ろくでもない仕事。
あれだけ憎んでいたヘロインも、今はヘロインなしではつらい。
くしゃみをする。鼻水をすする。下着はすぐにだめになる。
クーは感度があがったね、と言った。診療所から戻ってきて以来、セックスをしていると、薄紅色をした虹彩の鼠がヘロインを打たれ誰かに犯されている映像が浮かぶ。自分で慰めるときも浮かぶ。
そのカルテジアン・ポルノは網膜の裏側に染み付いている。セックスをするとき、かならず再生される。
クーの元ルームメイト/元武装強盗アマネはマチルダに目をつけられて、死んだ。アマネは悪魔を探していた。
ノンもマチルダに目をつけられた。ノンは悪魔を探していない。髑髏聖母を探している。ノンは殺されていない。診療所送りにされて、ヘロイン漬けにされただけだ。
アマネは一線を越えた。ノンは一線を越えてない。
一線は悪魔なのだろうか。だが、まだ薄い気がする。欠けている。
マチルダとフーリは暴力と権力でヤクのクラブを封じ込める。市場を作る。エーテル・ヘロインの魔力を高める。娼婦を誘惑する。
刑務所のガス抜きの正体は、たぶん娼婦だった。娼婦はあちこちの棟に出荷されている。管理棟にも出荷されている。
診療所にいた娼婦を、色んな場所で、何度も見かけた。薄紅色の虹彩の鼠もいた。
時たま、特別報酬と称して一晩のサービスがある。問題のある囚人を沈静化する。囚人をセックス漬けにする。
囚人も看守も、カレン印の娼婦を買っている。プサイ姉妹も買ったことがあるらしい。クーは買ったことがないらしい。
プサイ姉妹は言った。「見てくれは普通だけど、すごくそそるんだよねェ、あそこの子たち」
クーは言った。「アマネがいたからね」
囚人も看守も、診療所を利用している。それで、フーリを名士に押し上げている。診療所はフーリをボスにする。
それは事実だった。それは、まだ欠けている気がする。
フーリは主義主張がはっきりしている。信頼されている。名士であり、元英雄であり、市場を支配していて、囚人たちの顔役だった。
その威厳は覆されてはならない。フーリは他人に出し抜かれるのを潔しとしない。フーリは必ず落とし前をつける。
ヘロインの仕入れをフーリに頼んで、マチルダに殺された囚人がいる。ヘロインを仕入れることは一線だった。ならば、ヘロインは悪魔だ。
ヘロインを探ることは一線ではない。診療所で娼婦がヘロイン漬けにされていることはみな知っている。刑務所にヘロインは存在する。ならば、ヘロインは悪魔ではない。
刑務所にヤクのクラブは存在しない。ペルセ以外は。マリファナ以外は。
ペルセはフーリから信頼されている。マチルダからも信頼されている。
ノンは一線を越えてない。ノンは悪魔を知らない。マチルダに目をつけられたのは、娼婦としてだった。商品としてだった。そして、ノンを紹介したのは――
情報がほしい。ネタがほしい。この刑務所は一筋縄ではいかない。
情報屋が必要だった。タレコミ屋を作らなくてはならなかった。無自覚に一線を越えているタレコミ屋を。
看守が房にやってきた。「面会だ」
「わたしに……ですか? いったい誰が――」
看守は言った。「おまえの弁護士だ」
面会室。
甘い匂いがする。バニラの匂いがする。
白鳩が待っていた。煙草を喫って待っていた。
中折れ帽にポーラータイ。バッジ。ジャケットとブラウスは袖付き――弁護士然。
ボス。アアル・マアト・オメガ。
アアルは片目をつむった。「久しぶりですね」
腰が砕けそうになる。下着が濡れる。くしゃみをする。
ノンはジャケットを指差した。ポケットからは、エーテルデバイスグローブが覗いている――EPDの支給品。「弁護士はミスリルの粉を詰めた手袋なんかつけませんよ」
面会室に看守はいない。外で煙草を喫っている。看守のポケットからは、十ドル札が覗いている。
アアルは笑った。「うっかりしていました」煙草を勧めてくる。
椅子に座る。煙草をもらう。マッチで火をつけてもらう。
「ずいぶん痩せましたね。こちらの食べ物は口に合いませんか?」
ノンは首を振った。囚人服の裾を引っ張った。「ちょっと風邪を引いてしまいまして――でも、もうだいじょうぶです」
アアルは煙草を揉み消した。「手紙も寄越してこないもんですから、心配したんですよ」
「ここに溶け込むのに、苦労してました」
「大事がないなら結構です」アアルは手帳とボールペンを取り出した。「どうですか? なかの様子は」
「すみません、まだ尻尾もつかめてません。でも、聖母はここにいると思います」
「確証は?」
「ヘロインを見つけました。診療所で、カレン・ロッカバイという看護婦によって、モルヒネから生成されています。それにエーテルを混ぜて、薬効を高めてます」
アアルは手帳にエーテル、ヘロイン、カレンと書きつけた。「なるほど、くだんの高伝導エーテルですか。マックスが市場競争に負けるのも頷けますね」
「でも、黒幕はわかりません。供給ルートもわかりません。なにせ、ヘロインは囚人の間に出回っているわけではなく、ええと、その――カレンが囚人を飼いならすために使われているみたいなので」
アアルはボールペンをまわした。「その看護婦は、誰かの指示で囚人を押さえ込んでいるのですか? 報酬をもらって?」
「裏はとれていませんが……おそらく。もう少し待っていただければ――」
アアルは微笑んだ。手を伸ばして、指を絡めてくる。呼吸困難に陥りそうになる。心臓発作を起こしそうになる。アアルは言った。「応援は出せません。慎重に慎重を重ねて行動してください。わたくしに何かできることはありませんか?」
ノンは咳払いした。「十八年に入所した、アマネという武装強盗犯の鼬について、調べてください」
「どうして?」
「アマネはわたしとおなじように、刑務所で何かを探っていたみたいです。そして、殺された――なんとなくですが、気にかかるんです」
「そのひとは何を探していたんですか?」
「悪魔だそうです」
アアルは笑った。「悪魔、ですか。聖母より穏やかな相手だと助かるのですが」
ノンも笑った。ろくでもない仕事が、輝きを帯びはじめる。聖性をみなぎらせる。偉大な力が込み上げる。
湿った熱が少し引く。囚人服の裾を引っ張る。
張り込みを始めてから三日が経つ。
カレンはエーテル・ヘロインで娼婦を誘惑する。奴隷にする――ヘロインの女帝。レズビアン・セックスの女王。
ノンはエーテル・ヘロインを打たれた。娼婦にされた。奴隷にされた。
その証は腹に刻まれている。注射痕の星々が証明している。火照りっぱなしの肉体が証明している。
診療所を見ているだけで、子宮が疼く。カレンの甘い匂いを懐かしむ。愛撫を思い出す。陶酔が欲しくなる。たてつづけに煙草を喫って誤魔化す。
白猫のルームメイト・クーにはばれていない。セックスするときは腹をかばっている。濡れやすいのは、ストレスで溜まっているからだと言い訳している。ばれてないと信じている。
仕事は変えた。洗濯班ペルセのところへ行った。ペルセは謝った――悪いね、嬢ちゃん、あたしらが遅刻したばっかりに。
それっきりだった。ペルセはマチルダや、フーリのことをおくびにも出さない。食えない白犬。ノンも追求しなかった――任務のため。愚鈍な振りをしろ。
ペルセはノンを洗濯班に入れた。歓迎した。厨房で作ってもらったらしいマリファナクッキーやマリファナチョコレートを振舞った。マリファナ煙草を配った。それを、ノンは溜め込んでいる。
洗濯班の仕事は退屈だった。人手も洗濯機も足りていた。看守は洗濯室の外でマリファナを吸うか、昼寝をしているかなので、勤務中は駄弁っているしかなかった。
ろくでもない仕事。
洗濯班にそれとなく吸出し部屋のことを聞いた――収穫なし。手がかりなし。
悪魔という言葉を口に出してみた――誰も反応なし。
ペルセとフーリの仲も、よくわからない。犬と羊。奇妙な組み合わせ。ホロコーストを生き延びたフーリなら、虐殺の宿根は骨髄に達していてもおかしくない。
休憩時間になると、診療所を見に行った。診療所は運動場に面している。ボクシングクラブからも近い。
運動場にはフーリがいる。煙草を喫って、ベンチに座っている。背筋を伸ばして、目を光らせている。貫禄がある。威厳がある。
診療所は、運動場から少し離れた通路で見張った。
何人かの娼婦に聞き込みした。娼婦のカレンへの忠誠心は強い。娼婦はこころの底からカレンに服従している。ヘロインに屈服している。診療所の名を出せば、娼婦には逃げられた。唾を吐きかけられた。三日費やして、成果はない。
焦りが募る。潮時だった。休憩のたびに姿を消すノンのことを、洗濯班の犬たちはそろそろ訝る頃だろう。通りがかるほかの囚人からも奇異な目で見られている。
フーリはボスだ。フーリはすぐに嗅ぎつける。ペルセとフーリが繋がっているなら、なおさらだ。
マチルダも、直に気づく。マチルダが最後に診療所を訪れてから一週間になる。マチルダにレイプされてから一週間になる。マチルダはノンをレイプしたがっている。マチルダにはもう気づかれているかもしれない。
ノンの棟の夕食の時間になる。食事を抜いたところで看守やフーリには悟られないが、クーとプサイ姉妹には理由を問われる。
診療所を見張り続ける。煙草を喫いながら、嘘を考える。フーリの棟の時間になる。フーリが立ち上がって、食堂に行った。ボクシングクラブの面々もジムから出てくる。
嘘を考え続ける。足元には吸殻が小山を成している。診療所から鼠が出てくる――来た。
追いかけて声をかけると、鼠は飛び上がった。薄紅色の虹彩は怯えを示している。「なッ、なんですか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんですけど――」
鼠はそわそわしている。びくびくしている。メグと重なる――
「しッ、診療所の、ことですか」
娼婦たちの間では、ノンは噂になっているらしかった。これ以上は続けられない。
ノンは頷いた。マリファナを差し出す。
鼠はマリファナを見つめた。ノンを見つめた。震える手でマリファナを取り、ノンの囚人服の袖をつまんで引っ張った。場所を変えましょうと言った。ボイラー室に連れて行かれた。
鼠がマリファナに火をつける。ノンは手を差し出した。「ノンっていいます」
鼠はノンの手を握った。冷たい。「メイズ、です。メイズ・ミリュー・モート。メイで、いいです」
「生まれはどこなんですか?」
メイは言った。声は上擦っている。「亞国、です。でも、物心つく前に炉国に移って、きました」
ノンは片目をつむった。「わたしも、亞国からの移民です。と言ってもすぐにパクられたんですけど」
「そ、そうですか……」薄紅色の虹彩は泳ぎまくっている。
「……ええと、その、歳はいくつですか?」
「じゅッ、十四、です。あの――」
「すみません、急いでましたか?」
「そういうわけでは――」メイはやたら挙動不審だった。一週間こうしていても、メイの緊張はほぐれないだろう。
ノンは訊いた。「診療所のボスが誰か、知っていますか? カレン以外で?」
「わかりません……ただ、カレンは、吸出し部屋のチェリーとは、よく診療所のことについて、話し合ってます」
「そのチェリーっていう方は囚人なんですか?」
メイは頷いた。「吸出し部屋を、取り仕切ってます」
新たな接点――抽出房を洗え。
ノンは煙草を取り出した。「吸出し部屋について詳しいんですか?」
「あたしは、よくチェリーのところに……診療所の仕事をしに行かされるんです。今日もこれから、吸出し部屋に行く予定、です」
「診療所は、ヘロインをどこかに売ってたりしますか?」
「わかりません……ただ――」
「吸出し部屋には納品している?」
「はい」
診療所と抽出房は昵懇の間柄――ボス・カレンとボス・チェリーの関係が急浮上する。任務が重要度を増す。
チェンジアップ。「……どうして教えてくれる気になったんですか?」
メイはうつむいた。顔を赤らめている。「家族以外の、鼠と話すのは初めてだったので……」
ペルセは利口だ。ペルセはマリファナを愛している。金を愛している。ペルセはフーリから信用されている。ペルセは信用がならない。
メイは診療所も抽出房も熟知している。数少ない同胞を相手に、気を許している。御しやすい。与しやすい。メグと重なる――
マリファナを詰めた袋を取り出した。「わたしの情報屋になってくれませんか」
「じょッ、情報屋、ですか」
「わたしはこの刑務所に来たばかりです。ここの事情は、よくわかりません。また痛めつけられたくはないので、メイにここでの歩き方を教えてほしいんです」
メイはためらいがちに袋を受け取った。メイは袋をまともに見ていない。尻尾を振っている。メイの思考は、表情から容易に読み取れた――また会える。
メイは頭を下げた。「そろそろ行かないと、チェリーに怒られるので、また今度――」
「最後にひとつだけ。アマネというひとを知っていますか?」
メイの表情が固まった。メイは唇を湿らせて言った。「……もしかして、ノンは――スパイ、ですか?」
アマネは刑事だった。潜入捜査官だった。
メイは多くの情報を蓄えこんでいる。そして、愚かだった。メイは自分の立場をわきまえられない。自分の知識を整理できない。他人の隠し事を暴く危険が理解できない。情報の運用方法を心得ていない。相手が死者でも、それはおなじだ。
だが、御しやすい。メイは従順だった。メイは言うことを聞く。おそらく、それで、武装強盗/潜入捜査官アマネはメイを情報屋にした。メイを信用して、運用していた。自分はスパイだと打ち明けていた。
メイは、アマネと付き合っていたと言った。クーは、アマネと付き合っていたと言った。アマネは囚人だった。アマネはスパイだった。
アマネにはいくつもの顔がある。アマネはメイを飼いならしていた。ノンは二代目だった。ノンも、メイを飼いならすことにした。アマネの足跡をなぞった。
マリファナに三百ドルも上乗せして、忠誠を誓わせた。素寒貧になった。素性は明かさなかった。メイは簡単に了承した。それが、メグと――
ボス・アアルはアマネを知らなかった。メイは、アマネがEPD所属であることまで知っていた。アマネは悪魔の炎を追っていた、とメイは言った。アアルは悪魔を知らない。アマネはアアルの管轄外だった。
メイのネタが嘘ではないとは証明できない。妄想ではないとも言い切れない。ノンから口止め料をゆすっただけかもしれない。
それでももし、EPDが二度もおなじ刑務所に潜入を画策したなら、それを偶然と判断するのは愚かだった。
単純な推理――髑髏聖母と悪魔はどこかで繋がっている。
単純な疑問――なぜEPDは悪魔を求めていたのか。悪魔とは何なのか。
悪魔の正体は、きっと髑髏聖母の正体を導く。悪魔を追えば、きっと髑髏聖母にたどり着く。
だが、悪魔は一線だった。クーからは、アマネがマチルダに目をつけられていたと聞いている。マチルダは、一線を越えたものを排除する。悪魔に近づくものを許さない。悪魔は虎の威を借りている。
妙にひっかかる。
ノンはアマネのことを、メイに尋ねた。メイは、アマネが誰に殺されたのかまではわからないと言った。カレンなら知っているかもしれないとも言った。アマネを看取ったのはカレンだったらしい。アマネもまた、カレンに娼婦化させられていたらしい。
プサイ姉妹にもアマネの話を訊いた。垂れ耳のサマーは言った。「アマネ? キューの元恋人の?」
欠け耳のウィンターは言った。「あの頑固で変わりものの?」
「面白い子だったよね、ノンみたいにちっちゃくて、かわいかったし」
「玉突きはノンよりずっとへたくそだったけどね」
「うちの店にはあんまりいないタイプだったかなァ、芯が強そうで」
「うちの店はノンみたいな子ばっかりだったしねェ」
「真面目な子だったよね。武装強盗でパクられたらしいけど、そんな感じはしなかったかなァ」
「やたら仕事を転々としてたよね」
「そういえば、殺される直前は吸出し部屋にも通ってたね」
「キューは寂しがってたけどね」
「悪魔? 知らないなァ」
「ここのコック長のことじゃないの? あんなまずくて臭い飯を作るなんて、悪魔としか思えないよ」
「けだし名言ね」
手がかりなし。
行き着く先はやはり吸出し部屋だった。抽出房は秘密を集積する。謎を抽出する。
ノンは抽出房の適性検査をもう一度申請した。
適性検査は診療所で行われる。それは、診療所の奥ではない。裏の仕事ではない。娼婦クラブとは区別されている。娼婦たちの喘ぎ声は遠い。
診察室に入る。カレンとメイがデスクの上でキスしていた。
メイの着衣は乱れている。息は上がっている。顔は赤い。薄紅色の瞳はとろけている。どきりとする。
ノンに気づくと、ふたりは離れた。メイは逃げるようにして奥に引っ込んだ。
診察室にはエーテルとアルコールの臭いがこもっている。
ヤブ医者馬は真っ昼間からスコッチで酔いつぶれて、診療台で寝こけている――おそらくカレンが診療所で好き勝手やるための貢ぎもの。
カレンは鷹揚な笑みで出迎えた。スツールに座らされる。「嬉しいわ、戻ってきてくれるなんて。うちの点滴が恋しくなったのかしら?」
耳が熱くなる。バニラの匂いを嗅ぐ。視線を反らす。「エーテル精製作業の、適性検査を受けにきただけです」
カレンは爪の甘皮をむしった。「あら、あなたの適性検査なら終わってるわよ」
目をむく。「そんなはずは――」
「ここに担ぎ込まれる前に、予約していたでしょう? だから、あなたが眠っている間に済ませておいたのよ。検査と言っても、血とエーテルを調べるだけだから」
「……結果はどうだったんですか?」
カレンは片目をつむった。「合格よ。いつでも抽出房に移っていいわ」書付けを渡された。検査結果と、カレンのサインが記されている。
呆気ない。肩透かしを食らう。
だが、まだカレンには用がある。
汗が滲む。「あの、訊きたいことがあるんですが――」
「なァに?」
「アマネというひとを知りませんか?」
「知ってるわよ。たしか、二、三年前にここで亡くなった囚人ね。何度も面倒を見ていたから、よく覚えてるわ」
メイの言ったとおり――アマネはカレンの教育を受けていた。
「どうして亡くなったんですか?」
「ええと、確か――」カレンはキャビネットを開けた。カルテを取り出した。「そう、エーテルの過剰摂取だったわね。先に言っておくけれど、もちろん、わたしのせいじゃないわよ?」
嘘ではない。カレンは娼婦を愛している。娼婦を甘やかす。娼婦はカレンの大事な稼ぎで、刑務所の鎮静剤だった。カレンが、事故などで娼婦だったアマネを死なせるほど愚かだとは思えない。
カレンはカルテを仕舞った。「でも、どうしてそんなことを訊くのかしら?」
「アマネが、エーテル精製作業中に亡くなったという噂を耳にしたので、気になったんです」大嘘。
カレンは笑った。「ただの噂ね。あそこはエーテルを吸出しこそしても、投与したりはしないわ。だから、安心してちょうだい」
におう。妙にひっかかる。
アマネはエーテルで死んでいた。それは、マチルダのやり口ではない。マチルダは血を好む。暴力を愛している。マチルダの尻拭いなら、看守がやってくれる。ならば、アマネを消したのは、マチルダではない。
マチルダは一線を守っていない。悪魔は虎の威を借りていない。
マチルダと悪魔は薄い。マチルダとフーリは濃い。悪魔とフーリは、わからない。まだ欠けている。
直感、そして期待――吸出し部屋に行けばすべて埋まる。
喘ぎ声がする。聞き覚えのある声。
「悪魔と呼ばれているものを知ってますか?」
カレンは首をかしげた。「悪魔? コミュニストが崇めているあれのこと?」
「いえ――」
ノンは会釈をした。退出しようとした。カレンに押しとどめられる。
「待ってちょうだい」
「なんですか?」
「あら、なんですか、はないでしょう。わたしは情報を差し出したわ。対価はきちんと払ってもらわないと」カレンは宙にドルマークを描いた。
嫌な予感がする。「いくらですか?」
「二百ドル」
「……五十ドルまかりませんか?」
「これでも初回だから、サービスしているのよ?」カレンは黒い翼を伸ばした。バニラの匂いが広がる。目が眩む。診療所の奥から喘ぎ声が響く。喘ぎ声が鼓膜にまとわりついてくる。「もしかして、払えないのかしら?」
「す、すみません、今持ち合わせがなくて――」
「あら、別にかまわないのよ、現金じゃなくても」
カレンがノンの膝に手を置いた。温かい。ぞくぞくする。さすられる。太ももを引っかかれる。下着が湿る。
熱い息を吐く。唇でふさがれる。舌を吸われる。舌が痺れる。カレンの唾液を飲む。
手を握られる。指を絡められる。引っ張られる。腰は砕けている。抗えない。スイッチ――
診療所の奥に連れて行かれる。カレンがカーテンを引いた。ベッドの上にメイがいた。マスターベーションしていた。メイが固まる。ノンも固まる。
カレンは微笑んでいた。カレンに背を押された。やめて――
足がすくむ。座り込みそうになる。「いッ、いやッ、それだけは――」
カレンに背を突き飛ばされる。ベッドに倒れこむ。
濡れた薄紅色の虹彩が覗き込んでいる。細い指が頬に触れる。メイが陶然とした顔を寄せてくる。やめて――
服を剥ぎとられた。腹に針が刺さる。悪魔が体内を駆け巡る。鼻血が出る。
メイの唇は薄く、柔らかく、抗えない。手足が溶ける。反射的にメイの舌を吸う。唾液をすする。
涙が止まらなくなる。悪魔が脳内を駆け抜ける。やめて、やめて、やめて――
理性が遠のく。悪魔が目覚める。メグが蘇る。
ノンはメイの舌を覚えさせられた。歯を覚えさせられた。指を覚えさせられた。
体温を覚えさせられた。息遣いと体臭を覚えさせられた。唾液と汗の味を覚えさせられた。
それらはいつでも思い出せる。
カレンはそれらを見ているだけだった。
カレンは刑務所の経費でモルヒネを仕入れている。税金でヘロインを作っている。娼婦を作っている。
娼婦を使って、エーテル抽出・精製を滞りなく進捗させる。高伝導エーテルを生産する。
髑髏聖母はエーテル・ヘロインを連邦に送る。麻薬市場を掌握する。ペンデュラムホイール社の労組に取り入り、亞国のゲットーに浸透する。低所得者たちから金を巻き上げる。その額は、労組の活動資金にしては多すぎる。
その金はどこに流れているのか。低所得者用のドル札は誰の懐へ入っているのか――
抽出房は地下にあった。エアライデンズの高伝導エーテル精製プラントもそこに併設されている。炉国には地震がないらしい。
くしゃみをする。鼻水をすする。熱っぽい。地下の壁は冷え切っている。メイに手を引かれて案内される。メイの手も冷たい。
そこかしこの通路にビニールシートがかけられている。シートの間からは根がはみだしている。エーテルの通ってない灯りもある。地上と比べると、突貫工事のような印象。
道すがら説明を受ける――精製班にいる間は、通行証がなければ抽出房から出られません。
メイはライセンスを持っている。出張のために、カレンから与えられている。カレンにはその権限がある――ただの看護婦なのに。
メイが指を絡める。「ここが精製室、です。高伝導エーテルはすべてここで作られています。一日交代で、囚人が精製と抽出しています。懲罰でここに送られたひとは抽出だけ……ですけど」
抽出房にはエアライデンズの職員はおろか、看守もほとんどいない。看守は懲罰対象者だけを監視している。
精製作業は囚人たちに一任されている。精製器を操作するのは囚人だった。地下の囚人は、刑務所に協力的で、友好的らしい。
待遇が違うのだとメイは言う。メイは抽出房のことを、元娼婦たちの都と呼ぶ。精製班は娼婦だったものが多い。カレンに教育されたものが多い。
精製班はセックスとエーテル・ヘロインで脳髄を浸されている。精製班は待遇のいい抽出房を手放したくない。地下は囚人の封じ込めが完了している。
メイが房の前で立ち止まった。そこは個室だった。檻ではなく壁があった。
「ここが、チェリーの部屋、です」メイがノックをする。どうぞと聞こえる。メイが扉を開いた。鍵もかかってはいない。絨毯が見える。
房は広い。便器はない。入り口の側に扉はある。
青い虹彩の黒狐がいた。ソファに腰掛けて、スタッフドオリーブをつまみながら赤ワインを飲んでいる。部屋の奥にはデスクと、ベッドがある――まるでスイートルームのよう。
メイが背を押した。「チェリー、新人を連れて、きました」
黒狐が言った。「待ってたよ。吸出し部屋にようこそ、Aプラスちゃん」きんきんした声。
黒狐チェリーは首に精素回路抑制デバイスをしている。裸足で、シルクのネグリジェを身に着けている。囚人服ではない。囚人然とはしていない。童顔で小柄なので、小娘に見える。ノンより若いかもしれない。
「ノンです。よろしくお願いします」手を差し出す。
チェリーは笑って、煙草に火をつけた。マリファナ臭い。「ここでは握手はしないんだよ」
チェリーはネグリジェをゆっくりとたくし上げた。太ももにワインを垂らした。赤い筋が、赤いペディキュアを塗ったつま先まで伸びる。メイに目配せする。
メイは唇を噛んでうつむいている。囚人服の裾を掴んで身体を震わせている。
メイはチェリーの前にひざまずいた。足の甲に接吻した。舌を押し付けた。太ももまで舐めとった。チェリーはにたにた笑いをしている。
チェリーはまた太ももにワインを垂らした。赤い筋がつま先まで伸びる。ノンに目配せした。メイは壁のほうを向いている。
チェリーの前にひざまずく。足の甲に接吻する。舌を押し付ける。メイの唾液を舐めとる。チェリーはにたにた笑いをしている。
チェリーの部屋の壁には、髑髏の顔をした女の絵がある。メイはそれを眺めている。
怖い。動悸が激しい。
エーテルは毒だ。エーテルは内臓を食い荒らす。だが、亞国には、エーテルは魂を放射するという言い伝えがある。ならば、抽出器は魂を吸引することになる。
裸になってベッドに寝ろと命じられた。視線がむずがゆい。足をすりあわせる。身震いした。
メイがビニール手袋の上に性交用の潤滑ゼリーを絞り出す。ミスリル・プラグに塗りたくる。メイはずっとノンを盗み見ている。
プラグのホースは抽出器に繋がっている。チェリーは抽出器をいじっている。
ノンの部屋はまだない。精製班となってから最初の一週間は、チェリーの部屋で抽出の研修を行うらしい。
チェリーがマリファナに火をつけた。ノンに差し出した。ノンは首を振って断った。チェリーも首を振った。「マリファナはね、悪魔の草なの。その葉は神が創った魂を閉じ込めてしまうから、火で検閲し、あたしたちの身体で濾過して、煙として大気に還さなきゃいけないんだよ。そして、あたしたちのなかに溜まった悪魔は、これで吸い取るの。それが聖母の教え」
鳥肌が立つ。壁の絵に目を移す。
震える指でマリファナを受け取る。一口喫ってから、チェリーに返した。
悪魔。悪魔の炎。悪魔の草――教化されたマリファナ。抽出房を教化した聖母。
洗濯班ペルセが何も知らないわけがない。刑務所でマリファナ煙草を作っているのはペルセだ。ペルセは聖母を支援している。
メイは咳をした。「あの、うつ伏せになって……お尻を上げてください」
首が火照る。マリファナでくらくらする。言われたとおりにする。
尻尾の付け根を掴まれる。尻尾を持ち上げられる。臭腺に熱い息がかかる。舐められる。間抜けな声が出る。体温が上昇する。エーテルが分泌される。
中指と人差し指を挿入される。痛い。指はゼリーでぬめっている。臭腺を広げられる。ほぐされる。エーテルを掻きだされる。シーツを噛む。
チェリーが側にやってきた。耳元で囁く。「痛いのは最初だけだよ、ゼリーにはカレンのヘロインを混ぜてあるから」
尻が痺れてくる。頬が緩む。涎が垂れる。臭腺にミスリル・プラグをぶち込まれる。メイが抽出器のスイッチを押す。
「――ッ!? こッ、これ――ッ!」
臓器がかきまわされる。エーテルを吸い上げられる。細胞ひとつひとつが振動している。手足がばらばらになる。全身の精素回路の存在を感じる。
感情と有機感覚の伴わない生理現象以下の快楽が、腹のなかで吹き荒れている。
チェリーは嬉しげにしている。「すごいでしょ。雄の射精にすこし似ているんだって。身体中のエーテルサーキットで感じてるから、あれよりずっと気持ちよくて長引くみたいだけど。エーテルを吸いだしてるし、身体にもいいんだよ」
ノンはベッドの上で転がった。「とッ、止めて、くださ――、苦し……ッ!」
「だいじょうぶ、最初は怖いかもしれないけど、すぐに病み付きになるから」
チェリーに後ろから抱かれる。耳を噛まれる。乳首を抓まれる。身もだえする。血管が捻転する。体毛の質量に圧迫される。痙攣を抑えられない。
「吸われてるときに触られると、たまんないでしょ?」
息が詰まる。チェリーを押しのけようとする。「やッ、やめ――ッ!」
「だめ、ちゃんといかないと。内臓や筋肉を緊張させると、エーテルがよく採れるんだよ」
仰け反る。体液をしぶく。チェリーの細い手足を握り締める。
チェリーは笑って、唇を押し付けてきた。やたらと甘い。口蓋をくすぐられる。
「んんッ!?」
腰が跳ねる。股間が生温い。メイがクンニリングスしていた。クリトリスを丹念にねぶっている。薄紅色の虹彩はノンをじっと見据えている。血が昂ぶる。腹が引きつる。
「メイッ、待ってッ、今は――ッ!」
メイはノンのそこにむしゃぶりついて離さない。メイはノンの味を知っている。弱点を知り尽くしている。瞬く間に二度目の絶頂に押しやられる。
達している間も、メイは愛液をすすり続けている。目の奥がちかちかする。白目をむく。
「妬いてるの、メイ?」チェリーが笑った。ベッドから離れて、ワインを注いだ。「鼠同士の絡みはなんだかやけに背徳的だね? ふたりとも子どもにしか見えないから」
ちらつきが消えないまま意識だけが薄れていく。溢れたエーテルにメイが吸い付く。魂を吸い出される。
チェリーはマリファナをふかした。「アマネ――懐かしい名前だね」ワインを口に含んだ。
チェリーの陰毛は丁寧に切りそろえられている。そこを整えるのも、メイの仕事だった。その下を手を使わずに綺麗にするのが、ノンの仕事に加えられた。
抽出房の食事は特別製だった。味は悪くないし、臭くもない。食前酒にスコッチがついてくることもある。エーテルを作らせるために、量も多い。腹いっぱいになるまで食べられる。
チェリーは魚を避けて食べる。海のなかには悪魔がいるので、魚の頭には毒が蓄積しているらしい。魚を食べると奇形児が生まれるのだとチェリーは言った。
抽出房では日に一度、決められた量のエーテルを吸い出すだけでいいので、自由にできる時間は多い。だが、地下には行くところもやることもない。
チェリーはノンとメイに部屋の掃除をさせる。チェリーの身体を拭かせる。性器を舐めさせる。ヘロインを打たせる。セックスしているのを見る。
チェリーは観淫症だった。ノンとメイがセックスしているのを見ながら、ワインを飲んで、マリファナを喫って、張形を使ってマスターベーションする。
「いい子だったんだけどね、ここに来て一ヶ月ぐらいして、自殺しちゃったの」
「自殺……ですか」顎が疲れる。舌の感覚は麻痺している。胸に唾液と愛液の混ざったしずくが滑り落ちる。
「うん、自殺。精製した高伝導エーテルを静脈に注射したんだよ」
「アマネは、どうして自殺してしまったんでしょうか」
「さァ? あたしの知ったことじゃないもん――もういいよ」チェリーはノンを押しのけて、デスクについた。
自殺の真偽――不明。どちらともいえない。
アマネは真面目なスパイだった。アマネは娼婦の生活に耐えられなかったのかもしれない。アマネは悪魔を見つけてしまったのかもしれない。悪魔は魂を捕らえる。魂をとりこにして、悪魔にする。
アマネは悪魔になってしまったのだろうか。
ノンはワイングラスを片付けた。顎を拭いて、口をゆすぐ。部屋の奥からは紙をめくる音がする。
チェリーは抽出房のボスだった。チェリーは自分のエーテルを抽出しない。書類を作って精製班を監督し、精製作業の指揮を執る。高伝導エーテルをエアライデンズに納品する。チェリーは抽出房に関わるひとの流れを把握している。メイの話によると、ボクシング賭博も管理している。診療所の運営にも絡んでいる。
チェリーはダイヤル式の金庫に書類を保管している。金庫の数字はメイも知らない。書類のなかには、刑務所の構図も含まれているだろう。誰と誰が繋がっているのか。誰が誰から指示を受けているのか。
扉がノックされる。メイが鍵つきのブリーフケースを持って入ってくる。心拍数が上がる。うつむく。メイがブリーフケースをチェリーに渡す。
チェリーは仕事用の眼鏡を外した。「そうだ、そろそろノンにも精製器の使い方を覚えてもらわないとね。メイ、ノンに教えてあげてきてくれる?」
メイと外に連れ立ってから、ノンはたずねた。「あの荷物は――」
メイは鼻をひくつかせた。「カレンから、です……」
「中身は、何ですか?」ノンはゆっくり歩いた。
「ヘロインと、お金と、あとは診療所の内部資料だと思います」
「内部資料?」
「帳簿、です。チェリーは頭がよくて、数字にも強いので、診療所の会計係もやっているんです」
「資料を読んだんですか?」
「いえ、チェリーがそう言っていただけ、ですけど――」
チェリーとカレンは手を組んでいる。その間には診療所と、髑髏聖母がある。どちらかが黒幕で、どちらかが悪魔。
必ず発端がある。娼婦クラブの発端。髑髏聖母の発端――教化した教祖は誰なのか。帳簿はその発端の名を明らかにするだろう。髑髏聖母の吸い上げた金が何に変わっているのかも。金庫の中身は物的証拠になる。
ボス・アアルはきっとそれを欲している。
熱を感じる。もう目前まで迫っている。熱までは吸い出されていない。
メイは言った。「姉がひとりいたんです」
「……姉?」
「ずっと昔に、薬の打ちすぎで死んでしまいましたけど――」
精製室が近づく。珍しい話ではない。鼠は精素回路の周波数が高いので、薬で簡単に命を落とす。
「それ以来、どんな悪いことをしても、薬にだけは絶対に手を出すまいと思っていたのに……今となってはこのざま、です」
精製室のドアはゆがんで見える。目を閉じた。
熱はまだある。任務は魂のなかに根を張っている。任務は聖性を帯びる。聖性は悪魔をはねつける。
目を開けた。メイがドアを押した。ドアは四角に見える。
精製室は黴とエーテルの甘い匂いがこもっている。部屋の隅にはエメラルド基板をはめ込まれたばかでかい機械がある――精製器。炉国のお宝。
「精製器の操作はそんなにむずかしくありません」メイは使い捨てのエーテルデバイスグローブをつけて基板に触れた。「流量と、圧力と、温度、あとは時間をエーテルの純度にあわせて調整するだけ、です」
精製器が起動する。基板が淡い光を放つ。
基板に文字が流れる。絵が表示される――さくらんぼのようなもの。
それは、エアライデンズのロゴではない。亞国でよく見かけるロゴに酷似している。さくらんぼ/チェリーのいたずらか――
ざわざわする。チェリーにそんな技術はない。ブートはエメラルド基板のなかに書き込まれている。書き換えることはできない。
ならば、それはノンが知っているものに他ならない。
ペンデュラムホイール社のロゴに他ならない。
妙にひっかかる。
連邦が炉国の参画を急進させているのは、PW社がエーテルニクス事業に失敗し、高伝導エーテル開発でエアライデンズに先を越されたからだ。PW社とエアライデンズは対立関係にある。連邦と炉国がそうだったように。
汗が噴き出す。ノンは後ずさった。
ならば、この精製器は――
次の日には抽出房を出た。チェリーは駄々をこねた。表の知人たちに用ができたと言い訳した。必ず戻ってくると言い含めた――抽出房にも、まだやり残したことはある。
チェリーは、次のボクシングの試合ではマチルダの対戦者に賭けろとアドバイスした。
ノンは訊いた。「どうしてですか?」
チェリーはにたにた笑いをした。「マチルダの取り巻きは、マチルダのお金がなくなってくると、決まって相手に賭けるんだよ」
マチルダはボクシングで勝って、看守に小遣いを稼がせる――自分が稼ぎたいとき以外は。
抽出房を出ると、すぐに亞国へエーテルフォンをかけた。三日後に約束を取り付けた。
クーはノンの顔を見るなり、怒りを露わにした――あんだけ忠告したのに、なんで黙って行っちゃったのよ?
ノンは同胞探しの名目を使った。クーは訝った。ノンは押し通した。
それは実際、半分は事実だった。前任者アマネはEPDの手先で、ノンとは追い求めているものが違うだけだった。
アマネは悪魔のエーテルを求めていた。ノンは聖母のヘロインを求めている。
嘘にはちからが宿った。
クーはノンのことを本気で心配している様子だった。アマネになっちゃうよ、と警告した。
それは一線だった。
ペルセがマリファナを愛しているように。
マチルダが血と暴力を愛しているように。
フーリが秩序と支配を愛しているように。
カレンが娼婦とヤクを愛しているように。
チェリーが髑髏聖母を愛しているように。
プサイ姉妹が玉突きを愛しているように。
クーは玉突きとノンを愛している。
メイもノンを愛している。
ノンはメグを愛している。今も。ずっと。永遠に。
二度目の面会室。
アアルが入ってくる。真っ赤なネクタイに黒いタイピン――ジャケットは袖付き。
アアルは微笑んだ。「前よりずいぶん顔色がよさそうですね」
「すみません、急にお呼び立てして――」
アアルが煙草を差し出してくる。「エーテルフォンをくれたときもそうですが、落ち着かないですね。なにか掴めたのですか?」
ノンは肺いっぱい煙を吸い込んだ。発汗がいくらか収まった。「はい。それで……前回お願いした件はどうだったでしょうか?」
「アマネ・ロータスのことですね」アアルは手帳を開いた。「大当たりですよ。その当時、わたくしは麻薬課の刑事でしたから知らされていなかったのですが、アマネはどうやらうちの強盗課の刑事だったようです」
「……そして、潜入捜査官としてここに潜り込んでいた」
アアルは目を丸くした。「知っていたんですか?」
メイの情報は真実だった。メイは嘘つきでもなければ妄想癖でもなかった。
「いえ、こちらで情報提供者を見つけたんです。ですが、どうして強盗課がこの刑務所にスパイを送り込んでいたんでしょうか?」
「亞国で盗まれたエメラルドを追っていたようです。悪魔の正体は、エメラルドだったみたいですね」
やはり――間違いない。
エメラルドは、ミスリルで回路成形するのに必須だった。エメラルドは、設計図でありエーテル機器のファームウェアになる。エーテルニクスには欠かせない材料のひとつだった。
「実は、高伝導エーテルの精製器を見たんです。そのエメラルド基板には、PW社のロゴがありました」
アアルは険しい顔をした。たっぷり十秒間考え込んでから、口を開いた。「……四年前にPW社で爆発事故があったのは覚えているでしょう」
「未だに続いているデモのきっかけにもなった事故ですよね」
「ええ、近頃は特に激化していて、うちの鉄道管理課までスト破りを入れはじめました」
鉄道管理課――通称PW課。PW社とは蜜月の関係であると噂されている。PW社に腕っ節とミスリル銃が必要になったとき、鉄道管理課が動く。
「どうにもにおうので、髑髏聖母を自称する労組のひとりを捕まえて問いただしてみたんです。髑髏聖母についてはまったく口を割りませんでしたが、PW社についてはずいぶんお喋りな方でした。その方が言うには、四年前の爆発事故は、開発中だった精製器の暴走が原因だったらしいんです。あの事故はPW社が傾きかけないものでした。PW社は事故を揉み消そうとして、それは半分だけ成功した――精製器が原因だということだけは隠し通せたんです。PW社はよっぽど精製器を売り込みたかったのでしょう、連邦の高官やFSENSに多額の献金をした、との情報もあります。ところが、事故からしばらくして開発を急遽中断した――」
「設計図を奪われたから、ですね」
アアルはうなずいた。「そして設計図を盗んだ犯人は、それを公表したり、PW社へのゆすりに使うわけでもなく、エアライデンズに流した」
エーテルインフラ計画の範囲は、大陸全土に渡る。連邦は天文学的な数字の予算を組んでいる。PW社はその数字のちからを独占したがっていた。それを利用できれば、地図にはさくらんぼがさらに広がる。エアライデンズは、それを横取りした。
「哀れなものです。PW社は事故で、技術者と、設計図と、信用と、金の生る木を一度に失ったのだから」
ノンは煙草をもう一本ねだった。「自分で揉み消した以上、PW社は手が出せなかったんですね。自業自得のように思えますが……じゃァ、アマネは鉄道管理課とおなじように、PW社に雇われていたんでしょうか」
「そこまではわかりかねますが、殺されたのなら、エメラルド絡みで何かあったのかもしれませんね」
悪魔の炎がエメラルドなら、悪魔の炎によって作られた高伝導エーテルは悪魔のエーテルだ。悪魔のエーテルには、悪魔の魂が眠る。精製器は、魂を悪魔に変換する。
アマネは、悪魔に魂を食われて死んだ。
アアルはタイピンをいじった。「それで――聖母のほうはどうなりましたか?」
「刑務所を教化しているとおぼしきチェリーという囚人には接触しました。髑髏聖母の中枢には、あと一歩というところまで近づいています」
「さすがですね」アアルはタイピンをいじっている。「このところ、FSENSがよくせっついてきます。先ほども言いましたが、デモも激しさを増してきていますし、髑髏聖母のヘロインも目にあまるものがあります」タイピンが消える。「髑髏聖母には必ず、亞国にヘロインを流し、管理している外交役がいるはずです。そこを叩きたいと思っているのですが、なかなか頭の良い相手のようで、外からではなかなか尻尾をつかめません。可能なら、内部から亞国への供給ルートも探ってみてください」
手を握られる。タイピンを握らされる。タイピンはミスリルでできている――おおっぴらに動け。揺さぶれ。
偉大なる仕事――黒幕を釣りだせ。
アアルが言った。「その首輪は、皮肉にもPW社製ですね」
アアルが喋る。アアルが世間話をする。亞国の話をする。EPDの新入りの話をする。アアルはノンの知らない口紅を塗っている。
アアルの唇の感触はもう思い出せなくなっていた。