマさんは言いました。頑張らなくちゃいけないときは、頑張らなくちゃいけないときにしか来ないのだと。今このときこの瞬間こそ、頑張るときでした。

 

 月に負けないで。生きて。

 

 母の今際の言葉が、鮮明に脳裏によみがえります。わたしは今になって気づきます。母は――知っていたのでしょう。わたしが、一度月に狂わされた子であることを。ルナチャイルドであることを。

 

 ならば月にはもう二度と――家族を奪わせるわけにはいきません。

 

 おんなは、度胸と根性です。

 

 わたしは鉛のように重く怯えていた四肢を叱咤し、ままよと通路へと躍り出ました。

 

 奥底へと下ります。

 

「見つけたぞ! こっちだ!」

 

 すかさず異端審問官(ドミニカニス)さんのひとりがわたしを探知します。その具足に向かって試験管を二本、投げつけます。一方は液体を撒き散らして鎧同士を固定する、強力接着剤。そしてもう一方は、通路内に黒い煙を充満させ――。

 

「っ!? えふぇっ! げふっ! ぼほぉっ!」

 

 滂沱と涙を流しながら激しく咳き込みはじめました。異端審問官(ドミニカニス)さんは関節を満足に動かせないため、師匠いわく地獄の苦しみをもたらす――自分で試したのでしょうか――催涙煙幕から抜けだせずその場で悶え苦しみ、助けに入ったり、暴れる仲間に通行を邪魔されてしまった方たちも仲良く泣きながら地べたを転がります。

 

「牛乳を飲んでください!」

 

 こちらも口元を押さえていたので聞こえているかどうかはわかりませんが、明日の牛乳の売れ行きが伸びることを期待するしかないでしょう。

 

 奥底へと下ります。

 

「挟み込め!」

「待ちやがれこのガキ――!」

 

 前方の階下からと、背後の扉一枚を挟んで、わたしに誘導されるように異端審問官(ドミニカニス)さんが罵声を散らして猛追をかけてきます。お返事している余力はないので無視です、無視無視。代わりに、使い道のなくなった試験管四本のうち、二本に詰められていた粉末を階段に振りかけて、もう二本の液体をかけておきます。

 

 扉の裏に隠れるが早いか、後ろからやってきていたドミニカスさんたちが勢い余ってお酢とよく滑る粉石鹸を踏みつけ、華麗な宙返りを披露したのちに階段をどんがらがっしゃんと派手に滑り下りて行き、その運動エネルギーと甲冑の質量をもってして階段を登って来ていた方たちを蹴散らしました。

 

 甲冑を装備しているため大けがはしてないと思いますが、みなさん伸びてらっしゃいます。打ち身用の軟膏を側に置いておき、空港で初めて師匠に出会ったときの異臭を思い起こし、

 

「臭うので患部を包帯で覆ってください!」

 

 彼らの首の骨に神のご加護があったことを信じます。

 

 地上を目指します。

 

 十字路に出ました。周囲に何も重要な管や動力機構、施設がないことを暗闇に慣れた目とからくり好きとしての直感で見極め、管理区(コントロールセンター)へ連絡する通路を少し進んでから、からくりナイフを駆使して背嚢を軽くします。

 

 そして十字路に戻り、一番図書館(ライブラリ)へと遠いゲートへ向かいます。またダクトの影に姿をくらませ、幾ばくも息を殺さないうちに、ずん、と生理痛に共鳴する重低な爆発音が通路の奥で奏でられました。

 

 緊急事態を嗅ぎつけた神の犬さんたちは、爆発だ、テロリストが、管理区(コントロールセンター)に、と支離滅裂な単語を口々に、爆破現場へと吸い寄せられていきました。

 

 きちんと火薬の量を調整して起爆用の特定薬液を垂らすのに使った時計仕掛け以外は木端微塵になっていないはず――そうでなければわたしも困ります――なので、長くは時間稼ぎにならないはずです。ひとけがなくなったと決めつけるやわたしはゲートへと急ぎました。

 

 地上を目指します。

 

 そして、ゲートまであと一歩というところで。

 

 ひとりでにゲートが口を開け、まばゆい月光が通路を暴きだしました。月光を背にがちゃがちゃと鎧を揺らして走る耳慣れた足音が、近づいてきます。図書館(ライブラリ)からも管理区(コントロールセンター)からもかなり離れたゲートであるためか、数はひとりです。

 

 ですがもう接着剤も催涙煙幕もありません。遮蔽物もなしです。

 

 わたしは手のひらのからくりナイフを、その刃の存在を確かめるように握り締めます。これだけはやりたくありませんでしたが――背水の陣です。

 

 ぱちん、と小さな銀の刃が展開されて、その表面に月の光をたたえます。

 

 異端審問官(ドミニカニス)さんのランタンが、わたしの靴を照らします。

 

「な、こんなとこに――」

 

 異端審問官(ドミニカニス)さんが大声を上げる前に、突撃します。

 

 左手で腰の革袋から抜き出した布きれを、甲冑の上にびたん。湿布は一瞬にして金属を腐食させ、離し遅れたわたしの手のひらを反応熱で焼き焦がし、白煙を上げて鎧に風穴を開けてしまいました。

 

 同時に突き込んでいた銀の刀身は、その鎧の穴に吸い込まれるようにして仮借なく飛び込んで行き――。

 

「がっ――!?」

 

 がしゃんと異端審問官(ドミニカニス)さんが物言わぬ肉の塊へとなられ、鉄の通路にくずおれます。

 

 びくびくと手足を引きつらせる異端審問官(ドミニカニス)さんを見下ろしながら、ついにやってしまったのだという強い後悔が胃を締め付けていくのを痛感しました。

 

 わたしは刃を濡らすしずくをエプロンの裾で拭い、白目を剥いて泡を吹き倒れ伏す異端審問官(ドミニカニス)さんの隣にしゃがみこみます。

 

 そして――血の珠が浮かぶ小さなひっかき傷に、傷薬を塗り塗り。

 

「ごめんなさい……半時間で動けるようになるはずです」

 

 いざというときのために、ナイフに痺れ薬を塗りつけておいて正解でした。

 

 刃物でひとを傷つけてしまったことを、おねえちゃんはひどく悲しむでしょう。業がわたしの魂魄(ジーン)をいびつに曲げたでしょう。おねえちゃんを助けるためだとは言え、わたしは重い罪を犯しました。

 

 ですが、今何より優先すべきは大切なひとの命。

 

 わたしはゲートを後にします。

 

 地上に出たわたしを、スモッグの合間からこちらを垣間見ていた月が迎えます。わたしが仰ぎ返すやいなや、歯がゆさを隠すように、流れるスモッグにひっこんでしまいました。

 

 今度は勝ちました、おかあさん。

 

 あなたの生き証である、わたしが。

 

 わたしは工房(アトリエ)への帰路につきます。

 

 

 

 

 

 

 ぎいいと工房(アトリエ)のバイン戸を閉め、無人であるはずの室内を振りかえったわたしを出迎えたのは、師匠の平手打ちでした。

 

 突然、そして初めての顔面をはたかれた衝撃に、わたしは呆然となってしばらく言葉も出ませんでした。そしてぽかんと突っ立っていたわたしを、師匠は力強く抱き寄せ、

 

「ばかものが……気を揉ませおって……阿呆が……おまえまで失うと……おおうつけが……」

 

 耳元で、低く、乾いた声色で、わたしを罵りました。

 

「ししょ……煙草くさ――」

「なんだと」

 

 わたしに噛みつかんばかりの視線を寄こしながら、師匠が唸りました。

 

 師匠はわたしのぼさぼさの金髪や、汚水と経血で黒と赤の斑紋の滲み擦り切れたワンピース、ぼろぼろになった背嚢を凝視して、わたしの汗とグリースまみれの顔をぎろりと睨みつけました。

 

「図書館(ライブラリ)に忍び込んでいたんだな」

「はい」

「エメラルドタブレットを取りにか」

「はい」

「持って帰って来たのか」

「はい」

「見つかったのか」

「はい」

「ちゃんと撒いたのか」

「ばっちりです」

「怪我は」

「手のひらを少し火傷したぐらいです」

「どこか痛むところは」

「強いて言うなら、生理痛と、今師匠にぶたれたほっぺたです……」

「……はぁ、まったく、なんと悪運の強いやつだ。阿呆だ阿呆だとは思っていたが、おまえは正真正銘の阿呆だ。おおばかものが。たわけが」

 

 異端審問官(ドミニカニス)さんほどではありませんが、悪口の大盤振る舞いです。

 

 師匠はわたしを椅子に引っ張っていって、突き飛ばすように座らせ、目の前にクランベリージュースが満たされたコップを叩きつけました。そしてわたしの前に膝をついて、乱暴に火傷の手当てをしてくれました。

 

 大冒険をしてくる前は空だったはずのテーブルの灰皿には、吸殻がこんもりと山を作っていました。

 

「一階でどたばた乱痴気騒ぎを始めおったから、寝ていたあたしがわざわざ何事かと飛び起きて降りてみれば、薬が無くなっているわ換気扇は分解されているわ、その上おまえはいないときた。あたしはすぐに、昼間、おまえにエメラルドタブレットの話をした自分を魔法で呪い殺したくなったよ。このときばかりは自分が神秘主義の魔術師だの辛気臭い悪霊だのじゃないことを恨んだぞ」

「心配かけてすみません。でも、我慢できなかったんです」

「だろうな。……おまえ、殺されるところだったんだぞ。わかってるのか」

「承知の上です。でも、おねえちゃんを守らなきゃいけなかったんです」

「そのエルマだって、こんなこと知ったら、おまえ、ただじゃ済まされんぞ」

「わかっています。でも、おねえちゃんに恨まれても、おねえちゃんが悲しい思いをしても、わたしがどうなっても、おねえちゃんには生きていてほしかったんです」

「ばかが。おまえだけじゃない、あたしだってエルマに殺される。だが――」

 

 師匠は、ふっと力の抜けた笑みを浮かべて、

 

「でかしたぞ、エルシー」

 

 わたしを褒めてくださりました。

 

 

 

「A code4:Aleister's helixir

 アレイスターズヘリクシル」

 

 

 

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